2019年05月20日

「ゾンビ説」は妥当か? − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(2)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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● 「4 評釈」 の 「 7) 」 について

田村評論の「4 評釈」の「 7) 」には、気になる点がいくつかあるので、それについて以下に見て行きたい。

(1)ある上位概念の発明が知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に該当する発明は基本的に新規性がないという考え方(井関論文のいう「第二説」)は妥当なのか?

同志社大の井関涼子先生は、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決の評論(特許研究 No.66, 60-75 (2018))で以下のように論じている。

[井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018) の71ページ右]
 学説では,選択発明の特許性に関して2つの考え方がある。 第一説は,選択発明は先行発明に具体的な記載がないことにより,新規性を有する発明であり,かつ,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるとの考え方であり,第二説は,選択発明は,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるので,新規性が否定されない発明であるとの考え方である。 第一説は審査基準の考え方であり,第二説は多くの裁判例が採用している
 第二説の立場からは,選択発明の理論は,具体的に引例に記載されていないものの,本来ならば新規性がない(または先願との同一性あり)とされる場合であっても,引例にはない特有の効果が認められる場合に新規性と進歩性を認めるものと考えるべきであるとし,審査基準では,選択発明はまず新規性の有無について判断し,新規性があることを認定してから成立するものだとしているが,選択発明としての進歩性が否定される場合は,原則に戻ってその発明は新規性なし(先願との同一性あり)と判断されるべきであろうと主張されている。

「新規性がない」とみなしているものを、顕著な効果がある場合は一転して「新規性と進歩性がある」などと考えるのは、私に言わせればご都合主義もいいところで、そのような考え方は「理論」ではなく「理論的破綻」だと言いたい。 これは4月24日の投稿で批判した「修正主義」的な考え方の最たるものだと思う。 「お前は新規性がない」(すなわち、お前が特許になる可能性は失われた。すなわちパブリックドメインに入る川を渡った)とみなしているものを、顕著な効果があったからといって、一転して特許にするというのは、いったん死んだものを生き返らせるにも似た行為であって、私はこの考え方を「ゾンビ説」と名付けようと思う。

理論派である田村先生なら、きっと「ゾンビ説」を批判してくれるだろうと期待しているのだが、今回の評論で田村先生は、以下のように「ゾンビ説」を紹介するだけで、これを批判してくれない。

4 評釈7) より]
選択発明は、刊行物等に記載されている発明が上位概念等で抽象的に特定されているに止まる場合に、その抽象的な範囲には属するが具体的には開示されていない構成を特定する発明であり、先行発明に対して顕著な効果(異質な効果または際立って優れた効果)がある場合には特許性が肯定されると理解されているものである ※38。選択発明として主張されている発明に、この顕著な効果が認められない場合には新規性が否定されるが、顕著な効果が認められれば新規性と進歩性がともに充足されると取り扱われている。


(2)「ゾンビ説」は多くの裁判例が採用しているのか?

上に引用したとおり、「ゾンビ説」(井関論文のいう「第二説」)について井関先生は「多くの裁判例が採用している」と論じ、田村先生は一歩引いた言い方ながら、「と理解されているものである」、「と取り扱われている」と論じている。 こうした論じられ方を見ていると、まるでこの考え方が裁判所における定説であるかのように感じてしまうが、それは本当なのだろうか? 例えば今回の田村評論の脚注38に引用されている4つの判決を見てみたい。

@ 昭和60(行ケ)51 「鉄族元素とほう素とを含む無定形合金」(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

[判決文より]
 いわゆる選択発明は、構成要件の中の全部又は一部が上位概念で表現された先行発明に対し、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明であつて、先行発明が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものを構成要件として選択した発明をいい、この発明が先行発明を記載した刊行物に開示されていない顕著な効果、すなわち、先行発明によつて奏される効果とは異質の効果、又は同質の効果であるが際立つて優れた効果を奏する場合には先行発明とは独立した別個の発明として特許性を認めるのが相当である。

つまり裁判所は、下位概念の構成が「具体的に開示されていない」場合、顕著な効果があれば「特許性」を認めるのが相当だと説示している。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ下位概念の構成が具体的に開示されていなくても「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 この裁判所の説示を「ゾンビ説」と解する理由はないようにみえる。

ちなみに裁判所が「特許性」という言葉を使って説示することについて井関先生は、「新規性と進歩性を同時に判断していることの表れ」だと指摘している(井関論文の70ページ右)。 しかし、そう考えるのは早計だろう。 「特許性」という言葉は、「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないためにも用いられる言葉であって、新規性と進歩性を連動させることを必ずしも示唆するものではない。 私もSotoku 10号の中で「特許性」という言葉を何回か用いているが、単に「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないために用いているだけであって、連動させることなど意図していない。

A 平成21(行ケ)10430「ソリッドゴルフボール」(中野哲弘 東海林保 矢口俊哉)

[判決文より]
 いわゆる「選択発明」とは,先願発明の構成要件が上位概念で表現されており,その先願発明の実施例として示されていない下位概念を構成要件とする後願の発明が,その構成要件である下位概念のものによって奏される作用効果が異質のものであるとき,又は同質の効果であっても,格段の差異がある場合に認められる。

この説示は、選択発明は顕著な効果があれば特許性があるものとして認められると説示していると解される。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 むしろ本判決で裁判所は、『甲1発明における「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」との用語は,・・・非常に広範な化合物を含む「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」に形式的に該当するすべての化合物を指すものとは解されない。』と説示しており、この説示からは、形式的に下位概念だからといって新規性がないとは解されないと裁判所は考えていることがうかがえるだろう。 したがって、この判決は「ゾンビ説」を説くものではない。

B 平成26(行ケ)10027「有機エレクトロルミネッセンス素子 」(石井忠雄 西理香 神谷厚毅)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するべきである。

上記のとおり裁判所は、下位概念の発明が文献に「具体的に開示されておらず」、かつ、「顕著な効果」がある場合を除き、「特許性」がないと説示している。 そうすると裁判所は、特許性を認めるためには「顕著な効果」があるだけでなく「開示されていないこと」も求めていると解される。 裁判所は、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」(すなわち「ゾンビ説」)とは言っていないし、むしろ特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めていることからすれば、「顕著な効果」がある場合に自動的に「開示されていない」とみなす「ゾンビ説」を採っているとは解せないのではないか?

もっとも裁判所は、「・・・,下位概念となる当該発明は,既に公に開示されたものであって,・・・」 とも説示しており(井関論文の70ページ右でもこの説示が紹介されている)、この部分は「ゾンビ説」を採っているようにもみえる。

C 平成28(行ケ)10037「重合性化合物含有液晶」(鶴岡稔彦 大西勝滋 寺田利彦)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するのが相当である 。

裁判所の説示の内容は、上で取り上げた「有機エレクトロルミネッセンス素子」事件判決の説示と同じだ。 裁判所は、特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めているのであり、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」という立場(すなわち「ゾンビ説」)を明示的にとっているわけではない。

このように、「ゾンビ説」の参照として田村評論の脚注38の中で引用されている判決文を見ても、それらの判決が「ゾンビ説」を採っているのかは必ずしも明らかではない。

念のため、井関論文において「ゾンビ説」を支持するものとして取り上げられている判決も見てみる。 例えば井関論文の70ページ左(脚注17)で引用されている「ケラチン繊維の酸化染色組成物」事件判決はどうか。

D 平成14 (行ケ)524「ケラチン繊維の酸化染色組成物」(山下和明 設樂隆一 阿部正幸)

[判決文より]
・・・,刊行物1のような公開特許公報についてみれば,特許請求の範囲に包含される組合せの数が膨大な数となる場合においても,明細書の発明の詳細な説明には,当該発明の実施例を限定的な数だけ記載しているにすぎないこともあり,このような明細書については,特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,明細書の発明の詳細な説明に発明として記載され,開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得るところである。

つまり裁判所は、「特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,・・・開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得る」と言っているのだから、むしろ「ゾンビ説」に懐疑的な見方を示しているではないか!

なお、この判決で裁判所は、以下のようにも説示している。

 もっとも,物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野においては,特許請求の範囲に記載された特定の発明が,刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある。特に,発明が引用発明と比較して顕著な効果を奏するものであると認められる場合は,このような進歩性についての判断が,新規性についての判断にも事実上の影響を及ぼし,一見した限りでは当該発明が当該刊行物に記載された発明であると解し得るような場合であっても,そのような新規性の判断について再考を必要とすることも生じ得るであろう。

この説示は「ゾンビ説」のように見えるが、「刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある」、「一見した限りでは」という言い方からすれば、新規性の判断が困難な場合の話であって、このような時に顕著な効果がある場合、再度慎重に検討すれば、「あ、やっぱりこれは先行技術に開示されたものではないよね。」ということが確認されることがあると言っているだけだと解することもできる。 顕著な効果がない選択発明を一般に「新規性がないものと判断しろ」と説示しているわけではないから、「ゾンビ説」を支持しているとまではいえないだろう。

E 平成22(行ケ)10324「液晶用スペーサー」(滝澤孝臣 井上泰人 荒井章光)

井関論文の脚注18で取り上げられているこの判決で裁判所は、「また,本件発明は,引用発明1から本件発明が限定した部分について,引用発明1の他の部分とその作用効果において差異があるということはできないから,引用発明1と異なる発明として区別できるものでもない。」と説示し、先行技術と作用に変わりがないことを新規性がないとみなす根拠の一つとしている。 したがってこの判決は「ゾンビ説」的な考え方を採っているといえるかも知れない。 但し裁判所は、引例には重合体の製造に用い得る単量体物質が列挙して記載されていることを指摘した上で、『・・・,上記単量体のうち,2-エチルヘキシルメタクリレート,ステアリルメタ クリレート,ラウリルメタクリレートは,本件発明の「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」に該当するものであるから,引用例1の【0010】には,文言上,「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」を共重合材料に含む共重合体を付着層とすることが記載されているということができる。』とも説示しており、引例中には本件発明で特定されている具体的な物質が記載されていることを認定した上で新規性を否定しているのだから、単に先行技術の下位概念に包含されることをもって新規性を否定しているわけではない。

以上のとおり、「ゾンビ説」を支持しているものであるかのように紹介されている裁判例でさえ、判決文を読んでみると、「ゾンビ説」を明確に説示しているとまではいえない。 確かに「ゾンビ説」的な説示をする裁判例はあるが、多くの裁判体が「ゾンビ説」を採っているとは言えないだろうし、まして「ゾンビ説」が裁判所における定説だとは言えないだろう。


(3)「選択発明二分論」について

ところで今回の田村先生の評論を読むと、田村先生は「選択発明」を2つに分類しており、上に挙げた「液晶用スペーサー」事件のように、本件発明を構成する発明特定事項が、引例の中に実施可能な態様として具体的に記載されているとみなせる場合を「先行発明が成立している場合」と称し、その場合は「ゾンビ説」を適用して顕著な効果がない限りは新規性を否定してよいことを示唆する一方で、選択発明であっても本件発明を構成する発明特定事項が実施可能な態様として具体的に記載されていない場合は「先行発明が成立していない場合」とみなし、その場合は「ゾンビ説」を適用しないことを論じている。

これを「選択発明二分論」と名付けよう。 田村先生は、そういう「選択発明二分論」を採用することで、「ゾンビ説」を採っていたとされる過去の裁判例と整合性を取ると共に、それとはまったく逆のように見える今回の大合議判決、すなわち、構成が容易ではないというだけで進歩性を肯定し、効果を検討することを不要としたピリミジン誘導体事件の大合議判決とも整合性を取る考え方を提示すること目指しているのだと思う。

田村先生の「選択発明二分論」に対する私の感想は、そこまでして「ゾンビ説」を擁護する必要はないし、そこまでして今回の大合議判決を擁護する必要もないということ。 むしろ、本件(ピリミジン誘導体事件)のような発明の進歩性の判断において「発明の効果」を検討しなかった今回の大合議判決は不適切であり、批判は避けられないと思うから、それを擁護するものである限り、田村先生の「選択発明二分論」も批判は避けられないと思う(これについては日を改めて取り上げたいと思う)。 但し、選択発明の中には、効果の高い低いが進歩性の有無を決するようなものもあれば、そうではないもの、すなわち、効果がありさえすればその高い低いは進歩性の判断にあまり影響を与えないものもあるのだろうと思われ、それを「選択発明二分論」として論じることはできるのだとは思う。 だから、批判しておいてなんなのだけれど、私も結局は、田村先生の「選択発明二分論」を自分なりに自説の中に取り込んでいくことになるのかも知れない。


(4)「ゾンビ説」の背景にあるのは、ある種の不安心理ではないか

「ゾンビ説」が生まれてくる背景には何があるのだろうか。 たとえば井関論文の脚注27では、竹田和彦先生の『特許の知識』(第8版)(2006)が「ゾンビ説」を説いていることが指摘されている。 確かに『特許の知識』には「ゾンビ説」の考え方が説かれている。 井関先生が引用している『特許の知識』の第8版には、なぜ「ゾンビ説」が妥当だと竹田先生が考えているのかについて説明が記載されていないが、古い版では次のように記載されている。

[竹田和彦「特許の知識」ダイヤモンド社(1994)165-166ページ]
【選択発明】
 ・・・。
・・・,先行発明がゼネリックな開示(例えば金属)であれば,後行発明のスペシフィック(例えば銅)は同一とされず新規となる。・・・。これに従うとすれば,選択発明が議論されるケースは新規性の要件を満たし,特許法29条2項の進歩性のみが判断されることになる。
 しかし,上位概念が明確なものであるならば下位概念がそれに包含されるのは当然であって,原則として同一とされるべきである。もしも先行発明の金属と後行発明の銅が同一でないとすると,審査官は新規性で拒絶できないから,常に進歩性を判断せざるをえなくなる。出願人が特段の効果を立証しなくとも(立証責任についてはp.174を参照),審査官が否定できなければ特許せざるをえなくなってしまう。

つまり竹田先生は、選択発明を「新規性なし」で拒絶できないと、進歩性で判断せざるをえず、「顕著な効果がないこと」を立証しなければ進歩性が否定できずに特許になってしまう懸念があるから、「新規性なし」で拒絶できるようにしておくべきだと言っているのだ。 しかし、竹田先生が支持する「ゾンビ説」によれば、「顕著な効果」がある場合は「新規性」もあることになってしまうのだから、結局は「顕著な効果」の有無を判断せざるをえず、全然解決になっていないのだが?(笑)。 それとも竹田先生は、立証責任の分配で調整でもするつもりだったのだろうか? ちなみに引用文中に記載されている「p.174」には、「疑わしきは特許に」の精神が紹介されているが、その精神だけでは問題の解決にならないことに変わりはない。 竹田先生自身、この説明には難があると思ったのかもしれないが、上述のとおり新しい版では上記の記載は削除されているようだ。

進歩性の判断において仮に「ゾンビ説」が採られることがあるとして、その背景には、ある種の不安心理もあるのかな、と私は想像している。 つまり、「進歩性」を否定するだけでは上級審でひっくり返されるかも知れないから、「新規性」も否定しておきたいという気持ち。それに、本当は「進歩性」だけを否定すれば十分だと思っていても、上級審が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、「新規性」も否定しておいた方がいいと感じてしまうこともあるだろう。

こうした心理は伝染するかも知れない。 裁判所が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、特許庁の審判でも「ゾンビ説」を採用し、「新規性」も否定しておかないとひっくり返されてしまうかも知れない・・・。審判が「ゾンビ説」を採用するのなら、審査段階でも「ゾンビ説」を採用しておかないと・・・。 かくして、進歩性判断において本来あるべき規範は、不安心理によってゆがめられてしまう。

これを阻止するためには、判断を行う各人が強い意思をもって責任ある判断を行わなければならないだろう。また、場合によっては、知財高裁が大合議によって「ゾンビ説」を否定することも有用かも知れない。

ちなみに井関論文が「否定しているともいえよう」と解説しているとおり(井関論文の74ページ左)、今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したと解する余地がある。 井関先生は論文の中でそれを嘆いているが、Sotoku 10号の脚注41でも書いた通り、私はむしろ歓迎したい。 裁判長だった清水先生も、この際、今回の大合議判決は「ゾンビ説」を否定したのだと解説してもらえればいいと思う。^^

ということで、田村先生も、安易に「ゾンビ説」を支持したり、『今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したものではない』などと論じたりすれば、足元をすくわれかねないから、気をつけた方がいいかも知れない。 ^^

むしろ、清水先生と力を合わせて「ゾンビ」を退治するために尽力してほしい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月09日

大合議判決の言う「具体的な技術的思想」について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(1)


ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)(平成30年4月13日判決)が出されてから1年と少し経ったが、早くしないと、もう来月には次の大合議判決が出てしまうらしい。 ピリミジン誘導体事件の大合議判決を「今回の大合議判決」と書けるのも今のうちなので、まぁ大変遅ればせながらではあるが、昨年11月19日にウエストロー・ジャパンの判例コラムで公開されたピリミジン誘導体事件の大合議判決の進歩性の判断に対する北大(当時)の田村先生の評論について、数回にわたって感想を書いてみたいと思う。

*     *     *

この判決で裁判所が説示した進歩性の判断規範に関しては、同志社大の井関涼子先生が批判的な論文(特許研究 No.66, 60-75 (2018))を出したことは昨年の10月31日の投稿でも書いたが、今回の田村先生の評論も、大合議の説示に対してかなり批判的だ。 特に『4 評釈 』 において田村先生は以下のように論じている。

4 評釈4)副引例に引用発明適格性を要求することに対する疑問](強調は私が入れた;以下同様)
・・・、かりに本判決に従って、相違点に係る具体的な技術的思想が開示されていないために「副引用発明」には該当しないとされたとしても、それで進歩性判断のために参酌する資料たりえないことになるわけではないから、結局、「副引用発明」であることの要件は、進歩性判断の参酌資料たりえるための要件ではないといわざるをえず、せいぜい、「副引用発明」としては参酌しえない、という意義を有するに止まる。 そして、「副引用発明」と、それには該当しないが進歩性判断の基礎となりうる示唆や動機付けとの境界が截然と分かれているものではないとすれば、そのような問題設定をすることの意義自体が問われて然るべきであろう

そして続く『 5) 』においても、

4 評釈5)
・・・、引用発明適格性という関門を設けて(とりわけ甲2発明が主引例とされた場合に)一律に進歩性判断の基礎とすることを否定するように読める本判決の論法には疑問がある。

と論じ、上で挙げた井関先生の論文を引用している。 そして、上記の田村先生のような批判を避けるために、ある引例で最終的に進歩性を否定できそうな場合はその引例の引用発明適格性を否定しないようにすることで、引用の「引用発明適格性」を否定したにもかかわらず、その引例を(引用発明としてではなく)単なる参酌資料として参酌して進歩性が否定できてしまうというような奇妙な事態が起こることを避け、「引用発明適格性」を判断することに意義を持たせようとするような考え方、すなわち結果から逆算する本末転倒な考え方について田村先生は、

脚注35
もしそれができるというのであれば、そもそも引用発明適格性という問題設定をすること自体、無意味かつ誤解を生む源であると評価しなければならなくなるであろう。

と批判している(別に裁判所がそういう逆算的な考え方を採っていると言っているわけではない。一つの可能性として批判しているだけだが。)。

4 評釈 』の『4)』および『5)』における田村先生の上記の指摘についてはとても共感できる。 進歩性の判断に使用される引例に、他の引例の記載内容によって影響を受けることのない固有の「引用発明適格性」があるはずだと考えること自体がおそらく誤りなのだ。

ということで、田村先生のこの評論は読んでいてスカっとするね。

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● 「4 評釈」 の 「 2) 」 について

さて、他の人が書いた論文に対する感想を書く場合、同意できるところは上記のように「同感!」と言えば終わってしまうので、どうしても同意できないところを探して話題にするような感じになってしまうのだけれど、ここからは、今回の田村評論において、私の考え方とは違う部分について書いていきたい。

今回の判決で裁判所は、進歩性の判断に際し、先行技術とする29条1項3号の「刊行物に記載された発明」は「具体的な技術的思想」でなければならないと説示した(判決文PDF 87ページ)。 今回の評論において田村先生は、この「具体的な技術的思想でなければならない」という裁判所の説示の捉え方について、以下の4つの可能性を挙げている。

[田村評論の「2)副引例として主張された刊行物から具体的な技術的思想を抽出できない場合にその参酌を否定する論理の候補」より]
@ 新規性と進歩性を通じて、引例から具体的な技術的思想を抽出しえない場合には引用発明たりえないとする考え方

A 新規性と進歩性を通じて、刊行物記載の場合には具体的な技術的思想が記載されていることを要求する考え方

B 新規性については引例となるために具体的な技術的思想を抽出することができる必要はないが、進歩性に関してはそれを要求する考え方

C 進歩性特有の問題として、主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付けを欠く場合には、進歩性を否定できないとする一般論を適用する考え方

このうち C というのは、進歩性を判断する際に以前から特許庁の審査・審判において採用されていた考え方であって、この考え方を採用する場合は、先行技術から「具体的な技術的思想」なるものを抽出できるかを特に意識する必要はない。 どうしても意識したいというのなら、C に言うところの「主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付け」が副引例に存在する(すなわち進歩性が否定される)場合は、その副引例には「具体的な技術的思想」が記載されているとみなし、そうでない場合は、その副引例には(進歩性を否定するに足る)「具体的な技術的思想」は記載されていないとみなせばよいのかも知れない。 もちろん、そういう逆算的な考え方に対しては田村先生は批判的で、だからこそ上に引用したとおり、引例に「具体的な技術的思想」(すなわち「引用発明適格性」)を求めること自体の意義が問われなければならないと田村評論は論じているのだ。

では @ 〜 B についてはどう考えればよいか。

裁判所の説示を改めて引用すれば以下のとおり。

[判決文PDF 87ページ]
このような進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない

このように裁判所は、「進歩性の判断に際し」、「刊行物に記載された発明」については、と説示している。 したがって、この説示をもっとも狭く解釈するのなら、「進歩性」の判断に際し、同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については、具体的な技術的思想でなければならないと説示したのだと解釈することができるだろう。 つまり、進歩性の判断ではない場合や、引例が29条1項3号の「刊行物発明」ではない場合については、裁判所は何も言わなかったと捉えるのだ。 そして、裁判所が明示的には説示しなかった、「新規性」を判断する場合や「公用発明」(29条1項2号)の場合に、引例に「具体的な技術的思想」を求めるのか否かを田村先生は問題にしている。

そして上記の「A」において田村先生は、「公用発明」を先行技術として進歩性を否定する場合は、その公用発明に「具体的な技術的思想」が認められる必要は必ずしもないという可能性を示唆している。 たとえば、ヨーグルトにもともと含まれている成分Aにアルコール代謝機能があることを発見し、「成分Aを有効成分とする二日酔い防止ヨーグルト」という発明を出願した場合を田村先生は例に挙げている(田村評論の脚注13を参照)。 その出願の前には、ヨーグルトにアルコール代謝機能があることは知られていなかったとしても、昔からヨーグルトは市販され、酒を飲んだ後に食べた人もいたかも知れない。 そういう場合は、たとえ「ヨーグルトが二日酔い防止に効く」という点に関連して、公用発明には「具体的な技術的思想」がまったく認められないとしても、公衆がその効果を享受しえていた以上、その公用発明を引例として認めて特許性を否定できるようにしてもよいのではないか(すなわち「具体的な技術的思想」が公用発明に認められる必要はない)ということを田村先生は示唆したいのだろうと私は理解した。(北大の吉田広志先生の特許研究64号29〜30頁(2017年)、パテント71巻3号4〜14頁(2018年)も参照。)

そして「B」というのは、ある発明について、不特定の人がその発明を利用できる状態であったのであれば、その発明の「新規性」は失われていたとみなすべきで、その発明についてなにか「具体的な技術的思想」が知られていた必要はない、というような考え方を示唆したいのだろう。

このように考えると、A や B の考え方にはそれなりに理由はあるわけで、これらに賛成する人はいるのかもしれない。 しかし、これについては「具体的な技術的思想」の定義によっても話はだいぶ変わってくるだろう。 私が昨年10月31日の投稿で公開した Sotoku 10号 の「6.」節(12-17ページ)を書くときには、発明の「新規性」が否定される場合は、その発明について、何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められる(明示はされていなくても、少なくとも看取できる状態にあった)ということを想定していた。 例えば物の発明の新規性が否定されるためには、その物を、不特定の人が反復して作れたり、採取できたりすれば十分であり、その物の構造などが知られている必要はまったくないと思うが、たとえそうだとしても、その物を「反復して作れたり、採取できる」という限度において、その物の発明の技術的思想は知られていたわけだ。 そして上のヨーグルトの例においても、たとえ「成分Aがアルコール代謝機能を持つ」という点に関しては知られていなかったとしても、ヨーグルトという物の発明は、「反復して作れる」という観点では技術的思想として知られていたわけだし、それを食べて栄養を採ったりする行為(「方法発明」の一種と言えるだろう)についても、その限度において技術的思想は知られていたわけだ。 そういう発明も「具体的な技術的思想」の一つだと捉えるのであれば、「公用発明」の認定や「新規性」の判断において、「具体的な技術的思想」を要件として求めたとしても特に不都合は生じないだろうと私は思う。 したがって、上で引用した A や B の考え方が必要になるかどうかは、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第で変わる話なのだろうと思う。

上記のとおり私は「具体的な技術的思想」というものを緩く考えており、特許出願にかかる通常の発明(「永久機関」のようなトンデモ発明ではなく、記載要件を満たし得るまともな発明)の新規性を否定できるような先行技術には必ず「何らかの具体的な技術的思想」は認められるはずだと思っているから、Sotoku 10号 の「6.」節でも『・・・「新規性」を判断するときに、刊行物に記載された発明に「具体的な技術的思想」であること(引用発明適格性)を求めても、新規性を否定するために引用できる刊行物に何らの実質的な制約を加えるものでもないから、その要求を受け入れることができるだろう。』(16ページ)と書いた。

なお余談だが、上のヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明と、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は異なる発明であって、少なくとも特許庁の審査においては、この違いは峻別されている(審査基準 第III部 第2章 第4節 3.1.2)。 すなわち、特許審査においては通常、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という性質を有するヨーグルトであって、二日酔い防止という用途に用いることに必ずしも限定されていない物の発明だとみなされる一方で、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という用途に用いることに限定された用途発明だとみなされる。 田村先生は「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使って論じているが(脚注13)、もし用途発明の話をしたいのなら、それを明確にするために「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使ってほしい。 このヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」(用途限定のない物の発明)の新規性は確かに否定されるべきだと思うが、公用発明において二日酔い防止のためにヨーグルトを食べるということがまったく行われていなかったのであれば(現実にはこれはちょっと考えにくく、「これが二日酔いに効くんだ」とか言いながら食べていた人はきっといそうだが、あくまで試論として、そうした証拠が集められなかったと仮定するのであれば)、Sotoku 10号 の脚注39にも書いた通り、私は「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」は肯定してよいと考えており、あとは「進歩性」の問題だと考えている。 それに対して田村先生や北大の吉田先生などは、「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」さえ、否定してよいという考え方なのかも知れない。 この点で、私と二人の先生方との立場は違うのだろう。 但し、この場合に「二日酔い防止ヨーグルト」という用途発明に「進歩性」まで認めてよいのかと言われると、私もかなり否定的なので、「特許性否定」という最終結論では違いはないということになるのかも知れない。

いずれにしろ進歩性の判断に関しては、「C」の考え方で足りるのだから、@ 〜 B のような「具体的な技術的思想」なるものを持ち出す必要はそもそもないと私は思っており、おそらく田村先生もその点では同じように思っているのだと思う。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 6) 」 について

「4 評釈」の「 6) 」において田村先生は、「新規性の場面において、具体的な技術的思想の記載を要求するという意味での引用発明適格性を要件とする必要はないと考える」と結論している。 この問題に対する私の立場は、Sotoku 10号の「6.」節に書いたとおり、『新規性の判断において我々は「引用発明適格性」という考え方を必要としない』(15-16ページ)というもので、田村先生の言っていることと類似している。 但し、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第でニュアンスは変わるのだろうと思う。 上述のとおり私は、「具体的な技術的思想」というものをゆるく考えていて、公用発明のようなものでも何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められるはずだと考えているし、無理に新規性を否定しなくても進歩性を否定すれば十分だとも思っているから、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することをより気楽に受け入れることができるのだが、もし田村先生が、公用発明には「具体的な技術的思想」が認められない場合があると考えているのなら、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することを否定したいという気持ちは私より強くなるのだろう。

またこの問題は、上位概念の発明が(特許要件を満たす程度に)知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に相当する発明の新規性は失われていたと考えるのか否かという問題にも関連するが、それについては長くなるからまた次回取り上げたいと思う。


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2019年04月24日

「修正主義」としての「発明の効果」の意義論(前田健先生 Law and Technology No.82, 2019, 33-44)


Law and Technology No.82 (2019/1) 33-44 に掲載されている神戸大の前田健先生の論文『進歩性判断における「効果」の意義』。 進歩性の判断において、「発明の効果」はどのような意義があるのかを論じた論文だ。

特許や特許出願における発明の進歩性の判断において、「驚くべき効果」や「予想外の効果」などの発明の効果が進歩性を肯定する方向に参酌される場合があることは周知の事実だが、それはなぜなのだろうか? その説明としては、従来から「独立要件説」と「二次的考慮説」という二つの説がある。

独立要件説」とは、たとえ発明の構成が容易だとしても、その発明の効果が予想外に高いのであれば進歩性を認めるという考え方だ。 この考え方においては、「発明の効果」が高い場合は、結果的に、「発明の構成」が容易であるか否かによらずに進歩性は肯定されることになる(すなわち「発明の効果」は、「発明の構成」の容易性とは独立に進歩性を認めるための要件ということになる)から、この考え方は「独立要件説」と呼ばれている。

これに対して「二次的考慮説」(「間接事実説」などとも呼ばれる)とは、発明の効果はあくまで「発明の構成」が容易であるか否かを判断するために考慮しているのだと捉える考え方であり、「発明の構成」が本当に容易であるのに「効果」が高いからといって進歩性が肯定されることはないと捉える考え方だ。

したがって、「独立要件説」と「二次的考慮説」は異なる考え方であって、進歩性の有無という最終結論についても一致する保障はないだろう。 ところが今回の前田論文では、両者は事実上、結論において差を生み出さない運用が可能だと説明されている。

例えば今回の論文で前田先生は以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 36-37ページ]
たとえば、進歩性否定側が動機付けの論理付けに成功すれば容易想到性は一応肯定されるが、相手方が「効果」の存在を抗弁として立証したときには、結局容易想到性は否定されるという運用も、二次的考慮説のもとで必ずしも排除されないのである。実のところ、裁判実務では「予測できない顕著な効果」の有無と進歩性の有無がほぼ連動しているという指摘がある 24)。独立要件説では、「動機付け」=「構成の容易想到性」と「効果の容易想到性」とを分離して捉えるので必然的にそのような運用となるが、二次的考慮説を前提にしても事実上、同様の運用をなすことは可能である。その意味では、少なくともこの観点において、両説の対立は実際上の結論の違いをもたらさない 25)。

そして今回の論文で前田先生は、「基本的に二次的考慮説によって正当化することが妥当であると考える。」(38ページ)と述べて前田先生自身は「二次的考慮説」の立場であることを明確にしながらも、次のように論じるのだ。

[同 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を 奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

上のような前田先生の説明に対しては、単純に「なんで?」と思ってしまう。

「(予想外の)発明の効果」は、その「発明の構成」を採用して初めて判明することだ。 当然ながら、その「発明の構成」を採用するまでは、「(予想外の)発明の効果」は予想できないのであり、あらゆる発明は「その本当の効果」はいまだ分かっていない状態で発明される。 換言すれば、あらゆる発明は、その「発明の構成」が本当はどのような効果を発揮するのかとは無関係に発明されるわけだ。 そうすると、その「発明の構成」を採用することの動機付けは、その発明の構成が本当はどのような効果を発揮するかに影響を受けないはずではないか?

したがって、前田論文のように、発明の効果が予想外であった場合は「当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる」だとか、「その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである」などと説明するのは、後日判明した結果をもとに都合よく過去を書き換えてしまう「修正主義」のようなもので、論理的に難があると思う。

前田論文では、

[同 38ページ]
本稿の理解では、「動機付け」と「効果」はともに容易想到性の考慮要素であるが、動機付けが一応認められても予測できない効果が認められるときには、結局当該発明の構成に想到することが容易であったとはいえず、容易想到性が否定されることになる。その意味では、本稿の見解は基本的には二次的考慮説に立ちつつも「効果」をある程度独立して捉えているといえる。

と論じているが、前田先生が論じていることは、「ある程度」というより、実体は「独立要件説そのもの」だ。 しかも前田先生は、それを「二次的考慮説」だと言っている点で、「独立要件説」論者よりも分かりにくく、誤解を生みやすいものになっていると思う。

その意味で、私は今回の前田先生の論文の立場は、真に「独立要件説」を否定するものではなく、「独立要件説」を否定しているように見せかけているだけの、ある種の欺瞞行為(高貴なる嘘?)ではないかという気がしている。

もっともこれは前田先生に限ったことではなく、「二次的考慮説」を支持する論者のかなりの割合が、こうした修正主義的な考え方を採っている可能性もある。

ちなみに私は進歩性の判断において「効果」をどのように位置づけているかといえば、Sotoku 10号の「10.」節に書いた通りで、「容易」の判断の一環として効果を織り込もうとしている点では「二次的考慮説」と同じではあるけれど、「動機付け」の判断として効果を織り込もうとする前田先生のような考え方を採るのではなく、「高い効果を持つ“当たり”を引き当てることの困難性」として効果を織り込もうというもの。 したがって、「効果」による判断は「動機付け」による判断を否定できるものではないので、十分な「動機付け」がある場合は、「効果」が高くても進歩性は否定されるというのが私の立場だ。

もし前田先生が、「それほどの効果を奏する発明の構成を現に採用することは容易とは言えない」から進歩性は肯定されるのだとでも説明したのなら、私は同意することができたかも知れない。 しかしそれは、たとえ宝くじを買うことは誰にでもできるほど容易であるとしても、10億円の当たりくじを現に買うことは容易とは言えないというのと似たような意味で「容易とは言えない」からだ。 これは「動機付け」とは関係のない問題だ。 前田論文が書いていることは、 適当に買った10枚のLOTOくじの一つで10億円が当たった場合に、「10億円が当たったという結果が、予測できる範囲を超えていた場合には、10億円が当たるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、その当たりくじの番号の組み合わせを採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。」だとか、「10億円が当たったという結果が予測される範囲を超えていることは、結局、その当たりくじの番号の組み合わせを採用して10億円が当たるという結果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その当たりくじの番号の組み合わせを実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。」などと大真面目に論じているようなおかしさがある。 外れた9枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けと、当たった1枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けに、差などないのに。

このように、「予想外の効果」は「動機付け」の問題ではないのだ。 それを「動機付け」の問題として処理しようとしているところに、前田論文の違和感がある。

*   *   *

上で書いたことと少し関連するが、前田論文で気になった点をもう一つ指摘したい。

「発明の効果」によって進歩性が認められる場合があることについてはとりあえずよしとして、その効果は「優れている」必要はあるのだろうか?、それとも「優れている」必要はないのだろうか。

この問題について今回の前田論文は、「本稿の見解」という項目のところで以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 42ページ]
進歩性の判断において考慮される効果とは・・・、その効果が有利かどうかではなく、予測可能かどうかが問題となる。

つまり前田先生は、進歩性を認めるための効果は「予測可能かどうか」が重要なのであって、「優れている」必要はないという立場のようだ。 しかしそう言われるとすぐに“ツッコミ”を入れたくなってしまうのだが、予想外に「悪かった」としても進歩性を認めるのだろうか。 例えば、既存の医薬化合物をほんのちょっとだけ改変した。 すると予想外なことに活性が1/10になってしまった。 あるいは、予想外なことに細胞毒性が有意に上がってしまった。 そういう場合でも進歩性を認めるのだろうか?

まぁ、「優れているか否かは関係がない」、「予測可能かどうかが問題」等と論じたくなる気持ちは分かる。 何をもって「優れている」とみなすのかは必ずしも明確ではないし、主観的な要素が入り込む余地がある。 したがって、進歩性の判断基準をできるだけ客観的、かつ明確にするためには、「優れている」か否かというような観点は排すべきだ、と考えたくなるだろう。 しかし、「予測可能かどうか(のみ)が問題」だと考えてしまっては、上記のようなどうでもいい「改悪発明」の進歩性が否定できなくなるという不都合が生じるから、それを回避するような何らかの価値判断は必要なのだと思う。

前田先生は、米国や欧州における進歩性(非自明性)の判断においても、以下のように述べて、優れているか否かは関係がないと論じている。

[同 40ページ](米国について)
考慮されるのは効果が予期できないかどうかであり、効果がすぐれているかどうかは直接関係ない 42)。

[同 41ページ](欧州について)
効果は「優れている」必要はなく、あくまで予測できたかが問題となる 50)。

しかし、例えば脚注42に引用されているとおり、米国審査基準716.02(a) には、「Greater than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているのであって、「Greater or lesser than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているわけではないのだから、前田先生が言うように「予期できないかどうか」だけが問題とされているわけではなく、「greater」と言えるような効果が認められるのかは問題とされていると言うべきだろう。 実際、日米欧のいずれの特許審査においても、構成が容易だから進歩性や非自明性がないと指摘されている発明について、「予想外に効果が低かった」ことを立証したところで拒絶が解消するとは思えない。

もちろん私も、効果が「上昇」していなくても進歩性は認められうるとは思っている。 それについてはSotoku 10号の脚注36にも書いたが、ある既知の化合物を改変する場合において、「置換基を少しでも変えれば活性が完全に喪失する可能性が極めて高いというのが技術常識である場合は、活性があるというだけでも進歩性を肯定し得るだろう」。 したがって、別に活性が「上昇」していることが必須だというわけではない。 また場合によっては、活性や機能が予想外に「低かった」場合でも進歩性が認められることもあるだろう。 例えば、接着剤を開発していて、予想外に接着力の低いものができてしまった。 しかしそういう接着剤は、何回も貼ったり剥がしたりできる付箋用の糊として有用だから、進歩性を認めるべきだという考え方はあり得る。 しかしそれは、出願人なり特許権者なりがそういう主張(すなわち、「接着力は劣っていても、それが“当たり”なんです」という主張)を行って、特許庁の審査官・審判官や裁判所の裁判官を説得できて初めて進歩性が認められるものであって、「予想外に劣ったものができました」というだけで自動的に進歩性が認められるものではないだろうし、そうあるべきものでもないと思う。 つまり、効果が「優れている」必要はないにせよ、単に「予期できない」というだけでは足らず、「当たり」だとみなせるようなものであることが必要なのであり、出願人はそれについて主張する責任があるということだ。

なお、効果が「高い」場合も実は同じで、効果が「高い」方向に予想外だというだけで自動的に進歩性が認められるというよりは、効果が高い場合は「当たり」であることが推認でき、「当たり」であることを出願人が特段主張しなくても進歩性が認められるから、「当たり」か否かという問題は表に出て来ないだけだろうと思う。

そして、とくに多数の選択肢の中から一つを選んで行った発明の場合に、その発明を「当たり」だとみなすか否かということや、そもそも何を「当たり」とみなすのかということ(例えば、薬効と副作用を併せ持つ既知の医薬化合物を改変したら、予想外なことに、副作用はそのままで、薬効だけが消失するという、ある意味で面白い化合物が得られたとして、その化合物は「当たり」と言えるのか)は、Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり「総合的な判断」が必要なわけで、そこにはある種の価値観のようなものが入ってこざるを得ないのではないか。 すなわち進歩性判断における「効果」は、そうした価値判断を通して検討されるものなのであって、「予測可能か否か」だけが問題になっているわけではないということだ。

*     *     *

以上、前田先生の論文をとおして、進歩性判断における「発明の効果」の意義について考えてみた。

私は、「当たり」か否かはさほど厳格に判断する必要はなく、「当たり」だというある程度の理由がつけば、それを認めてあげていいとは思っている(後は動機付けの問題)。 しかし、特許権というものが第三者の自由を長期間にわたって制限しうるものである以上、それが許される程度には「当たり」とみせること、言い換えれば、それすら主張できないような発明は、たとえ結果(効果)の詳細が事前に予測できたものではないとしても、単なる「でたらめ」または「寄せ集め」によって生じる必然的な結果に過ぎないとして進歩性を否定することは、つまらない特許の乱立を防ぐ意味でも望まれることなんじゃないかな。

進歩性における「効果」の意義については、田村先生のWLJ判例コラム 153号の感想を書くときに再び考えたい。


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2019年04月16日

前田健先生 ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決評釈(Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26)


前田先生は、Law and Technologyの一つ前の号(Law and Technology No.82, 2019-1, 11-44)でも進歩性の判断について論文を書いているけれど、それについてはまた今度感想を書くとして、今回は直近のL&T(83号)で出された論文について短く感想を書いてみたい。

今回の「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)で裁判所は、進歩性の判断において使用する引用発明は「・・・、当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして、当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され、当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には、当業者は、特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り、当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。」と判示し、主引用発明と本件発明との「相違点」に関する副引例中の記載は、具体的な技術的思想を抽出することができるように記載されていないことをもって本件発明の進歩性を肯定した。

私は、進歩性の判断における引例にそのような「引用発明適格性」を要求する必要はないと考えており、そのことはSotoku 10号(「1.」〜「8.」節)でも書いた通りだ。

一方、前田先生は今回の論文において、以下のように書いて大合議判決を支持している。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 25ページ]
後知恵を排除して進歩性判断を客観的に行うためには、当業者の参照できる知識は、「技術常識」の状態に達したものか、裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)に限られるというルールが必要とも考えられる 42)。 この観点からは、本判決は肯定的に評価することができる。 引用例に記載されている事項が何でも当業者の知り得た知識として進歩性判断の基礎に用いられるとすることは、後知恵により過度に進歩性が否定されることにつながりかねないし、「発明」としてある程度確立しているひとまとまりの知識(および技術常識)のみを当業者は参照できると整理するほうが進歩性判断の明確化に資すると考えられるからである。

上に引用したとおり前田先生は、相違点に関する技術的思想が「裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)」として引例中に記載されていない限りはそれを引用発明として用いることができないとする大合議判決の考え方について、進歩性判断を客観的に行うために必要であり、「明確化」に資すると論じて評価している。 しかし私に言わせれば、そのような考え方は進歩性判断の無用な「硬直化」を招くおそれのあるものであり、本来は進歩性を否定すべき発明の進歩性を否定できなくし得る「自縄自縛」だ。

とりあえず前田先生のような考え方を否定するために、具体的な例を考えてみたい。 前回の投稿で挙げた例と同じだけれど。

*     *     *

今回の事件では、主引例(甲1)に記載されている実施例1bの化合物(下図)が主引用発明とされた。

20180424_kou1_1.png

そして、上の赤い丸で示した「–N (CH3)(CH3)」の部分が、本件発明の化合物においては「–N (CH3)(SO2CH3)」に変わっていることが主要な相違点(判決文における「相違点1-i」)である。 そしてこの相違点について本件の副引例(甲2)には、この部分を「–N R4 R5」を書き表した上で、「R4 及びR5は同一もしくは相異なるものでありメチル,エチル,プロピル,イソプロピル,ブチル,イソブチル,tert-ブチル,フェニル,ベンジル,アセチル,メチルスルホニル,エチルスルホニル,プロピルスルホニル,イソプロピルスルホニルまたはフェニルスルホニルを表わす」と記載されていることから、R4 として「メチル」(CH3)を選択し、R5 としてメチルスルホニル (SO2CH3) を選択した「–N (CH3)(SO2CH3)」(本件発明と同じ構造)は、副引例(甲2)から容易なのではないか、ということが問題となったわけだ。

そして大合議判決は、要するに、上記の相違点である「–N (CH3)(SO2CH3)」という技術的思想は甲2において具体的な技術的思想として記載されていない旨を説示して「引用発明適格性」を否定し、本件発明の進歩性を肯定した。

そこで例を挙げたいのだが、私が考えた以下のような「でたらめ化合物」ではどうか? つまり、私は上記の甲1に記載されている化合物を、以下のようにでたらめに改変することを思いついた。

Sotoku10-p24fig.png

つまり、甲1の化合物では「-CH3」(メチル基)となっているところを「-CH2-C6H5」(ベンジル基)に換えたのだ。 この化合物は、甲2の記載に基づいて言えば、R4 として「メチル」(-CH3)を選択し、R5 として「ベンジル」(-CH2-C6H5) を選択したものに相当する。 そしてこの「でたらめ化合物」の活性を調べてみたところ、残念というか、当然なことに、改変前の化合物(甲1の化合物)に比べて活性が1/3に低下してしまったと仮定する。

それで、私のこの「でたらめ化合物」には進歩性はあるか?

大合議判決は、本件発明の相違点の構成、すなわち『R4 としてメチルを選択し、R5 としてメチルスルホニルを選択する』ことについて「甲2」は引用発明適格性を満たさないから引用発明として使うことはそもそもできない旨を説示したわけだ。 もしそれが正しいというのなら、私の「でたらめ化合物」のように、『R4 としてメチルを選択し、R5 としてベンジルを選択する』ことについても、「甲2」中の記載の程度は本件事件の場合と同等だと考えられるから、同様に引用発明適格性を満たさないという結論になるはずだ。 そうすると、私の「でたらめ化合物」には進歩性があるという結論になるわけだが、前田先生はそれでいいのだろうか。

今回の大合議判決の説示に全面的に同意したままで、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定することはできないから、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定したいのなら、どうやってこの発明の進歩性を否定するのかを考える必要があるだろう。 そうすると、今回の大合議判決の説示を「明確化」に資すると言って単に評価しているだけの前田論文は、「検討が足らない」、あるいは「批判すべきものを批判していない」ということになるんじゃないかな。

もちろん、上に挙げた問題を解決するだけであれば、Sotoku 10号で書いた「清水説」(大合議判決に関わった清水節先生の説;24頁参照)を採ることによって解決することはできる。 つまり、化合物の置換基を既知の置換基に換えるのは周知技術であるから基本的には進歩性がないと考えることによって解決することはできるだろうけど、果たして前田先生は「清水説」を採るのか、それとも違う道を行くのか、注目していきたい。

*     *     *

なお、前田論文の脚注42には以下のように記載されている。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 脚注42]
42) 田村善之「本件判批(その2)」WLJ判例コラム153号10頁〜13頁は、そもそも進歩性判断において引用発明適格性という議論を持ち込むこと自体を批判し、具体的な技術的思想を開示するものとしてはいまだ不十分としても何らかの示唆を看取したり、動機づけを与えたりすることはあり得るはずなどと指摘する。首肯する部分は多いが、私見としては、一方で、不確実な知識についても進歩性判断に利用可能とすると、探せば仮説の類はいくらでも発見できるのであり、進歩性を自在に否定できることになるのではないかと懸念する。引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎないと思われる。

この点については、私は田村先生を擁護したいので、前田先生の指摘を批判しておくと、もし「探せば仮説の類はいくらでも発見できる」という状態だというのなら、一体どの仮説が正しいのかはやってみなければ分からないという状態だということになるのだから、特定の仮説(本件発明において採用した仮説)を選択することの動機付けはむしろ否定され、進歩性は肯定される方向に作用することになるだろう。 したがって前田先生が懸念するような問題は生じないです。 むしろ、前田先生のいうところの「明確性に資する」ために「引用発明適格性」という新たな関門を設けることが正しいというのなら、それでもなお進歩性の判断に不都合が生じないことは前田先生が証明する必要があると思う。 単に明確性に資するように感じるからといって、それで不都合が生じないことを示さないまま「引用発明適格性」という関門を設けることを正当化することはできない。 私は、「新規性」の判断においては「引用発明適格性」という関門を設けることを容認できることはSotoku 10号の「6.」節で一応説明を試みたよ。 だけど、「進歩性」の判断においては話は別だ。 進歩性の判断に不都合が生じないことを示せないのなら、安易に要件(「引用発明適格性」という要件)を増やすことには 慎重であるべきではないか。

また、「引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎない」と前田先生が論じていることについては、少なくとも私は「引用例はすべて同程度に確からしいものとして参照できる」などとは思っていない。私は引用例を参照することを門前払いすることを批判しているだけだ。 発明前に存在するあらゆる引用例は参照し得ることは認めた上で、参照することの動機付けの程度や、前田先生のいう「仮説の類」の信ぴょう性の程度(合理的成功の期待)は、容易想到性の判断の中に織り込んで判断するべきだと思っているだけだから、別にフィクションを信じているわけではない。 むしろ、主引用発明の選択の容易性を不問にし、(実施可能な程度の)あらゆる主引用発明は所与の出発点とみなすことに疑問を持っていないようにみえる前田先生の考え方(前田論文の26頁最終文)こそ、実際にはフィクションなのではないか? (以下に引用)

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
なお私見を述べれば、特許法29条1項各号の発明に該当する以上、主引用発明とすることに支障はないとするのが、条文の文言上最も素直である。 実質的にも、類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分だろう。

私も、主引用発明の選択の容易性(田村先生がWLJ判例コラム 153号で言うところの「アクセス可能性」)を客観的な基準をもって判断するのは難しいだろうなとは思うし、だから実際には、「ごめんなさい。進歩性の判断においては、主引用発明のアクセス可能性は無視するか、せいぜい副次的な事情として考慮するのが関の山です。」ということになりそうな気もするけれど、たとえそうだとしても、それは実務上または法制度上の「妥協」であって進歩性判断の理論から導かれるものではないし、条文の文言上素直だからというだけで正当化できるものでもない。 また、上に引用したとおり前田先生は「類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分」というが、ここで問題とされているのは「主引用発明の選択の容易性」であって、(発明当時は存在していなかった本件発明と)「類似技術かどうか」とは関係がないし、「主引用発明を確定させた後」で判断に取り込めるはずもない。

まあ、WLJ判例コラム 153号を読む限り、田村先生もこの点は前田先生と同じ立ち位置だから、前田先生を批判することは田村先生を批判することにもなってしまいそうだけれど、田村先生の場合は「努力」(WLJ判例コラム153の脚注51)という言葉を使って論じており、「アクセス可能性」を無視するのは「妥協」の一種であることを示唆しているよね。 そこは私も理解できるところだ。

*     *     *

ということで、いろいろ批判はしたけれど、前田先生の以下の論じ方を読むと、前田先生も進歩性の「引用発明適格性」についてはかなりゆるく考えているのかな、と思ったりもする。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
ただし、引用発明たりうる「発明」の定義を厳格にとらえすぎるのも、判断の柔軟性を奪いすぎるので妥当ではない。本判決でも、甲2発明は「ピリミジン環の2 位の基を『-N(CH3)(SO2R’) 』とするという技術的思想」という程度のものである。 何らかの課題解決手段と位置付けられさえすれば、実施可能性を裏づける記載のある限り、引用発明と認定して差し支えないだろう。

前田先生が、進歩性の「引用発明適格性」というものを十分にゆるく考えているのなら、進歩性の判断において「引用発明適格性」が過度に否定されることはなくなるだろうから、「引用発明適格性」がないことだけを理由に、動機付けがあるにもかかわらず進歩性が肯定されてしまうというような不都合が生じるおそれはなくなるだろう。 そうであれば、前田論文をことさら批判する必要もなくなるかも知れない。 しかし、もし柔軟性のあるゆるい基準を採用するということになると、そのゆるい基準というのは一体なんであるのかは「明確」とは言えなくなるだろうから、「明確化に資する」のかどうかは怪しくなるだろうし、そうであれば、そういう要件を設けることの意義も薄れるというものだろう。

それに、前田先生は「ピリミジン環の2位の基を」と言うが、「引用発明適格性」を満たすために、引例には本当に「ピリミジン環の2位の基」を置換することが記載されていなければならないのだろうか? 肝臓への移行性を高めるためにメチル基(CH3)のような疎水性の置換基の近くに親水性が高いスルホニル基(SO2)を導入することが医薬品化合物の開発において比較的頻繁に行われているという状況がもしあるのなら、必ずしも「ピリミジン環の2位の基」を置換した引例がなくても進歩性を否定できる場合もあるのではないか? 逆に、「ピリミジン環の2位の基」を置換することさえ記載されていれば引用発明として適格なのだろうか? 化合物全体の構造が、単にピリミジン環を持つというだけでなく、もっと本件発明の化合物の構造と似ている必要があるのではないか。 また、その化合物がHMG-CoA還元酵素阻害活性を持つ化合物であることは要するのか?

そのように考えていくと、ある引例が進歩性を否定できる引用として適格なのか否かは、むしろ他の引例の記載内容や当時の技術状況、発明の個別の事情などによっても影響を受ける総合的な判断を通してしか決定できない事柄であって、それを判断する前に、その引例だけを個別に取り上げて「引用発明適格性」を満たすか否かを判断することなど、そもそもできないのではないかという思いが強くなってくる。

進歩性の判断において「引用発明適格性」という関門を設定することを是とする考え方は、「できない」ことを「できる」と思い込むフィクションに支えられてはいないのかどうか、私はその疑問をぬぐえないのだ。

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2019年02月19日

田村善之先生 WLJ判例コラム第158号「明細書に記載されている解決すべき課題が公知技術と対比すると不適切である場合のサポート要件の判断の仕方について」(ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決 平成30年4月13日判決)


([2019/2/21 追記]あり)

昨年11月19日付の田村先生のWLJ判例コラム 第153号 「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」の感想を書こうと思いつつ、まだできてないのに、その後、田村先生は、私が感想を書きたくなるような内容のものに限ってさえ、論文は出るし、フォーラムにも出るしで、すごい勢いだ。

そしてまた、 「ピリミジン誘導体」事件の知財高裁大合議判決に関して、3つ目のWLJ判例コラム 158号が公開された。

この勢いにはまったく追いつけないので、とりあえず瞬間的な感想だけ。

WLJ判例コラム 第158号より]
 出願時に予めあらゆる公知技術を覚知することは困難であり、また、補正や訂正も新規事項を追加すると判断される場合には、原則として出願の拒絶や特許の無効を伴うというリスクを伴う。そうであるならば、技術思想がその内容としては新規性や進歩性を喪失ないし欠如しないものであれば、公知技術を見逃したり、公知技術に気付いた後、補正や訂正をなしていなかったりすることのみを理由に機械的に出願拒絶や特許無効をもたらす帰結は採用すべきではないだろう。そのような帰結は、徒に出願人に出願書類を完璧に作成することを求め、さもなければ特許保護を諦めろというに等しく、非効率的な制度運営となるか、発明とその公開に対するインセンティヴを過少なものとするおそれがあると考えるからである。
 結論として、サポート要件の場面では、明細書に記載された解決すべき課題や解決手段を、公知技術との対比によって再構成することを否定した本判決の取扱いは穏当なものであったと評すべきである。

上記の部分、つまり、「出願人に完璧な明細書を書くことを課すのは非効率である」という論調は、田村先生が「均等論」の「第5要件」(出願時同効材)に関して言っていることと同じだなぁ。 インテグリティ(整合性)があるなぁ、と思いました。 ただし均等論は権利行使時に権利範囲を拡大させる方向で調整するのに対して、上記のケースは権利行使時に権利範囲を縮小させる方向で調節することを示唆しているのだろうから、「逆均等論」ですよねWLJ判例コラム153号の脚注40参照)。 つまり、均等論でも逆均等論でも、田村先生は、制度運営の効率性やインセンティブ論の観点から、同じように考えればよいのだと論じているわけだ。

でも今回のケースは、「ある程度広い範囲を持った特許発明を『逆均等論』で権利制限しよう」という話とは違うと思う。 なぜなら、本件のような発明はピンポイントのような発明であって、縮めようがないからだ。

たとえば、Sotoku 10号でも書いたけれど、先行文献(甲1)に記載されている化合物を参考にして、以下のような化合物をつくった場合を考える。 私がまったくでたらめに考えて作った化合物だ。

Sotoku 10号 24ページ]
Sotoku10-p24fig.png

それで、先行文献(甲1)の化合物を、上記の「私が考えた改変化合物」に改変した結果、活性が1/3になってしまったとする。 いわば、改悪発明だ。 それでも、本件の判決文に基づく限り、甲1の化合物は既存薬のメビノリンよりも15倍程度は高い活性を持っているから、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」は既存薬のメビノリンの活性よりはまだ5倍くらい高いわけだ。 それで、私はこの化合物をピンポイントでクレームして出願したとする。 田村先生は、この「私が考えた(でたらめ)改変化合物」を特許にしても問題ないと思うのだろうか。 それとも、「徒に出願人に出願書類を完璧に作成することを求め、さもなければ特許保護を諦めろというに等しく、非効率的な制度運営となる」から、特許を無効にはしないけれど、権利行使のときに、権利範囲を調整するのだろうか? ピンポイントの発明なのに、どうやって権利行使を調整するのか?

今回、田村先生が書いていることは、私には今一つピンとこない。 少なくとも、今回の大合議判決から示唆される不都合(つまり、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」が特許になってしまうという不都合)を解決するものではないと思う。

この問題を解決するためには、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」の特許性を否定する理屈を考え出すことが必要だ。 大合議判決を「穏当なもの」と評するだけでは、この問題は解決できないと思う。

それとも田村先生は、メビノリン程度の活性さえあれば、でたらめ改変化合物は特許にしてよくて、権利行使もOKだと思っているのかなぁ。。 まあ、この程度の活性の化合物なら、他にも容易に作れるのだろうから、仮に「私が考えた(でたらめ)改変化合物」に排他権が生じたとしても、誰もあまり困らないだろうということは言えるかも知れないけれど。

*    *    *

私も、いわゆる「パイオニア発明」なら、田村先生のような議論(すなわち、広めに特許にしておいて、権利行使時に調整しようという考え方)は成り立つかも知れないと思う。 iPS細胞の発明のように、非常の幅広い応用の可能性がある基本特許のような発明を出願した場合はね。 でも、本件の発明はそういうものではない。 単に、既存の化合物の置換基を変えたものだ。 たとえ、前知財高裁所長の清水節先生が唱える「清水説」(Sotoku 10号 の24頁参照)で考えるとしても、Sotoku 10号 の26頁の脚注34にも書いたとおり、本件のような発明はむしろ「周知技術を適用したに過ぎない」たぐいの発明だとみなし、顕著な効果がない限りは特許にしてはいけない類型に属すものなんじゃないかな。

つまり、パイオニア発明とは言えない「ピリミジン誘導体」事件のような発明について、今回の大合議判決のような説示(つまり、効果が高いことは要しないという説示)を行ってしまったことについて、大合議に対する批判は避けられないと思う。 本件の場合、明細書中には本件発明の化合物が顕著な効果があることが明確には示されていないので多少苦しいのではあるが、もし本件発明の特許性を肯定したいのであれば、大合議判決のような説示をするのではなく、多少無理をしてでも「このような高い効果を持つ化合物を取得した発明であるから特許性があるのだ」という説示をすべき案件だったと思う。

なお、「高い効果を持つから特許性があるのだ」ということを、「進歩性」で判断するのか、それとも「サポート要件」で判断するのかは、いろいろ意見があるところだろう。 つまり、サポート要件については、コレステロール生合成阻害活性がともかくもある化合物を提供したというだけで肯定し、「顕著な効果があるから進歩性がある」と判断することもできただろうし、そうでなければ、進歩性については「発明の構成」に動機付けがないというだけで肯定し、効果の顕著性は「サポート要件」の方にまわして、「それなりに顕著な効果を持つ化合物を提供するという課題」を達成したという意味で本件は「サポート要件」を満たすのだと説示することもできただろう。

私は個人的には、「サポート要件」や「実施可能要件」というのはかなり“眉唾”な要件だと思っていて、実際には「進歩性」を判断しているのに、そうではないかのように装う要件が「サポート要件」や「実施可能要件」ではないかと疑っているので、なるべく「サポート要件」や「実施可能要件」は使わずに、「進歩性」で統一的に判断できる規範を作る方がいいと思っているけれど。

たとえば、パラメータ発明のサポート要件を否定した「偏光フィルム」事件(平成17(行ケ)10042) にしたって、判決のようにサポート要件を否定するのではなく、「よい実験結果2例と、悪い実験結果2例を隔てるように2つのパラメータで当てずっぽうに範囲を設定することは容易であり、クレームに規定されているパラメータが当てずっぽうではない(すなわち、クレームで規定したパラメータの組み合わせは、高い効果が発揮される偏光フィルムを製造するための稀有な組み合わせである)ことが推認できるほどの実証が明細書中でなされているものでもない」と捉えて「進歩性」を否定することは可能だったと思うし、その方が分かりやすかったのではないかと思う。 そういう考え方が、Sotoku 10号(27頁)で説明した、「でたらめに行った選択に過ぎない」という推定を退けることができないものは進歩性を否定するという考え方だ。 この考え方を取り入れることによって、たとえ「発明の構成」(「ピリミジン誘導体」事件で言えば、本件化合物の構造であり、「偏光フィルム」事件で言えば、2つのパラメータの範囲をクレームに規定されているように組み合わせること)に動機付けがなくても、進歩性を否定することができるようになる。 今のところ多くの人は、「発明の構成」に動機付けがない限り「進歩性」は否定できないという考えに囚われているから、特許性を否定したいと思ったら、無理やりにでも「サポート要件」で特許性を否定するしかないのだ。 そのために、「本件の発明の課題は、従来よりも優れた〇〇を提供することである」などという理屈を付けて「サポート要件」で特許性を否定しているのだ。 そうした呪縛から自由になって、「進歩性」で拒絶する方が分かりやすいと思う。

*    *    *

速攻で書いたので、考えが足らないかも知れないけれど、そんなところかなぁ。 WLJ判例コラム 153号については、また改めて書きたいと思う。 「旅の途中」っていうのもぜひ。

[2019/2/20]
言葉足らずだと思った部分について、ちょっと書き足してみた(青っぽい色を付けた部分)。今度は言い過ぎたかなぁ。


*    *    *


[2019/2/21 追記]
特許庁の岡田吉美先生は、現在の技術では実現不可能なほど高純度の「金」、例えば、「99.9999999999999%の金。」というような発明は、「進歩性なし」で拒絶すべきだと論じている(岡田吉美, パテント Vol.60, No.5, 50-67, 2007 62〜63ページ)。 これに対し私は、Sotoku 8号の 25〜27ページで書いた通り、この種のクレームは「実施可能要件」(あるいはサポート要件)で拒絶すべきだと考えていた。

しかし Sotoku 10号 を書く過程で、岡田先生の考え方に違和感はなくなってきた。 少なくとも、岡田先生が主張する「進歩性がない」という結論には同意できるようになっている。

つまり、「99.9999999999999%の金。」(実現不可能なほど高純度の金)という発明は、単なる当てずっぽうで書いただけという推定を退けることはできないので、Sotoku 10号(「10.」節,26-27ページ)で書いた考え方(いわば「非でたらめ・非当てずっぽう」要件)により、進歩性は否定されてよいのだと思う。

「進歩性欠如」と「記載要件違反」のロジックはしばしば「表裏一体」の関係で根は同じとなることがあるということかな。


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2018年10月31日

@ 進歩性拒絶の引例に引用発明適格性など必要か? A 発明の効果の検討は不要か? 「ピリミジン誘導体事件」平成30年4月13日大合議判決(平成28年(行ケ)10182;平成28年(行ケ)10184)(Sotoku 通号10号)


Sotoku 通号10号 1-30 (2018) (published online on 31-10-2018)

タイトル: 特許法第29条第2項(非容易想到性規定)に基づいて進歩性を否定するための引例中の発明は、いわゆる「引用発明」であること(引用発明適格性)が求められるのか、そして、発明の構成に至る動機付けさえ否定されれば、発明の効果を考えるまでもなく進歩性は肯定できるのか:「ピリミジン誘導体事件」平成30年4月13日知財高裁大合議判決(平成28年(行ケ)10182,10184)

著者:  想特 一三 (Sotoku Ichizo)


*    *    *

今回の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)における争点の1つは「進歩性」だ。

原告(無効審判請求人)が提示した主引例(甲1)(特表平3-501613)には以下の化合物が記載されており、この化合物が高いHMG-CoA還元酵素阻害活性(コレステロールの生合成阻害作用)を有することも知られていた。

[甲1の実施例1b の化合物]
20180424_kou1_1.png

これに対して本件発明においてもっとも重要な化合物であるロスバスタチン(商品名 クレストールR)は以下のような化合物で、実質的な違いは丸を付けた部分(判決文の「相違点1−i」に対応する)で、上の化合物では窒素(N)にメチル基(-CH3)が2つ付いている(すなわち -N(CH3)2 ) のに対して、下の化合物ではメチル基の1つがメチルスルホニル基(-SO2CH3) に変わっている(すなわち -N(CH3)(SO2CH3) )。

[本件発明の化合物]
20180424_honken1.png

さらに、原告は副引例(甲2)を提出した。 そこには、やはりHMG-CoA還元酵素阻害活性を持ち、構造的にも類似した化合物について記載されており、以下に示すように、本件発明の化合物とそこそこ近い化合物も合成されている。

[甲2の実施例23に記載の化合物]
20180424_kou2-3.png

そして甲2には、より一般化された化学式が記載され、置換基として多数の選択肢も列挙されているが、その中には、上の丸で示した「R3」のところが -N R4 R5 の構造をとっていてもよいことが記載されており、「R4 及び R5 は同一もしくは相異なるものであり,メチル,エチル,プロピル,・・・,メチルスルホニル,・・・ を表わす」との記載があることから、上のロスバスタチンと同様に、窒素にメチル基とメチルスルホニル基が結合している構造 -N(CH3)(SO2CH3) も、考え得る組み合わせとしては含まれていた。

この場合に、本件特許発明に進歩性はあるのかが問題となった。

今回の判決に関しては、4月に感想をいったんはブログに公開したのだけれど、まだ考えが足らない気がしたのでもう少し考えて論文の形式で書いてみることにした。 そうこうしているうちに判決の解説論文である「知財高裁詳報」(Law and Technology 80号 88-97 (2018) )が公開され、また、退官した清水節先生の講演会に出席した人を通して判決に関して清水先生がどう考えているのかについて情報なども知ることになり、判決に対する理解は少しは深まったと思う。 特に、4月の段階では私は、「進歩性なしで拒絶する場合に副引例を使うことはそもそも必須ではないのだから、副引例の発明に引用発明適格性を求めている大合議判決が間違っているのは明らか」だと考えていた。 しかしその後、主引例だけを使い副引例を使わずに進歩性を否定する場合は別論だと清水先生が考えていることを知って、「なるほど」と思った。 それについては本稿の「9.」節で書いた。

10月に入り、もういい加減、論文を公開しなければと考えていたところ、同志社大の井関涼子先生の論文(特許研究 No.66, 60-75 (2018))が公開された。 今回の大合議判決に対する評釈はこれまでにもいくつか出ているが、井関先生の論文は、大合議判決の判旨をかなりはっきりと批判的に論じた論文として注目される。 井関先生の論文については、本稿の最後の脚注で触れた。

北大の田村善之先生も、そのうちウエスト・ロー・ジャパンの判例コラムでこの判決の進歩性の判断に対する評釈を公開しそうだ。 田村先生は、この夏、北大のサマーセミナーに清水先生を招いたし、批判的には書きにくいのではないかと少し心配だが、どういう内容になるのだろうか。。

*     *     *

さて、本稿で検討したのは以下の2点。

 1.進歩性の判断において引例に「引用発明が記載されていること」(すなわち引用発明適格性)は必要なのか。

 2.本件発明の構成を選択する「動機付けがない」(あるいは本件発明の構成にかかる選択肢を抽出できない)というだけで進歩性は肯定できるのか。

上記の2点について、今回の大合議判決はいずれも肯定しているが、私はいずれも否定する。

上記の「1.」の引用発明適格性の問題については、例えば「逆転洗濯機」事件(平成22年(行ケ)1029)のように、洗濯機に関する主引例の発明に、船舶等のプロペラに関する副引例を組み合わせて進歩性を否定するような主張であれば「そういう文献を引例にするな。」(←「引用発明適格性」の一種?)と言いたくなる気持ちは分かるのだけれど、両者を結び付ける示唆のようなものがあればまた話も変わってくるわけで、結局は動機付けの問題なのではないかなぁ、と私は思っている。 詳しくは本稿の「1.」節〜「8.」節を参照。

上記の「2.」について、本稿に書いたことをもとに、以下に書いてみたい。

本件特許が出願された当時、コレステロール合成抑制薬としては「メビノリン」がすでに海外で商品化されていた。 そして本件の主引例である「甲1」には、上記の甲1の実施例1bの化合物と「メビノリン」について、HMG-CoA還元酵素阻害活性や生体内におけるコレステロールの生合成阻害作用を比較する実験が行われている。

[甲1 の「試験A」および「試験B」の結果より](甲1 11〜12ページ)

HMG-CoA還元酵素阻害活性(IC50:50%阻害濃度)
 実施例1b の化合物 IC50=0.026μM
 メビノリン IC50=0.352μM

生体内コレステロール生合成阻害作用(ED50:50%阻害投与量)
 実施例1b の化合物 ED50=0.028mg/kg
 メビノリン ED50=0.41mg/kg

上記の数字は、同じ効果を達成するために必要な薬剤の量を表しているから、数字が低いほど活性が高いことを示している。 つまり、甲1の実施例1bの化合物は、HMG-CoA還元酵素阻害活性としては既存薬であるメビノリンの13.5倍(0.352÷0.026)、生体内コレステロール生合成阻害作用としては14.6倍(0.41÷0.028)の活性を持つことが分かる。 それだけ高い活性を持つ化合物が、本件特許の出願前に既に知られていたわけだ。

*     *     *

さて、大合議判決は、以下のように説示して本件発明の進歩性を肯定した。

[判決文PDF 116ページ]
・・・,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位のジメチルアミノ基を「- N(CH3)(SO2R')」に置き換えることの動機付けがあったとはいえないのであって,甲1発明において相違点(1−@)に係る構成を採用することの動機付けがあったとはいえない。

つまり大合議判決は、上に示した甲1の化合物の赤い丸の部分を本件発明の化合物の赤い丸のように「置き換えることの動機付けがあったとはいえない」ということを理由に進歩性を肯定した。

そして原告(無効審判請求人)は、本件発明の化合物は、甲1の化合物に比べて顕著に高い活性を持つとは認められないので、進歩性は認められるべきではないと主張したが、これに対して大合議は以下のように説示した。

[判決文PDF 116-117ページ]
・・・,進歩性については,既に判示したとおり,甲2に相違点(1−@)に係る構成が記載されておらず,また,・・・,相違点(1−@)の構成を採用する動機付けがあったとはいえないことから,容易に発明をすることができたとはいえないと判断されるのであって,原告らが主張するような基準を設定して判断しているものではない・・・,・・・。

つまり大合議判決は、活性など関係がないという立場を示した。 「相違点(1−i)」の構成(本件発明の化合物における上の赤い丸で示した構造)を採用する動機付けがあったとはいえないということだけで進歩性は肯定されるのであって、活性が高い必要などない(活性がある必要さえない)という立場を示したのだ。

*     *     *

一方、「サポート要件」に関して原告は、本件発明の化合物は、甲1の化合物を超える活性を持つとは認められないのでサポート要件を満たさない旨を主張したが、これついては大合議は以下のように説示した。

[判決文PDF 119ページ]
 以上を考え合わせると,本件発明の課題が,上記の既に開発されているHMG-CoA還元酵素阻害剤を超えるHMG-CoA還元酵素阻害剤を提供することにあるとまではいうことはできない。
 ウ したがって,本件発明の課題は,コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物,及びその化合物を有効成分として含むHMG-CoA還元酵素阻害剤を提供することであるというべきである。

[判決文PDF 119-120ページ]
・・・,本件明細書・・・には,・・・,メビノリンナトリウムのHMG-CoA還元酵素阻害活性を100としたときに,化合物(Ia−1)のHMG-CoA還元酵素阻害活性が442であることが記載されている。

[判決文PDF 121ページ]
 そうすると,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件発明1の化合物が,コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有すること,すなわち,本件発明の課題を解決できることを当業者が理解することができる程度に記載されているということができる。

[判決文PDF 121-122ページ]
 ア (ア) 原告らは,・・・,本件出願当時,既に複数のHMG-CoA還元酵素阻害剤が医薬品として上市されており,メビノリンナトリウムより強いHMG-CoA還元酵素阻害活性を示す化合物も公知であったから,「コレステロールの生合成を抑制する医薬品となり得る程度」という程度では,技術常識に比較してレベルが低く不適切である旨主張する。
 しかし,・・・,本件発明の課題が,既に開発されているHMG-CoA還元酵素阻害剤を超えるHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物又は薬剤を提供することであるということはできない。

上記の通り大合議判決は、既存薬であるメビノリンのHMG-CoA還元酵素阻害活性を100としたときに,本件発明の化合物の活性は442(すなわち4.4倍)であることが明細書に記載されているとした上で、「コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物」であればサポート要件は満たされるのだと説示した。 この説示からすれば、既存薬であるメビノリンと同様またはそれ以上(4倍程度?)の活性があればよいということになるだろう。

以上をまとめると、進歩性に関しては、主引例(甲1)の化合物を改変した構成について引例に示唆がない限りは進歩性は否定されず、たとえ改変したことで活性が失われても進歩性は否定されない。 サポート要件に関しては、既存薬であるメビノリンと同様またはそれ以上の活性があればよいということになる。

ところで上記の通り、主引例(甲1)の化合物は、そもそもメビノリンの14〜15倍の活性があるわけだ。 そうすると、甲1の化合物をでたらめに改変して、たとえ活性が1/3に低下してしまったとしても、まだメビノリンの5倍くらいは高いのだから、サポート要件は十分に満たされることになる。 そして上述のとおり、そのでたらめな改変を具体的な技術的思想として抽出できる副引例がないかぎり進歩性も否定できないわけだから、特許が取れるということになってしまう。

特許制度ってそういう制度だったっけ?

このように今回の大合議判決は、公知技術の「改悪発明」でさえ喜んで特許にしますと言っているような判決だ。 判決を行った裁判官の方々はおそらくそういうつもりではなかったのかも知れないが、判決文を読むかぎり、そう読めてしまう。 これをそのまま認めてしまってよいのだろうか?

*     *     *

今回の特許発明には進歩性があるという最終結論には私は賛成だけれど、進歩性の判断手法に関しては、今回の大合議判決は問題のある判決だと思う。 この判決後、批判的な論文が出るのを待っていたけれど、最初に書いた通り、井関先生が出してくれた。 田村先生やその他の先生方にも、ぜひこの判決の問題点を論じて欲しい。

*     *     *

最後に、今回の論文では、清水先生が退官後に行った講演やセミナーの内容も多少盛り込んだけれど、これについては否定的に考える人もいるかも知れない。 私も書いていいかどうか多少迷ったけれど、基本的には進歩性の考え方の学術的な話であって、別に隠しておく意義に乏しいと思われることや、先にも言った通り、副引例を使わない場合の進歩性の考え方を清水先生が私見として明らかにしたことは、今回の大合議判決の説示が、進歩性の考え方全体の中の一部に過ぎないことを理解するためにも重要だと思うので書くことにした。 つまり、「副引例を使わずに技術常識を適用する場合は動機付け不要」、「顕著な効果がある場合は進歩性あり」という清水先生の考え方があるからこそ、今回の大合議判決の説示も、実務上はうまく回るのだろうなと理解できるわけで、もしそれがなければ、今回の大合議判決の説示は「おかしな判決だなぁ」としか捉えられないと思う。 そういう意味では、今回に限らず、知財判決に関わる判事さんには、自分たちの考え方をもっと積極的に公表してほしいと思うし、それによる学術分野への貢献は、判決文しか検討対象にできない場合に比べてとても大きなものになると思う。

さて、清水先生は、早稲田で文字通り「先生」になるのだと思うけれど、学生になった人たちは、単に清水先生の講義を聞くだけじゃなくて、おかしいと思うところは、「清水先生、ここはおかしいんじゃないですか?」ってちゃんと突っ込んで欲しいんだよね。 それも1回や2回じゃなくてしつこくね。 そして、できれば清水先生と学生が一緒になって、新しい考え方を作り出してくれればいいと思う。

ということで、清水先生がいつの日か、進歩性について新たな「清水説」を説く論文を出すのを期待したい。


[2018/11/19 追伸]
ウエストロー・ジャパンの判例コラムで田村先生の判例評論「第153号 進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」が公開された。 田村先生には二度と引用されないんじゃないかという気もしていたけれど、そうではなくてよかった。😀

しかも内容も、私にとっては予想を超えるものだった。 上で、「田村先生は、この夏、北大のサマーセミナーに清水先生を招いたし、批判的には書きにくいのではないかと少し心配・・・」と書いたけれど、失礼な話でした。 学問に対する田村先生の姿勢がうかがえるね。

田村先生の「4 評釈」の「4)」と「5)」はとても共感できる。 「6)」も、言っていることは、まあ、その通りだと思う。 「7)」については、多分、私は異論があるけれど、もうちょっと考えてみたい。



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2018年10月11日

高林龍先生 均等論判例評釈 (判例評論 716;判例時報 2377)(平成28年(受)1242;平成29年3月24日判決)


高林龍先生の『標準特許法 第6版』(有斐閣 2017)が出版された直後の昨年の12月20日の投稿でも話題にしたとおり、「出願時同効材」に対する均等論の適用について高林先生は比較的慎重な立場だと(少なくとも一般には)みなされていたから、「出願時同効材」に対する均等論の適用を積極的に認めたように見える知財高裁大合議判決「平成27年(ネ)10014;2016年3月25日判決」や最高裁判決「平成28年(受)1242;2017年3月24日」を高林先生がどう評するのかに関心が持たれるわけだ。 そして昨年の12月20日の投稿で書いたとおり、最高裁判決の後に出版された高林先生の『標準特許法 第6版』では、自説である「融通性のある文言解釈論」は変更せず、最高裁判決の内容が「但し書き」で追加された。 しかし、それがどういうことなのか『標準特許法 第6版』では詳しくは論じられていないから、高林先生は最高裁判決やその原審である大合議判決に賛成なのか、反対なのか、また、高林先生は自説を変えるのか、変えるつもりはないのかがよく分からなかった。

しかし先日、判例時報 No.2377(平成30年10月1日号)が発行され、付属の「判例評論 No.716」に、最判に対する高林先生の評論が掲載された。

読んだ感想は・・・・。。 私は、高林先生が判決に対して批判的に書いてくれることを期待していたので少しがっかりしてしまった。 高林先生には、最高裁判決を批判するという選択肢はそもそもないんですかね。。。 ともかく、今回の論文で高林先生がこの判決をどう評しているのか、以下に見て行きたいと思う。


1.
最高裁判決には、判決文に下線が引いてあるところが2つあって、一つ目が以下の判示だ。

平成28年(受)1242、下線部1]
出願人が,特許出願時に,特許請求の範囲に記載された構成中の対象製品等と異なる部分につき,対象製品等に係る構成を容易に想到することができたにもかかわらず,これを特許請求の範囲に記載しなかった場合であっても,それだけでは,対象製品等が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情が存するとはいえないというべきである。

今回の評論における高林先生の立場は、最高裁の上記の判示は、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定するのは妥当ではないという、いわば当たり前のことを判示したものに過ぎないというものだ。 そして、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定すべきだと主張していた者など、そもそもほとんどいなかったし、もちろん高林先生自身もそのようなことは言っていなかったので、自説を否定するものではないどころか、自説に沿うものである旨を論じている(判例評論716の24ページ 第1段目〜第3段目)。

高林論文の原文を引用すれば、以下のとおり。

[判例評論716の24ページ 第3段目](強調は私が入れた)
したがって、本判決の判旨一は、ボールスプライン事件最三判後の学説や下級審判決の多数が一致して採用していた、出願時同効材であることの一事をもって第五要件にいう「特段の事情」がある場合に該当するものではないとの前提要件を確認したものにすぎないものであって、穏当な判旨ということができる(22)。

高林先生の言うとおり、出願時同効材であることの「一事」をもって第5要件で均等を否定することを論じている論者などほとんどいなかったし、高林先生自身もそんなことは言っていなかったことは、私が1月に出した Sotoku 9号 の「6.」節〜「7.」節でも書いた。 だから高林論文の上のような言い方は間違いではないだろう。 でも気になるのは、上に引用したとおり、最後に「脚注22」が付けられていることで、そこには以下のとおり記載されている。

[判例評論716の29ページ 脚注22]
田中判解二〇五頁は判旨一について「学説や実務の大方の支持を受け、国際的な潮流にも沿った原審の判断を、最高裁としてもオーソライズする意義があった」と述べている。

田中判解の上記の記載を引用しているということは、高林先生は「私もそう思うし、田中判解もそう言っている」というスタンスであるように見える。 しかし、高林先生は当然ご存じのとおり、田中判解(田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) )では、出願時同効材であることの「一事」をもって第5要件で均等を否定すべきだとする「A説」と、それを否定する「B説」という学説の対立を紹介し、「A説」に親和性がある論説として高林先生の論説を挙げ、学説や実務の大方の支持を受けている学説として「B説」を挙げているんですよ。 つまり、学説や実務の大方の支持を受けていたのは「B説」であって、高林説に親和性があるとされた「A説」ではない。 田中判解のこの部分を、「穏当な判旨ということができる(22)」のように、まるで高林説をサポートするものであるかのように引用するってのは、ちょっと違和感があるのですけれど。。 まあ、高林先生や三村量一先生を「A説」に分類している田中判解がおかしいということは Sotoku 9号の「11.」節(24〜26ページ)でも詳しく書いたし、今回の高林論文を読むかぎり高林先生も私と同じように考えているようではあるけれど、田中判解は高林説を「A説」だとみなす分類に基づいたうえで否定的に論じ、「B説」の方を「学説・・・の大方の支持を受け」と評しているんですからね。 それを自説に沿うものとして取り入れようなんて。。

とはいえ、田中先生も、高林先生が論じていることをどれだけ知った上であの判解を書いたのかはよく分からないので、田中先生も今なら「高林先生もB説ですね。」って言ってくれるかも知れないけれど。


2.
最高裁判決の2つ目の下線部が以下の判示だ。

平成28年(受)1242、下線部2]
出願人が,特許出願時に,特許請求の範囲に記載された構成中の対象製品等と異なる部分につき,対象製品等に係る構成を容易に想到することができたにもかかわらず,これを特許請求の範囲に記載しなかった場合において,客観的,外形的にみて,対象製品等に係る構成が特許請求の範囲に記載された構成を代替すると認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえるときには,対象製品等が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情が存するというべきである。

これに対する高林先生の見解は、この下線部2は単なる「例示」であって、そりゃ、「認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえる」のなら均等を否定すべきであろうから、当たり前のことを言っただけというもの。

高林論文の原文を引用すれば、以下のとおり。

[判例評論716の25-26ページ] (強調は私が入れた)
・・・ 判旨二は結局、・・・ 、・・・、特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとったと認められる場面として、出願人の行動が客観的、外形的なものであることが際立って明確であるひとつの場面を示したものであって、それ以上でもそれ以下でもないといえる(28)。

ここでも、文章の最後に脚注(脚注28)が付けられ、そこで田中判解について触れられている。 具体的には以下のとおり。

[判例評論716の29ページ 脚注28]
田中判解二〇七頁も、「本判決の定立した規範は、そのようなラインの内側に入ってこなくても、均等の主張が許されない特段の事情が存する事例があり得ることを否定してはいない。本判決は、その設定した上記場面において、均等の主張が許されない特段の事情が存する場合を全て示したわけではないことには留意が必要であると思われる。」としている。

このように高林論文では、田中判解も高林先生の考えと同じであると思わせるような書きぶりなのだ。 確かに、最高裁判決のこの判示部分だけを文字通りに受け取れば、高林先生のような解釈ができるかも知れない。 そして高林先生のように解釈する場合は、この判示はほとんど当たり前のことを言っただけであって、そうであれば、この判示は高林先生の考え方とも整合するということになるだろう。 なおこの問題について、Sotoku 9号では以下のように書いている。

Sotoku 9号,20ページ]
 「もっとも」で始まるこの段落の説示には、二通りの解釈が可能かも知れない。 一つ目の解釈は、この段落は出願時同効材の均等論の適用を第5要件で否定すべき一つの例を示したに過ぎないという解釈である。 すなわち、「もっとも」の段落で例示されている場合(すなわち明細書等に記載されているなど、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められる場合)であれば、さすがに出願時同効材に対する均等論の適用は第5要件により否定されるが、それは例示に過ぎず、出願時同効材に対する均等論の適用が第5要件で否定される場合は他にもある(すなわち、当業者であれば当然気づいてクレームしてしかるべきものであったような場合は第5要件の「特段の事情」に該当するとみなして均等成立を否定しうる)という解釈である。 この解釈の場合、たとえ出願時同効材が明細書等に記載されておらず、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められるとは言えないとしても、それだけで第5要件はクリアできず、出願時同効材をクレームしなかった出願人の帰責性をさらに検討しなければ均等論の適用は認められないことになる。
 二つ目の解釈は、「もっとも」の段落の説示こそが、出願時同効材に対する第5要件の判断基準だという解釈であり、出願時同効材が明細書等に記載されておらず、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められるとは言えない場合は、基本的に第5要件はクリアできるという解釈である。

Sotoku 9号,22ページの脚注60]
 なお調査官解説において田中は、「もっとも,本判決の定立した規範は,そのようなラインの内側に入ってこなくても,均等の主張が許されない特段の事情が存する事例があり得ることを否定してはいない。本判決は,その設定した上記場面において,均等の主張が許されない特段の事情が存する場合を全て示したわけではないことには留意が必要であると思われる。」(下線追加)と指摘し、本稿の一つ前の脚注(脚注59)で触れた設樂の指摘を引用している(田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) 3847-3878 の3867ページ)。 しかしながら、第5要件にいう「特段の事情」を肯定できる事情がまだありうるのであれば、本件においてもそれが検討された上で「特段の事情」の該当性が判断されるべきところ、本文中でも指摘した通り、最高裁は本件に関して、「・・・認識しながらあえて本件特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたという事情があるとはうかがわれない」という一点だけを確認し、それ以外の要素を考慮することなく「特段の事情」の該当性を否定しているのだから、最高裁が判示した基準は単なる“例示”ではなく、これさえ言えれば基本的に「特段の事情」の該当性を否定できる十分条件だと解するのが判決の素直な読み方であろう。 したがって、たとえ他に考慮する要素がありうるとしても、そうした考慮が必要となる事例は、設樂が示唆する通り、例外的なケースに限られると解されるだろう。 実際、上で引用した田中の解説論文に掲載されている参考図(3878ページ)でも、そうした事例(著しい過誤や個別的事情がある場合)は小さな円で示されているに過ぎない(なお田中孝一, 「年報知的財産法2017-2018」 (高林龍, 三村量一, 上野達弘 編) 日本評論社 (2017) 14-24 の19ページに掲載されている参考図も同様)。

上に引用したとおり、調査官解説において田中先生は「全て示したわけではない」と言っているのであって、高林先生の「際立って明確であるひとつの場面を示したもの」という表現とはかなりの温度差がありますよね?

私は、この下線部2は単なる「例示」というよりは十分条件に近いものだと最高裁は考えて判決をしたのだろうと解しているわけだが、こういう判決の読み方に関して高林先生は以下のように批判している。

[判例評論716 の 26ページ,1〜2段](強調は私が入れた)
この本判決の判断の経緯(29)からか、本判決を、特許請求の範囲に記載されていない出願時同効材について、出願人において、これが特許請求の範囲に記載された構成と代替しうるものであることを明細書等で開示していたのに、あえて特許請求の範囲の記載から落とした場合でなければ、第五要件にいう特段の事情に該当して均等侵害の主張が排斥されることはないとしたものであると理解する立場(30)があるようである。 このような理解は、特段の事情に該当する場合を例示した判旨二を、それ以外の場合であれば特段の事情には該当しないと反対解釈するものであって、判旨二の射程を理解するうえでも、看過することはできない

上の引用中の「脚注30」には小島喜一郎先生の意見などが触れられている。 小島先生は出願時同効材に対する均等論の適用を否定的に考えている先生で、どちらかというと高林先生の側にいる学者とみなされていると思われるが、高林論文では、あえて小島先生の意見を「看過することはできない」と厳しく批判することで、高林説と最高裁判決が同じ側にいることを強調するような論じ方となっている。 しかし、判決文の下線部だけを切り取って論じる高林論文のような批評があるべき判例批評ということでもないんじゃないかなぁ。 それに、最高裁自身が「・・・認識しながらあえて本件特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたという事情があるとはうかがわれない。」「原審の判断は,これと同旨をいうものとして是認することができる。」と説示し、反対解釈を使って原審の判断を是認するような言い方をしているのに、高林論文ではそれを批判もせずに看過しているじゃないの。。

結局、今回の最高裁判決に対する高林先生の解釈は、判決文の下線部1については、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定するのは妥当ではないという当たり前のことを判示したものに過ぎず、判決文の下線部2については、出願時同効材を認識しながらあえてクレームに記載しなかった旨を表示していたといえる場合はさすがに第5要件により均等を否定すべきだという、これまた当たり前のことを判示したものに過ぎないというものだ。 もしそうだとすれば、この最高裁判決はほとんどの人がそう思っている当たり前のことを確認しただけの判決だったということになるだろうね。


3.
今回の高林論文では、2006年に塚原コートが行った「椅子式エアーマッサージ機事件」判決(平成17年(ネ)10047;平成18年9月25日判決)についても論じられている。 この判決は、出願時同効材に対する均等侵害を肯定した先駆的判決だ。 この判決で裁判所は、均等の第5要件の判断規範に関して、「・・・ 意識的に除外されたというには,特許権者が,出願手続において,当該対象製品に係る構成が特許請求の範囲に含まれないことを自認し,あるいは補正や訂正により当該構成を特許請求の範囲から除外するなど,当該対象製品に係る構成を明確に認識し,これを特許請求の範囲から除外したと外形的に評価し得る行動がとられていることを要すると解すべき」と説示した。 「明確に認識し,これを特許請求の範囲から除外したと外形的に評価し得る行動がとられていることを要すると解すべき」という表現は、今回のマキサカルシトール事件の最判における「認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえるとき」という表現や、その原審(平成27年(ネ)10014)が判示した「認識していたものと客観的,外形的にみて認められるとき」という表現ともよく似ており、「椅子式エアーマッサージ機事件」における判示が今回の判決に影響を与えた可能性が示唆されるだろう。 塚原先生は退官後、「知財高裁における均等侵害論のルネッサンス」(塚原朋一, 知財管理, Vol. 61, No. 12 (2011) 1777-1787)という論文も書いており、そこでは均等侵害を認めることについてかなり積極的なことも書かれている。 この「椅子式エアーマッサージ機事件」判決が示した第5要件に関する規範は、少なくとも高林先生の考え方とは真逆と言えるほど違うのではないかと私は感じるのだが、今回の論文で高林先生は、エアーマッサージ機事件の判示は、第5要件の「意識的除外などの特段の事情」の1つに過ぎない「意識的除外」の該当性に関する規範を説示したに過ぎず、「特段の事情」の該当性に関する規範を示したものではないのだから高林説を否定するものではない旨を論じている。 具体的には以下のとおり。

[判例評論716 の 25ページ,1段目](強調は私が入れた)
ボールスプライン事件最三判の判示した第五要件は、「意識的に除外されたものであるなどの特段の事情もないこと」であるから、最終的な要件は「特段の事情」のないことであり、・・・、「特段の事情」とは、「意識的に除外した」など、「特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとったこと」をいうものと理解される(25)。

[判例評論716 の 29ページ,脚注25](強調は私が入れた)
すなわち、ボールスプライン事件最三判の判示によるならば、・・・、意識的に除外した場合以外にも特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとった場合も特段の事情が認められることになる。 そうであるならば、結局、・・・(エアーマッサージ事件)は、「意識的に除外されたというのは」特許権者が出願手続において「意識的に除外したと客観的に評価される行動をとった場合のこと」をいうと、循環論法的判示をしつつ、意識的除外について客観的と評価できる行動を求めたにすぎないものといえる。 しかし、第五要件は出願人・特許権者の意識を問うものではなく、外形的にそのように解される行動をとったことを要件とするもので・・・、・・・、・・・あることから、前記東京高判(ママ)の判示は当然のことを述べたにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。

確かに、エアーマッサージ機事件で裁判所は、「意識的に除外されたというには・・・」と説示しただけで、「特段の事情にあたるというには・・・」と説示したわけではないから、「意識的に除外されたわけではないが特段の事情にあたる場合」については、裁判所は何も説示していないと解する余地はある。 これについては Sotoku 9号でも書いた。

Sotoku 9号,脚注10]
・・・、均等論の第5要件に関して最高裁は、「・・・ 意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情もないとき」(下線追加)と判示した。 すなわち、第5要件で均等論の適用が否定される場面には、「意識的除外」だけでなく、それ以外の特段の事情もあり得ると解する余地がある。 これに対し、エアーマッサージ機事件において被疑侵害者は、本稿の本文中に引用した通り、被疑侵害者の実施態様は「意識的に除外された」と主張し、知財高裁も、それに応じて「意識的に除外されたというには,・・・」 と判示した。 やや言葉遊び的ではあるが、エアーマッサージ機事件において知財高裁が第5要件について説示した判断基準は、「特段の事情」の中の「意識的除外」に該当すると判断するための基準であって、意識的除外以外の「特段の事情」(例えば、クレームしておくべきであったのにクレームされていない場合であって、出願人の帰責性を問えるような場合)に該当すると判断するための基準については別論だと考えていたと解釈することは不可能ではない。 エアーマッサージ機事件の判示をそう捉えるのなら、弁論主義のもと裁判所は、出願人は(クレームすべきであったのにクレームし忘れたとは言えても)、意識的に除外したわけではないという、単に当たり前に近いことを言っただけの判示だと捉えることは可能かも知れない。 しかし一般には、この判決はそう受け取られてはいないだろう。

結局のところ、今回の高林論文は、マキサカルシトール事件の最高裁判決やエアーマッサージ機事件の知財高裁判決は「当然のことを判示しただけ」で、「それ以上でもそれ以下でもなく」、判決の射程は極めて狭いと捉えることで自説とも整合性のある判決だと解釈しているということになるだろう。 しかし判決文や調査官解説を読むかぎり、私は、今回の大合議判決や最高裁判決で判決を行った裁判官やそれに関与した調査官は、少なくとも判決を行った時点ではもっと広く出願時同効材の均等を認めてもいいと思っていたと解されると思うし、そういう判決文や解説を書いたこと自体を批評の対象とすることもまた有意義なことだ(つまり、判決の射程に対する批評はともかく)と思うから、Sotoku 9号では判決に関して高林論文の立場とは逆の解釈をしながらそれを批判した。 これはSotoku 9号を公開したときの最後にも書いたとおり、初めから高林先生のような立場は採りたくないから。 プロダクト・バイ・プロセス(PBP)クレームの最高裁判決のときのように、ほとんどの人が「あの最高裁判決はおかしい」と思っている状況であるのならいいかも知れないけれど、今回はそうではないのに判決の射程を狭く解釈して「当然のことを判示しただけ」などと論じても、同床異夢の促進にしかならない気がする。

でもまあね、逆に言えば、今回の判決はおかしいとみんなが納得するようになったあかつきには、高林論文のように、判決の射程を狭く解釈してこの判決を無効化することは必要になるかも知れないし、そういう意味では、今回の高林論文も「気が付けば高林説」という高林マジックの種をまいた論文だと捉えることも可能かも知れない。

*     *     *

Sotoku 9号を書いているときから私が期待しているのは、高林先生と設樂先生がこの問題で和解することだ。 もし「別に対立していない」というのなら、そのことを明らかにすることだ。 これまで見てきたとおり、今回の高林論文では、マキサカルシトール事件の最高裁判決や田中判解については、高林説に沿っているという論調で書かれており、エアーマッサージ機事件の判決でさえ高林説と整合性があるという論調で論じられているが、今回の最高裁判決の原審である大合議判決(平成27年(ネ)10014)や、大合議判決の際に裁判長を務めた設樂先生が書いた論文(設樂隆一,日本工業所有権法学会年報 38号,有斐閣 2015,251-271)に関しては、高林論文では詳しく論じられておらず、自説に沿うものだとも書かれていない。 まぁ、さすがにそれは書けなかったんだと思うが。。

田中判解では、出願時同効材の均等を一切認めない説(A説)と、それを否定する説(B説)という分類分けをして、A説に高林先生を分類したわけだが、元はといえば、こういう分類を行ったのは設樂先生だ(日本工業所有権法学会年報 38号 の 264ページ)。 そして大合議判決においてそれを否定した(ように見える)。 こうした経緯からは、高林先生と設樂先生は真っ向から対立しているようにも見える。 しかし高林先生自身も今回の論文で書いているとおり、高林先生はもとから出願時同効材の均等を一切認めないという立場ではないので、そもそもそこにボタンの掛け違いがあるように思う。

2014年の日本工業所有権法学会は「均等論,覚醒か死か」というテーマだったが、それを踏まえているのだろう、今回の論文で高林先生は「結局、本判決によって均等論は覚醒したということはできず」(27ページの3段目)と書いている。 これとは対照的に、設樂先生の方は退官後の講演で、当時の学会での出来事に関し、「均等論は死んだのかと訊かれたんで、『いや死んでない』と言ったんです。」みたいなことを言ってたの(笑)。 高林先生の方は「覚醒していない」と言い、設樂先生の方は「いや死んでない」と言う。 これを見ても二人の立場は正反対だ。 しかし考えてみれば、高林先生は「覚醒していない」と言っただけで「死んだ」とは言ってない(むしろ今回の論文の最後では「定着し続ける」と書いている)し、設樂先生も「死んでない」と言っただけで「覚醒だ」とは言ってない。 だから二人は合意できる余地はあるはずだし、それどころか、特許制度に関する二人の考え方は実は結構近いのではないかと私は思っている。

例えばPBPクレームの解釈に関しても、高林先生と設樂先生はほとんど同じと言っていいほど立場が一致していることは、昨年の4月11日の投稿「プロダクト・バイ・プロセス・クレームの均等論適用解釈論(設樂・高林・田村論文)」で書いた。 そして今回の均等論の問題にしても、Sotoku 9号の「12.」節で書いたとおり、大合議判決は「第5要件」の判断に関しては高林説を否定したようにみせつつ、「第1要件」の判断に関してはまさに高林説(融通性のある文言解釈)を採用したようなものだ。 だから出願時同効材の均等論の問題に関しても二人の考え方は実際にはかなり近いのではないか? しかし、少なくとも表向きはそうなっていないし、世間もそうは思っていない。 そこで、二人でこの問題について話し合うなりして、合意に達してもらって、「出願時同効材の均等論に関して、実は私たちはそう違わない考えですよ。」ということを世間が分かるように公表すればいいと思う。 そうすれば、なかなか面白いサプライズが起こせるし、学術的にもこの問題は前進できるだろう。

ということで、この問題に関して、いつの日か、そういうサプライズが起こることを期待しておこう。 ^^


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2018年06月22日

玉井克哉先生の「アレルギー性眼疾患治療薬事件」評釈 自治研究 94(6) 136-150 (2018)(平成29年(行ケ)10003)


この事件の特許「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」(特許3068858号)は、オロパタジン塩酸塩を有効成分とする抗アレルギー点眼剤「パタノール®点眼液」に対応すると思われる特許だ。 この特許に対して起こされた無効審判(無効2011-800018)において、特許庁の審判部は2回連続してこの特許は「進歩性あり」と判断したが、知財高裁は2回とも「進歩性なし」として特許庁の審決を取り消した。

特に、2回目の審判および訴訟で争点となったのは、この薬剤が有している、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出を阻害する活性(ヒト結膜肥満細胞の安定化効果)が、この発明の進歩性を認めるに足る「顕著な効果」だといえるのかという点である。 これについて裁判所は、「本件発明1の効果は,当業者において,・・・,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。」として審決を取り消すと共に、判決文の最後に付した付言の中で、今回の進歩性の争点については、当事者は、前回の審判・訴訟において主張・立証を行うことができたものであり、前回の判決の確定後にこれを争うことは訴訟経済に反し、判決の拘束力(行政事件訴訟法33条1項)の趣旨に照らして問題がある旨を指摘した(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;高部眞規子裁判長)。

今回の論文は、この判決が東大の行政判例研究会で検討対象となったことを受けて玉井先生がお書きになったもののようだ。 論文全体は論理立てて判決を批判するものとなっており、そのような論文はあまり出ないので貴重な論文かも知れない。

とは言うものの、この論文に書かれていること全部に賛成できるかというとそうでもないので、気になったところをいくつか取り上げてみたい。

*   *   *

1.容易に想到できるものでも、「顕著な効果」があれば一般に進歩性は認められるのか?

今回の玉井論文では、論文の最初の方で次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 140ページ]
発明について進歩性を基礎づけるには、当該発明の構成を当業者が容易に想到できなかったことか(構成非容易性)、実際に構成した場合に予測を超えた著しい効果を発揮したことか(効果顕著性)、いずれか一方があれば足りる

つまり、容易に想到できるものであっても、予測を超えた著しい効果(効果顕著性)があれば進歩性は肯定されるのだと論じられており、これを前提にして話が進んでいく。 確かに私も昔は、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということを前提にしたような投稿(2015年7月28日)をしていたこともあった(反省)。 しかし、Sotoku 6号を書いているころによく考えて、今では、進歩性は容易に到達できないものに認めるべきで、「顕著な効果」は進歩性を認めるための十分条件にはならないと考えているので、玉井論文のように、構成非容易性か効果顕著性の「いずれか一方があれば足りる」と明言されてしまうと、ちょっと引っかかってしまう。

この問題は、学説上も争いがないわけではない。 例えば北大の田村善之先生は、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるようなものについて、「・・・ 発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 私も田村先生と同意見だ(Sotoku 6 号, 111ページ)。

但し、そう思っている人はかなり少数派かも知れない。 玉井論文の140ページで 平成27年(行ケ)10054(H28.3.30判決;清水節裁判長)や 平成28年(行ケ)10005(H29.1.18;設樂隆一裁判長)が挙げられている通り、裁判所は「効果が顕著なら進歩性あり」といった一般論をときどき説示するし、中でも清水節先生(知財高裁前所長)などは講演でもそういう単純な図式で進歩性を解説している。 しかし、例えばある効果に関して、その効果の程度が調べられることになるのは時間の問題となっている場合は、その効果が評価されて、いくら予想外の高い効果であったからといって、田村先生が言うように「発見されるのも間近」だったのであり、それにより進歩性を認めるのはおかしいのではないか? 本件の場合も、それが当てはまり得る事例のような気もする。

また、今回は特許庁の審判合議体は進歩性を認める判断を行っているとはいえ、特許庁の現在の審査基準を見る限り、「顕著な効果」の取り扱いについては、先ほど挙げた2015年7月28日の投稿でも書いた通り、特許庁は一歩引いた感じになっており、「顕著な効果があれば、即、進歩性あり」ということではなくて、あくまで「総合考慮の中の一つの事情」という位置づけになっているように思う。

ということで、この問題については私は分が悪いかも知れないけれど、「顕著な効果」があれば進歩性は認められるということは、どのような場面でも成り立つ前提とまでは言えないのではないか、ということは指摘しておきたい。 今回の事案の効果が進歩性を認めるに値するものであるのかについては、後でもう少し詳しく考える。


2.既存の効果と同レベルに過ぎないものでも、実用レベルであれば「顕著な効果」とみなすべきなのか?

これも、玉井論文の最初の方で論じられているが、具体的には次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ]
 医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。 それは、三つの事情による。 第一に、生物としてのヒトの個体差があるために、投与される患者によって、効能に差異が生ずることである。 また第二に、予期されなかった副作用がしばしば既存医薬品に見つかることである。 さらに第三に、薬効以外の重要な性質についても、医薬品ごとに重大な相違がありうることである。 そうした事情があるために、既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである

これに続いて玉井論文では、既存薬と効果が同程度のものに特許を与えないと、一部の患者で既存薬が効かないことが後日わかった場合に、代替薬がないことになってしまうこと、既存薬で重大な副作用が後日生じた場合に代替薬がないことになってしまうこと、既存薬が保存性に欠けることが後日わかった場合に代替薬がないことになってしまうことなどが指摘され、そのような場合に備えて選択肢を揃えておくこと自体を技術的「進歩」だと考えるべきだからだと論じられている。

しかしこれもどうなのだろうか。 そういう話を言い出すと、どんなものでも特許にしてよい理由は見つけられるような気もする。 実際のところ、ある化合物が知られていたとして、これを薬にすればよいことは誰もが分かっているが、特許がないがためにどの製薬会社も薬を開発しようとしない場合、玉井論文の趣旨からすれば、代替薬を揃えること自体をサポートすべきだということになりそうだから、治験に手を挙げた製薬メーカーに特別に特許を与えるべきだということになりかねないのではないか。 確かに代替薬を幅広く揃えておくことのメリットはあるだろうが、結局のところ、この問題は特許制度における技術的問題というよりは、薬事行政において創薬をどうサポートしていくかという問題であって、特許制度において進歩性のレベルを調整して解決すべき問題というよりは、薬事制度において取り扱うべき問題のような気がする。

それに、安易に進歩性のレベルを下げれば、都合よく利用されてしまう心配もある。 例えば、自社の既存薬の組成をちょっとだけ変えた。 すると、安定性がわずかに向上した。 これに特許性を認めてしまうと、大して向上もしていない改良薬に対して次々と特許が取られ、改良薬への切り替えが図られることで、薬事制度上、古い薬の後発薬は出しにくくなってしまうかも知れない。 薬の選択肢をなるべく多くしておいた方がいいから、という理由で進歩性のレベルを下げることで、本当に総合的に妥当な結果となるのかは疑問が多いと思う。


3.効果の顕著性の主張を斥けてよい「本件に固有の特別な事情」は認められないのか?

本件の経緯をもう一度簡単に説明すると、本件は進歩性の有無が争われた事件であり、上述のとおり無効審判においていったんは「進歩性あり」という審決(前審決)がなされたが、審決取消訴訟(前訴;平成25年(行ケ)10058)において「進歩性なし」としてその審決が取り消された。 しかしその時点までは、この発明の「効果の程度」、すなわち効果が「顕著」であるか否かは明示的にはなんら主張も判断もされていなかった。 そして次の審決(本件審決)において、前訴と同一の発明(請求項1)に関して効果の程度が検討され、「効果が顕著」であることを理由に「進歩性あり」という審決がなされた。 つまり特許庁は、知財高裁が「進歩性なし」と判断した発明について、「効果が顕著である」ことをもって「進歩性あり」という審決を行ったことになる。

この審決の取消を争ったのが今回の訴訟(本件訴訟)であり、本件判決で裁判所は、効果の程度を判断した上で進歩性を否定して審決を取消した。 のみならず、判決文の一番最後で、「なお,本件審判の審理について付言する。」とした上で、以下のような説示を行った。(なお本件では審判が3回行われており、私や玉井論文が「前審決」と言っているものは、以下の判決文の「第2次審判」の審決に対応する。)

平成29(行ケ)10003 判決文PDF 35ページ]
 なお,本件審判の審理について付言する。
・・・。
 発明の容易想到性については,主引用発明に副引用発明を適用する動機付けや阻害要因の有無のほか,当該発明における予測し難い顕著な効果の有無等も考慮して判断されるべきものであり,当事者は,第2次審判及びその審決取消訴訟において,特定の引用例に基づく容易想到性を肯定する事実の主張立証も,・・・ ,行うことができたものである。 これを主張立証することなく前訴判決を確定させた後,再び開始された本件審判手続に至って,・・・,前訴と同一の引用例 ・・・ から,前訴と同一で訂正されていない本件発明1を,当業者が容易に発明することができなかったとの主張立証を許すことは,特許庁と裁判所の間で事件が際限なく往復することになりかねず,訴訟経済に反するもので,行政事件訴訟法33条1項の規定の趣旨に照らし,問題があったといわざるを得ない。

これについて玉井論文では次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 142ページ]
 まず、前提として確認しておくべきことは、前審決においても前訴においても、判断の対象となったのは専ら構成非容易性であって、効果顕著性はまったく判断されていなかった、ということである。 ・・・ 前審決は、・・・ 遊離抑制作用を有するヒト用の点眼薬を想到するのは容易ではない(構成非容易)だとし、前訴判決は、・・・ 効果を確認するのは当然だから構成が容易だとしたものである。 ・・・。
 ・・・。 ・・・、前訴確定判決の拘束力は、効果顕著性については生じない。
 ・・・。
 ・・・ 前審決以降の具体的な経緯に照らしてみても、効果顕著性についての攻防を前訴で当事者が尽くしておくべきだったとするような、特別な事情は見当たらない。 前訴は、専ら構成非容易性のみを判断対象とした前審決の取消しを原告が訴求したものだったから、構成が容易で前審決が誤りだとの判断だけで審決の取消しには十分であって、それを超えて、効果顕著性について判断する必要はなかった。・・・。
 このように考えると、本判決は、本件に固有な特別の事情があったから被告特許権者が構成非容易性と効果顕著性の両方について前訴から主張立証を遂げておくべきだったというのではなく、無効審判請求を受けた特許権者は、一般にその両方を主張し、判断を得ておくべきである、との立場だと見るべきである。 ・・・。 即ち、本判決は、・・・、構成非容易性と効果顕著性を常に、、同時に主張しておくべきだという立場を採っているわけである。

玉井論文が指摘している通り、前訴判決では「効果の顕著性」については判断されていない。今になってから判決文を見ると、前訴判決(平成25年(行ケ)10058;富田善範裁判長)は慎重に言葉を選んでいるようにも見える。 例えば本件発明の化合物(KW-4679)が本件効果(肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)を持つことが容易であるか否かという説示において、前訴判決では次のように説示されている。

[前訴(平成25年(行ケ)10058)判決文より]
(PDF 89ページ)
・・・当業者は、甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる。

(同89ページ)
この記載は,・・・,・・・薬理作用の一つとして肥満細胞からのヒスタミンなどの ・・・ 遊離抑制作用があることの仮説を述べるものであり,その仮説を検証するために,化合物Aについて肥満細胞からのヒスタミンなどの遊離抑制作用があるかどうかを確認する動機付けとなるものといえる。

(同89ページ)
・・・,甲1及び甲4に接した当業者においては,・・・,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けがあるものと認められる。

このように前訴の裁判所の説示では、一貫して「遊離抑制作用を有するかどうかを確認する」という言い方が用いられており、「遊離抑制作用を確認する」というような一般化した表現は一度も用いられていない。 つまり裁判所は、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用の「有無」を確認することは容易であると説示しているだけで、「作用の程度を確認することまでを含めて容易である」と受け取られるような説示はあえて避けているようにも感じられる。 この判決を見た特許権者や審判合議体が、「作用の顕著性」に基づく進歩性については、別途争う余地はあると感じたとしても無理はないかも知れない。

そして一般論としても、特許の無効を主張する無効審判請求人側が、無効審判において「発明の構成」が容易であることしか主張していないのであれば、特許権者はそれを否定する主張を行なえば足りるはずで、主張されていない事項(「効果が顕著とは言えないから無効」という主張)までも想定し、それについて否定する主張・立証を行わなければならないというのは一見しておかしい。

したがって、「構成が容易ではない」という主張と、「効果が顕著である」という主張を常に同時に行うことを強制するかのような今回の裁判所の付言を玉井論文が批判しているのはもっともでしょうね。 少なくとも一般論としては。。

そして、これについても玉井論文は釘を刺している。 上でも引用したが、強調を入れて再掲すれば以下の通り。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) ]
(144ページ)
・・・、前審決以降の具体的な経緯に照らしてみても、効果顕著性についての攻防を前訴で当事者が尽くしておくべきだったとするような、特別な事情は見当たらない

(同)
・・・、本判決は、本件に固有な特別の事情があったから被告特許権者が構成非容易性と効果顕著性の両方について前訴から主張立証を遂げておくべきだったというのではなく、無効審判請求を受けた特許権者は、一般にその両方を主張し、判断を得ておくべきである、との立場だと見るべきである。

つまり今回の裁判所の説示が、本件の固有の経緯によって許容できるような事情は見当たらないので、一般論としての批判は本件にも妥当するのだと指摘している。 これについても玉井論文を否定することはできないかも知れないけれど、それで終わりにしてしまうと裁判所がちょっと気の毒な気もするので、今回の判決や審決を読んで私が気がついた個別事情を以下に挙げておきたい。


3−1.拘束力に関する裁判所の説示は「付言」に過ぎない

まず強調しておきたいのは、本件発明の効果の「顕著性」について、今回の判決で裁判所は検討しているということ。 つまり今回の判決は、「効果の顕著性も前訴で主張立証しておくべきだった」と説示して門前払いしたわけではない。 本件発明の効果が進歩性を認めるに足る顕著なものであるかを検討した上で、それを否定したのだ。 「主張立証することができた」という説示は、判決の最後で「付言」として述べただけだ。

効果の顕著性を検討した上でそれを否定したという判断が、判決文の構成の中に、主文の結論を導くために必要な理由付けとして存在しており、「前訴で主張立証することができた」という説示は、主文の結論を導くためには必要のない単なる付言に過ぎないことからすれば、裁判所は、今回の判決で「効果の顕著性も最初の訴訟で主張しておかなければならない」という一般的な規範をこの判決で打ち立てようとしているとまでは解せないと思う。

玉井論文はこの付言を取り上げて批判し、「先例的価値のある形で早期に是正することが好ましい。」、「本件について、上告審の適切な判断が期待される次第である。」(150ページ)としているけれど、ちょっと大げさな気もする。。 まあ、どこまで本気なのかは分からないけれど。


3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない

上述の通り、今回の判決では本件発明の効果の顕著性についても判断されているが、具体的には以下の通りだ。

本件発明の効果の顕著性を示す重要なデータとなるのが本件明細書に掲載されている「表1」で、そこでは本件発明の化合物に相当する「化合物A」が、ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミン(炎症性メディエーター)の放出を用量依存的に抑制することが示されている。

[本件特許明細書(特許3068858号)より(赤字は追加したもの)]
JPB_0003068858t1c2.png

確かにこの表を見ると、既存薬(クロモリンやネドクロミル)に比べて本件発明の化合物(化合物A)だけが突出して高い効果(「92.6」とか、「66.7」とか)を発揮しているように見える。しかしこの表を見て感じる違和感は、本件発明の化合物(化合物A)以外の化合物の数値が低すぎるということ。 クロモリンは、阻害の値がマイナスになっていたりしている。 つまり、クロモリンは全く効果を発揮していない。 しかし、クロモリン等は抗アレルギー薬として使用されている薬である以上、抗アレルギー薬としての薬効がまったくないはずはないから、この表は、クロモリンやネドクロミルでは効果が現れない作用を調べていると解されるものだ。 つまりこの表は、実験に使用した細胞に対してヒスタミン放出を抑制するという作用機序で目に見える効果を発揮するのは、表の中で用いられている化合物の中では「化合物A」だけであることを示しているに過ぎず、クロモリンやネドクロミルの抗アレルギー薬としての薬効の顕著性が「化合物A」よりも劣ることを示しているわけではない。 クロモリンやネドクロミルは、そもそも別の細胞または別の作用機序で作用していることが推定される以上、ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミンの放出抑制という効果の「顕著性」を判断するための比較対象として、これらの既存薬がふさわしいとは言えないだろう。 ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミンの放出抑制という作用機序を持つであろう薬が今回初めて発見されたというのならともかく、そういう作用機序で作用すると考えられていた既存薬(例えばケトチフェンなど)は知られていたのだろうから、効果の「顕著性」を示したいというのであれば、そういう既存薬と比較しなければ、本件発明の化合物の効果が「顕著」なのか否かは判断できないのではないか。

そして、ヒスタミンの放出抑制という作用を発揮する既存薬と比べて本件発明の化合物(化合物A)がどうなのかという点について、今回の判決では以下のように判断されている。

平成29(行ケ)10003 判決文PDF 30-31ページ]
 また,・・・,化合物Aがヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかということについて,・・・,甲20等には,本件特許の優先日前にスギ花粉症患者11例ないし30例に対して,化合物A以外の化合物について,抗原による眼誘発試験(スギ抗原液を点眼することによるアレルギー反応誘発試験)を行い,点眼液の点眼後5分後及び10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率を測定した結果,@ 0.0003%塩酸プロカテロール点眼液では,誘発5分後で平均79.0%及び誘発10分後で平均82.5%,同0.001%点眼液では,誘発5分後で平均81.6%及び誘発10分後で89.5%,同0.003%点眼液では,誘発5分後で平均81.7%及び誘発10分後で90.7%を(甲20),A 0.05%ケトチフェン点眼液では,誘発5分後で平均67.5%及び誘発10分後で平均67.2%を(甲32),B 2%クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%を(甲34),C 0.25%ペミロラストカリウム点眼液では,誘発5分後で平均71.8%及び誘発10分後で平均61.3%,同0.1%点眼液では,誘発5分後で平均69.6%及び誘発10分後で平均69.0%を(甲37),それぞれ記録した旨が開示されている。
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。・・・。
 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。

このように、ヒトへの点眼投与においてヒスタミンの放出を抑えるという効果を奏する既存薬は存在していたことが分かり、そうした既存薬と比べて本件発明の化合物が突出して高い効果を発揮することが本件明細書に示されている事項から客観的に把握できるというわけでもない。

なおこの点について玉井論文では、「紙幅の関係で詳論することを得ないが、本判決が、ごくわずかな被験者への投与例から本件特許発明と同程度の効果を認定したことも、統計学的に支持できない認定手法である」(142ページの割注)とされている。 玉井論文はそれ以上の理由を述べていないので、具体的にどう不適切だと思っているのかは詳しくは分からないが、判決文の中で特許権者側が主張している通り、本件明細書の表1の実験は眼組織から単離した結膜肥満細胞を使ったインビトロ実験であるのに対し、裁判所が言及している甲20等の実験はヒト患者におけるインビボの実験であるから、そもそも両者の数値を単純には比較できないのは確かで、また、本件明細書の表1によれば有意なヒスタミン遊離抑制作用を示していないクロモリン(別名 クロモグリク酸)が、甲34のインビボ実験では、上記の判決文中の引用の通り、最大73.8%の抑制を示したとされているから、益々単純には比較できないことが示唆される。 仮に両方の実験が正しいのであれば、インビトロの実験(表1)からは、実際のヒト患者に投与した場合の効果(インビボの効果)は予測できないということになるだろう。

ちなみに、この点について本件審決(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)で審判合議体は、「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」などと説示し、非常に厳しいスクリーニングをパスして見出された本件発明の化合物はすばらしい、ということを匂わせているが、「余地がある」という表現を使っているとはいえ、特許権者側に一方的に有利な解釈を示唆するものだ。 公平に見れば、本件明細書の「表1」からも、上記の甲20等の記載からも、本件発明の化合物のヒスタミン遊離抑制作用が予測を超えて「顕著」であるか否かは判断はつかないというべきだろう。

おそらく、玉井論文でもそこは意識していたからこそ、上の「2.」で指摘したとおり、論文の最初で、既存の効果と同レベルに過ぎないものでも実用レベルであれば「顕著な効果」とみなすべきだという前提を置いたのだろうね。 でもその前提については、「2.」で書いた通り、私は全面的には賛成はできない。

なお、本件発明の薬剤を製品化した「パタノール®点眼液0.1%」 の承認審査の際に作成された医薬品医療機器総合機構(PMDA)の審査報告書(判決文の甲26)には、以下のように記載されている。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 抗ヒトIgE抗体によるヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン・・・遊離に及ぼす影響が検討された。 本薬はヒスタミン・・・遊離を濃度依存的に阻害し、IC50は・・・559±277μM・・・であった。 ・・・。 なお対照薬として用いたケトチフェンは濃度依存的にヒスタミン遊離を抑制し、IC50は22.9μMであった・・・。

この記載からすると、既存薬であるケトチフェンは、本件発明の化合物の1/24の濃度で同等の「ヒスタミン遊離抑制効果」を発揮することになる。


3−3.前訴では「構成非容易性」のみが判断されたという言い方は誤解を招きやすいのではないか

さて、玉井論文は、上述の通り「前審決においても前訴においても、判断の対象となったのは専ら構成非容易性であって、効果顕著性はまったく判断されていなかった」(142ページ)と指摘している。 確かにその通りだが、この「構成非容易性」という言い方は、本件においては誤解を招きやすいと思う。「構成非容易性」しか判断されていないという指摘を見ると、前審決や前訴では「医薬品の物質としての非容易性」のみが判断されたように感じてしまうが、本件の場合はそうではないからだ。 本件の無効審判が請求された際、本件特許のクレーム1は以下のようになっていた。

【請求項1】アレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な眼科用組成物であって、治療的有効量の11−(3−ジメチルアミノプロピリデン)−6,11−ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン−2−酢酸またはその薬学的に受容可能な塩を含有する、組成物。

すなわち、本件特許発明は当初、「アレルギー性眼疾患を処置するための」という用途で限定された組成物の発明だった。 これが、前審判における訂正請求によって以下の発明に訂正された。

【請求項1】ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、治療的有効量の11−(3−ジメチルアミノプロピリデン)−6,11−ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン−2−酢酸またはその薬学的に受容可能な塩を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤

つまり、「アレルギー性眼疾患を処置するための」という用途で限定された組成物の発明だったものが、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途でさらに限定された「剤」の発明に変わったわけだ。 「・・・剤。」という表現は典型的な用途発明の表現であって、「ヒト結膜肥満細胞を安定化させる」という効果を発揮させる用途に限定された発明だ。 そして前訴では、この訂正請求によって特定された「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途を検討した上で、これを容易だと判断したのだから、「ヒト結膜肥満細胞を安定化させる」という効果にまさにスポットが当たった上で、その効果(があること)は容易だと判断されたことになる。

つまり、玉井論文は「構成非容易性」が判断されただけだというが、実際には、「効果の非容易性」も判断されているわけだ。 もちろん、訂正後のクレームは「肥満細胞安定化」という効果が発明特定事項としてクレームの構成に組み込まれている発明だから、「その効果までを含めた構成」の非容易性のみが判断されたという言い方は正しいが、「肥満細胞安定化」という効果について前訴で検討され、その効果(があること)は容易だと判断されているわけだから、「構成非容易性」のみが判断されたというよりは、「効果の存在の非容易性」も判断されたという方が、前訴で判断されたことの実態に合っていると思う。 したがって本件に則して今回の判決の「付言」を考えるとすれば、それは、『「効果の存在の非容易性」のみが明示的に判断されて進歩性が否定された後で、同じ効果の「顕著性」に基づいて進歩性を争うことができるのか』という問題だと考えることができるだろう。


3−4.効果の「顕著性」を表している本件明細書の「表1」は前訴で既に提示されている

上記の「3−2.」で説明した通り、本件発明の効果の顕著性を示す鍵となるのが本件明細書の「表1」だが、この「表1」は、前訴判決で既に取り上げられている。 具体的には、前訴において裁判所は以下のように説示している。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文より]
(PDF 35ページ)
 イ 訂正明細書(甲171)の【発明の詳細な説明】には,次のような記載がある(下記記載中に引用する「表1」ないし「表3」は別紙1を参照)。

(PDF 42ページ)
 (ク)「表1が明らかに示すように,抗アレルギー薬であるクロモグリク酸二ナトリウムおよびネドクロミルは,ヒト結膜肥満細胞脱顆粒を有意に阻害することができなかった。 対照的に,化合物A(シス異性体)は,肥満細胞脱顆粒の濃度依存的な阻害を引き起こした。」(8頁)

(PDF 別紙1)(判決文の最後に添付されているもの)
平成25(行ケ)10058_bessi1.png

このように、前訴において裁判所はこの「表1」を見た上で、既存薬(クロモリンやネドクロミル)とは対照的に、本件発明の化合物(化合物A)は肥満細胞からのヒスタミン放出の濃度依存的な阻害を引き起こしたことを認定している。 クロモリンやネドクロミルとは「対照的」であること、そして「用量依存性」があることを認定しているわけだから、裁判所は、「表1」中の「化合物A」の数値を他の既存薬の数値と見比べていることは明らかだろう。 そうすると、事実上、効果の顕著性を表している表1の「化合物A」の数値は裁判所によって見られているわけだ。 それでもなお前訴では、「程度」は判断していなかったと言えるのだろうか?

本件訴訟において特許権者は、「表1」を持ち出して本件発明の効果の「顕著性」を主張したわけだが、そのとき裁判所はおそらく、「その表は、前訴の判決文に添付したやつじゃん」と思ったことだろう。


3−5.前訴判決を“逆なで”するかのような本件審決の説示

既に述べた通り、本件判決は、本件審判(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)の審決取消訴訟だが、この審判は前訴判決の確定後に再開されたものだから、前訴判決の拘束力が及ぶ。 それは本件審判でも十分に意識されていて、審決では以下のように説示されている。

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
(2)拘束力
 特許無効審判事件についての審決取消訴訟において、審決取消しの判決が確定した場合、審判官は特許法第181条第5項の規定に従い、当該審判事件について更に審理、審決をするが、審決取消訴訟は行政事件訴訟法の適用を受ける。よって、再度の審理、審決には、行政事件訴訟法第33条第1項の規定により、前審決を取消した判決の拘束力が及び、この拘束力は、判決主文が導き出せるのに必要な事実認定及び法律判断にわたるものである。
 当該拘束力について検討すると、前審決を取消した判決で判示された、本件特許の優先日当時の技術常識の認定(上記(1−1))、及び、甲1及び甲4に接した当業者は、甲1記載のアレルギー結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤を「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたとする判断(上記(1−2))については、 前審決を取消した判決の拘束力が生ずるものというべきである。

ちなみに前訴判決では、以下のように説示されていた。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文]
(PDF 88ページ)
(イ) そして,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われていたことは,前期(3)イ(ア)認定のとおりであるから,当業者は,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる。

(PDF 91ページ)
 以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,KW-4679についてヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。
 したがって,本件訂正発明1及び2における「ヒト結膜肥満細胞安定化」という発明特定事項は,甲1及び甲4に記載のものからは動機付けられたものとはいえないとして,甲1を主引例とする進歩性欠如の原告主張の無効理由2は理由がないとした本件審決の判断は,誤りである。

つまり前訴判決では、「ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認するのは当然だ」と言っているわけだ。これに対して本件審決は、上に引用したとおり、この判決の拘束力が及ぶのは『・・・、甲1及び甲4に接した当業者は、甲1記載のアレルギー結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤を「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたとする判断』だと解した。 そして、本件審判において無効審判請求人が、甲1と甲4に基づいて進歩性を否定する主張を行ったことに対しては、審決は次のように説示した。

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
(2−3−4)本件訂正発明1による効果の顕著性

 上記「(2−3−2)」で指摘したように、当業者は、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)及び甲4の記載を根拠として、化合物Aによる「ヒト結膜肥満細胞」に対する安定化効果(ヒスタミン放出阻害率)の程度を具体的に予測することはできない。
 本件訂正明細書の表1(摘記(iii))には、化合物Aによる「ヒト結膜肥満細胞」に対するヒスタミン放出阻害率は、2000μMという高用量(高濃度)に至るまで用量依存的に上昇し、ヒスタミン放出阻害率の最大値(2000μMで92.6%)は、対照薬物であるクロモリンナトリウムやネドクロミルナトリウムによる最大値(それぞれ10.6%、28.2%)と比較して著しく高い値であることが示されている
 甲1にはKW-4679(化合物AのZ体の塩酸塩)がモルモットの結膜肥満細胞を安定化する作用を有しないことが記載されているにもかかわらず、化合物Aが「ヒト結膜肥満細胞」に対してこのように非常に高いヒスタミン放出阻害率を有することは、当業者が予測し得ない格別顕著な効果であるといえる。
 ・・・。
 そうすると、甲39で示された「AL-4943A(化合物Aのシス異性体)は、最大値のヒスタミン放出阻害率を奏する濃度の範囲が非常に広い」という実験結果は、本件訂正明細書に記載の、化合物Aが「医薬品としての高い有用性」を有することに整合しており、しかも、当業者が予測し得ない格別顕著な効果であるといえる。
 以上のように、化合物Aは「ヒト結膜肥満細胞」に対して優れた安定化効果(高いヒスタミン放出阻害率)を有すること、また、AL-4943A(化合物Aのシス異性体)は最大値のヒスタミン放出阻害率を奏する濃度の範囲が非常に広いことは、いずれも甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識から当業者が予測し得ない格別顕著な効果であり、進歩性を判断するにあたり、甲1発明と比較した有利な効果として参酌すべきものである。
・・・。
 したがって、本件訂正発明1及び2はいずれも、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識からみて当業者が容易に発明できたものとはいえないのであるから、請求人が主張する無効理由2(甲1を主引例とする進歩性)は、理由がない。

上記の説示にも私は異論はある。 「3−2.」で説明した通り、「表1」には、この実験系において有意な「ヒスタミン遊離抑制作用」が見られない既存薬(クロモリン等)との比較しか示されておらず、その効果を持つであろうケトチフェンなどの既存薬との比較は示されていないのだから、この表1の結果をもって本件審決が「著しく高い値であることが示されている」などと評するのは少し白々しくみえる。 また、本件審決が「甲1にはKW-4679(・・・)がモルモットの結膜肥満細胞を安定化する作用を有しないことが記載されているにもかかわらず」と評し、KW-4679(本件発明の化合物)に「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」があることがさも予想外であるかのように認定している点については、前訴(平成25年(行ケ)10058の判決文 PDF90ページ)において裁判所が「・・・,甲1に,モルモットの動物結膜炎モデルにおける実験においてKW-4679がヒスタミン遊離抑制作用を有さなかったことが記載されていることは,KW-4679がヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けを否定する事由にはならない」と説示していることに加え、前訴判決文(PDF 50ページ)に甲1の記載が長文で引用されている通り、実際のところ甲1には「・・・結膜からのヒスタミン遊離に対する各薬物の効果を検討したところ,・・・. ・・・ ketotifenおよびKW-4679は無効であった.」 と記載されており、ヒト肥満細胞に対する「ヒスタミン遊離抑制作用」を有することが知られているケトチフェンにさえ、モルモットの細胞では「ヒスタミン遊離抑制作用」が検出できなかったことが記載されているのだから、甲1のこの記載を見た当業者は、甲1の実験は、あるはずの「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」が検出できない実験系あるいは実験条件で実験が行われていると理解するはずで、この結果をもって、KW-4679には「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」がないと予測することはないように思われる。

しかし、それにも増して問題だと思うのは、無効審判請求人が甲3と甲4に基づいて進歩性を否定する主張を行ったことに対して審決が行った以下の説示だ。(なお甲3には本件発明の化合物 (オロパタジン) を概念的に包含する化合物を抗アレルギー用途で眼科用に使用することが記載されており、甲4には本件発明の化合物 (オロパタジン) に高い抗炎症作用があることが記載されている。)

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
ウ.相違点2について
 請求人は、「甲4に接した当業者であれば、オロパタジンがヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する効果を有することを期待」する旨を主張するが、上記「2.無効理由2」の「(2−3−2)甲1及び甲4に記載の、化合物Aによる効果」で指摘したように、甲4の記載に接した当業者が、甲4の「化合物番号20」の化合物(本件訂正発明1の化合物)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、甲4の記載を根拠として、甲3発明を相違点2の「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない
 なお、上記「2.無効理由2」の「(2−3−2)甲1及び甲4に記載の、化合物Aによる効果」で指摘したように、甲1の記載に接した当業者が、甲1のKW-4679(本件訂正発明1の化合物のZ体、甲2の1及び甲2の2を参酌)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、 甲1の記載を根拠として、甲3発明を相違点2の「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない
 仮に、甲4及び甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)の記載を参酌して、甲3のマーカッシュ形式の式(I)で示される化合物あるいはそれらの塩の中から、化合物Aを選択して用いて「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という用途に適用するに至る動機付けが否定されないとしても、上記「第2 無効理由2(甲1を主引例とする進歩性について)」で検討したように、本件訂正発明1及び2により奏される効果は、甲3、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識から当業者が予測できない格別顕著な効果であって、進歩性を判断するにあたり、甲3発明と比較した有利な効果として参酌すべきものである。

問題は上の引用の前半部分だ。 審決は、『(本件訂正発明1の化合物)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、・・・、「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない』、『甲1のKW-4679(本件訂正発明1の化合物のZ体、・・・)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、甲1の記載を根拠として、・・・「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない。』と説示した。 つまり審決は、甲1のKW-4679(本件発明の化合物)がヒト結膜肥満細胞の安定化作用(ヒスタミン遊離抑制作用)を有すると予測することはできないのであるから、効果の顕著性を考慮するまでもなく、「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という発明は容易想到ではないと説示したのだ。 前訴判決では、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けはあったと説示されていたにもかかわらずだ。

つまりこの審決は、前訴判決の拘束力は、甲1と甲4に基づく容易想到性の判断にしか及ばないと解し、甲3と甲4に基づく判断においては、本件発明の化合物に本件効果(ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)が存在することだけをもって、効果の顕著性を考慮するまでもなく進歩性を肯定したことになる。 こんな理屈は成り立つのだろうか?

前訴判決がどう判示していたのか改めて見てみる。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文]
(PDF 88ページ)
そして,前期(3)イ(イ)認定のとおり、本件特許の優先日当時,アレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,ヒトのアレルギー性結膜炎に類似するモデルとしてラット,モルモットの動物結膜炎モデルが作製され,点眼効果等の薬剤の効果判定に用いられていたこと,本件特許の優先日当時販売されていたヒトにおける抗アレルギー点眼剤の添付文書(「薬効・薬理」欄)には,各有効成分がラット,モルモットの動物結膜炎モデルにおいて結膜炎抑制作用を示したことや,ラットの腹腔肥満細胞等からのヒスタミン等の化学伝達物質の遊離抑制作用を示したことが記載されていたことからすると,甲1に接した当業者は,甲1には,KW-4679が「ヒト」の結膜肥満細胞に対してどのように作用するかについての記載はないものの,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあるものと認められる。

(PDF 90-91ページ)
しかしながら,上記のとおり,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われており,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,当業者は,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえること,さらには前記(3)ウ(ア)認定のとおり,本件特許の優先日当時,薬剤による肥満細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用は,肥満細胞の種又は組織が異なれば異なる場合があり,ある動物種のある組織の肥満細胞の実験結果から他の動物種の他の組織における肥満細胞の実験結果を必ずしも予測することができないというのが技術常識であったことに鑑みると,甲1に,モルモットの動物結膜炎モデルにおける実験においてKW-4679がヒスタミン遊離抑制作用を有さなかったことが記載されていることは,KW-4679がヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けを否定する事由にはならないものと認められる。

(PDF 92ページ)
しかしながら、前記ア(イ)認定のとおり,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われており,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,当業者は,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる ・・・

上の引用で裁判所が「前記(3)」と言っているのは、判決文の「第4 当裁判所の判断」の「(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について」(判決文PDF 58〜87ページ)の判示、つまり「技術常識の認定」に関する判示を指している。 すなわち、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けはあったという前訴判決の裁判所の説示は「当時の技術常識」に基づく認定なのであり、さらに裁判所は、モルモットではヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったことが「甲1」に記載されているとしても、ヒト細胞において確認することの動機付けを否定するものではないと説示したものだ。 裁判所による「当時の技術常識」の判断は、判決の結論を導くために必要な認定判断であるから、判決の拘束力を有すると考えられるところ、引例が「甲1と甲4」の組み合わせから「甲3と甲4」の組み合わせに変わることにより、「甲3」に阻害要因が記載されているなどの特段の事情が認められるのならともかく、そうでないのに前訴判決の「当時の技術常識」の判断をないがしろにした審理・審決を行うことは、判決の拘束力に反するものと言えるだろう。

しかも、「顕著な効果」を考慮しない場合の本件発明(つまり「ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制」という効果が「ある」ということだけを考慮し、その「程度」は考慮せずに認定した本件発明)に進歩性がないことは、「甲1と甲4」に基づく判断によって前訴判決で既に確定している。

ちなみに、進歩性がないことが確定した発明について、再開された審判が再度、別の引例を用いて進歩性を審理することについて、知財高裁は以下のように説示したことがある。

平成17(行ケ)10857「工具保持具」平成19年5月30日判決;飯村敏明裁判長]
ところで,本件についてこれを見ると,・・・ 無効審判請求に対して「本件審判の請求は成り立たない」との判断をした第1次審決について,前判決は,・・・ 当業者が容易に想到できないとした第1次審決の判断には誤りがある(容易に想到することができる)と判示して,同審決を取り消した。 そうすると,本件においては,再度審理を開始した審判手続において,前判決の拘束力に従った判断をすることにより,迅速な解決を図ることができたはずであり,当事者に対しても,前判決の拘束力から離れた主張,立証をすることを禁じる指揮をすることもできたはずである。 しかるに,再度の審判手続及び審決においては,拘束力の生じた前判決が基礎とした本件発明と引用例との対比とは,全く異なる引用例に基づいた対比についての審理を実施し,これに基づく判断をすることとなった。 このような審判及び審決のあり方は,行政事件訴訟法33条1項が設けられた趣旨に反するものであり,速やかな紛争解決を妨げるものであるといえよう

そして玉井先生ご自身、これについて以下のように評している。

[玉井克哉 パテント Vol.62(5) 73-95 (2009) の87ページ左欄]
・・・,無効事由というのは一つでもあれば特許が無効になるのですから,取消判決の拘束力で確定したはずの無効事由以外に無効事由があるかどうかを審理するというのは,たしかにまったく無駄です

そうすると、今回の本件審決は、(1)特段の事情もないのに前訴判決の「当時の技術常識」の認定をないがしろにした審理を行ったこと、および、(2)前訴で進歩性がないと判断された発明(効果の顕著性を考慮しない発明)について進歩性の有無を再度審理したこと、という二重の意味で、判決の拘束力に関する規定の趣旨に反していると考えることができるのではないか。 上の「工具保持具」事件とは違い、今回の審決の判断は「顕著な効果」を認めて進歩性を肯定する前座としての判断だから、(2)については責めることはできないかも知れないが、(1)については責めるべき理由はあるように思う。

この審決を見て、知財高裁が怒ったとしても無理はないと私は思うし、今回の判決において、この審決に対して何らかの苦言を述べようと裁判所が思ったとしても当然だと思う。

だから本来であれば裁判所は、審決のこの部分に対して苦言を述べればよかったと思う。 すなわち、同じ化合物(本件発明の化合物)の同じ効果(ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)であって、甲3に阻害要因が記載されているわけでもないのに、甲3と甲4に基づく判断においては、効果の顕著性を考慮するまでもなく進歩性があると本件審決が判断したことに対し、前訴判決における技術常識の判断を無視するものであり問題だとでも指摘すればよかった。 しかし、まあ、実際には裁判所は判決文にある通りの付言を行い、玉井先生の批判を受けることになってしまった。

*   *   *

以上の通り、今回の玉井論文では「本件に固有な特別の事情」はない旨が指摘されているので、「本件に固有な特別の事情」について思ったことを書いてみた。 確かに一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思うので、玉井論文のその部分はもっともでしょうね。。 それでも私は、本件における上記の事情を考えると、効果の「有無」と「顕著性」は、どんな事案でも常に同時に主張立証しなければならないと高部コートが本気で考えてあのような「付言」を行ったというよりは、もう少し違った見方をする方がよいのではないかと思うので、今回の判決の「付言」に関しては、「審決に頭にきて筆がすべった説」を唱えておきます(笑)。

ちなみに、この審決を行った特許庁の審判合議体で審判長を務めた審判官は、私が2016年5月10日の投稿で話題にした「オキサリプラチン事件」(特許4430229)の無効審判(無効2014-800121)でも審判長を務めており、特許を維持する審決を行っている(詳しくは2016年5月10日の投稿の「・・・信じがたい解釈を説示した」という部分を参照)。

*   *   *

4.本件発明の化合物の「ヒスタミン遊離抑制作用」は治療的に高い意義はあるのか

本件発明の化合物において見出された「ヒスタミン遊離抑制作用」が、実際のアレルギー性眼疾患の治療効果に果たしてどの程度貢献するものなのかについては、判決文を見る限り、本件訴訟においては特に争われていないようだ。 しかし本件審判(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)では争点となっている。 その中で無効審判請求人が証拠として提示したのが、上でも取り上げたPMDAの審査報告書だ。

今回の判決文(判決文PDF 24ページ)だけを読んでいると、抗アレルギー薬には、「ヒスタミン拮抗作用」によって薬効を発揮するものと、「ヒスタミン遊離抑制作用」によって薬効を発揮するものがあり、本件発明の化合物には後者の作用、すなわち優れた「ヒスタミン遊離抑制作用」があり、その作用によって抗アレルギー薬としての本薬の薬効が発揮されるかのような印象を受けるかも知れない。 しかし実際には、本件発明の化合物には非常に強い「ヒスタミン拮抗作用」がある。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 本薬のヒスタミン受容体サブタイプに対する選択性を・・・ヒスタミンH1、H2及びH3受容体に対する・・・選択的リガンド・・・との競合効果により検討された。 本薬のH1受容体に対するKi値は41.1±6.0 nMであり、H2及びH3受容体に対するKi値はそれぞれ43.4±6.3μM及び17.2±0.7μMであった。 ・・・。
 選択的リガンドの結合を50%以上阻害した場合を対象とした受容体へ結合活性を有する基準とした場合、本薬(10-9、10-7及び10-5 M)は・・・ 10-7 MによりH1受容体・・・に結合活性が認められた。 ・・・。 また、本薬の代謝物であるN-オキシド体の10-5 MはH1受容体に結合活性を示し、N-デスメチル体は10-7 MでH1受容体、・・・に結合活性が認められた。
 以上より、本薬及び本薬の代謝物はH1受容体に選択的に結合することが示された。 ・・・。

すなわち、本件発明の化合物は、ヒスタミン H1受容体に数十〜100nMという低濃度でリガンドと拮抗的に結合し、「ヒスタミン拮抗作用」を発揮することが示されている。 これに対して、本件の進歩性で問題になっている「ヒスタミン遊離抑制作用」について、PMDAの報告書では、先にも引用した通り、以下のように記載されている。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 抗ヒトIgE抗体によるヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン・・・遊離に及ぼす影響が検討された。 本薬はヒスタミン・・・遊離を濃度依存的に阻害し、IC50は・・・559±277μM・・・であった。 ・・・。 なお対照薬として用いたケトチフェンは濃度依存的にヒスタミン遊離を抑制し、IC50は22.9μMであった・・・。 また、本薬の主な代謝物であるN-オキシド体は濃度依存的にヒスタミン遊離量を抑制し、IC50は3.07 mMであった。
・・・。
 以上より、本薬は in vitro においてヒスタミンに対する拮抗作用を示し、その約1万倍の高濃度を要するが肥満細胞からのヒスタミンを含む生理活性物質の遊離を抑制することが示された。

つまり、本件発明の化合物は、確かに「ヒスタミン遊離抑制作用」を有してはいるものの、「ヒスタミン拮抗作用」に関しては数十〜100nMという低濃度で作用を発揮するのに対し、「ヒスタミン遊離抑制作用」は、その約1万倍の高濃度である数百μM レベルで投与しなければ作用を発揮できないことが記載されている。

そしてPMDAの報告書は以下のように記載している。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 12-13ページ]
 機構は、本薬の薬理試験における薬効発現濃度と臨床濃度との関係について説明するように求め、申請者は以下のように回答した。
 白色ウサギに本薬0.15%を単回点限した結果(・・・)、主な作用組織である角膜及び結膜ではいずれも最初の測定時点である点限30分後に最大濃度を示し、それぞれ1.85及び0.40μg/gであった。それらはin vitro試験における4.94及び1.06μM に相当し、ヒト結膜肥満細胞からヒスタミン遊離を抑制する濃度に達していなかった。 更に、臨床使用製剤は0.1%溶液であり、臨床では1日4回点限されるが各々の組織からの消失半減期は約2時間で、組織内の濃度上昇はほとんど期待できない。したがって、in vitro試験とウサギの眼組織内濃度のデータから本薬がヒスタミンだけでなく、他の生理活性物質遊離阻害作用を有することは示せなかった。 一方、アレルギー性結膜炎患者に本薬0.1%を1日2回5日間点眼することにより、結膜への抗原チャレンジ後の涙液中ヒスタミン濃度は有意に減少した(・・・)。 臨床製剤の本薬の濃度は約 2.6 mMであり、点眼直後では結膜部分はヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用のIC50(0.56 mM)より高濃度の本薬に暴露されることが生理活性物質遊離抑制作用の発現に影響した可能性が考えられる。 また、類薬であるケトチフェンにおいてもヒスタミンH1受容体拮抗作用濃度に対し、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用濃度に本薬と同様に乖離が認められている。 したがって、本薬は肥満細胞からの生理活性物質遊離抑制作用とヒスタミン受容体拮抗作用の2つの作用機序を有すると考えられた。
 機構は、本薬の肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制濃度は、本薬のヒスタミン拮抗濃度の約1万倍の高濃度を必要とすること及びin vivoにおける抗原によるモルモット結膜における血管透過性亢進抑制も本薬の抗ヒスタミン作用で説明が可能であることから、本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる。 しかし、点眼直後では本薬が結膜の肥満細胞に高濃度で到達する可能性が否定できず、ヒト眼部における本薬のヒスタミン遊離抑制作用が認められていること、及び類薬であるケトチフェン点眼薬の薬理作用に肥満細胞からの生理活性物質遊離抑制作用が認められていることから、本薬を点眼した時、結膜肥満細胞のヒスタミンをはじめとする生理活性物質の遊離を抑制するとの申請者の回答を了承した。

上に引用した報告書の通りPMDAは、本薬がヒトの臨床においても「ヒスタミンの遊離を抑制する」ということを了承はしている。 その根拠としてPMDAは、点眼液の薬剤濃度が約2.6 mMであることから、点眼直後では本薬が結膜の肥満細胞に高濃度で到達する可能性が否定できないこと、ヒト眼部における本薬のヒスタミン遊離抑制作用が認められていること、そして、既存薬であるケトチフェンに「ヒスタミン遊離抑制作用」が認められることを根拠としている。 しかし、ケトチフェンからの類推については、「3−2.」の最後に指摘した通り、ケトチフェンの「ヒスタミン遊離抑制作用」は、本薬の1/24の濃度でも発揮されることに注意が必要だろう。 1/24の濃度でも効くケトチフェンで「ヒスタミン遊離抑制作用」が発揮されるからといって、本薬でも同様に発揮されることは明らかとは言えないのだから。 また、本薬においてヒト眼部(すなわちインビボ)におけるヒスタミン遊離抑制作用が認められているという指摘については、「3−2.」で上述した通り、甲20等によれば、インビトロにおけるヒスタミン遊離抑制作用が認められない他の既存薬でも、インビボにおいては「ヒスタミン遊離抑制作用」は認められているのだから、本薬においてインビボにおける「ヒスタミン遊離抑制作用」が認められるからといって、それが本件明細書の表1に示されているインビトロの効果を反映したものであることが明らかとは言えないようにも思われる。 そしてなにより、本薬の「ヒスタミン遊離抑制作用」の作用濃度は、「ヒスタミン拮抗作用」の作用濃度の約一万倍も高いのであって、PMDA自身が、「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる」としているわけだ。

これらを考えると、本件発明の化合物に「(インビトロにおける用量依存性の)ヒスタミン遊離抑制作用」が認められたという本件明細書に開示されている効果が、ヒトのアレルギー性眼疾患への臨床適用を対象としている本件発明にとってどれほど「顕著な効果」だといえるのかについては、よく考える必要があるように思う。

ちなみに、本件の審決を読む限り、無効審判請求人は本件審判において同趣旨のことを主張したと想像される。 これに対して本件審決(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)で審判合議体は、『結局、「本薬(・・・)を点眼した時、結膜肥満細胞のヒスタミンをはじめとする生理活性物質の遊離を抑制するとの申請者の回答を了承した。」という結論に達しているのであるから、甲26の記載をもとに化合物A(オロパタジン)は「臨床試験では、小さなヒスタミン遊離抑制効果しか認められなかった」としている請求人の主張には根拠がない。』と説示して無効審判請求人の主張を一蹴した。 しかし実際は上に引用した通りであって、「回答を了承した」というのは、「ヒスタミン遊離抑制作用」が臨床においても発揮されていることを了承したに留まり、臨床における薬効に関しての機構(PMDA)の見解は「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる」というものなのだから、本薬が持つ「ヒスタミン拮抗作用」に比べれば、「ヒスタミン遊離抑制作用」の臨床上の意義は非常に小さいというのが、機構の報告書からは示唆されると言えるのではないか。

なお、ここで述べたことは、「ヒスタミン遊離抑制作用」という用途発明に限定されている本件発明の特許権が、果たして本薬の後発薬を抑えるに足るものなのかという問題にも関連するだろう。 この特許が後発薬に権利行使できるものなのかという点については、篠原勝美先生(元知財高裁所長)が最近出した論文でも、「・・・、特許クレーム文言(ヒト結膜肥満細胞安定化剤)が添付文書記載の「効能・効果」(アレルギー性結膜炎)をカバーするかという論点もあり、包含関係説によれば、パテントリンケージの発動にはそもそも無理があったとも考えられる。」と述べて、この特許を理由に薬事当局が後発薬の承認を見送ったことについて批判されている(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35の33ページ左)。

*   *   *

ということで、多少この特許にネガティブなことを強調して書いたかも知れないが、私は別に本件特許が早くなくなればよいと思っているわけではない。 コストとリスクをかけて臨床試験を行って薬を市場投入している以上、その薬が成功した場合にはそれなりのリターンが期待できなければならないとは思う。 また、特許があるからコストをかけて市場投入しているのに、今回のように突然特許がなくなってしまうのは困るという気持ちも分からなくはない。 しかし「2.」でも書いた通り、医薬品開発にリスクとコストがかかるのは特許がなくても同じなのであって、そうしたリスクとコストに対して適切なリターンの機会が保障されることは、特許の有無にかかわらず要請されることのように思う。 したがって、この種の問題に関しては、私は特許制度で解決を目指すよりも、薬事制度(つまりデータ保護期間に類するような参入規制)で解決することを目指す方がよいのではないかと思っており、そうした対応が十分にとられている限り、特許制度がそれを超えて保護を与える必要もないはずだと思っているけれど、どうでしょうかね。

*   *   *

本件は、上告受理申立が行われているようで、玉井論文は、「判決の拘束力」に関する知財高裁の説示に反対であるのみならず、本件発明の効果を顕著とみなして「進歩性」を認めるべきだという立場でもあるから、論文の結びは「上告審の適切な判断が期待される次第である」となっている。 しかし私は、今回の知財高裁の説示は、上記の「3−1.」〜「3−5.」の事情を考えれば一定の理解はできると思うし、また一般論としても、「1.」や「2.」で書いた通り、顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。

[2018/6/25 篠原先生の論文(L&T No.80, 2018/7, 29-35)について一言追加。]


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

篠原勝美『続・知財高裁大合議判決覚書』─オキサリプラチン事件をめぐって─ 知財管理 Vol.68 No.3 2018-03


篠原先生は知財高裁の初代所長で、延長登録に関する判決(平成17(行ケ)10012;平成17年5月30日)も手掛けている。 今回の大合議判決後に先生は、昨年のジュリスト8月号、昨年の知財管理の9月号、そして今回の知財管理3月号と、延長問題に関してこれまでに3つの論文を出されている。


1.「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」から問題を考えることについて

篠原先生の論文で好きなのは、今回のオキサリプラチン事件の大合議判決の読み方として、この判決が「(実施できなかった期間の回復という)延長制度の趣旨」と「衡平の理念」という2つの観点をもとに判断が行われている点を重視していることだ。 例えば今回の知財管理3月号では以下のような感じ。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 319-318ページ]
本判決は、制度趣旨として、・・・「・・・処分を受けるために・・・実施できなかった期間の回復」(・・・制度趣旨@・・・)を踏襲した上、「特許権者と第三者との衡平ないし衡平の理念」(・・・制度趣旨A・・・)を付加し、・・・を確認している。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 326ページ]
特許権の存続期間延長の制度趣旨@、Aを考慮して、斯界全体の「産業の発達に寄与」(特許法1条)するよう、関係規定の適切かつ合理的な解釈運用が求められている。

延長制度の問題を考えるにあたって、「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つを出発点とすることが重要だと思うことについては、2017年3月23日の投稿「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたが、この2つを出発点としてこの問題を考えることによって劇的なことが起こる。 つまり、「延長登録の登録要件の判断基準は今のままでは駄目だ」という結論へとたどり着くのだ(笑)。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 326ページ、下線追加]
・・・ 制度趣旨@、Aとの文脈において検討すると、後行処分に係る延長登録の登録要件について見直しを迫られる場面も想定され、・・・ 新たな論点も浮上してくる。

まったく同感です! 「延長登録の要件」にこそ問題が残されている。 「登録要件の問題は過去の2つの最高裁判決で解決済みで、残された問題は延長された特許権の効力範囲の問題だけだ」などという考えはまったく間違っている。 延長登録の要件に問題が残されているという指摘を篠原先生ができるのは、「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つを大事に考えているからで、過去の最判や条文を前提として論じていては難しい。

「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つから出発し、最終的に制度改正の必要性の議論に至っているのが、篠原先生の論文のもっとも好きなところだ。

*    *    *
    
2.延長された特許権の効力範囲に関する大合議判決の判示は「傍論」なのか?

上記の「1.」についてはずっと賞賛していたいのだけれど、次の話題に行かせて頂きます。。。

今回の大合議判決では、「延長された特許権の効力範囲」(特許法68条の2)の判断基準(すなわち68条の2に言う「処分の対象になった物」との実質同一性の判断基準)が示された上で、被告製品は「延長された特許権の効力範囲」に含まれないので非侵害だ判断とされたが、それだけでなく、被告製品はそもそも本来の特許発明の技術的範囲(特許法70条1項)にも含まれていないので、延長された特許権の効力範囲に含まれるか否かを考えるまでもなく非侵害だとも説示された。 この判決について篠原先生は、今回の大合議判決の「延長された特許権の効力範囲」における実質同一の判断基準に関する判示は「傍論」だと指摘している。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 320ページ]
本判決の「知財高裁詳報」は、事案に鑑み、特許法68条の2の判断が特許発明の技術的範囲の判断よりも先行することもあり得る、とするが、対象製品が本件特許権の特許発明の技術的範囲に属しない事案である以上、効力範囲における実質同一の類型論は、厳密に言えば、傍論である

なぜ大合議判決の68条の2の判断が「傍論」だと言えるのかについて、篠原先生は次のような説明をしている。 つまり先生の2つ目の論文(知財管理 Vol.67 No,9 (2017) )の1329ページに記載されている通り、特許権侵害訴訟の要件事実を考えると、請求原因事実は基本的には「文言侵害または均等侵害」の該当性(すなわち、原告の特許権、被告の実施行為、被告製品が特許発明の技術的範囲に含まれること)であり、その抗弁事実として「特許権の存続期間の満了」が主張されることとなり、本件では、それに対する再抗弁事実として「特許権の存続期間の延長と68条の2による権利侵害」が主張されることになると捉えることができるのだという。 但し、「特許権の存続期間の満了」という抗弁事実は、そもそも請求原因事実の主張の中に顕れてしまうので、「特許権の存続期間の延長と68条の2による権利侵害」という再抗弁事実の主張も、請求原因事実の主張に“せり上がる”のだという。 したがって、たとえ“せり上がり”によって68条の2に関する主張が請求原因事実の主張の中に顕れているとしても、68条の2に関する判断は本来は再抗弁事実の判断であって、要件事実論的には「技術的範囲の属否」(70条1項)に関する判断こそが本来の請求原因事実に関する判断であり、その順序で捉えるのが筋ということのようだ。

ちなみに本件の要件事実としては、『理系弁護士の日常』ブログでも、今回のオキサリプラチン事件の第一審の判決が出された後の2016年7月24日の投稿で篠原先生と同じような説明がされている。

[『理系弁護士の日常』ブログ「延長された特許権の効力と実質同一物」(2016-07-24)より]
要件事実の観点から、技術的範囲に属する(請求原因)→出願から20年経過(抗弁)→延長された効力の範囲(再抗弁)とすることもできますが、特許の存在の主張の際に出願日が現れることを理由に、技術的範囲に属する+延長された効力の範囲に属する(請求原因)とすることもできます(前者は、実質的同一の範囲が技術的範囲に収まるべきことの確認的な意味合いとして)。

(なお、一審では延長された効力範囲の属否(68条の2)のみが判断され、技術的範囲の属否(70条1項)は判断されなかったので、68条の2の判断が「傍論」か否かという問題は発生せず、当然、上の投稿でも触れられていない。)

さて、これは批判ではなく単なる疑問なのだけれど、延長された特許権の効力範囲に関する大合議判決の判示は、篠原先生の言う通り「傍論」だと言えるのだろうか?

「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」(文言侵害または均等侵害の該当性)ということを本件の請求原因と考えるというのは、要件事実をとても回りくどく捉えているという気がする(だから上のブログの方も2つの考え方を書いているんじゃないのかな?)から、今回の事件で「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」ということが請求原因と言えるのかについて私はそもそも疑問があるけれど、仮に篠原先生の言う“せり上がり”があるということを認めて、「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」ということが、“せり上がり”の陰に埋もれている本来の請求原因だと考えるとしても、出願から20年が経過している場合は、被告製品が技術的範囲に属するか否かを考えるまでもなく、その請求は斥けられるのだから、被告製品が技術的範囲に属するか否かの判断は行う必要はそもそもなく、通常は、判決中にその判断は示されないはずではないか? そうすると、たとえ今回の判決において技術的範囲の属否について判断が示されているとしても、それがせり上がりの陰に埋もれている本来の請求原因に対する判断だと解さなければならない理由はないということになるのではないか?

また2つ目の論文(知財管理 2017年9月号)で篠原先生は、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」(1329ページ)と指摘し、これを理由に68条の2における実質同一の判断よりも技術的範囲の属否の判断を先行させるべきだと指摘しているが、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」か否かは、必ずしも明らかとは言えないと思う。 68条の2には「特許発明の実施」という語句が含まれているので、68条の2に基づく侵害が成立するためには被告製品が特許発明の技術的範囲に属していることが必要だと私も思うが、68条の2に言う「処分の対象となった物」に対する均等物ないし実質的同一物の該当性のみを切り取って判断することは可能かも知れず、その場合に被告製品が特許発明の技術的範囲に属するか否かを判断する必要はないかも知れない。 今回の大合議判決は、技術的範囲の属否の判断を後回しにして実質同一の判断を先行させていることからしても、実質同一を判断するために技術的範囲の属否を判断する必要はないという立場をとっているのではないか? ともかく、私は「特許発明の技術的範囲に属さないものについて『68条の2に基づく侵害成立』は考えられない」ということは正しいとしても、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」と言えるのかどうかは定かではないと思う。

なお、篠原先生のような詳しい説明ではないものの、大合議判決の68条の2の判断が傍論だということについては、昨年9月6日の投稿で紹介した岡田先生の論文や、6月20日の投稿で紹介した高林先生の論文でも指摘されている。

[岡田吉美, 2017年8月号 (Vol.70 No.8) p.106-115の111ページ]
・・・、仮にその認定が正しいとすると、被告製品はそもそも本件特許の技術的範囲に入らず、特許法68条の2の特許権の効力制限規定を論じるまでもなく特許権の侵害とはならない。特許法68条の2の解釈に関する判示部分は傍論でしかない

[高林龍, IPジャーナル 1号 (2017) 30-38の35ページ]
・・・、本件のY各医薬品は・・・。・・・、本件発明の技術的範囲に属さないのであるから、これが技術的範囲内のさらに限られた発明の実施である保護範囲の延長を認める部分により実施が可能になった範囲内にあるか否かを論ずるまでもない事案であったのであり、この点の判断はすべて傍論と位置付けられるということである。

上記の通り、二人の先生が言っていることは、68条の2の実質同一を判断するまでもなく、特許発明の技術的範囲の属否の判断だけで「非侵害」と言う結論は出せるのだから、68条の2の実質同一に関する判示は傍論だというものだが、これも上と同じ疑問が当てはまる。 すなわち、68条の2の実質同一の判断によって侵害を否定できる場合は、それだけを判断すれば、技術的範囲の属否を判断するまでもなく非侵害という結論は出せるのだから、二人のロジックをそのまま使えば、技術的範囲の属否の判断こそ傍論だと言うこともできるだろうから。 つまり、どちらか1つのみを判断すれば「非侵害」という結論が出せる場合に、どちらが傍論かは一概には分からないはずではないか?

まあ、今回の大合議判決の68条の2の判断を「傍論」だと言いたくなる気持ちは分かる。 今回の大合議判決では、実質同一の判断についてかなり細かい基準が判示されており、これが強い拘束力を発揮するというのでは影響が大きいから。 この事件が大合議で判断されることが決まったとき、私も投稿で、もし「非侵害」という結論を導きたいのなら、被告製品はそもそも本件特許発明の技術的範囲に入らないか、あるいはこの特許は新規性・進歩性がないので無効とされるべきものであるという理由で非侵害にすれば足りるのだから、一審は延長問題に触れない方がよかったのではないかと書いた。 だから、上記の方々が、68条の2に関する大合議の判示は傍論だとみなしたいという気持ちで希望的に論じているのだとしたら、それには同意できるのだけれど。。

*    *    *
    
3.効力範囲に関する各説の捉え方について

さて今回の大合議判決では、いわゆる物質特許や剤型特許(用法用量や効能効果に特徴がない特許発明)の場合、延長された特許権の効力が及ぶいわゆる「実質同一」とは、特許権者の医薬品に対して「周知・慣用技術に基づき,一部において ・・・ 付加,転換等しているような場合」なのだと判示された。 もしこの判示を文字通りに硬直的に受け取って、特許権者の医薬品と全く同じか、周知・慣用な違いがあるものにしか延長された特許権の効力は及ばないと解するとしたらどうなるか? 特許権者が何年もかけて臨床試験を行って承認を取った医薬品に関して、薬品の安定性や溶解性を多少向上させる何かちょっとした添加物を追加して後発薬の承認を受けさえすれば、延長された特許権の効力を免れることができることになってしまうかも知れない。 これでは効力範囲が狭すぎると思う人はきっといるだろう。 そうした意見に関して篠原先生は、「いくつかの議論に基づいて、本判決及び原判決のような周知・慣用技術の付加・添加等の考慮要素は無用である、とする以下のような見解がある。」(324ページ)とした上で、以下のような説を挙げている。

@ 有効成分基準説
有効成分を一律に基準とし、それ以外の成分(添加剤)の付加・転換等が周知・慣用技術の応用に過ぎないか否かは問題にせず、すべて実質同一として延長特許権の効力が及び、仮に後発医薬品が製剤技術等において改良発明として特許権を取得していても侵害にしてよいとする説。(なお篠原論文ではこの説に関して「井関涼子, ジュリスト No.1509, 50ページ」が挙げられているが、井関先生は基本的に大合議判決を支持しており、有効成分の物質特許の場合に限っては、有効成分が同じで代替性のある後発薬を抑えられないのは不適当だと指摘しているだけなので念のため。)

A 発明特定事項基準説
特許庁がかつて採用していた立場であり、特許請求の範囲に記載された発明特定事項のうち、処分を受けた医薬品の承認書に記載された事項と対応がつくものについては、承認書の事項に限定して範囲を決定する説。(三枝英二, 知財管理 Vol.60, No.1 (2010) 5-22; 熊谷健一, Law and Technology, No.67 (2015) 66-74; 岡田吉美, パテント Vol.70 No.8 (2017) 106-115)

B 市場競合説
延長された特許権の効力は、処分を受けた医薬品と市場で競合する範囲、ないし、特許発明の独占的実施を保障するのに必要な範囲に及ぶとするもの。(田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452; 愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017; 前田健, Law and Technology No.77, 2017, 70-79)

C 先発医薬品の成果依拠説
本事件の原告が主張した説で、延長された特許権の効力は、先発医薬品の承認に依拠して承認を受けた後発薬に及ぶとするもの。(なお、2017年8月18日の投稿でも紹介した通り、原告代理人を務めた大野聖二先生の論文(知的財産法研究の輪:渋谷達紀教授追悼論文集, 発明推進協会 (2016) 223-232の232ページ)や、高林先生の論文(高林龍, IPジャーナル 1号 (2017) 30-38の37ページ)でも触れられている。)

そして篠原先生は上の4つの説に対して「以下のような反論が考えられる」と書いている。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 324ページ(グレーの括弧はこちらで追加したもの)]
(i)(上記@については、)本判決の通り、延長された特許権の効力範囲に関する実質同一は、医薬品としての有効成分や治療効果(有効性・安全性)のみから論じるべきではなく、延長登録制度の趣旨に照らして判断すべきである。 要件論において「物」(特許法68条の2)を有効成分と同一視する旧々審査基準や旧審査基準の考え方は、最高裁平成27年判決により既に否定されている。

(ii)前二説(上記@、A)及び先発医薬品の成果依拠説(上記C)については、先行処分の物質特許により一律に後発医薬品の参入を阻止し得るため、一方的に、先発医薬品側に有利に、後発医薬品側に不利に働き、本判決の趣旨に反する結果を招く。周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素を、制度趣旨に基づく業界双方の調整スキームとして機能させ、斯界全体の見地からバランスを図る必要がある。

(iii)市場競合説(上記B)は、特許法の枠組みの中でこれを徹底することは困難である。特許発明の全体について構成要件ごとに充足性を問題にする技術的範囲の属否判断と、「物」に関する技術的特徴・作用効果の同一性を問題にする効力範囲の判断とを全く同一視することはできない。

(iv)先発医薬品の成果依拠説(上記C)は、後発医薬品の存在意義を否定するに等しい。他人の発明の成果の利用は、試験・研究のためにする特許発明の実施(特許法69条1項)でも予定されており、後発医薬品の承認申請に当たり先発医薬品の試験データを利用することを、「不正競争」(・・・)とか、「不公正な商業的利用」(・・・)などと評価することはできない。

こうした批判に対する感想は、これまでに何回も書いてきた気がする。 上記(i)については、上記の@にも書いた通り、有効成分を基準とする考え方を提示するにあたって井関先生は、有効成分の物質特許に関して特許権者が初めて医薬品の承認を受けて特許を延長したような場合を想定していると思われるが、私も井関先生に同感で、そうした場合に有効成分と効能・効果が特許権者の医薬品と同一であって、特許権者の特許発明にも該当する(つまり特許発明の技術的範囲に属する)医薬品を第三者が販売しようとした場合に、それを抑えられないとすれば不合理だと思う。 篠原先生自身、今回の論文で、有効成分の物質特許が延長されている状況において、「後発医薬品が周知・慣用技術による新たな製剤成分(製剤技術)を採用した口腔内崩壊錠(OD錠)」を実施している場合に、非周知だからといって侵害にできないのはおかしいという趣旨のことを書いている(323ページの右下)。

私は、延長登録の許否判断の場面においては、利害関係のない赤の他人が同じ有効成分と効能効果の先行医薬品を実施していたからといって、自分が新たな製剤技術を使って後発薬の承認を受けた場合に、自分の製剤特許を延長できないのは不合理だと思うから、延長の許否を「有効成分と効能効果」で一律に判断するのは不合理(つまり、先行医薬品を“誰が”実施していたのかを不問にして有効成分と効能効果が同じ先行医薬品があるというだけで一律に延長を拒絶するのは不合理)だと思うし、また、延長された特許権の効力範囲を判断する場面でも、既に特許権者が先行医薬品を独占実施しつつ、代替性のある後行薬品の承認を受けて特許をさらに長い期間延長したような場合に、後行医薬品の承認によって延長された特許権の効力範囲を「後行薬品の有効成分と効能効果が同じ医薬品」としたのでは二重利得を防ぐことができないので不合理だと思うから、「有効成分と効能効果が一致する範囲」というものが常に機械的に適用できるものではないとは思うけれど、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長するような場合にかぎっていえば、延長された特許権の効力範囲が「有効成分と効能効果が同じ範囲」(もちろん、特許発明の技術的範囲内でなければならない)であったとしても、広すぎるとは言えないと思う。 まあ篠原先生もそこは百も承知なのかも知れないけれど。

上記(ii)に関しては、状況による。 上述の通り、特許権者が既に先行医薬品を独占実施しつつ、代替性のある後行薬品の承認を受けて特許を延長したような場合に、延長された特許権の効力範囲を「後行薬品の有効成分と効能効果が同じ医薬品」としたり、「後行薬品に依拠して承認を受けた後発薬」としたのでは、特許権者の二重利得を防ぐことができないので問題だとは思うが、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長するような場合にかぎっていえば、「一方的に、先発医薬品側に有利に、後発医薬品側に不利」とは言えないと思う。

「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素を、制度趣旨に基づく業界双方の調整スキームとして機能させ、斯界全体の見地からバランスを図る必要がある。」という先生の指摘に関しては、状況によってバランスを図る必要があることには同意できるけれど、もし現行法という制約を取り払って考えるのであれば、バランスを図るための手段として「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素」を使わなければならない理由はないのではないか。 後述する通り、延長登録の許否判断の場面において「市場競合性」をうまく反映する基準を作っておけば、効力範囲の判断において「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴」などという特徴をことさら判断要素にする必要はないように思う。 但し、現行の法制度は、篠原先生も示唆されている通り、延長登録の許否判断の規定がうまく機能していないので、効力範囲の判断の際に「周知・慣用技術の添加、転換」といった要素を“弥縫的”に判断要素としなければ、制度の公平性や妥当性を確保することはできないということは言えるかも知れない。 だから私は大合議判決のような考え方をいつも“弥縫策”と呼んでいる。

上記(iii)に関しては、井関先生の昨年の論文で指摘されていることと同じような内容だが、それに対する反論は既に昨年8月18日の投稿で書いた。 現行条文において市場競合説を十分に反映させることが困難なのはその通りかも知れないが、論文等において制度の在り方を考えるときには、現行条文に囚われる必要はないから、「制度趣旨と衡平の理念」をもとに自由に考えればよいのだし、そもそも市場競合説を“徹底”させる必要はないのだ。 利害関係者や国民が許容できる程度に市場競合が加味された制度ができれば、それでよいのではないか。

「特許発明の全体について構成要件ごとに充足性を問題にする技術的範囲の属否判断と、『物』に関する技術的特徴・作用効果の同一性を問題にする効力範囲の判断とを全く同一視することはできない。」と論じられていることについては、おそらく私は先生の言いたいことが理解できていないかも知れないが、「70条1項の判断と68条の2の判断は同一視できない」ということなのであれば、同一視できないことについては同意できるが、それは市場競合説の是非とはあまり関係がないことのような気もする。 ひょっとすると篠原先生は、「市場競合説」とは、市場競合する限り、特許発明の技術的範囲を超えて効力が及ぶ説だと思っているのかも知れないが、市場競合説を主張する論者は、その効力範囲が特許発明の技術的範囲内であることを当然の前提としているはずだ。

上記(iv)に関しても、井関先生の論文を取り上げた昨年8月18日の投稿で既に書いた。 私は、たとえ後発者が先発者の医薬品の試験データに依拠するのではなく、独自に臨床試験を実施して承認を受けたとしても、先発薬と市場において強く競合し、かつ特許発明の技術的範囲に含まれるような医薬品については、延長した特許権の効力を及ぼしてよい(すなわち、後発者が臨床試験の実施という“努力”や、医薬品の改良という“貢献”を付け足したからといって、権利侵害を免れるものではない)と思っているから、「特許権者の試験データを流用しているか」などということは本来は関係がないと思っているけれど、それはともかく、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長しているような場合において、先発薬に依拠して臨床試験なしに簡易に承認を受けた後発薬の販売行為を抑えることができないのでは、延長制度の意義が問われてしまうと思う。

*    *    *
    
私は、上記の@〜Cの説や、大合議が判示したいわゆる「実質同一説」を以下のように理解している。 つまり、そもそも医薬品の特許延長制度はなぜできたのか? 医薬品の開発には多額のコストと時間がかかるのに、医薬品の製造販売には国の規制があり、製造販売承認を受けるために治験を行うなどの時間がさらにかかるから、その分だけ特許期間が短くなってしまい、独占販売できる期間が短かすぎて特許制度が本来果たすべき機能が十分に発揮されない。 だから延長制度はできたのだ。 そして延長制度は、特許権者が医薬品の承認を受けるために必要だった期間だけ特許を延長することにした。 これにより、特許権者が医薬品の承認を受けるために独占実施できなかった期間と同じだけ独占実施できる期間が長くなることになるので、承認を受けるために得られなかった利益が回復できることが期待される。

ここで井関先生は、特許権者が医薬品の承認を受ける間、排他的効力はいささかも侵食されていないと論じている。 パシーフカプセル事件の大合議判決(平成25年(行ケ)10195〜10198)をはじめとする過去の判決でも裁判所は類似した説示を行っているし、他の論者もそれを否定していない。 もしそれが正しいのであれば、他人を排他する権利はそもそも妨げられていなかったのだから、他人を排他する権利の権利期間を延長する必要はないはずだ。 それなのに現行制度では、他人を排他する権利期間が延長されるし、そのこと自体を不当だと思っている人は誰もいない。 これはどういうことだ? 排他的効力は、やはりどこかで侵食されているから延長する必要があるのか、さもなければ、侵食はされていないのだけれど、侵食とは関係なく(つまり、単なる損得勘定で)排他する権利期間を延長する必要があるのか、どちらかだと考えられるのではないか(井関先生は、日本では前者で米国では後者だと指摘しているが、それについては井関先生の論文 (ジュリスト 2017年8月号, No.1509, p.46-52) を参照)。

私は過去の投稿でも説明している通り、日本だろうが米国だろうが、他人を排他する権利期間は現実に侵食されると思っている。 但し、特許権者が医薬品の承認を受けるときに侵食されるというよりは、他人が後発医薬品の承認を受けるときに侵食される(あるいは他人が後発医薬品の承認を受けたときに、その後発医薬品を排他する権利期間が侵食されていたことが明らかとなる)と考えている。 医薬品の承認を受けようとしている間は、その医薬品を実施すること(すなわち承認済み医薬品として製造・販売すること)はできない。 つまり医薬品の承認を受けようとしている期間というのは、その医薬品を誰も実施することはできなかった期間だ。 誰も実施することができなかった以上、実施しうる人はいないのだから、実施している人に対して排他権を行使することもし得なかった。「排他権が侵食されていない状態」というのは、「排他権を行使しうる状態」のことを言うのだから、誰も実施することができず、排他権を行使し得なかった状態を「排他権が侵食されていない状態」と言うことはできない。 医薬品の承認を受けようとしている期間は、排他権も含め、特許権を行使することができない期間であって、排他権も含めて特許権の存続期間は侵食されると理解するのが正しいと思う。 ちなみに承認を受けようとする前の期間はどういう期間かというと、「承認を受けようとすれば直ちに承認されて実施することができるかも知れず、できないかも知れない期間」であって、特許権の存続期間が侵食されている期間とは言えない。 特許権の存続期間が侵食される期間は、その医薬品の承認を受けてみて初めて明らかになるのだ。

このように、排他権を行使しうる期間の侵食は、特許権者が医薬品の承認を受けるときに起こるというよりは、他人が後発医薬品の承認を受けるときに侵食される(あるいは他人が後発医薬品の承認を受けたときに、その後発医薬品を排他する権利期間が侵食されていたことが明らかとなる)のだ。 具体的には、ある後発者が独自に3年かけて臨床試験を行って承認を受けた場合は、「その3年の間は、あなたの後発薬は実施される可能性はなかったわけですが、実施される可能性がなかった以上、それに対して排他権を行使しうる状態ではなかったので、排他権が侵食されていた期間ですね」ということになるし、後発者が先発医薬品に依拠して承認を受けた場合は、「あなたの医薬品は私の先発医薬品に依拠して承認されたわけですが、ということは、私の先発医薬品の承認を受けていた期間はあなたの後発品も実施される可能性がなかったということになります。 その間は、あなたの後発薬に対して排他権を行使しうる状態ではなかったので、あなたの後発薬に対する排他権が侵食されていた期間ですね」ということになる。

しかしそう考える場合、例えば特許権者がまったく医薬品を実施する気がなかった場合に、第三者だけが独自に3年かけて臨床試験を行って承認を受けたとすると、上述のとおり、「その3年は排他権を行使しうる状態ではなかったので、排他権が侵食されていた期間ですね」ということになって、原理的には、その医薬品に対して3年間特許を延長してもよいことになる。 実際、「侵食期間の回復」という原理を貫徹したいのであれば、私はそういう制度にすることもありうると思っているけれど、特許権者が実施する気がないのなら、他人に実施されても、特許権者は事実上不利益を被らないのだから、延長しなくてもいいじゃないかと考えることもできる。 実際、現在の延長制度では、特許権者や実施権者が承認を受けた場合に限って延長を認めているから(67条の3第1項2号)、特許権者や実施権者が実施していない場合は、他人が実施しても延長制度でそれを抑えることはできない。 ここで重要なのは、「事実上不利益を被らないのだから、延長しなくてもいいじゃないか」という考え方は、「侵食期間の回復」という原理から導き出されるものではなく、「損得勘定」から導き出されるものだということだ。 先に言った通り現在の制度は、特許権者や実施権者が実施するときに限って延長できることになっているから、実は現在の延長制度は「侵食期間の回復」という原理を貫徹したものではなく、「損得勘定」を加味して作られている制度だということができるのだ。 「損得勘定」という言い方を少し変えて「帰結主義的な考え方」ということにすれば、現在の延長制度は、そもそも「帰結主義的な考え方」が取り入れられて作られている制度だと私は理解している。

さて、延長された特許権を行使する場面について、「侵食期間の回復」という原理を貫徹する考え方と、帰結主義的に考える考え方(すなわち損得勘定で考える考え方)の2つで考えてみる。 「侵食期間の回復」という原理を貫徹しようとする場合、例えば特許権者は5年かけて承認を受けて5年延長したけれど、後発者は後発薬に関して独自に臨床試験を行って3年で承認を受けた場合、上記の通り、後発者の医薬品に対する排他的効力の侵食期間は「3年ですね」ということなのだから、3年で後発者を参入させるのが侵食期間の回復という原理的には正しい。 また、例えば特許権者が市場代替性のある2つの医薬品の承認を受けて、最初の医薬品(第1の医薬品)では5年延長し、その後、第2の医薬品で3年延長している場合、「侵食期間の回復」という原理を貫徹しようとするならば、3年の延長期間がすぎれば第2の医薬品については後発薬を出してよいことにするのが正しい。 しかしそうすると、3年たつと、第1の医薬品の延長期間はまだ残っているのに第2の医薬品に対する後発薬が市場にあふれることになり、市場競合性がある第1の医薬品の販売は低下してしまう。 せっかく第1の医薬品の延長期間が「5年」あっても、特許権者にとってはほとんど意味がなくなってしまうが、「侵食期間の回復」という原理を貫徹する立場からは、「損得勘定など気にする必要はない」のだから、特許権者が損をしようが知ったことではないということになるだろう。

しかしそういう制度が妥当だとは思わないでしょう? それはなぜか? それは、あなたもこの問題を「帰結主義的」(すなわち損得勘定的)に考えているからだ。 つまり、「侵食期間の回復」という原理を貫徹させるべきだと考えている人など、実は誰もいないのだ。 「侵食期間の回復」という原理を貫徹させるような制度は、そもそも衡平の理念からして採用することはできないのだ。 それに上述のとおり、そもそも延長制度というのは、特許権者や実施権者が実施しようとしていない場合、すなわち他人に実施されても特許権者が損害を被らない場合は、たとえ特許期間の侵食が起きても延長できない制度となっているのだから、制度の成り立ちからして損得勘定に基づいて作られていると言えるのだしね。

このように、延長登録の許否判断の場面において、特許権者が実施していない場合は、他人に実施されても特許権者は事実上損をしないのだからと帰結的に考えて延長を認めないことにされているのと同じように、延長された特許権の効力を何に対して及ぼせばよいかを考えるにあたっても、「侵食期間の回復」という原理をことさら重視するのではなく、帰結的(すなわち損得勘定的)に妥当な結果が得られることを目指すべきだと言えるのではないか? そして帰結的に見て「妥当な結果」とは、「特許期間が侵食されたことにより特許権者が被る不利益をなるべく過不足なく回復させること」であることに異論はないだろうから、延長された特許権の効力が及ぶべき対象は、特許発明の技術的範囲のすべてではなく、「(特許期間の侵食により特許が早く満了して他人に実施されてしまうことにより)特許権者が不利益を被るもの」で十分であり、たとえ特許発明の技術的範囲に含まれるものであっても、それが実施されても特許権者が不利益を被らないものに対しては及ぼす必要はないということになるだろう。 どういうものを実施されたときに不利益を被るかというと、特許権者の医薬品と市場で競合するような医薬品を他人に販売されたときに不利益を被るのだから、延長された特許権の効力が及ぶべき対象は、「特許権者の医薬品と市場競合性のある医薬品」であるということは、自然に導くことができる。 これについては、昨年の7月31日の投稿でも説明した。

すなわち、現在の条文や最高裁判決などはとりあえずわきに置いて、延長制度の趣旨と衡平性の観点から考えていけば、延長された特許権の効力範囲として理論的にもっとも妥当なのは、篠原論文で挙げられている諸説のうちで「B 市場競合説」ということになる。 つまり「市場競合説」というのは、制度趣旨と衡平性から考えた場合に導かれる理論的な正解なのだ。

但し、それを制度として落とし込むためには工夫が必要となる。 「市場競合する範囲」というのが具体的にどういう範囲なのかは不明確だし、予測可能性が低い。 それに、競合性が低く、わずかしか競合しないのに権利行使できることにするのは帰結的(損得勘定的)に考えても妥当性が低いから、ある程度高い競合性があるものに限って権利行使できるようにすることが必要だろう。 だから、あるべき延長制度を考えるにあたって我々がやるべきことは、「高い市場競合性がある範囲」というものを判断しやすくし、予測性を上げることによって、延長制度を効率的に運用できるようにすることだ。 例えば、「高い市場競合性がある範囲」を、より具体的で予測性の高い言葉で表現された範囲に置き換えることはできないか? 例えば「有効成分と効能・効果が同じ範囲」はどうだろうか? 「先発医薬品に依拠して承認を受けられる範囲」はどうだろうか? 上記の「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」というのは、いずれも「高い市場競合性がある範囲」の予測性を上げるための代替案となりうるものだ(それらの説を唱えている人がそれを意図しているか否かはともかく)。

篠原論文に掲載されている「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」というのは、そういう視点で理解されるべきものだと私は思う。 「有効成分と効能効果」が同一の医薬品が、特許発明としての技術的な観点から見て特許権者の先発医薬品と実質的に同一であると本気で信じ込もうとしたり、逆にそれを批判したりするのは不毛だ。 「有効成分と効能効果」が同一の範囲というのは、「高い市場競合性がある範囲」の代替表現に過ぎないのだから。 「先発医薬品に依拠して承認を受けた後発薬」が、特許発明としての技術的な観点から見て特許権者の先発医薬品と実質的に同一であると本気で信じ込もうとしたり、逆にそれを批判したりするのも不毛だ。 「先発医薬品に依拠して承認を受けた後発薬」というのは、「高い市場競合性がある範囲」の代替表現に過ぎないのだから。 私は「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」をそういう視点で捉えているから、例えば「成果依拠説」に対して「69条1項は試験・研究における使用を認めている」などという主張を見るともどかしく感じてしまう。 「私は帰結的(損得勘定的)に考えて成果依拠説でもまあまあ妥当な結果が出せるかも知れないと考えているだけなんです。 あたなたも帰結的に考えてください。」と言いたくなってしまう。 これは別に篠原先生に言いたいわけではないけれど、もし「成果依拠説」ではダメだと思う人がいるのなら、「成果依拠説」で制度運用した場合に具体的にどういう場合にどういう不都合が生じるのかをぜひ例示してくださいと言いたいのだ。 単に理念的に「試験・研究における使用は認められている」という反論は不毛であって、結果としてどういう不都合が生じるのかで議論してくださいと思うのだ。

A 発明特定事項基準説」や、今回大合議判決が判示した「実質同一説」も、そういう観点で検証されるべきものだと思う。 「実質同一説」のことを、条文と特許発明の観点から導き出される考え方であって、損得勘定などまるで気にしていない考え方だと思っている人がいるかも知れないが、実際には違うでしょう? 冒頭で言った通り、大合議判決は「衡平の理念」を大切にして判断しているのだ。 「衡平の理念」にもとる帰結をもたらすような解釈運用はできないというのなら、それは帰結主義的に考えているということでもあるでしょう? 「衡平の理念」は帰結主義を要求するのだ。

以上のことを踏まえつつ、各説がどういうものであるのかを示せば、以下のようになる。

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特許庁が採用した「発明特定事項基準説」というのは、たとえ後行医薬品が先行医薬品と市場競合するようなものであっても特許発明の技術的範囲に先行医薬品が含まれていない限りは延長できることを決めた「パシーフカプセル事件」の最判を受けて、どうやって制度の妥当性を確保するかを目指して作られた考え方であり、大合議判決が採った「実質同一説」は、「アバスチン事件」の最判によって、原則、承認ごとに延長できるようになった事態を受けて、どうやって制度の妥当性を確保するかを目指した考え方だ。 どちらも特許法の条文や最判という制約のもとでかなり無理をしている考え方であり、もしそういった制約がないのであれば(すなわち、制度改正を視野に入れて考えるのであれば)、そもそも採用する必要はない考え方だと思う。 それに対して「有効成分基準説」や「成果依拠説」は、「市場競合する範囲」というものを、より予測性が高い基準に代替するという観点で評価されるべきものだと思うが、市場で競合する似たような医薬品を複数回延長した場合にどうやって制度の妥当性を確保するかについてはあまり考えられていないから、制度改正によって、似たような医薬品については延長できないようにするとか、延長の終期をそろえるなど、別途対策を考える必要があるだろう。

それぞれの説の妥当性は、なにを制約として考えるかによって変わる。 つまり、条文や最判の制約や、重複延長があることを前提とするか否かによって変わる。

*    *    *
    
4.「連動論」

篠原先生がこれまでの3つの論文で一貫して論じているのが「連動論」だ。 「連動論」とは、分かりやすく言えば、“一度延長したら再延長を認めない範囲”(67条の3第1項1号)と “延長された特許権の効力範囲”(68条の2)とを一致させる考え方だ。 篠原先生も論じている通り、過去の2つの最高裁判決(パシーフカプセル事件とアバスチン事件)によって現在では登録要件が著しく緩和され、医薬品の成分や用量・用法などの承認事項が一部でも異なり、新たな承認が必要であった医薬品については、たとえ先行医薬品と非常に高い代替性を持つものであっても原則として新たな延長が可能となっている。 もし、延長されたそれぞれの特許権の効力範囲にそれなりの幅がある場合、効力範囲同士が重なり合うことになるが、後行承認の延長期間の方が長いと、重なり合っている領域では、すでに排他権が及んでいるところがさらに延びることになるので、一見して不適切であることは明らかだろう。 篠原先生はこの問題を解決するために2つの範囲を連動させることを示唆しており、今回の論文の脚注48では条文の改正案も提示されている。

私は、現在の状況は由々しき事態だと思うし、篠原先生がこの問題を積極的に取り上げていることはとても重要だと思う。 しかしながら、これまでにも書いている通り、「連動」させるだけでは、この問題を根本的に解決することはできない。 これについては2017年7月31日の投稿で書いたし、2017年10月5日の投稿でも書いたが、「同じ市場をターゲットとする医薬品について異なる複数の延長期間が設定されることを避ける」ことが重要なのだ。 例えば代替性のある医薬品A1と医薬品A2という2つの医薬品があって、「連動論」が採用されているとする。 すなわち、医薬品A1で延長した場合、延長した特許権の効力範囲には医薬品A2は含まれず、医薬品A2で延長した場合、延長した特許権の効力範囲には医薬品A1は含まれないとする。 例えば、特許権者がまず医薬品A1で5年延長した場合、たとえ医薬品A2を3年で出すことが可能で、A2の方が利便性が高く患者にとって好ましいとしても、医薬品A2では3年しか延長することができず、3年たてばA2の後発薬が市場に出てきてA1の独占状態も侵されてしまうことを考えれば、特許権者は医薬品A2を3年で出すことを躊躇するだろう。 たとえよい薬を早期に出せるとしても、出すのをやめるか、あるいは何らかの理由をつけて医薬品A2の臨床試験を5年に引き延ばして5年の延長期間を確保するという選択を採るしかなくなる。 逆に、特許権者がまず医薬品A1で3年延長した場合、医薬品A2を5年かけて承認を受ければA2については5年延長することができるが、そのままでは3年たつとA1の後発薬が出てきてA2の市場も脅かされる。 もし特許権者が、医薬品A1には稀な副作用が起きるリスクが医薬品A2よりも高いかも知れないと主張できるようなデータを持っていたり、薬剤の安定性がA2よりも劣るというデータを持っていたり、取扱いが煩雑で誤用が起きる可能性があると主張できる場合、それを理由に厚労省に働きかけて医薬品A1を販売できなくすることができれば、A1の後発薬は市場に出てこないことになるので、事実上の市場独占を3年から5年に引き延ばすことができる。 すると特許権者としては、そういう状況を作り出すことでより多くの利益を上げようとするかも知れない。

このように、たとえ「連動論」を採用しても、高い市場競合性のある範囲内に複数の延長期間を設定することが可能な制度である限りは、特許権者としては、それを利用して利益を最大化することについて動機が働くことになる。 それを食い止められるかは「特許権者のモラル」にかかっているが、モラルに頼らなければならないような制度を作るべきではないでしょう?

大事なのは「連動」させることではなく、「市場競合性のある範囲では複数の延長期間を設定できないようにすること」だ。 旧々審査基準では、延長要件の範囲として「有効成分と効能・効果が同一の範囲」が採用され、かつ効力範囲としても同じ範囲が採用されると解されていた(すなわち「連動論」が採用されていた)が、この旧々審査基準がなぜ比較的うまく行っていたかと言えば、それは「連動論」が採用されていたからというよりは、「有効成分と効能・効果が同一の範囲」というものが、「市場競合性のある範囲」を事実上規定するものであったからだ。 米国や欧州は「有効成分」というもので範囲を設定する制度となっており、そうした制度が曲がりなりにも運用されているのは、「有効成分が同一の範囲」というものが、「市場競合性のある範囲」を事実上規定するものとして機能しているからだ。 「市場競合性のある範囲」というものを区切りとして延長要件を規定することは延長制度において非常に意味があると思われるのに、現在の日本では2つの最判によってそれが崩れてしまった。 こういう言い方をすると最高裁が悪いみたいになるが、そもそも条文が悪いのだから、最高裁はよくぞ崩してくれたと言ってもいいのかも知れない。 ともかく、市場競合性を反映する範囲設定が失われたところに現在の延長制度が混乱している原因があるので、制度改正を考える場合は、「連動論」を目指すのではなく、延長要件において市場競合性を反映した範囲設定を取り戻すことを目指すべきだ。

とは言え、たとえ先行医薬品と市場競合性があるとしても、剤型変更や投与経路の変更によって需要が何倍にも増加するような後行医薬品については、延長を認めなければ帰結的に見ても不公平になるし、先行医薬品を独占販売していたのが赤の他人である場合は、延長登録が拒絶されるのはおかしい。 したがって、一筋縄に範囲を設定することはなかなか難しく、単に旧々審査基準に戻せばよいというものではない。 今回の混乱を踏まえて、より合理的な基準作り、つまり、旧々審査基準を超えるだけでなく、諸外国の延長制度をも超える基準作りを目指すことができればよいのだけれど。

なお篠原先生の論文では、市場競合性を考慮して延長要件を判断する考え方について、「EUのSPC(追加保護証明書)制度にならい」(327ページ)と書かれているが、この考え方はSPC制度と特に関係があるわけではないと思う。 確かに井関先生の論文(ジュリスト 2017年8月号 (No. 1509) の49ページ)では、この考え方がSPC制度にからめて論じられているが、それは昨年8月18日の投稿で書いた通り、井関先生は、市場競合性を考慮する考え方を「特許“”の考え方」だと言いたかったから、特許法とは別の制度として作られたSPC制度を引き合いに出しただけで、内容に特に関連性があるわけではない。

井関先生は、これまでの論文では「市場競合説」に反対されているけれど、その理由は、医薬品の承認を受ける間も排他権は侵食されておらず、広範な効力範囲を与えることになる「市場競合説」は、侵食された権利を侵食された期間だけ回復させるという制度の趣旨に沿っていないと考えているからだろう。 しかし上述の通り、医薬品の承認を受ける間は、誰も実施することができない以上、その医薬品に対する排他権を行使しうる状態とは言えず、その医薬品に対する排他権は侵食されていたと考える方が妥当だと私は思う。 もし井関先生がそれを受け入れられるのなら、先生が「市場競合説」を否定しなければならない大きな理由はなくなるはずだと思う。 私も自分の考え方が本当に正しいのかには少し自信がないけれど、こうして何回も何回も書いていたら、嘘も百回のごとく、だんだん信じられるようになってきたから、井関先生もそのうち信じてくれるようになるのではないかしら。^^

また、2017年9月28日の投稿でも書いた通り、市場競合性を考慮して延長要件を判断する考え方については、前田先生の2015年論文(神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44)で既に打ち出されている。 アバスチン最判によって、前田先生のような立場は現在の法制度のままでは採りづらくなってしまったことから、その後の前田先生の論文ではこの論点はあまり見られなくなっているけれど、篠原先生がこうやって制度改正の可能性にまで踏み込んで考察を進めているのを見ると、前田先生にもぜひ、市場競合性を加味した延長要件論を再び積極的に展開してもらいたいと感じてしまう。

そして、「市場競合性」という概念を初めて延長問題に取り入れて論じた田村先生(特許判例ガイド 第2版, 2000, 260ページ)にも、「市場競合性」という概念をぜひ延長要件論に取り入れて、帰結的にも納得のいく延長制度論を完成させてくれることを期待したい。 なにしろ田村先生は帰結主義論者のゆうだから。^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

マキサカルシトール事件大合議判決は高林説を否定したのか(Sotoku 9号)(出願時同効材の均等論第5要件と出願人の帰責性)


Sotoku, 通号9号, 1-40 (2018) (published online on 22-01-2018)

タイトル: 出願時同効材の均等論適用に関する「マキサカルシトール事件」の知財高裁大合議判決(平成27年(ネ)第10014号)はボールスプライン軸受事件(平成6年(オ)1083号)で最高裁が示した5要件を判断したものであったのか、それとも単に“融通性のある文言解釈”を行ったに過ぎないのか

著者:  想特 一三 (Sotoku Ichizo)

出願時同効材の均等論適用に関する「マキサカルシトール事件」の知財高裁大合議判決(平成27年(ネ)第10014号)はボールスプライン軸受事件(平成6年(オ)第1083号)で最高裁が示した5要件を判断したものであったのか、それとも単に“融通性のある文言解釈”を行ったに過ぎないのか


*    *    *

『マキサカルシトール事件』の最高裁判決に関しては、前回の投稿で書いた高林先生の『標準特許法 第6版』につづき、田中孝一元最高裁調査官による最判解説が掲載された『年報知的財産法2017-2018』(日本評論社)が先月出版され、さらにほぼ同時に、本命となる田中先生による調査官解説が『法曹時報』の12月号に掲載された。

それにしても、田中先生による(と思われる)『マキサカルシトール事件』判決の解説は、これまでにいくつ読んだだろうか。

 ・田中孝一, Law and Technology No.76 (2017) 70-80
 ・田中孝一, ジュリスト No.1511 (2017年10月号) 106-109
 ・判例タイムズ No.1440 (2017年11月号) 117-125 (匿名解説)
 ・判例時報 No.2349 (2017) 76-83 (匿名解説)
 ・田中孝一, 「年報知的財産法2017-2018」 (高林龍・三村量一・上野達弘 編) 日本評論社 (2017) 14-24
 ・田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) 3847-3878
 ・・・

しかも内容は基本的に同じなのだ。 まぁ、書いてあることが違っていたら逆に変だが・・・。

*     *     *

さて、9月20日の投稿でも書いた通り、今回の均等論の大合議判決(平成27年(ネ)10014)や最高裁判決(平成28(受)1242)については、「特許侵害」という最終結論については反対はしないものの、第5要件の判断基準の判示については私は批判的で、裁判所が示した判断基準は特許権者に対して甘すぎだと思う。 そして本稿の「6.」〜「8.」節に書いた通り、私と同じように思っているであろう人たちは他にもいると思われるのだが、判決後に出された論文の中で、判決に対する批判をはっきりと打ち出したようなものは残念ながらほとんど見当たらない。 愛知先生の「Law and Technology No.74 (2017) 75-83」(82ページ)くらいだろうか。 愛知先生はその論文の中で、「 ……、本大合議判決は、…。……と述べる。 しかし、…… ではなかろうか。 さらに、……と説く。 しかし、……。 …… ではないだろうか。」(82ページ)という感じで、大合議判決の説示に反論されている。 しかしそうした反論も大合議判決までで、最高裁判決に関する愛知先生の評論(TKCローライブラリー 新・判例解説Watch 文献No. z18817009-00-111131515)では、かえって逆方向、つまり出願時同効材が明細書ではなく出願人(特許権者)の論文に記載されている場合に関して特許権者を擁護するような考察が行われているだけで、特許権者に対して甘すぎるという論調はなくなってしまった。

しかしそれでいいのでしょうか・・・・?

ということで、今さらだが大合議判決の評釈を書いた。

なぜ「最高裁判決」に対する評釈ではなく「大合議判決」に対する評釈なのかというと、最高裁判決は、原審(大合議判決)の「第5要件」の判断の是非についてのみ判示を行い、「第1要件」に関しては判示を行わなかったからだ。 しかし本稿で詳しく説明する通り、「第5要件」だけを検討したのでは、今回の大合議判決で知財高裁がしたことの全体像は分からない。 それを理解するためには、大合議判決の「第1要件」と「第5要件」をセットで検討することが不可欠だと思う。

「第5要件」に関して大合議判決は、出願時同効材を「出願人が,出願時に,・・・ 代替するものとして認識していたものと客観的,外形的にみて認められるとき,例えば,・・・ 明細書に ・・・ 記載しているとみることができるとき ・・・ は, ・・・ 第5要件における『特段の事情』に当たる」と説示した。 しかし、明細書や出願人の論文に記載されているときに限って第5要件で均等を否定すればよいなどという基準は、見るからに硬直的だ。 また、クレームしていないものに対し、特許権者が後出し的に「均等だ」と主張することを容易にしてしまう点で、特許権者のモラルハザードを助長する基準だと思う。 それなのに最高裁判決は、大合議判決が示したこの「第5要件」の基準を基本的に是認してしまった。 これらに対する批判は本稿の「11.」節までに書いた。

しかしより注目すべきだと思うのは、特許侵害の判断のエキスパートである知財高裁が、「第5要件」に関してなぜあのような説示を行ってしまったのかということだ。 そして、それを理解する鍵となるのが「第1要件」に関して大合議が説示した内容であって、「第1要件」の判示と「第5要件」の判示を合せて考えることで、今回の事件で大合議がしたことの意味が見えてくるというのが今回の Sotoku 9号 の内容だ。 その意味で、本稿が意義深いものとなるかどうかは、大合議判決の「第1要件」の判示について検討を行っている「12.」節に同感してもらえるか否かにかかっている。 しかし「第1要件」は技術的な内容が関わるところでもあり、読む人にどれほど同感してもらえるかは少し自信がない。 私の言っていることが間違っておらず、人に同感してもらえるものであればいいのだが・・・。

*     *     *

ところで前回の投稿で話題にした通り、早大の高林龍先生は、出願時同効材に対する均等論の適用には否定的で、出願時同効材に対しては均等論を適用するのではなく「文言解釈に柔軟性を持たせることで十分」だと論じていた(『標準特許法 第5版』有斐閣 2014, 155頁)。 これが高林先生の「融通性のある文言解釈」論だ。

私が高林先生の「融通性のある文言解釈」論を知った当初は、失礼ながら正直に言って、「なにまた変なこと言ってんの?」と思っていた。 なにしろ、ボールスプラインの最高裁判決で均等論が認められることとなり、最高裁調査官を務めた三村量一先生の判例解説(最高裁判所判例解説 民事篇 平10年度(上), 2001 法曹会, 112-185頁)において、「出願時同効材」についても基本的にはボールスプライン最判の5要件が適用されることが明言され、仮に均等を否定する必要がある場合は「第5要件」で否定することがはっきりと論じられているのだから、今後はその線に合わせて考えていけばよいものを、高林先生一人が均等論の適用を否定して「融通性のある文言解釈」を使えと唱えたところで、他の人はなかなかその考え方に乗れるものではないのではないか。

事実、高林先生の「融通性のある文言解釈」論は、ほとんど誰も乗ることはなく、今回の判決で否定されるような恰好になってしまったことは前回の投稿で書いた。

ところが、だ

本稿の「12.」節を読んで納得できるのなら同感してもらえるだろうが、今回の大合議判決の判決文を読むと、「第1要件」の判断に関して大合議がやっていることは、実質的には「融通性のある文言解釈」となんら変わらないではないか!

すなわち大合議判決は、表向きは高林説をきっぱり否定しているにもかかわらず、「第1要件」の判断でやっていることはまさに高林説なのだ。 つまり本稿の本文中にも書いたように、「高林説を否定しようとして、図らずも高林説で判断してしまった」のが、今回の大合議判決だというのが私の理解だ。 そこが今回の大合議判決の面白いところであり、また、そういうことだったのかと納得できるところだと思う。(つまり大合議がやったことはまだ分かる。 それに対して、「第1要件」の判断に触れることなく、大合議が行った「第5要件」の判断だけを切り取って是認してしまった最高裁は救いようがない。)

高林先生に関しては、こういう「気が付けば高林説」ということは結構あるような気がしている。 例えばプロダクト・バイ・プロセス・クレームの解釈に関しては、「物同一説」と「製法限定説」の対立があり、高林先生は「製法限定説」を支持しながらも、たとえ「物同一説」で解釈しても、権利行使できる範囲は「製法限定説」と同じだと論じていた(知的財産権 法理と提言 (牧野傘寿記念) 青林書院, 2013, 302-320の319ページ)。 この発言も、「物同一説」論者からすれば、「なに変なこと言ってんの」という感じだろう。 「物同一説」の方が広いに決まっているではないかと。 しかし実際には、Sotoku 通号6号 の脚注42で取り上げた通り、高林説は真実を突いている。 「物同一説」で権利行使したくても、物の構造が分からない限りは、「物同一説」で権利行使しようがないのだから。 「プラバスタチンナトリウム事件」で最高裁は「物同一説」を判示したが、それでどうなる? 不可能・非実際的事情を満たすPBPクレームのほとんどは、物の構造が分からない以上、「製法限定説」でしか権利行使のしようがない。 このようにPBPクレームの解釈問題に関しても、いずれは高林先生の言っている通りだったということになっていくだろう。

また、本稿の中でも取り上げているが、均等論の判断に関して高林先生は、「第1要件」には、「第1要件」〜「第5要件」のすべての要件が含まれていて、「第1要件」〜「第5要件」のすべてが均等成立の要件を満たしたときに、初めて「第1要件」は満たされるということを論じている。 これも多くの人は、「ボールスプライン事件で最高裁がせっかく要件を5つに分けたのに、なんでまた混ぜこぜにするのか」と思っているだろう。 例えば『知的財産法の要件事実 (法科大学院要件事実研究所報第14号)』(2016, 日本評論社) で伊藤滋夫先生は、高林先生のこの考え方を理解困難だと批判している。 かくいう私も、安易に混ぜこぜにすることに対しては批判的ではあるが、本稿の「12.」節で書いた通り、今回の大合議判決で知財高裁自身が事実上そういう判断(つまり、「第1要件」の中に「第5要件」の要素を混ぜ込んで判断すること)を行っているのを見ると、あながち高林先生の考え方を否定すればよいというものでもない気がしてくる。 むしろ多くの裁判官にとっては、そういう考え方の方がぴったりくる、あるいは、そういう考え方しかできないのかも知れない。

このように高林先生の言っていることは、一見するとおかしいと思うことでも、知らないうちに高林先生の考え方に戻ってきてしまう。 今回の大合議判決は、高林説が持つマジックのような一面を象徴していると思う。

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ところで今回の Sotoku 9号では、わりと強引に「高林説は実質的には三村説や大野説と同じである」ということにしてしまった。 しかし、これには私の希望も入っているかも知れない。 「融通性のある文言解釈論」は実質上「均等論」と同じであることは高林先生自身も認めているのだから、高林先生には、これからは自説を「均等論」として論じてもらい、他の人も乗りやすい考え方を説いてもらう方がよいのではないかな、と思っている。

なお、京大の愛知先生の考え方に関しても、できれば三村説や大野説の仲間にしたかったのだけれど、愛知先生の書いたものを読む限り、それはちょっと難しそうだったので、申し訳ないと思いつつ本稿では愛知説だけ仲間外れのように扱ってしまった。 しかし本稿でも紹介した通り、大合議判決後に書かれた愛知先生の論文(上述の L&T Vol.74)を読む限り、三村説に近づいている感じもする。 三村・高林・愛知・大野、そして出願時同効材に関して出願人の帰責性(換言すれば、クレームの文言が第三者に与える「それはクレームされていない」という客観的・外形的理解)を考慮すべきだと思っているすべての方々には、これからもあるべき均等論を論じて頂くことを期待しよう。

最後に、今回の Sotoku 9号では、大合議判決や最判の判示を素直に受け取り、「出願時同効材が明細書等に記載されていない限りは、基本的には第5要件の特段の事情には当たらない」という判示だと捉えている。 しかしこれについては、最高裁判決のもとでも、出願時同効材が本当に容易に記載できたはずのものである場合には、たとえ明細書等に記載されていなくても、「出願人はあえてクレームに記載しない旨を表示しているも同然だ」と捉えて均等を否定することも、解釈論として不可能ではないかも知れない。 しかし、私は初めからそういう立場は採りたくないのだ。 この判決を素直に受け取ったのでは問題があるということを認識してもらった上で、それを補うためにどういう解釈論が必要かを模索するというのならともかく、判決を批判せずにそういう立場をとってしまうと、すべてはたまむし色になり学説の進展が望めなくなる。 本稿では論点をはっきりさせるために、判決は「明細書等の記載」という明確な外形的証拠がない限りは出願人の帰責性を不問にすることを判示したと解し、それが不適切だと論じた。 今回の判決に対する私の解釈が正しくないというのなら、この判決を支持した側(すなわち高林・三村・愛知・大野を批判した側)にこそ、解釈論を論じて頂くことが求められるだろう。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする