2019年10月17日

「先使用権」の正当化根拠と「進歩性」要件を「依拠性の擬制」で考える(前田健『先使用権の成立要件』特許研究 PATENT STUDIES No.68 (2019))


進歩性の要件について書いた前回の投稿を公開した後で、「特許研究 第68号」に掲載されている前田健先生(神戸大准教授)の論文『先使用権の成立要件 ― 制度趣旨からの考察 ―』を読んだのだが、その内容に驚いてしまった。 私の前回の投稿と密接に関連する内容がテーマとなっていたからだ。

私が前回書いたのは「進歩性」(特許法29条2項)の問題であるのに対し、今回の前田先生の論文は「先使用権」(特許法79条)の問題であるから、この二つは一見関係がないように見えるが、これらは特許制度の制度趣旨において関わり合っていると私は捉えている。 それが前回の私の投稿で触れた「依拠性の擬制」という観点だ。 前回の投稿で私は、進歩性に求められるべき「第1要件」について以下のように記載した。

[2019年10月9日の投稿より]
「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、・・・。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

つまり私の特許制度観は、発明者が行った発明がフリーライド(ただ乗り)されてしまうのを法制度として防ぐことによって、発明者が安心して発明を行い、それを公開できるようにし、また発明が秘匿されずに公開されることにより、それに触れた人々がその発明を(適法に)利用したり、さらなる発明を行ったりできるようにすることで、発明の奨励と産業の発展を図ろうとする制度だというものだ。 したがって、フリーライドとは言えないようなものに特許権が行使されるような事態にはなるべくしたくないのだが、例えばある特許発明に該当する発明を実施している被疑侵害者がいるとして、その人が、その特許発明を見てパクった(すなわちフリーライドした)のか、それとも特許発明など知らずに独自に開発した(すなわちフリーライドしていない)のかをいちいち判断するのは困難だから、そうした判断を不要とするために、フリーライドしているとみなせる範囲にだけ特許を付与することにして、その範囲の発明を実施している人は、本当にフリーライドしているかを問うことなく、フリーライドしているとみなして権利行使することを許すことにすればよいだろうと考えるわけだ。 「フリーライドしているとみなせる範囲」とはどういう範囲なのかというと、「その特許発明を見なければ、およそ独自に発明することは困難だろうとみなせる範囲」だ。 したがって、そういう「範囲」がとれないような発明、すなわち、「お前の発明など、お前がいなくても、誰かが近々発明するだろう。」というような発明は、特許をあげてはいけないということになる。 そういうものを特許にしてしまうと、その後で同じ発明を独自に発明した人が続出して、そういう人たちが迷惑するし、「特許制度って邪魔なだけの制度だ」という気分が広まってしまうことにもなる。 したがって、 フリーライドだとみなせる範囲にだけ特許を付与すること、すなわち、「依拠性を擬制できる範囲」にだけ特許を付与することは、特許制度を円滑かつ安定に運用していくために望まれるのでないか、と私は考えているのだ。

例えば、上の文中で言及されている Sotoku 6号(2016)の脚注111で私は、以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
 特許権が権利行使できる範囲に「依拠性」が擬制できることは、出願時点にだけ求められることではないだろう。 つまり、権利行使できる範囲に含まれる発明は、もしその特許発明がなければ、その特許権の存続期間中のそれなりの期間にわたって、独立してなされることはないことが求められるのではないか。 放っておいてもすぐに誰かが発明するようなものについて、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるのは「依拠性の擬制」の観点からは違和感がある。 そうすると、ある技術分野において“出願競争が起きている”という状況は、一見すると華やかで、特許制度がうまく活用されているように見えるとしても、結局は一番乗りを果たした者に、その発明に何ら依拠性がない後行者の実施をも排他できる権利を与えるという状況が発生していることを意味しているのだから、特許制度が失敗していることを示唆しているのかも知れない(その典型例が上述のヒト遺伝子の物質特許だろう)。・・・。
 ところで特許審査における進歩性の判断にあたっては、一般に「顕著な効果」(あるいは「有利な効果」、「予期せぬ効果」、「驚くべき効果」)が参酌され、たとえ先行技術から一見容易に発明することができるものであっても、「顕著な効果」があった場合は進歩性があるものとして特許が認められることがある(平成27年9月改訂審査基準第III部第2章第2節3.2.1)(宮崎賢司, 知財立国の発展へ 竹田稔先生傘寿記念, 中山 信弘ほか編 (2013) 715-737も参照)。 しかし、「依拠性が擬制できること」を重視する限りは、上述の通り、放っておいてもじきに誰かが発明し得るようなもの(時間経過と共にじきに依拠性が擬制できなくなるもの)に特許を与える必要はないということになるから、「顕著な効果」があったからといって特別に特許にする必要はないということになる。 この問題については、最近でも例えば田村が考察しており、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるような事例について、「・・・発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 なお田村は「フリー・ライドの禁止」を理論構築の出発点としているから(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)、「依拠性の擬制」に基づく本稿の考え方が田村の結論に近づくのは当然かも知れない。

ところが、「依拠性」が犠牲できないのが「先使用」、すなわち、特許出願した者ではない者が、同じ発明を独自に行ったことが明らかな場面だ。 「依拠性」が擬制できる範囲に特許権を及ぼそうと考える限り、依拠性が擬制できないことが明らかな「先使用」に対しては、特許権が行使されないようにする何らかの手当てが必要だろう。 そのために設けられているのが特許法79条だと捉える。 Sotoku 6号の脚注114で私は、「先使用権」がなぜ正当化できるのかについて、「依拠性の擬制」の観点から以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注114]
脚注114
 「先使用権」について考えると、現在の日本の制度では、先使用者は「出願前」に「実施や実施の準備」を開始していることが、先使用権が認められる条件となっている(特許法79条)。 実施や実施の準備に入っていたのが「出願前」なのであれば、その実施は、出願に係る発明に依拠していないことが客観的に示唆されるから、「依拠性の擬制」の観点からも、権利行使できないことにするのは納得しやすい。 但し、「出願前」でなくても、出願に係る発明の「公開前」に実施や実施の準備を開始したのであれば、その発明に依拠していないことに変わりはないから、「公開前」に実施等を開始した場合も先使用権を認める方がよいことになる(・・・)。 しかし「公開」とは特許出願の公開公報の発行に限られるものではなく、それより前であっても出願人が出願後に様々な手段や程度で公開しうるものであるから、それらを考慮しつつ先使用権を認めるか否かを決定することにすると、制度は今より複雑で予測性の低いものになってしまうかも知れない。 また、「実施や実施の準備」を条件とすることについても、たとえ「実施や実施の準備」を開始していなくても、第三者が発明を完成させたのが出願より前であることが明らかであれば、その発明は出願に係る発明に依拠していないことになるから、その発明についてその第三者に無償の実施権のようなものを認めてもよいと考えることもできる(・・・)。 しかしそうすると、第三者の発明について、発明した時期や、一体何を発明したのかを見極めることが必要になってしまう。 制度の運用を面倒なものとしないために、「出願」で時期を区切ったり、「実施や実施の準備」という外からでも検証しやすい行為があったことを条件とする現在の先使用権の制度は、「依拠性の擬制」の観点からも最低限の機能は果たしていると言えるだろう(もっと先使用権が認められる範囲を拡大する余地はあるだろうが)。 なお出願後に実施形態を変更すると先使用権が認められなくなり得るのは、出願後はその出願に係る発明が公開されているかも知れず、変更後の実施形態が出願に係る発明に依拠していないことが外形的に明らかではなくなるからだと理解してみることができる(逆に言えば、単なる時代の変化に伴う実施形態の変更など、出願に係る発明に依拠していないことが明らかな変更は認めてもよいと考えることはできる)。
 先使用権の趣旨に関してはこれまで、「公平」、「発明や実施のインセンティブ」、「占有状態の保護」、「経済的損失の防止」などの観点で説明がなされている(麻生典, 慶應法学第29号(2014)233-269の248ページ以降に紹介されている学説等を参照)。 これらの中から本稿に近い見解を探すと、例えば牧野は、「・・・、先使用権制度を支える根拠は、最先の出願に先立って、これとは別個に独自の精神的創作としての発明を完成したことにあると解すべきであろう。」とした上で、「・・・、先使用権制度の根拠の中心に、前示のように最先の出願に先立つ発明の完成を置くとすれば、事業又は事業の準備の程度の判断には、・・・、発明の完成の客観的外部的表示としての意義が重視されることになるであろう。」(下線追加)(牧野利秋, 知的財産権訴訟寸考 (2002) 東京布井出版の191-192ページ)と論じている。 出願前に実施や実施の準備を開始していたことを、出願に係る発明とは独立に発明を完成させたことの外部的表示だと捉えている点で、これを出願に係る発明に対する「依拠性」がないことの外形的な表示だと捉える本稿の考え方と重なるものがある。 また森林は、「先使用権制度を設けた趣旨は、出願当時、特許出願に係る発明に由来せずこれと別個に、同一性を有する発明について、すでにその実施の事業をなしまたはその実施の事業の準備ができた程度にまで至っている者については、その実施または実施の準備は特許出願に係る発明に由来せずこれから何らの寄与もうけていないことが客観的に明らかであり、・・・」(下線追加)(森林稔, 企業法研究 (1969) 175輯, 12-20の13ページ)と論じており、特許発明の「寄与」(すなわち使用者側から見ると「依拠性」)がないことの外形的な表示に着目している点で、本稿の考え方と通じるものがある。
 ・・・。
 ともかく、特許制度には「依拠性の擬制」の観点で再考できそうな問題が広範囲にわたって存在し、発明の保護範囲や権利行使の許否を考えるにあたって1つの物差しを与えてくれるように思われる。 本稿の本文や上の脚注で述べたことからすると、PBPクレームの解釈問題も、先使用権の問題も、機能クレームや均等論の問題も、広すぎる遺伝子の物質特許が引き起こすアンチ・コモンズの問題も、パイオニア発明に開示要件を超えた広い権利範囲を与えてよいのかという問題も、すべて「依拠性」の判断を不要とした絶対的独占権の制度が宿命として持つ歪みから生じていると言えそうである。 つまり、依拠性をうまく擬制することが、絶対的独占権制度の納得感を高めるためには求められると思われるのである。

*   *   *

さて、前置きがかなり長くなったけれど、以上のようなことを私は考えているわけだ。 上の文章を書くにあたって私は、先使用権に関する過去の文献をざっと当たってみたけれど、「依拠性が擬制できない」ということを先使用権の正当化根拠として前面に打ち出している文献はあまり見当たらず、上記のように、牧野先生や森林先生の比較的古い論文が見つかっただけだった。ところが、今回の前田先生の論文では次のように論じられているのだ。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 21ページ]
(1)はじめに
 特許法においては,依拠性要件を侵害成立に要求せず,独自創作をした発明者であっても権利行使を受けることが当然とされている。一方,先使用権の場面では,その原則が修正され,特許発明に依拠しない発明の実施に対する権利行使が禁止される 18)。この意義を理解するには,そもそもなぜ特許法では依拠性が不要とされているかを考察する必要がある。

(2)「模倣」でないものに対する権利行使は正当化できるか
ア 権利行使が正当化できる場合
 多くの知的財産法においては,原則としては,他者の成果にフリーライドしたことが違法性を基礎づけている。

[同 22ページ]
・・・。
 この観点からは,・・・,知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。 この理解の下では,依拠性を求めない特許制度について,なぜ依拠性を要求しないのかが別途正当化される必要があることになる。

[同]
 特許法において独立した発明への権利行使が正当化できる理由として,まず @ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。

[同]
 イ 権利行使が正当化できない場合

 以上,本稿の理解では,模倣でない独立した創作への権利行使が正当化されるのは,@ 特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できること,A ・・・ という条件が成り立つからである。 ところが,先使用権が成立するような場面では,この条件が満たされない。・・・。
(「A」については後で触れるので上の引用では省略した。)

このように前田先生は、「知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。」と論じ、それなのになぜ特許権の行使にあたって「依拠性」が要件となっていないのかについて、「特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できる」からだと説明している。 そして「先使用権」の正当化根拠の重要な柱の一つは、特許発明への依拠性が擬制できないことだと論じているのだ。

前田先生がこのように考えているのだとしたら、話は早いのではないか? つまり、私が今年の4月くらいから延々と書いてきたこと、すなわち「依拠性が擬制できないような発明」、具体的には、その特許発明が公開されなくても当業者の誰かが同じ発明に行き着くのは時間の問題であったと目される発明は、たとえ予想外の「顕著な効果」を奏するとしても特許を与えてはならないという結論に行き着かなければならないのではないか。

特許発明には一般に「依拠性」が擬制できる理由として前田先生は、上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」と指摘している。 私も、依拠性が擬制できる状態だと判断するために、「その特許明細書を読んだ」ことが要件となるわけではないことには同意できる。 それについては私も Sotoku 6号 の脚注120で、「・・・、特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない。」と書いているとおり、いったん発明が公開されれば、それを基に他の発明がなされたり、それが利用されたりすることで、知らず知らずのうちに、その発明は広がって行くものなのだろうから、ことさらその発明を利用しているつもりはなくても利用しているということになるだろう。 しかしながら、どんな発明でも、その発明を公開しさえすれば依拠性が擬制できる状態になると考えるとすれば、かなり乱暴な推定だ。 例えばその発明が、ことさら公開されなくても皆が到達するのは間近だったような場合は、依拠性が合理的に擬制できる期間は、せいぜい皆がその発明に到達すると推定されるまでの間であって、特許存続期間の20年にわたってそのような擬制が合理的に成り立つわけではない。 そうすると、そのような発明について特許を20年も存続させることは、「依拠性の擬制」の観点からは正当化できないというべきではないか? もっとも、特許明細書が公開され、その技術分野の全員がその知識を得たと仮定するのなら、知ってしまった以上、同じ発明を「独自に」発明するということは永久に起こらなくなるのではあるが、だからといって、20年にわたって独占権を行使することを正当化できることにはならないと私は思う。

ということで、特許制度において「依拠性」が要件になっていないことの正当化根拠を「依拠性が擬制ができる」からだと捉えるのなら、依拠性が擬制できる期間が短いと評されるような発明、すなわち、「放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明」(私の言う「進歩性 第1要件」を満たさない発明)には、特許を与えてはならないと考える必要があるだろう。

*   *   *

「重複投資の防止」は「依拠性不要」の主要な正当化根拠となるか

上の引用ではあえて省略したのだが、今回の前田論文では、特許権の権利行使にあたって「依拠性」が要件とされないことの正当化根拠として、「依拠性が擬制できる」ことと並んで、「重複投資の防止」が挙げられている。 具体的には以下のように論じられている。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 22ページ]
 より積極的に依拠性不要を正当化する理由として,A 重複した発明への投資を抑制するということが考えられる。もし,独立発明であれば権利行使されないとしたら,特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。過去の発明の成果を参照させつつ,技術を迅速に進歩させることが特許法の目的だとすると,そのような行動は決して望ましくない。このような重複投資の回避も依拠性不要の根拠となると考えられる。

このように前田論文では、依拠性不要の正当化根拠として、「@ 依拠性が擬制できること」だけでなく、「A 重複投資の防止効果」という理由も重視しており、前田論文においては常にこの2つがセットで登場する。

しかし、A の理由は私にはあまりピンと来ない 。 A の理由は、無理やり「功利主義」的な説明を試みたもののように見えてしまう。

前田先生は、上記の @ の理由、すなわち依拠性が擬制できるということは肯定しているわけだ。 具体的には上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にある ・・・ 。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」 と論じている。 それを前提として考える場合、前田先生が懸念している「特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。」というのはどういう状態なのだろうか。 その特許発明はすでに「人類の共有財産として技術水準を構成している」のであって、たとえその明細書を読んでいなくても、技術水準の上昇にキャッチアップしている限りは、「技術水準にある成果を広い意味では参照している」とみなされることになるのだろうから、その明細書を読んでいるか否かにかかわらず依拠性は肯定されるはずだ。 そういう状況で、なお「過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資する」ことなどできるのだろうか。 山にでも籠って、外界からの接触を絶って研究しないと無理なのではないのか。 そういう変わった人が増えることを想定して依拠性を不要とする制度を作ることが、制度構築にあたってそれほど強い要請なのかは、やや疑問に感じてしまう。

ただし、「依拠性」を要件とすると、「私はその明細書など見たこともないし、依拠していない!」などと主張する被疑侵害者が出現して、そういう人たちは、技術水準を共有していて、間接的にはその特許発明に依拠していると言える場合であっても、訴訟になったりして社会的に混乱が生じるかも知れないとは思う。 だから、それを未然に防ぐために「依拠性」を不要とする制度とすることは重要なのだ、と説明するのならまだ分かるのだけれど、それは「重複投資の防止」という効果を達成するためというよりは、「社会的混乱」を回避するためという方がぴったりくるような気がする。

それに、最も重要なのは、「そもそも依拠性を判断することは困難だ」ということだと思う。 前田先生が「明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成している」と指摘しているとおり、「特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない」(Sotoku 6号の脚注120)。 「そこで、第三者の行為の真相を確かめることなく判断ができるようにするために、『第三者の行為は、その発明を流用する意図をもって行ったものだろう』とみなしてもよいような画一的な条件を設定し、その条件が満たされれば、第三者の行為の真相を明らかにすることなく権利を行使できるようにして、制度を円滑に運用できるようにすることが望まれるかも知れない。」(Sotoku 6号の33ページ右欄)。 そうした方策として採られているのが、現在の特許制度に内包されている「依拠性の擬制」による依拠性要件の不要化なのだと捉えるのが私の考え方だ。 それにより、上で述べた「社会的混乱」の回避も期待することができる。

以上のとおり私は、特許制度が依拠性不要になっていることの最も大きな理由は、依拠性を要件としたのではそもそも制度として運用が困難だという点にあるような気がしている。 ただし、重複投資の防止効果はないわけではないだろうし、「防衛出願の防止」よりは、高い効果が見込めそうな気はする。

*   *   *

さて、ついでなので、今回の前田論文の中で言及されている他の先生方の論文の中で、今回の話題と関連する部分について見てみたい。

前田論文の21ページ左欄には、田村先生の論文(田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158)と、𠮷田先生の論文(𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210)について言及されている。 このうち、田村先生は以下のように論じている。

[田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158 の脚注14]
14 ・・・、そもそもの前提として、特許権侵害が成立するためには侵害者が特許発明に依拠したことは必要とされていないことが出発点となる。依拠が不要とされていることは、先使用権の制度の趣旨の論理的な前提となるので、ここでまとめて説明しておこう。
 独自発明者といえども、特許法79条の先使用権の要件を満たさない限り特許権侵害の責を免れえない。 この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。 ただし、この公示制度により第三者の不測の不利益が完全に防止されるわけではない。 第三者は、特許権が登録された暁には、特許権者からの差止請求に服さなければならないからである。 特許法が規律する技術の世界は効率性の世界であり、早晩、同じような発明をなす者が出現する可能性が小さくない。 特許権の内容を空虚なものとしないためには、独自発明者に対しても権利を行使しうるように制度を設計する必要があり、出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである (田村・前掲注13 (第 5 版) 439頁)。

上の文章はちょっと分かりにくいが、先使用権が認められるために、なぜ「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないのかを説明しているのだと私は理解した。 すなわち、特許法は先使用権を認めるための条件として、「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないという要件を課しているのだが、「この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。」と田村先生は論じ、「だったら『出願公開前』に実施や実施の準備をしていれば先使用権は認められるべきで、『出願前』にする必要はないじゃないか!」という反論に対しては、出願が公開されるまで待っていたのでは「早晩、同じような発明をなす者が出願する可能性が小さくない」から、「特許権の内容を空虚なものとしないため」に、「出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである」と田村先生は論じているのだろう。

しかし、この説明もどうなのであろうか・・・。 田村先生は昔から、フリーライドを防ぐことが特許制度の目的だとおっしゃっているはずだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ;同 Vol.51 (2018) 1-46 の40ページ)。 それなのに、出願から1年半後に公開されるまで待っていたのでは、特許権の内容が空虚なものになるほど独立発明者が出現するような発明にも特許権を与えてよいと思っているのだろうか? 出願から1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明は、たとえ特許存続期間中に、その特許発明を実施した者がいたとしても、特許発明を「フリーライドしている」とは言えないと思うのだか・・・。 もし田村先生が、特許法の法目的は「フリーライドの防止」だと思うのであれば、フリーライドしていない者には特許権が行使されないような制度を目指さなくてはならないはずで、1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明に特許を付与してはならないという結論に至らなくてはならないのではないか? そうだとすれば、先使用権に関して上のような説明をするのはおかしいのではないかと思ってしまう。

*   *   *

𠮷田先生の論文に対しても、基本的に田村論文に対するのと同じことが言える。 具体的には、𠮷田先生は以下のように論じている。

[𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210 の脚注4]
 実際のところ、出願公開までは通常18ヶ月少々を要していることを考えると、公開時基準では多くの特許権が先使用を抗弁されてしまうだろう。 技術の進歩が著しく速い先端技術では、ライバルのほとんどが先使用者となってしまいかねず、特許権が骨抜きになる危険性がある。 特許法の趣旨、および現実的な観点からも、出願時基準は落とし所としては穏当であろう。

同じ内容は、𠮷田先生の別の論文(パテント Vol. 56, No. 6 (2003) 61-77)の脚注(3)にも記載されている。

しかし、わずか1年半でライバルのほとんどが独自に発明してしまうようなものにも特許が付与されるというのが𠮷田先生の特許制度に対するイメージなのだろうか。 だとすればまさに、「皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できる。」(8月30日の投稿参照)というのが特許制度だということになってしまうが、私はそれでいいのかと思ってしまう。

私は、先使用権の発生要件として、「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしていることを求めること自体は、まぁ許容できるかなと思っているけれど、その主要な正当化根拠が「1年半で他者に追いつかれてしまうから」というのはどうにも腑に落ちない。 𠮷田先生も田村先生も、最近の論文によれば、「パブリック・ドメイン・アプローチ」というものを重視しているはずだ。 「パブリック・ドメイン・アプローチ」の観点からして、1年半で追いつかれてしまうような発明に20年の独占権を与えることが妥当と言えるのかどうか、ぜひ論じてほしい。

*   *   *

とはいえ、上の引用で𠮷田先生が「技術の進歩が著しく速い先端技術では」と限定をつけているように、技術分野によってはそういうことも正当化する余地はあるのだろうと私も思っている。 具体的には、技術の進歩が著しく速く、今存在している技術は、数年のうちに陳腐化して誰も使わなくなってしまうような技術分野だ(そんな技術分野があるのかは知らないが。)。 Sotoku 6号で私は次のように書いた。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
・・・ 発明の寿命が短く、特許を取得しても数年で誰も使わなくなってしまうような技術分野であれば、特許期間が長くても実際上弊害は起きないと言えるから、出願競争が起きている状態も許容できるということになるかも知れない。

数年で誰も使わなくなってしまうのなら、たとえ特許期間が20年間存続するとしても、数年以降は誰も使わないのだから、排他権があっても、事実上、誰も排他されず、もはや特許がなくなったのと同じ、すなわち、特許存続期間が数年になったのと同じ様相を呈する。 その場合は、依拠性が擬制できるのが数年しかないような発明に特許を与えても、特許権が機能するのは事実上数年なのだから大目に見てもいいだろうと言うことはできるのかも知れない。 しかし、そうしたことが当てはまるのは、「数年で誰も使わなくなる」という技術分野に限られるのであって、たとえそうした技術分野であっても、本来であれば特許存続期間を数年に設定した上で特許を与えるべきものだ。 それが当てはまらないような技術分野、例えば、20年どころか、延長制度を使って25年、そして用途特許などを利用してそれ以上の期間にわたって事実上の独占を図ろうとされることも多い技術分野においては、そうした考えは妥当しないというべきで、短い期間しか依拠性が擬制できない発明に、たやすく特許を与える合理性はないと考えるべきだろう。

*   *   *

ということで、「依拠性の擬制」ということを前面に打ち出した前田先生の画期的論文について、「進歩性」の要件に絡めて書いてみた。 前回の投稿で私は、前田先生について、「上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい」と書いたけれど、前田先生の今回の論文を読んで、その期待は私の中で高まってしまった。「アレルギー性眼疾患」事件という個別の発明がどうであるのかはともかく、少なくとも一般論としては、進歩性の考え方に関して前田先生が私と同じようなことを書いてくれるのを期待しよう。^^


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2019年10月09日

「二次的考慮説」は生き残れるか(アレルギー性眼疾患事件 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日判決)


「アレルギー性眼疾患事件」最判(平成30(行ヒ)69 )における顕著な効果の位置付けに関して、9月16日にイノベンティアの飯島歩先生の評釈が公開された。 その中で飯島先生は、最判の判示事項について次のようにコメントされている。

[飯島歩,イノベンティア・リーガル・アップデート,2019/9/16 より](強調は私が入れた;以下同)
これらの判示事項は、進歩性判断において、顕著な効果を構成の容易想到性とは別個の要件に位置付け、明細書に記載された効果をもとに、引用発明を組み合わせるなどして導かれる発明を基礎として効果の予測可能性を判断する独立要件説に近い考え方を採用したものといえます。

そのように考える理由の一つとして飯島先生は、判決の拘束力との関係を示唆している。 具体的には次のとおり。

[同上]
本件においては、前訴の取消判決により、発明の構成が容易に想到可能なものであることについて、拘束力が生じていました。本判決は、そのような状況にあっても、なお、予測できない顕著な効果について審理を尽くさせるとの判断をしています。これは、構成の容易想到性について判断を示した取消判決の拘束力が顕著な効果の判断には及ばないことを前提としています

つまり「顕著な効果」についての審理は、「発明の構成」の容易想到性の判断からは何らかの形で独立しているのではないか、ということが示唆されるということだ。 ここで、「発明の構成」とは何かということが問題になりうるが、ここではとりあえず、「発明の構成」とは、「クレームの文言で特定される発明」をいい、クレームの文言から直接は把握できない「発明の効果」や「効果の程度」を考慮しないもの、とでも考えておこう。 但し、昨年6月22日の投稿でも書いたとおり、本件発明のクレームは「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、・・・」という用途的な表現が含まれていることに注意が必要だろう。 すなわち、本件発明は純粋な物のクレームではなく、「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途的表現がクレーム中に記載されているのだから、これらは「発明の構成」とみなされるべきものだ。 よって、「本件発明の構成は容易」だというからには、本件化合物をともかくも「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」という用途に用いることや、ともかくも「ヒト結膜肥満細胞を安定化」(具体的にはヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する)という用途に用いることは、容易であることは既に確定しているとみなされなければならないだろう。

さて、飯島先生の上記の解説のとおり本件は「発明の構成は容易想到」ということが前訴判決において確定して拘束力が生じている状況であるにもかかわらず、最判は、なお「顕著な効果」について審理を尽くせと判示したことになる。 よって、もし「顕著な効果」によって今後本件発明の進歩性が肯定されうるのだとすれば、「本件発明の構成は容易想到」であるにもかかわらず、なお「本件発明は進歩性がある」ということになるだろう。 そういうことが、果たして「二次的考慮説」と整合性があるのか、ということが問題になる。 もし整合性を取るのが難しいのであれば、今回の最判は、「二次的考慮説」の存続に重大な影響を与えることになるのかも知れない。

「二次的考慮説」について飯島先生は次のように解説している。

[同上]
・・・、顕著な効果を進歩性判断の基礎とするとの理解は、・・・特許法29条2項の条文から直接導くことができません。 そのため、これを進歩性判断の構造の中でどのように位置づけるかについて、種々の考え方があり、大きく分類すれば、主引用発明を出発点とする発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方(二次的考慮説)と、構成の容易想到性とは別の、独立した進歩性の判断要素とする考え方(独立要件説)に分かれます。

飯島先生が解説しているとおり、通説的な「二次的考慮説」とは、発明の効果を「発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方」だ。 すなわち「二次的考慮説」によれば、「顕著な効果」は、あくまで「発明の構成」が容易想到であるか否かの判断を行うにあたって考慮される一事情に過ぎない。 したがって、もし「顕著な効果」によって進歩性が肯定される場合、「二次的考慮説」では、「顕著な効果を考慮した結果、その発明の構成は容易想到ではない」と結論することになるのだ。

そのように結論するために、「二次的考慮説」論者がどのように考えているかは、4月24日の投稿で取り上げた前田先生の論文にあらわれている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

ところが上述のとおり本件の場合は、「本件発明の構成は容易想到」であるということが、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)においてすでに確定しているわけだ。

この状況で、本件発明の顕著な効果を審理することは、「二次的考慮説」の立場で可能なのだろうか? 可能なのであれば、一体どのように審理するのだろうか。 これは結構興味深い問題ではないか。

なお中村合同の高石秀樹先生が9月26日に公開した今回の最判の解説でも、前訴判決が確定していることと「独立要件説」との関連について次のように論じられている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供 より]
本最高裁判決及び原判決が進歩性を判断した審決取消訴訟の判決の拘束力の範囲について ・・・ 何れの考え方に立脚したかについては諸説あり得るが、知財高裁(二次)において “動機付けあり、相違点は容易想到” という知財高裁(一次)判決が確定したという経緯であるにもかかわらず、「予測できない顕著な効果」の有無について判断したものであるから、このような経緯を前提とした結論であったとするならば、理論的・形式的には、・・・、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の位置付けについては “独立要件説” に親和的であったと評価できる。
(但し、上記の高石解説では、「もっとも、本最高裁判決及び原判決は、・・・ 何れの考え方に立脚するかという点を棚上げにしたものとも理解可能である。」とも論じられている。)

このように、飯島先生も高石先生も、今回の最判は「独立要件説」に近いと論じており、「二次的考慮説」には苦しい状況だ。 この状況で「二次的考慮説」が採りうる立場をいくつか考えてみる。

(1)「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える。

「二次的考慮説」が採りうる一つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える立場だ。 なおこの考え方は、上で触れた9月26日の高石解説の「3(1)」の前半部分で紹介されている考え方と同じだ。

上記のとおり、通説的「二次的考慮説」において「発明の効果」は、あくまで「発明の構成」が容易か否かを判断するために考慮されるに過ぎない。 そして前訴判決では「本件発明の構成は容易」だと判示され、その判断は確定しているわけだ。 これを文字通りに捉えるのであれば、「本件発明の構成は容易」だということが確定している以上、「発明の効果」がどうであれ、「本件発明の構成は容易」ということは動かしようがないのだから、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えざるを得ないだろう。 こう考えると、この立場こそ、通説的「二次的考慮説」論者が採れる唯一の立場だとさえ思えてくる。

では、そもそも原審(平成29(行ケ)10003)ではなぜ「効果の程度」が判断されたのだろうか? これについては、次のように考えればよいだろう。

つまり、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「効果の程度」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので進歩性は認められないことについて確認的に判断したのだと捉えるのだ。

そして最判(平成30(行ヒ)69)は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性の判断が変わりうることを示唆したわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審において「顕著な効果」が肯定されるとしても、進歩性がないという結論は変わらないということになる。 つまり最判は、「進歩性なし」という原審判決の結果にとっては意味のないことを判示したことになる。 見る人によっては、この(1)の立場は最判に肩透かしを食らわせるような立場に見えるかも知れない。

(2)「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考える(修正主義)。

「二次的考慮説」が採りうる二つ目の立場は、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考え直すという立場だ。

「効果の程度」を考慮しない場合には、「本件発明の構成」は容易想到であるが、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 発明が持つ予想外の効果は、発明を行い、それを実施して、結果を見てみなければ分からないものだが、その結果、「予想外の効果」がない場合は「本件発明の構成」は容易想到だと考え、「予想外の効果」があった場合は「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 この考え方は、発明を行った結果を見てから、発明をすることの容易想到性(すなわち「発明の構成」の容易想到性)を決めるという、過去を書き換えるような考え方であることから、私は「修正主義」と呼んでいる(2019年04月24日の投稿を参照)。

そして、たとえ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」が容易想到だと判断され、それに拘束力が生じているとしても、「顕著な効果」を認定した上で「本件発明の構成」を容易想到ではないと判断することは、前訴判決の拘束力に違反しないと捉える。

「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」と、「顕著な効果」を認定した場合の「本件発明の構成」は、たとえ「発明の構成」は同じであっても違うのだと考える(そんなことが可能なのか?)。

この考え方は分かりにくいし、人によっては受け入れがたい考え方かも知れない。 容易であることが確定しているものを、容易ではないと言い直すことになるのだからね。 しかもこの考え方は、進歩性を認めるか否かという最終結論において、独立要件説と違いが生じるのかがよく分からない。 但し、「修正主義」であることを露呈させてはばからないという点については、次の(3)よりは潔いと言えるかも知れない(笑)。

(3)「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える。

「二次的考慮説」が採りうる三つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える考え方だ。

「本件発明」は、あくまで発明の構成とその効果等が一体となったものであるので、「本件発明の構成」が容易想到であることは、「本件発明」が容易想到であることを意味するものではないと考える。 そして、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、「顕著な効果」と一体のものとして捉えた「本件発明」は容易想到ではないと判断することはできるのであり、効果の程度を一切考慮せずに結論を出した前訴判決(平成25年(行ケ)10058)の拘束力は及ばないと捉えるのだ。

ちなみに発明の容易想到性を判断するにあたって、「発明の構成」の容易想到性のみに着目するのではなく、「効果」をも考慮した「技術的思想」(構成及び効果)として発明を捉えて容易想到性を判断した知財高裁の裁判例があることについて、高石秀樹先生が2016年2月の投稿において論じている(「破袋機」事件;平成27年(行ケ)10035)。

また、9月26日の高石解説でも、「3(1)」の後半部分に次のように記載されている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供
もっとも、発明とは「技術的思想」であるから(特許法2条1項)、構成のみではなく、課題及びその解決原理も含むと理解されている。それ故、本件発明と主引用発明との課題が異なることを理由に副引例発明との組み合わせの動機付けが否定され、進歩性が認められた裁判例が多数存在する。

この考え方を押し進めると、「発明」は構成及び課題(+解決原理)であるところ、更に、課題と密接に関連する「効果」も「発明」に含まれ、容易想到性の判断対象となりうるのである。そう考えれば、構成自体が容易想到であるとしても、未だ「発明」が容易想到か否かは結論されておらず、「課題」や「効果」の容易想到性もなお問題となると考えられる。

しかしこの考え方は、実質的には上記の(2)と変わらないようにも思う。 上記の(2)の考え方は、「効果を考慮して発明の構成を捉えている」のに対し、(3)はそれを「技術的思想」と言い換えただけではないか? それに上記(2)と同様に、もし「顕著な効果」があれば「技術的思想として容易ではない」とみなすというのなら、それは事実上「独立要件説」と変わるところがないようにも思う。 なお高石先生は、上で示した2016年2月の解説投稿で「破袋機」事件判決の考え方が「二次的考慮説」(間接事実説)に親和的である旨を解説しているが、8月27日の私の投稿の最後にも書いたとおり、「独立要件説」を採っているようにみえる「シュープレス用ベルト事件」判決(平成24年(行ケ)10004)でさえ高石先生は「二次的考慮説」に親和性がある旨を解説している(前田先生も同様)。 しかしそうなると、「二次的考慮説」は「独立要件説」と何が違うのか本当に分からなくなる。

「シュープレス用ベルト事件」判決がなぜ「二次的考慮説」に親和的であるのかについて、9月26日の高石解説は、裁判所が「甲第2号証に接した当業者が,・・・ 動機付けられることがあるとしても,本件発明1が,・・・ ,当業者といえども予測することができない顕著な効果を奏するものであることに照らせば,本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず,進歩性があると認められる ・・・ 」と判示していることを指摘し、『同判決は、「動機付けられることがあるとしても ・・・」と述べながら、結論としては、「本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず」と結論付けていることから、“従属要件説”(=二次的考慮説・・・ )に立つと理解できる。』と論じている。 しかし、判決文の最後のシメのところに「当業者が容易に想到するものであるとはいえず」というフレーズをポコッと入れたら、それだけで「二次的考慮説」に分類されるというのが高石先生の分類分けなのだろうか? もしそうだとしたら、8月27日の投稿の最後でも書いた通り、そういう「二次的考慮説」は、やっぱり「独立要件説」と変わるところはないよね、ということになると思う。

もし「二次的考慮説」論者が(2)(3)のような考え方を採るのなら、「独立要件説」と何が違うのかが明らかにされなければならないだろう。 もし「二次的考慮説」と「独立要件説」とで、進歩性の有無に関する結論に差が生じないのなら、そんな「二次的考慮説」など要らない、ということにもなりそうだ。

なお、9月26日の高石解説によれば、「二次的考慮説」論者であるはずの神戸大の前田健先生が、本事件において、上告人(特許権者)側の鑑定意見書を書いておられるのだそうだ。 私は、2019年4月24日の投稿「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」を書いているときから、前田先生は “隠れ独立要件説” 的だと思っていたから別に驚きはないが、ご自身が「二次的考慮説」とどのように整合性をとられているのかが気になる。 前田先生がいずれ出すであろう論文を待ちたいが、意見書を書いたことによって、今後の論考において心理的な不自由さが生じないか少し心配だ。 学者は当然そういうことから自由であるべきだから、上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい(笑)。

*   *   *

さて、他人の説を取り上げるだけでは何なので、私の進歩性の考え方を採る場合に今回の事件をどう捉えられるのかについても考えてみたい。 上で取り上げた「二次的考慮説」と同様、私の考え方でも苦しいことに変わりはないが、無理やり考えてみよう。

私の考え方とは、2019年8月30日の投稿や前回の投稿でも書いたとおりで、進歩性を2つの要件で判断する。 1つ目の要件(進歩性の第1要件)は、「放っておいても近々誰かが発明するようなものか?、あるいは発明まで一本道であったか?」を問うもので、「予想外の発明の効果」によって判断が左右されない要件だ。 そして、もし答えが Yes である場合は進歩性は否定される。 2つ目の要件(進歩性の第2要件)は、「“発明の効果” 等を考慮して、ありきたりな発明のたぐいだと評されるか?」を問う「意味づけ要件」だ。 これは「予想外の発明の効果」によって判断が左右されうる要件だ。 そして、もし「ありきたりな発明のたぐいだと評される」のであれば、やはり進歩性は否定される(下図)。

[あるべき進歩性の判断手順]
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進歩性を二段階で判断するという点では、上記の考え方は「独立要件説」と似たところがあると言えるのかも知れない。 しかし「独立要件説」は、「発明の構成が容易ではないこと」と「顕著な効果」という2つの要件のどちらか1つでもを満たせば進歩性が肯定されるのに対し、私の場合は、上記の「第1要件」と「第2要件」を両方とも満たさなければ進歩性は認められないという点で、独立要件説とは異なっている。

ところで前訴判決(平成25年(行ケ)10058) は、「効果の程度」を考慮しない場合の本件発明(すなわち「本件発明の構成」)は容易だと判断した。 具体的には、本件発明の化合物が、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(ヒト結膜肥満細胞安定化作用)を有することを確認し、その作用を発揮させるための用途に用いることは容易想到だと判断した。 この前訴判決を私の考え方で捉える場合、判決が行った「容易想到」という判断は、私の言うところの第1要件(予想外の効果に依存しない要件)の判断なのか、それとも、第2要件(予想外の効果に依存する要件)の判断なのか、ということが問題となる。 つまり前訴判決は、「放っておいても誰かが本件化合物にはヒスタミン遊離抑制効果が存在すること(すなわち本件発明の構成)を発見することは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だという趣旨で判断したのだろうか、それとも、「本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在するというだけでは、でたらめ・ありきたりの域を出ないと評されるから容易」(進歩性第2要件)だという趣旨で判断したのだろうか。 このように、前訴判決の判断が「第1要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈と、「第2要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈が可能な場合、どちらの解釈を採るかによって、以下のように捉え方は変わってくることになる。

(A)前訴判決が「進歩性第1要件」を判断したと捉える場合

前訴判決は、「放っておいても本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在することの発見(すなわち本件発明の構成)に誰かがたどり着くことは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だと判断したのだと捉える場合は、上記(1)とほぼ同じこととなる。 すなわち、放っておいても誰かが本件発明の構成に到達することは容易だということが前訴判決において確定している以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えるほかない。

第1要件を満たさない以上、「顕著な効果」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審(平成29(行ケ)10003)では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので、第2要件の観点からも進歩性は認められないということについて確認的に判断したのだと捉える。

そして最判は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めうると言ったわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審で「顕著な効果」を肯定したとしても、進歩性がないという結論は変わらない。

(B)前訴判決が「進歩性第2要件」(意味づけ要件)を判断したと捉える場合

上で説明したとおり、私の考え方においては、第1要件と第2要件の両方が満たされない限り、進歩性は認められない。 したがって、進歩性の判断順序についても、必ず第1要件から判断しなければならないというものではなく、もし第2要件が否定されるのであれば、第2要件だけを判断して進歩性を否定してもよいわけだ。 そして、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)はそのような判断だったと捉えるのだ。

この場合、前訴判決は「効果の程度」を考慮しない本件発明は「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるから容易だと判断したのだと捉える。 したがって、「顕著な効果」があった場合になお「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるかについては前訴判決は判断していないのであり、その場合の判断には拘束力は及ばない。また、前訴判決は「第1要件」についても判断はしていないので、それに対しても拘束力は及ばないと捉える。

したがって、審理しうる事項に関して、原審(平成29(行ケ)10003)は広いフリーハンドを持っていた。 そして原審では、とりあえず「顕著な効果」を否定し、「第2要件」によって進歩性を否定したと捉える。

そして最判は、原審が行った「顕著な効果」の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めろと言ったわけではないと捉える。

差戻審では、「顕著な効果の有無」を再審理して、再び「顕著な効果なし」で「第2要件」により進歩性を否定することもできるし、「第1要件」を判断して進歩性を否定することもできる(とはいえ最判は顕著な効果について審理を尽くさせるため、と説示しているから、「第1要件」で進歩性を否定する場合であっても、「第2要件」を判断することは求められるだろうが。)。 もちろん、「第1要件」も「第2要件」も肯定して進歩性を肯定することもできる。

ということで、昨年の6月22日の投稿で私は、『一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思う』と気楽に書いたけれど、それは「顕著な効果」を考慮するか否かで進歩性の有無についての結論が変わりうる以上、それを審理することは「蒸し返し」ではないし、前訴判決ではあえてその部分は避けて審理されていたように見えたからだ。 しかし今回よく考えてみて、「独立要件説」を採るのならともかく、私の考え方で前訴判決(平成25年(行ケ)10058)との整合性を取ろうと考えると、上記のように結構苦しいという気が、今はしている。 それでも、上記のような考え方が採りえないとまでは言えないと思うし、特に(B)の考え方は原審や差戻審に対して広い自由度を与えられる考え方でもあるから、とりあえず上記の(B)の捉え方を推しておこうかな、と思っている。

とはいえ、そもそも私の考え方は誰も採用していないし、上で書いたいずれの捉え方も、判決を行った裁判官の人たちがそう考えていたはずもなく、あくまで判決の「解釈」(創造的解釈(笑))に過ぎないのではあるが・・・。

*   *   *

「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、「時間の問題であったか」というのは、いわば「時間的要件」だと言えるし、「一本道であったか」というのは、いわば「空間的必達性」みたいなものだ。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

逆に言えば、「第1要件」とはそういう要件なのだから、到達することが技術的手法として困難(険しい道)である必要はない。 たとえ技術的手法としての困難性はなくても、本件発明に至るには膨大な数の選択肢(つまり平坦ではあっても、たくさんの分かれ道)がある場合、すべての選択肢が試されるのが時間の問題であったという特別な事情があるのならともかく、そうでないのなら、多数の選択肢をすべて試すのは困難というべきであるから、本件発明が選んだ特定の選択肢を選択することは時間の問題、あるいは一本道であったとは言えないだろう。 したがって、そうした発明は「第1要件」をクリアできる。

ところが、現在の進歩性判断の実務では、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなしてしまうことが多い(例えばSotoku 10号の脚注38で引用した特許庁の宮崎先生の1000個の化合物を作る例など)。 その上で、顕著な効果があったものだけは例外的に「進歩性がある」とみなす実務が行われている(すなわち「独立要件説」的な判断)。 しかし、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなすのは「第1要件」を判断したことにはならない。 「第1要件」は、あくまで本件発明という特定の選択肢にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったかを問うているのであって、本件発明という特定の選択肢を他の選択肢とは切り離して焦点を当てた上で、その発明をすることに技術的困難性がなかったのか(平坦な道であったか)を問うているのではない。 「発明に至る道が平坦である」ことと、「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であった」ことは、似て非なることだ。 このように、現在の進歩性判断の実務では、私のいう「第1要件」は検討されていない場合が多いのではないかと思っている。

例えば前訴判決において裁判所は、「以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべき」(判決文PDF 91ページ)と判示している(「KW-4679」とは本件発明の化合物の一つ)。 この判断にしても、私のいう「第1要件」を判断したのかといえば微妙だ。 前訴判決は、甲1及び甲4に接した当業者は、本件発明という構成を試すことは容易であったということを判断したに過ぎず、当業者が甲1及び甲4に接して本件発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったと判断したわけではないように見える。

したがって、実際には前訴判決(平成25年(行ケ)10058)が上記の(A)の判断を行ったとみなすことはできないかも知れない。 その場合、私の考え方に基づいて前訴判決を解釈するとすれば、せいぜい、上記(B)の判断を行ったとみなすことにするか、あるいは、前訴判決は本来行うべき判断を行わずに進歩性を否定した判決だということになるのかも知れない。

このように、たとえ発明の構成は容易だと判断した上で、顕著な効果により進歩性を認めている例(すなわち「独立要件説」的な判断をしている例)があるとしても、その多くは、試すことが容易であったことをもって発明の構成は容易だと判断しているだけで、私のいう「第1要件」は検討していない可能性がある。 したがってそうした発明は、実際には、「第1要件」をクリアできるものが多かった(すなわち、私の考え方でも進歩性は肯定されていた)のかも知れない。 個々の選択肢を試すことが容易であったというだけで、すべての選択肢を「容易」だとみなすという現在の判断実務は、「本件発明の構成にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったのか」ということを必ずしも検討することなく「発明の構成」の容易想到性を肯定してしまうことになるが、それでは本当は容易にはたどり着けないものを容易にたどり着けると判断することになってしまう。 その欠陥は、顕著な効果があるものを救済することでほぼ補われてはいるのだろうが、本来あるべき進歩性の判断規範からはずれが生じうるだろう。 根本的な解決を目指すなら、進歩性の判断において、本件発明に到達するまでの「時間的要件」や「一本道性」を考慮要素として取り込む必要があり、そのためには、例えば選択肢の「数」(すなわち「選択の容易性」)を考慮要素とする必要がある。 「ピリミジン誘導体事件」判決(平成28(行ケ)10182、10184)は、(副引例中の)選択肢の「数」が考慮要素であることを正面から認めた判決として画期的だったとは言えるが、考慮すべきは「副引用発明」の選択の容易性に留まるものではない。 4月16日の投稿で書いたように、「主引用発明の選択の容易性」も、考慮する必要が生じる場面はあるのだろうと私は考えている(たとえそれが必要なケースは多くはないとしても)。

*   *   *

「第2要件」(意味づけ要件)について

「意味づけ要件」などという呼び方は、いかにも「曖昧」、「主観的」、「予測可能性が低い」などと言われそうではあるが、私は、進歩性判断において、結局はそこは避けて通れないことなのだという気がしている。 例えば上記の(2)(3)の考え方、すなわち、効果が大したことがない場合は「発明の構成」は容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、一転してその「発明の構成」は容易ではないと考えたり、効果が大したことがない場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易ではないなどと考えるというのは、結局のことろ、発明の効果によって発明に対する意味づけを変えていることに他ならないのだと思う。 私は、単にそれを潔く認めて要件としただけであって、上記の(2)(3)のような考え方とくらべて予測性や客観性が下がるものではないし、むしろ上記の(2)(3)の考え方にかなり近いはずだと思う。

例えば、特許庁の現行の審査基準(第III部 第2章 第2節 3.)に記載されている「図 論理付けのための主な要素」(9月26日の高石解説にも引用されている)は、発明の構成の容易想到性に関連すると思われる「技術分野の関連性」や「課題の共通性」、「阻害要因」などの要素と、「有利な効果」というまったく異なるものを天秤にかけて進歩性を判断するという感じの図になっている(下図)。

[特許庁 審査基準 第III部 第2章 第2節 3. の 図]
shinsakijunIII-2-2_20191007.png

しかし、そもそも「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。 それに比べれば、私の考え方は「顕著な効果」を、発明に到達することの容易性(進歩性 第1要件)とは切り分けて、「でたらめ・ありきたり」とは思えないほどのものか、という別の観点(進歩性 第2要件)の中で考慮しようとするものだから、まだ分かりやすいのではないか。

Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり、そもそも「意味づけ」という言葉は、特許庁の宮崎賢司先生の論文『間接事実説なのか、独立要件説なのか,それとも?』(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170 )の脚注50でいわばキーワード的に使われている言葉を採ったもので、宮崎論文では、「意味づけ」という言葉を加藤志麻子先生の論文(パテント Vol. 61 No. 10(2008)86-102の91ページ)から採ったと書かれている。 したがって、「意味づけ」という考え方は、二人の先生方の考え方に親和性があるはずだ。 また、宮崎先生自身は、発明というものを、課題(目的)・構成・効果の三要素を含む「技術的思想」の創作だと捉えて容易想到性を判断することを論じており(技術的思想の創作説)、そうした考え方は上記の(3)に近いと思われるが、宮崎論文を読むかぎり、宮崎先生は自身の考え方は「二次的考慮説」よりも「独立要件説」に近いと考えているようで、論文の166頁では、「独立要件説」を「技術的思想の創作説」(宮崎先生ご自身の説)と捉えることを提唱されている。 そういう宮崎論文にもし理があるのだとすれば、「技術的思想」という概念や「独立要件説」さえも、発明に対する「意味づけ」と無関係ではないことが示唆されるだろう。

*   *   *

最後に、通説的な「独立要件説」論者が採っている理屈を批判して本稿を終わりにしたい。

冒頭で紹介した飯島歩先生の評釈では、「独立要件説」を正当化する理屈として、知財高裁が行った判決(平成24(行ケ)10415;「血清コレステロール低下剤」事件, 平成25年10月3日判決)における以下の説示が引用されている。

平成24(行ケ)10415;判決文PDF 43-44ページ]
・・・,発明が引用発明から容易想到であったか否かを判断するに当たっては,当該発明と引用発明とを対比して,当該発明と引用発明との構成上の相違点を確定した上で,当業者が,引用発明に他の公知発明又は周知技術とを組み合わせることによって,引用発明において相違点に係る当該発明の構成を採用することを想到することが容易であったか否かによって判断するのを原則とするが,例外的に,相違点に係る構成自体の容易想到性が認められる場合であっても,当該発明が奏する作用効果が当該発明の構成そのものから当業者が予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきであるから,当該発明が引用発明から容易想到であったとはいえないものと解するのが相当である。

つまり裁判所は、相違点に係る「発明の構成」は容易想到であっても、顕著な効果がある場合は進歩性を認めるのが相当だと説いている。 確かに、この説示は「独立要件説」と言っていいだろう。 ちなみに、9月26日の高石解説でも、この判決は「“独立要件説” に立ったと考えられる裁判例」の項目の中で紹介されている。

ちなみにこの判決を行ったのは、本件前訴判決(平成25年(行ケ)10058;平成26年7月30日判決)を行ったのと同じ知財高裁第4部(富田善範裁判長)だ。 しかも二つの判決は時期的にもかなり近い。 富田判事が「独立要件説」を採っているのであれば、前訴判決においても、裁判所の審理は「独立要件説」的な思考形式で行われた可能性は高いのかも知れない(だからこそ、「二次的考慮説」や私の説の立場から、前訴判決の確定を前提にして今回の事件を説明しようとすると上記のように苦労するわけだ。)。

さて、上記の裁判所の説示では、「当該発明が奏する作用効果が・・・予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきである」と説かれている。 この考え方は、早田尚貴先生の論稿(知的財産法の理論と実務 第2巻, 新日本法規出版 (2007) 403-432 の 418ページ)で分類されている「独立要件説1」に相当する考え方であり、飯島先生は昨年出された論文(知財管理 Vol. 68, No. 9 (2018) 1275-1288 の 脚注46)で、玉井克哉先生の論文(私が昨年6月22日の投稿で取り上げたもの)もこの立場だと論じている。

「顕著な効果がある発明は産業の発展に寄与する」というのは正しいのか?、ということはとりあえず不問にし、それは正しいと仮定しよう。 私が上記の裁判所の説示に対して問いたいのは、「産業の発展に寄与する発明に特許権を与える」ということは、特許法の法目的(同法1条)に合致するのか、ということだ。 換言すれば、「産業の発展に寄与する発明に20年の独占権を与えることは、“もって産業の発展に寄与する” のか」ということだ。 もっと分かりやすく言えば、「産業の発展に寄与する発明に対しては、その発明に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのかを問うことなく、20年の独占権を与えることが特許法の法目的なのか」ということだ。

「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」ことと、「発明の保護及び利用を図ることにより、・・・、もって産業の発展に寄与する」(同法1条)こととは異なる。 「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えれば産業の発展に寄与するということを誰も証明していない以上、後者を前者に読み替えるような説示を看過することはできない。 特許法1条は、「産業の発展に寄与する」ように発明の「保護 “及び利用” 」を図ろうと言っているのであって、産業の発展に寄与するか否かを不問として「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えようと言っているのではない。

例えば、当業者がその発明を行うのは時間の問題であった場合でも、その発明に予測を超える顕著な効果がある場合は、いち早く出願した者に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのか? 皆がいずれたどり着くような発明は、皆がたどり着くことに任せ、その「顕著な効果がある発明(すなわち、産業の発展に寄与する発明)」を皆が早期に自由に利用できるようにすることの方が、むしろ産業の発展に寄与するのではないか?

このように考えると、上記の裁判所の説示は特許法1条を読み誤っていることは明らかであるように見えるし、もし、こうした理屈が「独立要件説」が拠って立つ根拠なのだとすれば、「独立要件説」の正当性は疑わしいというべきだろう。

*   *   *

以上のとおり、今回の事件は、本件発明の構成が容易想到だと判示した前訴判決が確定しているにも関わらず、なお審理を尽くせと最判が判示したという点で、「二次的考慮説」に対して難題を突き付ける事件だと言えるかも知れない。 しかし、だからと言って「独立要件説」の正当性が疑わしいのは上記のとおりだ。

この難題にどう立ち向うか。

安易に「独立要件説」に日和ったり、最判に忖度したりすることなく、制度趣旨から説き起こした議論がなされることを期待したい。

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参考論考:
田中汞介『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年8月31日

田中汞介『 最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(特許法の八衢)2019年9月1日

飯島歩『進歩性判断における予測できない顕著な効果の位置付けに関するドキセピン誘導体含有局所的眼科用処方物事件最高裁判決について』(イノベンティア・リーガル・アップデート)2019年9月16日

田中汞介『続・最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年9月23日
(この投稿でも飯島歩先生の評論を題材に考察が進められており、最高裁は「【・・・独立要件説および二次的考慮説のいずれの立場を採るかはブランクのまま、さしあたり、効果顕著性については(・・・)・・・判断手法を是正し(効果顕著性の判断手法を統一し)ようとした】と理解することも十分にできるのではないか」と結論されている。)

高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 『【特許★★★】「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜』(中村合同法律特許事務所HP 法情報提供)2019年9月26日
(この解説は、飯島先生の評論とも共通部分は多い。 もともと今回の私の投稿は、飯島先生の評論を題材に書き始めたものだが、ほぼ書き終えたころにこの高石解説が公開されたため、これを受けて修正を行った。)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月02日

「独立要件説」に立った結果 ⇒ 既知のラセミ体の一方は進歩性あり(「光学活性ピペリジン誘導体」事件 平成24年(行ケ)10206,平成24年(行ケ)10207)


この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決は6年前の判決(2013年7月24日判決)であって、最近の判決ではない。 しかし先日、高石秀樹先生が「アレルギー性眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)に対する解説(高石解説と略記)を公開(以下↓)されて、その中で言及されている判決だ。

[高石解説]
「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜
(高石秀樹(執筆),吉田和彦(監修),中村合同特許法律事務所HP,2019年9月26日 法情報提供)

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決(平成24年(行ケ)10207)を高石解説は、「“独立要件説”に立ったと考えられる裁判例」として紹介している。 具体的には高石解説は、「構成が容易想到であると認定した上で、・・・ 発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた裁判例は殆ど存在しない。」とした上で、「数少ない・・・裁判例として、知財高判平成24年(行ケ)第10207号「光学活性ピペリジン誘導体の酸付加塩及びその製法事件」(設樂裁判長)は、公知のラセミ体を構成する一方の光学異性体の物質発明(・・・)(【請求項1】式(T)…で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」)について、「構成の観点からは,当業者が容易に想到可能であった」としながら、「顕著な効果」を有することを理由に進歩性を認めた。」と解説している。

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件については、tokkyoteki先生が判決直後に既に解説されていて、今回の高石解説を受ける形で再び下記のように紹介して下さっている。


その解説を改めて読んでみて、あぁ tokkyoteki 先生も批判的にコメントされていたんだなぁ と思ったので、私も今回ちょっとこれについて書いてみようかと思う。

判決文によれば、この化合物には光学異性体(S体とR体)があって、普通に合成するとS体とR体が混ざった混合物(ラセミ体)として合成される。 そして、そのラセミ体が「抗ヒスタミン活性」を持っていることは既に知られていた(特開平2-25465)。 そして、化合物の構造も分かっていたから、この化合物には不斉炭素が含まれていて、S体とR体が存在することも分かっていたわけだ。

この状況で本件発明は、光学異性体を分離するためによく用いられているジアステレオマー法を用いて本件化合物のS体とR体を分離精製すること試みた。 具体的にはHPLC(高速液体クロマトグラフィー)を用い、特定の溶媒(ヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸(0.1%))とカラム(CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD)を組み合わせ、他にも分離手順のポイント(HPLCに通す前に、試料をエタノールに溶解させるなど)はあるのかも知れないが、ともかくS体とR体を分離することに成功した。 そしてS体とR体の薬効を調べたところ、薬効の本体はS体であって、R体はほとんど活性がないことを見出したというもの。 具体的には、モルモットにヒスタミン塩酸塩を静注して誘発させるヒスタミンショック死を抑制する効果を試験した結果では、半数の個体をショック死から免れさせるために必要な投与量(ED50)は、S体が0.023 mg/kg に対してR体は 1.0 mg/kg で43倍の差があり(明細書の表1)、抗BPO-BGG・IgE血清を用いたhomologous PCA反応のED50では、S体が0.025 mg/kg 程度であるのに対してR体は 3.0 mg/kg 以上であり 100倍以上の差があった(明細書の表2)。 また、本件化合物をベンゼンスルホン酸塩または安息香酸塩とすることで、吸湿性の少ない安定した結晶が得られることも見出した(以上、明細書の記載より)。

以上の結果をもって出願されたのが本件出願で、訴訟時における請求項1は、平成24年(行ケ)10206 の特許(特許4562229)については「実質的に(R)体を含有しない,(S)−4−〔4−〔(4−クロロフェニル)(2−ピリジル)メトキシ〕ピペリジノ〕ブタン酸・ベンゼンスルホン酸塩を有効成分としてなる,医薬組成物。」となっており、平成24年(行ケ)10207 の特許(特許4704362)については「式(T)
20191001Piperidine_c1.png

で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」となっている。

この判決において裁判所は、S体とR体を分離し、S体のみを取得する方法に関する困難性はことごとく否定した。 すなわち、分離にあたってジアステレオマー法を用いること、HPLCを使用すること、溶媒としてヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸 (0.1%) を用いること、カラムとして CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD を用いることなどはすべて容易だと判断した。

また、S体とR体を分離して、その一方だけを医薬品とすることに関する出願当時の技術常識について、判決文には以下のような文献の記載が引用されている。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について
ア 刊行物の記載

(ア) 昭和62年10月1日発行の「月刊薬事」Vol. 29, No. 10(甲4)
 「生体(酵素や受容体)はこれらの光学異性体を識別する能力を持っており,異性体にはまったく生理活性を持たないもの,弱い同類の生理 活性を持つもの,拮抗的な生理活性を持つもの(アンタゴニスト)や別な生理活性を持つものがある。それゆえ,医薬品として用いるときには ラセミ体としてではなく,目的にあったエナンチオマーのみを用いることが好ましいと考えられるが,現状はほとんどがラセミ体として用いら れている。…しかし,最近,医薬品としてラセミ体の開発・使用に関して問題が投げかけられてきた。その背景として,最近の薬物分析技術の 進歩,とくに高速液体クロマトグラフィーにおけるキラルカラムの開発などにより,光学異性体の分離・定量の技術が進歩し,その結果,合成 キラル医薬品の生体内動態,特に代謝に関して異性体間に著しい差があることが明らかになったことがあげられよう。」(・・・)

(イ) 平成元年10月10日発行の「季刊化学総説」No. 6「光学異性体の分離」(甲3)
a 「1 光学活性体のプレパレーション」という表題の論文
 「研究の精密化に伴い,医薬品,農薬,食品,飼料,香料などの分野で光学活性体を扱うことの重要性が日ごとに増大していることはいうまでもない。光学活性体が対掌体により生理活性をまったく異にする場合が多いからである。たとえばグルタミン酸の場合,L体(S)には旨味があるが,D体(R)には旨味はなく,酸味が感じられるだけである。不幸な事件のために有名になってしまったサリドマイド… も,(R)体は催奇形性をもたないが(S)体には強い催奇形成があり,ラセミ体を実用に供したことが悲惨な薬害事件…をひき起す原因 となった。さらに,対掌体の一方が有効な生物活性を示す場合,もう一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害…をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品 の開発研究でしばしば体験するところである。…したがって,光学的に純粋な対掌体をいかにして入手(合成または分割)するかは,医薬品のみならず生物活性物質を対象とする研究において,不斉中心をもつ化合物を扱う場合,避けて通ることのできない重要課題である。この目的に対して,・・・,ラセミ体を製造(合成)したうえで,それを効果的に光学分割…する手段もまた有効な方法として多用されている。」(・・・)

b 「2 光学活性体の生理活性」という表題の論文
「動物はL-アミノ酸より成るタンパク質から構成されており,生体内の代謝に関与する酵素もタンパク質である。酵素の基質特異性に基質の光学特異性が大きく寄与するのは,酵素側に存在する不斉性を考えれば容易に『当然のこと』と受けとめることができる。生体内で起る複雑でありながら選択性の高い反応は,酵素による『不斉を含む三次元の分子認識』によるものと考えられる。生理(薬理)活性をもつ物質が生体に摂取され吸収されると,その物質に特異的な親和性をもつ受容体…との結合により生理活性が発現することになるので,基質が不斉中心をもっていれば,その(S)体と(R)体とでは生理活性に相違が生ずるのはこれまた自然であろう。医薬品の多くは生体にとって異物…であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。このような考え方が出てきた背景には,1章のはじめに述べたサリドマイドに関する知見が大きく横たわっていたためと思われる。…近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある。また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした。薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった。」(・・・)

(ウ) 平成4年2月10日発行の「日本化学会誌」NO. 2(甲26)
a 「1 はじめに」の項
「1.1 光学異性に関する認識の深まり
…二つの光学活性体,そしてラセミ体の三者がいずれも『異なる』化合物であるということは,概念的には古くから知られていた。にもかかわらず,しばしばこれらが同等あるいは代用できるものとして扱われてきた一つの理由は,光学活性体を入手し,またその純度を評価するための手段が未発達であったことと,そのためにことさら,それら三者がいかに『異なる』かということが,実際的な問題として十分に認識されていなかったためであると思われる。この相違の重大さが最初に認識されたのは医薬の分野であろう。サリドマイドの催奇性が,その(S)-体に基づくものであるというBlaschke らの研究はよく知られているが,同様の例はかなりの数が知られるようになった。最近報告された例では,…。こうした背景から,近年医薬開発においては,ラセミ体を製剤化する場合にも,それぞれの光学活性体の薬理評価が必要とされ,またラセミ体の製剤化そのものに対する慎重論も高まっている。医農薬などの生理活性物質のみならず,機能性材料にも,強誘電性液晶などのように,光学活性体であることを必要条件とするものが見いだされ,光学活性体にかかわる研究,開発は,科学,技術の広い分野で活発化しつつある。しかし,その展開は光学活性体の製造,分析技術の水準による制約を受けざるを得ず,新たな技術の確立が希求されていた。・・・」(・・・)

上記のような状況を考えれば、薬効を示すラセミ体について、S体とR体を分離し、それぞれについて薬理評価を行い、薬効があり、かつ毒性のない異性体だけを医薬品として使用することの重要性は、出願当時において当業者に広く認識されていたと言えるだろう。

そのような中、裁判所は本件発明の進歩性について次のように判断した。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
・・・。したがって,審決が認定した本件特許発明1と甲2発明との相違点である,本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が「実質的には(R)体を含有しない,(S)体」であるのに対し,甲2発明では光学異性体についての特定がされていない点については,その構成という観点からは,当業者が容易に想到可能であったものということができる
 しかし,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が,甲2公報に記載された本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから,次に,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩の有する効果について検討する。

(5) 本件特許発明の効果について
ア 本件明細書(甲1)には,ヒスタミンショック死抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約43倍強い活性を示したこと,homologousPCA反応抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約100倍以上強い作用を示したことが記載されている(【0030】〜【0035】)ところ,本件明細書は,この本件化合物のエステルによる(S)体と(R)体の比較を根拠に,本件化合物の(S)体がより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用すると結論づけている(【0048】)。
 そして,このことは,甲9の4の意見書に添付された実験成績証明書に,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍の活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体に対して約3倍の生存率を示したことが記載されていることからも裏付けられる。
 そうすると,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる
 したがって,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸は,審決が認定した甲2発明であるラセミ体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものといえる
・・・。
(6) 小括
 以上によれば,本件特許発明1の進歩性に係る審決の判断は,・・・,・・・ 本件化合物は,本願出願時の技術常識を考慮しても,当業者が容易に得ることができなかったものであるとしたことは誤りであるけれども(・・・),・・・ 本件化合物は,・・・ 当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものであると認定判断した点に誤りはなく(前記(5)),結局のところ,本件特許発明は甲2発明に対して進歩性を有するものとした審決の判断は,結論において誤りはない。

ラセミ体に含まれるS体とR体を分離してそれぞれの活性を調べてみることの重要性が当業者において認識されていたことを示す複数の文献が存在することについは、上述のとおり裁判所は認めているし、上に引用したとおり、本件化合物(S体)の取得困難性がないことについても裁判所は認めている。 その上で裁判所は、「顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきである」と説示し、「顕著な効果」があることもって本件発明の進歩性を認めているのだから、高石解説が指摘するとおり、この判決はまさに “独立要件説” に立った判決だと考えらるだろう。

しかし果たして、この判決は妥当だったのだろうか?

私は、本件のような発明は、8月30日の投稿で書いた「進歩性 第1要件」で拒絶すべきだった案件のように思う。 なぜなら上に引用した判決文の中で言及されている文献にも記載されているように、生理活性を有する化合物がラセミ体である場合、S体とR体で活性や毒性に差がないのかを調べることの重要性は本件出願当時において広く認識されていたからだ。

その契機となったのが、当時の技術常識に関して上に引用した判決文の中で登場する文献のうち、甲4を除くすべての文献で言及されている「サリドマイド」事件だ。 サリドマイドは1950年代に開発された睡眠薬で、S体とR体が混ざったラセミ体として販売されていた。 しかし、S体に強い催奇形性があったため、この薬を服用していた世界各地の妊婦から奇形を持った子供が生まれてしまったのだ。 薬学史上、最悪の薬害とも言われている。

サリドマイド事件により、薬効を持ったラセミ体については、S体とR体で生理活性や毒性に違いがあるかを調べる必要性の認識は一気に広まった。 薬学分野の当業者の間で周知となったというようなレベルではなく、世界中の人たちに知れ渡ったのだ。 私も学生の時に授業で習ったくらいだから。

つまり、ラセミ体を構成する各異性体を分離して、その生理活性を調べることは、それほど強い要請があった。 医薬として使おうと考える以上は、必ず調べられなければならない特性とも言えるだろう。 そして裁判所によれば、本件のラセミ体を構成する各異性体を分離する具体的手順は容易だと判断されている。 だとすれば、それを調べた結果どんなに驚くべき結果が出ようが、それは「強い要請」と「容易な手順」によって自然に行き着くはずであった結果に過ぎないのであって、「時間の問題」あるいは「一本道性」があると言えるのではないか(下図)。


[あるべき進歩性の判断手順]
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なお8月30日の投稿で私は、進歩性の第1要件について、「近々誰かが発明するようなものか」と記載し、第1要件が「時間性」の問題であるかのように書いたのだけれど、「時間が短いこと」が必須というわけではない気もするので、上記のように少し修正してみた。 但し、これについては私もまだ少し迷いもある。

ともかく、本件のような発明は、薬効を示すラセミ体が公知となり、かつ各異性体を分離する手法が容易で動機付けもあったという場合には、それだけをもって各異性体の特許性は失われていると考えるべきで、「顕著な効果」によって特許性を復活させるようなことをすべきではないと思う。

なお本件の場合は、本件の特許出願(特願平9-350784;宇部興産・田辺製薬の共願)を行ったのが、本件化合物を最初に開発して出願(特願昭63-175142)した者(宇部興産)と同じ側だから、本件出願が特許になってもあまり不当性を感じないかも知れないが、本件のラセミ体はすでに公知であった以上、まったく別人が光学異性体を分離して本件のような出願を行うこともあり得ないことではなかった。 上記のように、薬効を持つラセミ体から光学異性体を分離して活性の違いを調べる必要性は広く認識されていたし、その手法も裁判所が説示しているとおり容易だったのだからね。 そうすると、宇部興産が開発した本件化合物について、まったく無関係の他者がいち早く異性体(S体)を分離して、特許出願を行うことも起こり得たわけだ。 そして容易なものでも「顕著な効果」がありさえすれば特許にするというのなら、その「他者」は本件化合物のS体について特許を取得することができただろう。 そして宇部興産・田辺製薬による本件医薬品の開発を妨害したり、多額のライセンス料や買取を持ちかけることもできたかも知れない。

私は、特許制度がそのような目的のために便利に使われるものであってはいけないと思う。 薬効を持つラセミ体を最初に作り出して特許出願を行った場合は、それが公開された時点で、容易に取得できる各異性体については特許性は失われたとみなし、たとえそれが「顕著な効果」を持つとしても新たな特許になることを許さず、最初に特許出願をしてそれを公開した者が安心して医薬品開発を進められるようにすることの方が妥当なのではないか。 またそうであれば、この化合物を最初に作り出してラセミ体として特許出願を行った者が、のちに各異性体を分離して「顕著な効果」を見出したとしても、それによって新たな特許が付与され、独占期間を事実上先延ばしするようなことが許されないのは、また当然のことだろうとも思う。

また、今回の「アレルギー性眼疾患」事件の最判(平成30年(行ヒ)69)において最高裁は、「・・・本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・」と説示し、まるで医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くすべきだと言っているようにも見えるが、8月30日の投稿の(4)でも書いた通り、特許出願を行うのは、その医薬品を開発して上市してくれる者とは限らない。 その気がない者であっても、出願すれば特許は取得できてしまう。 「医薬発明の進歩性のハードルを低くすれば医薬の開発が促進される」などというのは根拠のない話であって、そのような考えのもとに進歩性のハードルを人為的に操作すれば、意図しない結果を招くことになるだろう。

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ということで、高石解説が、発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた数少ない裁判例として紹介している「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決について感じたことを書いてみた。 つまるところこの判決は、「独立要件説」を採った結果、誤った結論に至ってしまった判決だというのが私の見方ということになるだろうか。

もし、私の考えは間違っている、すなわち、この「ピペリジン誘導体」事件の判決は正しく、上記の最判の説示についても、「医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くするべきだ」と捉えるのが正しいというのなら、残念ながら、以下のような特許戦略は有効だということになってしまうだろう。

薬効を持つラセミ体を他者が公表したらすぐにやるべき特許戦略

 そのラセミ体から異性体を分離し、それぞれの異性体について活性や毒性を評価する。 もし一方の異性体が、ラセミ体の2倍を有意に超える活性を示したり、顕著な毒性を示したりした場合は、すぐに特許出願する。 これにより、たとえラセミ体に関して他者が先に特許出願を行っているとしても、それに匹敵するほどの価値のある特許を取得することが可能となる。 たとえ異性体の分離が容易であり、その動機付けがあるとしても、「独立要件説」が進歩性をサポートしてくれるだろう。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする