2020年02月26日

田村善之 Westlaw Japan 判例コラム189号「医薬用途発明の進歩性につき発明の構成から当業者が予測し得ない顕著な効果の有無の吟味を要求して原判決を破棄した最高裁判決について 〜局所的眼科用処方物事件最高裁判決(令和元年8月27日判決言渡)の検討(その1)〜」


進歩性の最判に関し、田村先生の評論が先月8日に公開されている(Westlaw Japan 判例コラム189号)。 今回はこれを取り上げたい。

1.本件発明について最判は「顕著な効果があれば進歩性あり」ということを明らかにしたのか?(「構成」という言葉のレトリック)

「顕著な効果」があれば進歩性が肯定されるのかという問題について、田村論文は以下のように論じている。 なお「構成」という言葉を太字にして引用した。

@ [判例コラム189号 4ページ]
・・・、本判決は、進歩性の要件を判断するに際して「予測できない顕著な効果」があることを参酌しうることを当然の前提としており、しかも、・・・、本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。

A [判例コラム189号 5ページ]
・・・、医薬品の場合には、物の構成が公知であったり、その構成が容易想到であったりしたとしても、当該構成に係る効果が示されない限り、当該構成を当該効果(用途)に用いることを想定しにくく、ゆえに、構成が容易想到であっても、効果が容易想到でなければ特許というインセンティヴを与える必要があるというのが、用途発明を認める実務の背後にある政策判断といえよう※13。このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。

B [判例コラム189号 5ページ]
本判決にも、・・・、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。 これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

※15高林龍[判批]年報知的財産法2019-2020・32頁(2019年)。愛知/前掲注11・14〜15頁も参照。

C [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。

D [判例コラム189号 6ページ]
本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

E [判例コラム189号 7ページ]
以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、・・・、・・・を明らかにしたものといえる

上記 @ において田村論文は、まず、「本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。」と論じている。 「読める」というのは弱含みな表現であり、田村論文もこの時点では、顕著な効果があれば進歩性を肯定できるのか否かはまだ明言を避けているようにみえる。

そして上記 A において田村論文は、医薬品の場合には、物の「構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、その効果が知られておらず、その効果を発揮させるために用いることも容易想到ではない場合は、例外的に「用途発明」に特許を与えることができる旨が説かれている。

なお、上の引用中に太字で示したとおり、上記Aでは「構成」という言葉が多用されている。 このうち、「物の構成」、「その構成」、「当該構成」という言葉は、すべて「物の構成」を意味していることは明らかであり、「ゆえに、構成が容易想到であっても」、「構成が容易想到であったとしても」というフレーズで使われている「構成」も、「ゆえに」という言葉からして、「物の構成」を意味していると解されるだろう。 すなわち田村論文のAにおいては、医薬品の場合は、「物の構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、例外的に「用途発明」に特許を与えうるのだと説かれている。

しかしながら、物が公知でも、その用途が新規であり容易想到ではないのなら、「その物質をその用途に用いる方法。」という方法発明(用途発明の一形態といえるだろう)や、「その物質からなる、その用途に用いるための剤。」という用途発明に特許が与えられるのは、なかば当然であって、医薬品に限った話ではない。 化粧品や工業薬品などあらゆる分野において化学物質の用途発明は認められている。 食品に限っては、日本では近年まで用途発明が認められていなかったが、食品において用途発明が認められていなかったことこそ「例外」だったのであり(tokugikon No.282, (3-3) の最後 (27頁右) を参照)、それも先ごろの審査基準改訂(平成28年4月1日運用開始)によって食品用途発明も特許可能となり、日本の審査制度は理論的にもすっきりしたものになったのである(功罪はあるにせよ)。

もっとも、日本では「治療方法」は、医師における医療行為を保護する観点等から特許にならないと解されているので、新たな医薬用途を発見しても「治療方法」として特許にすることができないという特殊事情があり、そのために、「○○剤。」という「用途物」として特許を受けざるを得ず、医薬分野の特許において「用途物」の表現が多用されているという事情はある。 また、医薬品業界は権利取得に積極的だから、ある疾患に治療用途がすでに知られている場合でも、より細かく、投与条件などで限定した発明について特許が受けられるように各方面に働きかけ、それを実現してきたという事情もあるかも知れない。 しかしそうした細かい点をおけば、物質が既知でも用途が新規で容易想到でもないのなら、用途に限定された発明(方法発明や用途物発明)に特許が付与されるということ自体は、昔から受け入れられてきた実務であり、学説に大きな争いがあったわけでもない。 したがって、田村論文の上記 A で「例外的に」と論じられていることは、けっして「例外的」な話ではない。

そして B において田村論文は、本件の最判に焦点を当てた上で、「・・・事案との関係で理解するのであれば、・・・、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした・・・との理解※15が生まれる所以である。」と論じるのだが、この辺りから「構成」が何を意味しているのかが分かりにくくなってくる。 田村論文がいう「構成が容易想到である場合でも」というのは、「物の構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか、それとも「その物をその用途に用いるという構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか?

C において田村論文は、「用途発明の場合に限っては、・・・、・・・構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。 つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と述べる。 「前述した」とは上記 A を指していると解されるから、ここでいう「構成」とは「物の構成」を意味しているはずであるが、続く文において田村論文は、「用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と説くのだ。 そうすると、「効果があることが容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうる」と言いたいのだろうか? しかし田村論文の A は、物が知られていても用途が容易想到ではないのなら用途発明に特許を与えてよいということしか論じられていないのである。

そして D において田村論文は、「本判決は、・・・、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにした」と論じ、E において「要するに、本判決は、・・・、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、・・・を明らかにしたものといえる」というのだ。

このように、@ においては「読める」という弱含みの表現が用いられていたに過ぎない事項が、D や E の結論においては「明らかにした」ことになっている。 しかしその結論は、上で見た通り、初めは「物の構成」を意味している「構成」という言葉が、次第に「用途」をも意味するかのように変化していくことによって導かれているのだ。

これは、「構成」という言葉のレトリックと言えるのではないか。

*   *   *

なお、B に引用したとおり田村論文は、今回の最判が「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることを指摘したうえで、本件最判について「一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。」と論じ、脚注15において高林論文の32頁と愛知論文の14-15頁を引用している。

確かに高林論文は最判のこの説示を取り上げた上で、「本判決の射程を検討する場合には重要である。」(32頁左)と論じており、愛知論文も、「本判決は、公知の化合物と同じ化合物を対象とする(医薬)用途発明に係る事案であるからこそ、予測できない顕著な効果の斟酌を否定しなかったと理解する余地もないわけではないだろう。」(14-15頁)と論じているから、最判の射程が「医薬用途発明」にしか及ばないという文脈で高林論文や愛知論文を引用することは理解できる。 しかし1月28日の投稿で書いたとおり、高林論文は「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」と論じるだけで、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるかのような “雰囲気” を醸し出しているということはできるとしても、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるとは一言も言っていないし、まして最判がそれを「明らかにした」などとは言っていない。 愛知論文も同様で、前回の投稿で絶賛(^^)したとおり、愛知先生は顕著な効果を肯定してもなお差戻審において進歩性を否定する選択肢を排除していないのだから、顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」などと論じてはいないことは明らかだろう。

したがって、医薬用途発明においては顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」という田村論文の見解は、高林論文や愛知論文により支持されるものではないことを指摘しておきたい。


2.「医薬用途発明」に限っては独立要件説的な思考が許容できるのか?(「医薬用途発明“例外論”」は純一か)

今回の田村論文を読むまで私は、今回の最判の評価に関して、田村先生には大いに期待していた。 なぜなら田村先生は2016年に公開した論文(パテント別冊15, 1-12, 2016)において「独立要件説」を批判し、自らは「二次的考慮説」に立つことを言明していたからだ。 それだけではない。 2016年論文において田村先生は、「シュープレス用ベルト」事件(平成24(行ケ)10004)を題材にして考察を行い、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていたのだ。 具体的には以下の部分だ。

[田村善之, パテント Vol.65 No.5 (別冊 No.15) 1-12の9ページ]
しかし発ガン性抑止という目的こそ違え,当業者が硬化剤を用いることの動機づけがあることが示されている以上(30),たまたまとはいえクラックの発生が抑制されることが発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる(31)。

これは顕著な効果があった場合は「容易ではなかった」とみなす従来的な「二次的考慮説」(因果関係が逆転している考え方)を採らないことを言明するものであって、画期的といえる論文だった。 同じ見解は、田村先生のより最近の論文でも繰り返されている(パテント Vol.72 No.9, 5-12, 2019 の8ページ左)。 なおこの論文(2019年論文)の原稿受領日は、今回の最判(2019年8月27日判決言渡)の3か月足らず前の2019年6月3日となっている。

「シュープレス用ベルト」事件は、製紙工程において紙に含まれる水分を取り除くために行われるシュープレスに使用される円筒状の樹脂ベルト(シュープレス用ベルト)の発明の進歩性が争われた事件だ。 そのベルトの外周に使われるポリウレタンの硬化剤として従来は4,4'-メチレンビス(2-クロロアニリン)(MOCA)が用いられていたところ、硬化剤としてジメチルチオトルエンジアミン(Ethacure-300)を用いることがこの発明の特徴の一つだった。 そして特許権者は、Ethacure-300を使うことで、ポリウレタンに発生するクラック(ひび割れ)が低減されたことを強調し、この効果は予測できない顕著な効果であるから進歩性は肯定されるべきだと主張した。 しかし当時からMOCAには発がん性があることが指摘されており、MOCAを代替しうる安全性の高い硬化剤の一つとしてEthacure-300は当業者に知られるところとなっていたことから、シュープレス用ベルトのポリウレタンの硬化剤としてEthacure-300が使われるのは時間の問題だったのではないかという疑いがあるのだ。 2019年8月27日の投稿でも書いたとおり、MOCAを代替しうる硬化剤はEthacure-300以外にも存在していたから、Ethacure-300が使われるのが本当に間近だったといえるのかは議論があるだろうが、もしEthacure-300が使われるのも間近だったと評されるのであれば、確かに田村先生が論じるとおり、たとえ顕著な効果があったとしても進歩性は否定されるべきだろう(私のいうところの進歩性 第1要件)。

そして今回の「アレルギー性眼疾患」事件についても、まったく同じ問題が持ち上がるはずだと私は期待していた。 本件化合物に抗ヒスタミン活性があることは知られており、モルモットの結膜炎モデルを使って治療効果を確認する実験もすでに行われていた。 また既知の抗ヒスタミン剤は、ヒスタミン拮抗作用を持つだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの放出を抑制する活性(肥満細胞安定化作用)も持っていることが多くあることも知られていた(原審 (平成29(行ケ)10003) の判決文を参照)。 したがって、この化合物をアレルギー性眼疾患治療薬として開発する場合に、ヒト細胞を用いて肥満細胞安定化作用を調べることになるのは当たり前のことだったともいえるだろう。 つまり本件においても、「ヒト肥満細胞安定化作用が発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はない」という疑問が田村先生の中で生じるはずだった。

ところが今回の田村論文(判例コラム189号)はそうはならなかった。

@ [判例コラム189号 1ページ]
 ・・・事案が用途発明に関するものであることに加えて、判文が一般論として受け止められる説示を避けている・・・

A [判例コラム189号 5ページ]
このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。
 本判決にも、結論に至る論理を展開する際に、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

B [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。

C [判例コラム189号 6ページ]
 本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

D [判例コラム189号 7ページ]
 以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、予測しがたい顕著な効果の有無を判断する際には、発明の奏する効果と対比すべきは、究極的には、発明の構成から当業者が予測しうる効果であること、の2点を明らかにしたものといえる・・・

E [判例コラム189号 7ページ]
また、医薬用途発明を超えて一般的に、進歩性判断に関して、独立要件説をとるのか、二次的考慮説をとるのかということに関しては態度を明らかにしていない※23。

上の引用のとおり、今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” として扱い、医薬用途発明に “限って” は、構成が容易である場合でも、顕著な効果があれば、独立要件説的に進歩性を認めてもよいのだと論じた。 これは「医薬用途発明 “例外論”」といっていいだろう。

上述のとおり2016年論文および2019年論文で田村先生は、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていた。 しかし上の「1.」で見たとおり、田村先生は今回の最判を、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを「明らかにした」と捉えた。 しかし今回の最判をそのように捉えると、2016年論文や2019年論文で田村先生が論じたこととは一見矛盾してしまう。 そして、一見矛盾する両者のインテグリティ(純一性)を保つために今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” 扱いすることによって、過去に論じた事項から「医薬用途発明」を切り離したように私には見える。

しかしもし最判との整合性をとるためにそのような「例外論」を生み出したのだとすれば、それは果たして「純一」といえるのだろうか?

実は田村先生に対しては、前にも似たような思いをしたことがある(2017年3月23日の投稿を参照)。 そのとき田村先生は、パシーフカプセル事件の最判(平成21(行ヒ)326)との整合性をとるために(かどうかは知らないが)、特許期間の重複延長を肯定し、その結果、特許権者に過剰な独占と利益を許すことになりうるのを問題視しなかった。

制度論を考えるにあたって、何を前提とすればよいのか。 つまり本当に純一性を確保しなければならない対象は何なのか? 最判か? 条文か? 制度趣旨か?

愛知論文に対する投稿でも書いたとおり、今回の最判は、顕著な効果があれば進歩性を認めるべきだとは言っていない。 にもかかわらず、この最判を「医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした」と捉えるのは「忖度」だろう。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、真に保つべき純一性をけがすことになるのではないか。

私は先生の2016年論文こそ、例外なく通用する判断規範を示した論文だったと思う。 田村先生が2016年論文に回帰し、先生が説く特許制度の根本的な要請である「フリー・ライド」の防止(1月14日の投稿参照)のために、進歩性の判断はどうあるべきなのかをもう一度説きなおしてくれることを願っている。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

愛知靖之「進歩性判断における『予測できない顕著な効果』の判断手法」(NBL 1160号 8-15 2019)


昨年の年末に、京大の愛知靖之教授による、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する評釈が公開された(NBL 1160号 8-15 2019)。

この愛知論文は私にとって画期的だ。

第一には、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の判断手法に関して、従来の「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことだ(愛知論文の脚注11)。 「独立要件説」を否定するだけでなく、従来の「二次的考慮説」も否定することは、進歩性判断における「顕著な効果」の意義に関する学説を前に進める上で必須だと私は思うから、今回の愛知論文が「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことはすばらしいと思う。

具体的には愛知先生は、「独立要件説」は妥当ではない(14頁左)と論じた上で、従来の「二次的考慮説」について、脚注11で次のように論じている。

[愛知論文の 15頁 脚注11](強調は私が入れた;以下同様)
しかし、筆者は、「『優れた効果を有するにもかかわらず、これまでだれも発明することができなかったのは、構成を容易に想到できないからである』と推認することができるのではないか」(・・・)などという論法を用いて、「効果」それ自体を「(構成の)容易想到性」判断の(副次的な)考慮要素に据える従来の「二次的考慮説」もそのままでは正当化することが困難だと考えている。一定の構成を採用することが容易想到か否かを判断する際に、その構成が現実に採用された結果としてのみ観念される「効果」を斟酌するのは、結果論に基づく推論であり、因果関係が逆転しているのではないかと思われるからである。

まさにそのとおりだ。 だから私も、昨年4月24日の投稿(「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」)や、10月9日の投稿(「『二次的考慮説』は生き残れるか」)で、従来的な「二次的考慮説」を批判した。

この問題は「裸の王様」のようなものではないか? 通説的な「二次的考慮説」は因果関係が逆転しており、考え方としておかしいのは明らかなのに、なぜか「二次的考慮説」論者たちは、その考え方が正しいかのように論じ続けている。 愛知先生のような高名な先生に「おかしいものはおかしい」と言っていただくことで、因果関係が逆転している欺瞞的な「二次的考慮説」が修正される流れができることを期待している。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第二の点は、(これは大して画期的ではないけれど)、選択発明は「顕著な効果」がない限り一般に新規性がないという、いわゆる「ゾンビ説」(昨年5月20日の投稿参照)を否定し、たとえ上位概念の発明が既知であったとしても、その下位概念である選択発明は、それが先行文献等に具体的に開示されていない限りは新規性があるという立場を明らかにしたことだ(愛知論文の脚注6)。

但し、もともと「ゾンビ説」は、支持している人がいるとしても一部の学者や裁判官に留まり、特許庁は「ゾンビ説」は採っていないと思うので、愛知先生が「ゾンビ説」を採らない態度を明らかにしたのは、画期的というより、まあ、安心したという程度かも知れない。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第三の点は、本件の差戻審(令和元年(行ケ)10118)が採りうる選択肢として、顕著な効果を肯定した上で、なお本件発明は容易想到だとして進歩性を否定するという選択肢を排除していないことだ(愛知論文の脚注12)。 差戻審が採りうる選択肢としてこの選択肢を示していたのはこれまで田中汞介先生(「特許法の八衢」の2019年9月1日の投稿「最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書」を参照)や私(2019年10月9日の投稿を参照)など少数の人に留まっているから、第一線の法学者がこれを論じた意義は大きいと思う。

具体的には愛知論文の脚注12は次のように記載されている。

[愛知論文の 15頁 脚注12]
差戻審が採りうる選択肢としては、一応、「顕著な効果あり → 進歩性あり」のほか、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」、「最高裁の判示に即した判断を行ってもなお顕著な効果なし → 進歩性なし」があるといえよう。

上記のとおり、「一応」という言葉がついてはいるものの、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」という選択肢が挙げられている。

本件の顕著な効果を否定した上で本件発明は容易想到だと判断した原審(平成29(行ケ)10003)に対して本件最判は、原審の判断手法を批判した上で本件を差し戻した。 この経緯を考えれば、差戻審においては顕著な効果を肯定して進歩性を肯定するのが無難だと考えたくなってしまうかも知れないし、そこまで気を使わないとしても、進歩性を否定するためには、少なくとも顕著な効果を否定する必要があり、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定することなどありえないと思う人は多いかも知れない。

しかし、そう考えるのは単なる忖度だ。 愛知論文が指摘するとおり、最判は「『予測できない顕著な効果』がありさえすれば(動機付けの有無にかかわらず)直ちに進歩性が肯定されるのかという問題には一切触れておらず」(愛知論文の10頁、14頁)、その問題はブランクのまま残されているとみなしうるからだ。

もっとも、仮に本件が、顕著な効果があっても進歩性が否定される場合は、顕著な効果の有無を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるはずであって、顕著な効果の有無を審理させるために本件を差し戻した最判と整合性がとれないと思う人はいるかも知れない。 だから愛知先生も、そうした事情を考慮した上で、本件最判が「独立要件説に即した帰結を強力にバックアップする可能性が大いにある」(愛知論文の14頁右)ことは認めている。

しかしそれは、最判の判示というよりは「忖度」の域を出ないのであり、顕著な効果があれば進歩性は肯定されることを最判が明言していない以上、最判の射程がそこに及ぶものではないと解することができるだろう。

顕著な効果があれば進歩性を認める「独立要件説」を前提とするのであればともかく、「独立要件説」を前提としない以上、顕著な効果があってもなお進歩性を否定する場合がありうることは当然だ。 そして本件はそうした場合には該当しないということが示されていない以上、本件においても、顕著な効果があってもなお進歩性が否定されるという可能性は排除されないと考えることはできる。

その場合に、「顕著な効果があってもなお進歩性はない」と考えるのではなく、「本件の効果は、進歩性を肯定するほどの顕著な効果とは言えなかっただけだ」と言い張って、「独立要件説」や従来的な「二次的考慮説」を採り続けることもできなくはないかも知れない。 しかしそのような考え方は、結局のところ、進歩性を肯定すべきときにだけ、効果を「顕著な効果」だとみなすのと同じようなもので、因果関係が逆転しているとのそしりを受けなければならないだろう。

ということで、今回の愛知論文は、「独立要件説」も、従来的「二次的考慮説」も批判した点、および、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定するという選択肢を排除しない態度を示した点で非常に高く評価したい論文だ。 この点、前回の投稿で取り上げた高林先生の評論(年報知的財産法2019-2020, 24-32, 2019)や、そのうち取り上げるかも知れない田村先生の評論(WLJ判例コラム189)には、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

さて、ここからは、今回の愛知論文で必ずしも腑に落ちなかった点や気になる点などについて触れたいと思う。

1.「顕著な効果の有無を判断することが許されない」場合などあるのか?

「顕著な効果」の判断方法に関して、愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の12頁右]
・・・、たとえ引用発明に係る化合物が一定の効果を発揮することが知られていたとしても、そのことのみをもって直ちに、当該化合物と構成を異にする本願発明に係る化合物が同程度の効果を発揮するということまで予測することはできないはずである。 したがって、無条件に引用発明が奏する効果と本願発明が実際に奏する効果を対比して、予測できない顕著な効果の有無を判断することは許されない

[愛知論文の12-13頁]
・・・、「引用発明が奏する効果」から「・・・本願発明(・・・)が奏するであろうと当業者が想定する効果」の推認を可能ならしめる追加的事情が必要と考えるべきである。このような追加的事情が明らかにされた場合に限り、・・・「引用発明が奏する効果」と、「本願発明が実際に奏する効果」を比較して、顕著な効果の有無を判断することが許される

[愛知論文の13頁]
・・・、そもそも引用発明1の効果が明らかではない(引用例lには、モルモットに点眼した実験結果が記載されているだけであり、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用は示されていない)ため、上記のような推認の前提が整っていないということになる。

[愛知論文の13頁]
・・・、用途発明については、同等の効果を示す他の化合物から、本願発明の効果の予測可能性を推認することは原則許されず、そのような判断が認められるためには、極めて強固な「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等」を示す必要があるといえよう。

このように愛知論文は、「許されない」、「許される」、「整っていない」、「必要がある」などの強い表現を使って、本件発明の効果を先行技術と比較する条件を論じている。 しかし私が思うのは、「では、そういう条件が満たされない場合はどうするのか?」ということ。 顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、当然、何らかの効果が見出されているわけだ。 そして出願人は、その効果は、先行技術からは予測できないと主張するわけだ。

その場合に、先行技術と比較することが「許されない」場合や、先行技術と比較する条件が「整っていない」場合はどうするのだろうか。 愛知先生は、立証責任を出願人に課した上で条件を厳しくすることにより、その条件が満たされない場合は「顕著な効果を立証することができないから、進歩性は否定される」と考えているのかも知れないが、実際には、判断不能な場合は、本件発明の効果は先行技術から「予測できた」とは言えない以上、本件発明の効果は「予測できない効果」ということになってしまうのではないか?

上述のとおり、顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、何らかの効果が現に見出されており、その効果が予測できる範囲内であったのか否かが争点となる。 判断条件を厳しくして判断不能に追い込むことは問題の解決にならないような気がする。

まさかとは思うが愛知先生は、適切な比較対象が先行技術にない(つまり「顕著な効果」が判断不能)ということは、本件発明は、その構成からして新しいということを示しているのだから、効果を考慮するまでもなく進歩性は肯定されてよいのであり、不都合は起こらないと考えているのだろうか? 愛知先生が一体どういう見通しを持って論じているのか、今回の論文からはよく分からないので、今後の論文を待ちたいと思う。

私は、どのような場合であれ、進歩性の判断において「顕著な効果」は判断できると考える方がよいと思っている。 もっとも、どの程度の効果を(進歩性を肯定してよい)「顕著な効果」だとみなすかはケース・バイ・ケースで、本件発明の構成と先行技術の構成との違いによって影響を受けるだろう。 本件発明の構成がまったく新しいものである場合は、発明の効果は高い必要はないし、発明の構成が先行技術と似通っている場合は、効果がそれなりに目に留まるものでなければ進歩性を肯定することはできないだろう。 そこは「総合的な判断」が必要であって、単に「予測できたか否か」だけで決まるものではない。 だからこそ、私はそれを「意味づけ」(10月9日の投稿を参照)と言っているわけだ。

本件についても、決して「顕著な効果」が判断不能なケースに該当するというわけではないと思っている。 本件について愛知論文は、「本判決は、このような事情について何らの指摘もないままに、顕著な効果なしとの結論を下した原判決の妥当性を否定した」(12頁)と指摘しているが、私もそう考えればよいと思っていて、本件の原審は顕著な効果を荒っぽく否定したという点が、問題といえば問題だったのであって、本件のような場合でも、顕著な効果の判断を行うことは許されないものではなく、むしろどのような場合でも、それぞれの状況を総合的に考慮しながら効果を考慮して行けばよいのだと思う。 もっとも上述のとおり、効果の顕著性を検討するまでもなく進歩性を否定できる場合はあり得るし、本件もそうした場合に該当しうるとは思っているが。

*   *   *

2.顕著な効果により進歩性を認める場合(脚注11)について

今回の愛知論文が従来的な「二次的考慮説」を否定したことは最初に述べたが、愛知論文は脚注11において、「筆者は、従来の二次的考慮説よりも基準を明確化し、より限定的にのみ顕著な効果を斟酌すべきと考えているが、その詳細は、準備中の別稿に委ねる」としながらも、「先んじて結論だけを述べておけば、」と述べて次のように論じている。

[愛知論文の15頁 脚注11]
@ 「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」と、「本願発明が実際に発揮した効果」とを対比し、「本願発明が実際に発揮した効果」に比して、「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、当該構成の採用に至らなかったといえる場合に、「阻害要因」ありとして(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)する。 あるいは、A 予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、かつ、それゆえ「当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろう」(当業者が当該効果を発見し、その効果を解決手段に用いた発明に至ることがおよそ困難であった)という場合に、(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当と考えている

上の引用中で愛知論文が挙げている2つの場合( @ と A )に進歩性を認める余地があるということは私も同意できるが、もう少し詳細に考えてみたい。

まず上記の @ で愛知先生は、本件発明の実際の効果と比べ、想定されていた効果が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、本件発明の構成の採用に至らなかったといえる場合に進歩性が肯定できる旨を論じている。

これについて愛知先生に訊きたいのだが、仮に「想定されていた効果」が阻害要因になるほど低くはなく、いずれ誰かがその発明をするだろうといえるほどの効果は期待できた場合は、たとえ両者の効果(実際の効果と、想定されていた効果)に著しい違いがあったとしても進歩性は否定される、ということでいいですよね?

つまり、「本願発明が実際に発揮した効果」がどれほど高かったとしても、進歩性は否定されるわけだ。 その場合は、「本願発明が実際に発揮した効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はありうると考えていいですよね?(これは私のいうところの「進歩性 第1要件」に相当する)。

また、愛知先生がいうように、効果が著しく低いと予想されるという意味で阻害要因があるとして、それにもかかわらず、その構成を採用した人がいたとして、予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合、愛知先生は進歩性を認めるのだろうか、それとも認めないのだろうか?

当然、認めないよね。 ではその場合、その構成には容易想到性はあるのか、それともないのか?

予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合は「その構成は容易想到」と判断するのに、効果が高かった時にだけ「容易想到ではない」と判断するとしたら、それは愛知先生の言う「因果関係の逆転」だ。 だから、それはできないだろう。 想定される効果が阻害要因になるほど低く、実際の効果が高かった場合に「その構成は容易想到ではない」と判断したいと愛知先生が考えており、かつ、「因果関係の逆転」が起きないような考え方を採りたいと思っているのであれば、たとえ同じ構成を持つ発明が、想定通り効果が著しく低かったとしても、「その構成は容易想到ではない」とみなすほかないはずだ。 それにもかかわらず、想定どおり効果が著しく低いことが判明した場合は、その発明は「進歩性なし」と判断したいわけだ。 そうすると、たとえ構成に容易想到性が認められなくても、直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認めるに足る程度の「効果」は必要だという判断基準が必要にならざるを得ないだろう(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

このように、愛知論文の設例「@」を、因果関係の逆転が起きないように論理的に考えて行けば、私のいうところの進歩性の「第1要件」と「第2要件」に行き着くことになるのではないか。

[あるべき進歩性の判断手順] (2019/8/30版
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また上記の A で愛知先生は、予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろうという場合に、構成の容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当だと論じている。

これも確認したいのだが、Aの発明は、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているわけではなくて、純粋な物質発明(「〇〇化合物。」という発明)や、その「異質な効果」を発揮させることに限定されない従来的な効果を発揮させるための用途発明のようなものを想定している、ということでよいのだろうか。

そして、仮にその「異質な効果」がなければ、その発明の進歩性は否定されるということを前提にしているということでよいのだろうか。 つまり、発明の構成自体は容易想到であることを愛知先生は前提にしているわけだ。 しかしそうすると、異質な効果があったからといってその発明の進歩性を肯定することは、構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだとする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)と矛盾することになるのではないか?

例えば、その「異質な効果」以外にも、その物質について、発明前に、従来的な効果があるだろうと予測できたとして、その従来的な効果を発揮させるためにその物質的構成を採用することに十分な動機付けがあった場合は、その発明の進歩性は否定するわけですよね? たとえ「異質な効果」がどれほど顕著であったとしても進歩性は否定されるわけだ。 そうすると、その「異質な効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はあるということになる(私のいうところの「進歩性 第1要件」)。 したがって、A の設例で進歩性が認められるためには、発明の構成に到達する動機付けを与えるほどの「従来的な効果」は見込めないことを前提としなければならないのだから、A の設例の発明は、実際には、「異質な効果」の有無にかかわらず「構成は容易想到ではない」ということになるはずだ。 そして「構成は容易想到ではない」からといって直ちに進歩性を肯定することはできないのであり、進歩性を肯定するためには、それなりの「効果」が必要だということだ(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

つまり何が言いたいかというと、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」とする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)の方を変えるべきだということだ。 進歩性を認めるためには「発明の構成が(その構成に到達するのも時間の問題と言えるほど)容易想到ではない」ことが必要だというのは正しい。 しかし、それは進歩性を肯定するための十分条件ではない。 たとえ構成が容易想到ではないとしても、それだけで直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認める程度の効果(進歩性 第2要件)が必要だと考えることが必要なのだ。

もし A の発明として、純粋な物質発明ではなく、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているとしても、話の大枠は変わらない。 もし同じ物質を従来的な用途に用いることに十分な動機付けがあり、従来的な用途に用いれば、必然的にその「異質な効果」を発見するに至るような場合は、その「異質な効果」を発見するのは時間の問題であったのだから、たとえそのような用途が「構成」として組み込まれた用途発明(つまり「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)であっても進歩性は否定されるべきだ(進歩性 第1要件)。 そう判断すべきだったことが疑われる事例として、Sotoku 10号の脚注39で取り上げた「芝草品質の改良方法」事件(平成25年(行ケ)10255;平成26年9月24日判決)が挙げられるだろう。 たとえ効果が極めて「異質」であり、また予測できないものであって、その異質な効果に用いることが「構成」として組み込まれた用途発明がクレームされているとしても、その効果が発見されるのも間近だったと評されるのであれば、進歩性は認められるべきではない。 その効果が早々に発見されることはないと認められ(進歩性 第1要件)、かつ、その発明は「でたらめ・ありきたり」ではないと認めるほどの「効果」があって(進歩性 第2要件)、初めて進歩性は肯定される。

このように、愛知論文が挙げる @ や A は、決して「効果」によって「構成の容易性」が否定される事案ではない。 むしろ愛知論文が挙げる @ や A からは、たとえ物質的構成に到達するのが時間の問題とはいえない(すなわち構成は容易ではない)としても、それなりの効果がない場合(具体的には、例えば @ については予想通りきわめて低い効果しかなかった場合、A については、容易だが膨大な選択肢の中からでたらめに選んだ置換基で既知化合物を改変したが異質な効果は見出されず、従来的でありきたりな効果しかなかった場合)については進歩性を否定すべきだという考えを導くことができるのであり、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」という愛知論文の考え方(14頁左欄14-15行)に修正を迫るものだと思う。

愛知先生には、私が挙げたようないろいろな場合に進歩性を認めるのか否かを再度考えてもらった上で、そうした「場合分け」だけで考察を終えるのではなく、そのすべてに通底する原理が存在している可能性を探ってもらいたいと思う。 その原理こそ、特許制度を支える正当化根拠なのであり、その有力な候補は、昨年10月17日の投稿で書いたとおり「依拠性の擬制」だと、今のところ私は考えている。

*   *   *

進歩性 第1要件における「容易」の意味について

愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の13-14頁]
そもそも、発明とは、課題解決手段の「構成」によって特定されるものである6,7。 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、当業者が引用発明の構成を変更して本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべきである。

上記のとおり愛知論文は、「本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべき」だと論じている。 愛知先生のこの指摘に同意できるかは「容易」の意味次第だ。 「容易」というのが、「当該構成を採用し、当該効果が見出されるのも時間の問題だった」という意味なのであれば、 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、進歩性は否定すべきだ。 しかし「容易」というのが、単に当該構成を採用して発明を完成する “手法” や “手順” が容易であったというだけである場合は、進歩性を直ちに否定することはできない。 なぜならいまだ世の中に現れていない発明であっても、“手法” や “手順” が容易である発明は他にもごまんと存在しているのであり、そうした他の発明をさしおいて本件発明が世に現れることは、(確率論的に)「容易」とは言えないからだ。

なお愛知論文の上の引用中に “7” と書かれているのは特許庁の宮崎賢司先生の論文(tokugikon No.289, 156-170, 2018)を表している。 この宮崎論文の163頁左には設例が記載されており、具体的には、ある研究室で1000通りの同類の化学物質の組み合わせを試験し、888番目の組み合わせでのみ「顕著な効果」が見出された場合に、なぜ888番目にだけ進歩性が肯定できるのか、という問題について論じられている。 この問題については、Sotoku 10号の脚注38に書いたとおりで、宮崎論文においては、1000通りの化学物質のすべての構成を容易想到であることが前提にされているのかも知れないが、私はそれらの化学物質の構成はいずれも、世に現れるのも時間の問題だったという意味で「容易」とは言えないと捉えるのが正しいと思っている。888番目以外の組み合わせに進歩性がないのは、888番目以外の組み合わせが容易だからではなくて、ありきたりの効果しか発揮しない場合は、たとえ構成が容易ではなくても進歩性を認めるべきではないからだ(進歩性 第2要件)。 1000個の化学物質を作る手順や手法がたとえ容易だったとしても、誰かが現に作製するのも間近だったと認められない場合は、私の言う「第1要件」で拒絶されることはない。 このように、私の言う「第1要件」は、手法の容易性を問うものではなく、時間的な問題を問う要件なのだ。

これについては愛知先生も今回の論文の14頁右欄で、「・・・、いずれ当業者が本願発明(と同一の発明)に至ると考えられるため、・・・」という時間的な表現を使っている点は重要だ。ちなみに田村先生もパテント別冊15の9頁で、「発見されるのも間近」という時間的な表現を使っていた。 つまり、進歩性の判断における「構成の容易想到性」(私の言う「第1要件」)とは、「時間性」の問題なのだと思う。

しかし一般には、作製手法が容易なら、発明の「構成は容易想到だ」という考え方が広く行き渡っているので、どうしても「888番目は、構成は容易だが、顕著な効果によって進歩性は肯定されるべきだ」(独立要件説)と考える人が多く、話がかみ合わなくなってしまう。 そこが、進歩性判断における「効果の意義」について、議論の対立が生じる要因の一つになるように思う。 「手法の容易性」は選択肢の数によって影響を受けないが、「時間」は選択肢の数に影響され、膨大な選択肢がある場合は特定の選択肢を選択することは容易とは言えなくなる。 時間的観点を取り入れることが、進歩性判断には必要なのだと思う。 同じことは既に昨年の投稿でも書いたが。

*   *   *

進歩性 第2要件における「意味づけ」について

今回の論文で愛知先生は、選択発明に関して「ゾンビ説」を採っていないことは上述したが、愛知論文の脚注6には以下のように記載されている。

[愛知論文の13頁 脚注6]
6 もっとも、たとえば、選択発明は、下位概念で表現された発明が、先行発明(上位概念で表現された発明)が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものである場合には新規性は認められるが、予測できない顕著な効果がなければ進歩性が否定される発明と捉えるべきであるところ、下位概念で表現された発明の構成自体は上位概念に係る先行発明に包含されているため、「構成」の上では、先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない。 そこで、例外的に「効果」が発明(技術的思想)の要素に位置づけられていることになる(・・・)。

上記のとおり愛知論文は、上位概念の発明が既知である場合、その下位概念である選択発明は、「構成」の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができないと論じている。 しかしそう言われると問いたくなってしまうのだが、「構成の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない」というのは、「構成は容易だ」というのと同じ意味なのか?、それとも違う意味なのか? 愛知先生は、選択発明の構成は、たとえその具体的な構成が先行文献に開示も示唆もされていなくても「その構成は容易」だと思っているのか?

例えば大合議事件となった「ピリミジン誘導体事件」(平成28(行ケ)10182、10184)における本件発明の化合物(ロスバスタチン)は、先行技術である甲2文献(特開平1-261377号公報)に記載されている発明の下位概念に該当する、すなわち、本件発明は甲2発明の選択発明であると言われている(井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018))。 そうすると、「ピリミジン誘導体事件」における本件化合物は、本来はその構成からして容易だと愛知先生は考えているのか?

私は、ある発明が先行発明の選択発明に該当しようが、しまいが、その発明が世に現れるのが時間の問題だったとはみなせないのであれば、その発明の構成は「容易」とは言えないと考えるべきだろうと思う。 それにもかかわらず、なぜ単なる選択発明に進歩性が認められないのかと言えば、それは、既知の発明の下位概念の一つを具現化しただけの「単なるありきたり」の発明を特許にする必要はないからだ(進歩性 第2要件)。 つまり、これは進歩性の「第2要件」の問題なのであって、発明の「構成」が容易か否かという問題ではない。 そして、愛知先生のいう「固有の技術的意義の基礎づけ」こそ、私が「第2要件」でいうところの「意味づけ」に相当する。 上述のとおり、本件発明の構成がまったく新しいものであれば、発明の効果は高くなくても、かろうじて効果があるというだけでも「固有の技術的意義」を肯定することはできるかも知れないし、発明の構成が先行技術と非常に似通っていれば、効果がある程度高いか、あるいは付加的な効果(例えば異質な効果)がない限り「固有の技術的意義」を肯定することはできないだろう。 そこには総合的な判断が必要であり、その発明が、果たして特許に足る「技術的意義」があるのかを、効果を勘案しながら判断するのが、私のいう「第2要件」だ。 この判断が必要になるのは選択発明に限られるものではなく、上で挙げた宮崎先生の1000個の化学物質において、なぜ888番目だけが進歩性を肯定できるのかを理解する上でも必要だし、「ピリミジン誘導体事件」でも例外ではない(Sotoku 10号の脚注35および36)。 だから前回の投稿でも書いたとおり私は、進歩性を肯定するにあたって効果の検討を不要とした「ピリミジン誘導体事件」大合議判決を批判しているのだ。

このように「選択発明」の進歩性判断に関して愛知先生が論じた「固有の技術的意義の基礎づけ」は、私がいうところの「意味づけ」(進歩性 第2要件)と同じものなのであり、選択発明に限らず、発明一般の進歩性判断において重要な意味を持つものだと思う。

*   *   *

ということで、今回の論文を読むかぎり愛知先生は、進歩性判断の考え方において私とかなり近いところにいるような気がしている。 愛知先生が進歩性の問題に関して今後どのように進んでいくのか、注目して行きたい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

高林龍判例解説『進歩性判断における顕著な効果の位置付け』(年報知的財産法2019-2000 日本評論社 24-32 2019)


昨年の年末に出版された『年報知的財産法2019-2020』(日本評論社 2019)に、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する高林龍先生の評釈が掲載されている。

評釈は全体として、今回の最判は事例判断に過ぎず、射程は極めて狭く、「独立要件説」と「二次的考慮説」の対立について判示したものでもないというスタンスをとっている。 最判を批判せず、かつ最判の影響は最小限に留まることを論じる高林解説は、バランスと配慮の効いた論文だと評することはできるかも知れない。

しかし褒めるだけではなんなので、高林先生には大変失礼ながら、曖昧に書かれている部分は多少勝手に解釈しつつ、今回の高林解説について批判的に感想を書いてみたい。

1.独立要件説と二次的考慮説の違いは「言葉の問題」に過ぎないのか

進歩性の判断における効果の意義について高林解説の28-29頁では、「独立要件説」と「二次的考慮説」が説明された上で、以下のように論じられている。

[29ページ](強調を追加)
いずれにせよ効果の顕著性が進歩性の判断過程において考慮されるのであれば、独立要件説と二次的考慮説の差異はほとんどないといってよく、特許庁や裁判所内部での運用や解釈が必ずしも統一されていなくとも、結果に大きな差が生じていないのだろうと予想できる 17) ・・・

そして脚注17では以下のように論じられている。

[29ページ 脚注17](下線及び強調を追加;以下同様)
効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう。この場合に効果を参酌することなく構成の容易想到性が判断されているというのかどうかは、言葉の問題にすぎないように思われるし、このような判断過程を経る出願が多いのが現状であろうかと思われる。

上に下線で示したとおり高林先生は、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう」という。 確かに “通例” はそうなのかも知れない。 しかし「予想外の効果」というものは、“通例” ではないからこそ「予想外」なのだから、“通例” の場合だけを考えるのでは意味がない。

もし高林解説が言うように、「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」が「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」だというのなら、まったく同じ構成を採用した結果、効果が想定外に顕著だった場合は何というのだろうか?

その場合は、「その構成は容易想到ではない」とでもいうのだろうか? まったく同じ構成であるにもかかわらず、効果が想定内であった場合は「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到」だといい、効果が想定外であった場合は「効果を参酌した結果、構成が容易想到ではない」ということにするのか?

もし高林先生の考える「二次的考慮説」がそのような説なのだとすれば、そのような考え方こそ、私が常々批判しているところの「修正主義」(2019年4月24日の投稿などを参照)であり、欺瞞というべきものだ。 効果が予想外か否かを見てから構成が容易想到かどうかを決めるのなら、そのような「二次的考慮説」が「独立要件説」と同じとなるのは当たり前だ。 「二次的考慮説」をそのように解した上で、「独立要件説」と「二次的考慮説」は「言葉の問題」にすぎないなどと論じるのはトートロジーであって、無意味かつ誤解を生む源だと言わなければならないだろう。

「独立要件説」であれ、高林先生の考えるであろう修正主義的な「二次的考慮説」であれ、不都合が起こる場面は2つある。 1つ目は、膨大な選択肢の中からでたらめに一つの選択肢からなる構成を選んだだけの発明(すなわちその特定の構成を選択することは容易想到とは言えない発明)であって、見るべき効果がまったくない発明に進歩性を認めるか否かという場面であり、2つ目は、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が顕著なら進歩性を認めるのか否かという場面である。

「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)では、膨大な選択肢の中から一つを選んだ場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 しかしそのような考え方では、でたらめに選んだだけの発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号(「9.」節)で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている(2019年8月30日の投稿を参照)。

すなわち、これは「言葉の問題」などではなく、現実に起こりうる問題だ。 「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、「独立要件説」と差がないなどというのは、現実に想定できる問題について見て見ぬふりをするのに等しい。 現実から目をそむけず、「独立要件説」と修正主義的な「二次的考慮説」の両方を否定することが求められているのである。

*   *   *

2.効果が顕著なら進歩性を肯定するのは「理の当然」か

本件判決について高林解説は、次のように解説している。

[29-30頁]
 ・・・、前訴判決を理解するうえでは、まず本件各発明は化学物質のいわゆる用途発明であり、出願前公知の化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することを見出した点に発明としての進歩性が認められるか否かが問われるべき事案であることが重要である。用途発明とはたとえ公知物質であったとしてもこれが奏する未知の効果を見出し、これを新たな用途に適用することに進歩性ばかりでなく新規性も認められるとして特許が成立する場合のことであるから、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、独立要件説とか二次的考慮説とかで一般的に論じられるように、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

ここまでの高林解説については特に異論はない。 続いて高林先生は以下のように論じる。

[30頁]
 本判決は「化合物を発明に係る医薬用途に適用することが容易想到であることを前提とする場合において」と判示したうえで、当該発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定した原審の判断手法に違法があるとの判断に進んでいる。この前提事実は、本件審決が、審決取消確定判決(前訴判決)の拘束力20)が及ぶとした、引用例1および引用例2から当業者が本件各発明に至る動機付けがあるとして、化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することは容易想到であるとした判断であり、原判決は当事者に争いがないとして適示している事実であるから、その当否はともかくとして、最高裁としては前提事実として扱うほかない事実ということができよう。その意味では、本判決の前記判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの独立要件説に立っているかのようではあるが、実は法律審である最高裁としては原判決の認定した事実として当然に前提とせざるを得ない事実を判示したにすぎないものということができるだろう。
 そうすると、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間があるものの、仔細に検討してみるならば、前訴判決は、前審決が、本件発明における「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という発明特定事項は、引用例1及び引用例2から当業者に動機付けられるものとはいえないから進歩性欠如の無効主張は理由がないとした判断は誤りであり、同引用例から動機付けられるとして、その限度での判断に止めて審決を取消したものということができる21)。 そうであるのならば、二次的考慮説に立ったとしても、独立要件説に立ったとしても、審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる22) のは理の当然である

ここまでの高林解説も、最後の一文を除けば異論はないし、最判が独立要件説に立っているという解釈を高林解説がはねのけている点はむしろ評価できる。 しかし最後の一文については異論がある。 なぜなら、高林解説が「理の当然」と言っていることは「理の当然」ではないと思うからだ。

高林解説は、「審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる」というが、高林解説がそのように論じるのは、効果の程度が進歩性の判断に影響を及ぼしうると考えているからだろう。 しかし、効果の程度が進歩性の判断に必ず影響を及ぼすかどうかは明らかとは言えない。 例えば、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合が存在する可能性はないのか? もし本件が、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当するのなら、効果の顕著性を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるから、必ずしも「効果の顕著性が審理されるべきことになる」とは言えない。 そして高林解説は、本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当しないこと、あるいは、「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合など一般論としてあり得ないことについて、なんら論証していない。 また高林先生は論文の最後で、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」(32頁)と論じ、あたかも効果が「予測した範囲を超えている」場合は進歩性が肯定されるかのような論じ方で論文が閉められているが、上述のとおりそもそも本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合には該当しないことは論証されていないのだから、「効果の顕著性が審理されるべきことになる」などと論じたり、「予測した範囲を超えている」か否かで進歩性の有無が決するかのような論じ方をしたりするのは飛躍があるというべきだろう。

これもまた、高林先生が「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、世の中には「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないことを前提に物事を論じていることに起因するのかも知れない。 しかし上の「1.」で述べたとおり、「修正主義的二次的考慮説」というのは、つまるところ「独立要件説」と同じなのであり、顕著な効果があった場合は容易なものを容易ではないと思うことにするという欺瞞の上に成り立っている考え方にすぎない。 世の中に、「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないと考えること自体が誤りなのである。

*   *   *

本件の場合、本件化合物は抗ヒスタミン剤として既知の化合物であった。 そして本件化合物の一つ(KW-4679)をアレルギー性眼疾患の治療薬として用いることを想定して、モルモットの結膜炎モデルに点眼する実験も本件の特許出願前に行われていた(本件引用例1)。 そして一般に抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンと拮抗するだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離を抑制する作用(肥満細胞安定化作用)を持つことがあることも知られていた。 そうすると、本件化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として開発しようとする場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れと言いうるだろう。

仮に本件発明、すなわち、本件化合物を肥満細胞安定化の用途に使用するということが、誰かが行うのも間近だったと評される場合は、この化合物の肥満細胞安定化作用がいかに顕著であろうとも、そのような用途発明(すなわち本件発明)の進歩性は否定すべきだと私は思うが、その意義は「先行者の保護」にある(もし先行発明がパブリックドメインとなっている場合は、パブリックドメインの保護にある)。

例えば上記の本件引用例1の発明者(すなわち先行者)が本件の特許権者とは無関係の者だったとして、引用例1の発明者が、引用例1に記載されているように、モルモットの結膜炎モデルを用いて本件化合物がアレルギー性眼疾患の治療薬として有用であることを見出し、アレルギー性眼疾患の治療薬としてこの化合物を開発しようとしていたとする。 そしてその場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れだったとする。 ところが、本件特許の出願人がいち早くこの化合物の肥満細胞安定化作用を調べ、本件用途発明を出願してしまったとする。 そして引用例1の発明者に対し、この化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として使用すれば、必然的に肥満細胞安定化作用が発揮されることになり、また、薬事当局もこの作用が発揮されることは認めるだろうから、あなたがこの化合物を医薬品として販売したら特許侵害として訴えると警告すれば、引用例1の発明者は医薬品の製造・販売ができなくなってしまうかも知れない。

このように、何人かが発明するのも間近だったものに対し、効果が顕著であったからといって特許を付与することは、先行者に対して強力な不意打ちと妨害を与えることを可能とし、パブリックドメインにあるべきものを奪取することを許すことにもなる。 こうした発明に特許を与えれば医薬品の製品化が促進されるかのように論じる向きもあるが(2019年8月30日の投稿を参照)、このような付加的な効果について目ざとく特許出願を行う者が、医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はない。 本件の場合、本件化合物の医薬品(製品名:パタノール点眼液)を製品化しているのがたまたま本件特許権者だったから事の不合理さが覆い隠されているが、もし本件用途発明の特許を取得した者が、この化合物を医薬品として開発している者ではなかったとしたら、本医薬品の製品化は、その用途特許により妨害されていたかも知れない。 そうした不意打ち的な妨害を防ぐために特許法29条2項(進歩性要件)は機能すべきなのであり、そのためには、誰かが発明するのも間近だったと評されるものに対しては、その効果の顕著性にかかわらず特許を付与してはならないと考えるべきなのだ。

同じことは、昨年10月2日に投稿した「光学活性ピペリジン誘導体」事件(平成24年(行ケ)10207)のところでも説明した。 二つの異性体の混合物であるラセミ体に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする動機付けが生じるところまで行けば、どちらの異性体に活性があるのかを調べるのは当然であり自然の流れなのだから、それにより必然的に判明すること(すなわちどちらの異性体に活性があり、それによりラセミ体の何倍に活性が上昇するかということ)が、先行者(すなわちラセミ体に最初に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする者)の前に立ちはだかることを許すのは不合理だ。 したがって、容易に分離できる異性体をいち早く分離して「顕著な効果」を見出したからといって、それに特許を付与すべきではないのである。

[2019年10月2日の投稿で掲載した図]
sinposei20191001-1_1940.png

このような理由により、私の言うところの「進歩性 第1要件」(上図)は導かれる。 つまり、たとえ効果が「予測した範囲を超えている」としても、進歩性を認めてはならない場合は確かに「ある」というのが私の考えだ。

したがって、高林解説が言うように、本件の場合に「効果の顕著性が審理されるべきことになるのは理の当然である。」とは言えないし、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」のが当然ということもできない。

もっとも、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」と「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」を半ば同一視(脚注17)する高林解説からすれば、誰かが発明するのも間近だった場合は、よほど顕著な効果があっても強引に「効果は想定内」だとみなせばよいと高林先生は考えているのかも知れない。 しかしそうした点について今回の高林解説では触れられておらず、本件において進歩性を認めるほどの「顕著な効果」とは何なのか、または、そのような場合が本当にありうるのかということについて明確な問題提起をしないまま、論文の最後において、「予測した範囲」を超えてさえいれば進歩性を肯定しうるかのような印象を与えていることについては、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

なお本件最判は、判決文の最後で「・・・,本件各発明についての予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。」と説示しているから、この最判の説示にしたがう必要があるという意味においては、差戻審において効果の顕著性が審理されるべきは当然ということにはなるだろう。 しかしそれは、最判がそう説示したから審理はせざるを得ないだろうということに過ぎず、特許法29条2項の趣旨から理の当然のごとく導き出せるものではない。

そして最判は、顕著な効果があれば進歩性を肯定すべきだと説示したわけでもないことを指摘しておきたい。

前回の投稿でも述べた通り、前提とすべきは特許法の制度趣旨と、変わることのない社会的規範(社会的正義やフェアネス、衡平の理念)である。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、砂上に楼閣を建てる危険を冒すことになるだろう。

*   *   *

3.用途発明における「顕著な効果」の判断の特殊性(高林先生の真の立場は何か)

さて、ここまでは今回の高林解説を批判的に書いてきたが、最後に、高林先生の本当の立場とは何なのかを考えてみたい。

本件発明は用途発明であって、上述のとおり、物質(オロパタジン)はすでに公知であり、抗ヒスタミン作用があることも既知で、モルモットのアレルギー性眼疾患モデルに対する治療効果の検証なども行われていた。 そして本件発明は、この化合物にヒト結膜肥満細胞安定化作用(ヒト結膜肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離抑制作用)があることを見出したことに基づいて出願されたものだ。 その請求項は、「・・・、○○を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤。」となっている(「○○」は公知物質名)。 この請求項の「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という部分は、この発明が「ヒト結膜肥満細胞安定化という用途に用いる剤」であることを規定するものであり、この発明が、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途に用いることに限定されていることを示すものだ。 このように用途発明とは、用途(「ヒト結膜肥満細胞安定化」)が発明の「構成」の中に組み込まれている。

そして用途発明について高林解説は次のように論じる。

[30頁]
・・・、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、・・・、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

そして今回の最判の説示について高林解説は、

[30頁]
・・・、本判決の・・・判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの・・・説に立っているかのようではあるが、・・・

と論じつつ、最判はそうした「説」に立つものではない旨を論じている。 そして、化合物の用途発明の場合に、構成の容易想到性(すなわち、効果を奏する用途に用いることの容易想到性)の判断を、効果の顕著性の判断とは別に先行して行うことができるのかという点について、

[30頁]
・・・、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている(と)考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間がある・・・

と論じている。

上の高林解説の論じ方からすれば、高林先生は、用途発明における用途(すなわち発明の構成)の容易想到性と、効果の顕著性を別々に判断することができるのかについて「疑問」を持っていることが分かる。

その是非はともかく、もし高林先生が、「両者を別個に判断すること」に疑問を持っており、それでもなお今回の最判には疑問を持っていないという立場をとるのであれば、今回の最判は、「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずである。

本件用途発明が容易想到であるか否かが前訴において検討され、その結論が既に出ているにもかかわらず、本件の「効果の顕著性」を判断する結果、本件用途発明の容易想到について前訴とは異なる結論に到達しうるのだとすれば、それは「両者を別個に判断した」からに他ならない。

しかし前文のとおり、高林解説の立場からは、今回の最判が「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずだから、今回の最判は、「本件発明」について顕著な効果があれば前訴とは異なる結論に到達しうる(進歩性を肯定しうる)との立場を示したと解することはできず、せいぜい、顕著な効果を判断する場合の判断手法について説示を行ったに過ぎないと解さざるを得ないのではないか。

そうすると、たとえ差戻審において本件発明の「効果の顕著性」が審理され、それについて何らかの結論が出るにせよ、なお本件発明は容易想到だと結論することは十分にありうる(というより、高林先生のいう「疑問」からすれば、そう結論するのはむしろ理の当然)というべきで、これこそが高林先生の真の立場だと、一応は推定することができるのではないか。 すなわち、上の「2.」で書いたのとは裏腹に、高林先生は、本当は、本件発明が容易想到だという結論は変わりようがないと考えている可能性がある。

もしそうでないのなら、高林先生は自身の立場をより明確にすることが求められるように思う。

*   *   *

なおこれに関する私の立場を書くと、2018年6月22日の投稿の「3-4.」にも書いた通り、本件明細書において、本件発明の「効果の程度」を判断するにあたって肝となる「表1」の各数値は、前訴において既に見られ、比較されているはずで、その上で進歩性が否定されていることからすると、別訴で再び「表1」の数値に基づいて顕著な効果を審理・判断することに違和感を感じるのは確かだ。 したがって本件の場合に前訴とは別途「顕著な効果」を判断できるのかという点については否定的に検討する余地はあるように思う。

しかし一般論としては、「用途発明」を特別扱いする必要はないと考えている。 私の言うところの「進歩性 第2要件」は、効果の程度を参酌するか否かで判断は変わりうるものであるから、もし先行する判決が、「効果の程度」を考慮せず、「効果の存否」しか見ないようにして「第2要件」を判断したのであれば、「効果の程度」を考慮してもう一度「第2要件」を判断し直すことはありうるし、その結果、「第2要件」の判断が変わることもありうるだろう。 しかし、もし先行する判決が「第2要件」ではなく「第1要件」を判断して進歩性を否定したのであれば、「第1要件」は発明の効果によって影響を受けるものではないから、前訴判決が確定している以上、進歩性が肯定されることはありえないことになる。 このように、「効果の存否」しか見ないようにして進歩性を先行的に判断した場合に進歩性が否定されたとして、「効果の程度」を考慮して進歩性の判断をやり直した場合、「顕著な効果」により進歩性判断が変わりうることもあれば、たとえ「顕著な効果」があろうとも進歩性判断は変わりえないこともある。 それは、先行判断において何が判断されたのかによるのであり、このあたりのことは、すでに昨年10月9日の投稿「『二次的考慮説』は生き残れるか」で書いたとおりだ。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月14日

田村善之二元論 ― 生き物としての解釈論(『田村善之 知的財産法学の課題 −旅の途中− 知的財産法政策学研究 Vol.51 (2018) 1-46』『田村善之 知財の理論 有斐閣 2019 第4章』)


今回取り上げる田村善之先生の講演録『知的財産法学の課題 −旅の途中−』は、もう1年以上前の2018年に北大の『知的財産法政策学研究 第51号』に掲載されたもので、私は北大のホームページで公開されたものを読んで、当時、感想文を書いてみたのだった。 しかし、公開しないうちにすっかり時間が経ってしまい、今さら『旅の途中』の感想文でもあるまいという感じになってしまったので、書いたものは公開せずにそのままになっていた。

しかしこの度、田村先生が『知財の理論』(有斐閣)を出版され、その最終章で『旅の途中』が掲載されることになったので、お蔵入りとなっていた私の感想文も、今回、めでたく公開する口実ができることとなった。

*   *   *

『知財の理論』については、既に複数の方が書評を公開されている。

特許法の八衢(田中汞介)
2020-01-05
田村善之『知財の理論』に対する雑感

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2020-01-05
我々はこの山をどこまで登ることができるのだろう?〜田村善之『知財の理論』との格闘の途中にて。

『旅の途中』については企業法務戦士(FJneo1994)先生がすでに昨年の初めに取り上げられている。

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2019-01-01
「立法」の議論に参加する上で常に自覚しておきたいこと。

これらの格調高い書評に比べると、下に書いた私の感想文はなんと大柄で、自己陶酔的なことだろうか(笑)。 しかしまあ、これはしょせん日記だし、日記というのは多かれ少なかれそういうものだろうから、ほぼ当時書いたままを公開することにした。

逆に、田中汞介先生やFJneo1994先生は、田村先生の言っていることすべてに同意しているのか、また、感じたままを本当に書けているのか、ということが少し気になったりしている。

*   *   *

唐突だが、私は昔から、田村先生は隠れ(?)「正義論者」のような気がしている。 田村先生といえば「インセンティブ論」であって、インセンティブ論といえば、「・・・産業の発展など、効率性を追求することが大きな、・・・一つの目的となる・・・」(22ページ/467ページ)(ページ数は前者が『知的財産法政策学研究 第51号』、後者が『知財の理論』のもの;以下同様)はずだから、正義論とは対極であるようにも見えるが、なぜそう思うのか?

その理由は、Sotoku 6号の脚注111にも書いた通り、田村先生は「インセンティブ論」に基づいて具体的に特許制度をどのように構築するかを考えるときに、「フリー・ライドの禁止」を実現するような制度構築を目指すべきだと説くからだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)。 今回の講演録でも田村先生は次のように説いている。

[40ページ/483-484ページ]
特許法全体を通有すると目される特許制度の趣旨、すなわち発明に係る技術的思想に対するフリー・ライドを禁止する権利を発明者に与えることにより、発明に対するインセンティヴを付与しようという特許法の目的に求め、技術的思想が利用されている限りにおいて保護を及ぼすべきであるという結論を導くことになります。

つまり、「発明に対するインセンティヴを付与する」という、客観的に検証することが困難な目標を、「フリー・ライドを禁止する」という手段により達成できるものだと捉えることにより、インセンティブ論に基づく特許制度の作り方に具体性を与えているわけだ。

しかし、「フリー・ライドを禁止する」(ただ乗りの禁止)という考えは、「インセンティブ論」から論理的に導かれるものなのだろうか? 例えば発明に対するインセンティブを付与するには、発明に報奨を与えたり、補助金を出したりすることもあり得るような気がするのに、なぜ「ただ乗りの禁止」という事項(だけ?)がプライマリに導かれるのだろうか? むしろ私の感覚では、「ただ乗りはいけない」というのは、「道徳論」や「正義論」から自然に導かれるものであるように感じるのだが。

なお、私は田村先生のことを責めているのでもなければ、批判しているのでもない。 むしろ先生が論じていることに正義論的な要素を感じることに好感を持っている。

*   *   *

私は特許制度というものを、もっと自然発生的に考えている。 窃盗を禁止する法制度が社会において自然に生まれてくるのと同様に、知的創作を尊重し保護しようという発想は、ある程度技術や文化が発達してきた社会であれば自然に生まれ、制度や慣習として定着していくものなのではないかという気がしている。 私の立場は、いうなれば、進化論、生態系論、あるいは生物学的制度観とでも言おうか。

例えば、生物は何のために生きているのか? 生き物は、別に何のために生きているのでもない。 「目的」があって生きているわけではない。 「生きる」という特性があるから生きているのだ。 長い目で見て、生き物というのは強い者が生き残るのではない。 生態系の中で存続するという特性を持っている生き物が存続するのだ。 強すぎて生態系を乱す生き物は、持続性が乏しく、ライフスタイルが変わらない限りいずれ絶滅する。 特許制度も同じで、「目的」があるから制度が存続するのではない。 制度の「目的」が重要なのではなく、「存続する」という特性を持っていることが重要なのだ。 存続するという特性を持っている制度であればこそ存続し、定着していくのだろうと思う。

私は特許制度をそういうものだと捉えているから、「産業の発達」という目的が達せられるか否かなど、割とどうでもよいのだ。 逆に、「政策レバー」(Policy levers)などという言葉を聞くと少し違和感を感じてしまう。 レバーを動かすように特許制度を政策的に操縦して「目標」に近づこうという発想自体、おこがましい気がしてしまう。 特許制度が、どのように、どれほど産業の発達に寄与しているかも具体的に検証できていないときに、何のレバーをどう動かせばどのように動くというのだろうか?、などと思ってしまう。 もちろん、特許制度が発明を奨励し、産業の発達に寄与すればいいなと私も思うし、それに反する結果を現に生じてしまうような制度は作れないとは思うけれど、「産業の発達」というのはレバーを操縦してでも到達すべき必達目標というよりは、いわばお題目のようなものであって、制度が存続するために大事なのは制度にサステナビリティがあり、(私を含めて)多くの人が支持することだと思う。そして制度はもちろん、(私を含めて)多くの人が支持している社会的正義やフェアネス、衡平の理念、あるいは自由を求める心に反するものにはできないだろう。

そういう私が、特許権はどのような範囲に及ぶようにすれば、社会の中で安定性があり、(私を含めて)多くの人が支持するかと問われれば、「フリー・ライドをしているとみなせる範囲」に及ぶようにすることだろうね、と答えるだろう(Sotoku 6号の脚注111)。 そうすることが「産業の発達」を最大化すると思うからそう答えるのではない。 「産業の発達」という制度の「目的」からそういう考えが出てくるのではく、もっと自然に、フリー・ライドを禁止することが納得性があると思うからそうするのだ。 すると奇遇なのだけれど、田村先生がおっしゃっている「フリー・ライドを禁止する」ということと一致するではないか(笑)。 いや・・・、私は奇遇だとは思っていない。 (私を含めて)多くの人が「そう設定することがよい」と感じるであろうように、おそらくは田村先生も心の中でそう感じているのではないかな、と思っている。

[23ページ/467ページ]
ちなみに、「インセンティヴ論」という名称からよく誤解されることがありますが、私も、知的財産法の目的に自然権なり基本権なりが関わっていると考えており、とりわけ人の自由の確保が肝要であると思っています

今回の田村先生の講演録では、上に引用したところが、特許制度に自然権なり基本権なりの考え方を取り込むことの重要性に関して、田村先生がもっとも「自分のこと」として語っているところかなと思う。

*   *   *

ところが、講演録全体は必ずしもそうはなっていないのだ。

[7ページ/453ページ]
・・・公衆をどう納得させるかということがここでの問いです。

[7ページ/453ページ]
・・・、公衆をしてそのような規制を納得させる説得的な論拠を示さないと公衆の納得心が得られないということを意味しています。

[8ページ/453ページ]
自然権論による正当化の必要性

[9ページ/454ページ]
・・・、人々の納得心を得るための自然権論的な正当化根拠が必要なことはたしかなように思います

[9ページ/454ページ]
・・・、人々を納得させるためには自然権的な説明が必要となり、・・・

[27ページ/471ページ]
・・・人々の得心を得るため自然権論的な感覚に訴える必要がある、・・・

[33ページ/477ページ]
・・・、現実の政策形成過程でも人々の共感に訴えるレトリックが用いられている・・・

「公衆をして」とか「人々を納得させる」という言い方は、どこか「下々のために」と言っているようで、「自分は本当はそうは思ってないけどね」というニュアンスを感じさせる。 特許法の目的はあくまで「産業の発達」であって、「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」はいわば「メタファ」であって、「産業の発達」という目的を達成するためにレトリックとして利用すべきものに過ぎないと言っているように感じる。

私は逆で、「知的創作に対するみんなの気持ち」を制度化することが特許法の本質であって、「産業の発達」という法目的こそ、いわばレトリックのようなもののような気がしている。

ちなみに私も、「自然“”」なるものは単なるフィクションだとは思っている。 例えば基本的人権というのも単なる「決めごと」であって、人は生まれながらにそのような権利を持っているわけではない。 社会が「そのように扱おう」を決めているだけだ。 だから、私がどこか日本の外の別世界の地を歩いていて、突然捕えられて投獄されたり奴隷にされたりしたとしても、「私には基本的人権という権利がある!」などと叫んだりはしない。 「基本的人権」など、そういう決めごとがある社会でのみ通用することに過ぎないからだ。 そういう意味では、今回の講演録において田村先生が、知的財産権はしょせんは「人工的な行為規制でしかないと思います」(16ページ/461ページ)と論じ、「権」という言葉が持つ(水戸黄門の印籠のような)絶対不可侵的なイメージを批判的に論じていることは共感できる。

また、「知的“財産”」や「知的創作“”」という「物のイメージ」を前提として制度を構築したり運用したりすることに潜む嘘や危険性を田村先生が説いているのも共感できる。 実際のところ、今回の講演録で先生が「メタファ」として利用すればよいと説いているのは、「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」であって、「知的創作に対する人々のこころ」をメタファとして利用すればよいと思っているわけではないのかも知れない。 しかし今回の講演録ではそこはかならずしも明らかではない。 特許制度において「知的創作に対する人々のこころ」はどのように位置づけられるのか、「産業の発達」に向かって公衆を誘導するために利用すべき単なる“エサ”なのか、それとももっと本質的なところで制度に関わっているものなのかについて明らかにしてほしいと思う。

そしてもし後者、すなわち社会生活の中で自然にうまれる「知的創作に対する人々のこころ」が制度に本質的にかかわっていると思うのであれば、そういう心に沿って制度を構築して運用すれば人心はつかめるのだから、それを超えて「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」をことさら利用して公衆を誘導する必要はないはずだとも思う。 つまり、「知的“財産”」や「知的創作“物”」というレトリックの効用をことさら取り上げて論じていること自体、「知的創作に対する人々のこころ」の本質を軽視しているのではないかという疑いを抱かせるのだ。

しかしまあ、これが「インセンティブ論者」あるいは「政策学論者」たる先生の折り合いの付け方なのかも知れないと思ったりもする。 だって『知的創作に対する人々の心こそが知的財産制度の本質なのだ』などと言えば、それはあまりにも違う人になってしまうかも知れないから。

ともかく、私は「知的創作」に対して人々が抱いている「創作に対する尊重の気持ちや利用の欲求」を、社会の中でなるべくおさまりがよいように交通整理のように整理することが特許制度の根本的な存在理由だと思うから、具体的な制度構築にあたって「産業の発達」を考える必要性をあまり感じないのだ。 「産業の発達」は、立法化にあたって掲げるお題目のようなもので、実際の制度構築は、創作に対する人々の気持ちを、社会的正義や衡平の理念を考えながら形にすることであらかた決まってしまう。 上市するまでに時間とお金がかかる医薬品特許はなぜ追加的な保護が必要なのか、多重延長と薬事制度を利用して独占期間を事実上延長することがなぜ不当なのか、PBPクレームは物のクレームなのだから同じ物であれば権利行使できるのは当前と考えることはなぜ不当なのか、均等論はなぜ必要なのか、先使用権はなぜ必要なのか、そういった問題は、ことさら「産業の発達」を考えるまでもなく結論は出てくるはずで、そういった問題を論じるにあたって、実証もできないのに、いちいち「そうすることが産業の発達に寄与するから」「文化の発展に寄与するから」などという理屈を付ける「目的手段思考様式」(12ページ/457ページ)こそフィクションでありレトリックなのではないかと思う。

なお進化論的に考えるのなら、人間には「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」をそもそも持っているという言い方はいかにも正義や道徳を振りかざしているようで語弊があるかも知れない。 別に「これが正義だ」というつもりはないのだ。 他人が行った創作を利用することにはメリットがあり、自分が行った創作を独占することにもメリットがある。 進化論的には、そうしたせめぎ合いの中で「存続する特性」の高い思考形式が次第に広まっていくわけだ。 自分が行った創作を完全に独占する考え方では、他人の創作を利用できないから適応力に乏しく、長い目で見て存続するのが難しい。 逆に独占しなさ過ぎても、自分で創作することの意義が薄れ、他人任せになってしまう。 知的創作をほどよい塩梅で尊重する考え方が採られた場合に、適応力も上がり存続特性も高くなるから、そうした考え方が長い目で見れば広まって、人々の心の中に定着していったのではないか。 したがって、そうした考えに沿って制度を作ることで、結果的には存続特性の高い制度を作ることができるのだろうと思う。

*   *   *

今回の田村先生の講演録でとりわけ印象的だったのが、ドゥウォーキンの『法の帝国』で論じられている「インテグリティとしての法」(law as integrity)という法解釈の考え方について田村先生が話したくだりだ(36-38ページ/479-482ページ)。

[36-37ページ/480ページ]
そこでは、法の解釈が、・・・、芸術作品でいえばその「創造的解釈」になぞらえられています。芸術の創造的解釈とは、作者の目的を探究するものではなく、作品の目的の解釈であって、その作品が芸術として最も優れたものになるように構成的に解釈するものであるというのです。たとえば、シェイクスピアの戯曲を演出する際・・・、シェイクスピアがその実際の心理において戯曲に込めた意図を忠実に再現することを目的とするのではなく、戯曲のテクストを前提としつつ、もしかしたらシェイクスピア自身ですら明確には抱いたことがないかもしれない大きな芸術的な企図を現代の観衆を前に表現する最善の手段を見付けることである、というのです。

解釈の方法論といっても、「条文」の解釈から「制度趣旨」の解釈までいろいろなレベルがあるだろうし、立法的解決ができる状況なのか否かによっても変わってくるだろう。 『法の帝国』においてドゥウォーキンが例に挙げて論じているのは、法律が想定していない難しい問題が生じた事件(ドゥウォーキンのいう「ハード・ケース」)について「裁判官」が判断する場合だ。 そのような状況では、そもそも立法的解決はできないから解釈で解決を目指すしかない。 また裁判である以上、過去の判例に反するような判断を裁判官が行うのは憚られるという制約もある。 これらの状況を前提として解釈の方法論を考えるのであれば、妥当な解決を行うためには、多少無理な解釈ではあっても法律の条文との整合性(インテグリティ)を確保しなければならないし、また過去の判例と抵触してはならないという意味での整合性(インテグリティ)も兼ね備えたものでなければならない。 また裁判官が判決として使うことができる理屈でなければならない以上、「法はそうなっている(からそう判決する)」という建て前をとる必要があるのは当たり前で、「法はそうあるべきだ(からそう判決する)」などとは口が裂けても言えないという事情もあるだろう。 だからドゥウォーキンが説く方法論も、基本的にはそのようなものになっているのだと思う。 しかし、そのような状況を前提に置いて考える解釈の方法論は、一般的理論というよりも、「裁判官のための方法論」という性格が強くなる。 具体的な事件で裁判官がどのように判決をすればよいのかを考えるのならともかく、そうでないのなら、そのような状況に過度にとらわれる必要はなく、もっと自由に考えてよいのだと思う。 「この条文はおかしいのではないか。」と皆が薄々感じている状況ならなおさらだ。

「立法論」と「解釈論」の違いを意識しないで論じれば「条文」に拘らないで論じることになるから、どうしても「立法論」の立場に傾くことになるのかも知れない。 しかし、そもそも「立法論」の立場で論じる場合と「解釈論」の立場で論じる場合とで言っていることに違いが生じるのだとすれば、それは条項の制約があるからその違いが生じるということなのであろうから、「解釈論」の立場で論じている内容は、(その論者にとっては)「妥協の産物」ということになるのだと思う。 そして、裁判の場でもないのに自由に論じることをせず、条項を所与の前提として「解釈論」のみを論じることは空虚だ。 したがって、まずは自由に考え、条文解釈としてもその論が成り立つのであればそれでよいし、条項の制約があるのなら、妥協の産物としての「解釈論」を考えるというのがあるべき順番だろうと思う。

戯曲に限らず音楽でも、譜面に忠実に演奏するのか、そうでないのかは論争になることがあると思うが、芸術であれ法解釈論であれ、自分が最善と思うものを表現しないことなどあり得ないことを考えれば、それを表現する以外に道はない。 したがって、迷うことなどないのだ。 もっとも、勝手に音を変えて違う曲になってしまえば、「この曲は違う」と聴く人に思われるだけで、共感を得るのは難しくなる。 逆に論文を読んだ多くの人が、そこで論じられていることは妥当だと共感してくれるのであれば、問題解決に向けた道すじは見えてくる。 とりあえずはそれで十分であって、条文解釈で乗り切るか、法改正まで解決を先送りするかは、次の段階で考えればよい問題のようにも思う。

*   *   *

ところで、今回の講演録で田村先生は以下のように論じている。

[38ページ/482ページ]
・・・。「インテグリティとしての法」というアプローチに基づけば、単なる立法論と解釈論を分けるものは、条文の文言そのものではなく、法の構造から導出された法の趣旨に従った解釈であるか否かということになるからです。

[38ページ/481ページ]
・・・、インテグリティという発想の下では、起草者の言っていることは絶対視されません。・・・。・・・、私も重視しませんし、ときには他の条文や制度の趣旨とのインテグリティを保つために、条文の文言にすら反する解釈を採用しますので、よく田村は少数説だと言われるわけです。

田村先生のこうした自由な発想は先生の大きな魅力の一つだ。 私もそうありたいと思うが、突拍子のないものになってしまいがちなのか、2017年3月23日に投稿した「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたように、私の考えと田村先生との考えには違いが生じることもある。 おそらくその原因は、私が法学における解釈の方法論というものが分かっていないのに対し、田村先生はより正当な法学としての方法論に基づいているからなのかも知れない。 私はもともと自然科学指向で法学が分かっていないから、法学に関してはしろうとの自由さがある。 自然科学がそうであるように、確かなものや変わらないもの以外は前提とする必要はないし、確かではないものや変わりうるものとのインテグリティを保つ必要もないと思っている。 法律の構造や条文、過去の判決・判例、権威が書いていることなどは、すべて限られた人間が限られた時間を使って生み出したものに過ぎない。 「りんごが木から落ちる」という不変の物理現象や、長い間変わることなく生態系の中で存続し続けてきた生き物の構造や行動パターンなどは、そこに「不変の何か」があるはずだとみなして、それを探究してみることには意義があると思う。 しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。 それを前提にして物事を考えるというのは、砂上かも知れないところに楼閣を建てるようなものだ。 せっかく時間をかけて物事を考えるのなら、「誤っているかも知れないこと」を前提にしないほうがいい。 そうすると、条文や判例などを前提とすることはできず、より変わることのないもの、すなわち「制度趣旨」や、「変わることのない人々の思い」(=緩い意味での社会的正義やフェアネス、衡平の理念)を前提として考えることが、揺らぐことのない結論を導くためには必要になるのだと思う。 そのように出された結論は、判例や条文を前提にしておらず、また有力説なども尊重しないものであるから、裁判所や多くの論者には受けが悪いかも知れない。 しかし「変わることのない人々の思い」に支持されることになるはずだと思う。

*   *   *

創造的解釈」と言われて私がすぐに想起したのは「夢解釈」だ。 河合隼雄(京大教授)がまだ存命で活躍していたころ、私はその考え方に興味があり、本を読んだりしたことがあった。 夢の内容というのは、一見すると荒唐無稽だ。 行ったこともない場所を歩いていたり、やったこともないことをやっていたりする。 そして夢解釈は、その人が置かれた状況や問題を考えつつその夢を解釈する。 ほとんどの場合、夢は「メタファ」として表出される。 車を運転していて、ハンドルを回そうと思っても重くて回らないという夢や、ブレーキを踏んでいるのにどんどん加速してしまうという夢は、いずれもメタファだ。 そして夢解釈は、そうしたメタファに意味を見出して行く。 そして、そのメタファをもっとも意義深くなるように解釈したとき、その解釈はその人に強い印象を与える。 その人だけでなく、解釈を行っているセラピストや、その解説本を読んでいる読者(私)にさえ強い印象を与える。 そうした夢解釈は、「創造的解釈」の要素を多分に持っている。 もちろん、夢解釈は芸術とはまったく違う。 夢を報告するクライアントは、セラピストの創作芸術を聞きに来ているわけではない。 あくまで、その人が抱える問題解決の過程で行われるものであって、その解釈がその人の問題解決と絡み合って行くのだ。

私は、知的財産法の制度論も、似たところがあると思う。 人の思いはメタファに溢れている。 「その思想はあなたの“もの”だ。」と我々が感じるとき、それはひとつのメタファだろう。 そして知的財産法の在り方を考える者がやるべきことは、そのメタファを創造的・構成的に解釈することだ。 メタファの背後にあるものを考えつつ、しかもメタファに囚われることなく、制度論という形に創り上げていくのだ。

このように、知的創作に関して人々が表出するメタファは、それをして得心せしむるために利用すべきものというよりは、知的財産法のあるべき姿を考えるための鍵を内包している貴重なヒントとでも言うべきものであり、知的財産法の根本を支えるものとさえ言えるものだと思う。 少なくとも、そう考えることが、人々が表出するメタファをもっとも意義深いものにする「創造的解釈」なのだと思う。

そしてある法制度が「人々の思い」に支えられて存続しているとき、その法制度は、もはや人々の思いと独立に存在しているのではない。 つまりその法制度の「趣旨」や「目的」さえ、人々から表出されるメタファの根源(いわば法が見る夢)とのインテグリティをもって「解釈」されるものとなるのだと思う。

それは長い時を経て生き続ける「生き物」の「存在理由」や「目的」が、「解釈」としてしか論じられないとの同じなのである。

*    *    *

ということで、田村先生もぜひ、自身の中から湧き上がるメタファを形にする制度論を論じてくれたらいいなと思う。

功利主義を批判するドゥウォーキンを取り上げた上で、数十年にわたって「インテグリティとしての法という方法論に従って」(37ページ/481ページ)格闘してきたと語る田村先生の言葉は、田村先生が単なる「インセンティブ論者」ではなかったことをはっきりと物語るものだろう。 そしてその後で出された論文(パテント2019 Vol.72, No.9)で先生は、知的財産権はインセンティブ論だけでなく自然権論をも組み合わせた「二元論」により正当化されるのだと明言し、その参照としてこの講演録を引用している。 「二元論」という言葉は、昨年11月に行われた日本弁理士会の公開フォーラムでも先生の口から語られていた。

こうした展開を見ると、この講演録は、人間のより根本的なところに知的財産権の正当化根拠を求めようとする田村先生の立場を明らかにした一つの「道標」といえるだろう。 しかし田村先生の語る「二元論」は、知的財産権の根本にだけ存在しているのだろうか? むしろそれは、田村先生の心の中に、「インセンティブ論」だけでなく「正義論(自然権論)」が存在していたことを示唆しているのであり、それを期待するのだ。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

「先使用権」の正当化根拠と「進歩性」要件を「依拠性の擬制」で考える(前田健『先使用権の成立要件』特許研究 PATENT STUDIES No.68 (2019))


進歩性の要件について書いた前回の投稿を公開した後で、「特許研究 第68号」に掲載されている前田健先生(神戸大准教授)の論文『先使用権の成立要件 ― 制度趣旨からの考察 ―』を読んだのだが、その内容に驚いてしまった。 私の前回の投稿と密接に関連する内容がテーマとなっていたからだ。

私が前回書いたのは「進歩性」(特許法29条2項)の問題であるのに対し、今回の前田先生の論文は「先使用権」(特許法79条)の問題であるから、この二つは一見関係がないように見えるが、これらは特許制度の制度趣旨において関わり合っていると私は捉えている。 それが前回の私の投稿で触れた「依拠性の擬制」という観点だ。 前回の投稿で私は、進歩性に求められるべき「第1要件」について以下のように記載した。

[2019年10月9日の投稿より]
「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、・・・。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

つまり私の特許制度観は、発明者が行った発明がフリーライド(ただ乗り)されてしまうのを法制度として防ぐことによって、発明者が安心して発明を行い、それを公開できるようにし、また発明が秘匿されずに公開されることにより、それに触れた人々がその発明を(適法に)利用したり、さらなる発明を行ったりできるようにすることで、発明の奨励と産業の発展を図ろうとする制度だというものだ。 したがって、フリーライドとは言えないようなものに特許権が行使されるような事態にはなるべくしたくないのだが、例えばある特許発明に該当する発明を実施している被疑侵害者がいるとして、その人が、その特許発明を見てパクった(すなわちフリーライドした)のか、それとも特許発明など知らずに独自に開発した(すなわちフリーライドしていない)のかをいちいち判断するのは困難だから、そうした判断を不要とするために、フリーライドしているとみなせる範囲にだけ特許を付与することにして、その範囲の発明を実施している人は、本当にフリーライドしているかを問うことなく、フリーライドしているとみなして権利行使することを許すことにすればよいだろうと考えるわけだ。 「フリーライドしているとみなせる範囲」とはどういう範囲なのかというと、「その特許発明を見なければ、およそ独自に発明することは困難だろうとみなせる範囲」だ。 したがって、そういう「範囲」がとれないような発明、すなわち、「お前の発明など、お前がいなくても、誰かが近々発明するだろう。」というような発明は、特許をあげてはいけないということになる。 そういうものを特許にしてしまうと、その後で同じ発明を独自に発明した人が続出して、そういう人たちが迷惑するし、「特許制度って邪魔なだけの制度だ」という気分が広まってしまうことにもなる。 したがって、 フリーライドだとみなせる範囲にだけ特許を付与すること、すなわち、「依拠性を擬制できる範囲」にだけ特許を付与することは、特許制度を円滑かつ安定に運用していくために望まれるのでないか、と私は考えているのだ。

例えば、上の文中で言及されている Sotoku 6号(2016)の脚注111で私は、以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
 特許権が権利行使できる範囲に「依拠性」が擬制できることは、出願時点にだけ求められることではないだろう。 つまり、権利行使できる範囲に含まれる発明は、もしその特許発明がなければ、その特許権の存続期間中のそれなりの期間にわたって、独立してなされることはないことが求められるのではないか。 放っておいてもすぐに誰かが発明するようなものについて、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるのは「依拠性の擬制」の観点からは違和感がある。 そうすると、ある技術分野において“出願競争が起きている”という状況は、一見すると華やかで、特許制度がうまく活用されているように見えるとしても、結局は一番乗りを果たした者に、その発明に何ら依拠性がない後行者の実施をも排他できる権利を与えるという状況が発生していることを意味しているのだから、特許制度が失敗していることを示唆しているのかも知れない(その典型例が上述のヒト遺伝子の物質特許だろう)。・・・。
 ところで特許審査における進歩性の判断にあたっては、一般に「顕著な効果」(あるいは「有利な効果」、「予期せぬ効果」、「驚くべき効果」)が参酌され、たとえ先行技術から一見容易に発明することができるものであっても、「顕著な効果」があった場合は進歩性があるものとして特許が認められることがある(平成27年9月改訂審査基準第III部第2章第2節3.2.1)(宮崎賢司, 知財立国の発展へ 竹田稔先生傘寿記念, 中山 信弘ほか編 (2013) 715-737も参照)。 しかし、「依拠性が擬制できること」を重視する限りは、上述の通り、放っておいてもじきに誰かが発明し得るようなもの(時間経過と共にじきに依拠性が擬制できなくなるもの)に特許を与える必要はないということになるから、「顕著な効果」があったからといって特別に特許にする必要はないということになる。 この問題については、最近でも例えば田村が考察しており、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるような事例について、「・・・発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 なお田村は「フリー・ライドの禁止」を理論構築の出発点としているから(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)、「依拠性の擬制」に基づく本稿の考え方が田村の結論に近づくのは当然かも知れない。

ところが、「依拠性」が犠牲できないのが「先使用」、すなわち、特許出願した者ではない者が、同じ発明を独自に行ったことが明らかな場面だ。 「依拠性」が擬制できる範囲に特許権を及ぼそうと考える限り、依拠性が擬制できないことが明らかな「先使用」に対しては、特許権が行使されないようにする何らかの手当てが必要だろう。 そのために設けられているのが特許法79条だと捉える。 Sotoku 6号の脚注114で私は、「先使用権」がなぜ正当化できるのかについて、「依拠性の擬制」の観点から以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注114]
脚注114
 「先使用権」について考えると、現在の日本の制度では、先使用者は「出願前」に「実施や実施の準備」を開始していることが、先使用権が認められる条件となっている(特許法79条)。 実施や実施の準備に入っていたのが「出願前」なのであれば、その実施は、出願に係る発明に依拠していないことが客観的に示唆されるから、「依拠性の擬制」の観点からも、権利行使できないことにするのは納得しやすい。 但し、「出願前」でなくても、出願に係る発明の「公開前」に実施や実施の準備を開始したのであれば、その発明に依拠していないことに変わりはないから、「公開前」に実施等を開始した場合も先使用権を認める方がよいことになる(・・・)。 しかし「公開」とは特許出願の公開公報の発行に限られるものではなく、それより前であっても出願人が出願後に様々な手段や程度で公開しうるものであるから、それらを考慮しつつ先使用権を認めるか否かを決定することにすると、制度は今より複雑で予測性の低いものになってしまうかも知れない。 また、「実施や実施の準備」を条件とすることについても、たとえ「実施や実施の準備」を開始していなくても、第三者が発明を完成させたのが出願より前であることが明らかであれば、その発明は出願に係る発明に依拠していないことになるから、その発明についてその第三者に無償の実施権のようなものを認めてもよいと考えることもできる(・・・)。 しかしそうすると、第三者の発明について、発明した時期や、一体何を発明したのかを見極めることが必要になってしまう。 制度の運用を面倒なものとしないために、「出願」で時期を区切ったり、「実施や実施の準備」という外からでも検証しやすい行為があったことを条件とする現在の先使用権の制度は、「依拠性の擬制」の観点からも最低限の機能は果たしていると言えるだろう(もっと先使用権が認められる範囲を拡大する余地はあるだろうが)。 なお出願後に実施形態を変更すると先使用権が認められなくなり得るのは、出願後はその出願に係る発明が公開されているかも知れず、変更後の実施形態が出願に係る発明に依拠していないことが外形的に明らかではなくなるからだと理解してみることができる(逆に言えば、単なる時代の変化に伴う実施形態の変更など、出願に係る発明に依拠していないことが明らかな変更は認めてもよいと考えることはできる)。
 先使用権の趣旨に関してはこれまで、「公平」、「発明や実施のインセンティブ」、「占有状態の保護」、「経済的損失の防止」などの観点で説明がなされている(麻生典, 慶應法学第29号(2014)233-269の248ページ以降に紹介されている学説等を参照)。 これらの中から本稿に近い見解を探すと、例えば牧野は、「・・・、先使用権制度を支える根拠は、最先の出願に先立って、これとは別個に独自の精神的創作としての発明を完成したことにあると解すべきであろう。」とした上で、「・・・、先使用権制度の根拠の中心に、前示のように最先の出願に先立つ発明の完成を置くとすれば、事業又は事業の準備の程度の判断には、・・・、発明の完成の客観的外部的表示としての意義が重視されることになるであろう。」(下線追加)(牧野利秋, 知的財産権訴訟寸考 (2002) 東京布井出版の191-192ページ)と論じている。 出願前に実施や実施の準備を開始していたことを、出願に係る発明とは独立に発明を完成させたことの外部的表示だと捉えている点で、これを出願に係る発明に対する「依拠性」がないことの外形的な表示だと捉える本稿の考え方と重なるものがある。 また森林は、「先使用権制度を設けた趣旨は、出願当時、特許出願に係る発明に由来せずこれと別個に、同一性を有する発明について、すでにその実施の事業をなしまたはその実施の事業の準備ができた程度にまで至っている者については、その実施または実施の準備は特許出願に係る発明に由来せずこれから何らの寄与もうけていないことが客観的に明らかであり、・・・」(下線追加)(森林稔, 企業法研究 (1969) 175輯, 12-20の13ページ)と論じており、特許発明の「寄与」(すなわち使用者側から見ると「依拠性」)がないことの外形的な表示に着目している点で、本稿の考え方と通じるものがある。
 ・・・。
 ともかく、特許制度には「依拠性の擬制」の観点で再考できそうな問題が広範囲にわたって存在し、発明の保護範囲や権利行使の許否を考えるにあたって1つの物差しを与えてくれるように思われる。 本稿の本文や上の脚注で述べたことからすると、PBPクレームの解釈問題も、先使用権の問題も、機能クレームや均等論の問題も、広すぎる遺伝子の物質特許が引き起こすアンチ・コモンズの問題も、パイオニア発明に開示要件を超えた広い権利範囲を与えてよいのかという問題も、すべて「依拠性」の判断を不要とした絶対的独占権の制度が宿命として持つ歪みから生じていると言えそうである。 つまり、依拠性をうまく擬制することが、絶対的独占権制度の納得感を高めるためには求められると思われるのである。

*   *   *

さて、前置きがかなり長くなったけれど、以上のようなことを私は考えているわけだ。 上の文章を書くにあたって私は、先使用権に関する過去の文献をざっと当たってみたけれど、「依拠性が擬制できない」ということを先使用権の正当化根拠として前面に打ち出している文献はあまり見当たらず、上記のように、牧野先生や森林先生の比較的古い論文が見つかっただけだった。ところが、今回の前田先生の論文では次のように論じられているのだ。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 21ページ]
(1)はじめに
 特許法においては,依拠性要件を侵害成立に要求せず,独自創作をした発明者であっても権利行使を受けることが当然とされている。一方,先使用権の場面では,その原則が修正され,特許発明に依拠しない発明の実施に対する権利行使が禁止される 18)。この意義を理解するには,そもそもなぜ特許法では依拠性が不要とされているかを考察する必要がある。

(2)「模倣」でないものに対する権利行使は正当化できるか
ア 権利行使が正当化できる場合
 多くの知的財産法においては,原則としては,他者の成果にフリーライドしたことが違法性を基礎づけている。

[同 22ページ]
・・・。
 この観点からは,・・・,知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。 この理解の下では,依拠性を求めない特許制度について,なぜ依拠性を要求しないのかが別途正当化される必要があることになる。

[同]
 特許法において独立した発明への権利行使が正当化できる理由として,まず @ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。

[同]
 イ 権利行使が正当化できない場合

 以上,本稿の理解では,模倣でない独立した創作への権利行使が正当化されるのは,@ 特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できること,A ・・・ という条件が成り立つからである。 ところが,先使用権が成立するような場面では,この条件が満たされない。・・・。
(「A」については後で触れるので上の引用では省略した。)

このように前田先生は、「知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。」と論じ、それなのになぜ特許権の行使にあたって「依拠性」が要件となっていないのかについて、「特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できる」からだと説明している。 そして「先使用権」の正当化根拠の重要な柱の一つは、特許発明への依拠性が擬制できないことだと論じているのだ。

前田先生がこのように考えているのだとしたら、話は早いのではないか? つまり、私が今年の4月くらいから延々と書いてきたこと、すなわち「依拠性が擬制できないような発明」、具体的には、その特許発明が公開されなくても当業者の誰かが同じ発明に行き着くのは時間の問題であったと目される発明は、たとえ予想外の「顕著な効果」を奏するとしても特許を与えてはならないという結論に行き着かなければならないのではないか。

特許発明には一般に「依拠性」が擬制できる理由として前田先生は、上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」と指摘している。 私も、依拠性が擬制できる状態だと判断するために、「その特許明細書を読んだ」ことが要件となるわけではないことには同意できる。 それについては私も Sotoku 6号 の脚注120で、「・・・、特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない。」と書いているとおり、いったん発明が公開されれば、それを基に他の発明がなされたり、それが利用されたりすることで、知らず知らずのうちに、その発明は広がって行くものなのだろうから、ことさらその発明を利用しているつもりはなくても利用しているということになるだろう。 しかしながら、どんな発明でも、その発明を公開しさえすれば依拠性が擬制できる状態になると考えるとすれば、かなり乱暴な推定だ。 例えばその発明が、ことさら公開されなくても皆が到達するのは間近だったような場合は、依拠性が合理的に擬制できる期間は、せいぜい皆がその発明に到達すると推定されるまでの間であって、特許存続期間の20年にわたってそのような擬制が合理的に成り立つわけではない。 そうすると、そのような発明について特許を20年も存続させることは、「依拠性の擬制」の観点からは正当化できないというべきではないか? もっとも、特許明細書が公開され、その技術分野の全員がその知識を得たと仮定するのなら、知ってしまった以上、同じ発明を「独自に」発明するということは永久に起こらなくなるのではあるが、だからといって、20年にわたって独占権を行使することを正当化できることにはならないと私は思う。

ということで、特許制度において「依拠性」が要件になっていないことの正当化根拠を「依拠性が擬制ができる」からだと捉えるのなら、依拠性が擬制できる期間が短いと評されるような発明、すなわち、「放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明」(私の言う「進歩性 第1要件」を満たさない発明)には、特許を与えてはならないと考える必要があるだろう。

*   *   *

「重複投資の防止」は「依拠性不要」の主要な正当化根拠となるか

上の引用ではあえて省略したのだが、今回の前田論文では、特許権の権利行使にあたって「依拠性」が要件とされないことの正当化根拠として、「依拠性が擬制できる」ことと並んで、「重複投資の防止」が挙げられている。 具体的には以下のように論じられている。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 22ページ]
 より積極的に依拠性不要を正当化する理由として,A 重複した発明への投資を抑制するということが考えられる。もし,独立発明であれば権利行使されないとしたら,特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。過去の発明の成果を参照させつつ,技術を迅速に進歩させることが特許法の目的だとすると,そのような行動は決して望ましくない。このような重複投資の回避も依拠性不要の根拠となると考えられる。

このように前田論文では、依拠性不要の正当化根拠として、「@ 依拠性が擬制できること」だけでなく、「A 重複投資の防止効果」という理由も重視しており、前田論文においては常にこの2つがセットで登場する。

しかし、A の理由は私にはあまりピンと来ない 。 A の理由は、無理やり「功利主義」的な説明を試みたもののように見えてしまう。

前田先生は、上記の @ の理由、すなわち依拠性が擬制できるということは肯定しているわけだ。 具体的には上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にある ・・・ 。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」 と論じている。 それを前提として考える場合、前田先生が懸念している「特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。」というのはどういう状態なのだろうか。 その特許発明はすでに「人類の共有財産として技術水準を構成している」のであって、たとえその明細書を読んでいなくても、技術水準の上昇にキャッチアップしている限りは、「技術水準にある成果を広い意味では参照している」とみなされることになるのだろうから、その明細書を読んでいるか否かにかかわらず依拠性は肯定されるはずだ。 そういう状況で、なお「過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資する」ことなどできるのだろうか。 山にでも籠って、外界からの接触を絶って研究しないと無理なのではないのか。 そういう変わった人が増えることを想定して依拠性を不要とする制度を作ることが、制度構築にあたってそれほど強い要請なのかは、やや疑問に感じてしまう。

ただし、「依拠性」を要件とすると、「私はその明細書など見たこともないし、依拠していない!」などと主張する被疑侵害者が出現して、そういう人たちは、技術水準を共有していて、間接的にはその特許発明に依拠していると言える場合であっても、訴訟になったりして社会的に混乱が生じるかも知れないとは思う。 だから、それを未然に防ぐために「依拠性」を不要とする制度とすることは重要なのだ、と説明するのならまだ分かるのだけれど、それは「重複投資の防止」という効果を達成するためというよりは、「社会的混乱」を回避するためという方がぴったりくるような気がする。

それに、最も重要なのは、「そもそも依拠性を判断することは困難だ」ということだと思う。 前田先生が「明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成している」と指摘しているとおり、「特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない」(Sotoku 6号の脚注120)。 「そこで、第三者の行為の真相を確かめることなく判断ができるようにするために、『第三者の行為は、その発明を流用する意図をもって行ったものだろう』とみなしてもよいような画一的な条件を設定し、その条件が満たされれば、第三者の行為の真相を明らかにすることなく権利を行使できるようにして、制度を円滑に運用できるようにすることが望まれるかも知れない。」(Sotoku 6号の33ページ右欄)。 そうした方策として採られているのが、現在の特許制度に内包されている「依拠性の擬制」による依拠性要件の不要化なのだと捉えるのが私の考え方だ。 それにより、上で述べた「社会的混乱」の回避も期待することができる。

以上のとおり私は、特許制度が依拠性不要になっていることの最も大きな理由は、依拠性を要件としたのではそもそも制度として運用が困難だという点にあるような気がしている。 ただし、重複投資の防止効果はないわけではないだろうし、「防衛出願の防止」よりは、高い効果が見込めそうな気はする。

*   *   *

さて、ついでなので、今回の前田論文の中で言及されている他の先生方の論文の中で、今回の話題と関連する部分について見てみたい。

前田論文の21ページ左欄には、田村先生の論文(田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158)と、𠮷田先生の論文(𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210)について言及されている。 このうち、田村先生は以下のように論じている。

[田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158 の脚注14]
14 ・・・、そもそもの前提として、特許権侵害が成立するためには侵害者が特許発明に依拠したことは必要とされていないことが出発点となる。依拠が不要とされていることは、先使用権の制度の趣旨の論理的な前提となるので、ここでまとめて説明しておこう。
 独自発明者といえども、特許法79条の先使用権の要件を満たさない限り特許権侵害の責を免れえない。 この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。 ただし、この公示制度により第三者の不測の不利益が完全に防止されるわけではない。 第三者は、特許権が登録された暁には、特許権者からの差止請求に服さなければならないからである。 特許法が規律する技術の世界は効率性の世界であり、早晩、同じような発明をなす者が出現する可能性が小さくない。 特許権の内容を空虚なものとしないためには、独自発明者に対しても権利を行使しうるように制度を設計する必要があり、出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである (田村・前掲注13 (第 5 版) 439頁)。

上の文章はちょっと分かりにくいが、先使用権が認められるために、なぜ「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないのかを説明しているのだと私は理解した。 すなわち、特許法は先使用権を認めるための条件として、「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないという要件を課しているのだが、「この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。」と田村先生は論じ、「だったら『出願公開前』に実施や実施の準備をしていれば先使用権は認められるべきで、『出願前』にする必要はないじゃないか!」という反論に対しては、出願が公開されるまで待っていたのでは「早晩、同じような発明をなす者が出願する可能性が小さくない」から、「特許権の内容を空虚なものとしないため」に、「出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである」と田村先生は論じているのだろう。

しかし、この説明もどうなのであろうか・・・。 田村先生は昔から、フリーライドを防ぐことが特許制度の目的だとおっしゃっているはずだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ;同 Vol.51 (2018) 1-46 の40ページ)。 それなのに、出願から1年半後に公開されるまで待っていたのでは、特許権の内容が空虚なものになるほど独立発明者が出現するような発明にも特許権を与えてよいと思っているのだろうか? 出願から1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明は、たとえ特許存続期間中に、その特許発明を実施した者がいたとしても、特許発明を「フリーライドしている」とは言えないと思うのだか・・・。 もし田村先生が、特許法の法目的は「フリーライドの防止」だと思うのであれば、フリーライドしていない者には特許権が行使されないような制度を目指さなくてはならないはずで、1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明に特許を付与してはならないという結論に至らなくてはならないのではないか? そうだとすれば、先使用権に関して上のような説明をするのはおかしいのではないかと思ってしまう。

*   *   *

𠮷田先生の論文に対しても、基本的に田村論文に対するのと同じことが言える。 具体的には、𠮷田先生は以下のように論じている。

[𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210 の脚注4]
 実際のところ、出願公開までは通常18ヶ月少々を要していることを考えると、公開時基準では多くの特許権が先使用を抗弁されてしまうだろう。 技術の進歩が著しく速い先端技術では、ライバルのほとんどが先使用者となってしまいかねず、特許権が骨抜きになる危険性がある。 特許法の趣旨、および現実的な観点からも、出願時基準は落とし所としては穏当であろう。

同じ内容は、𠮷田先生の別の論文(パテント Vol. 56, No. 6 (2003) 61-77)の脚注(3)にも記載されている。

しかし、わずか1年半でライバルのほとんどが独自に発明してしまうようなものにも特許が付与されるというのが𠮷田先生の特許制度に対するイメージなのだろうか。 だとすればまさに、「皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できる。」(8月30日の投稿参照)というのが特許制度だということになってしまうが、私はそれでいいのかと思ってしまう。

私は、先使用権の発生要件として、「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしていることを求めること自体は、まぁ許容できるかなと思っているけれど、その主要な正当化根拠が「1年半で他者に追いつかれてしまうから」というのはどうにも腑に落ちない。 𠮷田先生も田村先生も、最近の論文によれば、「パブリック・ドメイン・アプローチ」というものを重視しているはずだ。 「パブリック・ドメイン・アプローチ」の観点からして、1年半で追いつかれてしまうような発明に20年の独占権を与えることが妥当と言えるのかどうか、ぜひ論じてほしい。

*   *   *

とはいえ、上の引用で𠮷田先生が「技術の進歩が著しく速い先端技術では」と限定をつけているように、技術分野によってはそういうことも正当化する余地はあるのだろうと私も思っている。 具体的には、技術の進歩が著しく速く、今存在している技術は、数年のうちに陳腐化して誰も使わなくなってしまうような技術分野だ(そんな技術分野があるのかは知らないが。)。 Sotoku 6号で私は次のように書いた。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
・・・ 発明の寿命が短く、特許を取得しても数年で誰も使わなくなってしまうような技術分野であれば、特許期間が長くても実際上弊害は起きないと言えるから、出願競争が起きている状態も許容できるということになるかも知れない。

数年で誰も使わなくなってしまうのなら、たとえ特許期間が20年間存続するとしても、数年以降は誰も使わないのだから、排他権があっても、事実上、誰も排他されず、もはや特許がなくなったのと同じ、すなわち、特許存続期間が数年になったのと同じ様相を呈する。 その場合は、依拠性が擬制できるのが数年しかないような発明に特許を与えても、特許権が機能するのは事実上数年なのだから大目に見てもいいだろうと言うことはできるのかも知れない。 しかし、そうしたことが当てはまるのは、「数年で誰も使わなくなる」という技術分野に限られるのであって、たとえそうした技術分野であっても、本来であれば特許存続期間を数年に設定した上で特許を与えるべきものだ。 それが当てはまらないような技術分野、例えば、20年どころか、延長制度を使って25年、そして用途特許などを利用してそれ以上の期間にわたって事実上の独占を図ろうとされることも多い技術分野においては、そうした考えは妥当しないというべきで、短い期間しか依拠性が擬制できない発明に、たやすく特許を与える合理性はないと考えるべきだろう。

*   *   *

ということで、「依拠性の擬制」ということを前面に打ち出した前田先生の画期的論文について、「進歩性」の要件に絡めて書いてみた。 前回の投稿で私は、前田先生について、「上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい」と書いたけれど、前田先生の今回の論文を読んで、その期待は私の中で高まってしまった。「アレルギー性眼疾患」事件という個別の発明がどうであるのかはともかく、少なくとも一般論としては、進歩性の考え方に関して前田先生が私と同じようなことを書いてくれるのを期待しよう。^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

「二次的考慮説」は生き残れるか(アレルギー性眼疾患事件 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日判決)


「アレルギー性眼疾患事件」最判(平成30(行ヒ)69 )における顕著な効果の位置付けに関して、9月16日にイノベンティアの飯島歩先生の評釈が公開された。 その中で飯島先生は、最判の判示事項について次のようにコメントされている。

[飯島歩,イノベンティア・リーガル・アップデート,2019/9/16 より](強調は私が入れた;以下同)
これらの判示事項は、進歩性判断において、顕著な効果を構成の容易想到性とは別個の要件に位置付け、明細書に記載された効果をもとに、引用発明を組み合わせるなどして導かれる発明を基礎として効果の予測可能性を判断する独立要件説に近い考え方を採用したものといえます。

そのように考える理由の一つとして飯島先生は、判決の拘束力との関係を示唆している。 具体的には次のとおり。

[同上]
本件においては、前訴の取消判決により、発明の構成が容易に想到可能なものであることについて、拘束力が生じていました。本判決は、そのような状況にあっても、なお、予測できない顕著な効果について審理を尽くさせるとの判断をしています。これは、構成の容易想到性について判断を示した取消判決の拘束力が顕著な効果の判断には及ばないことを前提としています

つまり「顕著な効果」についての審理は、「発明の構成」の容易想到性の判断からは何らかの形で独立しているのではないか、ということが示唆されるということだ。 ここで、「発明の構成」とは何かということが問題になりうるが、ここではとりあえず、「発明の構成」とは、「クレームの文言で特定される発明」をいい、クレームの文言から直接は把握できない「発明の効果」や「効果の程度」を考慮しないもの、とでも考えておこう。 但し、昨年6月22日の投稿でも書いたとおり、本件発明のクレームは「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、・・・」という用途的な表現が含まれていることに注意が必要だろう。 すなわち、本件発明は純粋な物のクレームではなく、「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途的表現がクレーム中に記載されているのだから、これらは「発明の構成」とみなされるべきものだ。 よって、「本件発明の構成は容易」だというからには、本件化合物をともかくも「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」という用途に用いることや、ともかくも「ヒト結膜肥満細胞を安定化」(具体的にはヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する)という用途に用いることは、容易であることは既に確定しているとみなされなければならないだろう。

さて、飯島先生の上記の解説のとおり本件は「発明の構成は容易想到」ということが前訴判決において確定して拘束力が生じている状況であるにもかかわらず、最判は、なお「顕著な効果」について審理を尽くせと判示したことになる。 よって、もし「顕著な効果」によって今後本件発明の進歩性が肯定されうるのだとすれば、「本件発明の構成は容易想到」であるにもかかわらず、なお「本件発明は進歩性がある」ということになるだろう。 そういうことが、果たして「二次的考慮説」と整合性があるのか、ということが問題になる。 もし整合性を取るのが難しいのであれば、今回の最判は、「二次的考慮説」の存続に重大な影響を与えることになるのかも知れない。

「二次的考慮説」について飯島先生は次のように解説している。

[同上]
・・・、顕著な効果を進歩性判断の基礎とするとの理解は、・・・特許法29条2項の条文から直接導くことができません。 そのため、これを進歩性判断の構造の中でどのように位置づけるかについて、種々の考え方があり、大きく分類すれば、主引用発明を出発点とする発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方(二次的考慮説)と、構成の容易想到性とは別の、独立した進歩性の判断要素とする考え方(独立要件説)に分かれます。

飯島先生が解説しているとおり、通説的な「二次的考慮説」とは、発明の効果を「発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方」だ。 すなわち「二次的考慮説」によれば、「顕著な効果」は、あくまで「発明の構成」が容易想到であるか否かの判断を行うにあたって考慮される一事情に過ぎない。 したがって、もし「顕著な効果」によって進歩性が肯定される場合、「二次的考慮説」では、「顕著な効果を考慮した結果、その発明の構成は容易想到ではない」と結論することになるのだ。

そのように結論するために、「二次的考慮説」論者がどのように考えているかは、4月24日の投稿で取り上げた前田先生の論文にあらわれている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

ところが上述のとおり本件の場合は、「本件発明の構成は容易想到」であるということが、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)においてすでに確定しているわけだ。

この状況で、本件発明の顕著な効果を審理することは、「二次的考慮説」の立場で可能なのだろうか? 可能なのであれば、一体どのように審理するのだろうか。 これは結構興味深い問題ではないか。

なお中村合同の高石秀樹先生が9月26日に公開した今回の最判の解説でも、前訴判決が確定していることと「独立要件説」との関連について次のように論じられている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供 より]
本最高裁判決及び原判決が進歩性を判断した審決取消訴訟の判決の拘束力の範囲について ・・・ 何れの考え方に立脚したかについては諸説あり得るが、知財高裁(二次)において “動機付けあり、相違点は容易想到” という知財高裁(一次)判決が確定したという経緯であるにもかかわらず、「予測できない顕著な効果」の有無について判断したものであるから、このような経緯を前提とした結論であったとするならば、理論的・形式的には、・・・、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の位置付けについては “独立要件説” に親和的であったと評価できる。
(但し、上記の高石解説では、「もっとも、本最高裁判決及び原判決は、・・・ 何れの考え方に立脚するかという点を棚上げにしたものとも理解可能である。」とも論じられている。)

このように、飯島先生も高石先生も、今回の最判は「独立要件説」に近いと論じており、「二次的考慮説」には苦しい状況だ。 この状況で「二次的考慮説」が採りうる立場をいくつか考えてみる。

(1)「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える。

「二次的考慮説」が採りうる一つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える立場だ。 なおこの考え方は、上で触れた9月26日の高石解説の「3(1)」の前半部分で紹介されている考え方と同じだ。

上記のとおり、通説的「二次的考慮説」において「発明の効果」は、あくまで「発明の構成」が容易か否かを判断するために考慮されるに過ぎない。 そして前訴判決では「本件発明の構成は容易」だと判示され、その判断は確定しているわけだ。 これを文字通りに捉えるのであれば、「本件発明の構成は容易」だということが確定している以上、「発明の効果」がどうであれ、「本件発明の構成は容易」ということは動かしようがないのだから、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えざるを得ないだろう。 こう考えると、この立場こそ、通説的「二次的考慮説」論者が採れる唯一の立場だとさえ思えてくる。

では、そもそも原審(平成29(行ケ)10003)ではなぜ「効果の程度」が判断されたのだろうか? これについては、次のように考えればよいだろう。

つまり、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「効果の程度」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので進歩性は認められないことについて確認的に判断したのだと捉えるのだ。

そして最判(平成30(行ヒ)69)は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性の判断が変わりうることを示唆したわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審において「顕著な効果」が肯定されるとしても、進歩性がないという結論は変わらないということになる。 つまり最判は、「進歩性なし」という原審判決の結果にとっては意味のないことを判示したことになる。 見る人によっては、この(1)の立場は最判に肩透かしを食らわせるような立場に見えるかも知れない。

(2)「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考える(修正主義)。

「二次的考慮説」が採りうる二つ目の立場は、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考え直すという立場だ。

「効果の程度」を考慮しない場合には、「本件発明の構成」は容易想到であるが、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 発明が持つ予想外の効果は、発明を行い、それを実施して、結果を見てみなければ分からないものだが、その結果、「予想外の効果」がない場合は「本件発明の構成」は容易想到だと考え、「予想外の効果」があった場合は「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 この考え方は、発明を行った結果を見てから、発明をすることの容易想到性(すなわち「発明の構成」の容易想到性)を決めるという、過去を書き換えるような考え方であることから、私は「修正主義」と呼んでいる(2019年04月24日の投稿を参照)。

そして、たとえ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」が容易想到だと判断され、それに拘束力が生じているとしても、「顕著な効果」を認定した上で「本件発明の構成」を容易想到ではないと判断することは、前訴判決の拘束力に違反しないと捉える。

「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」と、「顕著な効果」を認定した場合の「本件発明の構成」は、たとえ「発明の構成」は同じであっても違うのだと考える(そんなことが可能なのか?)。

この考え方は分かりにくいし、人によっては受け入れがたい考え方かも知れない。 容易であることが確定しているものを、容易ではないと言い直すことになるのだからね。 しかもこの考え方は、進歩性を認めるか否かという最終結論において、独立要件説と違いが生じるのかがよく分からない。 但し、「修正主義」であることを露呈させてはばからないという点については、次の(3)よりは潔いと言えるかも知れない(笑)。

(3)「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える。

「二次的考慮説」が採りうる三つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える考え方だ。

「本件発明」は、あくまで発明の構成とその効果等が一体となったものであるので、「本件発明の構成」が容易想到であることは、「本件発明」が容易想到であることを意味するものではないと考える。 そして、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、「顕著な効果」と一体のものとして捉えた「本件発明」は容易想到ではないと判断することはできるのであり、効果の程度を一切考慮せずに結論を出した前訴判決(平成25年(行ケ)10058)の拘束力は及ばないと捉えるのだ。

ちなみに発明の容易想到性を判断するにあたって、「発明の構成」の容易想到性のみに着目するのではなく、「効果」をも考慮した「技術的思想」(構成及び効果)として発明を捉えて容易想到性を判断した知財高裁の裁判例があることについて、高石秀樹先生が2016年2月の投稿において論じている(「破袋機」事件;平成27年(行ケ)10035)。

また、9月26日の高石解説でも、「3(1)」の後半部分に次のように記載されている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供
もっとも、発明とは「技術的思想」であるから(特許法2条1項)、構成のみではなく、課題及びその解決原理も含むと理解されている。それ故、本件発明と主引用発明との課題が異なることを理由に副引例発明との組み合わせの動機付けが否定され、進歩性が認められた裁判例が多数存在する。

この考え方を押し進めると、「発明」は構成及び課題(+解決原理)であるところ、更に、課題と密接に関連する「効果」も「発明」に含まれ、容易想到性の判断対象となりうるのである。そう考えれば、構成自体が容易想到であるとしても、未だ「発明」が容易想到か否かは結論されておらず、「課題」や「効果」の容易想到性もなお問題となると考えられる。

しかしこの考え方は、実質的には上記の(2)と変わらないようにも思う。 上記の(2)の考え方は、「効果を考慮して発明の構成を捉えている」のに対し、(3)はそれを「技術的思想」と言い換えただけではないか? それに上記(2)と同様に、もし「顕著な効果」があれば「技術的思想として容易ではない」とみなすというのなら、それは事実上「独立要件説」と変わるところがないようにも思う。 なお高石先生は、上で示した2016年2月の解説投稿で「破袋機」事件判決の考え方が「二次的考慮説」(間接事実説)に親和的である旨を解説しているが、8月27日の私の投稿の最後にも書いたとおり、「独立要件説」を採っているようにみえる「シュープレス用ベルト事件」判決(平成24年(行ケ)10004)でさえ高石先生は「二次的考慮説」に親和性がある旨を解説している(前田先生も同様)。 しかしそうなると、「二次的考慮説」は「独立要件説」と何が違うのか本当に分からなくなる。

「シュープレス用ベルト事件」判決がなぜ「二次的考慮説」に親和的であるのかについて、9月26日の高石解説は、裁判所が「甲第2号証に接した当業者が,・・・ 動機付けられることがあるとしても,本件発明1が,・・・ ,当業者といえども予測することができない顕著な効果を奏するものであることに照らせば,本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず,進歩性があると認められる ・・・ 」と判示していることを指摘し、『同判決は、「動機付けられることがあるとしても ・・・」と述べながら、結論としては、「本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず」と結論付けていることから、“従属要件説”(=二次的考慮説・・・ )に立つと理解できる。』と論じている。 しかし、判決文の最後のシメのところに「当業者が容易に想到するものであるとはいえず」というフレーズをポコッと入れたら、それだけで「二次的考慮説」に分類されるというのが高石先生の分類分けなのだろうか? もしそうだとしたら、8月27日の投稿の最後でも書いた通り、そういう「二次的考慮説」は、やっぱり「独立要件説」と変わるところはないよね、ということになると思う。

もし「二次的考慮説」論者が(2)(3)のような考え方を採るのなら、「独立要件説」と何が違うのかが明らかにされなければならないだろう。 もし「二次的考慮説」と「独立要件説」とで、進歩性の有無に関する結論に差が生じないのなら、そんな「二次的考慮説」など要らない、ということにもなりそうだ。

なお、9月26日の高石解説によれば、「二次的考慮説」論者であるはずの神戸大の前田健先生が、本事件において、上告人(特許権者)側の鑑定意見書を書いておられるのだそうだ。 私は、2019年4月24日の投稿「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」を書いているときから、前田先生は “隠れ独立要件説” 的だと思っていたから別に驚きはないが、ご自身が「二次的考慮説」とどのように整合性をとられているのかが気になる。 前田先生がいずれ出すであろう論文を待ちたいが、意見書を書いたことによって、今後の論考において心理的な不自由さが生じないか少し心配だ。 学者は当然そういうことから自由であるべきだから、上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい(笑)。

*   *   *

さて、他人の説を取り上げるだけでは何なので、私の進歩性の考え方を採る場合に今回の事件をどう捉えられるのかについても考えてみたい。 上で取り上げた「二次的考慮説」と同様、私の考え方でも苦しいことに変わりはないが、無理やり考えてみよう。

私の考え方とは、2019年8月30日の投稿や前回の投稿でも書いたとおりで、進歩性を2つの要件で判断する。 1つ目の要件(進歩性の第1要件)は、「放っておいても近々誰かが発明するようなものか?、あるいは発明まで一本道であったか?」を問うもので、「予想外の発明の効果」によって判断が左右されない要件だ。 そして、もし答えが Yes である場合は進歩性は否定される。 2つ目の要件(進歩性の第2要件)は、「“発明の効果” 等を考慮して、ありきたりな発明のたぐいだと評されるか?」を問う「意味づけ要件」だ。 これは「予想外の発明の効果」によって判断が左右されうる要件だ。 そして、もし「ありきたりな発明のたぐいだと評される」のであれば、やはり進歩性は否定される(下図)。

[あるべき進歩性の判断手順]
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進歩性を二段階で判断するという点では、上記の考え方は「独立要件説」と似たところがあると言えるのかも知れない。 しかし「独立要件説」は、「発明の構成が容易ではないこと」と「顕著な効果」という2つの要件のどちらか1つでもを満たせば進歩性が肯定されるのに対し、私の場合は、上記の「第1要件」と「第2要件」を両方とも満たさなければ進歩性は認められないという点で、独立要件説とは異なっている。

ところで前訴判決(平成25年(行ケ)10058) は、「効果の程度」を考慮しない場合の本件発明(すなわち「本件発明の構成」)は容易だと判断した。 具体的には、本件発明の化合物が、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(ヒト結膜肥満細胞安定化作用)を有することを確認し、その作用を発揮させるための用途に用いることは容易想到だと判断した。 この前訴判決を私の考え方で捉える場合、判決が行った「容易想到」という判断は、私の言うところの第1要件(予想外の効果に依存しない要件)の判断なのか、それとも、第2要件(予想外の効果に依存する要件)の判断なのか、ということが問題となる。 つまり前訴判決は、「放っておいても誰かが本件化合物にはヒスタミン遊離抑制効果が存在すること(すなわち本件発明の構成)を発見することは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だという趣旨で判断したのだろうか、それとも、「本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在するというだけでは、でたらめ・ありきたりの域を出ないと評されるから容易」(進歩性第2要件)だという趣旨で判断したのだろうか。 このように、前訴判決の判断が「第1要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈と、「第2要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈が可能な場合、どちらの解釈を採るかによって、以下のように捉え方は変わってくることになる。

(A)前訴判決が「進歩性第1要件」を判断したと捉える場合

前訴判決は、「放っておいても本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在することの発見(すなわち本件発明の構成)に誰かがたどり着くことは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だと判断したのだと捉える場合は、上記(1)とほぼ同じこととなる。 すなわち、放っておいても誰かが本件発明の構成に到達することは容易だということが前訴判決において確定している以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えるほかない。

第1要件を満たさない以上、「顕著な効果」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審(平成29(行ケ)10003)では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので、第2要件の観点からも進歩性は認められないということについて確認的に判断したのだと捉える。

そして最判は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めうると言ったわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審で「顕著な効果」を肯定したとしても、進歩性がないという結論は変わらない。

(B)前訴判決が「進歩性第2要件」(意味づけ要件)を判断したと捉える場合

上で説明したとおり、私の考え方においては、第1要件と第2要件の両方が満たされない限り、進歩性は認められない。 したがって、進歩性の判断順序についても、必ず第1要件から判断しなければならないというものではなく、もし第2要件が否定されるのであれば、第2要件だけを判断して進歩性を否定してもよいわけだ。 そして、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)はそのような判断だったと捉えるのだ。

この場合、前訴判決は「効果の程度」を考慮しない本件発明は「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるから容易だと判断したのだと捉える。 したがって、「顕著な効果」があった場合になお「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるかについては前訴判決は判断していないのであり、その場合の判断には拘束力は及ばない。また、前訴判決は「第1要件」についても判断はしていないので、それに対しても拘束力は及ばないと捉える。

したがって、審理しうる事項に関して、原審(平成29(行ケ)10003)は広いフリーハンドを持っていた。 そして原審では、とりあえず「顕著な効果」を否定し、「第2要件」によって進歩性を否定したと捉える。

そして最判は、原審が行った「顕著な効果」の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めろと言ったわけではないと捉える。

差戻審では、「顕著な効果の有無」を再審理して、再び「顕著な効果なし」で「第2要件」により進歩性を否定することもできるし、「第1要件」を判断して進歩性を否定することもできる(とはいえ最判は顕著な効果について審理を尽くさせるため、と説示しているから、「第1要件」で進歩性を否定する場合であっても、「第2要件」を判断することは求められるだろうが。)。 もちろん、「第1要件」も「第2要件」も肯定して進歩性を肯定することもできる。

ということで、昨年の6月22日の投稿で私は、『一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思う』と気楽に書いたけれど、それは「顕著な効果」を考慮するか否かで進歩性の有無についての結論が変わりうる以上、それを審理することは「蒸し返し」ではないし、前訴判決ではあえてその部分は避けて審理されていたように見えたからだ。 しかし今回よく考えてみて、「独立要件説」を採るのならともかく、私の考え方で前訴判決(平成25年(行ケ)10058)との整合性を取ろうと考えると、上記のように結構苦しいという気が、今はしている。 それでも、上記のような考え方が採りえないとまでは言えないと思うし、特に(B)の考え方は原審や差戻審に対して広い自由度を与えられる考え方でもあるから、とりあえず上記の(B)の捉え方を推しておこうかな、と思っている。

とはいえ、そもそも私の考え方は誰も採用していないし、上で書いたいずれの捉え方も、判決を行った裁判官の人たちがそう考えていたはずもなく、あくまで判決の「解釈」(創造的解釈(笑))に過ぎないのではあるが・・・。

*   *   *

「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、「時間の問題であったか」というのは、いわば「時間的要件」だと言えるし、「一本道であったか」というのは、いわば「空間的必達性」みたいなものだ。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

逆に言えば、「第1要件」とはそういう要件なのだから、到達することが技術的手法として困難(険しい道)である必要はない。 たとえ技術的手法としての困難性はなくても、本件発明に至るには膨大な数の選択肢(つまり平坦ではあっても、たくさんの分かれ道)がある場合、すべての選択肢が試されるのが時間の問題であったという特別な事情があるのならともかく、そうでないのなら、多数の選択肢をすべて試すのは困難というべきであるから、本件発明が選んだ特定の選択肢を選択することは時間の問題、あるいは一本道であったとは言えないだろう。 したがって、そうした発明は「第1要件」をクリアできる。

ところが、現在の進歩性判断の実務では、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなしてしまうことが多い(例えばSotoku 10号の脚注38で引用した特許庁の宮崎先生の1000個の化合物を作る例など)。 その上で、顕著な効果があったものだけは例外的に「進歩性がある」とみなす実務が行われている(すなわち「独立要件説」的な判断)。 しかし、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなすのは「第1要件」を判断したことにはならない。 「第1要件」は、あくまで本件発明という特定の選択肢にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったかを問うているのであって、本件発明という特定の選択肢を他の選択肢とは切り離して焦点を当てた上で、その発明をすることに技術的困難性がなかったのか(平坦な道であったか)を問うているのではない。 「発明に至る道が平坦である」ことと、「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であった」ことは、似て非なることだ。 このように、現在の進歩性判断の実務では、私のいう「第1要件」は検討されていない場合が多いのではないかと思っている。

例えば前訴判決において裁判所は、「以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべき」(判決文PDF 91ページ)と判示している(「KW-4679」とは本件発明の化合物の一つ)。 この判断にしても、私のいう「第1要件」を判断したのかといえば微妙だ。 前訴判決は、甲1及び甲4に接した当業者は、本件発明という構成を試すことは容易であったということを判断したに過ぎず、当業者が甲1及び甲4に接して本件発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったと判断したわけではないように見える。

したがって、実際には前訴判決(平成25年(行ケ)10058)が上記の(A)の判断を行ったとみなすことはできないかも知れない。 その場合、私の考え方に基づいて前訴判決を解釈するとすれば、せいぜい、上記(B)の判断を行ったとみなすことにするか、あるいは、前訴判決は本来行うべき判断を行わずに進歩性を否定した判決だということになるのかも知れない。

このように、たとえ発明の構成は容易だと判断した上で、顕著な効果により進歩性を認めている例(すなわち「独立要件説」的な判断をしている例)があるとしても、その多くは、試すことが容易であったことをもって発明の構成は容易だと判断しているだけで、私のいう「第1要件」は検討していない可能性がある。 したがってそうした発明は、実際には、「第1要件」をクリアできるものが多かった(すなわち、私の考え方でも進歩性は肯定されていた)のかも知れない。 個々の選択肢を試すことが容易であったというだけで、すべての選択肢を「容易」だとみなすという現在の判断実務は、「本件発明の構成にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったのか」ということを必ずしも検討することなく「発明の構成」の容易想到性を肯定してしまうことになるが、それでは本当は容易にはたどり着けないものを容易にたどり着けると判断することになってしまう。 その欠陥は、顕著な効果があるものを救済することでほぼ補われてはいるのだろうが、本来あるべき進歩性の判断規範からはずれが生じうるだろう。 根本的な解決を目指すなら、進歩性の判断において、本件発明に到達するまでの「時間的要件」や「一本道性」を考慮要素として取り込む必要があり、そのためには、例えば選択肢の「数」(すなわち「選択の容易性」)を考慮要素とする必要がある。 「ピリミジン誘導体事件」判決(平成28(行ケ)10182、10184)は、(副引例中の)選択肢の「数」が考慮要素であることを正面から認めた判決として画期的だったとは言えるが、考慮すべきは「副引用発明」の選択の容易性に留まるものではない。 4月16日の投稿で書いたように、「主引用発明の選択の容易性」も、考慮する必要が生じる場面はあるのだろうと私は考えている(たとえそれが必要なケースは多くはないとしても)。

*   *   *

「第2要件」(意味づけ要件)について

「意味づけ要件」などという呼び方は、いかにも「曖昧」、「主観的」、「予測可能性が低い」などと言われそうではあるが、私は、進歩性判断において、結局はそこは避けて通れないことなのだという気がしている。 例えば上記の(2)(3)の考え方、すなわち、効果が大したことがない場合は「発明の構成」は容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、一転してその「発明の構成」は容易ではないと考えたり、効果が大したことがない場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易ではないなどと考えるというのは、結局のことろ、発明の効果によって発明に対する意味づけを変えていることに他ならないのだと思う。 私は、単にそれを潔く認めて要件としただけであって、上記の(2)(3)のような考え方とくらべて予測性や客観性が下がるものではないし、むしろ上記の(2)(3)の考え方にかなり近いはずだと思う。

例えば、特許庁の現行の審査基準(第III部 第2章 第2節 3.)に記載されている「図 論理付けのための主な要素」(9月26日の高石解説にも引用されている)は、発明の構成の容易想到性に関連すると思われる「技術分野の関連性」や「課題の共通性」、「阻害要因」などの要素と、「有利な効果」というまったく異なるものを天秤にかけて進歩性を判断するという感じの図になっている(下図)。

[特許庁 審査基準 第III部 第2章 第2節 3. の 図]
shinsakijunIII-2-2_20191007.png

しかし、そもそも「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。 それに比べれば、私の考え方は「顕著な効果」を、発明に到達することの容易性(進歩性 第1要件)とは切り分けて、「でたらめ・ありきたり」とは思えないほどのものか、という別の観点(進歩性 第2要件)の中で考慮しようとするものだから、まだ分かりやすいのではないか。

Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり、そもそも「意味づけ」という言葉は、特許庁の宮崎賢司先生の論文『間接事実説なのか、独立要件説なのか,それとも?』(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170 )の脚注50でいわばキーワード的に使われている言葉を採ったもので、宮崎論文では、「意味づけ」という言葉を加藤志麻子先生の論文(パテント Vol. 61 No. 10(2008)86-102の91ページ)から採ったと書かれている。 したがって、「意味づけ」という考え方は、二人の先生方の考え方に親和性があるはずだ。 また、宮崎先生自身は、発明というものを、課題(目的)・構成・効果の三要素を含む「技術的思想」の創作だと捉えて容易想到性を判断することを論じており(技術的思想の創作説)、そうした考え方は上記の(3)に近いと思われるが、宮崎論文を読むかぎり、宮崎先生は自身の考え方は「二次的考慮説」よりも「独立要件説」に近いと考えているようで、論文の166頁では、「独立要件説」を「技術的思想の創作説」(宮崎先生ご自身の説)と捉えることを提唱されている。 そういう宮崎論文にもし理があるのだとすれば、「技術的思想」という概念や「独立要件説」さえも、発明に対する「意味づけ」と無関係ではないことが示唆されるだろう。

*   *   *

最後に、通説的な「独立要件説」論者が採っている理屈を批判して本稿を終わりにしたい。

冒頭で紹介した飯島歩先生の評釈では、「独立要件説」を正当化する理屈として、知財高裁が行った判決(平成24(行ケ)10415;「血清コレステロール低下剤」事件, 平成25年10月3日判決)における以下の説示が引用されている。

平成24(行ケ)10415;判決文PDF 43-44ページ]
・・・,発明が引用発明から容易想到であったか否かを判断するに当たっては,当該発明と引用発明とを対比して,当該発明と引用発明との構成上の相違点を確定した上で,当業者が,引用発明に他の公知発明又は周知技術とを組み合わせることによって,引用発明において相違点に係る当該発明の構成を採用することを想到することが容易であったか否かによって判断するのを原則とするが,例外的に,相違点に係る構成自体の容易想到性が認められる場合であっても,当該発明が奏する作用効果が当該発明の構成そのものから当業者が予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきであるから,当該発明が引用発明から容易想到であったとはいえないものと解するのが相当である。

つまり裁判所は、相違点に係る「発明の構成」は容易想到であっても、顕著な効果がある場合は進歩性を認めるのが相当だと説いている。 確かに、この説示は「独立要件説」と言っていいだろう。 ちなみに、9月26日の高石解説でも、この判決は「“独立要件説” に立ったと考えられる裁判例」の項目の中で紹介されている。

ちなみにこの判決を行ったのは、本件前訴判決(平成25年(行ケ)10058;平成26年7月30日判決)を行ったのと同じ知財高裁第4部(富田善範裁判長)だ。 しかも二つの判決は時期的にもかなり近い。 富田判事が「独立要件説」を採っているのであれば、前訴判決においても、裁判所の審理は「独立要件説」的な思考形式で行われた可能性は高いのかも知れない(だからこそ、「二次的考慮説」や私の説の立場から、前訴判決の確定を前提にして今回の事件を説明しようとすると上記のように苦労するわけだ。)。

さて、上記の裁判所の説示では、「当該発明が奏する作用効果が・・・予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきである」と説かれている。 この考え方は、早田尚貴先生の論稿(知的財産法の理論と実務 第2巻, 新日本法規出版 (2007) 403-432 の 418ページ)で分類されている「独立要件説1」に相当する考え方であり、飯島先生は昨年出された論文(知財管理 Vol. 68, No. 9 (2018) 1275-1288 の 脚注46)で、玉井克哉先生の論文(私が昨年6月22日の投稿で取り上げたもの)もこの立場だと論じている。

「顕著な効果がある発明は産業の発展に寄与する」というのは正しいのか?、ということはとりあえず不問にし、それは正しいと仮定しよう。 私が上記の裁判所の説示に対して問いたいのは、「産業の発展に寄与する発明に特許権を与える」ということは、特許法の法目的(同法1条)に合致するのか、ということだ。 換言すれば、「産業の発展に寄与する発明に20年の独占権を与えることは、“もって産業の発展に寄与する” のか」ということだ。 もっと分かりやすく言えば、「産業の発展に寄与する発明に対しては、その発明に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのかを問うことなく、20年の独占権を与えることが特許法の法目的なのか」ということだ。

「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」ことと、「発明の保護及び利用を図ることにより、・・・、もって産業の発展に寄与する」(同法1条)こととは異なる。 「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えれば産業の発展に寄与するということを誰も証明していない以上、後者を前者に読み替えるような説示を看過することはできない。 特許法1条は、「産業の発展に寄与する」ように発明の「保護 “及び利用” 」を図ろうと言っているのであって、産業の発展に寄与するか否かを不問として「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えようと言っているのではない。

例えば、当業者がその発明を行うのは時間の問題であった場合でも、その発明に予測を超える顕著な効果がある場合は、いち早く出願した者に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのか? 皆がいずれたどり着くような発明は、皆がたどり着くことに任せ、その「顕著な効果がある発明(すなわち、産業の発展に寄与する発明)」を皆が早期に自由に利用できるようにすることの方が、むしろ産業の発展に寄与するのではないか?

このように考えると、上記の裁判所の説示は特許法1条を読み誤っていることは明らかであるように見えるし、もし、こうした理屈が「独立要件説」が拠って立つ根拠なのだとすれば、「独立要件説」の正当性は疑わしいというべきだろう。

*   *   *

以上のとおり、今回の事件は、本件発明の構成が容易想到だと判示した前訴判決が確定しているにも関わらず、なお審理を尽くせと最判が判示したという点で、「二次的考慮説」に対して難題を突き付ける事件だと言えるかも知れない。 しかし、だからと言って「独立要件説」の正当性が疑わしいのは上記のとおりだ。

この難題にどう立ち向うか。

安易に「独立要件説」に日和ったり、最判に忖度したりすることなく、制度趣旨から説き起こした議論がなされることを期待したい。

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参考論考:
田中汞介『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年8月31日

田中汞介『 最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(特許法の八衢)2019年9月1日

飯島歩『進歩性判断における予測できない顕著な効果の位置付けに関するドキセピン誘導体含有局所的眼科用処方物事件最高裁判決について』(イノベンティア・リーガル・アップデート)2019年9月16日

田中汞介『続・最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年9月23日
(この投稿でも飯島歩先生の評論を題材に考察が進められており、最高裁は「【・・・独立要件説および二次的考慮説のいずれの立場を採るかはブランクのまま、さしあたり、効果顕著性については(・・・)・・・判断手法を是正し(効果顕著性の判断手法を統一し)ようとした】と理解することも十分にできるのではないか」と結論されている。)

高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 『【特許★★★】「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜』(中村合同法律特許事務所HP 法情報提供)2019年9月26日
(この解説は、飯島先生の評論とも共通部分は多い。 もともと今回の私の投稿は、飯島先生の評論を題材に書き始めたものだが、ほぼ書き終えたころにこの高石解説が公開されたため、これを受けて修正を行った。)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月02日

「独立要件説」に立った結果 ⇒ 既知のラセミ体の一方は進歩性あり(「光学活性ピペリジン誘導体」事件 平成24年(行ケ)10206,平成24年(行ケ)10207)


この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決は6年前の判決(2013年7月24日判決)であって、最近の判決ではない。 しかし先日、高石秀樹先生が「アレルギー性眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)に対する解説(高石解説と略記)を公開(以下↓)されて、その中で言及されている判決だ。

[高石解説]
「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜
(高石秀樹(執筆),吉田和彦(監修),中村合同特許法律事務所HP,2019年9月26日 法情報提供)

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決(平成24年(行ケ)10207)を高石解説は、「“独立要件説”に立ったと考えられる裁判例」として紹介している。 具体的には高石解説は、「構成が容易想到であると認定した上で、・・・ 発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた裁判例は殆ど存在しない。」とした上で、「数少ない・・・裁判例として、知財高判平成24年(行ケ)第10207号「光学活性ピペリジン誘導体の酸付加塩及びその製法事件」(設樂裁判長)は、公知のラセミ体を構成する一方の光学異性体の物質発明(・・・)(【請求項1】式(T)…で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」)について、「構成の観点からは,当業者が容易に想到可能であった」としながら、「顕著な効果」を有することを理由に進歩性を認めた。」と解説している。

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件については、tokkyoteki先生が判決直後に既に解説されていて、今回の高石解説を受ける形で再び下記のように紹介して下さっている。


その解説を改めて読んでみて、あぁ tokkyoteki 先生も批判的にコメントされていたんだなぁ と思ったので、私も今回ちょっとこれについて書いてみようかと思う。

判決文によれば、この化合物には光学異性体(S体とR体)があって、普通に合成するとS体とR体が混ざった混合物(ラセミ体)として合成される。 そして、そのラセミ体が「抗ヒスタミン活性」を持っていることは既に知られていた(特開平2-25465)。 そして、化合物の構造も分かっていたから、この化合物には不斉炭素が含まれていて、S体とR体が存在することも分かっていたわけだ。

この状況で本件発明は、光学異性体を分離するためによく用いられているジアステレオマー法を用いて本件化合物のS体とR体を分離精製すること試みた。 具体的にはHPLC(高速液体クロマトグラフィー)を用い、特定の溶媒(ヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸(0.1%))とカラム(CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD)を組み合わせ、他にも分離手順のポイント(HPLCに通す前に、試料をエタノールに溶解させるなど)はあるのかも知れないが、ともかくS体とR体を分離することに成功した。 そしてS体とR体の薬効を調べたところ、薬効の本体はS体であって、R体はほとんど活性がないことを見出したというもの。 具体的には、モルモットにヒスタミン塩酸塩を静注して誘発させるヒスタミンショック死を抑制する効果を試験した結果では、半数の個体をショック死から免れさせるために必要な投与量(ED50)は、S体が0.023 mg/kg に対してR体は 1.0 mg/kg で43倍の差があり(明細書の表1)、抗BPO-BGG・IgE血清を用いたhomologous PCA反応のED50では、S体が0.025 mg/kg 程度であるのに対してR体は 3.0 mg/kg 以上であり 100倍以上の差があった(明細書の表2)。 また、本件化合物をベンゼンスルホン酸塩または安息香酸塩とすることで、吸湿性の少ない安定した結晶が得られることも見出した(以上、明細書の記載より)。

以上の結果をもって出願されたのが本件出願で、訴訟時における請求項1は、平成24年(行ケ)10206 の特許(特許4562229)については「実質的に(R)体を含有しない,(S)−4−〔4−〔(4−クロロフェニル)(2−ピリジル)メトキシ〕ピペリジノ〕ブタン酸・ベンゼンスルホン酸塩を有効成分としてなる,医薬組成物。」となっており、平成24年(行ケ)10207 の特許(特許4704362)については「式(T)
20191001Piperidine_c1.png

で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」となっている。

この判決において裁判所は、S体とR体を分離し、S体のみを取得する方法に関する困難性はことごとく否定した。 すなわち、分離にあたってジアステレオマー法を用いること、HPLCを使用すること、溶媒としてヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸 (0.1%) を用いること、カラムとして CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD を用いることなどはすべて容易だと判断した。

また、S体とR体を分離して、その一方だけを医薬品とすることに関する出願当時の技術常識について、判決文には以下のような文献の記載が引用されている。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について
ア 刊行物の記載

(ア) 昭和62年10月1日発行の「月刊薬事」Vol. 29, No. 10(甲4)
 「生体(酵素や受容体)はこれらの光学異性体を識別する能力を持っており,異性体にはまったく生理活性を持たないもの,弱い同類の生理 活性を持つもの,拮抗的な生理活性を持つもの(アンタゴニスト)や別な生理活性を持つものがある。それゆえ,医薬品として用いるときには ラセミ体としてではなく,目的にあったエナンチオマーのみを用いることが好ましいと考えられるが,現状はほとんどがラセミ体として用いら れている。…しかし,最近,医薬品としてラセミ体の開発・使用に関して問題が投げかけられてきた。その背景として,最近の薬物分析技術の 進歩,とくに高速液体クロマトグラフィーにおけるキラルカラムの開発などにより,光学異性体の分離・定量の技術が進歩し,その結果,合成 キラル医薬品の生体内動態,特に代謝に関して異性体間に著しい差があることが明らかになったことがあげられよう。」(・・・)

(イ) 平成元年10月10日発行の「季刊化学総説」No. 6「光学異性体の分離」(甲3)
a 「1 光学活性体のプレパレーション」という表題の論文
 「研究の精密化に伴い,医薬品,農薬,食品,飼料,香料などの分野で光学活性体を扱うことの重要性が日ごとに増大していることはいうまでもない。光学活性体が対掌体により生理活性をまったく異にする場合が多いからである。たとえばグルタミン酸の場合,L体(S)には旨味があるが,D体(R)には旨味はなく,酸味が感じられるだけである。不幸な事件のために有名になってしまったサリドマイド… も,(R)体は催奇形性をもたないが(S)体には強い催奇形成があり,ラセミ体を実用に供したことが悲惨な薬害事件…をひき起す原因 となった。さらに,対掌体の一方が有効な生物活性を示す場合,もう一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害…をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品 の開発研究でしばしば体験するところである。…したがって,光学的に純粋な対掌体をいかにして入手(合成または分割)するかは,医薬品のみならず生物活性物質を対象とする研究において,不斉中心をもつ化合物を扱う場合,避けて通ることのできない重要課題である。この目的に対して,・・・,ラセミ体を製造(合成)したうえで,それを効果的に光学分割…する手段もまた有効な方法として多用されている。」(・・・)

b 「2 光学活性体の生理活性」という表題の論文
「動物はL-アミノ酸より成るタンパク質から構成されており,生体内の代謝に関与する酵素もタンパク質である。酵素の基質特異性に基質の光学特異性が大きく寄与するのは,酵素側に存在する不斉性を考えれば容易に『当然のこと』と受けとめることができる。生体内で起る複雑でありながら選択性の高い反応は,酵素による『不斉を含む三次元の分子認識』によるものと考えられる。生理(薬理)活性をもつ物質が生体に摂取され吸収されると,その物質に特異的な親和性をもつ受容体…との結合により生理活性が発現することになるので,基質が不斉中心をもっていれば,その(S)体と(R)体とでは生理活性に相違が生ずるのはこれまた自然であろう。医薬品の多くは生体にとって異物…であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。このような考え方が出てきた背景には,1章のはじめに述べたサリドマイドに関する知見が大きく横たわっていたためと思われる。…近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある。また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした。薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった。」(・・・)

(ウ) 平成4年2月10日発行の「日本化学会誌」NO. 2(甲26)
a 「1 はじめに」の項
「1.1 光学異性に関する認識の深まり
…二つの光学活性体,そしてラセミ体の三者がいずれも『異なる』化合物であるということは,概念的には古くから知られていた。にもかかわらず,しばしばこれらが同等あるいは代用できるものとして扱われてきた一つの理由は,光学活性体を入手し,またその純度を評価するための手段が未発達であったことと,そのためにことさら,それら三者がいかに『異なる』かということが,実際的な問題として十分に認識されていなかったためであると思われる。この相違の重大さが最初に認識されたのは医薬の分野であろう。サリドマイドの催奇性が,その(S)-体に基づくものであるというBlaschke らの研究はよく知られているが,同様の例はかなりの数が知られるようになった。最近報告された例では,…。こうした背景から,近年医薬開発においては,ラセミ体を製剤化する場合にも,それぞれの光学活性体の薬理評価が必要とされ,またラセミ体の製剤化そのものに対する慎重論も高まっている。医農薬などの生理活性物質のみならず,機能性材料にも,強誘電性液晶などのように,光学活性体であることを必要条件とするものが見いだされ,光学活性体にかかわる研究,開発は,科学,技術の広い分野で活発化しつつある。しかし,その展開は光学活性体の製造,分析技術の水準による制約を受けざるを得ず,新たな技術の確立が希求されていた。・・・」(・・・)

上記のような状況を考えれば、薬効を示すラセミ体について、S体とR体を分離し、それぞれについて薬理評価を行い、薬効があり、かつ毒性のない異性体だけを医薬品として使用することの重要性は、出願当時において当業者に広く認識されていたと言えるだろう。

そのような中、裁判所は本件発明の進歩性について次のように判断した。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
・・・。したがって,審決が認定した本件特許発明1と甲2発明との相違点である,本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が「実質的には(R)体を含有しない,(S)体」であるのに対し,甲2発明では光学異性体についての特定がされていない点については,その構成という観点からは,当業者が容易に想到可能であったものということができる
 しかし,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が,甲2公報に記載された本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから,次に,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩の有する効果について検討する。

(5) 本件特許発明の効果について
ア 本件明細書(甲1)には,ヒスタミンショック死抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約43倍強い活性を示したこと,homologousPCA反応抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約100倍以上強い作用を示したことが記載されている(【0030】〜【0035】)ところ,本件明細書は,この本件化合物のエステルによる(S)体と(R)体の比較を根拠に,本件化合物の(S)体がより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用すると結論づけている(【0048】)。
 そして,このことは,甲9の4の意見書に添付された実験成績証明書に,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍の活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体に対して約3倍の生存率を示したことが記載されていることからも裏付けられる。
 そうすると,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる
 したがって,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸は,審決が認定した甲2発明であるラセミ体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものといえる
・・・。
(6) 小括
 以上によれば,本件特許発明1の進歩性に係る審決の判断は,・・・,・・・ 本件化合物は,本願出願時の技術常識を考慮しても,当業者が容易に得ることができなかったものであるとしたことは誤りであるけれども(・・・),・・・ 本件化合物は,・・・ 当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものであると認定判断した点に誤りはなく(前記(5)),結局のところ,本件特許発明は甲2発明に対して進歩性を有するものとした審決の判断は,結論において誤りはない。

ラセミ体に含まれるS体とR体を分離してそれぞれの活性を調べてみることの重要性が当業者において認識されていたことを示す複数の文献が存在することについは、上述のとおり裁判所は認めているし、上に引用したとおり、本件化合物(S体)の取得困難性がないことについても裁判所は認めている。 その上で裁判所は、「顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきである」と説示し、「顕著な効果」があることもって本件発明の進歩性を認めているのだから、高石解説が指摘するとおり、この判決はまさに “独立要件説” に立った判決だと考えらるだろう。

しかし果たして、この判決は妥当だったのだろうか?

私は、本件のような発明は、8月30日の投稿で書いた「進歩性 第1要件」で拒絶すべきだった案件のように思う。 なぜなら上に引用した判決文の中で言及されている文献にも記載されているように、生理活性を有する化合物がラセミ体である場合、S体とR体で活性や毒性に差がないのかを調べることの重要性は本件出願当時において広く認識されていたからだ。

その契機となったのが、当時の技術常識に関して上に引用した判決文の中で登場する文献のうち、甲4を除くすべての文献で言及されている「サリドマイド」事件だ。 サリドマイドは1950年代に開発された睡眠薬で、S体とR体が混ざったラセミ体として販売されていた。 しかし、S体に強い催奇形性があったため、この薬を服用していた世界各地の妊婦から奇形を持った子供が生まれてしまったのだ。 薬学史上、最悪の薬害とも言われている。

サリドマイド事件により、薬効を持ったラセミ体については、S体とR体で生理活性や毒性に違いがあるかを調べる必要性の認識は一気に広まった。 薬学分野の当業者の間で周知となったというようなレベルではなく、世界中の人たちに知れ渡ったのだ。 私も学生の時に授業で習ったくらいだから。

つまり、ラセミ体を構成する各異性体を分離して、その生理活性を調べることは、それほど強い要請があった。 医薬として使おうと考える以上は、必ず調べられなければならない特性とも言えるだろう。 そして裁判所によれば、本件のラセミ体を構成する各異性体を分離する具体的手順は容易だと判断されている。 だとすれば、それを調べた結果どんなに驚くべき結果が出ようが、それは「強い要請」と「容易な手順」によって自然に行き着くはずであった結果に過ぎないのであって、「時間の問題」あるいは「一本道性」があると言えるのではないか(下図)。


[あるべき進歩性の判断手順]
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なお8月30日の投稿で私は、進歩性の第1要件について、「近々誰かが発明するようなものか」と記載し、第1要件が「時間性」の問題であるかのように書いたのだけれど、「時間が短いこと」が必須というわけではない気もするので、上記のように少し修正してみた。 但し、これについては私もまだ少し迷いもある。

ともかく、本件のような発明は、薬効を示すラセミ体が公知となり、かつ各異性体を分離する手法が容易で動機付けもあったという場合には、それだけをもって各異性体の特許性は失われていると考えるべきで、「顕著な効果」によって特許性を復活させるようなことをすべきではないと思う。

なお本件の場合は、本件の特許出願(特願平9-350784;宇部興産・田辺製薬の共願)を行ったのが、本件化合物を最初に開発して出願(特願昭63-175142)した者(宇部興産)と同じ側だから、本件出願が特許になってもあまり不当性を感じないかも知れないが、本件のラセミ体はすでに公知であった以上、まったく別人が光学異性体を分離して本件のような出願を行うこともあり得ないことではなかった。 上記のように、薬効を持つラセミ体から光学異性体を分離して活性の違いを調べる必要性は広く認識されていたし、その手法も裁判所が説示しているとおり容易だったのだからね。 そうすると、宇部興産が開発した本件化合物について、まったく無関係の他者がいち早く異性体(S体)を分離して、特許出願を行うことも起こり得たわけだ。 そして容易なものでも「顕著な効果」がありさえすれば特許にするというのなら、その「他者」は本件化合物のS体について特許を取得することができただろう。 そして宇部興産・田辺製薬による本件医薬品の開発を妨害したり、多額のライセンス料や買取を持ちかけることもできたかも知れない。

私は、特許制度がそのような目的のために便利に使われるものであってはいけないと思う。 薬効を持つラセミ体を最初に作り出して特許出願を行った場合は、それが公開された時点で、容易に取得できる各異性体については特許性は失われたとみなし、たとえそれが「顕著な効果」を持つとしても新たな特許になることを許さず、最初に特許出願をしてそれを公開した者が安心して医薬品開発を進められるようにすることの方が妥当なのではないか。 またそうであれば、この化合物を最初に作り出してラセミ体として特許出願を行った者が、のちに各異性体を分離して「顕著な効果」を見出したとしても、それによって新たな特許が付与され、独占期間を事実上先延ばしするようなことが許されないのは、また当然のことだろうとも思う。

また、今回の「アレルギー性眼疾患」事件の最判(平成30年(行ヒ)69)において最高裁は、「・・・本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・」と説示し、まるで医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くすべきだと言っているようにも見えるが、8月30日の投稿の(4)でも書いた通り、特許出願を行うのは、その医薬品を開発して上市してくれる者とは限らない。 その気がない者であっても、出願すれば特許は取得できてしまう。 「医薬発明の進歩性のハードルを低くすれば医薬の開発が促進される」などというのは根拠のない話であって、そのような考えのもとに進歩性のハードルを人為的に操作すれば、意図しない結果を招くことになるだろう。

*      *      *

ということで、高石解説が、発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた数少ない裁判例として紹介している「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決について感じたことを書いてみた。 つまるところこの判決は、「独立要件説」を採った結果、誤った結論に至ってしまった判決だというのが私の見方ということになるだろうか。

もし、私の考えは間違っている、すなわち、この「ピペリジン誘導体」事件の判決は正しく、上記の最判の説示についても、「医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くするべきだ」と捉えるのが正しいというのなら、残念ながら、以下のような特許戦略は有効だということになってしまうだろう。

薬効を持つラセミ体を他者が公表したらすぐにやるべき特許戦略

 そのラセミ体から異性体を分離し、それぞれの異性体について活性や毒性を評価する。 もし一方の異性体が、ラセミ体の2倍を有意に超える活性を示したり、顕著な毒性を示したりした場合は、すぐに特許出願する。 これにより、たとえラセミ体に関して他者が先に特許出願を行っているとしても、それに匹敵するほどの価値のある特許を取得することが可能となる。 たとえ異性体の分離が容易であり、その動機付けがあるとしても、「独立要件説」が進歩性をサポートしてくれるだろう。


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2019年09月17日

新しいアッセイ系は既知化合物の特許出願のチャンスとなるか (「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日 追記2)


この最高裁判決について8月30日に投稿した際に、「原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところ」だと書いた。 つまり、本件の明細書では、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロ(すなわち、人体や動物を用いるのではなく、培養細胞を用いる)実験系を用いて実験が行われて本件化合物のヒスタミン遊離抑制活性が測定されているのに対し、原審(平成29(行ケ)10003)で裁判所が「顕著な効果」を否定するために持ち出した引例は、スギ花粉症患者に被検化合物を点眼し、採取した涙に含まれるヒスタミンを測定することでヒスタミン遊離抑制活性を測定したインビボ実験(生体を用いた実験)だった。 そして引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して、次のように説示した。

平成29(行ケ)10003,PDF 30-31ページ]
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。

しかし、インビトロの実験系とインビボの実験系では、同じ化合物を使っても違う数値になることはよくあるのだろうから、異なる実験系で得られたヒスタミン遊離抑制率(数値)を単純に比較することはできない。 したがって、本件の明細書のインビトロ実験で得られた数値と同等以上の数値が引例のインビボ実験で得られていたからといって、本件の効果を「大したことはない」と直ちに結論することはできないようにも思われる(まぁ、薬というものは最終的にはインビボ(臨床)で使うものだから、インビボで効果がある方がすごい気はするが)。

つまり本件の原審判決(平成29(行ケ)10003)では、本件化合物の効果が「大したことはない」ということを明確に示すような先行技術の存在が示されていないのだ。 この点が、原審判決において、本件の「顕著な効果」が今一つはっきりと否定できていないように見えてしまう理由であるように思う。 逆に言えば、だからこそ特許庁の審判(無効2011-800018)では、本件発明の「顕著な効果」が認められたのかも知れない。

それを踏まえると、新しいアッセイ系が利用可能となった場合は注意が必要だろう。 例えば、ある疾患の既存薬や治療候補化合物の中に、ある2次的な作用機序で効果を発揮するタイプの化合物があることが既に知られているとして、その作用に関して新しいアッセイ系が利用可能となった場合は特許出願のチャンスが生まれる(以下)。

[新しいアッセイ系が利用可能となった場合の出願戦略]
ある疾患の既存薬や治療候補化合物の2次的な作用機序に関して、そのアッセイ系で良好な効果を示す化合物(化合物A)が見つかったら、同じ疾患の既存薬等の中で、そのアッセイ系で効果を示さないものを選んで、それらの結果を並べて特許出願を行う。 すると、このアッセイ系において良好な効果を示すのは「化合物A」だけで、他の化合物は効果を示さないように見えるから、化合物Aには予想外に顕著な効果があるように見える。 また、新しいアッセイ系であるので、この2次的作用機序において、化合物Aと同等以上の効果を持つ既存化合物が存在することを明確に示すデータは、出願前には存在しない。 したがって、そういう引例により進歩性が否定される心配はない。

こうしたアッセイ系による比較実験の結果は、「臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」(無効2011-800018)(2018年6月22日の投稿参照)と評価される可能性もある。 特に、これまで持っていると思われていた活性が、このアッセイ系では検出できない、というような既知の化合物が見つかれば、「このアッセイ系は非常に厳しいアッセイ系だ」と主張する理屈ができるので好都合だろう。

異なるアッセイ系(従来のアッセイ系)においては高い効果を示す化合物は出願前に知られていた、という理由で進歩性が否定されそうになった場合は、「構造を異にする他の化合物が、異なる評価系において高い効果を示す場合があることが知られていたとしても、そのことのみをもって、本件化合物の効果顕著性を直ちに否定することはできない。」と反論することができる。 今回の最判はそうした反論の正当性をサポートするかも知れない。

*     *     *

本件(アレルギー性眼疾患事件)が意図的にそうした特許明細書を作成して出願を行ったのかも知れないと言っているのではない。 ヒスタミン遊離抑制作用に関しては、モルモットの細胞を使ったアッセイ系では「本件化合物」を使っても活性が検出されなかったなど、アッセイ系によって結果がかなり違うようだから、本件明細書の実施例の結果も、意図せず偶然に得られた結果である可能性は高いかも知れない。 そして、新しいアッセイ系を使っていくつかの化合物をアッセイしたところ、もし本件化合物だけに活性が認められたら、私だって特許出願を考えるかも知れない。 しかし、出願を行う際の出願人側の内情は分かりようもないのだから、そこは分からないということを前提に、どうやって妥当な判断をしていくのかを考えなければならないだろう。

前訴判決の判決文によれば、本件明細書に記載されている実験で用いられているヒト細胞を使ったインビトロのアッセイ系は、本件特許の優先日の約7か月前に公開されたばかりのようで、これについて特許権者側は、本件特許の優先日当時は「当業者にとって現実的に利用可能な技術ではなく」と主張している(平成25年(行ケ)10058の93ページ)。 つまり本件明細書の実施例で用いられているインビトロのアッセイ系は、非常に新しいものだったわけだ。 判決文を見る限り、被告(特許権者側)は、これを進歩性肯定のための有利な事情として主張しているようだが、アッセイ系が出願前に広く利用されていなかったことは、類似の効果を有することが知られている既存薬をそのアッセイ系で調べれば、本件化合物と同等以上の高い効果を示すものは存在していたという可能性をむしろ否定できなくするのだから、特許権者側の主張とは裏腹に、むしろ「顕著な効果」の推認を阻害する事情とみなし得るものだろうとも思う。

新しいアッセイ系における好結果を出願前に予測できない限り、「予測できない顕著な効果」は否定できずに進歩性は肯定されるのか、それとも、新しいアッセイ系が出願前に広く利用されていなかったという事情は、むしろ顕著な効果の認定にとって阻害的に働く要因と考えるべきなのか。 どちらが妥当なのだろうか、よく考える必要があるだろう。

しかし、少なくとも出願人の立場で考えた場合、今回の最判から示唆されるのは、『新しいアッセイ系が利用可能となった場合は出願のチャンスだと考えろ』ということだ。 データを選別し、上記のような特許出願を意図的に出願することは手続としては不可能ではないように見えるし、そういうケースは今後発生する可能性はあるだろう。 そして特許庁や裁判所に求められるのは、仮にそうした出願がなされた場合に、その進歩性を適切に判断できるような手法を持っていてくれなければ困るということだ。 今回の最判が、それを妨げるものとなってはならない。

*      *      *

さて、2次的な作用機序に関して特許を取得した場合、この特許を生かして医薬品開発を進めるためには、医薬品の製造販売承認を申請するにあたって申請者は、医薬品の承認を審査する厚労省所管の機構(PMDA)に対して、ぜひとも本薬の薬効にこの「2次的作用機序」があることを認めさせ、医薬品の添付文書に、その作用を記載するように持って行く必要があるだろう。 そうすることによって、この医薬品の後発薬が実施されたときに、本件特許を侵害しているという理屈が通る余地が生まれるからだ。 2018年6月22日の投稿でも書いた通り、本薬(パタノール点眼薬 0.1%)に関するPMDAの審査報告書 (12ページ)によれば、本件医薬品の承認申請者は、本薬はこの2次的作用、すなわち「ヒスタミン遊離抑制作用」も発揮されているのだということについて主張したと思われる。 そしてPMDAに「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低い」と言われながらも、この作用があることについてはPMDAに認めさせることに成功し、添付文書にも記載された。 特許権者側の立場になって考えれば、これは見事な成果だし、事実として、パテントリンゲージにより後発の参入を阻止できているのだから大成功と言えるだろう。 そして、すべてはこの特許があってこそであり、今回のように新しいアッセイ系を使って「顕著な効果」を主張して特許を取得しておくことは、現時点の状況で見る限りは、医薬品の特許戦略において有効な作戦だということになるかも知れない。

但し、「ヒスタミン遊離抑制作用」に関する用途発明に限定された本件特許が、果たして後発薬を抑えられるものであるのか、という点については、2018年6月22日の投稿の他、以下も参照。

篠原勝美『日本型パテントリンケージ制度の諸問題(上)』(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35)の33ページ左

gemedicines氏の投稿『オロパタジン塩酸塩点眼液(パタノールR点眼液0.1%) 』(2019年9月7日)

*      *      *

冒頭で述べたとおり、本件の原審(平成29(行ケ)10003)で知財高裁は、引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して本件発明の効果の顕著性を否定し、私はそれについて違和感があると書いた。 それでは、もし本件の進歩性が否定されるとしたら、引例のインビボ実験における結果をどのように扱えばよいのだろうか。

私が考えるに、本件の顕著な効果を仮に否定する場合、引例のインビボ実験など別に持ち出す必要はないのだと思う。 単に、本件明細書に開示されている限られた化合物を用いたインビトロの比較実験の結果のみからでは、「臨床(インビボ)の場面までを包含するヒスタミン遊離抑制作用」に関して、本件化合物が、他の抗ヒスタミン剤と比べて突出した効果を持っていることは合理的に推認できない、ということで十分なのだと思う。

ちなみに本件明細書によれば、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロの実験系において、本件化合物は高いヒスタミン遊離抑制作用を示し、既存化合物であるクロモグリク酸二ナトリウムはほとんど作用を示さなかった。 具体的には、本件化合物を100μM以上の用量で用いて発揮できた効果を、クロモグリク酸二ナトリウムは10〜1000μMのいずれの用量でも上回ることはできなかったどころか、そもそもクロモグリク酸二ナトリウムはまともな効果を発揮していないようにさえ見えた(本件明細書の表1参照)。 しかし、本件原審(平成29(行ケ)10003)の判決文によれば、臨床(インビボ)実験の結果においてクロモグリク酸二ナトリウムは、点眼後5分後および10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率について、「2% クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%」という高い抑制率を示すことが知られていたようだ(判決文PDF30ページ)。 インビボで示すはずのクロモグリク酸二ナトリウムの高いヒスタミン遊離抑制作用が、本件明細書のインビトロアッセイ系ではほとんど検出できなかったことは、インビボにおけるヒスタミン遊離抑制作用と、本件明細書のインビトロアッセイ系におけるヒスタミン遊離抑制作用は、高い相関があるとは言えないことを示唆しているだろう。 そして、高い相関があるとは言えないのであれば、本件化合物が、たとえ本件明細書のインビトロアッセイ系において顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示したとしても、インビボにおいても顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示すことは合理的に推認できないということになるのではないか。 これについては2018年の6月22日の投稿でも書いた通り、原審の審決(無効2011-800018)で特許庁の審判合議体は、特許権者の主張をそのまま繰り返す形で「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」と説示しているが、そういう可能性を完全に否定するわけにはいかないにしても、インビボにおける効果と本件明細書のインビトロアッセイ系での効果には高い相関がないという “余地” もかなりあるわけで、その場合は、「本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するためにはあまり意味のないスクリーニング条件である。」ということになる。 本件明細書のインビトロアッセイ系が、高いインビボ効果を持つ化合物を選別するための「非常に厳しいスクリーニング条件」なのか、それとも「あまり意味のないスクリーニング条件」なのか、どちらが正しいのか真偽不明である限り、「明細書の結果に基づいて、出願当時に、インビボでも顕著な効果があると合理的に推認できるのか」を考えれば、それを肯定するのは難しいという結論にならざるを得ないのではないか。

*      *      *

本件のクレームが、もし本件明細書の実験で用いられた「インビトロ」のアッセイ系に限定されているのであれば、上で取り上げたようなインビボとインビトロの違いは問題にはならない。 しかし本件クレームの発明がインビボ(臨床)への適用までを包含するものである以上、もしそのクレームの範囲全体にわたって顕著な効果が合理的に推認できないのであれば、その進歩性を肯定することはできないという結論が導かれなければならないと思う。

このように、仮にインビボの結果が記載されている引例を用いて顕著な効果を否定するとしても、原審判決が行ったように、本件明細書におけるインビトロ実験の数値を、引例のインビボ実験の数値と単純に比較して「数値が高いとは言えない」ことを理由に顕著な効果を否定する、という論理構成にするのではなく、両方のアッセイ系の結果に高い相関があるとは認められないことを理由に、本件明細書の開示からではインビボにおいても顕著な効果が発揮されるとは推認できないという結論を導き出す方が、論理的には筋がいいのではないか思う。

つまり、そういう判断手法を、特許庁や裁判所の方たちには持っていて欲しい。

[2019/09/18 筋悪だった後半の議論を多少ましになるように書き直して再公開。^^]

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2019年09月03日

「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)追記


今回の「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)に関して、田中汞介先生がご自身のブログ『特許法の八衢』で記事を2つ(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))投稿されているので、それを読んで、まあ、あまり関係あることは書けない気もするけれど、前回の投稿に引き続き、思いついたことを若干書いてみたい。

*     *     *

(8)最高裁による破棄理由に関する田中先生の論考について

8月31日の田中論考では『破棄理由』に関し、「原審(知財高判平成29年11月21日(平成29年(行ケ)第10003号)) の判断枠組みは、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる】であり、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる一方、効果顕著性があれば審決が維持される】というものではない。」と指摘されている。

後者は、前者の反対解釈を付加したものだ。 後者であれば効果顕著性があれば審決が維持されることになろうが、前者であれば、効果顕著性があってもなお、審決を取り消す余地はあるということになる。

私は、8月30日の投稿で書いた通り、一般論として、「効果顕著性があっても、進歩性は否定しうる」と考えており、本件発明も、そうした場合に該当しうると思っているから、そういう考えが、今回の一連の判決の枠組みの中で依然として採用しうるというのなら、夢のある話だ。

改めて原審判決を見ると、判決の論理構成は以下のようになっている。

平成29(行ケ)10003 より]
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。(判決文31ページ)

 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。(判決文31ページ)

4 結論
 以上のとおりであるから,その余の点について判断するまでもなく,本件審決を取り消すこととし,主文のとおり判決する。(判決文34ページ)

上に引用したとおり原審判決は、原審審決の効果に係る判断の誤りをもって、その余の点について判断するまでもなく、原審審決を取り消している。 この判示の中に「効果顕著性があれば審決が維持される」という含意が感じられるかというと、まぁ、感じられないという方が自然だろうという気はする。

ただし、もし効果顕著性があってもなお審決は取り消される「理由」があり得るというのなら、効果顕著性を判断する前に、あるいは同時に、それが判断されてしかるべきであるのに、原審判決は効果顕著性のみを判断しているのだから、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、という意見はあるかも知れない。 特に、効果顕著性を判断するまでもなく審決は取り消されうる「理由」が本件においてあるのなら、まずはそれが判断されるべきであるのに、原審判決でそれが判断されていない以上、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、と考える人は多いかも知れない。

そういう意見が出るのは当然だろうとは思うし、解釈の優劣としては、そちらの解釈の方に軍配が上がる可能性はあるだろう。 しかし、どちらかの解釈しか採りえないとまでは言えないように思う。


(9)差戻審について

田中先生の9月1日の方の論考では、差し戻し審で採りうる結論は以下の3つだろうと指摘されている。

 1. 効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定
 2. 効果顕著性の存在を認め、進歩性肯定
 3. 効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定

そしてもし上記の「3.」(効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定)を採るのなら、なぜ原審で効果顕著性を判断したのか説明が必要だと思うと指摘され、そうした説明の一つの可能性として、効果顕著性の「存在」の判断と、効果顕著性の「程度」の判断は別だと考える可能性が提示されている。 なるほどと思った。

ちなみに、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果(ヒスタミンの遊離抑制作用)の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では当該効果の「程度」(効果顕著性)を判断しているのであるが、仮に田中先生の可能性を採用すれば、本訴原審(平成29(行ケ)10003)では効果顕著性の「存在」が判断され、差し戻し審では効果顕著性の「程度」(効果顕著性の程度)が判断されようとしているというフラクタルな感じになるのかも知れない(笑)?。

私の考える可能性は・・・、前回の投稿で書いた趣旨にしたがうのなら、

・ 効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定(予備的に、効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定)

というもので、前回の投稿の(7)にしたがって「効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定」という結論を導き、(3)にしたがって予備的に顕著性を否定するという感じになるのだろう。 具体的には前者については、ヒト細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用の「程度」が測られるのも間近だったといえ、そうである以上、本件発明は「容易に発明をすることができた」(29条2項)と言うほかなく、その効果が仮に予測を超えて顕著であるとしても、「容易に発明をすることができた」という判断を左右するものではない、というもの。 後者(顕著性否定)については、本件明細書には、本件化合物がヒスタミン遊離抑制作用を有することが開示されているとはいえ、その作用の程度は、クロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムなど、限られた化合物との比較でしか評価されていないし、高いヒスタミン遊離抑制作用を有する化合物が他にも知られていたことを考えれば、予測を超えて顕著とは認められない、というもの。

最判は「・・・,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。」という。 私の考える上記の理屈に沿って、最判のいう「諸事情の具体的な内容」を説明すれば、「明細書には、少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、当該少数の構造を異にする他の化合物に比べて活性が顕著であったからといって、本件発明の効果が予測を超えて顕著であると直ちに結論することはできない。」というのが「事情」だ。 また、本件発明が医薬用途に係るものであることをも考慮すると、本件明細書に開示されているヒト培養細胞を用いた実験のみからでは、ヒトへの臨床適用を含むクレームの全範囲において予測を超えて顕著な効果が奏されると直ちに認めることはなお困難、というのも「事情」と言えるだろう。 これは最判の説示をそのままお返ししているだけだから、最判の説示が正しいというのなら、この「事情」も否定はできないのではないか?(笑) (前回投稿の(3)も参照)

それから、上記の最判の後半部分の「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない」という説示に対しても、「明細書には、そこに示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、その結果のみをもって本件化合物の効果の程度が予測を超えていると推認できる事情等は何ら明細書に説明されていないし、技術常識とも言えない」というのが「事情」なのであって、明細書に開示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較をもって顕著性が推認できるかが問題となっている以上、それを否定するためには、構造を異にする他の化合物との比較をもって足りると考えなければ道理が合わないということだ。

また、田中先生が「説明が必要」と指摘されていること、すなわち、もし顕著な効果があっても進歩性は否定されるのなら、「なぜ原審において効果顕著性を判断したのか」という点について説明するとすれば、かなり鉄面皮な説明にはなるが、本件の場合は、たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定される理由はあるのではあるが、それとは別に、効果顕著性を否定することによっても進歩性は否定されるのであり、進歩性を否定するにあたってどちらで判断するかは任意であって、とやかく言われる筋合いはないという説明になる(笑)。 また、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では「効果顕著性」が問題となっていることに鑑みて、原審では効果顕著性を判断してやったのだ、と説明することもできるだろう。

ということで、まぁ、最高裁に喧嘩を売っているみたいになる点で、これは無理か・・・、という感じは否めない。。

但し、上記の理屈が最高裁に喧嘩を売るようになってしまう一番の原因は、最判が、「構造を異にする他の化合物」との比較だけでは「顕著な効果」を否定することはできないと説示する一方で、本件明細書には「構造を異にする他の化合物」(しかも少数)との比較しか開示されていないことを不問にしていることにある。 そして「そこは不問にはできないのだ」という立場を取ると、まるで最高裁に逆らっているように見えてしまうのだ。

しかし明細書の開示から顕著な効果を推認できるか否かという問題と、引例からそれを否定できるか否かという問題は、分離することはできない。 明細書の開示が、本件化合物の効果を比較すべき対照としっかり比較された説得力のあるものであればあるほど、それを否定するための引例は完璧でなければならないが、明細書の開示に説得力がない場合は、それを否定するための引例に完璧さは求められない。 そして両者(明細書の開示と引例の開示)を一体として判断するとき、それは引例によって「顕著な効果」が否定されると捉えるのは適切ではなく、明細書の開示と引例の開示との関係において本件発明の効果が「顕著な効果」だとみなすことができないと捉える方が実体に合っている。 明細書に開示されているのは「構造を異にする他の化合物」との比較に留まる場合に「顕著な効果」を推認することができるのか否かという問題を不問とし、引例に開示されている「構造を異にする他の化合物」との比較のみでは「顕著な効果」を否定できないと説示する今回の最判を、『否定できなければ肯定せよ』という説示だと捉えるとすれば、分離できない問題を分離する失当を犯すことになる。 逆に最判がそのような意図で説示をするはずはないと捉えるのであれば、たとえ最高裁に喧嘩を売っているように見えるとしても、上記のような「事情」を認定することをもって最判に応えることは、結局は最判の説示を正しく捉えることになるはずだ、と思う。


(10)最判の実務への影響

顕著な効果は「本件発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点」で検討されなければならないという最判の一般論についてはともかく、その理由をもって “本件の” 原審を破棄したということが実務に及ぼし得る影響は大きい。 本件には特殊な状況がある。 原審に先立つ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。」と説示され、その判決は既に確定しているからだ。

この状況で、本件発明の進歩性がこのまま肯定されることになれば、所定の効果を有することを確認することについて出願前に既に動機付けがあり、その用途に適用することには既に進歩性がなくなっていることが明らかな状況であっても、その効果が予想外であれば、直ちに進歩性が肯定されるという雰囲気が醸し出されるだろう。

例えば、先行文献には本件発明の構成が開示されており、「この化合物の○○活性について調べてみることも興味深い。」とまで記載されているとしても、実際にその活性を調べて高い活性が確認されたり、用量依存性において目新しい特性(本件のように高濃度においても活性が低下しないなど)を示すことが分かった場合には、出願人としてはこの最判を掲げて進歩性を主張できることにもなりそうだ。

よって、出願人・特許権者サイドにとっては、この最判はとてつもなく強力な武器となる可能性があるが、それに対峙しなければならない側にとっては、どうやってその進歩性が否定できるのか、頭の痛い状況になるのではないか。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月30日

予測できない顕著な効果を否定できない限り進歩性を否定することはできないのか(「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決,平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)


この事件については、原審の知財高裁判決(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;部眞規子裁判長)に対して玉井克哉先生が出された論文(自治研究 94(6) 136-150 (2018))を読んだことをきっかけに、昨年(2018年)の6月22日の投稿で感想を書いたことがあった。 そして本件が上告されていることについては、その投稿の最後で書いたように、「顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。」 というのが私の気持ちだった。

ところが本件は最高裁に受理されて口頭弁論が開かれることになってしまい、玉井先生が「少し、わくわくする」とツイートしていらっしゃった。

そして8月27日、原判決を破棄して知財高裁に差し戻す判決が出て、玉井先生も「拙稿と意見が一致」とツイートしているとおり、「玉井先生おめでとうございます」という感じになってしまった。 少なくとも破棄差し戻しと言う結果やその他のいくつかの点では 。

今回の判決に関して玉井先生は、上記のツイートで「合理的なルールの形成をお手伝いするのが法学の役割の一つなので、少し仕事をしたかな、という気がする。」とおっしゃっている。 しかし、判決の拘束力の問題について判示したのならともかく、今回の判決で最高裁は「顕著な効果」について判示したわけで、特に「顕著な効果」と進歩性の関係については、何が「合理的」なのかはまだまだ議論は尽くされていないと私は思う。 だからこの問題について最高裁が早々と口を出すとすれば、それはアカデミアの機能や役割を最高裁が妨害することになると思う。 もし今回の判決がそういうものであるのなら、今回の判決は批判されるべきものだと私は思うし、逆にそういうものではないとするのなら、今回の判決の射程は、そうした論点に影響を及ぼさないほど「狭い」と理解すべきだろうと思う。

そういうことも考えながら、今回の最高裁判決で私が感じたことを書いてみたい。

*      *      *


(1)最判の核心部分

今回の最判の核心部分は、何と言ってもここだろう。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
・・・本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・

これについては、Sotoku 10号で私も次のように書いている。

Sotoku 10号の脚注36]
・・・本件発明の構成)が出願日当時にどのような効果があると予測されていたかが検討され,その予測された効果と比較して本件発明の現実の効果」(速見禎, 知財管理, Vol.67, No.5 (2017) 732-745の739ページ右欄)が高いことが重要なのであり、引用発明の効果に対する高低が重要なのではない(この点、清水元判事も退官後の講演において同旨の発言をしている)。

速水先生の論文を引いたから「予測されていた」と過去形になってしまっているけれど、別に出願当時に予測されていたという事実が必要なわけではなく、出願当時に予測される本件発明の効果と比べて実際の効果がどうだったのかが重要なわけだ。

例えば有害な塩素系フロンを代替できる冷媒ガスを開発していて、塩素を含まない新規な炭環系化合物を開発したとする。 それで、当時の炭環系化合物としては最高の冷媒性能を示したので「顕著な効果」だと主張したところ、審査官や裁判官から「塩素系フロンでは既に達成できていた効果だから顕著な効果とは言えない」と言われたら誰だって頭にくるでしょう? つまり、比較対象として相応しい先行化合物が存在するのに、それとは違う化合物においてその効果が達成されていた、ということをもって「顕著な効果」を否定するのはおかしいということだ。 なぜそうなのかと言えば、効果の顕著性を考える場合は、まずは「本件発明が持っているだろうと予測できる効果」を予測しなければ「予測を超えるか否か」を決めようがないからで、そのためには、なるべく本件発明の構成と近い先行発明を持ってきて、その効果から類推される本件発明の効果に比べて、実際の効果はどうだったのかが検討されるべきなのだ。

したがって、私は上記の最判の判示には同意できる。 ちなみに第一線でご活躍中の高名実務家の高橋先生は本件について、「いろいろと言いたいことはあるけど、何を言っても関係者や判断者が良く思わないだろうから、(後略)」とツイートしつつも、この点については、「効果の顕著性は特定の構成との関係で判断すべき、という抽象的規範には異論はないよね」とツイートされているし、同じく高名実務家の岩永先生もブログで、「・・・,同様の作用効果を有する違う系列の物が知られているからという理由だけでは,顕著で有利な効果の否定はできない,ってことでしょうか。」と書かれている。

上記の判示は、今回の最判の主文の結論に導くために必要十分な判示だと思うから、私は、これが最判の射程だと捉えたい。


(2)構造を異にする先行化合物と比較することは許されないのか?

しかし、上記の考えもあまりに硬直的に考えてしまっては妥当性を欠くことになる。 例えば今回の最判で裁判所は、上記の核心部分の説示に至る前に、以下のようなことを説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
 ・・・他の各化合物は,本件化合物と同種の効果であるヒスタミン遊離抑制効果を有するものの,いずれも本件化合物とは構造の異なる化合物であって,引用発明1に係るものではなく,引用例2との関連もうかがわれない。そして,引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。
 しかるに,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。

最高裁の上記の説示を形式的に理解してしまうと、本件と全く同じ化合物の効果が引例に示されているか、その効果が高いことが高い確度をもって推認できない限り、本件化合物の効果は常に「予測できない」ということになりかねない。 しかし出願前に、この程度の活性を持つ化合物はたくさん知られていたという事実がもしあるのなら、たとえ構造的に異なる本件化合物においてそれが分かったからといって別に驚くにあたらないと評することはありうるだろう。 つまり、顕著な効果を否定するにあたって、本件化合物やそれと構造的に近い化合物において活性が知られていること(あるいは高い確度をもって推認できること)が必須というわけではないと思う。 構造こそ違えど、他の構造を持つ抗ヒスタミン化合物が、それなりに高いヒスタミン遊離抑制作用も持っていることがあることが知られていたのなら、抗ヒスタミン化合物である本件化合物についても、その程度のヒスタミン遊離抑制作用をもっているのではないかと期待することは当業者が抱く合理的な期待の範囲内であって、驚くに値しないという考えることもできるということだ。 むしろ、原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところで、その点は6月22日の投稿でも指摘したとおり。


(3)構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を肯定することも許されないはず(宮崎賢司先生の言う相同性理論)

最高裁は、「本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする・・・他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と言いながら、「(3) 本件各発明に係る効果」のところで、以下のように説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
(3) 本件各発明に係る効果
 本件特許の特許出願に係る明細書(以下「本件明細書」という。)に接した当業者が認識する本件各発明に係る本件化合物のヒスタミン遊離抑制効果は,本件明細書記載の実験(ヒト結膜肥満細胞を培養した細胞集団に薬剤を投じて同細胞からのヒスタミン遊離抑制率を測定する実験)において,本件化合物(シス異性体)のヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制率が,30μMから2000μMまでの濃度範囲内において濃度の増加とともに上昇し,1000μMでは66.7%という高いヒスタミン遊離抑制効果を示し,その2倍の濃度である2000μMでも92.6%という高率を維持していたというものであり,これに対して,抗アレルギー薬として知られるクロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムが,2000μMまでの濃度範囲でヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を有意に阻害することができなかったというものである

本件発明の効果に関する上記の最高裁の説示を読むと、「クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムなどの先行化合物はヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったのに対し、本件化合物は活性を示したのだから、これは予想外の顕著な効果だな」などと思ってしまうかも知れない。 しかし、クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムは、それこそ本件化合物とは「構造を異にする」化合物だ。 もし最高裁が、本件化合物とは構造を異にする化合物が同等の効果を発揮することが知られていたということのみをもって「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、本件化合物とは構造を異にするクロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムが本件化合物と同等のヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったということのみをもって本件発明の効果を「顕著な効果」と認定することも許されないというべきだろう。 これは宮崎賢司先生が最近書いた論文で指摘している「相同性理論」(二枚舌禁止など)(tokugikon no. 293)みたいなものだ。

要するに、効果を比較するのに相応しい先行化合物は何かということを考え、そういう化合物があるのなら、それと比較すべきということだ。 そして本件化合物と比較すべき先行化合物としてふさわしい化合物の代表例は、本件の医薬品承認にあたって厚労省所管の機構(PMDA)が出した報告書でもそうなっているとおり「ケトチフェン」ではないか? そしてPMDAの報告書によれば、本件化合物が持つヒスタミン遊離抑制作用は、ケトチフェンの24分の1でしかない(2018年6月22日の投稿の「3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない」を参照)。 これが正しいのだとすれば、本件化合物が示したヒスタミン遊離抑制作用が予想外の顕著な効果であるのかという点については疑問が生じるだろう。 また、この出願の明細書作成者は、なぜヒスタミン遊離抑制作用を示さない先行化合物との比較実験だけを明細書に記載し、ケトチフェンとは比較しなかったのか、という疑問も生じるところだ。 まあ当時の事情は知らないが。


(4)医薬用途発明であることは、進歩性のハードルを下げる理由となるのか?

なお、発明の効果が「顕著な効果」と言えるか否かの判断について、今回の最判には、「・・・,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・,本件各発明の効果の程度が,・・・顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と説示している箇所があり、これについて高石先生は射程範囲が問題となる旨をツイートされている。

この説示を見て思い出すのは、冒頭で紹介した玉井論文だ。 昨年の6月22日の投稿でも書いた通り、進歩性を認めるべき「顕著な効果」に関連し、玉井先生はその論文の中で、「医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。」、「・・・既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである。」 と論じていた (玉井克哉, 自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ)。 今回の最判が、進歩性を肯定するに足る「顕著な効果」を否定できないという文脈の中で「医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることからして、最高裁は、医薬用途発明に関しては、低い効果であっても「顕著な効果」だとみなされるということを前提として説示を行っている可能性は考えられるだろう。 あるいは、今回の最判における玉井論文の影響を示唆するものと考えることもできるかも知れない。

しかし、これについては先の投稿でも書いた通り私は批判的で、医薬分野についてだけ、類似品を増やすことを「特許制度として」特別にサポートする理由などそもそもないと思うし、現在の特許法が立法を経ずしてそれができる理由もないと思う。 ちなみに医薬品の特許延長制度は一見すると医薬発明を特別に厚く保護しているように見えるが、実際には、医薬品の製造販売承認を受けるにあたって国の規制により定型的に生じる特許期間の侵食をそのまま回復させているだけであって、医薬発明を特別に厚く保護しているわけではない。 その辺は同志社大の井関涼子先生がずっと指摘されているとおりだろう。

もし本件発明が、本件化合物を初めて作り出した発明であったり、本件化合物の抗ヒスタミン活性を初めて見出した発明であるのなら、私も喜んでその発明の進歩性をサポートするだろう。 たとえ既存の抗ヒスタミン剤と活性が変わらない、あるいは既存薬よりも若干活性が低下したものであったとしても、もし本件化合物が新たな構造を持つ新規化合物を提供した発明であるのなら、喜んでその進歩性をサポートするだろう。 しかし残念ながら、本件発明はそのような発明ではない。 この化合物は本件出願前に抗ヒスタミン剤として既に知られており、結膜炎の動物モデルにおいて治療効果も確認されていたものだ。 この化合物をヒト細胞に添加し、既存の抗ヒスタミン化合物が持っていることも多い「ヒスタミン遊離抑制作用」を検証していくのは実験の自然な流れとも言える。 そのような実験を行った者に対し、医薬分野だからといってわずかな進歩でも特許を与えてしまっては特許制度を歪めてしまうことになる。

それに、わずかな効果を基に医薬用途発明の出願を行う者が、その医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はまったくない。 わずかな進歩しかない医薬用途発明の特許を濫立させることによって、医薬産業が発展するとも、より多くの医薬品が上市されるとも期待することはできないのではないか。

そうした医薬品に対する保護は、医薬品を実際に開発し、手間と金のかかる治験を経て上市してくれた者に与えることこそ相応しい。 そうすると、6月22日の投稿でも書いた通り、この問題は特許制度として扱うよりも、薬事制度として適切な保護を行うようにする方が合理的だと思う。

[2019/8/30 追記]
但し、後述の(7)で、進歩性判断における「意味づけ」について触れるけれど、その部分で発明分野に応じた違いは事実上考慮されるのかな、という気もする。 私は効果の顕著性はあくまで技術的な観点で考えたくて、産業政策的に進歩性のレベルを上下させべきだという発想はないのだけれど、例えば「これだけの効果の違いでも、新薬として売りにできるほど違いだから顕著な効果だ」というような判断は、私としてはあり得る気がしており、果してこれが技術的な観点なのか、産業政策的な観点も含まれているのかは、確かによく分からないところがある。



(5)進歩性なしという結果から逆算して「顕著な効果」を否定する裁判所の実務が論理的な隙を生むことになる(という可能性)

これは想像でしかないけれど、もし裁判所が、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文を書いているのだとすれば、そういう裁判所の実務こそが、顕著な効果を否定する論理構成を捻じ曲げ、ひいては上級審で否定されてしまう原因になるのだと言いたい。

裁判所の実務が本当はどうなのかという点については、実際に判決を行った(行っている)裁判官が明らかにしない限り表には出てこないだろうが、判決文を読む限り、そういうことを疑わせる事例はあるという気がする。

「シュープレス用ベルト事件」に関して前回の投稿で書いたとおり、この問題に関連して元知財高裁所長の清水先生は、顕著な効果があれば容易なものでも進歩性を認めるという考え方(独立要件説)について、「多くの裁判例の立場である」、「他の多くの裁判例と同様に」と論じている。 確かに多くの判決はそうなっているのかも知れない。 しかしそれは単に、多くの判決文の「体裁」がそうなっているというだけであって、特に進歩性を否定する判決をする場合に、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文をそういう体裁にしているという可能性は否定できないのではないかと思う。

仮に後者のような考え方、すなわち、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考える場合、判決文においては「顕著な効果なし」という結果ありきで「顕著な効果」を否定することになるから、どうしても論理付けが強引になってしまだろううし、論理的に破綻してしまうことも多くなるだろう。

但し、仮にそういうことがあるとしても、裁判所だけを責めるわけにはいかないかも知れない。 なぜなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」という「独立要件説」的な考え方はなかなか強固な通説であって、田村先生も最近の論文で「独立要件説的な説示の影響力を物語る」と書いている(パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12の脚注20)。 裁判所としても、そういう通説に反するような判決文は書きにくいだろうから、進歩性を否定する場合は、必ず「顕著な効果」も否定しておこうという気分になってしまうこともあるのではないだろうか(まぁ、全部想像ね)。

そういう気持ちから脱して、たとえ「顕著な効果」があっても進歩性を否定するときは否定するのだという判決文を書いてもらうには、裁判官に、それだけの勇気と、ある程度の勝算を持ってもらう必要があるわけで、私はそういう勇気や勝算を与えるのがアカデミアの役割だと思うし、そういう意味で、「顕著な効果」があっても進歩性を否定すべき場合はあるのだと論じる田村先生には大いに期待しており、また、そう論じる論者がもっと多く出てこなければならないと思っている。(もちろん、パブリック・ドメイン・アプローチの重要性を説く𠮷田先生にも期待している)

ちなみに欧州特許庁では、予想外の顕著な効果があっても進歩性を否定すべき場合があることを明示的に定めており、発明に至る道が一本道である場合は、それによる効果は単なる「bonus effect」とみなして進歩性を否定するということになっている(EPO審査基準 Part G, Chapter VII, 10.2)。 これは、本当に「一本道」である場合に限られず、選択肢が複数であったとしても、その数が限られており、それらの選択肢は近いうちに試されることになるだろうと認定できる場合も同様だろう。 日本でも、立法によらずにこうした考え方を採ることは可能だろうし、審査基準としても、こうした考え方を明記しておくことを考えた方がよいのではないかと思う。


(6)最判は「独立要件説」を支持したのか

今回の判決文で最判は、「本件特許に係る発明の進歩性の有無に関し,当該発明が予測できない顕著な効果を有するか否かが争われている。」と述べるだけで、「顕著な効果があれば進歩性あり」とは判示していないから、「独立要件説」の立場をとっているとまでは言えないと解したい。(なおツイートには、独立説を採ったと評価できるとするもの(高石先生)や、そうとも言い切れないとするもの(田中先生)などがある。) (田中先生のブログの記事(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))も参照。)

本件において予測できない顕著な効果を有するか否かが争われていることを見た最高裁は、今回の最判で、「顕著な効果を判断するなら、ちゃんと判断しろ」と言ったまでであって、「顕著な効果があれば進歩性あり」と言ったわけでもなければ、「本件の進歩性の判断において、顕著な効果を判断する必要がある」と言ったわけでもないし、本件が、「顕著な効果があれば進歩性が認められる案件であるのか否か」については最高裁は関知しないし責任も負っていない(と思いたい)。

そもそも特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、その発明については、・・・、特許を受けることができない。」と定めている。 そうすると、容易に発明をすることができたにもかかわらず、予想外の「顕著な効果」があったことをもって進歩性を肯定するとすれば、29条2項に反することになるのは明らかだろう。 今回の判決で裁判所は、顕著な効果を否定した原審の判断について「・・・,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」と判示しているが、それを言うならそもそも29条2項の判断(容易に発明をすることができたか否か、の判断)において、「顕著な効果」が進歩性肯定に働く要因として常に作用できると考えることは、法令の解釈適用としてできるものではないはずだとも思う。

もし「発明の効果」によって進歩性が肯定される場合があるとすれば、それは「容易に発明をすることができた」(29条2項)という判断に影響を及ぼすような効果がある場合に限られるべきだろう。 それは、一体どのような場合なのだろうか?


(7)「顕著な効果」を否定できない限り進歩性を否定できないという呪縛から逃れよ

「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合とは、具体的には、以下のような場合だろう。

顕著な効果により進歩性が認められる場合の例

ある発明者は、コレステロール生成阻害剤として既に知られているピリミジン環を有する既知化合物(化合物A)を改変することを考えた。 改変とは具体的には、化合物Aの一部の置換基を、他の置換基に取り換えることであるが、「他の置換基」に取り換えるといっても、誰も知らない新たな置換基に取り換えるわけではなく、周知な置換基(フェニル基とか、ベンジル基とか、そういうもの)に取り換えるだけだ。 また、そういった置換基に置換した化合物を製造する手法自体は周知技術であり、容易だ。 但し、化合物Aのどの置換基を、どの他の置換基に置換するかには様々な組み合わせがあり、その組み合わせの数は「2000万通り」は下らない。 改変により活性が低下したり、喪失することもあるだろうし、上昇することもあるだろう。 しかし一般的には、でたらめに改変すれば活性は低下することが多いのは技術常識であろう。 そしてこの発明者が、化合物Aのピリミジン環の2位という部位についている置換基に含まれるメチル基をメチルスルホニル基に置換したところ、同等以上の活性を持つ化合物Bが得られ、ベンジル基に置換したところ活性が1/3に低下した化合物C(でたらめに改変すればこのくらいに低下するだろうという程度に活性が低下した化合物)が得られた。

これは「ピリミジン誘導体事件」に基づく例で、私がSotoku 10号に書いたものだ。 上記の「化合物A」とは引用発明の化合物、「化合物B」はピリミジン誘導体事件の本件発明の化合物であり、「化合物C」は私がでたらめに作った化合物だ。 このうち、「化合物B」には進歩性は認められるべきだが、「化合物C」には進歩性は認められるべきではないと私は思う。 「化合物C」はでたらめに作っただけだからね。 「化合物B」も「化合物C」も、2000万通りの組み合わせの中の一つであって、それらを選択する動機付けは特にない点では一致している。 それなのに、なぜ「化合物B」にだけ進歩性が認められ、「化合物C」には進歩性が認められないのだろうか? それは、「化合物B」には(進歩性を認めるに足る)「顕著な効果」があると認められ、「化合物C」にはそれがないからだ。

「化合物C」は、考えられる2000万通りの改変の組み合わせの中の一つで改変したら、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という程度に活性が低下した化合物が得られたというもので、「顕著な効果」は認められない。 それに対して「化合物B」は、「化合物A」と同等以上の活性を示したというのだから、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という予測を上回る活性を示したと言えるだろう。 つまり、「本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったもの」、「当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なもの」と言いうる効果だ。 そして、その効果があることにより、「化合物B」という発明は、「確かに、2000万通りの選択肢の中からそういう化合物を選び出すのは 『容易に発明をすることができた』とは言えないよね」と評することができるから、「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合となるのだ。

このように、「顕著な効果」により進歩性が認められるためには、その前提として、本件発明の構成に到達にするまでには道は一本ではなく、たとえ一つ一つの道を歩くことは容易であるとしても、「本件発明の構成」に至る道を当業者が選び出すことはそうそうすぐに起こることではないだろうという事情が必要なのだ。 「顕著な効果」とは、そういう場合において、「なるほど “当たり” を引き当てたね」とみなせるほどの効果のことを言い、その場合に限って「顕著な効果」は進歩性を認める理由となるべきだと思う。 したがって、そもそも選択肢が一つしかなく、その構成が試されるのは時間の問題であった場合は、「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いており、顕著な効果があっても進歩性は認めるべきではない。

ちなみに、「化合物C」の進歩性はどのように否定されるかというと、確かに多数の選択肢の中から「化合物C」を選び出すことはそうそうありそうにないという意味では容易に到達できるとは言えないが、「化合物C」の効果は、他の選択肢をでたらめに選択した場合と同等の効果しか発揮しない以上、「化合物C」という発明は、「でたらめに選択した発明の一つ」に過ぎないと評されるのであり、「でたらめに選択した発明の一つ」を発明することは容易だと解される以上、「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことになり、進歩性は否定される。

上記のとおり、「発明の効果」を考慮することによる進歩性の判断は、ある種の「意味づけ」を伴う(Sotoku 10号の脚注38や、2019年4月24日の投稿の最後の部分を参照)。 つまり、「化合物C」は「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけがなされることにより容易だと判断されるのに対し、「化合物B」は「でたらめに選択した発明の一つ」とは思えない程度の効果(これを「顕著な効果」という)があることにより、「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけが回避され、進歩性が肯定される。 したがって、私はこれを「意味づけ要件」(あるいは「進歩性の第2要件」)と呼んでいる。

以上に説明した、私が思う「あるべき進歩性の判断手順」をまとめると以下のようになる。

[あるべき進歩性の判断手順]
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但し、上に示した考え方は、実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方とは異なっているだろう。 実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方は、以下のようなものだ。

[森田裕, 日本知財学会誌 Vol.16, No.1, 2019 31-40 の 図1]
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すなわち、まず進歩性判断の第1段階で、「発明の構成」が容易想到であるか否かが判断される。そして、「発明の構成」が容易ではない場合、進歩性は直ちに肯定される。 そして「発明の構成」が容易ではない場合でも、進歩性判断の第2段階で「発明の効果」が検討され、その効果が「顕著な効果」である場合は進歩性が肯定される。 このように、通説的な理解では、「顕著な効果」は「発明の構成」が容易な場合の救済策として位置づけられており、いわば進歩性肯定のダブルチャンスが用意されているというのが通説と言えるだろう。

通説的な理解(下図)でも、私の考え方(上図)でも、「発明の効果」が検討されるのは第2段階においてである。

「発明の構成」が画期的に新しいもの(複数の選択肢の中から選んだだけというものではないもの)である場合は、通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)とで違いは生じない。 なぜなら、「発明の構成」が画期的に新しいということ自体が、「でたらめ・ありきたり」ではないことを推認させるから、効果の「大きさ」を考慮するまでもなく第1要件も第2要件(意味づけ要件)もクリアできるからだ。 通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)で違いとで違いが生じるのは、複数の選択肢の中からでたらめに選んだだけの発明(上記の「化合物C」のような発明)に進歩性を認めるか否かという場面と、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が高ければ進歩性を認めるのか否かという場面であり、通説的な理解では、どちらの場合も進歩性を認めてしまうのかも知れないが、私の考え方では進歩性は否定されることになる。

「ピリミジン誘導体事件」判決では、膨大な選択肢がある場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 これは通説的な理解(下図)に沿うものであるが、そのような考え方では、上記の「化合物C」のようなでたらめ発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている。 容易なものでも効果が顕著であれば進歩性を認める通説的な理解(下図)に基づくのであれば、進歩性は肯定されうるのかも知れない。 しかしそのような考え方を採ったのでは、特許制度は「容易ではない」発明を保護する制度というよりも、目ざとい人々によって発明が独占される制度となってしまうのではないか。

ちなみに、上に引用した通説的な進歩性の考え方の図を作成した気鋭の若手実務家の森田先生は、次のようにツイートされている。

[6月14日ツイート]
特許って最高の発明を保護する制度じゃなくて、最低の発明保護に適した制度。皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できるわけです。(後略)

これを受けて高橋先生は、やや自嘲気味に、次のようにツイートされている。

[7月29日(1)]
特許は、皆が次の日に思いつくことを権利化して他人の事業を邪魔することを可能にする制度だ、しかも同業他社の製品が明らかになってから補正とか分割をするという合法的な嫌がらせ手段が多数備えられている、ってことに疑問を抱かなくなってからが一人前の実務家だよ。

[7月29日(2)]
ライセンス料をしっかり稼げている特許発明で感動的な大発明はかなり少なくて、たいていは、中身のないくっだらねぇ発明だなぁ、公知例とほとんどおんなじじゃん、特許技術だけでギリ権利化しただけ、みたいなのがガンガン金を稼いでいる。これは特許制度の常識だと思うが。

[7月29日(3)]
特許制度っていうのは一部の頭のいいひとがすごく濫用している制度だよね。それによる社会的損失は甚大。制度維持の人的物的コストも半端ない。しかし、先行技術開発に対する投資保護ぐらいの機能は一応あるし、諸外国も特許制度があるので、廃止するという決断は無理。

(なおこれらの先生方はひどいことを言っているのではない。むしろ、よくぞおっしゃって下さいましたというようなことをツイートしているだけなので念のため。 また、これらのツイートは本事件との関係でされたものではない。)

私も特許制度を廃止しろとは思わない。 しかし、放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明は、そもそも「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いているのであり、効果の顕著性を判断するまでもなく、進歩性は否定されるべきだと考えるのが妥当だと思うのだが、どうだろうか。

*     *     *

以上のとおり、「ピリミジン誘導体事件」と「アレルギー性眼疾患事件」(本事件)は、「発明の効果」に関する通説的な理解に潜む不都合を露わにさせる好例を提供していると思う。 これを機に、進歩性の判断における「顕著な効果」がどのように位置づけられるのかについて、通説に疑問を持つ人が増えてくれることを期待したい。


[2019/8/30 追記・削除などいくつか実施。。 ]

[2019/9/03 (6)に田中先生のブログのリンクを追記。 ]


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする