2019年10月17日

「先使用権」の正当化根拠と「進歩性」要件を「依拠性の擬制」で考える(前田健『先使用権の成立要件』特許研究 PATENT STUDIES No.68 (2019))


進歩性の要件について書いた前回の投稿を公開した後で、「特許研究 第68号」に掲載されている前田健先生(神戸大准教授)の論文『先使用権の成立要件 ― 制度趣旨からの考察 ―』を読んだのだが、その内容に驚いてしまった。 私の前回の投稿と密接に関連する内容がテーマとなっていたからだ。

私が前回書いたのは「進歩性」(特許法29条2項)の問題であるのに対し、今回の前田先生の論文は「先使用権」(特許法79条)の問題であるから、この二つは一見関係がないように見えるが、これらは特許制度の制度趣旨において関わり合っていると私は捉えている。 それが前回の私の投稿で触れた「依拠性の擬制」という観点だ。 前回の投稿で私は、進歩性に求められるべき「第1要件」について以下のように記載した。

[2019年10月9日の投稿より]
「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、・・・。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

つまり私の特許制度観は、発明者が行った発明がフリーライド(ただ乗り)されてしまうのを法制度として防ぐことによって、発明者が安心して発明を行い、それを公開できるようにし、また発明が秘匿されずに公開されることにより、それに触れた人々がその発明を(適法に)利用したり、さらなる発明を行ったりできるようにすることで、発明の奨励と産業の発展を図ろうとする制度だというものだ。 したがって、フリーライドとは言えないようなものに特許権が行使されるような事態にはなるべくしたくないのだが、例えばある特許発明に該当する発明を実施している被疑侵害者がいるとして、その人が、その特許発明を見てパクった(すなわちフリーライドした)のか、それとも特許発明など知らずに独自に開発した(すなわちフリーライドしていない)のかをいちいち判断するのは困難だから、そうした判断を不要とするために、フリーライドしているとみなせる範囲にだけ特許を付与することにして、その範囲の発明を実施している人は、本当にフリーライドしているかを問うことなく、フリーライドしているとみなして権利行使することを許すことにすればよいだろうと考えるわけだ。 「フリーライドしているとみなせる範囲」とはどういう範囲なのかというと、「その特許発明を見なければ、およそ独自に発明することは困難だろうとみなせる範囲」だ。 したがって、そういう「範囲」がとれないような発明、すなわち、「お前の発明など、お前がいなくても、誰かが近々発明するだろう。」というような発明は、特許をあげてはいけないということになる。 そういうものを特許にしてしまうと、その後で同じ発明を独自に発明した人が続出して、そういう人たちが迷惑するし、「特許制度って邪魔なだけの制度だ」という気分が広まってしまうことにもなる。 したがって、 フリーライドだとみなせる範囲にだけ特許を付与すること、すなわち、「依拠性を擬制できる範囲」にだけ特許を付与することは、特許制度を円滑かつ安定に運用していくために望まれるのでないか、と私は考えているのだ。

例えば、上の文中で言及されている Sotoku 6号(2016)の脚注111で私は、以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
 特許権が権利行使できる範囲に「依拠性」が擬制できることは、出願時点にだけ求められることではないだろう。 つまり、権利行使できる範囲に含まれる発明は、もしその特許発明がなければ、その特許権の存続期間中のそれなりの期間にわたって、独立してなされることはないことが求められるのではないか。 放っておいてもすぐに誰かが発明するようなものについて、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるのは「依拠性の擬制」の観点からは違和感がある。 そうすると、ある技術分野において“出願競争が起きている”という状況は、一見すると華やかで、特許制度がうまく活用されているように見えるとしても、結局は一番乗りを果たした者に、その発明に何ら依拠性がない後行者の実施をも排他できる権利を与えるという状況が発生していることを意味しているのだから、特許制度が失敗していることを示唆しているのかも知れない(その典型例が上述のヒト遺伝子の物質特許だろう)。・・・。
 ところで特許審査における進歩性の判断にあたっては、一般に「顕著な効果」(あるいは「有利な効果」、「予期せぬ効果」、「驚くべき効果」)が参酌され、たとえ先行技術から一見容易に発明することができるものであっても、「顕著な効果」があった場合は進歩性があるものとして特許が認められることがある(平成27年9月改訂審査基準第III部第2章第2節3.2.1)(宮崎賢司, 知財立国の発展へ 竹田稔先生傘寿記念, 中山 信弘ほか編 (2013) 715-737も参照)。 しかし、「依拠性が擬制できること」を重視する限りは、上述の通り、放っておいてもじきに誰かが発明し得るようなもの(時間経過と共にじきに依拠性が擬制できなくなるもの)に特許を与える必要はないということになるから、「顕著な効果」があったからといって特別に特許にする必要はないということになる。 この問題については、最近でも例えば田村が考察しており、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるような事例について、「・・・発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 なお田村は「フリー・ライドの禁止」を理論構築の出発点としているから(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)、「依拠性の擬制」に基づく本稿の考え方が田村の結論に近づくのは当然かも知れない。

ところが、「依拠性」が犠牲できないのが「先使用」、すなわち、特許出願した者ではない者が、同じ発明を独自に行ったことが明らかな場面だ。 「依拠性」が擬制できる範囲に特許権を及ぼそうと考える限り、依拠性が擬制できないことが明らかな「先使用」に対しては、特許権が行使されないようにする何らかの手当てが必要だろう。 そのために設けられているのが特許法79条だと捉える。 Sotoku 6号の脚注114で私は、「先使用権」がなぜ正当化できるのかについて、「依拠性の擬制」の観点から以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注114]
脚注114
 「先使用権」について考えると、現在の日本の制度では、先使用者は「出願前」に「実施や実施の準備」を開始していることが、先使用権が認められる条件となっている(特許法79条)。 実施や実施の準備に入っていたのが「出願前」なのであれば、その実施は、出願に係る発明に依拠していないことが客観的に示唆されるから、「依拠性の擬制」の観点からも、権利行使できないことにするのは納得しやすい。 但し、「出願前」でなくても、出願に係る発明の「公開前」に実施や実施の準備を開始したのであれば、その発明に依拠していないことに変わりはないから、「公開前」に実施等を開始した場合も先使用権を認める方がよいことになる(・・・)。 しかし「公開」とは特許出願の公開公報の発行に限られるものではなく、それより前であっても出願人が出願後に様々な手段や程度で公開しうるものであるから、それらを考慮しつつ先使用権を認めるか否かを決定することにすると、制度は今より複雑で予測性の低いものになってしまうかも知れない。 また、「実施や実施の準備」を条件とすることについても、たとえ「実施や実施の準備」を開始していなくても、第三者が発明を完成させたのが出願より前であることが明らかであれば、その発明は出願に係る発明に依拠していないことになるから、その発明についてその第三者に無償の実施権のようなものを認めてもよいと考えることもできる(・・・)。 しかしそうすると、第三者の発明について、発明した時期や、一体何を発明したのかを見極めることが必要になってしまう。 制度の運用を面倒なものとしないために、「出願」で時期を区切ったり、「実施や実施の準備」という外からでも検証しやすい行為があったことを条件とする現在の先使用権の制度は、「依拠性の擬制」の観点からも最低限の機能は果たしていると言えるだろう(もっと先使用権が認められる範囲を拡大する余地はあるだろうが)。 なお出願後に実施形態を変更すると先使用権が認められなくなり得るのは、出願後はその出願に係る発明が公開されているかも知れず、変更後の実施形態が出願に係る発明に依拠していないことが外形的に明らかではなくなるからだと理解してみることができる(逆に言えば、単なる時代の変化に伴う実施形態の変更など、出願に係る発明に依拠していないことが明らかな変更は認めてもよいと考えることはできる)。
 先使用権の趣旨に関してはこれまで、「公平」、「発明や実施のインセンティブ」、「占有状態の保護」、「経済的損失の防止」などの観点で説明がなされている(麻生典, 慶應法学第29号(2014)233-269の248ページ以降に紹介されている学説等を参照)。 これらの中から本稿に近い見解を探すと、例えば牧野は、「・・・、先使用権制度を支える根拠は、最先の出願に先立って、これとは別個に独自の精神的創作としての発明を完成したことにあると解すべきであろう。」とした上で、「・・・、先使用権制度の根拠の中心に、前示のように最先の出願に先立つ発明の完成を置くとすれば、事業又は事業の準備の程度の判断には、・・・、発明の完成の客観的外部的表示としての意義が重視されることになるであろう。」(下線追加)(牧野利秋, 知的財産権訴訟寸考 (2002) 東京布井出版の191-192ページ)と論じている。 出願前に実施や実施の準備を開始していたことを、出願に係る発明とは独立に発明を完成させたことの外部的表示だと捉えている点で、これを出願に係る発明に対する「依拠性」がないことの外形的な表示だと捉える本稿の考え方と重なるものがある。 また森林は、「先使用権制度を設けた趣旨は、出願当時、特許出願に係る発明に由来せずこれと別個に、同一性を有する発明について、すでにその実施の事業をなしまたはその実施の事業の準備ができた程度にまで至っている者については、その実施または実施の準備は特許出願に係る発明に由来せずこれから何らの寄与もうけていないことが客観的に明らかであり、・・・」(下線追加)(森林稔, 企業法研究 (1969) 175輯, 12-20の13ページ)と論じており、特許発明の「寄与」(すなわち使用者側から見ると「依拠性」)がないことの外形的な表示に着目している点で、本稿の考え方と通じるものがある。
 ・・・。
 ともかく、特許制度には「依拠性の擬制」の観点で再考できそうな問題が広範囲にわたって存在し、発明の保護範囲や権利行使の許否を考えるにあたって1つの物差しを与えてくれるように思われる。 本稿の本文や上の脚注で述べたことからすると、PBPクレームの解釈問題も、先使用権の問題も、機能クレームや均等論の問題も、広すぎる遺伝子の物質特許が引き起こすアンチ・コモンズの問題も、パイオニア発明に開示要件を超えた広い権利範囲を与えてよいのかという問題も、すべて「依拠性」の判断を不要とした絶対的独占権の制度が宿命として持つ歪みから生じていると言えそうである。 つまり、依拠性をうまく擬制することが、絶対的独占権制度の納得感を高めるためには求められると思われるのである。

*   *   *

さて、前置きがかなり長くなったけれど、以上のようなことを私は考えているわけだ。 上の文章を書くにあたって私は、先使用権に関する過去の文献をざっと当たってみたけれど、「依拠性が擬制できない」ということを先使用権の正当化根拠として前面に打ち出している文献はあまり見当たらず、上記のように、牧野先生や森林先生の比較的古い論文が見つかっただけだった。ところが、今回の前田先生の論文では次のように論じられているのだ。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 21ページ]
(1)はじめに
 特許法においては,依拠性要件を侵害成立に要求せず,独自創作をした発明者であっても権利行使を受けることが当然とされている。一方,先使用権の場面では,その原則が修正され,特許発明に依拠しない発明の実施に対する権利行使が禁止される 18)。この意義を理解するには,そもそもなぜ特許法では依拠性が不要とされているかを考察する必要がある。

(2)「模倣」でないものに対する権利行使は正当化できるか
ア 権利行使が正当化できる場合
 多くの知的財産法においては,原則としては,他者の成果にフリーライドしたことが違法性を基礎づけている。

[同 22ページ]
・・・。
 この観点からは,・・・,知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。 この理解の下では,依拠性を求めない特許制度について,なぜ依拠性を要求しないのかが別途正当化される必要があることになる。

[同]
 特許法において独立した発明への権利行使が正当化できる理由として,まず @ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。

[同]
 イ 権利行使が正当化できない場合

 以上,本稿の理解では,模倣でない独立した創作への権利行使が正当化されるのは,@ 特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できること,A ・・・ という条件が成り立つからである。 ところが,先使用権が成立するような場面では,この条件が満たされない。・・・。
(「A」については後で触れるので上の引用では省略した。)

このように前田先生は、「知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。」と論じ、それなのになぜ特許権の行使にあたって「依拠性」が要件となっていないのかについて、「特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できる」からだと説明している。 そして「先使用権」の正当化根拠の重要な柱の一つは、特許発明への依拠性が擬制できないことだと論じているのだ。

前田先生がこのように考えているのだとしたら、話は早いのではないか? つまり、私が今年の4月くらいから延々と書いてきたこと、すなわち「依拠性が擬制できないような発明」、具体的には、その特許発明が公開されなくても当業者の誰かが同じ発明に行き着くのは時間の問題であったと目される発明は、たとえ予想外の「顕著な効果」を奏するとしても特許を与えてはならないという結論に行き着かなければならないのではないか。

特許発明には一般に「依拠性」が擬制できる理由として前田先生は、上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」と指摘している。 私も、依拠性が擬制できる状態だと判断するために、「その特許明細書を読んだ」ことが要件となるわけではないことには同意できる。 それについては私も Sotoku 6号 の脚注120で、「・・・、特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない。」と書いているとおり、いったん発明が公開されれば、それを基に他の発明がなされたり、それが利用されたりすることで、知らず知らずのうちに、その発明は広がって行くものなのだろうから、ことさらその発明を利用しているつもりはなくても利用しているということになるだろう。 しかしながら、どんな発明でも、その発明を公開しさえすれば依拠性が擬制できる状態になると考えるとすれば、かなり乱暴な推定だ。 例えばその発明が、ことさら公開されなくても皆が到達するのは間近だったような場合は、依拠性が合理的に擬制できる期間は、せいぜい皆がその発明に到達すると推定されるまでの間であって、特許存続期間の20年にわたってそのような擬制が合理的に成り立つわけではない。 そうすると、そのような発明について特許を20年も存続させることは、「依拠性の擬制」の観点からは正当化できないというべきではないか? もっとも、特許明細書が公開され、その技術分野の全員がその知識を得たと仮定するのなら、知ってしまった以上、同じ発明を「独自に」発明するということは永久に起こらなくなるのではあるが、だからといって、20年にわたって独占権を行使することを正当化できることにはならないと私は思う。

ということで、特許制度において「依拠性」が要件になっていないことの正当化根拠を「依拠性が擬制ができる」からだと捉えるのなら、依拠性が擬制できる期間が短いと評されるような発明、すなわち、「放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明」(私の言う「進歩性 第1要件」を満たさない発明)には、特許を与えてはならないと考える必要があるだろう。

*   *   *

「重複投資の防止」は「依拠性不要」の主要な正当化根拠となるか

上の引用ではあえて省略したのだが、今回の前田論文では、特許権の権利行使にあたって「依拠性」が要件とされないことの正当化根拠として、「依拠性が擬制できる」ことと並んで、「重複投資の防止」が挙げられている。 具体的には以下のように論じられている。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 22ページ]
 より積極的に依拠性不要を正当化する理由として,A 重複した発明への投資を抑制するということが考えられる。もし,独立発明であれば権利行使されないとしたら,特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。過去の発明の成果を参照させつつ,技術を迅速に進歩させることが特許法の目的だとすると,そのような行動は決して望ましくない。このような重複投資の回避も依拠性不要の根拠となると考えられる。

このように前田論文では、依拠性不要の正当化根拠として、「@ 依拠性が擬制できること」だけでなく、「A 重複投資の防止効果」という理由も重視しており、前田論文においては常にこの2つがセットで登場する。

しかし、A の理由は私にはあまりピンと来ない 。 A の理由は、無理やり「功利主義」的な説明を試みたもののように見えてしまう。

前田先生は、上記の @ の理由、すなわち依拠性が擬制できるということは肯定しているわけだ。 具体的には上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にある ・・・ 。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」 と論じている。 それを前提として考える場合、前田先生が懸念している「特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。」というのはどういう状態なのだろうか。 その特許発明はすでに「人類の共有財産として技術水準を構成している」のであって、たとえその明細書を読んでいなくても、技術水準の上昇にキャッチアップしている限りは、「技術水準にある成果を広い意味では参照している」とみなされることになるのだろうから、その明細書を読んでいるか否かにかかわらず依拠性は肯定されるはずだ。 そういう状況で、なお「過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資する」ことなどできるのだろうか。 山にでも籠って、外界からの接触を絶って研究しないと無理なのではないのか。 そういう変わった人が増えることを想定して依拠性を不要とする制度を作ることが、制度構築にあたってそれほど強い要請なのかは、やや疑問に感じてしまう。

ただし、「依拠性」を要件とすると、「私はその明細書など見たこともないし、依拠していない!」などと主張する被疑侵害者が出現して、そういう人たちは、技術水準を共有していて、間接的にはその特許発明に依拠していると言える場合であっても、訴訟になったりして社会的に混乱が生じるかも知れないとは思う。 だから、それを未然に防ぐために「依拠性」を不要とする制度とすることは重要なのだ、と説明するのならまだ分かるのだけれど、それは「重複投資の防止」という効果を達成するためというよりは、「社会的混乱」を回避するためという方がぴったりくるような気がする。

それに、最も重要なのは、「そもそも依拠性を判断することは困難だ」ということだと思う。 前田先生が「明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成している」と指摘しているとおり、「特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない」(Sotoku 6号の脚注120)。 「そこで、第三者の行為の真相を確かめることなく判断ができるようにするために、『第三者の行為は、その発明を流用する意図をもって行ったものだろう』とみなしてもよいような画一的な条件を設定し、その条件が満たされれば、第三者の行為の真相を明らかにすることなく権利を行使できるようにして、制度を円滑に運用できるようにすることが望まれるかも知れない。」(Sotoku 6号の33ページ右欄)。 そうした方策として採られているのが、現在の特許制度に内包されている「依拠性の擬制」による依拠性要件の不要化なのだと捉えるのが私の考え方だ。 それにより、上で述べた「社会的混乱」の回避も期待することができる。

以上のとおり私は、特許制度が依拠性不要になっていることの最も大きな理由は、依拠性を要件としたのではそもそも制度として運用が困難だという点にあるような気がしている。 ただし、重複投資の防止効果はないわけではないだろうし、「防衛出願の防止」よりは、高い効果が見込めそうな気はする。

*   *   *

さて、ついでなので、今回の前田論文の中で言及されている他の先生方の論文の中で、今回の話題と関連する部分について見てみたい。

前田論文の21ページ左欄には、田村先生の論文(田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158)と、𠮷田先生の論文(𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210)について言及されている。 このうち、田村先生は以下のように論じている。

[田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158 の脚注14]
14 ・・・、そもそもの前提として、特許権侵害が成立するためには侵害者が特許発明に依拠したことは必要とされていないことが出発点となる。依拠が不要とされていることは、先使用権の制度の趣旨の論理的な前提となるので、ここでまとめて説明しておこう。
 独自発明者といえども、特許法79条の先使用権の要件を満たさない限り特許権侵害の責を免れえない。 この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。 ただし、この公示制度により第三者の不測の不利益が完全に防止されるわけではない。 第三者は、特許権が登録された暁には、特許権者からの差止請求に服さなければならないからである。 特許法が規律する技術の世界は効率性の世界であり、早晩、同じような発明をなす者が出現する可能性が小さくない。 特許権の内容を空虚なものとしないためには、独自発明者に対しても権利を行使しうるように制度を設計する必要があり、出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである (田村・前掲注13 (第 5 版) 439頁)。

上の文章はちょっと分かりにくいが、先使用権が認められるために、なぜ「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないのかを説明しているのだと私は理解した。 すなわち、特許法は先使用権を認めるための条件として、「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないという要件を課しているのだが、「この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。」と田村先生は論じ、「だったら『出願公開前』に実施や実施の準備をしていれば先使用権は認められるべきで、『出願前』にする必要はないじゃないか!」という反論に対しては、出願が公開されるまで待っていたのでは「早晩、同じような発明をなす者が出願する可能性が小さくない」から、「特許権の内容を空虚なものとしないため」に、「出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである」と田村先生は論じているのだろう。

しかし、この説明もどうなのであろうか・・・。 田村先生は昔から、フリーライドを防ぐことが特許制度の目的だとおっしゃっているはずだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ;同 Vol.51 (2018) 1-46 の40ページ)。 それなのに、出願から1年半後に公開されるまで待っていたのでは、特許権の内容が空虚なものになるほど独立発明者が出現するような発明にも特許権を与えてよいと思っているのだろうか? 出願から1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明は、たとえ特許存続期間中に、その特許発明を実施した者がいたとしても、特許発明を「フリーライドしている」とは言えないと思うのだか・・・。 もし田村先生が、特許法の法目的は「フリーライドの防止」だと思うのであれば、フリーライドしていない者には特許権が行使されないような制度を目指さなくてはならないはずで、1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明に特許を付与してはならないという結論に至らなくてはならないのではないか? そうだとすれば、先使用権に関して上のような説明をするのはおかしいのではないかと思ってしまう。

*   *   *

𠮷田先生の論文に対しても、基本的に田村論文に対するのと同じことが言える。 具体的には、𠮷田先生は以下のように論じている。

[𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210 の脚注4]
 実際のところ、出願公開までは通常18ヶ月少々を要していることを考えると、公開時基準では多くの特許権が先使用を抗弁されてしまうだろう。 技術の進歩が著しく速い先端技術では、ライバルのほとんどが先使用者となってしまいかねず、特許権が骨抜きになる危険性がある。 特許法の趣旨、および現実的な観点からも、出願時基準は落とし所としては穏当であろう。

同じ内容は、𠮷田先生の別の論文(パテント Vol. 56, No. 6 (2003) 61-77)の脚注(3)にも記載されている。

しかし、わずか1年半でライバルのほとんどが独自に発明してしまうようなものにも特許が付与されるというのが𠮷田先生の特許制度に対するイメージなのだろうか。 だとすればまさに、「皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できる。」(8月30日の投稿参照)というのが特許制度だということになってしまうが、私はそれでいいのかと思ってしまう。

私は、先使用権の発生要件として、「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしていることを求めること自体は、まぁ許容できるかなと思っているけれど、その主要な正当化根拠が「1年半で他者に追いつかれてしまうから」というのはどうにも腑に落ちない。 𠮷田先生も田村先生も、最近の論文によれば、「パブリック・ドメイン・アプローチ」というものを重視しているはずだ。 「パブリック・ドメイン・アプローチ」の観点からして、1年半で追いつかれてしまうような発明に20年の独占権を与えることが妥当と言えるのかどうか、ぜひ論じてほしい。

*   *   *

とはいえ、上の引用で𠮷田先生が「技術の進歩が著しく速い先端技術では」と限定をつけているように、技術分野によってはそういうことも正当化する余地はあるのだろうと私も思っている。 具体的には、技術の進歩が著しく速く、今存在している技術は、数年のうちに陳腐化して誰も使わなくなってしまうような技術分野だ(そんな技術分野があるのかは知らないが。)。 Sotoku 6号で私は次のように書いた。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
・・・ 発明の寿命が短く、特許を取得しても数年で誰も使わなくなってしまうような技術分野であれば、特許期間が長くても実際上弊害は起きないと言えるから、出願競争が起きている状態も許容できるということになるかも知れない。

数年で誰も使わなくなってしまうのなら、たとえ特許期間が20年間存続するとしても、数年以降は誰も使わないのだから、排他権があっても、事実上、誰も排他されず、もはや特許がなくなったのと同じ、すなわち、特許存続期間が数年になったのと同じ様相を呈する。 その場合は、依拠性が擬制できるのが数年しかないような発明に特許を与えても、特許権が機能するのは事実上数年なのだから大目に見てもいいだろうと言うことはできるのかも知れない。 しかし、そうしたことが当てはまるのは、「数年で誰も使わなくなる」という技術分野に限られるのであって、たとえそうした技術分野であっても、本来であれば特許存続期間を数年に設定した上で特許を与えるべきものだ。 それが当てはまらないような技術分野、例えば、20年どころか、延長制度を使って25年、そして用途特許などを利用してそれ以上の期間にわたって事実上の独占を図ろうとされることも多い技術分野においては、そうした考えは妥当しないというべきで、短い期間しか依拠性が擬制できない発明に、たやすく特許を与える合理性はないと考えるべきだろう。

*   *   *

ということで、「依拠性の擬制」ということを前面に打ち出した前田先生の画期的論文について、「進歩性」の要件に絡めて書いてみた。 前回の投稿で私は、前田先生について、「上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい」と書いたけれど、前田先生の今回の論文を読んで、その期待は私の中で高まってしまった。「アレルギー性眼疾患」事件という個別の発明がどうであるのかはともかく、少なくとも一般論としては、進歩性の考え方に関して前田先生が私と同じようなことを書いてくれるのを期待しよう。^^


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2019年10月09日

「二次的考慮説」は生き残れるか(アレルギー性眼疾患事件 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日判決)


「アレルギー性眼疾患事件」最判(平成30(行ヒ)69 )における顕著な効果の位置付けに関して、9月16日にイノベンティアの飯島歩先生の評釈が公開された。 その中で飯島先生は、最判の判示事項について次のようにコメントされている。

[飯島歩,イノベンティア・リーガル・アップデート,2019/9/16 より](強調は私が入れた;以下同)
これらの判示事項は、進歩性判断において、顕著な効果を構成の容易想到性とは別個の要件に位置付け、明細書に記載された効果をもとに、引用発明を組み合わせるなどして導かれる発明を基礎として効果の予測可能性を判断する独立要件説に近い考え方を採用したものといえます。

そのように考える理由の一つとして飯島先生は、判決の拘束力との関係を示唆している。 具体的には次のとおり。

[同上]
本件においては、前訴の取消判決により、発明の構成が容易に想到可能なものであることについて、拘束力が生じていました。本判決は、そのような状況にあっても、なお、予測できない顕著な効果について審理を尽くさせるとの判断をしています。これは、構成の容易想到性について判断を示した取消判決の拘束力が顕著な効果の判断には及ばないことを前提としています

つまり「顕著な効果」についての審理は、「発明の構成」の容易想到性の判断からは何らかの形で独立しているのではないか、ということが示唆されるということだ。 ここで、「発明の構成」とは何かということが問題になりうるが、ここではとりあえず、「発明の構成」とは、「クレームの文言で特定される発明」をいい、クレームの文言から直接は把握できない「発明の効果」や「効果の程度」を考慮しないもの、とでも考えておこう。 但し、昨年6月22日の投稿でも書いたとおり、本件発明のクレームは「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、・・・」という用途的な表現が含まれていることに注意が必要だろう。 すなわち、本件発明は純粋な物のクレームではなく、「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途的表現がクレーム中に記載されているのだから、これらは「発明の構成」とみなされるべきものだ。 よって、「本件発明の構成は容易」だというからには、本件化合物をともかくも「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」という用途に用いることや、ともかくも「ヒト結膜肥満細胞を安定化」(具体的にはヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する)という用途に用いることは、容易であることは既に確定しているとみなされなければならないだろう。

さて、飯島先生の上記の解説のとおり本件は「発明の構成は容易想到」ということが前訴判決において確定して拘束力が生じている状況であるにもかかわらず、最判は、なお「顕著な効果」について審理を尽くせと判示したことになる。 よって、もし「顕著な効果」によって今後本件発明の進歩性が肯定されうるのだとすれば、「本件発明の構成は容易想到」であるにもかかわらず、なお「本件発明は進歩性がある」ということになるだろう。 そういうことが、果たして「二次的考慮説」と整合性があるのか、ということが問題になる。 もし整合性を取るのが難しいのであれば、今回の最判は、「二次的考慮説」の存続に重大な影響を与えることになるのかも知れない。

「二次的考慮説」について飯島先生は次のように解説している。

[同上]
・・・、顕著な効果を進歩性判断の基礎とするとの理解は、・・・特許法29条2項の条文から直接導くことができません。 そのため、これを進歩性判断の構造の中でどのように位置づけるかについて、種々の考え方があり、大きく分類すれば、主引用発明を出発点とする発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方(二次的考慮説)と、構成の容易想到性とは別の、独立した進歩性の判断要素とする考え方(独立要件説)に分かれます。

飯島先生が解説しているとおり、通説的な「二次的考慮説」とは、発明の効果を「発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方」だ。 すなわち「二次的考慮説」によれば、「顕著な効果」は、あくまで「発明の構成」が容易想到であるか否かの判断を行うにあたって考慮される一事情に過ぎない。 したがって、もし「顕著な効果」によって進歩性が肯定される場合、「二次的考慮説」では、「顕著な効果を考慮した結果、その発明の構成は容易想到ではない」と結論することになるのだ。

そのように結論するために、「二次的考慮説」論者がどのように考えているかは、4月24日の投稿で取り上げた前田先生の論文にあらわれている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

ところが上述のとおり本件の場合は、「本件発明の構成は容易想到」であるということが、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)においてすでに確定しているわけだ。

この状況で、本件発明の顕著な効果を審理することは、「二次的考慮説」の立場で可能なのだろうか? 可能なのであれば、一体どのように審理するのだろうか。 これは結構興味深い問題ではないか。

なお中村合同の高石秀樹先生が9月26日に公開した今回の最判の解説でも、前訴判決が確定していることと「独立要件説」との関連について次のように論じられている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供 より]
本最高裁判決及び原判決が進歩性を判断した審決取消訴訟の判決の拘束力の範囲について ・・・ 何れの考え方に立脚したかについては諸説あり得るが、知財高裁(二次)において “動機付けあり、相違点は容易想到” という知財高裁(一次)判決が確定したという経緯であるにもかかわらず、「予測できない顕著な効果」の有無について判断したものであるから、このような経緯を前提とした結論であったとするならば、理論的・形式的には、・・・、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の位置付けについては “独立要件説” に親和的であったと評価できる。
(但し、上記の高石解説では、「もっとも、本最高裁判決及び原判決は、・・・ 何れの考え方に立脚するかという点を棚上げにしたものとも理解可能である。」とも論じられている。)

このように、飯島先生も高石先生も、今回の最判は「独立要件説」に近いと論じており、「二次的考慮説」には苦しい状況だ。 この状況で「二次的考慮説」が採りうる立場をいくつか考えてみる。

(1)「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える。

「二次的考慮説」が採りうる一つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える立場だ。 なおこの考え方は、上で触れた9月26日の高石解説の「3(1)」の前半部分で紹介されている考え方と同じだ。

上記のとおり、通説的「二次的考慮説」において「発明の効果」は、あくまで「発明の構成」が容易か否かを判断するために考慮されるに過ぎない。 そして前訴判決では「本件発明の構成は容易」だと判示され、その判断は確定しているわけだ。 これを文字通りに捉えるのであれば、「本件発明の構成は容易」だということが確定している以上、「発明の効果」がどうであれ、「本件発明の構成は容易」ということは動かしようがないのだから、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えざるを得ないだろう。 こう考えると、この立場こそ、通説的「二次的考慮説」論者が採れる唯一の立場だとさえ思えてくる。

では、そもそも原審(平成29(行ケ)10003)ではなぜ「効果の程度」が判断されたのだろうか? これについては、次のように考えればよいだろう。

つまり、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「効果の程度」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので進歩性は認められないことについて確認的に判断したのだと捉えるのだ。

そして最判(平成30(行ヒ)69)は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性の判断が変わりうることを示唆したわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審において「顕著な効果」が肯定されるとしても、進歩性がないという結論は変わらないということになる。 つまり最判は、「進歩性なし」という原審判決の結果にとっては意味のないことを判示したことになる。 見る人によっては、この(1)の立場は最判に肩透かしを食らわせるような立場に見えるかも知れない。

(2)「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考える(修正主義)。

「二次的考慮説」が採りうる二つ目の立場は、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考え直すという立場だ。

「効果の程度」を考慮しない場合には、「本件発明の構成」は容易想到であるが、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 発明が持つ予想外の効果は、発明を行い、それを実施して、結果を見てみなければ分からないものだが、その結果、「予想外の効果」がない場合は「本件発明の構成」は容易想到だと考え、「予想外の効果」があった場合は「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 この考え方は、発明を行った結果を見てから、発明をすることの容易想到性(すなわち「発明の構成」の容易想到性)を決めるという、過去を書き換えるような考え方であることから、私は「修正主義」と呼んでいる(2019年04月24日の投稿を参照)。

そして、たとえ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」が容易想到だと判断され、それに拘束力が生じているとしても、「顕著な効果」を認定した上で「本件発明の構成」を容易想到ではないと判断することは、前訴判決の拘束力に違反しないと捉える。

「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」と、「顕著な効果」を認定した場合の「本件発明の構成」は、たとえ「発明の構成」は同じであっても違うのだと考える(そんなことが可能なのか?)。

この考え方は分かりにくいし、人によっては受け入れがたい考え方かも知れない。 容易であることが確定しているものを、容易ではないと言い直すことになるのだからね。 しかもこの考え方は、進歩性を認めるか否かという最終結論において、独立要件説と違いが生じるのかがよく分からない。 但し、「修正主義」であることを露呈させてはばからないという点については、次の(3)よりは潔いと言えるかも知れない(笑)。

(3)「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える。

「二次的考慮説」が採りうる三つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える考え方だ。

「本件発明」は、あくまで発明の構成とその効果等が一体となったものであるので、「本件発明の構成」が容易想到であることは、「本件発明」が容易想到であることを意味するものではないと考える。 そして、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、「顕著な効果」と一体のものとして捉えた「本件発明」は容易想到ではないと判断することはできるのであり、効果の程度を一切考慮せずに結論を出した前訴判決(平成25年(行ケ)10058)の拘束力は及ばないと捉えるのだ。

ちなみに発明の容易想到性を判断するにあたって、「発明の構成」の容易想到性のみに着目するのではなく、「効果」をも考慮した「技術的思想」(構成及び効果)として発明を捉えて容易想到性を判断した知財高裁の裁判例があることについて、高石秀樹先生が2016年2月の投稿において論じている(「破袋機」事件;平成27年(行ケ)10035)。

また、9月26日の高石解説でも、「3(1)」の後半部分に次のように記載されている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供
もっとも、発明とは「技術的思想」であるから(特許法2条1項)、構成のみではなく、課題及びその解決原理も含むと理解されている。それ故、本件発明と主引用発明との課題が異なることを理由に副引例発明との組み合わせの動機付けが否定され、進歩性が認められた裁判例が多数存在する。

この考え方を押し進めると、「発明」は構成及び課題(+解決原理)であるところ、更に、課題と密接に関連する「効果」も「発明」に含まれ、容易想到性の判断対象となりうるのである。そう考えれば、構成自体が容易想到であるとしても、未だ「発明」が容易想到か否かは結論されておらず、「課題」や「効果」の容易想到性もなお問題となると考えられる。

しかしこの考え方は、実質的には上記の(2)と変わらないようにも思う。 上記の(2)の考え方は、「効果を考慮して発明の構成を捉えている」のに対し、(3)はそれを「技術的思想」と言い換えただけではないか? それに上記(2)と同様に、もし「顕著な効果」があれば「技術的思想として容易ではない」とみなすというのなら、それは事実上「独立要件説」と変わるところがないようにも思う。 なお高石先生は、上で示した2016年2月の解説投稿で「破袋機」事件判決の考え方が「二次的考慮説」(間接事実説)に親和的である旨を解説しているが、8月27日の私の投稿の最後にも書いたとおり、「独立要件説」を採っているようにみえる「シュープレス用ベルト事件」判決(平成24年(行ケ)10004)でさえ高石先生は「二次的考慮説」に親和性がある旨を解説している(前田先生も同様)。 しかしそうなると、「二次的考慮説」は「独立要件説」と何が違うのか本当に分からなくなる。

「シュープレス用ベルト事件」判決がなぜ「二次的考慮説」に親和的であるのかについて、9月26日の高石解説は、裁判所が「甲第2号証に接した当業者が,・・・ 動機付けられることがあるとしても,本件発明1が,・・・ ,当業者といえども予測することができない顕著な効果を奏するものであることに照らせば,本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず,進歩性があると認められる ・・・ 」と判示していることを指摘し、『同判決は、「動機付けられることがあるとしても ・・・」と述べながら、結論としては、「本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず」と結論付けていることから、“従属要件説”(=二次的考慮説・・・ )に立つと理解できる。』と論じている。 しかし、判決文の最後のシメのところに「当業者が容易に想到するものであるとはいえず」というフレーズをポコッと入れたら、それだけで「二次的考慮説」に分類されるというのが高石先生の分類分けなのだろうか? もしそうだとしたら、8月27日の投稿の最後でも書いた通り、そういう「二次的考慮説」は、やっぱり「独立要件説」と変わるところはないよね、ということになると思う。

もし「二次的考慮説」論者が(2)(3)のような考え方を採るのなら、「独立要件説」と何が違うのかが明らかにされなければならないだろう。 もし「二次的考慮説」と「独立要件説」とで、進歩性の有無に関する結論に差が生じないのなら、そんな「二次的考慮説」など要らない、ということにもなりそうだ。

なお、9月26日の高石解説によれば、「二次的考慮説」論者であるはずの神戸大の前田健先生が、本事件において、上告人(特許権者)側の鑑定意見書を書いておられるのだそうだ。 私は、2019年4月24日の投稿「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」を書いているときから、前田先生は “隠れ独立要件説” 的だと思っていたから別に驚きはないが、ご自身が「二次的考慮説」とどのように整合性をとられているのかが気になる。 前田先生がいずれ出すであろう論文を待ちたいが、意見書を書いたことによって、今後の論考において心理的な不自由さが生じないか少し心配だ。 学者は当然そういうことから自由であるべきだから、上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい(笑)。

*   *   *

さて、他人の説を取り上げるだけでは何なので、私の進歩性の考え方を採る場合に今回の事件をどう捉えられるのかについても考えてみたい。 上で取り上げた「二次的考慮説」と同様、私の考え方でも苦しいことに変わりはないが、無理やり考えてみよう。

私の考え方とは、2019年8月30日の投稿や前回の投稿でも書いたとおりで、進歩性を2つの要件で判断する。 1つ目の要件(進歩性の第1要件)は、「放っておいても近々誰かが発明するようなものか?、あるいは発明まで一本道であったか?」を問うもので、「予想外の発明の効果」によって判断が左右されない要件だ。 そして、もし答えが Yes である場合は進歩性は否定される。 2つ目の要件(進歩性の第2要件)は、「“発明の効果” 等を考慮して、ありきたりな発明のたぐいだと評されるか?」を問う「意味づけ要件」だ。 これは「予想外の発明の効果」によって判断が左右されうる要件だ。 そして、もし「ありきたりな発明のたぐいだと評される」のであれば、やはり進歩性は否定される(下図)。

[あるべき進歩性の判断手順]
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進歩性を二段階で判断するという点では、上記の考え方は「独立要件説」と似たところがあると言えるのかも知れない。 しかし「独立要件説」は、「発明の構成が容易ではないこと」と「顕著な効果」という2つの要件のどちらか1つでもを満たせば進歩性が肯定されるのに対し、私の場合は、上記の「第1要件」と「第2要件」を両方とも満たさなければ進歩性は認められないという点で、独立要件説とは異なっている。

ところで前訴判決(平成25年(行ケ)10058) は、「効果の程度」を考慮しない場合の本件発明(すなわち「本件発明の構成」)は容易だと判断した。 具体的には、本件発明の化合物が、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(ヒト結膜肥満細胞安定化作用)を有することを確認し、その作用を発揮させるための用途に用いることは容易想到だと判断した。 この前訴判決を私の考え方で捉える場合、判決が行った「容易想到」という判断は、私の言うところの第1要件(予想外の効果に依存しない要件)の判断なのか、それとも、第2要件(予想外の効果に依存する要件)の判断なのか、ということが問題となる。 つまり前訴判決は、「放っておいても誰かが本件化合物にはヒスタミン遊離抑制効果が存在すること(すなわち本件発明の構成)を発見することは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だという趣旨で判断したのだろうか、それとも、「本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在するというだけでは、でたらめ・ありきたりの域を出ないと評されるから容易」(進歩性第2要件)だという趣旨で判断したのだろうか。 このように、前訴判決の判断が「第1要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈と、「第2要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈が可能な場合、どちらの解釈を採るかによって、以下のように捉え方は変わってくることになる。

(A)前訴判決が「進歩性第1要件」を判断したと捉える場合

前訴判決は、「放っておいても本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在することの発見(すなわち本件発明の構成)に誰かがたどり着くことは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だと判断したのだと捉える場合は、上記(1)とほぼ同じこととなる。 すなわち、放っておいても誰かが本件発明の構成に到達することは容易だということが前訴判決において確定している以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えるほかない。

第1要件を満たさない以上、「顕著な効果」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審(平成29(行ケ)10003)では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので、第2要件の観点からも進歩性は認められないということについて確認的に判断したのだと捉える。

そして最判は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めうると言ったわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審で「顕著な効果」を肯定したとしても、進歩性がないという結論は変わらない。

(B)前訴判決が「進歩性第2要件」(意味づけ要件)を判断したと捉える場合

上で説明したとおり、私の考え方においては、第1要件と第2要件の両方が満たされない限り、進歩性は認められない。 したがって、進歩性の判断順序についても、必ず第1要件から判断しなければならないというものではなく、もし第2要件が否定されるのであれば、第2要件だけを判断して進歩性を否定してもよいわけだ。 そして、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)はそのような判断だったと捉えるのだ。

この場合、前訴判決は「効果の程度」を考慮しない本件発明は「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるから容易だと判断したのだと捉える。 したがって、「顕著な効果」があった場合になお「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるかについては前訴判決は判断していないのであり、その場合の判断には拘束力は及ばない。また、前訴判決は「第1要件」についても判断はしていないので、それに対しても拘束力は及ばないと捉える。

したがって、審理しうる事項に関して、原審(平成29(行ケ)10003)は広いフリーハンドを持っていた。 そして原審では、とりあえず「顕著な効果」を否定し、「第2要件」によって進歩性を否定したと捉える。

そして最判は、原審が行った「顕著な効果」の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めろと言ったわけではないと捉える。

差戻審では、「顕著な効果の有無」を再審理して、再び「顕著な効果なし」で「第2要件」により進歩性を否定することもできるし、「第1要件」を判断して進歩性を否定することもできる(とはいえ最判は顕著な効果について審理を尽くさせるため、と説示しているから、「第1要件」で進歩性を否定する場合であっても、「第2要件」を判断することは求められるだろうが。)。 もちろん、「第1要件」も「第2要件」も肯定して進歩性を肯定することもできる。

ということで、昨年の6月22日の投稿で私は、『一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思う』と気楽に書いたけれど、それは「顕著な効果」を考慮するか否かで進歩性の有無についての結論が変わりうる以上、それを審理することは「蒸し返し」ではないし、前訴判決ではあえてその部分は避けて審理されていたように見えたからだ。 しかし今回よく考えてみて、「独立要件説」を採るのならともかく、私の考え方で前訴判決(平成25年(行ケ)10058)との整合性を取ろうと考えると、上記のように結構苦しいという気が、今はしている。 それでも、上記のような考え方が採りえないとまでは言えないと思うし、特に(B)の考え方は原審や差戻審に対して広い自由度を与えられる考え方でもあるから、とりあえず上記の(B)の捉え方を推しておこうかな、と思っている。

とはいえ、そもそも私の考え方は誰も採用していないし、上で書いたいずれの捉え方も、判決を行った裁判官の人たちがそう考えていたはずもなく、あくまで判決の「解釈」(創造的解釈(笑))に過ぎないのではあるが・・・。

*   *   *

「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、「時間の問題であったか」というのは、いわば「時間的要件」だと言えるし、「一本道であったか」というのは、いわば「空間的必達性」みたいなものだ。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

逆に言えば、「第1要件」とはそういう要件なのだから、到達することが技術的手法として困難(険しい道)である必要はない。 たとえ技術的手法としての困難性はなくても、本件発明に至るには膨大な数の選択肢(つまり平坦ではあっても、たくさんの分かれ道)がある場合、すべての選択肢が試されるのが時間の問題であったという特別な事情があるのならともかく、そうでないのなら、多数の選択肢をすべて試すのは困難というべきであるから、本件発明が選んだ特定の選択肢を選択することは時間の問題、あるいは一本道であったとは言えないだろう。 したがって、そうした発明は「第1要件」をクリアできる。

ところが、現在の進歩性判断の実務では、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなしてしまうことが多い(例えばSotoku 10号の脚注38で引用した特許庁の宮崎先生の1000個の化合物を作る例など)。 その上で、顕著な効果があったものだけは例外的に「進歩性がある」とみなす実務が行われている(すなわち「独立要件説」的な判断)。 しかし、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなすのは「第1要件」を判断したことにはならない。 「第1要件」は、あくまで本件発明という特定の選択肢にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったかを問うているのであって、本件発明という特定の選択肢を他の選択肢とは切り離して焦点を当てた上で、その発明をすることに技術的困難性がなかったのか(平坦な道であったか)を問うているのではない。 「発明に至る道が平坦である」ことと、「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であった」ことは、似て非なることだ。 このように、現在の進歩性判断の実務では、私のいう「第1要件」は検討されていない場合が多いのではないかと思っている。

例えば前訴判決において裁判所は、「以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべき」(判決文PDF 91ページ)と判示している(「KW-4679」とは本件発明の化合物の一つ)。 この判断にしても、私のいう「第1要件」を判断したのかといえば微妙だ。 前訴判決は、甲1及び甲4に接した当業者は、本件発明という構成を試すことは容易であったということを判断したに過ぎず、当業者が甲1及び甲4に接して本件発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったと判断したわけではないように見える。

したがって、実際には前訴判決(平成25年(行ケ)10058)が上記の(A)の判断を行ったとみなすことはできないかも知れない。 その場合、私の考え方に基づいて前訴判決を解釈するとすれば、せいぜい、上記(B)の判断を行ったとみなすことにするか、あるいは、前訴判決は本来行うべき判断を行わずに進歩性を否定した判決だということになるのかも知れない。

このように、たとえ発明の構成は容易だと判断した上で、顕著な効果により進歩性を認めている例(すなわち「独立要件説」的な判断をしている例)があるとしても、その多くは、試すことが容易であったことをもって発明の構成は容易だと判断しているだけで、私のいう「第1要件」は検討していない可能性がある。 したがってそうした発明は、実際には、「第1要件」をクリアできるものが多かった(すなわち、私の考え方でも進歩性は肯定されていた)のかも知れない。 個々の選択肢を試すことが容易であったというだけで、すべての選択肢を「容易」だとみなすという現在の判断実務は、「本件発明の構成にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったのか」ということを必ずしも検討することなく「発明の構成」の容易想到性を肯定してしまうことになるが、それでは本当は容易にはたどり着けないものを容易にたどり着けると判断することになってしまう。 その欠陥は、顕著な効果があるものを救済することでほぼ補われてはいるのだろうが、本来あるべき進歩性の判断規範からはずれが生じうるだろう。 根本的な解決を目指すなら、進歩性の判断において、本件発明に到達するまでの「時間的要件」や「一本道性」を考慮要素として取り込む必要があり、そのためには、例えば選択肢の「数」(すなわち「選択の容易性」)を考慮要素とする必要がある。 「ピリミジン誘導体事件」判決(平成28(行ケ)10182、10184)は、(副引例中の)選択肢の「数」が考慮要素であることを正面から認めた判決として画期的だったとは言えるが、考慮すべきは「副引用発明」の選択の容易性に留まるものではない。 4月16日の投稿で書いたように、「主引用発明の選択の容易性」も、考慮する必要が生じる場面はあるのだろうと私は考えている(たとえそれが必要なケースは多くはないとしても)。

*   *   *

「第2要件」(意味づけ要件)について

「意味づけ要件」などという呼び方は、いかにも「曖昧」、「主観的」、「予測可能性が低い」などと言われそうではあるが、私は、進歩性判断において、結局はそこは避けて通れないことなのだという気がしている。 例えば上記の(2)(3)の考え方、すなわち、効果が大したことがない場合は「発明の構成」は容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、一転してその「発明の構成」は容易ではないと考えたり、効果が大したことがない場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易ではないなどと考えるというのは、結局のことろ、発明の効果によって発明に対する意味づけを変えていることに他ならないのだと思う。 私は、単にそれを潔く認めて要件としただけであって、上記の(2)(3)のような考え方とくらべて予測性や客観性が下がるものではないし、むしろ上記の(2)(3)の考え方にかなり近いはずだと思う。

例えば、特許庁の現行の審査基準(第III部 第2章 第2節 3.)に記載されている「図 論理付けのための主な要素」(9月26日の高石解説にも引用されている)は、発明の構成の容易想到性に関連すると思われる「技術分野の関連性」や「課題の共通性」、「阻害要因」などの要素と、「有利な効果」というまったく異なるものを天秤にかけて進歩性を判断するという感じの図になっている(下図)。

[特許庁 審査基準 第III部 第2章 第2節 3. の 図]
shinsakijunIII-2-2_20191007.png

しかし、そもそも「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。 それに比べれば、私の考え方は「顕著な効果」を、発明に到達することの容易性(進歩性 第1要件)とは切り分けて、「でたらめ・ありきたり」とは思えないほどのものか、という別の観点(進歩性 第2要件)の中で考慮しようとするものだから、まだ分かりやすいのではないか。

Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり、そもそも「意味づけ」という言葉は、特許庁の宮崎賢司先生の論文『間接事実説なのか、独立要件説なのか,それとも?』(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170 )の脚注50でいわばキーワード的に使われている言葉を採ったもので、宮崎論文では、「意味づけ」という言葉を加藤志麻子先生の論文(パテント Vol. 61 No. 10(2008)86-102の91ページ)から採ったと書かれている。 したがって、「意味づけ」という考え方は、二人の先生方の考え方に親和性があるはずだ。 また、宮崎先生自身は、発明というものを、課題(目的)・構成・効果の三要素を含む「技術的思想」の創作だと捉えて容易想到性を判断することを論じており(技術的思想の創作説)、そうした考え方は上記の(3)に近いと思われるが、宮崎論文を読むかぎり、宮崎先生は自身の考え方は「二次的考慮説」よりも「独立要件説」に近いと考えているようで、論文の166頁では、「独立要件説」を「技術的思想の創作説」(宮崎先生ご自身の説)と捉えることを提唱されている。 そういう宮崎論文にもし理があるのだとすれば、「技術的思想」という概念や「独立要件説」さえも、発明に対する「意味づけ」と無関係ではないことが示唆されるだろう。

*   *   *

最後に、通説的な「独立要件説」論者が採っている理屈を批判して本稿を終わりにしたい。

冒頭で紹介した飯島歩先生の評釈では、「独立要件説」を正当化する理屈として、知財高裁が行った判決(平成24(行ケ)10415;「血清コレステロール低下剤」事件, 平成25年10月3日判決)における以下の説示が引用されている。

平成24(行ケ)10415;判決文PDF 43-44ページ]
・・・,発明が引用発明から容易想到であったか否かを判断するに当たっては,当該発明と引用発明とを対比して,当該発明と引用発明との構成上の相違点を確定した上で,当業者が,引用発明に他の公知発明又は周知技術とを組み合わせることによって,引用発明において相違点に係る当該発明の構成を採用することを想到することが容易であったか否かによって判断するのを原則とするが,例外的に,相違点に係る構成自体の容易想到性が認められる場合であっても,当該発明が奏する作用効果が当該発明の構成そのものから当業者が予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきであるから,当該発明が引用発明から容易想到であったとはいえないものと解するのが相当である。

つまり裁判所は、相違点に係る「発明の構成」は容易想到であっても、顕著な効果がある場合は進歩性を認めるのが相当だと説いている。 確かに、この説示は「独立要件説」と言っていいだろう。 ちなみに、9月26日の高石解説でも、この判決は「“独立要件説” に立ったと考えられる裁判例」の項目の中で紹介されている。

ちなみにこの判決を行ったのは、本件前訴判決(平成25年(行ケ)10058;平成26年7月30日判決)を行ったのと同じ知財高裁第4部(富田善範裁判長)だ。 しかも二つの判決は時期的にもかなり近い。 富田判事が「独立要件説」を採っているのであれば、前訴判決においても、裁判所の審理は「独立要件説」的な思考形式で行われた可能性は高いのかも知れない(だからこそ、「二次的考慮説」や私の説の立場から、前訴判決の確定を前提にして今回の事件を説明しようとすると上記のように苦労するわけだ。)。

さて、上記の裁判所の説示では、「当該発明が奏する作用効果が・・・予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきである」と説かれている。 この考え方は、早田尚貴先生の論稿(知的財産法の理論と実務 第2巻, 新日本法規出版 (2007) 403-432 の 418ページ)で分類されている「独立要件説1」に相当する考え方であり、飯島先生は昨年出された論文(知財管理 Vol. 68, No. 9 (2018) 1275-1288 の 脚注46)で、玉井克哉先生の論文(私が昨年6月22日の投稿で取り上げたもの)もこの立場だと論じている。

「顕著な効果がある発明は産業の発展に寄与する」というのは正しいのか?、ということはとりあえず不問にし、それは正しいと仮定しよう。 私が上記の裁判所の説示に対して問いたいのは、「産業の発展に寄与する発明に特許権を与える」ということは、特許法の法目的(同法1条)に合致するのか、ということだ。 換言すれば、「産業の発展に寄与する発明に20年の独占権を与えることは、“もって産業の発展に寄与する” のか」ということだ。 もっと分かりやすく言えば、「産業の発展に寄与する発明に対しては、その発明に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのかを問うことなく、20年の独占権を与えることが特許法の法目的なのか」ということだ。

「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」ことと、「発明の保護及び利用を図ることにより、・・・、もって産業の発展に寄与する」(同法1条)こととは異なる。 「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えれば産業の発展に寄与するということを誰も証明していない以上、後者を前者に読み替えるような説示を看過することはできない。 特許法1条は、「産業の発展に寄与する」ように発明の「保護 “及び利用” 」を図ろうと言っているのであって、産業の発展に寄与するか否かを不問として「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えようと言っているのではない。

例えば、当業者がその発明を行うのは時間の問題であった場合でも、その発明に予測を超える顕著な効果がある場合は、いち早く出願した者に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのか? 皆がいずれたどり着くような発明は、皆がたどり着くことに任せ、その「顕著な効果がある発明(すなわち、産業の発展に寄与する発明)」を皆が早期に自由に利用できるようにすることの方が、むしろ産業の発展に寄与するのではないか?

このように考えると、上記の裁判所の説示は特許法1条を読み誤っていることは明らかであるように見えるし、もし、こうした理屈が「独立要件説」が拠って立つ根拠なのだとすれば、「独立要件説」の正当性は疑わしいというべきだろう。

*   *   *

以上のとおり、今回の事件は、本件発明の構成が容易想到だと判示した前訴判決が確定しているにも関わらず、なお審理を尽くせと最判が判示したという点で、「二次的考慮説」に対して難題を突き付ける事件だと言えるかも知れない。 しかし、だからと言って「独立要件説」の正当性が疑わしいのは上記のとおりだ。

この難題にどう立ち向うか。

安易に「独立要件説」に日和ったり、最判に忖度したりすることなく、制度趣旨から説き起こした議論がなされることを期待したい。

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参考論考:
田中汞介『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年8月31日

田中汞介『 最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(特許法の八衢)2019年9月1日

飯島歩『進歩性判断における予測できない顕著な効果の位置付けに関するドキセピン誘導体含有局所的眼科用処方物事件最高裁判決について』(イノベンティア・リーガル・アップデート)2019年9月16日

田中汞介『続・最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年9月23日
(この投稿でも飯島歩先生の評論を題材に考察が進められており、最高裁は「【・・・独立要件説および二次的考慮説のいずれの立場を採るかはブランクのまま、さしあたり、効果顕著性については(・・・)・・・判断手法を是正し(効果顕著性の判断手法を統一し)ようとした】と理解することも十分にできるのではないか」と結論されている。)

高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 『【特許★★★】「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜』(中村合同法律特許事務所HP 法情報提供)2019年9月26日
(この解説は、飯島先生の評論とも共通部分は多い。 もともと今回の私の投稿は、飯島先生の評論を題材に書き始めたものだが、ほぼ書き終えたころにこの高石解説が公開されたため、これを受けて修正を行った。)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月02日

「独立要件説」に立った結果 ⇒ 既知のラセミ体の一方は進歩性あり(「光学活性ピペリジン誘導体」事件 平成24年(行ケ)10206,平成24年(行ケ)10207)


この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決は6年前の判決(2013年7月24日判決)であって、最近の判決ではない。 しかし先日、高石秀樹先生が「アレルギー性眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)に対する解説(高石解説と略記)を公開(以下↓)されて、その中で言及されている判決だ。

[高石解説]
「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜
(高石秀樹(執筆),吉田和彦(監修),中村合同特許法律事務所HP,2019年9月26日 法情報提供)

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決(平成24年(行ケ)10207)を高石解説は、「“独立要件説”に立ったと考えられる裁判例」として紹介している。 具体的には高石解説は、「構成が容易想到であると認定した上で、・・・ 発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた裁判例は殆ど存在しない。」とした上で、「数少ない・・・裁判例として、知財高判平成24年(行ケ)第10207号「光学活性ピペリジン誘導体の酸付加塩及びその製法事件」(設樂裁判長)は、公知のラセミ体を構成する一方の光学異性体の物質発明(・・・)(【請求項1】式(T)…で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」)について、「構成の観点からは,当業者が容易に想到可能であった」としながら、「顕著な効果」を有することを理由に進歩性を認めた。」と解説している。

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件については、tokkyoteki先生が判決直後に既に解説されていて、今回の高石解説を受ける形で再び下記のように紹介して下さっている。


その解説を改めて読んでみて、あぁ tokkyoteki 先生も批判的にコメントされていたんだなぁ と思ったので、私も今回ちょっとこれについて書いてみようかと思う。

判決文によれば、この化合物には光学異性体(S体とR体)があって、普通に合成するとS体とR体が混ざった混合物(ラセミ体)として合成される。 そして、そのラセミ体が「抗ヒスタミン活性」を持っていることは既に知られていた(特開平2-25465)。 そして、化合物の構造も分かっていたから、この化合物には不斉炭素が含まれていて、S体とR体が存在することも分かっていたわけだ。

この状況で本件発明は、光学異性体を分離するためによく用いられているジアステレオマー法を用いて本件化合物のS体とR体を分離精製すること試みた。 具体的にはHPLC(高速液体クロマトグラフィー)を用い、特定の溶媒(ヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸(0.1%))とカラム(CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD)を組み合わせ、他にも分離手順のポイント(HPLCに通す前に、試料をエタノールに溶解させるなど)はあるのかも知れないが、ともかくS体とR体を分離することに成功した。 そしてS体とR体の薬効を調べたところ、薬効の本体はS体であって、R体はほとんど活性がないことを見出したというもの。 具体的には、モルモットにヒスタミン塩酸塩を静注して誘発させるヒスタミンショック死を抑制する効果を試験した結果では、半数の個体をショック死から免れさせるために必要な投与量(ED50)は、S体が0.023 mg/kg に対してR体は 1.0 mg/kg で43倍の差があり(明細書の表1)、抗BPO-BGG・IgE血清を用いたhomologous PCA反応のED50では、S体が0.025 mg/kg 程度であるのに対してR体は 3.0 mg/kg 以上であり 100倍以上の差があった(明細書の表2)。 また、本件化合物をベンゼンスルホン酸塩または安息香酸塩とすることで、吸湿性の少ない安定した結晶が得られることも見出した(以上、明細書の記載より)。

以上の結果をもって出願されたのが本件出願で、訴訟時における請求項1は、平成24年(行ケ)10206 の特許(特許4562229)については「実質的に(R)体を含有しない,(S)−4−〔4−〔(4−クロロフェニル)(2−ピリジル)メトキシ〕ピペリジノ〕ブタン酸・ベンゼンスルホン酸塩を有効成分としてなる,医薬組成物。」となっており、平成24年(行ケ)10207 の特許(特許4704362)については「式(T)
20191001Piperidine_c1.png

で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」となっている。

この判決において裁判所は、S体とR体を分離し、S体のみを取得する方法に関する困難性はことごとく否定した。 すなわち、分離にあたってジアステレオマー法を用いること、HPLCを使用すること、溶媒としてヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸 (0.1%) を用いること、カラムとして CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD を用いることなどはすべて容易だと判断した。

また、S体とR体を分離して、その一方だけを医薬品とすることに関する出願当時の技術常識について、判決文には以下のような文献の記載が引用されている。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について
ア 刊行物の記載

(ア) 昭和62年10月1日発行の「月刊薬事」Vol. 29, No. 10(甲4)
 「生体(酵素や受容体)はこれらの光学異性体を識別する能力を持っており,異性体にはまったく生理活性を持たないもの,弱い同類の生理 活性を持つもの,拮抗的な生理活性を持つもの(アンタゴニスト)や別な生理活性を持つものがある。それゆえ,医薬品として用いるときには ラセミ体としてではなく,目的にあったエナンチオマーのみを用いることが好ましいと考えられるが,現状はほとんどがラセミ体として用いら れている。…しかし,最近,医薬品としてラセミ体の開発・使用に関して問題が投げかけられてきた。その背景として,最近の薬物分析技術の 進歩,とくに高速液体クロマトグラフィーにおけるキラルカラムの開発などにより,光学異性体の分離・定量の技術が進歩し,その結果,合成 キラル医薬品の生体内動態,特に代謝に関して異性体間に著しい差があることが明らかになったことがあげられよう。」(・・・)

(イ) 平成元年10月10日発行の「季刊化学総説」No. 6「光学異性体の分離」(甲3)
a 「1 光学活性体のプレパレーション」という表題の論文
 「研究の精密化に伴い,医薬品,農薬,食品,飼料,香料などの分野で光学活性体を扱うことの重要性が日ごとに増大していることはいうまでもない。光学活性体が対掌体により生理活性をまったく異にする場合が多いからである。たとえばグルタミン酸の場合,L体(S)には旨味があるが,D体(R)には旨味はなく,酸味が感じられるだけである。不幸な事件のために有名になってしまったサリドマイド… も,(R)体は催奇形性をもたないが(S)体には強い催奇形成があり,ラセミ体を実用に供したことが悲惨な薬害事件…をひき起す原因 となった。さらに,対掌体の一方が有効な生物活性を示す場合,もう一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害…をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品 の開発研究でしばしば体験するところである。…したがって,光学的に純粋な対掌体をいかにして入手(合成または分割)するかは,医薬品のみならず生物活性物質を対象とする研究において,不斉中心をもつ化合物を扱う場合,避けて通ることのできない重要課題である。この目的に対して,・・・,ラセミ体を製造(合成)したうえで,それを効果的に光学分割…する手段もまた有効な方法として多用されている。」(・・・)

b 「2 光学活性体の生理活性」という表題の論文
「動物はL-アミノ酸より成るタンパク質から構成されており,生体内の代謝に関与する酵素もタンパク質である。酵素の基質特異性に基質の光学特異性が大きく寄与するのは,酵素側に存在する不斉性を考えれば容易に『当然のこと』と受けとめることができる。生体内で起る複雑でありながら選択性の高い反応は,酵素による『不斉を含む三次元の分子認識』によるものと考えられる。生理(薬理)活性をもつ物質が生体に摂取され吸収されると,その物質に特異的な親和性をもつ受容体…との結合により生理活性が発現することになるので,基質が不斉中心をもっていれば,その(S)体と(R)体とでは生理活性に相違が生ずるのはこれまた自然であろう。医薬品の多くは生体にとって異物…であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。このような考え方が出てきた背景には,1章のはじめに述べたサリドマイドに関する知見が大きく横たわっていたためと思われる。…近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある。また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした。薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった。」(・・・)

(ウ) 平成4年2月10日発行の「日本化学会誌」NO. 2(甲26)
a 「1 はじめに」の項
「1.1 光学異性に関する認識の深まり
…二つの光学活性体,そしてラセミ体の三者がいずれも『異なる』化合物であるということは,概念的には古くから知られていた。にもかかわらず,しばしばこれらが同等あるいは代用できるものとして扱われてきた一つの理由は,光学活性体を入手し,またその純度を評価するための手段が未発達であったことと,そのためにことさら,それら三者がいかに『異なる』かということが,実際的な問題として十分に認識されていなかったためであると思われる。この相違の重大さが最初に認識されたのは医薬の分野であろう。サリドマイドの催奇性が,その(S)-体に基づくものであるというBlaschke らの研究はよく知られているが,同様の例はかなりの数が知られるようになった。最近報告された例では,…。こうした背景から,近年医薬開発においては,ラセミ体を製剤化する場合にも,それぞれの光学活性体の薬理評価が必要とされ,またラセミ体の製剤化そのものに対する慎重論も高まっている。医農薬などの生理活性物質のみならず,機能性材料にも,強誘電性液晶などのように,光学活性体であることを必要条件とするものが見いだされ,光学活性体にかかわる研究,開発は,科学,技術の広い分野で活発化しつつある。しかし,その展開は光学活性体の製造,分析技術の水準による制約を受けざるを得ず,新たな技術の確立が希求されていた。・・・」(・・・)

上記のような状況を考えれば、薬効を示すラセミ体について、S体とR体を分離し、それぞれについて薬理評価を行い、薬効があり、かつ毒性のない異性体だけを医薬品として使用することの重要性は、出願当時において当業者に広く認識されていたと言えるだろう。

そのような中、裁判所は本件発明の進歩性について次のように判断した。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
・・・。したがって,審決が認定した本件特許発明1と甲2発明との相違点である,本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が「実質的には(R)体を含有しない,(S)体」であるのに対し,甲2発明では光学異性体についての特定がされていない点については,その構成という観点からは,当業者が容易に想到可能であったものということができる
 しかし,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が,甲2公報に記載された本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから,次に,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩の有する効果について検討する。

(5) 本件特許発明の効果について
ア 本件明細書(甲1)には,ヒスタミンショック死抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約43倍強い活性を示したこと,homologousPCA反応抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約100倍以上強い作用を示したことが記載されている(【0030】〜【0035】)ところ,本件明細書は,この本件化合物のエステルによる(S)体と(R)体の比較を根拠に,本件化合物の(S)体がより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用すると結論づけている(【0048】)。
 そして,このことは,甲9の4の意見書に添付された実験成績証明書に,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍の活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体に対して約3倍の生存率を示したことが記載されていることからも裏付けられる。
 そうすると,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる
 したがって,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸は,審決が認定した甲2発明であるラセミ体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものといえる
・・・。
(6) 小括
 以上によれば,本件特許発明1の進歩性に係る審決の判断は,・・・,・・・ 本件化合物は,本願出願時の技術常識を考慮しても,当業者が容易に得ることができなかったものであるとしたことは誤りであるけれども(・・・),・・・ 本件化合物は,・・・ 当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものであると認定判断した点に誤りはなく(前記(5)),結局のところ,本件特許発明は甲2発明に対して進歩性を有するものとした審決の判断は,結論において誤りはない。

ラセミ体に含まれるS体とR体を分離してそれぞれの活性を調べてみることの重要性が当業者において認識されていたことを示す複数の文献が存在することについは、上述のとおり裁判所は認めているし、上に引用したとおり、本件化合物(S体)の取得困難性がないことについても裁判所は認めている。 その上で裁判所は、「顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきである」と説示し、「顕著な効果」があることもって本件発明の進歩性を認めているのだから、高石解説が指摘するとおり、この判決はまさに “独立要件説” に立った判決だと考えらるだろう。

しかし果たして、この判決は妥当だったのだろうか?

私は、本件のような発明は、8月30日の投稿で書いた「進歩性 第1要件」で拒絶すべきだった案件のように思う。 なぜなら上に引用した判決文の中で言及されている文献にも記載されているように、生理活性を有する化合物がラセミ体である場合、S体とR体で活性や毒性に差がないのかを調べることの重要性は本件出願当時において広く認識されていたからだ。

その契機となったのが、当時の技術常識に関して上に引用した判決文の中で登場する文献のうち、甲4を除くすべての文献で言及されている「サリドマイド」事件だ。 サリドマイドは1950年代に開発された睡眠薬で、S体とR体が混ざったラセミ体として販売されていた。 しかし、S体に強い催奇形性があったため、この薬を服用していた世界各地の妊婦から奇形を持った子供が生まれてしまったのだ。 薬学史上、最悪の薬害とも言われている。

サリドマイド事件により、薬効を持ったラセミ体については、S体とR体で生理活性や毒性に違いがあるかを調べる必要性の認識は一気に広まった。 薬学分野の当業者の間で周知となったというようなレベルではなく、世界中の人たちに知れ渡ったのだ。 私も学生の時に授業で習ったくらいだから。

つまり、ラセミ体を構成する各異性体を分離して、その生理活性を調べることは、それほど強い要請があった。 医薬として使おうと考える以上は、必ず調べられなければならない特性とも言えるだろう。 そして裁判所によれば、本件のラセミ体を構成する各異性体を分離する具体的手順は容易だと判断されている。 だとすれば、それを調べた結果どんなに驚くべき結果が出ようが、それは「強い要請」と「容易な手順」によって自然に行き着くはずであった結果に過ぎないのであって、「時間の問題」あるいは「一本道性」があると言えるのではないか(下図)。


[あるべき進歩性の判断手順]
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なお8月30日の投稿で私は、進歩性の第1要件について、「近々誰かが発明するようなものか」と記載し、第1要件が「時間性」の問題であるかのように書いたのだけれど、「時間が短いこと」が必須というわけではない気もするので、上記のように少し修正してみた。 但し、これについては私もまだ少し迷いもある。

ともかく、本件のような発明は、薬効を示すラセミ体が公知となり、かつ各異性体を分離する手法が容易で動機付けもあったという場合には、それだけをもって各異性体の特許性は失われていると考えるべきで、「顕著な効果」によって特許性を復活させるようなことをすべきではないと思う。

なお本件の場合は、本件の特許出願(特願平9-350784;宇部興産・田辺製薬の共願)を行ったのが、本件化合物を最初に開発して出願(特願昭63-175142)した者(宇部興産)と同じ側だから、本件出願が特許になってもあまり不当性を感じないかも知れないが、本件のラセミ体はすでに公知であった以上、まったく別人が光学異性体を分離して本件のような出願を行うこともあり得ないことではなかった。 上記のように、薬効を持つラセミ体から光学異性体を分離して活性の違いを調べる必要性は広く認識されていたし、その手法も裁判所が説示しているとおり容易だったのだからね。 そうすると、宇部興産が開発した本件化合物について、まったく無関係の他者がいち早く異性体(S体)を分離して、特許出願を行うことも起こり得たわけだ。 そして容易なものでも「顕著な効果」がありさえすれば特許にするというのなら、その「他者」は本件化合物のS体について特許を取得することができただろう。 そして宇部興産・田辺製薬による本件医薬品の開発を妨害したり、多額のライセンス料や買取を持ちかけることもできたかも知れない。

私は、特許制度がそのような目的のために便利に使われるものであってはいけないと思う。 薬効を持つラセミ体を最初に作り出して特許出願を行った場合は、それが公開された時点で、容易に取得できる各異性体については特許性は失われたとみなし、たとえそれが「顕著な効果」を持つとしても新たな特許になることを許さず、最初に特許出願をしてそれを公開した者が安心して医薬品開発を進められるようにすることの方が妥当なのではないか。 またそうであれば、この化合物を最初に作り出してラセミ体として特許出願を行った者が、のちに各異性体を分離して「顕著な効果」を見出したとしても、それによって新たな特許が付与され、独占期間を事実上先延ばしするようなことが許されないのは、また当然のことだろうとも思う。

また、今回の「アレルギー性眼疾患」事件の最判(平成30年(行ヒ)69)において最高裁は、「・・・本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・」と説示し、まるで医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くすべきだと言っているようにも見えるが、8月30日の投稿の(4)でも書いた通り、特許出願を行うのは、その医薬品を開発して上市してくれる者とは限らない。 その気がない者であっても、出願すれば特許は取得できてしまう。 「医薬発明の進歩性のハードルを低くすれば医薬の開発が促進される」などというのは根拠のない話であって、そのような考えのもとに進歩性のハードルを人為的に操作すれば、意図しない結果を招くことになるだろう。

*      *      *

ということで、高石解説が、発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた数少ない裁判例として紹介している「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決について感じたことを書いてみた。 つまるところこの判決は、「独立要件説」を採った結果、誤った結論に至ってしまった判決だというのが私の見方ということになるだろうか。

もし、私の考えは間違っている、すなわち、この「ピペリジン誘導体」事件の判決は正しく、上記の最判の説示についても、「医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くするべきだ」と捉えるのが正しいというのなら、残念ながら、以下のような特許戦略は有効だということになってしまうだろう。

薬効を持つラセミ体を他者が公表したらすぐにやるべき特許戦略

 そのラセミ体から異性体を分離し、それぞれの異性体について活性や毒性を評価する。 もし一方の異性体が、ラセミ体の2倍を有意に超える活性を示したり、顕著な毒性を示したりした場合は、すぐに特許出願する。 これにより、たとえラセミ体に関して他者が先に特許出願を行っているとしても、それに匹敵するほどの価値のある特許を取得することが可能となる。 たとえ異性体の分離が容易であり、その動機付けがあるとしても、「独立要件説」が進歩性をサポートしてくれるだろう。


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2019年09月17日

新しいアッセイ系は既知化合物の特許出願のチャンスとなるか (「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日 追記2)


この最高裁判決について8月30日に投稿した際に、「原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところ」だと書いた。 つまり、本件の明細書では、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロ(すなわち、人体や動物を用いるのではなく、培養細胞を用いる)実験系を用いて実験が行われて本件化合物のヒスタミン遊離抑制活性が測定されているのに対し、原審(平成29(行ケ)10003)で裁判所が「顕著な効果」を否定するために持ち出した引例は、スギ花粉症患者に被検化合物を点眼し、採取した涙に含まれるヒスタミンを測定することでヒスタミン遊離抑制活性を測定したインビボ実験(生体を用いた実験)だった。 そして引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して、次のように説示した。

平成29(行ケ)10003,PDF 30-31ページ]
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。

しかし、インビトロの実験系とインビボの実験系では、同じ化合物を使っても違う数値になることはよくあるのだろうから、異なる実験系で得られたヒスタミン遊離抑制率(数値)を単純に比較することはできない。 したがって、本件の明細書のインビトロ実験で得られた数値と同等以上の数値が引例のインビボ実験で得られていたからといって、本件の効果を「大したことはない」と直ちに結論することはできないようにも思われる(まぁ、薬というものは最終的にはインビボ(臨床)で使うものだから、インビボで効果がある方がすごい気はするが)。

つまり本件の原審判決(平成29(行ケ)10003)では、本件化合物の効果が「大したことはない」ということを明確に示すような先行技術の存在が示されていないのだ。 この点が、原審判決において、本件の「顕著な効果」が今一つはっきりと否定できていないように見えてしまう理由であるように思う。 逆に言えば、だからこそ特許庁の審判(無効2011-800018)では、本件発明の「顕著な効果」が認められたのかも知れない。

それを踏まえると、新しいアッセイ系が利用可能となった場合は注意が必要だろう。 例えば、ある疾患の既存薬や治療候補化合物の中に、ある2次的な作用機序で効果を発揮するタイプの化合物があることが既に知られているとして、その作用に関して新しいアッセイ系が利用可能となった場合は特許出願のチャンスが生まれる(以下)。

[新しいアッセイ系が利用可能となった場合の出願戦略]
ある疾患の既存薬や治療候補化合物の2次的な作用機序に関して、そのアッセイ系で良好な効果を示す化合物(化合物A)が見つかったら、同じ疾患の既存薬等の中で、そのアッセイ系で効果を示さないものを選んで、それらの結果を並べて特許出願を行う。 すると、このアッセイ系において良好な効果を示すのは「化合物A」だけで、他の化合物は効果を示さないように見えるから、化合物Aには予想外に顕著な効果があるように見える。 また、新しいアッセイ系であるので、この2次的作用機序において、化合物Aと同等以上の効果を持つ既存化合物が存在することを明確に示すデータは、出願前には存在しない。 したがって、そういう引例により進歩性が否定される心配はない。

こうしたアッセイ系による比較実験の結果は、「臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」(無効2011-800018)(2018年6月22日の投稿参照)と評価される可能性もある。 特に、これまで持っていると思われていた活性が、このアッセイ系では検出できない、というような既知の化合物が見つかれば、「このアッセイ系は非常に厳しいアッセイ系だ」と主張する理屈ができるので好都合だろう。

異なるアッセイ系(従来のアッセイ系)においては高い効果を示す化合物は出願前に知られていた、という理由で進歩性が否定されそうになった場合は、「構造を異にする他の化合物が、異なる評価系において高い効果を示す場合があることが知られていたとしても、そのことのみをもって、本件化合物の効果顕著性を直ちに否定することはできない。」と反論することができる。 今回の最判はそうした反論の正当性をサポートするかも知れない。

*     *     *

本件(アレルギー性眼疾患事件)が意図的にそうした特許明細書を作成して出願を行ったのかも知れないと言っているのではない。 ヒスタミン遊離抑制作用に関しては、モルモットの細胞を使ったアッセイ系では「本件化合物」を使っても活性が検出されなかったなど、アッセイ系によって結果がかなり違うようだから、本件明細書の実施例の結果も、意図せず偶然に得られた結果である可能性は高いかも知れない。 そして、新しいアッセイ系を使っていくつかの化合物をアッセイしたところ、もし本件化合物だけに活性が認められたら、私だって特許出願を考えるかも知れない。 しかし、出願を行う際の出願人側の内情は分かりようもないのだから、そこは分からないということを前提に、どうやって妥当な判断をしていくのかを考えなければならないだろう。

前訴判決の判決文によれば、本件明細書に記載されている実験で用いられているヒト細胞を使ったインビトロのアッセイ系は、本件特許の優先日の約7か月前に公開されたばかりのようで、これについて特許権者側は、本件特許の優先日当時は「当業者にとって現実的に利用可能な技術ではなく」と主張している(平成25年(行ケ)10058の93ページ)。 つまり本件明細書の実施例で用いられているインビトロのアッセイ系は、非常に新しいものだったわけだ。 判決文を見る限り、被告(特許権者側)は、これを進歩性肯定のための有利な事情として主張しているようだが、アッセイ系が出願前に広く利用されていなかったことは、類似の効果を有することが知られている既存薬をそのアッセイ系で調べれば、本件化合物と同等以上の高い効果を示すものは存在していたという可能性をむしろ否定できなくするのだから、特許権者側の主張とは裏腹に、むしろ「顕著な効果」の推認を阻害する事情とみなし得るものだろうとも思う。

新しいアッセイ系における好結果を出願前に予測できない限り、「予測できない顕著な効果」は否定できずに進歩性は肯定されるのか、それとも、新しいアッセイ系が出願前に広く利用されていなかったという事情は、むしろ顕著な効果の認定にとって阻害的に働く要因と考えるべきなのか。 どちらが妥当なのだろうか、よく考える必要があるだろう。

しかし、少なくとも出願人の立場で考えた場合、今回の最判から示唆されるのは、『新しいアッセイ系が利用可能となった場合は出願のチャンスだと考えろ』ということだ。 データを選別し、上記のような特許出願を意図的に出願することは手続としては不可能ではないように見えるし、そういうケースは今後発生する可能性はあるだろう。 そして特許庁や裁判所に求められるのは、仮にそうした出願がなされた場合に、その進歩性を適切に判断できるような手法を持っていてくれなければ困るということだ。 今回の最判が、それを妨げるものとなってはならない。

*      *      *

さて、2次的な作用機序に関して特許を取得した場合、この特許を生かして医薬品開発を進めるためには、医薬品の製造販売承認を申請するにあたって申請者は、医薬品の承認を審査する厚労省所管の機構(PMDA)に対して、ぜひとも本薬の薬効にこの「2次的作用機序」があることを認めさせ、医薬品の添付文書に、その作用を記載するように持って行く必要があるだろう。 そうすることによって、この医薬品の後発薬が実施されたときに、本件特許を侵害しているという理屈が通る余地が生まれるからだ。 2018年6月22日の投稿でも書いた通り、本薬(パタノール点眼薬 0.1%)に関するPMDAの審査報告書 (12ページ)によれば、本件医薬品の承認申請者は、本薬はこの2次的作用、すなわち「ヒスタミン遊離抑制作用」も発揮されているのだということについて主張したと思われる。 そしてPMDAに「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低い」と言われながらも、この作用があることについてはPMDAに認めさせることに成功し、添付文書にも記載された。 特許権者側の立場になって考えれば、これは見事な成果だし、事実として、パテントリンゲージにより後発の参入を阻止できているのだから大成功と言えるだろう。 そして、すべてはこの特許があってこそであり、今回のように新しいアッセイ系を使って「顕著な効果」を主張して特許を取得しておくことは、現時点の状況で見る限りは、医薬品の特許戦略において有効な作戦だということになるかも知れない。

但し、「ヒスタミン遊離抑制作用」に関する用途発明に限定された本件特許が、果たして後発薬を抑えられるものであるのか、という点については、2018年6月22日の投稿の他、以下も参照。

篠原勝美『日本型パテントリンケージ制度の諸問題(上)』(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35)の33ページ左

gemedicines氏の投稿『オロパタジン塩酸塩点眼液(パタノールR点眼液0.1%) 』(2019年9月7日)

*      *      *

冒頭で述べたとおり、本件の原審(平成29(行ケ)10003)で知財高裁は、引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して本件発明の効果の顕著性を否定し、私はそれについて違和感があると書いた。 それでは、もし本件の進歩性が否定されるとしたら、引例のインビボ実験における結果をどのように扱えばよいのだろうか。

私が考えるに、本件の顕著な効果を仮に否定する場合、引例のインビボ実験など別に持ち出す必要はないのだと思う。 単に、本件明細書に開示されている限られた化合物を用いたインビトロの比較実験の結果のみからでは、「臨床(インビボ)の場面までを包含するヒスタミン遊離抑制作用」に関して、本件化合物が、他の抗ヒスタミン剤と比べて突出した効果を持っていることは合理的に推認できない、ということで十分なのだと思う。

ちなみに本件明細書によれば、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロの実験系において、本件化合物は高いヒスタミン遊離抑制作用を示し、既存化合物であるクロモグリク酸二ナトリウムはほとんど作用を示さなかった。 具体的には、本件化合物を100μM以上の用量で用いて発揮できた効果を、クロモグリク酸二ナトリウムは10〜1000μMのいずれの用量でも上回ることはできなかったどころか、そもそもクロモグリク酸二ナトリウムはまともな効果を発揮していないようにさえ見えた(本件明細書の表1参照)。 しかし、本件原審(平成29(行ケ)10003)の判決文によれば、臨床(インビボ)実験の結果においてクロモグリク酸二ナトリウムは、点眼後5分後および10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率について、「2% クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%」という高い抑制率を示すことが知られていたようだ(判決文PDF30ページ)。 インビボで示すはずのクロモグリク酸二ナトリウムの高いヒスタミン遊離抑制作用が、本件明細書のインビトロアッセイ系ではほとんど検出できなかったことは、インビボにおけるヒスタミン遊離抑制作用と、本件明細書のインビトロアッセイ系におけるヒスタミン遊離抑制作用は、高い相関があるとは言えないことを示唆しているだろう。 そして、高い相関があるとは言えないのであれば、本件化合物が、たとえ本件明細書のインビトロアッセイ系において顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示したとしても、インビボにおいても顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示すことは合理的に推認できないということになるのではないか。 これについては2018年の6月22日の投稿でも書いた通り、原審の審決(無効2011-800018)で特許庁の審判合議体は、特許権者の主張をそのまま繰り返す形で「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」と説示しているが、そういう可能性を完全に否定するわけにはいかないにしても、インビボにおける効果と本件明細書のインビトロアッセイ系での効果には高い相関がないという “余地” もかなりあるわけで、その場合は、「本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するためにはあまり意味のないスクリーニング条件である。」ということになる。 本件明細書のインビトロアッセイ系が、高いインビボ効果を持つ化合物を選別するための「非常に厳しいスクリーニング条件」なのか、それとも「あまり意味のないスクリーニング条件」なのか、どちらが正しいのか真偽不明である限り、「明細書の結果に基づいて、出願当時に、インビボでも顕著な効果があると合理的に推認できるのか」を考えれば、それを肯定するのは難しいという結論にならざるを得ないのではないか。

*      *      *

本件のクレームが、もし本件明細書の実験で用いられた「インビトロ」のアッセイ系に限定されているのであれば、上で取り上げたようなインビボとインビトロの違いは問題にはならない。 しかし本件クレームの発明がインビボ(臨床)への適用までを包含するものである以上、もしそのクレームの範囲全体にわたって顕著な効果が合理的に推認できないのであれば、その進歩性を肯定することはできないという結論が導かれなければならないと思う。

このように、仮にインビボの結果が記載されている引例を用いて顕著な効果を否定するとしても、原審判決が行ったように、本件明細書におけるインビトロ実験の数値を、引例のインビボ実験の数値と単純に比較して「数値が高いとは言えない」ことを理由に顕著な効果を否定する、という論理構成にするのではなく、両方のアッセイ系の結果に高い相関があるとは認められないことを理由に、本件明細書の開示からではインビボにおいても顕著な効果が発揮されるとは推認できないという結論を導き出す方が、論理的には筋がいいのではないか思う。

つまり、そういう判断手法を、特許庁や裁判所の方たちには持っていて欲しい。

[2019/09/18 筋悪だった後半の議論を多少ましになるように書き直して再公開。^^]

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2019年09月03日

「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)追記


今回の「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)に関して、田中汞介先生がご自身のブログ『特許法の八衢』で記事を2つ(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))投稿されているので、それを読んで、まあ、あまり関係あることは書けない気もするけれど、前回の投稿に引き続き、思いついたことを若干書いてみたい。

*     *     *

(8)最高裁による破棄理由に関する田中先生の論考について

8月31日の田中論考では『破棄理由』に関し、「原審(知財高判平成29年11月21日(平成29年(行ケ)第10003号)) の判断枠組みは、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる】であり、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる一方、効果顕著性があれば審決が維持される】というものではない。」と指摘されている。

後者は、前者の反対解釈を付加したものだ。 後者であれば効果顕著性があれば審決が維持されることになろうが、前者であれば、効果顕著性があってもなお、審決を取り消す余地はあるということになる。

私は、8月30日の投稿で書いた通り、一般論として、「効果顕著性があっても、進歩性は否定しうる」と考えており、本件発明も、そうした場合に該当しうると思っているから、そういう考えが、今回の一連の判決の枠組みの中で依然として採用しうるというのなら、夢のある話だ。

改めて原審判決を見ると、判決の論理構成は以下のようになっている。

平成29(行ケ)10003 より]
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。(判決文31ページ)

 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。(判決文31ページ)

4 結論
 以上のとおりであるから,その余の点について判断するまでもなく,本件審決を取り消すこととし,主文のとおり判決する。(判決文34ページ)

上に引用したとおり原審判決は、原審審決の効果に係る判断の誤りをもって、その余の点について判断するまでもなく、原審審決を取り消している。 この判示の中に「効果顕著性があれば審決が維持される」という含意が感じられるかというと、まぁ、感じられないという方が自然だろうという気はする。

ただし、もし効果顕著性があってもなお審決は取り消される「理由」があり得るというのなら、効果顕著性を判断する前に、あるいは同時に、それが判断されてしかるべきであるのに、原審判決は効果顕著性のみを判断しているのだから、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、という意見はあるかも知れない。 特に、効果顕著性を判断するまでもなく審決は取り消されうる「理由」が本件においてあるのなら、まずはそれが判断されるべきであるのに、原審判決でそれが判断されていない以上、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、と考える人は多いかも知れない。

そういう意見が出るのは当然だろうとは思うし、解釈の優劣としては、そちらの解釈の方に軍配が上がる可能性はあるだろう。 しかし、どちらかの解釈しか採りえないとまでは言えないように思う。


(9)差戻審について

田中先生の9月1日の方の論考では、差し戻し審で採りうる結論は以下の3つだろうと指摘されている。

 1. 効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定
 2. 効果顕著性の存在を認め、進歩性肯定
 3. 効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定

そしてもし上記の「3.」(効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定)を採るのなら、なぜ原審で効果顕著性を判断したのか説明が必要だと思うと指摘され、そうした説明の一つの可能性として、効果顕著性の「存在」の判断と、効果顕著性の「程度」の判断は別だと考える可能性が提示されている。 なるほどと思った。

ちなみに、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果(ヒスタミンの遊離抑制作用)の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では当該効果の「程度」(効果顕著性)を判断しているのであるが、仮に田中先生の可能性を採用すれば、本訴原審(平成29(行ケ)10003)では効果顕著性の「存在」が判断され、差し戻し審では効果顕著性の「程度」(効果顕著性の程度)が判断されようとしているというフラクタルな感じになるのかも知れない(笑)?。

私の考える可能性は・・・、前回の投稿で書いた趣旨にしたがうのなら、

・ 効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定(予備的に、効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定)

というもので、前回の投稿の(7)にしたがって「効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定」という結論を導き、(3)にしたがって予備的に顕著性を否定するという感じになるのだろう。 具体的には前者については、ヒト細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用の「程度」が測られるのも間近だったといえ、そうである以上、本件発明は「容易に発明をすることができた」(29条2項)と言うほかなく、その効果が仮に予測を超えて顕著であるとしても、「容易に発明をすることができた」という判断を左右するものではない、というもの。 後者(顕著性否定)については、本件明細書には、本件化合物がヒスタミン遊離抑制作用を有することが開示されているとはいえ、その作用の程度は、クロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムなど、限られた化合物との比較でしか評価されていないし、高いヒスタミン遊離抑制作用を有する化合物が他にも知られていたことを考えれば、予測を超えて顕著とは認められない、というもの。

最判は「・・・,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。」という。 私の考える上記の理屈に沿って、最判のいう「諸事情の具体的な内容」を説明すれば、「明細書には、少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、当該少数の構造を異にする他の化合物に比べて活性が顕著であったからといって、本件発明の効果が予測を超えて顕著であると直ちに結論することはできない。」というのが「事情」だ。 また、本件発明が医薬用途に係るものであることをも考慮すると、本件明細書に開示されているヒト培養細胞を用いた実験のみからでは、ヒトへの臨床適用を含むクレームの全範囲において予測を超えて顕著な効果が奏されると直ちに認めることはなお困難、というのも「事情」と言えるだろう。 これは最判の説示をそのままお返ししているだけだから、最判の説示が正しいというのなら、この「事情」も否定はできないのではないか?(笑) (前回投稿の(3)も参照)

それから、上記の最判の後半部分の「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない」という説示に対しても、「明細書には、そこに示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、その結果のみをもって本件化合物の効果の程度が予測を超えていると推認できる事情等は何ら明細書に説明されていないし、技術常識とも言えない」というのが「事情」なのであって、明細書に開示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較をもって顕著性が推認できるかが問題となっている以上、それを否定するためには、構造を異にする他の化合物との比較をもって足りると考えなければ道理が合わないということだ。

また、田中先生が「説明が必要」と指摘されていること、すなわち、もし顕著な効果があっても進歩性は否定されるのなら、「なぜ原審において効果顕著性を判断したのか」という点について説明するとすれば、かなり鉄面皮な説明にはなるが、本件の場合は、たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定される理由はあるのではあるが、それとは別に、効果顕著性を否定することによっても進歩性は否定されるのであり、進歩性を否定するにあたってどちらで判断するかは任意であって、とやかく言われる筋合いはないという説明になる(笑)。 また、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では「効果顕著性」が問題となっていることに鑑みて、原審では効果顕著性を判断してやったのだ、と説明することもできるだろう。

ということで、まぁ、最高裁に喧嘩を売っているみたいになる点で、これは無理か・・・、という感じは否めない。。

但し、上記の理屈が最高裁に喧嘩を売るようになってしまう一番の原因は、最判が、「構造を異にする他の化合物」との比較だけでは「顕著な効果」を否定することはできないと説示する一方で、本件明細書には「構造を異にする他の化合物」(しかも少数)との比較しか開示されていないことを不問にしていることにある。 そして「そこは不問にはできないのだ」という立場を取ると、まるで最高裁に逆らっているように見えてしまうのだ。

しかし明細書の開示から顕著な効果を推認できるか否かという問題と、引例からそれを否定できるか否かという問題は、分離することはできない。 明細書の開示が、本件化合物の効果を比較すべき対照としっかり比較された説得力のあるものであればあるほど、それを否定するための引例は完璧でなければならないが、明細書の開示に説得力がない場合は、それを否定するための引例に完璧さは求められない。 そして両者(明細書の開示と引例の開示)を一体として判断するとき、それは引例によって「顕著な効果」が否定されると捉えるのは適切ではなく、明細書の開示と引例の開示との関係において本件発明の効果が「顕著な効果」だとみなすことができないと捉える方が実体に合っている。 明細書に開示されているのは「構造を異にする他の化合物」との比較に留まる場合に「顕著な効果」を推認することができるのか否かという問題を不問とし、引例に開示されている「構造を異にする他の化合物」との比較のみでは「顕著な効果」を否定できないと説示する今回の最判を、『否定できなければ肯定せよ』という説示だと捉えるとすれば、分離できない問題を分離する失当を犯すことになる。 逆に最判がそのような意図で説示をするはずはないと捉えるのであれば、たとえ最高裁に喧嘩を売っているように見えるとしても、上記のような「事情」を認定することをもって最判に応えることは、結局は最判の説示を正しく捉えることになるはずだ、と思う。


(10)最判の実務への影響

顕著な効果は「本件発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点」で検討されなければならないという最判の一般論についてはともかく、その理由をもって “本件の” 原審を破棄したということが実務に及ぼし得る影響は大きい。 本件には特殊な状況がある。 原審に先立つ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。」と説示され、その判決は既に確定しているからだ。

この状況で、本件発明の進歩性がこのまま肯定されることになれば、所定の効果を有することを確認することについて出願前に既に動機付けがあり、その用途に適用することには既に進歩性がなくなっていることが明らかな状況であっても、その効果が予想外であれば、直ちに進歩性が肯定されるという雰囲気が醸し出されるだろう。

例えば、先行文献には本件発明の構成が開示されており、「この化合物の○○活性について調べてみることも興味深い。」とまで記載されているとしても、実際にその活性を調べて高い活性が確認されたり、用量依存性において目新しい特性(本件のように高濃度においても活性が低下しないなど)を示すことが分かった場合には、出願人としてはこの最判を掲げて進歩性を主張できることにもなりそうだ。

よって、出願人・特許権者サイドにとっては、この最判はとてつもなく強力な武器となる可能性があるが、それに対峙しなければならない側にとっては、どうやってその進歩性が否定できるのか、頭の痛い状況になるのではないか。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月30日

予測できない顕著な効果を否定できない限り進歩性を否定することはできないのか(「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決,平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)


この事件については、原審の知財高裁判決(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;部眞規子裁判長)に対して玉井克哉先生が出された論文(自治研究 94(6) 136-150 (2018))を読んだことをきっかけに、昨年(2018年)の6月22日の投稿で感想を書いたことがあった。 そして本件が上告されていることについては、その投稿の最後で書いたように、「顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。」 というのが私の気持ちだった。

ところが本件は最高裁に受理されて口頭弁論が開かれることになってしまい、玉井先生が「少し、わくわくする」とツイートしていらっしゃった。

そして8月27日、原判決を破棄して知財高裁に差し戻す判決が出て、玉井先生も「拙稿と意見が一致」とツイートしているとおり、「玉井先生おめでとうございます」という感じになってしまった。 少なくとも破棄差し戻しと言う結果やその他のいくつかの点では 。

今回の判決に関して玉井先生は、上記のツイートで「合理的なルールの形成をお手伝いするのが法学の役割の一つなので、少し仕事をしたかな、という気がする。」とおっしゃっている。 しかし、判決の拘束力の問題について判示したのならともかく、今回の判決で最高裁は「顕著な効果」について判示したわけで、特に「顕著な効果」と進歩性の関係については、何が「合理的」なのかはまだまだ議論は尽くされていないと私は思う。 だからこの問題について最高裁が早々と口を出すとすれば、それはアカデミアの機能や役割を最高裁が妨害することになると思う。 もし今回の判決がそういうものであるのなら、今回の判決は批判されるべきものだと私は思うし、逆にそういうものではないとするのなら、今回の判決の射程は、そうした論点に影響を及ぼさないほど「狭い」と理解すべきだろうと思う。

そういうことも考えながら、今回の最高裁判決で私が感じたことを書いてみたい。

*      *      *


(1)最判の核心部分

今回の最判の核心部分は、何と言ってもここだろう。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
・・・本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・

これについては、Sotoku 10号で私も次のように書いている。

Sotoku 10号の脚注36]
・・・本件発明の構成)が出願日当時にどのような効果があると予測されていたかが検討され,その予測された効果と比較して本件発明の現実の効果」(速見禎, 知財管理, Vol.67, No.5 (2017) 732-745の739ページ右欄)が高いことが重要なのであり、引用発明の効果に対する高低が重要なのではない(この点、清水元判事も退官後の講演において同旨の発言をしている)。

速水先生の論文を引いたから「予測されていた」と過去形になってしまっているけれど、別に出願当時に予測されていたという事実が必要なわけではなく、出願当時に予測される本件発明の効果と比べて実際の効果がどうだったのかが重要なわけだ。

例えば有害な塩素系フロンを代替できる冷媒ガスを開発していて、塩素を含まない新規な炭環系化合物を開発したとする。 それで、当時の炭環系化合物としては最高の冷媒性能を示したので「顕著な効果」だと主張したところ、審査官や裁判官から「塩素系フロンでは既に達成できていた効果だから顕著な効果とは言えない」と言われたら誰だって頭にくるでしょう? つまり、比較対象として相応しい先行化合物が存在するのに、それとは違う化合物においてその効果が達成されていた、ということをもって「顕著な効果」を否定するのはおかしいということだ。 なぜそうなのかと言えば、効果の顕著性を考える場合は、まずは「本件発明が持っているだろうと予測できる効果」を予測しなければ「予測を超えるか否か」を決めようがないからで、そのためには、なるべく本件発明の構成と近い先行発明を持ってきて、その効果から類推される本件発明の効果に比べて、実際の効果はどうだったのかが検討されるべきなのだ。

したがって、私は上記の最判の判示には同意できる。 ちなみに第一線でご活躍中の高名実務家の高橋先生は本件について、「いろいろと言いたいことはあるけど、何を言っても関係者や判断者が良く思わないだろうから、(後略)」とツイートしつつも、この点については、「効果の顕著性は特定の構成との関係で判断すべき、という抽象的規範には異論はないよね」とツイートされているし、同じく高名実務家の岩永先生もブログで、「・・・,同様の作用効果を有する違う系列の物が知られているからという理由だけでは,顕著で有利な効果の否定はできない,ってことでしょうか。」と書かれている。

上記の判示は、今回の最判の主文の結論に導くために必要十分な判示だと思うから、私は、これが最判の射程だと捉えたい。


(2)構造を異にする先行化合物と比較することは許されないのか?

しかし、上記の考えもあまりに硬直的に考えてしまっては妥当性を欠くことになる。 例えば今回の最判で裁判所は、上記の核心部分の説示に至る前に、以下のようなことを説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
 ・・・他の各化合物は,本件化合物と同種の効果であるヒスタミン遊離抑制効果を有するものの,いずれも本件化合物とは構造の異なる化合物であって,引用発明1に係るものではなく,引用例2との関連もうかがわれない。そして,引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。
 しかるに,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。

最高裁の上記の説示を形式的に理解してしまうと、本件と全く同じ化合物の効果が引例に示されているか、その効果が高いことが高い確度をもって推認できない限り、本件化合物の効果は常に「予測できない」ということになりかねない。 しかし出願前に、この程度の活性を持つ化合物はたくさん知られていたという事実がもしあるのなら、たとえ構造的に異なる本件化合物においてそれが分かったからといって別に驚くにあたらないと評することはありうるだろう。 つまり、顕著な効果を否定するにあたって、本件化合物やそれと構造的に近い化合物において活性が知られていること(あるいは高い確度をもって推認できること)が必須というわけではないと思う。 構造こそ違えど、他の構造を持つ抗ヒスタミン化合物が、それなりに高いヒスタミン遊離抑制作用も持っていることがあることが知られていたのなら、抗ヒスタミン化合物である本件化合物についても、その程度のヒスタミン遊離抑制作用をもっているのではないかと期待することは当業者が抱く合理的な期待の範囲内であって、驚くに値しないという考えることもできるということだ。 むしろ、原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところで、その点は6月22日の投稿でも指摘したとおり。


(3)構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を肯定することも許されないはず(宮崎賢司先生の言う相同性理論)

最高裁は、「本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする・・・他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と言いながら、「(3) 本件各発明に係る効果」のところで、以下のように説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
(3) 本件各発明に係る効果
 本件特許の特許出願に係る明細書(以下「本件明細書」という。)に接した当業者が認識する本件各発明に係る本件化合物のヒスタミン遊離抑制効果は,本件明細書記載の実験(ヒト結膜肥満細胞を培養した細胞集団に薬剤を投じて同細胞からのヒスタミン遊離抑制率を測定する実験)において,本件化合物(シス異性体)のヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制率が,30μMから2000μMまでの濃度範囲内において濃度の増加とともに上昇し,1000μMでは66.7%という高いヒスタミン遊離抑制効果を示し,その2倍の濃度である2000μMでも92.6%という高率を維持していたというものであり,これに対して,抗アレルギー薬として知られるクロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムが,2000μMまでの濃度範囲でヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を有意に阻害することができなかったというものである

本件発明の効果に関する上記の最高裁の説示を読むと、「クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムなどの先行化合物はヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったのに対し、本件化合物は活性を示したのだから、これは予想外の顕著な効果だな」などと思ってしまうかも知れない。 しかし、クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムは、それこそ本件化合物とは「構造を異にする」化合物だ。 もし最高裁が、本件化合物とは構造を異にする化合物が同等の効果を発揮することが知られていたということのみをもって「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、本件化合物とは構造を異にするクロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムが本件化合物と同等のヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったということのみをもって本件発明の効果を「顕著な効果」と認定することも許されないというべきだろう。 これは宮崎賢司先生が最近書いた論文で指摘している「相同性理論」(二枚舌禁止など)(tokugikon no. 293)みたいなものだ。

要するに、効果を比較するのに相応しい先行化合物は何かということを考え、そういう化合物があるのなら、それと比較すべきということだ。 そして本件化合物と比較すべき先行化合物としてふさわしい化合物の代表例は、本件の医薬品承認にあたって厚労省所管の機構(PMDA)が出した報告書でもそうなっているとおり「ケトチフェン」ではないか? そしてPMDAの報告書によれば、本件化合物が持つヒスタミン遊離抑制作用は、ケトチフェンの24分の1でしかない(2018年6月22日の投稿の「3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない」を参照)。 これが正しいのだとすれば、本件化合物が示したヒスタミン遊離抑制作用が予想外の顕著な効果であるのかという点については疑問が生じるだろう。 また、この出願の明細書作成者は、なぜヒスタミン遊離抑制作用を示さない先行化合物との比較実験だけを明細書に記載し、ケトチフェンとは比較しなかったのか、という疑問も生じるところだ。 まあ当時の事情は知らないが。


(4)医薬用途発明であることは、進歩性のハードルを下げる理由となるのか?

なお、発明の効果が「顕著な効果」と言えるか否かの判断について、今回の最判には、「・・・,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・,本件各発明の効果の程度が,・・・顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と説示している箇所があり、これについて高石先生は射程範囲が問題となる旨をツイートされている。

この説示を見て思い出すのは、冒頭で紹介した玉井論文だ。 昨年の6月22日の投稿でも書いた通り、進歩性を認めるべき「顕著な効果」に関連し、玉井先生はその論文の中で、「医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。」、「・・・既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである。」 と論じていた (玉井克哉, 自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ)。 今回の最判が、進歩性を肯定するに足る「顕著な効果」を否定できないという文脈の中で「医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることからして、最高裁は、医薬用途発明に関しては、低い効果であっても「顕著な効果」だとみなされるということを前提として説示を行っている可能性は考えられるだろう。 あるいは、今回の最判における玉井論文の影響を示唆するものと考えることもできるかも知れない。

しかし、これについては先の投稿でも書いた通り私は批判的で、医薬分野についてだけ、類似品を増やすことを「特許制度として」特別にサポートする理由などそもそもないと思うし、現在の特許法が立法を経ずしてそれができる理由もないと思う。 ちなみに医薬品の特許延長制度は一見すると医薬発明を特別に厚く保護しているように見えるが、実際には、医薬品の製造販売承認を受けるにあたって国の規制により定型的に生じる特許期間の侵食をそのまま回復させているだけであって、医薬発明を特別に厚く保護しているわけではない。 その辺は同志社大の井関涼子先生がずっと指摘されているとおりだろう。

もし本件発明が、本件化合物を初めて作り出した発明であったり、本件化合物の抗ヒスタミン活性を初めて見出した発明であるのなら、私も喜んでその発明の進歩性をサポートするだろう。 たとえ既存の抗ヒスタミン剤と活性が変わらない、あるいは既存薬よりも若干活性が低下したものであったとしても、もし本件化合物が新たな構造を持つ新規化合物を提供した発明であるのなら、喜んでその進歩性をサポートするだろう。 しかし残念ながら、本件発明はそのような発明ではない。 この化合物は本件出願前に抗ヒスタミン剤として既に知られており、結膜炎の動物モデルにおいて治療効果も確認されていたものだ。 この化合物をヒト細胞に添加し、既存の抗ヒスタミン化合物が持っていることも多い「ヒスタミン遊離抑制作用」を検証していくのは実験の自然な流れとも言える。 そのような実験を行った者に対し、医薬分野だからといってわずかな進歩でも特許を与えてしまっては特許制度を歪めてしまうことになる。

それに、わずかな効果を基に医薬用途発明の出願を行う者が、その医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はまったくない。 わずかな進歩しかない医薬用途発明の特許を濫立させることによって、医薬産業が発展するとも、より多くの医薬品が上市されるとも期待することはできないのではないか。

そうした医薬品に対する保護は、医薬品を実際に開発し、手間と金のかかる治験を経て上市してくれた者に与えることこそ相応しい。 そうすると、6月22日の投稿でも書いた通り、この問題は特許制度として扱うよりも、薬事制度として適切な保護を行うようにする方が合理的だと思う。

[2019/8/30 追記]
但し、後述の(7)で、進歩性判断における「意味づけ」について触れるけれど、その部分で発明分野に応じた違いは事実上考慮されるのかな、という気もする。 私は効果の顕著性はあくまで技術的な観点で考えたくて、産業政策的に進歩性のレベルを上下させべきだという発想はないのだけれど、例えば「これだけの効果の違いでも、新薬として売りにできるほど違いだから顕著な効果だ」というような判断は、私としてはあり得る気がしており、果してこれが技術的な観点なのか、産業政策的な観点も含まれているのかは、確かによく分からないところがある。



(5)進歩性なしという結果から逆算して「顕著な効果」を否定する裁判所の実務が論理的な隙を生むことになる(という可能性)

これは想像でしかないけれど、もし裁判所が、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文を書いているのだとすれば、そういう裁判所の実務こそが、顕著な効果を否定する論理構成を捻じ曲げ、ひいては上級審で否定されてしまう原因になるのだと言いたい。

裁判所の実務が本当はどうなのかという点については、実際に判決を行った(行っている)裁判官が明らかにしない限り表には出てこないだろうが、判決文を読む限り、そういうことを疑わせる事例はあるという気がする。

「シュープレス用ベルト事件」に関して前回の投稿で書いたとおり、この問題に関連して元知財高裁所長の清水先生は、顕著な効果があれば容易なものでも進歩性を認めるという考え方(独立要件説)について、「多くの裁判例の立場である」、「他の多くの裁判例と同様に」と論じている。 確かに多くの判決はそうなっているのかも知れない。 しかしそれは単に、多くの判決文の「体裁」がそうなっているというだけであって、特に進歩性を否定する判決をする場合に、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文をそういう体裁にしているという可能性は否定できないのではないかと思う。

仮に後者のような考え方、すなわち、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考える場合、判決文においては「顕著な効果なし」という結果ありきで「顕著な効果」を否定することになるから、どうしても論理付けが強引になってしまだろううし、論理的に破綻してしまうことも多くなるだろう。

但し、仮にそういうことがあるとしても、裁判所だけを責めるわけにはいかないかも知れない。 なぜなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」という「独立要件説」的な考え方はなかなか強固な通説であって、田村先生も最近の論文で「独立要件説的な説示の影響力を物語る」と書いている(パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12の脚注20)。 裁判所としても、そういう通説に反するような判決文は書きにくいだろうから、進歩性を否定する場合は、必ず「顕著な効果」も否定しておこうという気分になってしまうこともあるのではないだろうか(まぁ、全部想像ね)。

そういう気持ちから脱して、たとえ「顕著な効果」があっても進歩性を否定するときは否定するのだという判決文を書いてもらうには、裁判官に、それだけの勇気と、ある程度の勝算を持ってもらう必要があるわけで、私はそういう勇気や勝算を与えるのがアカデミアの役割だと思うし、そういう意味で、「顕著な効果」があっても進歩性を否定すべき場合はあるのだと論じる田村先生には大いに期待しており、また、そう論じる論者がもっと多く出てこなければならないと思っている。(もちろん、パブリック・ドメイン・アプローチの重要性を説く𠮷田先生にも期待している)

ちなみに欧州特許庁では、予想外の顕著な効果があっても進歩性を否定すべき場合があることを明示的に定めており、発明に至る道が一本道である場合は、それによる効果は単なる「bonus effect」とみなして進歩性を否定するということになっている(EPO審査基準 Part G, Chapter VII, 10.2)。 これは、本当に「一本道」である場合に限られず、選択肢が複数であったとしても、その数が限られており、それらの選択肢は近いうちに試されることになるだろうと認定できる場合も同様だろう。 日本でも、立法によらずにこうした考え方を採ることは可能だろうし、審査基準としても、こうした考え方を明記しておくことを考えた方がよいのではないかと思う。


(6)最判は「独立要件説」を支持したのか

今回の判決文で最判は、「本件特許に係る発明の進歩性の有無に関し,当該発明が予測できない顕著な効果を有するか否かが争われている。」と述べるだけで、「顕著な効果があれば進歩性あり」とは判示していないから、「独立要件説」の立場をとっているとまでは言えないと解したい。(なおツイートには、独立説を採ったと評価できるとするもの(高石先生)や、そうとも言い切れないとするもの(田中先生)などがある。) (田中先生のブログの記事(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))も参照。)

本件において予測できない顕著な効果を有するか否かが争われていることを見た最高裁は、今回の最判で、「顕著な効果を判断するなら、ちゃんと判断しろ」と言ったまでであって、「顕著な効果があれば進歩性あり」と言ったわけでもなければ、「本件の進歩性の判断において、顕著な効果を判断する必要がある」と言ったわけでもないし、本件が、「顕著な効果があれば進歩性が認められる案件であるのか否か」については最高裁は関知しないし責任も負っていない(と思いたい)。

そもそも特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、その発明については、・・・、特許を受けることができない。」と定めている。 そうすると、容易に発明をすることができたにもかかわらず、予想外の「顕著な効果」があったことをもって進歩性を肯定するとすれば、29条2項に反することになるのは明らかだろう。 今回の判決で裁判所は、顕著な効果を否定した原審の判断について「・・・,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」と判示しているが、それを言うならそもそも29条2項の判断(容易に発明をすることができたか否か、の判断)において、「顕著な効果」が進歩性肯定に働く要因として常に作用できると考えることは、法令の解釈適用としてできるものではないはずだとも思う。

もし「発明の効果」によって進歩性が肯定される場合があるとすれば、それは「容易に発明をすることができた」(29条2項)という判断に影響を及ぼすような効果がある場合に限られるべきだろう。 それは、一体どのような場合なのだろうか?


(7)「顕著な効果」を否定できない限り進歩性を否定できないという呪縛から逃れよ

「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合とは、具体的には、以下のような場合だろう。

顕著な効果により進歩性が認められる場合の例

ある発明者は、コレステロール生成阻害剤として既に知られているピリミジン環を有する既知化合物(化合物A)を改変することを考えた。 改変とは具体的には、化合物Aの一部の置換基を、他の置換基に取り換えることであるが、「他の置換基」に取り換えるといっても、誰も知らない新たな置換基に取り換えるわけではなく、周知な置換基(フェニル基とか、ベンジル基とか、そういうもの)に取り換えるだけだ。 また、そういった置換基に置換した化合物を製造する手法自体は周知技術であり、容易だ。 但し、化合物Aのどの置換基を、どの他の置換基に置換するかには様々な組み合わせがあり、その組み合わせの数は「2000万通り」は下らない。 改変により活性が低下したり、喪失することもあるだろうし、上昇することもあるだろう。 しかし一般的には、でたらめに改変すれば活性は低下することが多いのは技術常識であろう。 そしてこの発明者が、化合物Aのピリミジン環の2位という部位についている置換基に含まれるメチル基をメチルスルホニル基に置換したところ、同等以上の活性を持つ化合物Bが得られ、ベンジル基に置換したところ活性が1/3に低下した化合物C(でたらめに改変すればこのくらいに低下するだろうという程度に活性が低下した化合物)が得られた。

これは「ピリミジン誘導体事件」に基づく例で、私がSotoku 10号に書いたものだ。 上記の「化合物A」とは引用発明の化合物、「化合物B」はピリミジン誘導体事件の本件発明の化合物であり、「化合物C」は私がでたらめに作った化合物だ。 このうち、「化合物B」には進歩性は認められるべきだが、「化合物C」には進歩性は認められるべきではないと私は思う。 「化合物C」はでたらめに作っただけだからね。 「化合物B」も「化合物C」も、2000万通りの組み合わせの中の一つであって、それらを選択する動機付けは特にない点では一致している。 それなのに、なぜ「化合物B」にだけ進歩性が認められ、「化合物C」には進歩性が認められないのだろうか? それは、「化合物B」には(進歩性を認めるに足る)「顕著な効果」があると認められ、「化合物C」にはそれがないからだ。

「化合物C」は、考えられる2000万通りの改変の組み合わせの中の一つで改変したら、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という程度に活性が低下した化合物が得られたというもので、「顕著な効果」は認められない。 それに対して「化合物B」は、「化合物A」と同等以上の活性を示したというのだから、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という予測を上回る活性を示したと言えるだろう。 つまり、「本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったもの」、「当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なもの」と言いうる効果だ。 そして、その効果があることにより、「化合物B」という発明は、「確かに、2000万通りの選択肢の中からそういう化合物を選び出すのは 『容易に発明をすることができた』とは言えないよね」と評することができるから、「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合となるのだ。

このように、「顕著な効果」により進歩性が認められるためには、その前提として、本件発明の構成に到達にするまでには道は一本ではなく、たとえ一つ一つの道を歩くことは容易であるとしても、「本件発明の構成」に至る道を当業者が選び出すことはそうそうすぐに起こることではないだろうという事情が必要なのだ。 「顕著な効果」とは、そういう場合において、「なるほど “当たり” を引き当てたね」とみなせるほどの効果のことを言い、その場合に限って「顕著な効果」は進歩性を認める理由となるべきだと思う。 したがって、そもそも選択肢が一つしかなく、その構成が試されるのは時間の問題であった場合は、「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いており、顕著な効果があっても進歩性は認めるべきではない。

ちなみに、「化合物C」の進歩性はどのように否定されるかというと、確かに多数の選択肢の中から「化合物C」を選び出すことはそうそうありそうにないという意味では容易に到達できるとは言えないが、「化合物C」の効果は、他の選択肢をでたらめに選択した場合と同等の効果しか発揮しない以上、「化合物C」という発明は、「でたらめに選択した発明の一つ」に過ぎないと評されるのであり、「でたらめに選択した発明の一つ」を発明することは容易だと解される以上、「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことになり、進歩性は否定される。

上記のとおり、「発明の効果」を考慮することによる進歩性の判断は、ある種の「意味づけ」を伴う(Sotoku 10号の脚注38や、2019年4月24日の投稿の最後の部分を参照)。 つまり、「化合物C」は「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけがなされることにより容易だと判断されるのに対し、「化合物B」は「でたらめに選択した発明の一つ」とは思えない程度の効果(これを「顕著な効果」という)があることにより、「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけが回避され、進歩性が肯定される。 したがって、私はこれを「意味づけ要件」(あるいは「進歩性の第2要件」)と呼んでいる。

以上に説明した、私が思う「あるべき進歩性の判断手順」をまとめると以下のようになる。

[あるべき進歩性の判断手順]
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但し、上に示した考え方は、実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方とは異なっているだろう。 実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方は、以下のようなものだ。

[森田裕, 日本知財学会誌 Vol.16, No.1, 2019 31-40 の 図1]
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すなわち、まず進歩性判断の第1段階で、「発明の構成」が容易想到であるか否かが判断される。そして、「発明の構成」が容易ではない場合、進歩性は直ちに肯定される。 そして「発明の構成」が容易ではない場合でも、進歩性判断の第2段階で「発明の効果」が検討され、その効果が「顕著な効果」である場合は進歩性が肯定される。 このように、通説的な理解では、「顕著な効果」は「発明の構成」が容易な場合の救済策として位置づけられており、いわば進歩性肯定のダブルチャンスが用意されているというのが通説と言えるだろう。

通説的な理解(下図)でも、私の考え方(上図)でも、「発明の効果」が検討されるのは第2段階においてである。

「発明の構成」が画期的に新しいもの(複数の選択肢の中から選んだだけというものではないもの)である場合は、通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)とで違いは生じない。 なぜなら、「発明の構成」が画期的に新しいということ自体が、「でたらめ・ありきたり」ではないことを推認させるから、効果の「大きさ」を考慮するまでもなく第1要件も第2要件(意味づけ要件)もクリアできるからだ。 通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)で違いとで違いが生じるのは、複数の選択肢の中からでたらめに選んだだけの発明(上記の「化合物C」のような発明)に進歩性を認めるか否かという場面と、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が高ければ進歩性を認めるのか否かという場面であり、通説的な理解では、どちらの場合も進歩性を認めてしまうのかも知れないが、私の考え方では進歩性は否定されることになる。

「ピリミジン誘導体事件」判決では、膨大な選択肢がある場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 これは通説的な理解(下図)に沿うものであるが、そのような考え方では、上記の「化合物C」のようなでたらめ発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている。 容易なものでも効果が顕著であれば進歩性を認める通説的な理解(下図)に基づくのであれば、進歩性は肯定されうるのかも知れない。 しかしそのような考え方を採ったのでは、特許制度は「容易ではない」発明を保護する制度というよりも、目ざとい人々によって発明が独占される制度となってしまうのではないか。

ちなみに、上に引用した通説的な進歩性の考え方の図を作成した気鋭の若手実務家の森田先生は、次のようにツイートされている。

[6月14日ツイート]
特許って最高の発明を保護する制度じゃなくて、最低の発明保護に適した制度。皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できるわけです。(後略)

これを受けて高橋先生は、やや自嘲気味に、次のようにツイートされている。

[7月29日(1)]
特許は、皆が次の日に思いつくことを権利化して他人の事業を邪魔することを可能にする制度だ、しかも同業他社の製品が明らかになってから補正とか分割をするという合法的な嫌がらせ手段が多数備えられている、ってことに疑問を抱かなくなってからが一人前の実務家だよ。

[7月29日(2)]
ライセンス料をしっかり稼げている特許発明で感動的な大発明はかなり少なくて、たいていは、中身のないくっだらねぇ発明だなぁ、公知例とほとんどおんなじじゃん、特許技術だけでギリ権利化しただけ、みたいなのがガンガン金を稼いでいる。これは特許制度の常識だと思うが。

[7月29日(3)]
特許制度っていうのは一部の頭のいいひとがすごく濫用している制度だよね。それによる社会的損失は甚大。制度維持の人的物的コストも半端ない。しかし、先行技術開発に対する投資保護ぐらいの機能は一応あるし、諸外国も特許制度があるので、廃止するという決断は無理。

(なおこれらの先生方はひどいことを言っているのではない。むしろ、よくぞおっしゃって下さいましたというようなことをツイートしているだけなので念のため。 また、これらのツイートは本事件との関係でされたものではない。)

私も特許制度を廃止しろとは思わない。 しかし、放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明は、そもそも「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いているのであり、効果の顕著性を判断するまでもなく、進歩性は否定されるべきだと考えるのが妥当だと思うのだが、どうだろうか。

*     *     *

以上のとおり、「ピリミジン誘導体事件」と「アレルギー性眼疾患事件」(本事件)は、「発明の効果」に関する通説的な理解に潜む不都合を露わにさせる好例を提供していると思う。 これを機に、進歩性の判断における「顕著な効果」がどのように位置づけられるのかについて、通説に疑問を持つ人が増えてくれることを期待したい。


[2019/8/30 追記・削除などいくつか実施。。 ]

[2019/9/03 (6)に田中先生のブログのリンクを追記。 ]


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月27日

「顕著な効果」の用途限定権利行使論?「シュープレス用ベルト事件」判決解説(清水節先生,特許判例百選第5版 有斐閣 2019)


清水節先生(前知財高裁所長)が進歩性の顕著な効果に関して「独立要件説」を支持しているであろうことは、2018年6月22日の投稿や、Sotoku 10号 の脚注28でも書いたけれど、今月発行された『特許判例百選 第5版』(別冊ジュリスト 244,小泉直樹,田村善之/編,有斐閣)では、「シュープレス用ベルト事件」(平成24年(行ケ)10004)判決(平成24年11月13日判決)の解説において清水先生が、まさに進歩性の「顕著な効果」の考え方に関して、「顕著な効果の独立要件説」という副題を付けて解説してくれている! 私にとって、清水先生はこの問題を一番解説してほしい人の一人だから、今回の判例百選の解説はとても興味深く読んだ。 といっても、2ページしかないし、あくまで判例解説であって自説を長々と説く場ではないから、情報量は多くないけれど。

私が「独立要件説」に否定的であることはSotoku 10号の脚注38、39でも書いたし、前田先生の論文に対する2019年4月24日の投稿や、田村先生の論文に対する2019年5月30日の投稿でも書いた。 但し、そこに書いたとおり、私は前田先生が解説するような「二次的考慮説」にも批判的で、むしろ「二次的考慮説」は、ある種の欺瞞(すなわち、顕著な効果がなければ “動機付けがある”、“容易想到” だとみなすものを、「顕著な効果」がある場合は一転して “困難だった” とか、 “動機付けがない” とか、 “容易想到ではない” と思うことにするという欺瞞)の上に成り立っているという点で、「独立要件説」よりもたちが悪いかも知れないとさえ思っている。 だから私は、「独立要件説」も、通説的な「二次的考慮説」も、どちらも支持していないのだ。

それについては2019年4月24日の投稿に書いたからいいとして、今回の解説で清水先生は、特にどちらの説を支持しているとは書いていないものの、独立要件説について「従前からの審決(・・・)や多くの裁判所の立場である」と解説している。 そして「シュープレス用ベルト事件」判決に関しても、「他の多くの裁判例と同様に、独立要件説的に理解するのが自然であろう」と解説している。

まあ、こういう書きぶりからして、清水先生は今でも「独立要件説」を支持しているのだろう。

ところで、今回の清水先生の解説には、最後にちょっと驚きのことが書かれている(以下に引用)。

[清水節「進歩性(5)」特許判例百選 第5版 有斐閣 2019 140-141 の141ページ (強調は私が入れた)]
 ・・・,本判決は,本件発明1が,・・・従来から使用されていた硬化剤(ETHACURE300)をシュープレス用ベルトに用いたことにより,・・・クラック発生の防止という予測することができない顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めたものである。したがって,いわゆる用途発明の議論と同様に,従前から当業者が使用していた当該硬化剤をシュープレス用ベルトの製造等に用いたことに対して,本件発明1はどのように権利行使ができるのかが問題となる。 具体的には,・・・当該硬化剤を用いたシュープレス用ベルトを製造等した者は,効果の主張と関わりなく全て特許権侵害となるのか,それともクラック発生の防止という効果を主張した場合に特許権侵害となるのか等の問題が生じ(中山信弘『特許法〔第3版〕』[2016] 139頁参照),今後検討すべき課題となろう。

つまり清水先生は、本件の特許権は、「クラック発生の防止」という用途発明を実施したとみなせる場合にしか権利行使できないという可能性に言及し、これが「今後検討すべき課題となろう」と言っているのだ。 「クラック発生の防止という効果を発揮した場合に」ではなく、「クラック発生の防止という効果を主張した場合に」というのだから、「クラック発生の防止」という効果さえ謳わなければ、たとえ本件発明と構造的に同一のシュープレス用ベルト(結果的にはクラック発生の防止という効果は発揮される)を製造販売しても権利侵害にならないという可能性を示唆しているのだろう。 そうすると、「顕著な効果」や「予想外の効果」を主張して「物質特許」を取ると、その効果を発揮させる「ため」という「用途」にしか権利行使できない「用途特許」になってしまう(ことがある)ということになるのだが、そんなことはあり得るのだろうか? もしそうなら、この特許はとても無力化されることになるね。 ちなみに、清水解説に引用されている中山先生の「特許法 第3版」139頁は、別にそういうことが書かれているわけではなくて、単に「用途発明」はその用途にしか権利行使できないということが書かれているだけだ。

本件特許(特許3698984)の請求項1は、以下のようになっている。

【請求項1】
 補強基材と熱硬化性ポリウレタンとが一体化してなり,前記補強基材が前記ポリウレタン中に埋設され,
 外周面および内周面が前記ポリウレタンで構成されたシュープレス用ベルトにおいて,
 外周面を構成するポリウレタンは,末端にイソシアネート基を有するウレタンプレポリマーと,ジメチルチオトルエンジアミンを含有する硬化剤と,を含む組成物から形成されている,
 シュープレス用ベルト。

つまり、「クラック発生の防止」という用途限定はないし、「クラック発生が防止される」という特性すら記載されていない。 にもかかわらず、「クラック発生の防止」という効果さえ謳わなければ、このシュープレス用ベルトを製造販売しても権利侵害にならないという考え方は、どういう理屈で導き出せるのだろうか。

但し、本件には特殊な事情があって、判決文によれば、係争中に特許権者(原告)は、本件発明は「シュープレス用ベルトの外周面を構成するポリウレタンにクラックが発生するのを防止することを目的」としているのだと主張し、本件発明は以下のように認定されるべきだとまで主張している。

[判決文 原告の主張より]
本件発明1
 補強基材と熱硬化性ポリウレタンとが一体化してなり,前記補強基材が前記ポリウレタン中に埋設され
,  外周面および内周面が前記ポリウレタンで構成されたシュープレス用ベルトに関して,
 シュープレス用ベルトの外周面を構成するポリウレタンにクラックが発生するのを防止することを目的として
 外周面を構成するポリウレタンは,末端にイソシアネート基を有するウレタンプレポリマーと,ジメチルチオトルエンジアミンを含有する硬化剤とを含む組成物から形成されている,
 シュープレス用ベルト。

そして上記の下線部は引用発明との相違点であり、原審審決はそれを看過しているとまで主張している。 まぁ、そこまで言われると、じゃあ、クラック発生防止を目的としていない場合は本件発明には含まれないのだなという気にはなるかも知れない。。

但し、本判決において裁判所は、そうした特許権者の主張を一蹴した上で進歩性を肯定しているから、特許権者が上記のように主張したことが権利行使制限の理由になるとまではいえないように思う。 それに清水先生自身、今回の解説において、上記のとおり「本判決は,本件発明1が,・・・クラック発生の防止という予測することができない顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めたものである。したがって,・・・」というように解説しており、「原告は本件発明がクラック発生の防止を目的とする旨を主張している。したがって,・・・」と解説しているわけではないから、清水先生としては、係争中に特許権者が上記のような主張をしたことが権利行使制限の原因だと考えているわけではなく、あくまで「顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めた」場合の話をしているのだと一応は理解できるだろう。

しかし・・・、清水先生は何故こんなことを書いたのだろう? ひょっとして、独立要件説をそのまま採ったのでは、特許権者に有利すぎるからバランスが悪いと思っているのかな? だとすれば私にとっては歓迎すべき方向ではあるけれど。。

まぁ私としては、たとえ「クラック発生の防止」という効果が予想外であって、その場合に「クラック発生の防止」という用途に限定された「用途発明」の進歩性の有無を考えるとしても、当業者が本件の発明の構成に到達することが時間の問題であったのなら、クラック発生の防止効果が発見されるのも間近であったと言え、進歩性は否定すべきだと思うけどね。。

ということで、私は今回の清水先生の解説を読んで、清水先生は「独立要件説」をもろ手を挙げて支持しているわけではないかも知れない、ということが分かった点で、一条の光が見えたような気がした。 まだ道は長いかも知れないけれど、いつか清水先生が、「独立要件説」を捨てる日が来ることを期待しよう。^^

*      *      *

ちなみに、「シュープレスベルト事件」の進歩性の考え方に関しては、つい最近、田村先生も論文を書いてくれている(田村善之, パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12)。 田村先生は、過去に本件の進歩性の判示を否定的に論じており(パテント Vol69, No.5(別冊15) 2016, 1-12)、そのことについては2018年6月22日の投稿でも書いたけれど、その後も田村先生の考え方が変わっていないのか、ちょっと心配だった。 でもうれしいことに今回の論文で田村先生は、「・・・,動機づけがあることが示されている以上,たまたまとはいえクラックの発生が抑制されることが発見されるのは間近であったといえ,それが予測しがたい顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる (20)。」と論じており、今でも考え方は変わっていないみたいだ。 私もこの点は田村先生の言うとおりだと思う。

ただし、田村論文(上記のパテント8月号)の脚注20でも指摘されているとおり、本件発明で用いられた硬化剤(ETHACURE300)がシュープレスベルトの製造に使用されることが、本当に時間の問題であったのか、ということについては、若干疑問の余地はあるかも知れない。 判決文を読む限り、ETHACURE300以外にも、使えそうな硬化剤はそれなりに多数存在していたようだから、シュープレスベルトの製造においてETHACURE300に辿り着くことが時間の問題だったとまでは言えないかも知れない。 そうすると、本判決の結論(進歩性ありという結論)自体は批判に値しないということになるから、この事件を、「進歩性を肯定すべきでない発明について、独立要件説に基づいて進歩性を肯定した不当な判決」とまではいえないことになる。 それもあって私は Sotoku 10号(の脚注39)でこの問題を取り上げるときに、この案件を取り上げる代わりに、不当であることがより強く感じられる「芝草品質の改良方法」事件(平成25年(行ケ)10255;平成26年9月24日判決)の方を取り上げたんだ。

まあそれはともかく、田村論文(の脚注20)で田村先生が指摘しているとおり、本判決の論理構成自体は、「ETHACURE300の選択の困難性を論じるまでもなく(・・・),・・・顕著な効果があるがゆえをもって,進歩性が肯定されるという独立要件説的な論法を用いている」のだし、その点は今回の清水先生の解説でも「独立要件説的に理解するのが自然であろう(田村・前掲9頁,反対,前田・前掲36頁)。」と指摘されているし、私もそう思うから、その点で、私は本判決に批判的だ。

なお、上記のとおり清水解説には「反対,前田・前掲36頁」と書いてあって、前田先生は本判決は「二次的考慮説」に拠っていると考えていることが示唆されており、その前田論文(L&T 82, 2019)にはさらに高石先生の論文(パテント別冊15, 2016)が引用され、高石先生も前田先生と同じ見解であることが示唆されているけれど、前田先生のような本判決の見方(二次的考慮説的な見方)は、冒頭で述べたとおり、顕著な効果があることをもって「容易想到ではない」と結論する欺瞞的な論理付けを受け入れる(あるいは問題視しない)ことによって成り立っているわけで、実質的には「独立要件説」と変わるところはないのだからね、というのが私の理解だ。

5月30日の投稿でも言った通り、そうした欺瞞的立場を採らず、本判決を「独立要件説的」だと解説する清水先生の方が、潔いし分かりやすいと思う。


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2019年06月03日

大合議判決は論難に値するか − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(4)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。 今回が最終回。 今回の田村評論で納得がいかないところの一つ、すなわち、発明の効果を検討することなく進歩性を肯定した今回の大合議判決を「論難するに値するものではない」と田村先生が論じたことを論難したいと思う。

*     *     *

本件(ピリミジン誘導体事件)の副引例(甲2:特開平1-261377号公報)のように、実施例において実際にHMG-CoA還元酵素阻害活性が確認されている化合物以外にも、文献中に膨大な数の置換基の候補が列挙して記載されており、それらの置換基で置換した化合物が、実施例の化合物と同等の高いHMG-CoA還元酵素阻害活性を持っているかどうかは、実施例もないのでよく分からないようなケースについて田村先生は以下のように論じている。

[田村評論の 7)より]
 翻って、本件の甲2にあっては、先にも紹介したように、判決の認定によれば、・・・。・・・。・・・、「甲2の一般式(T)で示される極めて多数の化合物全部について、実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG−CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではなく、HMG−CoA還元酵素阻害活性が失われることも考えられる」のであって、「甲2から、甲2の一般式(T)で示される極めて多数の化合物全部について、技術的裏付けがあると理解できるとはいえない」とされている。 そうだとすると、本件の事案は、HMG−CoA還元酵素阻害剤を提供するという、本件発明に係る技術的思想との異同が問題となる技術的思想の観点からみれば、甲2の一般式の全てについて、とりわけ相違点に係る構成を含む範囲について先行発明が成立していたわけではないことになる。・・・。
 したがって、選択発明に本来要求されるべき顕著な効果を吟味することなく、甲2に記載された技術的思想に対する本件発明の進歩性を否定しなかった本判決の取扱いは、論難するに値するものではないといえよう。

なお田村評論の脚注47では、『先行発明が成立していない場合にも、それだけで必然的に後行発明が特許性を取得するというわけではなく(・・・)、未完成の先行発明を主引例としつつ副引例や周知技術等と組み合わされることにより、進歩性が否定されることはありうると考えている(そしてこの進歩性判断においても、やはり顕著な効果が二次的考慮要素として参酌されうる)。』と記載されている。 この指摘は一見すると、効果を参酌しなかった大合議判決を批判しているようにも見える。 しかし「効果」を参酌することなく進歩性を肯定した本件における大合議の判断を「論難するに値するものではない」と評していることと整合的に考えるのであれば、本件は脚注47の指摘が該当するケースではないと田村先生は考えていることになるだろう。 つまり田村先生は、少なくとも本件については、「効果」を参酌するまでもなく特許性(進歩性)が肯定されるケースだと考えているのではないか。

こうした田村先生の考え方を否定するためには、Sotoku 10号 の「9.」節をはじめとして、2月19日の投稿や4月16日の投稿でも書いた「でたらめ改変化合物」の例で十分だと思うのだが、どうだろう? 例えば、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中からでたらめに選んだある置換基で、甲1の化合物を改変した化合物(「でたらめ化合物」)を作った場合だ。

化合物の塩の違いはさておき、本件特許の化合物(例えばロスバスタチン)も、私が作った上記の「でたらめ化合物」も、構造的には『甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中から選ばれたある置換基で甲1の化合物を改変した化合物』に相当するから、本件特許の化合物(ロスバスタチン)であれ、私の「でたらめ化合物」であれ、物の構成としての想到困難性は同等といえるだろう。 そして、もし本件化合物の進歩性の判断において、物の構成が容易想到ではないというだけで、「効果」を考慮することなく進歩性を肯定してよいというのなら、上記の私の「でたらめ化合物」の進歩性も、「効果」を考慮することなく肯定してよいということなるはずだ。

ということは、上記の私の「でたらめ化合物」は、活性を考慮することなく進歩性が肯定される。たとえHMG-CoA還元酵素阻害活性が甲1の化合物の1/2だろうが、1/3だろうが、1/10だろうが、1/100だろうが、あるいは活性がゼロだったとしても、進歩性は肯定されるということになるはずだ。

もしそうなのであれば、Sotoku 10号の脚注33 にも書いた通り、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中から選んだ任意の1つで甲1の化合物を改変した化合物の進歩性は、ほとんどの場合において肯定されることにもなるだろう。 なぜなら、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢のほとんどは、それを積極的・優先的に選択する理由などなく、物の構成の容易想到性という点では、本件化合物(ロスバスタチン)との違いは見当たらないのだから。

私は、そういうでたらめな化合物に進歩性を認めるべきではないと思うし、多くの実務家も、そういう感覚は共有できるのではないかと期待する。

上記のような帰結となってしまう原因は、進歩性の判断において「効果」を考慮しないことにある。 つまり、上記のような帰結を否定したいのなら、たとえ選択肢の数が膨大であっても、進歩性の判断において「効果」を考慮する必要性を認める必要がある。 甲2に記載されている膨大な置換基の任意の1つで甲1の化合物を改変した発明の進歩性は、得られた化合物に一定の効果があってこそ認められるべきなのであって、効果を参酌することなく進歩性を認めた大合議判決の判断のやり方は論難に値する。

そもそも田村先生は、上に引用したとおり、先行発明で示される一群の化合物が「実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG-CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではない」(すなわち優れた効果を奏するとはいえない)と裁判所が認定していることを根拠にして、「先行発明は成立していない」としているわけだ。 「効果を奏するとはいえない」ということをもって「先行発明は成立していない」とするにもかかわらず、本件発明の化合物は効果(活性)があるか否かを確認するまでもなく進歩性を認めるというのは、論理的に整合しているとは言えないのではないか? それとも、この点は発明該当性や記載要件で判断するとでもいうのか?

同様の批判は、大合議判決の説示にも当てはまる。 裁判所は「(ウ)a」(判決文PDFの110ページ)において、構成が容易に抽出できないことをもって「構成が記載されているとはいえず」と説示しているにもかかわらず、「(ウ)b」(111ページ)において「・・・,実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG−CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではなく,・・・。極めて多数の化合物全部について,技術的裏付けがあると理解できるとはいえないのであって,・・・,前記aの判断を左右するものではない。」と説示し、まるで、効果が期待できる場合は「前記aの判断」がくつがえる、すなわち、効果が期待できる場合は、「構成」が記載されていなくても「構成」が記載されていることになるかのような説明を行っている。 これは、具体的な構成が記載されていなくても、概念的に包含されるもの(つまり選択発明)は新規性がないとみなす「ゾンビ説」に通じる考え方だ。 大合議のこの説示に田村先生が着目した上で、大合議判決はゾンビ説に「変更を迫るものではない」と論じているのはなるほど、うなずける話だし、効果が期待できる場合とできない場合で別異の取り扱いをすることを示唆しているように見える大合議判決のこの説示を受け入れるのであれば、田村先生が「選択発明二分論」(5月20日の投稿を参照)を説くのも当然というべきだろう。

しかし論理的に考えて、「効果」の予測困難性は「構成」の抽出困難性を左右するものではないのだから、(実施しない限り判明しない)「効果」を予測することが困難であることが、「構成」の新規性や容易想到性に影響を及ぼすと考えること自体がおかしい。 なお、この考え方に論理性を持たせるために、ここでいう「構成」とは「効果がある構成」を意味していると捉え、『効果の予測が困難な場合、「効果がある構成」を抽出するのは困難だから、「効果」の予測困難性は「(効果がある)構成」の抽出困難性を左右する』と考えることはできるかも知れない。 しかしもしそう考えるとすれば、それは「構成」の中に「効果」を織り込んだ上で抽出困難性を考えているのであり、「構成」の抽出困難性を純粋に考えているのではないのだから、「効果」を考慮していることを認めるべきだ。

ちなみに、甲2に記載されている膨大な選択肢の多くは活性が失われてしまうという推定が成り立つような場合は、HMG-CoA還元酵素阻害活性をともかくも持っている構成を同定したという程度でも進歩性は肯定し得るだろう。 その場合は、ともかく活性がありさえすればよく、活性の「程度」は考慮する必要はないということになるのかも知れない(Sotoku 10号 の脚注36)。 しかしその場合でも、効果を考慮していることに変わりはない。

なお田村先生は、今回の大合議判決と同様に『選択発明としての進歩性判断の前提となる「刊行物に記載された発明」に当たらない旨を判示して原審決を取り消した判決』の例として、平成25(行ケ)10324[誘電体磁器及びこれを用いた誘電体共振器]を挙げている(脚注44)。 しかしこの判決は、甲4報告書や甲35報告書という事後的に出された実験結果を加味して甲1発明を認定した原審の審決に対して、『甲4報告書や甲35報告書に記載された結晶構造等の属性も,甲1公報に「記載された発明」となる』と解することはできないと説示し、その限度において審決の誤りを指摘したに過ぎず(判決文PDF 21ページ5-9行)、出願前に知られていた引例(甲1)の引用発明適格性そのものを否定したわけではない。 そして進歩性に関しても、「甲1公報には,少なくとも,1/100000〜3体積%のβアルミナ等の結晶相を存在させること,また,それによりQ値を向上させることについて記載も示唆もなく,甲1公報は,甲1発明において,Q値を向上させるために,1/100000〜3体積%のβアルミナ等の結晶相を存在させることを動機付けるものではない。」(判決文PDF 16ページ)と説示し、本件発明が40,000以上のQ値(誘電特性)を達成したことを考慮した上で進歩性を肯定しているのだから、効果を考慮することなく進歩性を肯定した今回の大合議判決とは明確に異なっていることを指摘しておきたい。

*     *     *

なお、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方は、今回の大合議判決が初めて示した考え方というよりは、特許庁において従来から採られていると思われる考え方であり、実務家の大半も、半ば常識として信じている考え方だと思われるので、これを否定しようとする私の考え方は笑止だと思われるかも知れない。

しかし、特許庁の審査基準にも、単なる「設計変更」(「設計事項」とも言う)や「寄せ集め」には進歩性を認めない(審査基準 第III部第2章第2節 3.1.2 (1), (2))という考え方はあり、その場合は発明の効果が検討されることになるから、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方が常に採られているわけではない。 「効果」を必ず検討する私の考え方を採ったとしても、画期的な新しい構成を開発したような発明、例えば、これまでは「天然成分を使った糊(のり)」しかなかったところ、初めて「合成接着剤」を開発したような場合は、たとえ接着力が天然の糊より劣っているとしても、その発明は「でたらめ」によって入手できたありきたりではないとみなすことはできるのだろうから、進歩性を肯定することは十分に可能だ。 私の考え方(つまり「効果」を必ず考慮する考え方)を採ることによって、本来なら進歩性が肯定されるべきものの進歩性が否定されることはないだろうと思う。 むしろ、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方は、今回説明したように、膨大な選択肢の中からでたらめに一つを選んだような発明や、目新しい指標を適当に組み合わせたパラメータ発明などの進歩性を否定することが難しく、大した効果もないような態様が包含されうる発明であっても進歩性が肯定されてしまうという不都合がある。 パラメータ発明のように、ある程度の範囲がある発明であれば、たとえ進歩性を否定できなくても、「明細書において謳われている効果が十分に発揮されない態様が包含されうる」あるいは「明細書中に謳われている課題が解決できない態様が包含されうる」ということを理由にして「サポート要件」で拒絶することはできるかも知れない(「偏光フィルム事件」(平成17(行ケ)10042)や最近の「トマトジュース事件」(平成28(行ケ)10147)の知財高裁判決などのように)。 しかし2月19日の投稿でも指摘したとおり、クレームの範囲が実施例とあまり変わらない程度にまで限定されている場合は、実施例でサポートされていると言える以上、「サポート要件」で拒絶することは難しくなり、拒絶されるべきものを拒絶できないという不都合が生じてしまう。 したがって、「進歩性を否定できなくてもサポート要件で否定すればよい」などと考えて安心していてはいけないのであり、こうした発明を進歩性で拒絶できるような判断規範を作っていく必要があるのだと思う。

「進歩性判断において “効果” は常に考慮すべきなのではないか」、 「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」というのは、実は「構成が画期的である場合は、効果の程度を考慮するまでもなく進歩性がある」というだけで、効果を考慮する必要がなくなるわけではないのではないか?」、「これまでサポート要件で拒絶していたものは、実は進歩性で拒絶すべきなのではないか」ということについて、よく考えてもらいたいなと思う。

なお、特許庁の宮崎賢司先生の特技懇 289号(2018)の論文「間接事実説なのか、独立要件説なのか、それとも?」(その論文の「11.」を参照)では、発明の「目的、構成、効果」の三要素を(一つの)技術的思想の創作として捉えて進歩性を判断することが論じられている。 ちょっと意味が分かりにくいが、「構成」だけを切り取って判断して進歩性を肯定してよいものではなく「効果」も含めた一体のものとして考慮せよということなのであれば、私の考え方ともかなり近いような気がする(私は発明の「目的」や「課題」は重視しないが)。

また、私がここで述べた「でたらめに過ぎないという推定を否定できないものは “進歩性なし” で拒絶してよいのだ」という考え方は、「99.9999999999999%の金。」という、単なる願望を書いたような高純度の金の発明は、たとえ現実には実現できないほど高純度であっても “進歩性なし” で拒絶してよいのだという特許庁の岡田吉美先生の言っていることにも通じるものがある(岡田吉美, パテント Vol.60, No.5, 50-67, 2007 62〜63ページ)。 2月の投稿でも書いたが、私は昔は、岡田先生のこの考え方に若干否定的だったものの、今は比較的すんなり受け入れられるようになった。

こうした先生方の論考の理解を深めながら、私の方もさらに考えを修正していきたいと思う。

*     *     *

ということで、数回に分けて田村評論(WLJ判例コラム153号)を見てきた。 いろいろと文句は書いたけれど、何といっても田村先生の評論は、井関先生の論文に輪をかけて興奮するものだったし、今回の大合議判決に関してこれまでに他のどの人が書いた評釈より同感できる部分が多かった。 この田村評論が多くの人に読まれ、今回の大合議判決の進歩性の判断のやり方が本当に妥当といえるのか、そして進歩性の判断基準はどうあるべきなのかについて、議論が進むことを期待したい。

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2019年05月30日

「発明の効果」の意義について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(3)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

*     *     *


(5)「独立要件説」批判との整合性

4月24日の投稿でも話題にしたが、「独立要件説」とは、容易な発明であっても「顕著な効果」があれば進歩性を認める(すなわち、「顕著な効果」がなければ進歩性なしと判断するのに、「顕著な効果」があることをもって進歩性ありと判断する)という考え方だ。 この考え方を採るかぎり、「顕著な効果」があれば、発明の構成が容易か否かとは無関係に進歩性は認められることになるから、「顕著な効果」は進歩性を認めるための独立した要件(具体的には、発明の構成が容易か否かとは無関係に、「顕著な効果」だけで進歩性を認める要件)となる。

今回の田村評論の脚注41にも記載されているとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、「独立要件説」に対立する説として知られる「二次的考慮説」を採っている。

ところで前回の投稿で話題にした「ゾンビ説」は、選択発明には基本的に新規性も進歩性もないと考えているのに、「顕著な効果」があることをもって新規性も進歩性もあると考えるのだから、「独立要件説」と類似している。「ゾンビ説」において「顕著な効果」は、選択発明の新規性を認めるための要件としても、進歩性を認めるための要件としても、「独立要件」として作用しているように見える。

したがって、もし田村先生が「ゾンビ説」を支持するのだとすれば、田村先生が「独立要件説」に反対していることと矛盾するのではないかという疑問が生じることになる。

田村先生もこの点は考えているのだろう。今回の評論において田村先生は、「選択発明の場合には、別異の取扱いとなる。」(脚注41)と述べ、以下のように解説する。

[田村評論の 7)より]
 選択発明について、刊行物に記載された先行発明の抽象的な範囲に含まれることに変わりはないにも関わらず、顕著な効果の有無によって新規性、進歩性の判断が分かれるとされているのは何故なのであろうか。この問いに対する解答は、産業の発達のために発明とその公開にインセンティヴを与える特許法の目的に鑑みることにより、自ずから明らかとなる。つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる

上の引用から示唆されることは、仮に選択発明には一般に「新規性」も「進歩性」も「ない」と考えるとして、「顕著な効果」があった場合に田村先生が「ある」と考えるのは「新規性」だけで、「進歩性」はあくまで「特定が当業者にとって容易でなかった」ことが必要だと考えていることだ。 すなわち、「顕著な効果」を「独立要件」と考えるのは「新規性」だけであって、進歩性はあくまで「二次的考慮説」にしたがって判断するのだから、これまでの田村説と矛盾はないというのが田村先生の立場のようだ。

つまり田村先生の考え方によると、(先行発明が成立している)選択発明には基本的に「新規性」がないが、「顕著な効果」があった場合は「新規性」はあると考え直し、さらに、その発明を特定することが当業者にとって容易でなかったという場合には「進歩性」もあると考えるということになる。

しかしここで疑問が生まれる。 田村先生は、「顕著な効果」が発見されるまでは「新規性がない」と考えていた選択発明の中に、「当業者にとって特定が容易でない」発明が含まれ得るという立場なのだろうか? つまり「当業者にとって特定が容易でない」発明なのに、(「顕著な効果」が発見されるまでは)その発明を「新規性がない」と考えるのか? なぜ「当業者にとって特定が容易でない」のに「新規性がない」と言えるのか?

田村先生は、上のような考え方はインセンティブ論から「自ずから明らかとなる」と論じている。 しかしインセンティブ論から「ゾンビ説」そのものを導き出すことはできないのではないか。 例えば「ゾンビ説」を採らず、実施できることが明らかであるように(実施例などを伴って)明細書中に記載されていない選択発明は基本的に「新規性」はあると考え、そのような選択発明の中でも、選択する動機付けがなく、かつ、それなりの効果もあるものだけが「進歩性」があると考えても、選択発明に特許を付与するか否かという最終結論において「ゾンビ説」とほとんど同じ結果をもたらすことはできる。 そういう考え方と「ゾンビ説」のどちらが正しいのかまでをインセンティブ論で判断することはできないはずだ。

但し、もし特許を付与するか否かという最終結論において違いが生じないのなら、こうした考え方の違いをあまりしつこく問題にしても不毛かな、とは思っている。 だから Sotoku 10号の脚注41でも「対立させることに不毛感がある」と書いた。


(6)田村先生が採用する「二次的考慮説」は、「独立要件説」と実質的な違いはあるのか?

上述のとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、それとは対立する説である「二次的考慮説」を採っているが、「二次的考慮説」について田村先生は、「パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016」の中で以下のように解説している。

[田村善之, パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016 の4ページ]
 2  顕著な効果をなぜ斟酌するのか: 二次的考慮説
 他方,29 条2 項の条文に忠実に考えるとしても,特許発明が従来技術に比して顕著な効果を有していることが直接, 進歩性を基礎づけることにはならないのだが,しかし従来技術に比して顕著な効果があるにも関わらず, 発明がなされていなかったということが,進歩性を肯定する方向に斟酌すべき一事情となることまでが否定されるものではない。 進歩性の判断の際に顕著な効果が斟酌される理由を,ここに(のみ)求める見解を,「二次的考慮説」と呼ぶことにしよう。

もし「二次的考慮説」というものが、「たとえ顕著な効果があっても、容易なもの(一定の動機付けがあるもの)には進歩性はないのだ」と考えて進歩性を否定する説であるのなら私も賛成できる。 しかし、いろいろな人が書いている論文を読むと、そこがどうもはっきりしない。「独立要件説」と「二次的考慮説」は事実上差がないようなことを論じたりする人もいる。 例えば4月24日の投稿で取り上げたとおり、神戸大の前田健先生の最近の論文(L&T No.82, 2018, 33-43ページ)でも、「独立要件説」と「二次的考慮説」との対立について、「・・・実際上の結論の違いをもたらさない」(37ページ左)とか、「・・・、この対立はあくまで理念的なもの」(39ページ右)などと論じられている。 しかしそう論じる前田先生の「二次的考慮説」がどういう説なのかといえば、4月24日の投稿で説明したように、効果を確かめるまでは「動機付けがあった」とみなすものを、顕著な効果があったら「動機付けがなかった」と思うことにしてしまう修正主義的な考え方なのだ。 前田先生のように考えれば「二次的考慮説」と「独立要件説」の結論に差がなくなるのは当然だろうが、もし「二次的考慮説」がそういう説なのだとしたら、そんな「二次的考慮説」を唱えること自体、「無意味かつ誤解を生む源である」と評価しなければならないのではないか? 清水節先生や玉井克哉先生(2018年6月22日の投稿参照)のように、はっきりと「独立要件説」の考え方を打ち出す方が、よほど分かりやすいし、議論もしやすい。

このように、「二次的考慮説」を唱える人はどうも分かりにくいのだ。 そこで、私は「二次的考慮説」とは距離をとるために、Sotoku 10号では「二次的考慮説」という言葉はあえて使わず、発明の効果は「一次的考慮要素」なのだと書いた(28ページ)。

パテント69巻5号(別冊15号)を読む限り、田村先生は、この2つの説は実質的な差がある(すなわち、田村先生の「二次的考慮説」においては、たとえ顕著な効果があっても一定の動機付けがあるものには進歩性はないのだと考える)と思われるので、少なくともその当時の田村先生の考え方は応援したいのだけれど、今回の田村評論では、その点が一歩後退して前田先生と同じような考え方になってしまったようにも見え、かなり不安になってくる。

例えば上でも引用したが、今回の田村評論では以下のように論じられている。

[田村評論の 7)より]
つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。そしてこの進歩性の判断においても、顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化するので、進歩性を肯定する方向に斟酌される

上記のように田村先生は、「顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と論じている。 しかし、「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」というのなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということになり、事実上、「独立要件説」と変わらないことになってしまう。 上にも引用したとおり田村先生は、「顕著な効果」で肯定されるのは「新規性」だけで、進歩性については、「その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。」とは言っているものの、田村先生は「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」とも言っているのだから、顕著な効果があること自体が「容易でなかった」ということを自動的に肯定することになり、事実上は「独立要件説」で進歩性を判断するのと変わりがなくなるのではないか?

田村先生は以下のようにも論じている。

[田村評論の 脚注47より]
ちなみに、筆者の立場はこれまでの論述から明らかなように、先行発明が成立している場合には後行発明が新規性を喪失しないためには少なくとも顕著な効果が必要であり、さらに進歩性を否定されないためには後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであることも必要である(顕著な効果は、この進歩性判断の際の二次的考慮要素としても参酌されうる)。

上の引用中では、進歩性を認めるためには「後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであること」も要件である旨が論じられているが、もし「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」のであれば、その要件は事実上、ないのと同じということになりかねないのではないか? 田村先生には、私が田村先生に抱くこのような不安をぜひ払しょくしてほしい。 つまり、「顕著な効果」というものが、進歩性の判断においてどのような役割を果たすのかについて、今一度明確に論じてほしいと思う。

ちなみに、私の考え方は Sotoku 10号や4月24日の投稿で説明したように、「顕著な効果」は、「でたらめに選んだだけの(あるいは単なる寄せ集めに過ぎない)ありきたりのものという推定を否定するための証拠」だと捉えるというものだ。 つまり、何千何万の潜在的な選択肢の中から特定の一つを選ぶというのは、確率的には何千分の一、何万分の一であるから、効果を考えるまでもなく、「その構成を選ぶ動機付けはなかった」と言えるのかも知れない。 しかし、何千何万の選択肢の中から一つを選ぶという発想や行為自体は容易なのだから、単に「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」という推定を否定できない限りは進歩性を認めるべきではない。 そして、「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」ということを否定するための客観的・外形的な尺度として、その発明の効果が『「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」とは思えないほど高い』のか否かが測られるというわけ。

したがって私の考えでは、「顕著な効果」というのは、「その構成を選ぶ動機付けがない」ことを推認させる事情ではなく、「単なるでたらめ/寄せ集めのありきたりではない」ことを推認させる事情ということになる。 したがって、いくら「予想外の顕著な効果」があろうとも、それ自体は「動機付けがない」ことを推認させる事情とはならず、たとえ「顕著な効果」があっても一定の「動機付け」があったのなら進歩性は否定されるというのが私の考え方だ。

この考え方はすっきりしているのではないか? 田村先生や前田先生のように、「顕著な効果があることが容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と考えてしまっては、「顕著な効果」自体が進歩性を肯定する十分条件となってしまい、「独立要件説」との違いが分かりにくくなってしまうが、私のように「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎないと考えれば、強い 動機付けがあった場合は進歩性を否定することができる。

また私は、「動機付けがない」ことは進歩性に求められる重要な要件であるの対し、「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎず、4月24日の投稿の最後でも書いたとおり、それほどシビアに判断する必要はないとも感じている。 なぜなら、たとえ「顕著な効果」がないものを特許にしても、その発明を行う「動機付けがない」のであれば、第三者が容易に思いつくものに特許を付与することにはならないからだ。 また、進歩性を認めるために必要な「顕著な効果」のレベルについても、「単なるでたらめでのありきたりはない」と推認できれば足りるのだから、それほど高い効果を常に求める必要はなく、また場合によっては、出願後に判明した効果や商業的成功などを参酌することも容認できると考えている。

Sotoku 10号の「9.」節で私が例に挙げた「くだらない発明」(改変タンパク質や改変化合物)に関して、たとえ特許になっても私は「構わない」(24ページ、26ページ)と言ったのはそういうことであり、たとえ特許になっても、その発明に「動機付けがない」ことに変わりはないから第三者への害は少ないだろうという意味だ。 そしてSotoku 10号の脚注35で「後出しデータ」や「医薬品としての成功」を参酌してもよいことを示唆したのは、発明の「効果」というものは、それほどシビアに判断すべき要件ではないと思っているからだ。

「動機付け」がなくても「効果」がなければ進歩性を否定し、「効果」があっても「動機付け」があれば進歩性を否定する私の考え方は、進歩性のハードルを上げ過ぎているのではないかと思われるかも知れないけれど、そうでもない。 例えば今回の事件では、副引例に選択肢が「2000万個以上」記載されている場合だったが、たとえ引例に選択肢が「数十個」程度(あるいは十個程度)しか記載されていなくても、それらの選択肢について実施例がなく、実施できることが「明らか」だと言えなければ「新規性」は否定されないし(審査基準 第III部第2章第3節3.1.1(1)(b))、顕著な効果があれば「進歩性」も肯定され得るかも知れないと考えている。 「2000万」という数字をそこまで下げ得るのはなぜかというと、Sotoku 10号の「7.」節にも書いた通り、その引例は「所与の前提ではない」と思うからだ。 つまり、たとえその引例には「数十個」しか選択肢が記載されていないとしても、「その引例に着目すること自体が容易であったのか」を加味しうるからだ。 したがって、文献の選択の容易性までも加味しながら総合的に考えて、その発明に到達する動機付けはなかったといえる状況であるのなら、たとえそれがある先行文献中に膨大とは言えない数の選択肢の一つとして明記されているとしても、進歩性は肯定しうると考えている。

なお、上記で『引例に選択肢が数十個程度しか記載されていなくても「新規性」は否定されない』と書いたが、仮にその引例が特許で、その数十個を概念的に包含するようなクレームで特許が成立している場合は、引例の特許権の効力はその数十個にも及ぶことになるだろう。 先願の明細書に選択肢が(実施例ではなく仮想的にではあるものの)記載されており、その特許権の効力もその選択肢に及ぶのに、依然としてその選択肢の「新規性」は失われていないという私の考え方はおかしいと感じる人もいるかも知れないが、そんなことはない。 Sotoku 8号『実施可能ではない態様を包含する発明に特許を付与してもよい事情』の「10.」節で書いたことと同じで、“実施可能性がない態様” (実施できることが明らかとは言えないのだから、少なくともその実施態様については新規性も失われていないと考えうるだろう;上記審査基準)を包含する発明に特許が付与されることは普通にあるからだ。 「ゾンビ説」を支持している人たちは、先行特許発明の技術的範囲に包含される選択発明はすべからく「実施できることが明らか」で、すべからく新規性がないと思っているのかも知れないが、そうした考えは誤りだと思う。 単に、先行特許発明の技術的思想(その先行特許発明の本質的部分)を利用する関係にあるというだけのこともあるのだ。 (ただしSotoku 8号で書いた私の考え方は、「クレームはその全範囲(full scope)において実施可能でなければならない」という建て前を持つ各国特許庁の記載要件の考え方とは相いれないようにもみえるので、なかなかこうした考え方が広く一般に受け入れられるのは難しいかも知れないが。)

ということで、私がSotoku 10号で説明した「顕著な効果」の考え方は、進歩性判断における「効果」の意義を明確化しようとするもので、これまでの「二次的考慮説」では必ずしもはっきりしなかった「独立要件説」との違いも打ち出すことができる。 つまり、「二次的考慮説」では「効果」を「動機付けがないこと」を推認させる事情だとみなしているのに対し、私の考えでは、「効果」は「単なるでたらめ/寄せ集めによってできたありきたりではないこと」を推認させる事情であって、「動機付けがないこと」を推認させる事情ではないから、基本的には動機付けの判断に影響を与えない。

この考え方でうまく行くかどうか、今後も考えていきたい。

(つづく)


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2019年05月20日

「ゾンビ説」は妥当か? − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(2)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 7) 」 について

田村評論の「4 評釈」の「 7) 」には、気になる点がいくつかあるので、それについて以下に見て行きたい。

(1)ある上位概念の発明が知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に該当する発明は基本的に新規性がないという考え方(井関論文のいう「第二説」)は妥当なのか?

同志社大の井関涼子先生は、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決の評論(特許研究 No.66, 60-75 (2018))で以下のように論じている。

[井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018) の71ページ右]
 学説では,選択発明の特許性に関して2つの考え方がある。 第一説は,選択発明は先行発明に具体的な記載がないことにより,新規性を有する発明であり,かつ,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるとの考え方であり,第二説は,選択発明は,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるので,新規性が否定されない発明であるとの考え方である。 第一説は審査基準の考え方であり,第二説は多くの裁判例が採用している
 第二説の立場からは,選択発明の理論は,具体的に引例に記載されていないものの,本来ならば新規性がない(または先願との同一性あり)とされる場合であっても,引例にはない特有の効果が認められる場合に新規性と進歩性を認めるものと考えるべきであるとし,審査基準では,選択発明はまず新規性の有無について判断し,新規性があることを認定してから成立するものだとしているが,選択発明としての進歩性が否定される場合は,原則に戻ってその発明は新規性なし(先願との同一性あり)と判断されるべきであろうと主張されている。

「新規性がない」とみなしているものを、顕著な効果がある場合は一転して「新規性と進歩性がある」などと考えるのは、私に言わせればご都合主義もいいところで、そのような考え方は「理論」ではなく「理論的破綻」だと言いたい。 これは4月24日の投稿で批判した「修正主義」的な考え方の最たるものだと思う。 「お前は新規性がない」(すなわち、お前が特許になる可能性は失われた。すなわちパブリックドメインに入る川を渡った)とみなしているものを、顕著な効果があったからといって、一転して特許にするというのは、いったん死んだものを生き返らせるにも似た行為であって、私はこの考え方を「ゾンビ説」と名付けようと思う。

理論派である田村先生なら、きっと「ゾンビ説」を批判してくれるだろうと期待しているのだが、今回の評論で田村先生は、以下のように「ゾンビ説」を紹介するだけで、これを批判してくれない。

4 評釈7) より]
選択発明は、刊行物等に記載されている発明が上位概念等で抽象的に特定されているに止まる場合に、その抽象的な範囲には属するが具体的には開示されていない構成を特定する発明であり、先行発明に対して顕著な効果(異質な効果または際立って優れた効果)がある場合には特許性が肯定されると理解されているものである ※38。選択発明として主張されている発明に、この顕著な効果が認められない場合には新規性が否定されるが、顕著な効果が認められれば新規性と進歩性がともに充足されると取り扱われている。


(2)「ゾンビ説」は多くの裁判例が採用しているのか?

上に引用したとおり、「ゾンビ説」(井関論文のいう「第二説」)について井関先生は「多くの裁判例が採用している」と論じ、田村先生は一歩引いた言い方ながら、「と理解されているものである」、「と取り扱われている」と論じている。 こうした論じられ方を見ていると、まるでこの考え方が裁判所における定説であるかのように感じてしまうが、それは本当なのだろうか? 例えば今回の田村評論の脚注38に引用されている4つの判決を見てみたい。

@ 昭和60(行ケ)51 「鉄族元素とほう素とを含む無定形合金」(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

[判決文より]
 いわゆる選択発明は、構成要件の中の全部又は一部が上位概念で表現された先行発明に対し、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明であつて、先行発明が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものを構成要件として選択した発明をいい、この発明が先行発明を記載した刊行物に開示されていない顕著な効果、すなわち、先行発明によつて奏される効果とは異質の効果、又は同質の効果であるが際立つて優れた効果を奏する場合には先行発明とは独立した別個の発明として特許性を認めるのが相当である。

つまり裁判所は、下位概念の構成が「具体的に開示されていない」場合、顕著な効果があれば「特許性」を認めるのが相当だと説示している。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ下位概念の構成が具体的に開示されていなくても「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 この裁判所の説示を「ゾンビ説」と解する理由はないようにみえる。

ちなみに裁判所が「特許性」という言葉を使って説示することについて井関先生は、「新規性と進歩性を同時に判断していることの表れ」だと指摘している(井関論文の70ページ右)。 しかし、そう考えるのは早計だろう。 「特許性」という言葉は、「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないためにも用いられる言葉であって、新規性と進歩性を連動させることを必ずしも示唆するものではない。 私もSotoku 10号の中で「特許性」という言葉を何回か用いているが、単に「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないために用いているだけであって、連動させることなど意図していない。

A 平成21(行ケ)10430「ソリッドゴルフボール」(中野哲弘 東海林保 矢口俊哉)

[判決文より]
 いわゆる「選択発明」とは,先願発明の構成要件が上位概念で表現されており,その先願発明の実施例として示されていない下位概念を構成要件とする後願の発明が,その構成要件である下位概念のものによって奏される作用効果が異質のものであるとき,又は同質の効果であっても,格段の差異がある場合に認められる。

この説示は、選択発明は顕著な効果があれば特許性があるものとして認められると説示していると解される。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 むしろ本判決で裁判所は、『甲1発明における「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」との用語は,・・・非常に広範な化合物を含む「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」に形式的に該当するすべての化合物を指すものとは解されない。』と説示しており、この説示からは、形式的に下位概念だからといって新規性がないとは解されないと裁判所は考えていることがうかがえるだろう。 したがって、この判決は「ゾンビ説」を説くものではない。

B 平成26(行ケ)10027「有機エレクトロルミネッセンス素子 」(石井忠雄 西理香 神谷厚毅)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するべきである。

上記のとおり裁判所は、下位概念の発明が文献に「具体的に開示されておらず」、かつ、「顕著な効果」がある場合を除き、「特許性」がないと説示している。 そうすると裁判所は、特許性を認めるためには「顕著な効果」があるだけでなく「開示されていないこと」も求めていると解される。 裁判所は、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」(すなわち「ゾンビ説」)とは言っていないし、むしろ特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めていることからすれば、「顕著な効果」がある場合に自動的に「開示されていない」とみなす「ゾンビ説」を採っているとは解せないのではないか?

もっとも裁判所は、「・・・,下位概念となる当該発明は,既に公に開示されたものであって,・・・」 とも説示しており(井関論文の70ページ右でもこの説示が紹介されている)、この部分は「ゾンビ説」を採っているようにもみえる。

C 平成28(行ケ)10037「重合性化合物含有液晶」(鶴岡稔彦 大西勝滋 寺田利彦)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するのが相当である 。

裁判所の説示の内容は、上で取り上げた「有機エレクトロルミネッセンス素子」事件判決の説示と同じだ。 裁判所は、特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めているのであり、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」という立場(すなわち「ゾンビ説」)を明示的にとっているわけではない。

このように、「ゾンビ説」の参照として田村評論の脚注38の中で引用されている判決文を見ても、それらの判決が「ゾンビ説」を採っているのかは必ずしも明らかではない。

念のため、井関論文において「ゾンビ説」を支持するものとして取り上げられている判決も見てみる。 例えば井関論文の70ページ左(脚注17)で引用されている「ケラチン繊維の酸化染色組成物」事件判決はどうか。

D 平成14 (行ケ)524「ケラチン繊維の酸化染色組成物」(山下和明 設樂隆一 阿部正幸)

[判決文より]
・・・,刊行物1のような公開特許公報についてみれば,特許請求の範囲に包含される組合せの数が膨大な数となる場合においても,明細書の発明の詳細な説明には,当該発明の実施例を限定的な数だけ記載しているにすぎないこともあり,このような明細書については,特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,明細書の発明の詳細な説明に発明として記載され,開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得るところである。

つまり裁判所は、「特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,・・・開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得る」と言っているのだから、むしろ「ゾンビ説」に懐疑的な見方を示しているではないか!

なお、この判決で裁判所は、以下のようにも説示している。

 もっとも,物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野においては,特許請求の範囲に記載された特定の発明が,刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある。特に,発明が引用発明と比較して顕著な効果を奏するものであると認められる場合は,このような進歩性についての判断が,新規性についての判断にも事実上の影響を及ぼし,一見した限りでは当該発明が当該刊行物に記載された発明であると解し得るような場合であっても,そのような新規性の判断について再考を必要とすることも生じ得るであろう。

この説示は「ゾンビ説」のように見えるが、「刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある」、「一見した限りでは」という言い方からすれば、新規性の判断が困難な場合の話であって、このような時に顕著な効果がある場合、再度慎重に検討すれば、「あ、やっぱりこれは先行技術に開示されたものではないよね。」ということが確認されることがあると言っているだけだと解することもできる。 顕著な効果がない選択発明を一般に「新規性がないものと判断しろ」と説示しているわけではないから、「ゾンビ説」を支持しているとまではいえないだろう。

E 平成22(行ケ)10324「液晶用スペーサー」(滝澤孝臣 井上泰人 荒井章光)

井関論文の脚注18で取り上げられているこの判決で裁判所は、「また,本件発明は,引用発明1から本件発明が限定した部分について,引用発明1の他の部分とその作用効果において差異があるということはできないから,引用発明1と異なる発明として区別できるものでもない。」と説示し、先行技術と作用に変わりがないことを新規性がないとみなす根拠の一つとしている。 したがってこの判決は「ゾンビ説」的な考え方を採っているといえるかも知れない。 但し裁判所は、引例には重合体の製造に用い得る単量体物質が列挙して記載されていることを指摘した上で、『・・・,上記単量体のうち,2-エチルヘキシルメタクリレート,ステアリルメタ クリレート,ラウリルメタクリレートは,本件発明の「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」に該当するものであるから,引用例1の【0010】には,文言上,「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」を共重合材料に含む共重合体を付着層とすることが記載されているということができる。』とも説示しており、引例中には本件発明で特定されている具体的な物質が記載されていることを認定した上で新規性を否定しているのだから、単に先行技術の下位概念に包含されることをもって新規性を否定しているわけではない。

以上のとおり、「ゾンビ説」を支持しているものであるかのように紹介されている裁判例でさえ、判決文を読んでみると、「ゾンビ説」を明確に説示しているとまではいえない。 確かに「ゾンビ説」的な説示をする裁判例はあるが、多くの裁判体が「ゾンビ説」を採っているとは言えないだろうし、まして「ゾンビ説」が裁判所における定説だとは言えないだろう。


(3)「選択発明二分論」について

ところで今回の田村先生の評論を読むと、田村先生は「選択発明」を2つに分類しており、上に挙げた「液晶用スペーサー」事件のように、本件発明を構成する発明特定事項が、引例の中に実施可能な態様として具体的に記載されているとみなせる場合を「先行発明が成立している場合」と称し、その場合は「ゾンビ説」を適用して顕著な効果がない限りは新規性を否定してよいことを示唆する一方で、選択発明であっても本件発明を構成する発明特定事項が実施可能な態様として具体的に記載されていない場合は「先行発明が成立していない場合」とみなし、その場合は「ゾンビ説」を適用しないことを論じている。

これを「選択発明二分論」と名付けよう。 田村先生は、そういう「選択発明二分論」を採用することで、「ゾンビ説」を採っていたとされる過去の裁判例と整合性を取ると共に、それとはまったく逆のように見える今回の大合議判決、すなわち、構成が容易ではないというだけで進歩性を肯定し、効果を検討することを不要としたピリミジン誘導体事件の大合議判決とも整合性を取る考え方を提示すること目指しているのだと思う。

田村先生の「選択発明二分論」に対する私の感想は、そこまでして「ゾンビ説」を擁護する必要はないし、そこまでして今回の大合議判決を擁護する必要もないということ。 むしろ、本件(ピリミジン誘導体事件)のような発明の進歩性の判断において「発明の効果」を検討しなかった今回の大合議判決は不適切であり、批判は避けられないと思うから、それを擁護するものである限り、田村先生の「選択発明二分論」も批判は避けられないと思う(これについては日を改めて取り上げたいと思う)。 但し、選択発明の中には、効果の高い低いが進歩性の有無を決するようなものもあれば、そうではないもの、すなわち、効果がありさえすればその高い低いは進歩性の判断にあまり影響を与えないものもあるのだろうと思われ、それを「選択発明二分論」として論じることはできるのだとは思う。 だから、批判しておいてなんなのだけれど、私も結局は、田村先生の「選択発明二分論」を自分なりに自説の中に取り込んでいくことになるのかも知れない。


(4)「ゾンビ説」の背景にあるのは、ある種の不安心理ではないか

「ゾンビ説」が生まれてくる背景には何があるのだろうか。 たとえば井関論文の脚注27では、竹田和彦先生の『特許の知識』(第8版)(2006)が「ゾンビ説」を説いていることが指摘されている。 確かに『特許の知識』には「ゾンビ説」の考え方が説かれている。 井関先生が引用している『特許の知識』の第8版には、なぜ「ゾンビ説」が妥当だと竹田先生が考えているのかについて説明が記載されていないが、古い版では次のように記載されている。

[竹田和彦「特許の知識」ダイヤモンド社(1994)165-166ページ]
【選択発明】
 ・・・。
・・・,先行発明がゼネリックな開示(例えば金属)であれば,後行発明のスペシフィック(例えば銅)は同一とされず新規となる。・・・。これに従うとすれば,選択発明が議論されるケースは新規性の要件を満たし,特許法29条2項の進歩性のみが判断されることになる。
 しかし,上位概念が明確なものであるならば下位概念がそれに包含されるのは当然であって,原則として同一とされるべきである。もしも先行発明の金属と後行発明の銅が同一でないとすると,審査官は新規性で拒絶できないから,常に進歩性を判断せざるをえなくなる。出願人が特段の効果を立証しなくとも(立証責任についてはp.174を参照),審査官が否定できなければ特許せざるをえなくなってしまう。

つまり竹田先生は、選択発明を「新規性なし」で拒絶できないと、進歩性で判断せざるをえず、「顕著な効果がないこと」を立証しなければ進歩性が否定できずに特許になってしまう懸念があるから、「新規性なし」で拒絶できるようにしておくべきだと言っているのだ。 しかし、竹田先生が支持する「ゾンビ説」によれば、「顕著な効果」がある場合は「新規性」もあることになってしまうのだから、結局は「顕著な効果」の有無を判断せざるをえず、全然解決になっていないのだが?(笑)。 それとも竹田先生は、立証責任の分配で調整でもするつもりだったのだろうか? ちなみに引用文中に記載されている「p.174」には、「疑わしきは特許に」の精神が紹介されているが、その精神だけでは問題の解決にならないことに変わりはない。 竹田先生自身、この説明には難があると思ったのかもしれないが、上述のとおり新しい版では上記の記載は削除されているようだ。

進歩性の判断において仮に「ゾンビ説」が採られることがあるとして、その背景には、ある種の不安心理もあるのかな、と私は想像している。 つまり、「進歩性」を否定するだけでは上級審でひっくり返されるかも知れないから、「新規性」も否定しておきたいという気持ち。それに、本当は「進歩性」だけを否定すれば十分だと思っていても、上級審が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、「新規性」も否定しておいた方がいいと感じてしまうこともあるだろう。

こうした心理は伝染するかも知れない。 裁判所が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、特許庁の審判でも「ゾンビ説」を採用し、「新規性」も否定しておかないとひっくり返されてしまうかも知れない・・・。審判が「ゾンビ説」を採用するのなら、審査段階でも「ゾンビ説」を採用しておかないと・・・。 かくして、進歩性判断において本来あるべき規範は、不安心理によってゆがめられてしまう。

これを阻止するためには、判断を行う各人が強い意思をもって責任ある判断を行わなければならないだろう。また、場合によっては、知財高裁が大合議によって「ゾンビ説」を否定することも有用かも知れない。

ちなみに井関論文が「否定しているともいえよう」と解説しているとおり(井関論文の74ページ左)、今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したと解する余地がある。 井関先生は論文の中でそれを嘆いているが、Sotoku 10号の脚注41でも書いた通り、私はむしろ歓迎したい。 裁判長だった清水先生も、この際、今回の大合議判決は「ゾンビ説」を否定したのだと解説してもらえればいいと思う。^^

ということで、田村先生も、安易に「ゾンビ説」を支持したり、『今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したものではない』などと論じたりすれば、足元をすくわれかねないから、気をつけた方がいいかも知れない。 ^^

むしろ、清水先生と力を合わせて「ゾンビ」を退治するために尽力してほしい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする