2019年05月30日

「発明の効果」の意義について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(3)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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(5)「独立要件説」批判との整合性

4月24日の投稿でも話題にしたが、「独立要件説」とは、容易な発明であっても「顕著な効果」があれば進歩性を認める(すなわち、「顕著な効果」がなければ進歩性なしと判断するのに、「顕著な効果」があることをもって進歩性ありと判断する)という考え方だ。 この考え方を採るかぎり、「顕著な効果」があれば、発明の構成が容易か否かとは無関係に進歩性は認められることになるから、「顕著な効果」は進歩性を認めるための独立した要件(具体的には、発明の構成が容易か否かとは無関係に、「顕著な効果」だけで進歩性を認める要件)となる。

今回の田村評論の脚注41にも記載されているとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、「独立要件説」に対立する説として知られる「二次的考慮説」を採っている。

ところで前回の投稿で話題にした「ゾンビ説」は、選択発明には基本的に新規性も進歩性もないと考えているのに、「顕著な効果」があることをもって新規性も進歩性もあると考えるのだから、「独立要件説」と類似している。「ゾンビ説」において「顕著な効果」は、選択発明の新規性を認めるための要件としても、進歩性を認めるための要件としても、「独立要件」として作用しているように見える。

したがって、もし田村先生が「ゾンビ説」を支持するのだとすれば、田村先生が「独立要件説」に反対していることと矛盾するのではないかという疑問が生じることになる。

田村先生もこの点は考えているのだろう。今回の評論において田村先生は、「選択発明の場合には、別異の取扱いとなる。」(脚注41)と述べ、以下のように解説する。

[田村評論の 7)より]
 選択発明について、刊行物に記載された先行発明の抽象的な範囲に含まれることに変わりはないにも関わらず、顕著な効果の有無によって新規性、進歩性の判断が分かれるとされているのは何故なのであろうか。この問いに対する解答は、産業の発達のために発明とその公開にインセンティヴを与える特許法の目的に鑑みることにより、自ずから明らかとなる。つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる

上の引用から示唆されることは、仮に選択発明には一般に「新規性」も「進歩性」も「ない」と考えるとして、「顕著な効果」があった場合に田村先生が「ある」と考えるのは「新規性」だけで、「進歩性」はあくまで「特定が当業者にとって容易でなかった」ことが必要だと考えていることだ。 すなわち、「顕著な効果」を「独立要件」と考えるのは「新規性」だけであって、進歩性はあくまで「二次的考慮説」にしたがって判断するのだから、これまでの田村説と矛盾はないというのが田村先生の立場のようだ。

つまり田村先生の考え方によると、(先行発明が成立している)選択発明には基本的に「新規性」がないが、「顕著な効果」があった場合は「新規性」はあると考え直し、さらに、その発明を特定することが当業者にとって容易でなかったという場合には「進歩性」もあると考えるということになる。

しかしここで疑問が生まれる。 田村先生は、「顕著な効果」が発見されるまでは「新規性がない」と考えていた選択発明の中に、「当業者にとって特定が容易でない」発明が含まれ得るという立場なのだろうか? つまり「当業者にとって特定が容易でない」発明なのに、(「顕著な効果」が発見されるまでは)その発明を「新規性がない」と考えるのか? なぜ「当業者にとって特定が容易でない」のに「新規性がない」と言えるのか?

田村先生は、上のような考え方はインセンティブ論から「自ずから明らかとなる」と論じている。 しかしインセンティブ論から「ゾンビ説」そのものを導き出すことはできないのではないか。 例えば「ゾンビ説」を採らず、実施できることが明らかであるように(実施例などを伴って)明細書中に記載されていない選択発明は基本的に「新規性」はあると考え、そのような選択発明の中でも、選択する動機付けがなく、かつ、それなりの効果もあるものだけが「進歩性」があると考えても、選択発明に特許を付与するか否かという最終結論において「ゾンビ説」とほとんど同じ結果をもたらすことはできる。 そういう考え方と「ゾンビ説」のどちらが正しいのかまでをインセンティブ論で判断することはできないはずだ。

但し、もし特許を付与するか否かという最終結論において違いが生じないのなら、こうした考え方の違いをあまりしつこく問題にしても不毛かな、とは思っている。 だから Sotoku 10号の脚注41でも「対立させることに不毛感がある」と書いた。


(6)田村先生が採用する「二次的考慮説」は、「独立要件説」と実質的な違いはあるのか?

上述のとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、それとは対立する説である「二次的考慮説」を採っているが、「二次的考慮説」について田村先生は、「パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016」の中で以下のように解説している。

[田村善之, パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016 の4ページ]
 2  顕著な効果をなぜ斟酌するのか: 二次的考慮説
 他方,29 条2 項の条文に忠実に考えるとしても,特許発明が従来技術に比して顕著な効果を有していることが直接, 進歩性を基礎づけることにはならないのだが,しかし従来技術に比して顕著な効果があるにも関わらず, 発明がなされていなかったということが,進歩性を肯定する方向に斟酌すべき一事情となることまでが否定されるものではない。 進歩性の判断の際に顕著な効果が斟酌される理由を,ここに(のみ)求める見解を,「二次的考慮説」と呼ぶことにしよう。

もし「二次的考慮説」というものが、「たとえ顕著な効果があっても、容易なもの(一定の動機付けがあるもの)には進歩性はないのだ」と考えて進歩性を否定する説であるのなら私も賛成できる。 しかし、いろいろな人が書いている論文を読むと、そこがどうもはっきりしない。「独立要件説」と「二次的考慮説」は事実上差がないようなことを論じたりする人もいる。 例えば4月24日の投稿で取り上げたとおり、神戸大の前田健先生の最近の論文(L&T No.82, 2018, 33-43ページ)でも、「独立要件説」と「二次的考慮説」との対立について、「・・・実際上の結論の違いをもたらさない」(37ページ左)とか、「・・・、この対立はあくまで理念的なもの」(39ページ右)などと論じられている。 しかしそう論じる前田先生の「二次的考慮説」がどういう説なのかといえば、4月24日の投稿で説明したように、効果を確かめるまでは「動機付けがあった」とみなすものを、顕著な効果があったら「動機付けがなかった」と思うことにしてしまう修正主義的な考え方なのだ。 前田先生のように考えれば「二次的考慮説」と「独立要件説」の結論に差がなくなるのは当然だろうが、もし「二次的考慮説」がそういう説なのだとしたら、そんな「二次的考慮説」を唱えること自体、「無意味かつ誤解を生む源である」と評価しなければならないのではないか? 清水節先生や玉井克哉先生(2018年6月22日の投稿参照)のように、はっきりと「独立要件説」の考え方を打ち出す方が、よほど分かりやすいし、議論もしやすい。

このように、「二次的考慮説」を唱える人はどうも分かりにくいのだ。 そこで、私は「二次的考慮説」とは距離をとるために、Sotoku 10号では「二次的考慮説」という言葉はあえて使わず、発明の効果は「一次的考慮要素」なのだと書いた(28ページ)。

パテント69巻5号(別冊15号)を読む限り、田村先生は、この2つの説は実質的な差がある(すなわち、田村先生の「二次的考慮説」においては、たとえ顕著な効果があっても一定の動機付けがあるものには進歩性はないのだと考える)と思われるので、少なくともその当時の田村先生の考え方は応援したいのだけれど、今回の田村評論では、その点が一歩後退して前田先生と同じような考え方になってしまったようにも見え、かなり不安になってくる。

例えば上でも引用したが、今回の田村評論では以下のように論じられている。

[田村評論の 7)より]
つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。そしてこの進歩性の判断においても、顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化するので、進歩性を肯定する方向に斟酌される

上記のように田村先生は、「顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と論じている。 しかし、「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」というのなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということになり、事実上、「独立要件説」と変わらないことになってしまう。 上にも引用したとおり田村先生は、「顕著な効果」で肯定されるのは「新規性」だけで、進歩性については、「その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。」とは言っているものの、田村先生は「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」とも言っているのだから、顕著な効果があること自体が「容易でなかった」ということを自動的に肯定することになり、事実上は「独立要件説」で進歩性を判断するのと変わりがなくなるのではないか?

田村先生は以下のようにも論じている。

[田村評論の 脚注47より]
ちなみに、筆者の立場はこれまでの論述から明らかなように、先行発明が成立している場合には後行発明が新規性を喪失しないためには少なくとも顕著な効果が必要であり、さらに進歩性を否定されないためには後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであることも必要である(顕著な効果は、この進歩性判断の際の二次的考慮要素としても参酌されうる)。

上の引用中では、進歩性を認めるためには「後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであること」も要件である旨が論じられているが、もし「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」のであれば、その要件は事実上、ないのと同じということになりかねないのではないか? 田村先生には、私が田村先生に抱くこのような不安をぜひ払しょくしてほしい。 つまり、「顕著な効果」というものが、進歩性の判断においてどのような役割を果たすのかについて、今一度明確に論じてほしいと思う。

ちなみに、私の考え方は Sotoku 10号や4月24日の投稿で説明したように、「顕著な効果」は、「でたらめに選んだだけの(あるいは単なる寄せ集めに過ぎない)ありきたりのものという推定を否定するための証拠」だと捉えるというものだ。 つまり、何千何万の潜在的な選択肢の中から特定の一つを選ぶというのは、確率的には何千分の一、何万分の一であるから、効果を考えるまでもなく、「その構成を選ぶ動機付けはなかった」と言えるのかも知れない。 しかし、何千何万の選択肢の中から一つを選ぶという発想や行為自体は容易なのだから、単に「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」という推定を否定できない限りは進歩性を認めるべきではない。 そして、「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」ということを否定するための客観的・外形的な尺度として、その発明の効果が『「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」とは思えないほど高い』のか否かが測られるというわけ。

したがって私の考えでは、「顕著な効果」というのは、「その構成を選ぶ動機付けがない」ことを推認させる事情ではなく、「単なるでたらめ/寄せ集めのありきたりではない」ことを推認させる事情ということになる。 したがって、いくら「予想外の顕著な効果」があろうとも、それ自体は「動機付けがない」ことを推認させる事情とはならず、たとえ「顕著な効果」があっても一定の「動機付け」があったのなら進歩性は否定されるというのが私の考え方だ。

この考え方はすっきりしているのではないか? 田村先生や前田先生のように、「顕著な効果があることが容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と考えてしまっては、「顕著な効果」自体が進歩性を肯定する十分条件となってしまい、「独立要件説」との違いが分かりにくくなってしまうが、私のように「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎないと考えれば、強い 動機付けがあった場合は進歩性を否定することができる。

また私は、「動機付けがない」ことは進歩性に求められる重要な要件であるの対し、「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎず、4月24日の投稿の最後でも書いたとおり、それほどシビアに判断する必要はないとも感じている。 なぜなら、たとえ「顕著な効果」がないものを特許にしても、その発明を行う「動機付けがない」のであれば、第三者が容易に思いつくものに特許を付与することにはならないからだ。 また、進歩性を認めるために必要な「顕著な効果」のレベルについても、「単なるでたらめでのありきたりはない」と推認できれば足りるのだから、それほど高い効果を常に求める必要はなく、また場合によっては、出願後に判明した効果や商業的成功などを参酌することも容認できると考えている。

Sotoku 10号の「9.」節で私が例に挙げた「くだらない発明」(改変タンパク質や改変化合物)に関して、たとえ特許になっても私は「構わない」(24ページ、26ページ)と言ったのはそういうことであり、たとえ特許になっても、その発明に「動機付けがない」ことに変わりはないから第三者への害は少ないだろうという意味だ。 そしてSotoku 10号の脚注35で「後出しデータ」や「医薬品としての成功」を参酌してもよいことを示唆したのは、発明の「効果」というものは、それほどシビアに判断すべき要件ではないと思っているからだ。

「動機付け」がなくても「効果」がなければ進歩性を否定し、「効果」があっても「動機付け」があれば進歩性を否定する私の考え方は、進歩性のハードルを上げ過ぎているのではないかと思われるかも知れないけれど、そうでもない。 例えば今回の事件では、副引例に選択肢が「2000万個以上」記載されている場合だったが、たとえ引例に選択肢が「数十個」程度(あるいは十個程度)しか記載されていなくても、それらの選択肢について実施例がなく、実施できることが「明らか」だと言えなければ「新規性」は否定されないし(審査基準 第III部第2章第3節3.1.1(1)(b))、顕著な効果があれば「進歩性」も肯定され得るかも知れないと考えている。 「2000万」という数字をそこまで下げ得るのはなぜかというと、Sotoku 10号の「7.」節にも書いた通り、その引例は「所与の前提ではない」と思うからだ。 つまり、たとえその引例には「数十個」しか選択肢が記載されていないとしても、「その引例に着目すること自体が容易であったのか」を加味しうるからだ。 したがって、文献の選択の容易性までも加味しながら総合的に考えて、その発明に到達する動機付けはなかったといえる状況であるのなら、たとえそれがある先行文献中に膨大とは言えない数の選択肢の一つとして明記されているとしても、進歩性は肯定しうると考えている。

なお、上記で『引例に選択肢が数十個程度しか記載されていなくても「新規性」は否定されない』と書いたが、仮にその引例が特許で、その数十個を概念的に包含するようなクレームで特許が成立している場合は、引例の特許権の効力はその数十個にも及ぶことになるだろう。 先願の明細書に選択肢が(実施例ではなく仮想的にではあるものの)記載されており、その特許権の効力もその選択肢に及ぶのに、依然としてその選択肢の「新規性」は失われていないという私の考え方はおかしいと感じる人もいるかも知れないが、そんなことはない。 Sotoku 8号『実施可能ではない態様を包含する発明に特許を付与してもよい事情』の「10.」節で書いたことと同じで、“実施可能性がない態様” (実施できることが明らかとは言えないのだから、少なくともその実施態様については新規性も失われていないと考えうるだろう;上記審査基準)を包含する発明に特許が付与されることは普通にあるからだ。 「ゾンビ説」を支持している人たちは、先行特許発明の技術的範囲に包含される選択発明はすべからく「実施できることが明らか」で、すべからく新規性がないと思っているのかも知れないが、そうした考えは誤りだと思う。 単に、先行特許発明の技術的思想(その先行特許発明の本質的部分)を利用する関係にあるというだけのこともあるのだ。 (ただしSotoku 8号で書いた私の考え方は、「クレームはその全範囲(full scope)において実施可能でなければならない」という建て前を持つ各国特許庁の記載要件の考え方とは相いれないようにもみえるので、なかなかこうした考え方が広く一般に受け入れられるのは難しいかも知れないが。)

ということで、私がSotoku 10号で説明した「顕著な効果」の考え方は、進歩性判断における「効果」の意義を明確化しようとするもので、これまでの「二次的考慮説」では必ずしもはっきりしなかった「独立要件説」との違いも打ち出すことができる。 つまり、「二次的考慮説」では「効果」を「動機付けがないこと」を推認させる事情だとみなしているのに対し、私の考えでは、「効果」は「単なるでたらめ/寄せ集めによってできたありきたりではないこと」を推認させる事情であって、「動機付けがないこと」を推認させる事情ではないから、基本的には動機付けの判断に影響を与えない。

この考え方でうまく行くかどうか、今後も考えていきたい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

「ゾンビ説」は妥当か? − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(2)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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● 「4 評釈」 の 「 7) 」 について

田村評論の「4 評釈」の「 7) 」には、気になる点がいくつかあるので、それについて以下に見て行きたい。

(1)ある上位概念の発明が知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に該当する発明は基本的に新規性がないという考え方(井関論文のいう「第二説」)は妥当なのか?

同志社大の井関涼子先生は、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決の評論(特許研究 No.66, 60-75 (2018))で以下のように論じている。

[井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018) の71ページ右]
 学説では,選択発明の特許性に関して2つの考え方がある。 第一説は,選択発明は先行発明に具体的な記載がないことにより,新規性を有する発明であり,かつ,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるとの考え方であり,第二説は,選択発明は,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるので,新規性が否定されない発明であるとの考え方である。 第一説は審査基準の考え方であり,第二説は多くの裁判例が採用している
 第二説の立場からは,選択発明の理論は,具体的に引例に記載されていないものの,本来ならば新規性がない(または先願との同一性あり)とされる場合であっても,引例にはない特有の効果が認められる場合に新規性と進歩性を認めるものと考えるべきであるとし,審査基準では,選択発明はまず新規性の有無について判断し,新規性があることを認定してから成立するものだとしているが,選択発明としての進歩性が否定される場合は,原則に戻ってその発明は新規性なし(先願との同一性あり)と判断されるべきであろうと主張されている。

「新規性がない」とみなしているものを、顕著な効果がある場合は一転して「新規性と進歩性がある」などと考えるのは、私に言わせればご都合主義もいいところで、そのような考え方は「理論」ではなく「理論的破綻」だと言いたい。 これは4月24日の投稿で批判した「修正主義」的な考え方の最たるものだと思う。 「お前は新規性がない」(すなわち、お前が特許になる可能性は失われた。すなわちパブリックドメインに入る川を渡った)とみなしているものを、顕著な効果があったからといって、一転して特許にするというのは、いったん死んだものを生き返らせるにも似た行為であって、私はこの考え方を「ゾンビ説」と名付けようと思う。

理論派である田村先生なら、きっと「ゾンビ説」を批判してくれるだろうと期待しているのだが、今回の評論で田村先生は、以下のように「ゾンビ説」を紹介するだけで、これを批判してくれない。

4 評釈7) より]
選択発明は、刊行物等に記載されている発明が上位概念等で抽象的に特定されているに止まる場合に、その抽象的な範囲には属するが具体的には開示されていない構成を特定する発明であり、先行発明に対して顕著な効果(異質な効果または際立って優れた効果)がある場合には特許性が肯定されると理解されているものである ※38。選択発明として主張されている発明に、この顕著な効果が認められない場合には新規性が否定されるが、顕著な効果が認められれば新規性と進歩性がともに充足されると取り扱われている。


(2)「ゾンビ説」は多くの裁判例が採用しているのか?

上に引用したとおり、「ゾンビ説」(井関論文のいう「第二説」)について井関先生は「多くの裁判例が採用している」と論じ、田村先生は一歩引いた言い方ながら、「と理解されているものである」、「と取り扱われている」と論じている。 こうした論じられ方を見ていると、まるでこの考え方が裁判所における定説であるかのように感じてしまうが、それは本当なのだろうか? 例えば今回の田村評論の脚注38に引用されている4つの判決を見てみたい。

@ 昭和60(行ケ)51 「鉄族元素とほう素とを含む無定形合金」(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

[判決文より]
 いわゆる選択発明は、構成要件の中の全部又は一部が上位概念で表現された先行発明に対し、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明であつて、先行発明が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものを構成要件として選択した発明をいい、この発明が先行発明を記載した刊行物に開示されていない顕著な効果、すなわち、先行発明によつて奏される効果とは異質の効果、又は同質の効果であるが際立つて優れた効果を奏する場合には先行発明とは独立した別個の発明として特許性を認めるのが相当である。

つまり裁判所は、下位概念の構成が「具体的に開示されていない」場合、顕著な効果があれば「特許性」を認めるのが相当だと説示している。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ下位概念の構成が具体的に開示されていなくても「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 この裁判所の説示を「ゾンビ説」と解する理由はないようにみえる。

ちなみに裁判所が「特許性」という言葉を使って説示することについて井関先生は、「新規性と進歩性を同時に判断していることの表れ」だと指摘している(井関論文の70ページ右)。 しかし、そう考えるのは早計だろう。 「特許性」という言葉は、「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないためにも用いられる言葉であって、新規性と進歩性を連動させることを必ずしも示唆するものではない。 私もSotoku 10号の中で「特許性」という言葉を何回か用いているが、単に「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないために用いているだけであって、連動させることなど意図していない。

A 平成21(行ケ)10430「ソリッドゴルフボール」(中野哲弘 東海林保 矢口俊哉)

[判決文より]
 いわゆる「選択発明」とは,先願発明の構成要件が上位概念で表現されており,その先願発明の実施例として示されていない下位概念を構成要件とする後願の発明が,その構成要件である下位概念のものによって奏される作用効果が異質のものであるとき,又は同質の効果であっても,格段の差異がある場合に認められる。

この説示は、選択発明は顕著な効果があれば特許性があるものとして認められると説示していると解される。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 むしろ本判決で裁判所は、『甲1発明における「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」との用語は,・・・非常に広範な化合物を含む「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」に形式的に該当するすべての化合物を指すものとは解されない。』と説示しており、この説示からは、形式的に下位概念だからといって新規性がないとは解されないと裁判所は考えていることがうかがえるだろう。 したがって、この判決は「ゾンビ説」を説くものではない。

B 平成26(行ケ)10027「有機エレクトロルミネッセンス素子 」(石井忠雄 西理香 神谷厚毅)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するべきである。

上記のとおり裁判所は、下位概念の発明が文献に「具体的に開示されておらず」、かつ、「顕著な効果」がある場合を除き、「特許性」がないと説示している。 そうすると裁判所は、特許性を認めるためには「顕著な効果」があるだけでなく「開示されていないこと」も求めていると解される。 裁判所は、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」(すなわち「ゾンビ説」)とは言っていないし、むしろ特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めていることからすれば、「顕著な効果」がある場合に自動的に「開示されていない」とみなす「ゾンビ説」を採っているとは解せないのではないか?

もっとも裁判所は、「・・・,下位概念となる当該発明は,既に公に開示されたものであって,・・・」 とも説示しており(井関論文の70ページ右でもこの説示が紹介されている)、この部分は「ゾンビ説」を採っているようにもみえる。

C 平成28(行ケ)10037「重合性化合物含有液晶」(鶴岡稔彦 大西勝滋 寺田利彦)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するのが相当である 。

裁判所の説示の内容は、上で取り上げた「有機エレクトロルミネッセンス素子」事件判決の説示と同じだ。 裁判所は、特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めているのであり、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」という立場(すなわち「ゾンビ説」)を明示的にとっているわけではない。

このように、「ゾンビ説」の参照として田村評論の脚注38の中で引用されている判決文を見ても、それらの判決が「ゾンビ説」を採っているのかは必ずしも明らかではない。

念のため、井関論文において「ゾンビ説」を支持するものとして取り上げられている判決も見てみる。 例えば井関論文の70ページ左(脚注17)で引用されている「ケラチン繊維の酸化染色組成物」事件判決はどうか。

D 平成14 (行ケ)524「ケラチン繊維の酸化染色組成物」(山下和明 設樂隆一 阿部正幸)

[判決文より]
・・・,刊行物1のような公開特許公報についてみれば,特許請求の範囲に包含される組合せの数が膨大な数となる場合においても,明細書の発明の詳細な説明には,当該発明の実施例を限定的な数だけ記載しているにすぎないこともあり,このような明細書については,特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,明細書の発明の詳細な説明に発明として記載され,開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得るところである。

つまり裁判所は、「特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,・・・開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得る」と言っているのだから、むしろ「ゾンビ説」に懐疑的な見方を示しているではないか!

なお、この判決で裁判所は、以下のようにも説示している。

 もっとも,物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野においては,特許請求の範囲に記載された特定の発明が,刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある。特に,発明が引用発明と比較して顕著な効果を奏するものであると認められる場合は,このような進歩性についての判断が,新規性についての判断にも事実上の影響を及ぼし,一見した限りでは当該発明が当該刊行物に記載された発明であると解し得るような場合であっても,そのような新規性の判断について再考を必要とすることも生じ得るであろう。

この説示は「ゾンビ説」のように見えるが、「刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある」、「一見した限りでは」という言い方からすれば、新規性の判断が困難な場合の話であって、このような時に顕著な効果がある場合、再度慎重に検討すれば、「あ、やっぱりこれは先行技術に開示されたものではないよね。」ということが確認されることがあると言っているだけだと解することもできる。 顕著な効果がない選択発明を一般に「新規性がないものと判断しろ」と説示しているわけではないから、「ゾンビ説」を支持しているとまではいえないだろう。

E 平成22(行ケ)10324「液晶用スペーサー」(滝澤孝臣 井上泰人 荒井章光)

井関論文の脚注18で取り上げられているこの判決で裁判所は、「また,本件発明は,引用発明1から本件発明が限定した部分について,引用発明1の他の部分とその作用効果において差異があるということはできないから,引用発明1と異なる発明として区別できるものでもない。」と説示し、先行技術と作用に変わりがないことを新規性がないとみなす根拠の一つとしている。 したがってこの判決は「ゾンビ説」的な考え方を採っているといえるかも知れない。 但し裁判所は、引例には重合体の製造に用い得る単量体物質が列挙して記載されていることを指摘した上で、『・・・,上記単量体のうち,2-エチルヘキシルメタクリレート,ステアリルメタ クリレート,ラウリルメタクリレートは,本件発明の「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」に該当するものであるから,引用例1の【0010】には,文言上,「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」を共重合材料に含む共重合体を付着層とすることが記載されているということができる。』とも説示しており、引例中には本件発明で特定されている具体的な物質が記載されていることを認定した上で新規性を否定しているのだから、単に先行技術の下位概念に包含されることをもって新規性を否定しているわけではない。

以上のとおり、「ゾンビ説」を支持しているものであるかのように紹介されている裁判例でさえ、判決文を読んでみると、「ゾンビ説」を明確に説示しているとまではいえない。 確かに「ゾンビ説」的な説示をする裁判例はあるが、多くの裁判体が「ゾンビ説」を採っているとは言えないだろうし、まして「ゾンビ説」が裁判所における定説だとは言えないだろう。


(3)「選択発明二分論」について

ところで今回の田村先生の評論を読むと、田村先生は「選択発明」を2つに分類しており、上に挙げた「液晶用スペーサー」事件のように、本件発明を構成する発明特定事項が、引例の中に実施可能な態様として具体的に記載されているとみなせる場合を「先行発明が成立している場合」と称し、その場合は「ゾンビ説」を適用して顕著な効果がない限りは新規性を否定してよいことを示唆する一方で、選択発明であっても本件発明を構成する発明特定事項が実施可能な態様として具体的に記載されていない場合は「先行発明が成立していない場合」とみなし、その場合は「ゾンビ説」を適用しないことを論じている。

これを「選択発明二分論」と名付けよう。 田村先生は、そういう「選択発明二分論」を採用することで、「ゾンビ説」を採っていたとされる過去の裁判例と整合性を取ると共に、それとはまったく逆のように見える今回の大合議判決、すなわち、構成が容易ではないというだけで進歩性を肯定し、効果を検討することを不要としたピリミジン誘導体事件の大合議判決とも整合性を取る考え方を提示すること目指しているのだと思う。

田村先生の「選択発明二分論」に対する私の感想は、そこまでして「ゾンビ説」を擁護する必要はないし、そこまでして今回の大合議判決を擁護する必要もないということ。 むしろ、本件(ピリミジン誘導体事件)のような発明の進歩性の判断において「発明の効果」を検討しなかった今回の大合議判決は不適切であり、批判は避けられないと思うから、それを擁護するものである限り、田村先生の「選択発明二分論」も批判は避けられないと思う(これについては日を改めて取り上げたいと思う)。 但し、選択発明の中には、効果の高い低いが進歩性の有無を決するようなものもあれば、そうではないもの、すなわち、効果がありさえすればその高い低いは進歩性の判断にあまり影響を与えないものもあるのだろうと思われ、それを「選択発明二分論」として論じることはできるのだとは思う。 だから、批判しておいてなんなのだけれど、私も結局は、田村先生の「選択発明二分論」を自分なりに自説の中に取り込んでいくことになるのかも知れない。


(4)「ゾンビ説」の背景にあるのは、ある種の不安心理ではないか

「ゾンビ説」が生まれてくる背景には何があるのだろうか。 たとえば井関論文の脚注27では、竹田和彦先生の『特許の知識』(第8版)(2006)が「ゾンビ説」を説いていることが指摘されている。 確かに『特許の知識』には「ゾンビ説」の考え方が説かれている。 井関先生が引用している『特許の知識』の第8版には、なぜ「ゾンビ説」が妥当だと竹田先生が考えているのかについて説明が記載されていないが、古い版では次のように記載されている。

[竹田和彦「特許の知識」ダイヤモンド社(1994)165-166ページ]
【選択発明】
 ・・・。
・・・,先行発明がゼネリックな開示(例えば金属)であれば,後行発明のスペシフィック(例えば銅)は同一とされず新規となる。・・・。これに従うとすれば,選択発明が議論されるケースは新規性の要件を満たし,特許法29条2項の進歩性のみが判断されることになる。
 しかし,上位概念が明確なものであるならば下位概念がそれに包含されるのは当然であって,原則として同一とされるべきである。もしも先行発明の金属と後行発明の銅が同一でないとすると,審査官は新規性で拒絶できないから,常に進歩性を判断せざるをえなくなる。出願人が特段の効果を立証しなくとも(立証責任についてはp.174を参照),審査官が否定できなければ特許せざるをえなくなってしまう。

つまり竹田先生は、選択発明を「新規性なし」で拒絶できないと、進歩性で判断せざるをえず、「顕著な効果がないこと」を立証しなければ進歩性が否定できずに特許になってしまう懸念があるから、「新規性なし」で拒絶できるようにしておくべきだと言っているのだ。 しかし、竹田先生が支持する「ゾンビ説」によれば、「顕著な効果」がある場合は「新規性」もあることになってしまうのだから、結局は「顕著な効果」の有無を判断せざるをえず、全然解決になっていないのだが?(笑)。 それとも竹田先生は、立証責任の分配で調整でもするつもりだったのだろうか? ちなみに引用文中に記載されている「p.174」には、「疑わしきは特許に」の精神が紹介されているが、その精神だけでは問題の解決にならないことに変わりはない。 竹田先生自身、この説明には難があると思ったのかもしれないが、上述のとおり新しい版では上記の記載は削除されているようだ。

進歩性の判断において仮に「ゾンビ説」が採られることがあるとして、その背景には、ある種の不安心理もあるのかな、と私は想像している。 つまり、「進歩性」を否定するだけでは上級審でひっくり返されるかも知れないから、「新規性」も否定しておきたいという気持ち。それに、本当は「進歩性」だけを否定すれば十分だと思っていても、上級審が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、「新規性」も否定しておいた方がいいと感じてしまうこともあるだろう。

こうした心理は伝染するかも知れない。 裁判所が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、特許庁の審判でも「ゾンビ説」を採用し、「新規性」も否定しておかないとひっくり返されてしまうかも知れない・・・。審判が「ゾンビ説」を採用するのなら、審査段階でも「ゾンビ説」を採用しておかないと・・・。 かくして、進歩性判断において本来あるべき規範は、不安心理によってゆがめられてしまう。

これを阻止するためには、判断を行う各人が強い意思をもって責任ある判断を行わなければならないだろう。また、場合によっては、知財高裁が大合議によって「ゾンビ説」を否定することも有用かも知れない。

ちなみに井関論文が「否定しているともいえよう」と解説しているとおり(井関論文の74ページ左)、今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したと解する余地がある。 井関先生は論文の中でそれを嘆いているが、Sotoku 10号の脚注41でも書いた通り、私はむしろ歓迎したい。 裁判長だった清水先生も、この際、今回の大合議判決は「ゾンビ説」を否定したのだと解説してもらえればいいと思う。^^

ということで、田村先生も、安易に「ゾンビ説」を支持したり、『今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したものではない』などと論じたりすれば、足元をすくわれかねないから、気をつけた方がいいかも知れない。 ^^

むしろ、清水先生と力を合わせて「ゾンビ」を退治するために尽力してほしい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月09日

大合議判決の言う「具体的な技術的思想」について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(1)


ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)(平成30年4月13日判決)が出されてから1年と少し経ったが、早くしないと、もう来月には次の大合議判決が出てしまうらしい。 ピリミジン誘導体事件の大合議判決を「今回の大合議判決」と書けるのも今のうちなので、まぁ大変遅ればせながらではあるが、昨年11月19日にウエストロー・ジャパンの判例コラムで公開されたピリミジン誘導体事件の大合議判決の進歩性の判断に対する北大(当時)の田村先生の評論について、数回にわたって感想を書いてみたいと思う。

*     *     *

この判決で裁判所が説示した進歩性の判断規範に関しては、同志社大の井関涼子先生が批判的な論文(特許研究 No.66, 60-75 (2018))を出したことは昨年の10月31日の投稿でも書いたが、今回の田村先生の評論も、大合議の説示に対してかなり批判的だ。 特に『4 評釈 』 において田村先生は以下のように論じている。

4 評釈4)副引例に引用発明適格性を要求することに対する疑問](強調は私が入れた;以下同様)
・・・、かりに本判決に従って、相違点に係る具体的な技術的思想が開示されていないために「副引用発明」には該当しないとされたとしても、それで進歩性判断のために参酌する資料たりえないことになるわけではないから、結局、「副引用発明」であることの要件は、進歩性判断の参酌資料たりえるための要件ではないといわざるをえず、せいぜい、「副引用発明」としては参酌しえない、という意義を有するに止まる。 そして、「副引用発明」と、それには該当しないが進歩性判断の基礎となりうる示唆や動機付けとの境界が截然と分かれているものではないとすれば、そのような問題設定をすることの意義自体が問われて然るべきであろう

そして続く『 5) 』においても、

4 評釈5)
・・・、引用発明適格性という関門を設けて(とりわけ甲2発明が主引例とされた場合に)一律に進歩性判断の基礎とすることを否定するように読める本判決の論法には疑問がある。

と論じ、上で挙げた井関先生の論文を引用している。 そして、上記の田村先生のような批判を避けるために、ある引例で最終的に進歩性を否定できそうな場合はその引例の引用発明適格性を否定しないようにすることで、引用の「引用発明適格性」を否定したにもかかわらず、その引例を(引用発明としてではなく)単なる参酌資料として参酌して進歩性が否定できてしまうというような奇妙な事態が起こることを避け、「引用発明適格性」を判断することに意義を持たせようとするような考え方、すなわち結果から逆算する本末転倒な考え方について田村先生は、

脚注35
もしそれができるというのであれば、そもそも引用発明適格性という問題設定をすること自体、無意味かつ誤解を生む源であると評価しなければならなくなるであろう。

と批判している(別に裁判所がそういう逆算的な考え方を採っていると言っているわけではない。一つの可能性として批判しているだけだが。)。

4 評釈 』の『4)』および『5)』における田村先生の上記の指摘についてはとても共感できる。 進歩性の判断に使用される引例に、他の引例の記載内容によって影響を受けることのない固有の「引用発明適格性」があるはずだと考えること自体がおそらく誤りなのだ。

ということで、田村先生のこの評論は読んでいてスカっとするね。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 2) 」 について

さて、他の人が書いた論文に対する感想を書く場合、同意できるところは上記のように「同感!」と言えば終わってしまうので、どうしても同意できないところを探して話題にするような感じになってしまうのだけれど、ここからは、今回の田村評論において、私の考え方とは違う部分について書いていきたい。

今回の判決で裁判所は、進歩性の判断に際し、先行技術とする29条1項3号の「刊行物に記載された発明」は「具体的な技術的思想」でなければならないと説示した(判決文PDF 87ページ)。 今回の評論において田村先生は、この「具体的な技術的思想でなければならない」という裁判所の説示の捉え方について、以下の4つの可能性を挙げている。

[田村評論の「2)副引例として主張された刊行物から具体的な技術的思想を抽出できない場合にその参酌を否定する論理の候補」より]
@ 新規性と進歩性を通じて、引例から具体的な技術的思想を抽出しえない場合には引用発明たりえないとする考え方

A 新規性と進歩性を通じて、刊行物記載の場合には具体的な技術的思想が記載されていることを要求する考え方

B 新規性については引例となるために具体的な技術的思想を抽出することができる必要はないが、進歩性に関してはそれを要求する考え方

C 進歩性特有の問題として、主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付けを欠く場合には、進歩性を否定できないとする一般論を適用する考え方

このうち C というのは、進歩性を判断する際に以前から特許庁の審査・審判において採用されていた考え方であって、この考え方を採用する場合は、先行技術から「具体的な技術的思想」なるものを抽出できるかを特に意識する必要はない。 どうしても意識したいというのなら、C に言うところの「主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付け」が副引例に存在する(すなわち進歩性が否定される)場合は、その副引例には「具体的な技術的思想」が記載されているとみなし、そうでない場合は、その副引例には(進歩性を否定するに足る)「具体的な技術的思想」は記載されていないとみなせばよいのかも知れない。 もちろん、そういう逆算的な考え方に対しては田村先生は批判的で、だからこそ上に引用したとおり、引例に「具体的な技術的思想」(すなわち「引用発明適格性」)を求めること自体の意義が問われなければならないと田村評論は論じているのだ。

では @ 〜 B についてはどう考えればよいか。

裁判所の説示を改めて引用すれば以下のとおり。

[判決文PDF 87ページ]
このような進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない

このように裁判所は、「進歩性の判断に際し」、「刊行物に記載された発明」については、と説示している。 したがって、この説示をもっとも狭く解釈するのなら、「進歩性」の判断に際し、同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については、具体的な技術的思想でなければならないと説示したのだと解釈することができるだろう。 つまり、進歩性の判断ではない場合や、引例が29条1項3号の「刊行物発明」ではない場合については、裁判所は何も言わなかったと捉えるのだ。 そして、裁判所が明示的には説示しなかった、「新規性」を判断する場合や「公用発明」(29条1項2号)の場合に、引例に「具体的な技術的思想」を求めるのか否かを田村先生は問題にしている。

そして上記の「A」において田村先生は、「公用発明」を先行技術として進歩性を否定する場合は、その公用発明に「具体的な技術的思想」が認められる必要は必ずしもないという可能性を示唆している。 たとえば、ヨーグルトにもともと含まれている成分Aにアルコール代謝機能があることを発見し、「成分Aを有効成分とする二日酔い防止ヨーグルト」という発明を出願した場合を田村先生は例に挙げている(田村評論の脚注13を参照)。 その出願の前には、ヨーグルトにアルコール代謝機能があることは知られていなかったとしても、昔からヨーグルトは市販され、酒を飲んだ後に食べた人もいたかも知れない。 そういう場合は、たとえ「ヨーグルトが二日酔い防止に効く」という点に関連して、公用発明には「具体的な技術的思想」がまったく認められないとしても、公衆がその効果を享受しえていた以上、その公用発明を引例として認めて特許性を否定できるようにしてもよいのではないか(すなわち「具体的な技術的思想」が公用発明に認められる必要はない)ということを田村先生は示唆したいのだろうと私は理解した。(北大の吉田広志先生の特許研究64号29〜30頁(2017年)、パテント71巻3号4〜14頁(2018年)も参照。)

そして「B」というのは、ある発明について、不特定の人がその発明を利用できる状態であったのであれば、その発明の「新規性」は失われていたとみなすべきで、その発明についてなにか「具体的な技術的思想」が知られていた必要はない、というような考え方を示唆したいのだろう。

このように考えると、A や B の考え方にはそれなりに理由はあるわけで、これらに賛成する人はいるのかもしれない。 しかし、これについては「具体的な技術的思想」の定義によっても話はだいぶ変わってくるだろう。 私が昨年10月31日の投稿で公開した Sotoku 10号 の「6.」節(12-17ページ)を書くときには、発明の「新規性」が否定される場合は、その発明について、何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められる(明示はされていなくても、少なくとも看取できる状態にあった)ということを想定していた。 例えば物の発明の新規性が否定されるためには、その物を、不特定の人が反復して作れたり、採取できたりすれば十分であり、その物の構造などが知られている必要はまったくないと思うが、たとえそうだとしても、その物を「反復して作れたり、採取できる」という限度において、その物の発明の技術的思想は知られていたわけだ。 そして上のヨーグルトの例においても、たとえ「成分Aがアルコール代謝機能を持つ」という点に関しては知られていなかったとしても、ヨーグルトという物の発明は、「反復して作れる」という観点では技術的思想として知られていたわけだし、それを食べて栄養を採ったりする行為(「方法発明」の一種と言えるだろう)についても、その限度において技術的思想は知られていたわけだ。 そういう発明も「具体的な技術的思想」の一つだと捉えるのであれば、「公用発明」の認定や「新規性」の判断において、「具体的な技術的思想」を要件として求めたとしても特に不都合は生じないだろうと私は思う。 したがって、上で引用した A や B の考え方が必要になるかどうかは、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第で変わる話なのだろうと思う。

上記のとおり私は「具体的な技術的思想」というものを緩く考えており、特許出願にかかる通常の発明(「永久機関」のようなトンデモ発明ではなく、記載要件を満たし得るまともな発明)の新規性を否定できるような先行技術には必ず「何らかの具体的な技術的思想」は認められるはずだと思っているから、Sotoku 10号 の「6.」節でも『・・・「新規性」を判断するときに、刊行物に記載された発明に「具体的な技術的思想」であること(引用発明適格性)を求めても、新規性を否定するために引用できる刊行物に何らの実質的な制約を加えるものでもないから、その要求を受け入れることができるだろう。』(16ページ)と書いた。

なお余談だが、上のヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明と、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は異なる発明であって、少なくとも特許庁の審査においては、この違いは峻別されている(審査基準 第III部 第2章 第4節 3.1.2)。 すなわち、特許審査においては通常、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という性質を有するヨーグルトであって、二日酔い防止という用途に用いることに必ずしも限定されていない物の発明だとみなされる一方で、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という用途に用いることに限定された用途発明だとみなされる。 田村先生は「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使って論じているが(脚注13)、もし用途発明の話をしたいのなら、それを明確にするために「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使ってほしい。 このヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」(用途限定のない物の発明)の新規性は確かに否定されるべきだと思うが、公用発明において二日酔い防止のためにヨーグルトを食べるということがまったく行われていなかったのであれば(現実にはこれはちょっと考えにくく、「これが二日酔いに効くんだ」とか言いながら食べていた人はきっといそうだが、あくまで試論として、そうした証拠が集められなかったと仮定するのであれば)、Sotoku 10号 の脚注39にも書いた通り、私は「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」は肯定してよいと考えており、あとは「進歩性」の問題だと考えている。 それに対して田村先生や北大の吉田先生などは、「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」さえ、否定してよいという考え方なのかも知れない。 この点で、私と二人の先生方との立場は違うのだろう。 但し、この場合に「二日酔い防止ヨーグルト」という用途発明に「進歩性」まで認めてよいのかと言われると、私もかなり否定的なので、「特許性否定」という最終結論では違いはないということになるのかも知れない。

いずれにしろ進歩性の判断に関しては、「C」の考え方で足りるのだから、@ 〜 B のような「具体的な技術的思想」なるものを持ち出す必要はそもそもないと私は思っており、おそらく田村先生もその点では同じように思っているのだと思う。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 6) 」 について

「4 評釈」の「 6) 」において田村先生は、「新規性の場面において、具体的な技術的思想の記載を要求するという意味での引用発明適格性を要件とする必要はないと考える」と結論している。 この問題に対する私の立場は、Sotoku 10号の「6.」節に書いたとおり、『新規性の判断において我々は「引用発明適格性」という考え方を必要としない』(15-16ページ)というもので、田村先生の言っていることと類似している。 但し、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第でニュアンスは変わるのだろうと思う。 上述のとおり私は、「具体的な技術的思想」というものをゆるく考えていて、公用発明のようなものでも何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められるはずだと考えているし、無理に新規性を否定しなくても進歩性を否定すれば十分だとも思っているから、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することをより気楽に受け入れることができるのだが、もし田村先生が、公用発明には「具体的な技術的思想」が認められない場合があると考えているのなら、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することを否定したいという気持ちは私より強くなるのだろう。

またこの問題は、上位概念の発明が(特許要件を満たす程度に)知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に相当する発明の新規性は失われていたと考えるのか否かという問題にも関連するが、それについては長くなるからまた次回取り上げたいと思う。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする