2019年04月24日

「修正主義」としての「発明の効果」の意義論(前田健先生 Law and Technology No.82, 2019, 33-44)


Law and Technology No.82 (2019/1) 33-44 に掲載されている神戸大の前田健先生の論文『進歩性判断における「効果」の意義』。 進歩性の判断において、「発明の効果」はどのような意義があるのかを論じた論文だ。

特許や特許出願における発明の進歩性の判断において、「驚くべき効果」や「予想外の効果」などの発明の効果が進歩性を肯定する方向に参酌される場合があることは周知の事実だが、それはなぜなのだろうか? その説明としては、従来から「独立要件説」と「二次的考慮説」という二つの説がある。

独立要件説」とは、たとえ発明の構成が容易だとしても、その発明の効果が予想外に高いのであれば進歩性を認めるという考え方だ。 この考え方においては、「発明の効果」が高い場合は、結果的に、「発明の構成」が容易であるか否かによらずに進歩性は肯定されることになる(すなわち「発明の効果」は、「発明の構成」の容易性とは独立に進歩性を認めるための要件ということになる)から、この考え方は「独立要件説」と呼ばれている。

これに対して「二次的考慮説」(「間接事実説」などとも呼ばれる)とは、発明の効果はあくまで「発明の構成」が容易であるか否かを判断するために考慮しているのだと捉える考え方であり、「発明の構成」が本当に容易であるのに「効果」が高いからといって進歩性が肯定されることはないと捉える考え方だ。

したがって、「独立要件説」と「二次的考慮説」は異なる考え方であって、進歩性の有無という最終結論についても一致する保障はないだろう。 ところが今回の前田論文では、両者は事実上、結論において差を生み出さない運用が可能だと説明されている。

例えば今回の論文で前田先生は以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 36-37ページ]
たとえば、進歩性否定側が動機付けの論理付けに成功すれば容易想到性は一応肯定されるが、相手方が「効果」の存在を抗弁として立証したときには、結局容易想到性は否定されるという運用も、二次的考慮説のもとで必ずしも排除されないのである。実のところ、裁判実務では「予測できない顕著な効果」の有無と進歩性の有無がほぼ連動しているという指摘がある 24)。独立要件説では、「動機付け」=「構成の容易想到性」と「効果の容易想到性」とを分離して捉えるので必然的にそのような運用となるが、二次的考慮説を前提にしても事実上、同様の運用をなすことは可能である。その意味では、少なくともこの観点において、両説の対立は実際上の結論の違いをもたらさない 25)。

そして今回の論文で前田先生は、「基本的に二次的考慮説によって正当化することが妥当であると考える。」(38ページ)と述べて前田先生自身は「二次的考慮説」の立場であることを明確にしながらも、次のように論じるのだ。

[同 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を 奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

上のような前田先生の説明に対しては、単純に「なんで?」と思ってしまう。

「(予想外の)発明の効果」は、その「発明の構成」を採用して初めて判明することだ。 当然ながら、その「発明の構成」を採用するまでは、「(予想外の)発明の効果」は予想できないのであり、あらゆる発明は「その本当の効果」はいまだ分かっていない状態で発明される。 換言すれば、あらゆる発明は、その「発明の構成」が本当はどのような効果を発揮するのかとは無関係に発明されるわけだ。 そうすると、その「発明の構成」を採用することの動機付けは、その発明の構成が本当はどのような効果を発揮するかに影響を受けないはずではないか?

したがって、前田論文のように、発明の効果が予想外であった場合は「当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる」だとか、「その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである」などと説明するのは、後日判明した結果をもとに都合よく過去を書き換えてしまう「修正主義」のようなもので、論理的に難があると思う。

前田論文では、

[同 38ページ]
本稿の理解では、「動機付け」と「効果」はともに容易想到性の考慮要素であるが、動機付けが一応認められても予測できない効果が認められるときには、結局当該発明の構成に想到することが容易であったとはいえず、容易想到性が否定されることになる。その意味では、本稿の見解は基本的には二次的考慮説に立ちつつも「効果」をある程度独立して捉えているといえる。

と論じているが、前田先生が論じていることは、「ある程度」というより、実体は「独立要件説そのもの」だ。 しかも前田先生は、それを「二次的考慮説」だと言っている点で、「独立要件説」論者よりも分かりにくく、誤解を生みやすいものになっていると思う。

その意味で、私は今回の前田先生の論文の立場は、真に「独立要件説」を否定するものではなく、「独立要件説」を否定しているように見せかけているだけの、ある種の欺瞞行為(高貴なる嘘?)ではないかという気がしている。

もっともこれは前田先生に限ったことではなく、「二次的考慮説」を支持する論者のかなりの割合が、こうした修正主義的な考え方を採っている可能性もある。

ちなみに私は進歩性の判断において「効果」をどのように位置づけているかといえば、Sotoku 10号の「10.」節に書いた通りで、「容易」の判断の一環として効果を織り込もうとしている点では「二次的考慮説」と同じではあるけれど、「動機付け」の判断として効果を織り込もうとする前田先生のような考え方を採るのではなく、「高い効果を持つ“当たり”を引き当てることの困難性」として効果を織り込もうというもの。 したがって、「効果」による判断は「動機付け」による判断を否定できるものではないので、十分な「動機付け」がある場合は、「効果」が高くても進歩性は否定されるというのが私の立場だ。

もし前田先生が、「それほどの効果を奏する発明の構成を現に採用することは容易とは言えない」から進歩性は肯定されるのだとでも説明したのなら、私は同意することができたかも知れない。 しかしそれは、たとえ宝くじを買うことは誰にでもできるほど容易であるとしても、10億円の当たりくじを現に買うことは容易とは言えないというのと似たような意味で「容易とは言えない」からだ。 これは「動機付け」とは関係のない問題だ。 前田論文が書いていることは、 適当に買った10枚のLOTOくじの一つで10億円が当たった場合に、「10億円が当たったという結果が、予測できる範囲を超えていた場合には、10億円が当たるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、その当たりくじの番号の組み合わせを採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。」だとか、「10億円が当たったという結果が予測される範囲を超えていることは、結局、その当たりくじの番号の組み合わせを採用して10億円が当たるという結果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その当たりくじの番号の組み合わせを実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。」などと大真面目に論じているようなおかしさがある。 外れた9枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けと、当たった1枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けに、差などないのに。

このように、「予想外の効果」は「動機付け」の問題ではないのだ。 それを「動機付け」の問題として処理しようとしているところに、前田論文の違和感がある。

*   *   *

上で書いたことと少し関連するが、前田論文で気になった点をもう一つ指摘したい。

「発明の効果」によって進歩性が認められる場合があることについてはとりあえずよしとして、その効果は「優れている」必要はあるのだろうか?、それとも「優れている」必要はないのだろうか。

この問題について今回の前田論文は、「本稿の見解」という項目のところで以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 42ページ]
進歩性の判断において考慮される効果とは・・・、その効果が有利かどうかではなく、予測可能かどうかが問題となる。

つまり前田先生は、進歩性を認めるための効果は「予測可能かどうか」が重要なのであって、「優れている」必要はないという立場のようだ。 しかしそう言われるとすぐに“ツッコミ”を入れたくなってしまうのだが、予想外に「悪かった」としても進歩性を認めるのだろうか。 例えば、既存の医薬化合物をほんのちょっとだけ改変した。 すると予想外なことに活性が1/10になってしまった。 あるいは、予想外なことに細胞毒性が有意に上がってしまった。 そういう場合でも進歩性を認めるのだろうか?

まぁ、「優れているか否かは関係がない」、「予測可能かどうかが問題」等と論じたくなる気持ちは分かる。 何をもって「優れている」とみなすのかは必ずしも明確ではないし、主観的な要素が入り込む余地がある。 したがって、進歩性の判断基準をできるだけ客観的、かつ明確にするためには、「優れている」か否かというような観点は排すべきだ、と考えたくなるだろう。 しかし、「予測可能かどうか(のみ)が問題」だと考えてしまっては、上記のようなどうでもいい「改悪発明」の進歩性が否定できなくなるという不都合が生じるから、それを回避するような何らかの価値判断は必要なのだと思う。

前田先生は、米国や欧州における進歩性(非自明性)の判断においても、以下のように述べて、優れているか否かは関係がないと論じている。

[同 40ページ](米国について)
考慮されるのは効果が予期できないかどうかであり、効果がすぐれているかどうかは直接関係ない 42)。

[同 41ページ](欧州について)
効果は「優れている」必要はなく、あくまで予測できたかが問題となる 50)。

しかし、例えば脚注42に引用されているとおり、米国審査基準716.02(a) には、「Greater than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているのであって、「Greater or lesser than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているわけではないのだから、前田先生が言うように「予期できないかどうか」だけが問題とされているわけではなく、「greater」と言えるような効果が認められるのかは問題とされていると言うべきだろう。 実際、日米欧のいずれの特許審査においても、構成が容易だから進歩性や非自明性がないと指摘されている発明について、「予想外に効果が低かった」ことを立証したところで拒絶が解消するとは思えない。

もちろん私も、効果が「上昇」していなくても進歩性は認められうるとは思っている。 それについてはSotoku 10号の脚注36にも書いたが、ある既知の化合物を改変する場合において、「置換基を少しでも変えれば活性が完全に喪失する可能性が極めて高いというのが技術常識である場合は、活性があるというだけでも進歩性を肯定し得るだろう」。 したがって、別に活性が「上昇」していることが必須だというわけではない。 また場合によっては、活性や機能が予想外に「低かった」場合でも進歩性が認められることもあるだろう。 例えば、接着剤を開発していて、予想外に接着力の低いものができてしまった。 しかしそういう接着剤は、何回も貼ったり剥がしたりできる付箋用の糊として有用だから、進歩性を認めるべきだという考え方はあり得る。 しかしそれは、出願人なり特許権者なりがそういう主張(すなわち、「接着力は劣っていても、それが“当たり”なんです」という主張)を行って、特許庁の審査官・審判官や裁判所の裁判官を説得できて初めて進歩性が認められるものであって、「予想外に劣ったものができました」というだけで自動的に進歩性が認められるものではないだろうし、そうあるべきものでもないと思う。 つまり、効果が「優れている」必要はないにせよ、単に「予期できない」というだけでは足らず、「当たり」だとみなせるようなものであることが必要なのであり、出願人はそれについて主張する責任があるということだ。

なお、効果が「高い」場合も実は同じで、効果が「高い」方向に予想外だというだけで自動的に進歩性が認められるというよりは、効果が高い場合は「当たり」であることが推認でき、「当たり」であることを出願人が特段主張しなくても進歩性が認められるから、「当たり」か否かという問題は表に出て来ないだけだろうと思う。

そして、とくに多数の選択肢の中から一つを選んで行った発明の場合に、その発明を「当たり」だとみなすか否かということや、そもそも何を「当たり」とみなすのかということ(例えば、薬効と副作用を併せ持つ既知の医薬化合物を改変したら、予想外なことに、副作用はそのままで、薬効だけが消失するという、ある意味で面白い化合物が得られたとして、その化合物は「当たり」と言えるのか)は、Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり「総合的な判断」が必要なわけで、そこにはある種の価値観のようなものが入ってこざるを得ないのではないか。 すなわち進歩性判断における「効果」は、そうした価値判断を通して検討されるものなのであって、「予測可能か否か」だけが問題になっているわけではないということだ。

*     *     *

以上、前田先生の論文をとおして、進歩性判断における「発明の効果」の意義について考えてみた。

私は、「当たり」か否かはさほど厳格に判断する必要はなく、「当たり」だというある程度の理由がつけば、それを認めてあげていいとは思っている(後は動機付けの問題)。 しかし、特許権というものが第三者の自由を長期間にわたって制限しうるものである以上、それが許される程度には「当たり」とみせること、言い換えれば、それすら主張できないような発明は、たとえ結果(効果)の詳細が事前に予測できたものではないとしても、単なる「でたらめ」または「寄せ集め」によって生じる必然的な結果に過ぎないとして進歩性を否定することは、つまらない特許の乱立を防ぐ意味でも望まれることなんじゃないかな。

進歩性における「効果」の意義については、田村先生のWLJ判例コラム 153号の感想を書くときに再び考えたい。


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2019年04月16日

前田健先生 ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決評釈(Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26)


前田先生は、Law and Technologyの一つ前の号(Law and Technology No.82, 2019-1, 11-44)でも進歩性の判断について論文を書いているけれど、それについてはまた今度感想を書くとして、今回は直近のL&T(83号)で出された論文について短く感想を書いてみたい。

今回の「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)で裁判所は、進歩性の判断において使用する引用発明は「・・・、当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして、当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され、当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には、当業者は、特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り、当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。」と判示し、主引用発明と本件発明との「相違点」に関する副引例中の記載は、具体的な技術的思想を抽出することができるように記載されていないことをもって本件発明の進歩性を肯定した。

私は、進歩性の判断における引例にそのような「引用発明適格性」を要求する必要はないと考えており、そのことはSotoku 10号(「1.」〜「8.」節)でも書いた通りだ。

一方、前田先生は今回の論文において、以下のように書いて大合議判決を支持している。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 25ページ]
後知恵を排除して進歩性判断を客観的に行うためには、当業者の参照できる知識は、「技術常識」の状態に達したものか、裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)に限られるというルールが必要とも考えられる 42)。 この観点からは、本判決は肯定的に評価することができる。 引用例に記載されている事項が何でも当業者の知り得た知識として進歩性判断の基礎に用いられるとすることは、後知恵により過度に進歩性が否定されることにつながりかねないし、「発明」としてある程度確立しているひとまとまりの知識(および技術常識)のみを当業者は参照できると整理するほうが進歩性判断の明確化に資すると考えられるからである。

上に引用したとおり前田先生は、相違点に関する技術的思想が「裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)」として引例中に記載されていない限りはそれを引用発明として用いることができないとする大合議判決の考え方について、進歩性判断を客観的に行うために必要であり、「明確化」に資すると論じて評価している。 しかし私に言わせれば、そのような考え方は進歩性判断の無用な「硬直化」を招くおそれのあるものであり、本来は進歩性を否定すべき発明の進歩性を否定できなくし得る「自縄自縛」だ。

とりあえず前田先生のような考え方を否定するために、具体的な例を考えてみたい。 前回の投稿で挙げた例と同じだけれど。

*     *     *

今回の事件では、主引例(甲1)に記載されている実施例1bの化合物(下図)が主引用発明とされた。

20180424_kou1_1.png

そして、上の赤い丸で示した「–N (CH3)(CH3)」の部分が、本件発明の化合物においては「–N (CH3)(SO2CH3)」に変わっていることが主要な相違点(判決文における「相違点1-i」)である。 そしてこの相違点について本件の副引例(甲2)には、この部分を「–N R4 R5」を書き表した上で、「R4 及びR5は同一もしくは相異なるものでありメチル,エチル,プロピル,イソプロピル,ブチル,イソブチル,tert-ブチル,フェニル,ベンジル,アセチル,メチルスルホニル,エチルスルホニル,プロピルスルホニル,イソプロピルスルホニルまたはフェニルスルホニルを表わす」と記載されていることから、R4 として「メチル」(CH3)を選択し、R5 としてメチルスルホニル (SO2CH3) を選択した「–N (CH3)(SO2CH3)」(本件発明と同じ構造)は、副引例(甲2)から容易なのではないか、ということが問題となったわけだ。

そして大合議判決は、要するに、上記の相違点である「–N (CH3)(SO2CH3)」という技術的思想は甲2において具体的な技術的思想として記載されていない旨を説示して「引用発明適格性」を否定し、本件発明の進歩性を肯定した。

そこで例を挙げたいのだが、私が考えた以下のような「でたらめ化合物」ではどうか? つまり、私は上記の甲1に記載されている化合物を、以下のようにでたらめに改変することを思いついた。

Sotoku10-p24fig.png

つまり、甲1の化合物では「-CH3」(メチル基)となっているところを「-CH2-C6H5」(ベンジル基)に換えたのだ。 この化合物は、甲2の記載に基づいて言えば、R4 として「メチル」(-CH3)を選択し、R5 として「ベンジル」(-CH2-C6H5) を選択したものに相当する。 そしてこの「でたらめ化合物」の活性を調べてみたところ、残念というか、当然なことに、改変前の化合物(甲1の化合物)に比べて活性が1/3に低下してしまったと仮定する。

それで、私のこの「でたらめ化合物」には進歩性はあるか?

大合議判決は、本件発明の相違点の構成、すなわち『R4 としてメチルを選択し、R5 としてメチルスルホニルを選択する』ことについて「甲2」は引用発明適格性を満たさないから引用発明として使うことはそもそもできない旨を説示したわけだ。 もしそれが正しいというのなら、私の「でたらめ化合物」のように、『R4 としてメチルを選択し、R5 としてベンジルを選択する』ことについても、「甲2」中の記載の程度は本件事件の場合と同等だと考えられるから、同様に引用発明適格性を満たさないという結論になるはずだ。 そうすると、私の「でたらめ化合物」には進歩性があるという結論になるわけだが、前田先生はそれでいいのだろうか。

今回の大合議判決の説示に全面的に同意したままで、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定することはできないから、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定したいのなら、どうやってこの発明の進歩性を否定するのかを考える必要があるだろう。 そうすると、今回の大合議判決の説示を「明確化」に資すると言って単に評価しているだけの前田論文は、「検討が足らない」、あるいは「批判すべきものを批判していない」ということになるんじゃないかな。

もちろん、上に挙げた問題を解決するだけであれば、Sotoku 10号で書いた「清水説」(大合議判決に関わった清水節先生の説;24頁参照)を採ることによって解決することはできる。 つまり、化合物の置換基を既知の置換基に換えるのは周知技術であるから基本的には進歩性がないと考えることによって解決することはできるだろうけど、果たして前田先生は「清水説」を採るのか、それとも違う道を行くのか、注目していきたい。

*     *     *

なお、前田論文の脚注42には以下のように記載されている。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 脚注42]
42) 田村善之「本件判批(その2)」WLJ判例コラム153号10頁〜13頁は、そもそも進歩性判断において引用発明適格性という議論を持ち込むこと自体を批判し、具体的な技術的思想を開示するものとしてはいまだ不十分としても何らかの示唆を看取したり、動機づけを与えたりすることはあり得るはずなどと指摘する。首肯する部分は多いが、私見としては、一方で、不確実な知識についても進歩性判断に利用可能とすると、探せば仮説の類はいくらでも発見できるのであり、進歩性を自在に否定できることになるのではないかと懸念する。引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎないと思われる。

この点については、私は田村先生を擁護したいので、前田先生の指摘を批判しておくと、もし「探せば仮説の類はいくらでも発見できる」という状態だというのなら、一体どの仮説が正しいのかはやってみなければ分からないという状態だということになるのだから、特定の仮説(本件発明において採用した仮説)を選択することの動機付けはむしろ否定され、進歩性は肯定される方向に作用することになるだろう。 したがって前田先生が懸念するような問題は生じないです。 むしろ、前田先生のいうところの「明確性に資する」ために「引用発明適格性」という新たな関門を設けることが正しいというのなら、それでもなお進歩性の判断に不都合が生じないことは前田先生が証明する必要があると思う。 単に明確性に資するように感じるからといって、それで不都合が生じないことを示さないまま「引用発明適格性」という関門を設けることを正当化することはできない。 私は、「新規性」の判断においては「引用発明適格性」という関門を設けることを容認できることはSotoku 10号の「6.」節で一応説明を試みたよ。 だけど、「進歩性」の判断においては話は別だ。 進歩性の判断に不都合が生じないことを示せないのなら、安易に要件(「引用発明適格性」という要件)を増やすことには 慎重であるべきではないか。

また、「引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎない」と前田先生が論じていることについては、少なくとも私は「引用例はすべて同程度に確からしいものとして参照できる」などとは思っていない。私は引用例を参照することを門前払いすることを批判しているだけだ。 発明前に存在するあらゆる引用例は参照し得ることは認めた上で、参照することの動機付けの程度や、前田先生のいう「仮説の類」の信ぴょう性の程度(合理的成功の期待)は、容易想到性の判断の中に織り込んで判断するべきだと思っているだけだから、別にフィクションを信じているわけではない。 むしろ、主引用発明の選択の容易性を不問にし、(実施可能な程度の)あらゆる主引用発明は所与の出発点とみなすことに疑問を持っていないようにみえる前田先生の考え方(前田論文の26頁最終文)こそ、実際にはフィクションなのではないか? (以下に引用)

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
なお私見を述べれば、特許法29条1項各号の発明に該当する以上、主引用発明とすることに支障はないとするのが、条文の文言上最も素直である。 実質的にも、類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分だろう。

私も、主引用発明の選択の容易性(田村先生がWLJ判例コラム 153号で言うところの「アクセス可能性」)を客観的な基準をもって判断するのは難しいだろうなとは思うし、だから実際には、「ごめんなさい。進歩性の判断においては、主引用発明のアクセス可能性は無視するか、せいぜい副次的な事情として考慮するのが関の山です。」ということになりそうな気もするけれど、たとえそうだとしても、それは実務上または法制度上の「妥協」であって進歩性判断の理論から導かれるものではないし、条文の文言上素直だからというだけで正当化できるものでもない。 また、上に引用したとおり前田先生は「類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分」というが、ここで問題とされているのは「主引用発明の選択の容易性」であって、(発明当時は存在していなかった本件発明と)「類似技術かどうか」とは関係がないし、「主引用発明を確定させた後」で判断に取り込めるはずもない。

まあ、WLJ判例コラム 153号を読む限り、田村先生もこの点は前田先生と同じ立ち位置だから、前田先生を批判することは田村先生を批判することにもなってしまいそうだけれど、田村先生の場合は「努力」(WLJ判例コラム153の脚注51)という言葉を使って論じており、「アクセス可能性」を無視するのは「妥協」の一種であることを示唆しているよね。 そこは私も理解できるところだ。

*     *     *

ということで、いろいろ批判はしたけれど、前田先生の以下の論じ方を読むと、前田先生も進歩性の「引用発明適格性」についてはかなりゆるく考えているのかな、と思ったりもする。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
ただし、引用発明たりうる「発明」の定義を厳格にとらえすぎるのも、判断の柔軟性を奪いすぎるので妥当ではない。本判決でも、甲2発明は「ピリミジン環の2 位の基を『-N(CH3)(SO2R’) 』とするという技術的思想」という程度のものである。 何らかの課題解決手段と位置付けられさえすれば、実施可能性を裏づける記載のある限り、引用発明と認定して差し支えないだろう。

前田先生が、進歩性の「引用発明適格性」というものを十分にゆるく考えているのなら、進歩性の判断において「引用発明適格性」が過度に否定されることはなくなるだろうから、「引用発明適格性」がないことだけを理由に、動機付けがあるにもかかわらず進歩性が肯定されてしまうというような不都合が生じるおそれはなくなるだろう。 そうであれば、前田論文をことさら批判する必要もなくなるかも知れない。 しかし、もし柔軟性のあるゆるい基準を採用するということになると、そのゆるい基準というのは一体なんであるのかは「明確」とは言えなくなるだろうから、「明確化に資する」のかどうかは怪しくなるだろうし、そうであれば、そういう要件を設けることの意義も薄れるというものだろう。

それに、前田先生は「ピリミジン環の2位の基を」と言うが、「引用発明適格性」を満たすために、引例には本当に「ピリミジン環の2位の基」を置換することが記載されていなければならないのだろうか? 肝臓への移行性を高めるためにメチル基(CH3)のような疎水性の置換基の近くに親水性が高いスルホニル基(SO2)を導入することが医薬品化合物の開発において比較的頻繁に行われているという状況がもしあるのなら、必ずしも「ピリミジン環の2位の基」を置換した引例がなくても進歩性を否定できる場合もあるのではないか? 逆に、「ピリミジン環の2位の基」を置換することさえ記載されていれば引用発明として適格なのだろうか? 化合物全体の構造が、単にピリミジン環を持つというだけでなく、もっと本件発明の化合物の構造と似ている必要があるのではないか。 また、その化合物がHMG-CoA還元酵素阻害活性を持つ化合物であることは要するのか?

そのように考えていくと、ある引例が進歩性を否定できる引用として適格なのか否かは、むしろ他の引例の記載内容や当時の技術状況、発明の個別の事情などによっても影響を受ける総合的な判断を通してしか決定できない事柄であって、それを判断する前に、その引例だけを個別に取り上げて「引用発明適格性」を満たすか否かを判断することなど、そもそもできないのではないかという思いが強くなってくる。

進歩性の判断において「引用発明適格性」という関門を設定することを是とする考え方は、「できない」ことを「できる」と思い込むフィクションに支えられてはいないのかどうか、私はその疑問をぬぐえないのだ。

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