2019年05月20日

「ゾンビ説」は妥当か? − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(2)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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● 「4 評釈」 の 「 7) 」 について

田村評論の「4 評釈」の「 7) 」には、気になる点がいくつかあるので、それについて以下に見て行きたい。

(1)ある上位概念の発明が知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に該当する発明は基本的に新規性がないという考え方(井関論文のいう「第二説」)は妥当なのか?

同志社大の井関涼子先生は、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決の評論(特許研究 No.66, 60-75 (2018))で以下のように論じている。

[井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018) の71ページ右]
 学説では,選択発明の特許性に関して2つの考え方がある。 第一説は,選択発明は先行発明に具体的な記載がないことにより,新規性を有する発明であり,かつ,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるとの考え方であり,第二説は,選択発明は,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるので,新規性が否定されない発明であるとの考え方である。 第一説は審査基準の考え方であり,第二説は多くの裁判例が採用している
 第二説の立場からは,選択発明の理論は,具体的に引例に記載されていないものの,本来ならば新規性がない(または先願との同一性あり)とされる場合であっても,引例にはない特有の効果が認められる場合に新規性と進歩性を認めるものと考えるべきであるとし,審査基準では,選択発明はまず新規性の有無について判断し,新規性があることを認定してから成立するものだとしているが,選択発明としての進歩性が否定される場合は,原則に戻ってその発明は新規性なし(先願との同一性あり)と判断されるべきであろうと主張されている。

「新規性がない」とみなしているものを、顕著な効果がある場合は一転して「新規性と進歩性がある」などと考えるのは、私に言わせればご都合主義もいいところで、そのような考え方は「理論」ではなく「理論的破綻」だと言いたい。 これは4月24日の投稿で批判した「修正主義」的な考え方の最たるものだと思う。 「お前は新規性がない」(すなわち、お前が特許になる可能性は失われた。すなわちパブリックドメインに入る川を渡った)とみなしているものを、顕著な効果があったからといって、一転して特許にするというのは、いったん死んだものを生き返らせるにも似た行為であって、私はこの考え方を「ゾンビ説」と名付けようと思う。

理論派である田村先生なら、きっと「ゾンビ説」を批判してくれるだろうと期待しているのだが、今回の評論で田村先生は、以下のように「ゾンビ説」を紹介するだけで、これを批判してくれない。

4 評釈7) より]
選択発明は、刊行物等に記載されている発明が上位概念等で抽象的に特定されているに止まる場合に、その抽象的な範囲には属するが具体的には開示されていない構成を特定する発明であり、先行発明に対して顕著な効果(異質な効果または際立って優れた効果)がある場合には特許性が肯定されると理解されているものである ※38。選択発明として主張されている発明に、この顕著な効果が認められない場合には新規性が否定されるが、顕著な効果が認められれば新規性と進歩性がともに充足されると取り扱われている。


(2)「ゾンビ説」は多くの裁判例が採用しているのか?

上に引用したとおり、「ゾンビ説」(井関論文のいう「第二説」)について井関先生は「多くの裁判例が採用している」と論じ、田村先生は一歩引いた言い方ながら、「と理解されているものである」、「と取り扱われている」と論じている。 こうした論じられ方を見ていると、まるでこの考え方が裁判所における定説であるかのように感じてしまうが、それは本当なのだろうか? 例えば今回の田村評論の脚注38に引用されている4つの判決を見てみたい。

@ 昭和60(行ケ)51 「鉄族元素とほう素とを含む無定形合金」(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

[判決文より]
 いわゆる選択発明は、構成要件の中の全部又は一部が上位概念で表現された先行発明に対し、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明であつて、先行発明が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものを構成要件として選択した発明をいい、この発明が先行発明を記載した刊行物に開示されていない顕著な効果、すなわち、先行発明によつて奏される効果とは異質の効果、又は同質の効果であるが際立つて優れた効果を奏する場合には先行発明とは独立した別個の発明として特許性を認めるのが相当である。

つまり裁判所は、下位概念の構成が「具体的に開示されていない」場合、顕著な効果があれば「特許性」を認めるのが相当だと説示している。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ下位概念の構成が具体的に開示されていなくても「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 この裁判所の説示を「ゾンビ説」と解する理由はないようにみえる。

ちなみに裁判所が「特許性」という言葉を使って説示することについて井関先生は、「新規性と進歩性を同時に判断していることの表れ」だと指摘している(井関論文の70ページ右)。 しかし、そう考えるのは早計だろう。 「特許性」という言葉は、「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないためにも用いられる言葉であって、新規性と進歩性を連動させることを必ずしも示唆するものではない。 私もSotoku 10号の中で「特許性」という言葉を何回か用いているが、単に「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないために用いているだけであって、連動させることなど意図していない。

A 平成21(行ケ)10430「ソリッドゴルフボール」(中野哲弘 東海林保 矢口俊哉)

[判決文より]
 いわゆる「選択発明」とは,先願発明の構成要件が上位概念で表現されており,その先願発明の実施例として示されていない下位概念を構成要件とする後願の発明が,その構成要件である下位概念のものによって奏される作用効果が異質のものであるとき,又は同質の効果であっても,格段の差異がある場合に認められる。

この説示は、選択発明は顕著な効果があれば特許性があるものとして認められると説示していると解される。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 むしろ本判決で裁判所は、『甲1発明における「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」との用語は,・・・非常に広範な化合物を含む「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」に形式的に該当するすべての化合物を指すものとは解されない。』と説示しており、この説示からは、形式的に下位概念だからといって新規性がないとは解されないと裁判所は考えていることがうかがえるだろう。 したがって、この判決は「ゾンビ説」を説くものではない。

B 平成26(行ケ)10027「有機エレクトロルミネッセンス素子 」(石井忠雄 西理香 神谷厚毅)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するべきである。

上記のとおり裁判所は、下位概念の発明が文献に「具体的に開示されておらず」、かつ、「顕著な効果」がある場合を除き、「特許性」がないと説示している。 そうすると裁判所は、特許性を認めるためには「顕著な効果」があるだけでなく「開示されていないこと」も求めていると解される。 裁判所は、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」(すなわち「ゾンビ説」)とは言っていないし、むしろ特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めていることからすれば、「顕著な効果」がある場合に自動的に「開示されていない」とみなす「ゾンビ説」を採っているとは解せないのではないか?

もっとも裁判所は、「・・・,下位概念となる当該発明は,既に公に開示されたものであって,・・・」 とも説示しており(井関論文の70ページ右でもこの説示が紹介されている)、この部分は「ゾンビ説」を採っているようにもみえる。

C 平成28(行ケ)10037「重合性化合物含有液晶」(鶴岡稔彦 大西勝滋 寺田利彦)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するのが相当である 。

裁判所の説示の内容は、上で取り上げた「有機エレクトロルミネッセンス素子」事件判決の説示と同じだ。 裁判所は、特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めているのであり、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」という立場(すなわち「ゾンビ説」)を明示的にとっているわけではない。

このように、「ゾンビ説」の参照として田村評論の脚注38の中で引用されている判決文を見ても、それらの判決が「ゾンビ説」を採っているのかは必ずしも明らかではない。

念のため、井関論文において「ゾンビ説」を支持するものとして取り上げられている判決も見てみる。 例えば井関論文の70ページ左(脚注17)で引用されている「ケラチン繊維の酸化染色組成物」事件判決はどうか。

D 平成14 (行ケ)524「ケラチン繊維の酸化染色組成物」(山下和明 設樂隆一 阿部正幸)

[判決文より]
・・・,刊行物1のような公開特許公報についてみれば,特許請求の範囲に包含される組合せの数が膨大な数となる場合においても,明細書の発明の詳細な説明には,当該発明の実施例を限定的な数だけ記載しているにすぎないこともあり,このような明細書については,特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,明細書の発明の詳細な説明に発明として記載され,開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得るところである。

つまり裁判所は、「特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,・・・開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得る」と言っているのだから、むしろ「ゾンビ説」に懐疑的な見方を示しているではないか!

なお、この判決で裁判所は、以下のようにも説示している。

 もっとも,物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野においては,特許請求の範囲に記載された特定の発明が,刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある。特に,発明が引用発明と比較して顕著な効果を奏するものであると認められる場合は,このような進歩性についての判断が,新規性についての判断にも事実上の影響を及ぼし,一見した限りでは当該発明が当該刊行物に記載された発明であると解し得るような場合であっても,そのような新規性の判断について再考を必要とすることも生じ得るであろう。

この説示は「ゾンビ説」のように見えるが、「刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある」、「一見した限りでは」という言い方からすれば、新規性の判断が困難な場合の話であって、このような時に顕著な効果がある場合、再度慎重に検討すれば、「あ、やっぱりこれは先行技術に開示されたものではないよね。」ということが確認されることがあると言っているだけだと解することもできる。 顕著な効果がない選択発明を一般に「新規性がないものと判断しろ」と説示しているわけではないから、「ゾンビ説」を支持しているとまではいえないだろう。

E 平成22(行ケ)10324「液晶用スペーサー」(滝澤孝臣 井上泰人 荒井章光)

井関論文の脚注18で取り上げられているこの判決で裁判所は、「また,本件発明は,引用発明1から本件発明が限定した部分について,引用発明1の他の部分とその作用効果において差異があるということはできないから,引用発明1と異なる発明として区別できるものでもない。」と説示し、先行技術と作用に変わりがないことを新規性がないとみなす根拠の一つとしている。 したがってこの判決は「ゾンビ説」的な考え方を採っているといえるかも知れない。 但し裁判所は、引例には重合体の製造に用い得る単量体物質が列挙して記載されていることを指摘した上で、『・・・,上記単量体のうち,2-エチルヘキシルメタクリレート,ステアリルメタ クリレート,ラウリルメタクリレートは,本件発明の「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」に該当するものであるから,引用例1の【0010】には,文言上,「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」を共重合材料に含む共重合体を付着層とすることが記載されているということができる。』とも説示しており、引例中には本件発明で特定されている具体的な物質が記載されていることを認定した上で新規性を否定しているのだから、単に先行技術の下位概念に包含されることをもって新規性を否定しているわけではない。

以上のとおり、「ゾンビ説」を支持しているものであるかのように紹介されている裁判例でさえ、判決文を読んでみると、「ゾンビ説」を明確に説示しているとまではいえない。 確かに「ゾンビ説」的な説示をする裁判例はあるが、多くの裁判体が「ゾンビ説」を採っているとは言えないだろうし、まして「ゾンビ説」が裁判所における定説だとは言えないだろう。


(3)「選択発明二分論」について

ところで今回の田村先生の評論を読むと、田村先生は「選択発明」を2つに分類しており、上に挙げた「液晶用スペーサー」事件のように、本件発明を構成する発明特定事項が、引例の中に実施可能な態様として具体的に記載されているとみなせる場合を「先行発明が成立している場合」と称し、その場合は「ゾンビ説」を適用して顕著な効果がない限りは新規性を否定してよいことを示唆する一方で、選択発明であっても本件発明を構成する発明特定事項が実施可能な態様として具体的に記載されていない場合は「先行発明が成立していない場合」とみなし、その場合は「ゾンビ説」を適用しないことを論じている。

これを「選択発明二分論」と名付けよう。 田村先生は、そういう「選択発明二分論」を採用することで、「ゾンビ説」を採っていたとされる過去の裁判例と整合性を取ると共に、それとはまったく逆のように見える今回の大合議判決、すなわち、構成が容易ではないというだけで進歩性を肯定し、効果を検討することを不要としたピリミジン誘導体事件の大合議判決とも整合性を取る考え方を提示すること目指しているのだと思う。

田村先生の「選択発明二分論」に対する私の感想は、そこまでして「ゾンビ説」を擁護する必要はないし、そこまでして今回の大合議判決を擁護する必要もないということ。 むしろ、本件(ピリミジン誘導体事件)のような発明の進歩性の判断において「発明の効果」を検討しなかった今回の大合議判決は不適切であり、批判は避けられないと思うから、それを擁護するものである限り、田村先生の「選択発明二分論」も批判は避けられないと思う(これについては日を改めて取り上げたいと思う)。 但し、選択発明の中には、効果の高い低いが進歩性の有無を決するようなものもあれば、そうではないもの、すなわち、効果がありさえすればその高い低いは進歩性の判断にあまり影響を与えないものもあるのだろうと思われ、それを「選択発明二分論」として論じることはできるのだとは思う。 だから、批判しておいてなんなのだけれど、私も結局は、田村先生の「選択発明二分論」を自分なりに自説の中に取り込んでいくことになるのかも知れない。


(4)「ゾンビ説」の背景にあるのは、ある種の不安心理ではないか

「ゾンビ説」が生まれてくる背景には何があるのだろうか。 たとえば井関論文の脚注27では、竹田和彦先生の『特許の知識』(第8版)(2006)が「ゾンビ説」を説いていることが指摘されている。 確かに『特許の知識』には「ゾンビ説」の考え方が説かれている。 井関先生が引用している『特許の知識』の第8版には、なぜ「ゾンビ説」が妥当だと竹田先生が考えているのかについて説明が記載されていないが、古い版では次のように記載されている。

[竹田和彦「特許の知識」ダイヤモンド社(1994)165-166ページ]
【選択発明】
 ・・・。
・・・,先行発明がゼネリックな開示(例えば金属)であれば,後行発明のスペシフィック(例えば銅)は同一とされず新規となる。・・・。これに従うとすれば,選択発明が議論されるケースは新規性の要件を満たし,特許法29条2項の進歩性のみが判断されることになる。
 しかし,上位概念が明確なものであるならば下位概念がそれに包含されるのは当然であって,原則として同一とされるべきである。もしも先行発明の金属と後行発明の銅が同一でないとすると,審査官は新規性で拒絶できないから,常に進歩性を判断せざるをえなくなる。出願人が特段の効果を立証しなくとも(立証責任についてはp.174を参照),審査官が否定できなければ特許せざるをえなくなってしまう。

つまり竹田先生は、選択発明を「新規性なし」で拒絶できないと、進歩性で判断せざるをえず、「顕著な効果がないこと」を立証しなければ進歩性が否定できずに特許になってしまう懸念があるから、「新規性なし」で拒絶できるようにしておくべきだと言っているのだ。 しかし、竹田先生が支持する「ゾンビ説」によれば、「顕著な効果」がある場合は「新規性」もあることになってしまうのだから、結局は「顕著な効果」の有無を判断せざるをえず、全然解決になっていないのだが?(笑)。 それとも竹田先生は、立証責任の分配で調整でもするつもりだったのだろうか? ちなみに引用文中に記載されている「p.174」には、「疑わしきは特許に」の精神が紹介されているが、その精神だけでは問題の解決にならないことに変わりはない。 竹田先生自身、この説明には難があると思ったのかもしれないが、上述のとおり新しい版では上記の記載は削除されているようだ。

進歩性の判断において仮に「ゾンビ説」が採られることがあるとして、その背景には、ある種の不安心理もあるのかな、と私は想像している。 つまり、「進歩性」を否定するだけでは上級審でひっくり返されるかも知れないから、「新規性」も否定しておきたいという気持ち。それに、本当は「進歩性」だけを否定すれば十分だと思っていても、上級審が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、「新規性」も否定しておいた方がいいと感じてしまうこともあるだろう。

こうした心理は伝染するかも知れない。 裁判所が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、特許庁の審判でも「ゾンビ説」を採用し、「新規性」も否定しておかないとひっくり返されてしまうかも知れない・・・。審判が「ゾンビ説」を採用するのなら、審査段階でも「ゾンビ説」を採用しておかないと・・・。 かくして、進歩性判断において本来あるべき規範は、不安心理によってゆがめられてしまう。

これを阻止するためには、判断を行う各人が強い意思をもって責任ある判断を行わなければならないだろう。また、場合によっては、知財高裁が大合議によって「ゾンビ説」を否定することも有用かも知れない。

ちなみに井関論文が「否定しているともいえよう」と解説しているとおり(井関論文の74ページ左)、今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したと解する余地がある。 井関先生は論文の中でそれを嘆いているが、Sotoku 10号の脚注41でも書いた通り、私はむしろ歓迎したい。 裁判長だった清水先生も、この際、今回の大合議判決は「ゾンビ説」を否定したのだと解説してもらえればいいと思う。^^

ということで、田村先生も、安易に「ゾンビ説」を支持したり、『今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したものではない』などと論じたりすれば、足元をすくわれかねないから、気をつけた方がいいかも知れない。 ^^

むしろ、清水先生と力を合わせて「ゾンビ」を退治するために尽力してほしい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする