2020年01月28日

高林龍判例解説『進歩性判断における顕著な効果の位置付け』(年報知的財産法2019-2000 日本評論社 24-32 2019)


昨年の年末に出版された『年報知的財産法2019-2020』(日本評論社 2019)に、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する高林龍先生の評釈が掲載されている。

評釈は全体として、今回の最判は事例判断に過ぎず、射程は極めて狭く、「独立要件説」と「二次的考慮説」の対立について判示したものでもないというスタンスをとっている。 最判を批判せず、かつ最判の影響は最小限に留まることを論じる高林解説は、バランスと配慮の効いた論文だと評することはできるかも知れない。

しかし褒めるだけではなんなので、高林先生には大変失礼ながら、曖昧に書かれている部分は多少勝手に解釈しつつ、今回の高林解説について批判的に感想を書いてみたい。

1.独立要件説と二次的考慮説の違いは「言葉の問題」に過ぎないのか

進歩性の判断における効果の意義について高林解説の28-29頁では、「独立要件説」と「二次的考慮説」が説明された上で、以下のように論じられている。

[29ページ](強調を追加)
いずれにせよ効果の顕著性が進歩性の判断過程において考慮されるのであれば、独立要件説と二次的考慮説の差異はほとんどないといってよく、特許庁や裁判所内部での運用や解釈が必ずしも統一されていなくとも、結果に大きな差が生じていないのだろうと予想できる 17) ・・・

そして脚注17では以下のように論じられている。

[29ページ 脚注17](下線及び強調を追加;以下同様)
効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう。この場合に効果を参酌することなく構成の容易想到性が判断されているというのかどうかは、言葉の問題にすぎないように思われるし、このような判断過程を経る出願が多いのが現状であろうかと思われる。

上に下線で示したとおり高林先生は、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう」という。 確かに “通例” はそうなのかも知れない。 しかし「予想外の効果」というものは、“通例” ではないからこそ「予想外」なのだから、“通例” の場合だけを考えるのでは意味がない。

もし高林解説が言うように、「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」が「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」だというのなら、まったく同じ構成を採用した結果、効果が想定外に顕著だった場合は何というのだろうか?

その場合は、「その構成は容易想到ではない」とでもいうのだろうか? まったく同じ構成であるにもかかわらず、効果が想定内であった場合は「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到」だといい、効果が想定外であった場合は「効果を参酌した結果、構成が容易想到ではない」ということにするのか?

もし高林先生の考える「二次的考慮説」がそのような説なのだとすれば、そのような考え方こそ、私が常々批判しているところの「修正主義」(2019年4月24日の投稿などを参照)であり、欺瞞というべきものだ。 効果が予想外か否かを見てから構成が容易想到かどうかを決めるのなら、そのような「二次的考慮説」が「独立要件説」と同じとなるのは当たり前だ。 「二次的考慮説」をそのように解した上で、「独立要件説」と「二次的考慮説」は「言葉の問題」にすぎないなどと論じるのはトートロジーであって、無意味かつ誤解を生む源だと言わなければならないだろう。

「独立要件説」であれ、高林先生の考えるであろう修正主義的な「二次的考慮説」であれ、不都合が起こる場面は2つある。 1つ目は、膨大な選択肢の中からでたらめに一つの選択肢からなる構成を選んだだけの発明(すなわちその特定の構成を選択することは容易想到とは言えない発明)であって、見るべき効果がまったくない発明に進歩性を認めるか否かという場面であり、2つ目は、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が顕著なら進歩性を認めるのか否かという場面である。

「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)では、膨大な選択肢の中から一つを選んだ場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 しかしそのような考え方では、でたらめに選んだだけの発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号(「9.」節)で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている(2019年8月30日の投稿を参照)。

すなわち、これは「言葉の問題」などではなく、現実に起こりうる問題だ。 「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、「独立要件説」と差がないなどというのは、現実に想定できる問題について見て見ぬふりをするのに等しい。 現実から目をそむけず、「独立要件説」と修正主義的な「二次的考慮説」の両方を否定することが求められているのである。

*   *   *

2.効果が顕著なら進歩性を肯定するのは「理の当然」か

本件判決について高林解説は、次のように解説している。

[29-30頁]
 ・・・、前訴判決を理解するうえでは、まず本件各発明は化学物質のいわゆる用途発明であり、出願前公知の化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することを見出した点に発明としての進歩性が認められるか否かが問われるべき事案であることが重要である。用途発明とはたとえ公知物質であったとしてもこれが奏する未知の効果を見出し、これを新たな用途に適用することに進歩性ばかりでなく新規性も認められるとして特許が成立する場合のことであるから、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、独立要件説とか二次的考慮説とかで一般的に論じられるように、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

ここまでの高林解説については特に異論はない。 続いて高林先生は以下のように論じる。

[30頁]
 本判決は「化合物を発明に係る医薬用途に適用することが容易想到であることを前提とする場合において」と判示したうえで、当該発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定した原審の判断手法に違法があるとの判断に進んでいる。この前提事実は、本件審決が、審決取消確定判決(前訴判決)の拘束力20)が及ぶとした、引用例1および引用例2から当業者が本件各発明に至る動機付けがあるとして、化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することは容易想到であるとした判断であり、原判決は当事者に争いがないとして適示している事実であるから、その当否はともかくとして、最高裁としては前提事実として扱うほかない事実ということができよう。その意味では、本判決の前記判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの独立要件説に立っているかのようではあるが、実は法律審である最高裁としては原判決の認定した事実として当然に前提とせざるを得ない事実を判示したにすぎないものということができるだろう。
 そうすると、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間があるものの、仔細に検討してみるならば、前訴判決は、前審決が、本件発明における「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という発明特定事項は、引用例1及び引用例2から当業者に動機付けられるものとはいえないから進歩性欠如の無効主張は理由がないとした判断は誤りであり、同引用例から動機付けられるとして、その限度での判断に止めて審決を取消したものということができる21)。 そうであるのならば、二次的考慮説に立ったとしても、独立要件説に立ったとしても、審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる22) のは理の当然である

ここまでの高林解説も、最後の一文を除けば異論はないし、最判が独立要件説に立っているという解釈を高林解説がはねのけている点はむしろ評価できる。 しかし最後の一文については異論がある。 なぜなら、高林解説が「理の当然」と言っていることは「理の当然」ではないと思うからだ。

高林解説は、「審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる」というが、高林解説がそのように論じるのは、効果の程度が進歩性の判断に影響を及ぼしうると考えているからだろう。 しかし、効果の程度が進歩性の判断に必ず影響を及ぼすかどうかは明らかとは言えない。 例えば、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合が存在する可能性はないのか? もし本件が、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当するのなら、効果の顕著性を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるから、必ずしも「効果の顕著性が審理されるべきことになる」とは言えない。 そして高林解説は、本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当しないこと、あるいは、「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合など一般論としてあり得ないことについて、なんら論証していない。 また高林先生は論文の最後で、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」(32頁)と論じ、あたかも効果が「予測した範囲を超えている」場合は進歩性が肯定されるかのような論じ方で論文が閉められているが、上述のとおりそもそも本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合には該当しないことは論証されていないのだから、「効果の顕著性が審理されるべきことになる」などと論じたり、「予測した範囲を超えている」か否かで進歩性の有無が決するかのような論じ方をしたりするのは飛躍があるというべきだろう。

これもまた、高林先生が「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、世の中には「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないことを前提に物事を論じていることに起因するのかも知れない。 しかし上の「1.」で述べたとおり、「修正主義的二次的考慮説」というのは、つまるところ「独立要件説」と同じなのであり、顕著な効果があった場合は容易なものを容易ではないと思うことにするという欺瞞の上に成り立っている考え方にすぎない。 世の中に、「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないと考えること自体が誤りなのである。

*   *   *

本件の場合、本件化合物は抗ヒスタミン剤として既知の化合物であった。 そして本件化合物の一つ(KW-4679)をアレルギー性眼疾患の治療薬として用いることを想定して、モルモットの結膜炎モデルに点眼する実験も本件の特許出願前に行われていた(本件引用例1)。 そして一般に抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンと拮抗するだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離を抑制する作用(肥満細胞安定化作用)を持つことがあることも知られていた。 そうすると、本件化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として開発しようとする場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れと言いうるだろう。

仮に本件発明、すなわち、本件化合物を肥満細胞安定化の用途に使用するということが、誰かが行うのも間近だったと評される場合は、この化合物の肥満細胞安定化作用がいかに顕著であろうとも、そのような用途発明(すなわち本件発明)の進歩性は否定すべきだと私は思うが、その意義は「先行者の保護」にある(もし先行発明がパブリックドメインとなっている場合は、パブリックドメインの保護にある)。

例えば上記の本件引用例1の発明者(すなわち先行者)が本件の特許権者とは無関係の者だったとして、引用例1の発明者が、引用例1に記載されているように、モルモットの結膜炎モデルを用いて本件化合物がアレルギー性眼疾患の治療薬として有用であることを見出し、アレルギー性眼疾患の治療薬としてこの化合物を開発しようとしていたとする。 そしてその場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れだったとする。 ところが、本件特許の出願人がいち早くこの化合物の肥満細胞安定化作用を調べ、本件用途発明を出願してしまったとする。 そして引用例1の発明者に対し、この化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として使用すれば、必然的に肥満細胞安定化作用が発揮されることになり、また、薬事当局もこの作用が発揮されることは認めるだろうから、あなたがこの化合物を医薬品として販売したら特許侵害として訴えると警告すれば、引用例1の発明者は医薬品の製造・販売ができなくなってしまうかも知れない。

このように、何人かが発明するのも間近だったものに対し、効果が顕著であったからといって特許を付与することは、先行者に対して強力な不意打ちと妨害を与えることを可能とし、パブリックドメインにあるべきものを奪取することを許すことにもなる。 こうした発明に特許を与えれば医薬品の製品化が促進されるかのように論じる向きもあるが(2019年8月30日の投稿を参照)、このような付加的な効果について目ざとく特許出願を行う者が、医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はない。 本件の場合、本件化合物の医薬品(製品名:パタノール点眼液)を製品化しているのがたまたま本件特許権者だったから事の不合理さが覆い隠されているが、もし本件用途発明の特許を取得した者が、この化合物を医薬品として開発している者ではなかったとしたら、本医薬品の製品化は、その用途特許により妨害されていたかも知れない。 そうした不意打ち的な妨害を防ぐために特許法29条2項(進歩性要件)は機能すべきなのであり、そのためには、誰かが発明するのも間近だったと評されるものに対しては、その効果の顕著性にかかわらず特許を付与してはならないと考えるべきなのだ。

同じことは、昨年10月2日に投稿した「光学活性ピペリジン誘導体」事件(平成24年(行ケ)10207)のところでも説明した。 二つの異性体の混合物であるラセミ体に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする動機付けが生じるところまで行けば、どちらの異性体に活性があるのかを調べるのは当然であり自然の流れなのだから、それにより必然的に判明すること(すなわちどちらの異性体に活性があり、それによりラセミ体の何倍に活性が上昇するかということ)が、先行者(すなわちラセミ体に最初に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする者)の前に立ちはだかることを許すのは不合理だ。 したがって、容易に分離できる異性体をいち早く分離して「顕著な効果」を見出したからといって、それに特許を付与すべきではないのである。

[2019年10月2日の投稿で掲載した図]
sinposei20191001-1_1940.png

このような理由により、私の言うところの「進歩性 第1要件」(上図)は導かれる。 つまり、たとえ効果が「予測した範囲を超えている」としても、進歩性を認めてはならない場合は確かに「ある」というのが私の考えだ。

したがって、高林解説が言うように、本件の場合に「効果の顕著性が審理されるべきことになるのは理の当然である。」とは言えないし、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」のが当然ということもできない。

もっとも、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」と「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」を半ば同一視(脚注17)する高林解説からすれば、誰かが発明するのも間近だった場合は、よほど顕著な効果があっても強引に「効果は想定内」だとみなせばよいと高林先生は考えているのかも知れない。 しかしそうした点について今回の高林解説では触れられておらず、本件において進歩性を認めるほどの「顕著な効果」とは何なのか、または、そのような場合が本当にありうるのかということについて明確な問題提起をしないまま、論文の最後において、「予測した範囲」を超えてさえいれば進歩性を肯定しうるかのような印象を与えていることについては、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

なお本件最判は、判決文の最後で「・・・,本件各発明についての予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。」と説示しているから、この最判の説示にしたがう必要があるという意味においては、差戻審において効果の顕著性が審理されるべきは当然ということにはなるだろう。 しかしそれは、最判がそう説示したから審理はせざるを得ないだろうということに過ぎず、特許法29条2項の趣旨から理の当然のごとく導き出せるものではない。

そして最判は、顕著な効果があれば進歩性を肯定すべきだと説示したわけでもないことを指摘しておきたい。

前回の投稿でも述べた通り、前提とすべきは特許法の制度趣旨と、変わることのない社会的規範(社会的正義やフェアネス、衡平の理念)である。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、砂上に楼閣を建てる危険を冒すことになるだろう。

*   *   *

3.用途発明における「顕著な効果」の判断の特殊性(高林先生の真の立場は何か)

さて、ここまでは今回の高林解説を批判的に書いてきたが、最後に、高林先生の本当の立場とは何なのかを考えてみたい。

本件発明は用途発明であって、上述のとおり、物質(オロパタジン)はすでに公知であり、抗ヒスタミン作用があることも既知で、モルモットのアレルギー性眼疾患モデルに対する治療効果の検証なども行われていた。 そして本件発明は、この化合物にヒト結膜肥満細胞安定化作用(ヒト結膜肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離抑制作用)があることを見出したことに基づいて出願されたものだ。 その請求項は、「・・・、○○を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤。」となっている(「○○」は公知物質名)。 この請求項の「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という部分は、この発明が「ヒト結膜肥満細胞安定化という用途に用いる剤」であることを規定するものであり、この発明が、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途に用いることに限定されていることを示すものだ。 このように用途発明とは、用途(「ヒト結膜肥満細胞安定化」)が発明の「構成」の中に組み込まれている。

そして用途発明について高林解説は次のように論じる。

[30頁]
・・・、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、・・・、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

そして今回の最判の説示について高林解説は、

[30頁]
・・・、本判決の・・・判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの・・・説に立っているかのようではあるが、・・・

と論じつつ、最判はそうした「説」に立つものではない旨を論じている。 そして、化合物の用途発明の場合に、構成の容易想到性(すなわち、効果を奏する用途に用いることの容易想到性)の判断を、効果の顕著性の判断とは別に先行して行うことができるのかという点について、

[30頁]
・・・、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている(と)考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間がある・・・

と論じている。

上の高林解説の論じ方からすれば、高林先生は、用途発明における用途(すなわち発明の構成)の容易想到性と、効果の顕著性を別々に判断することができるのかについて「疑問」を持っていることが分かる。

その是非はともかく、もし高林先生が、「両者を別個に判断すること」に疑問を持っており、それでもなお今回の最判には疑問を持っていないという立場をとるのであれば、今回の最判は、「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずである。

本件用途発明が容易想到であるか否かが前訴において検討され、その結論が既に出ているにもかかわらず、本件の「効果の顕著性」を判断する結果、本件用途発明の容易想到について前訴とは異なる結論に到達しうるのだとすれば、それは「両者を別個に判断した」からに他ならない。

しかし前文のとおり、高林解説の立場からは、今回の最判が「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずだから、今回の最判は、「本件発明」について顕著な効果があれば前訴とは異なる結論に到達しうる(進歩性を肯定しうる)との立場を示したと解することはできず、せいぜい、顕著な効果を判断する場合の判断手法について説示を行ったに過ぎないと解さざるを得ないのではないか。

そうすると、たとえ差戻審において本件発明の「効果の顕著性」が審理され、それについて何らかの結論が出るにせよ、なお本件発明は容易想到だと結論することは十分にありうる(というより、高林先生のいう「疑問」からすれば、そう結論するのはむしろ理の当然)というべきで、これこそが高林先生の真の立場だと、一応は推定することができるのではないか。 すなわち、上の「2.」で書いたのとは裏腹に、高林先生は、本当は、本件発明が容易想到だという結論は変わりようがないと考えている可能性がある。

もしそうでないのなら、高林先生は自身の立場をより明確にすることが求められるように思う。

*   *   *

なおこれに関する私の立場を書くと、2018年6月22日の投稿の「3-4.」にも書いた通り、本件明細書において、本件発明の「効果の程度」を判断するにあたって肝となる「表1」の各数値は、前訴において既に見られ、比較されているはずで、その上で進歩性が否定されていることからすると、別訴で再び「表1」の数値に基づいて顕著な効果を審理・判断することに違和感を感じるのは確かだ。 したがって本件の場合に前訴とは別途「顕著な効果」を判断できるのかという点については否定的に検討する余地はあるように思う。

しかし一般論としては、「用途発明」を特別扱いする必要はないと考えている。 私の言うところの「進歩性 第2要件」は、効果の程度を参酌するか否かで判断は変わりうるものであるから、もし先行する判決が、「効果の程度」を考慮せず、「効果の存否」しか見ないようにして「第2要件」を判断したのであれば、「効果の程度」を考慮してもう一度「第2要件」を判断し直すことはありうるし、その結果、「第2要件」の判断が変わることもありうるだろう。 しかし、もし先行する判決が「第2要件」ではなく「第1要件」を判断して進歩性を否定したのであれば、「第1要件」は発明の効果によって影響を受けるものではないから、前訴判決が確定している以上、進歩性が肯定されることはありえないことになる。 このように、「効果の存否」しか見ないようにして進歩性を先行的に判断した場合に進歩性が否定されたとして、「効果の程度」を考慮して進歩性の判断をやり直した場合、「顕著な効果」により進歩性判断が変わりうることもあれば、たとえ「顕著な効果」があろうとも進歩性判断は変わりえないこともある。 それは、先行判断において何が判断されたのかによるのであり、このあたりのことは、すでに昨年10月9日の投稿「『二次的考慮説』は生き残れるか」で書いたとおりだ。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月14日

田村善之二元論 ― 生き物としての解釈論(『田村善之 知的財産法学の課題 −旅の途中− 知的財産法政策学研究 Vol.51 (2018) 1-46』『田村善之 知財の理論 有斐閣 2019 第4章』)


今回取り上げる田村善之先生の講演録『知的財産法学の課題 −旅の途中−』は、もう1年以上前の2018年に北大の『知的財産法政策学研究 第51号』に掲載されたもので、私は北大のホームページで公開されたものを読んで、当時、感想文を書いてみたのだった。 しかし、公開しないうちにすっかり時間が経ってしまい、今さら『旅の途中』の感想文でもあるまいという感じになってしまったので、書いたものは公開せずにそのままになっていた。

しかしこの度、田村先生が『知財の理論』(有斐閣)を出版され、その最終章で『旅の途中』が掲載されることになったので、お蔵入りとなっていた私の感想文も、今回、めでたく公開する口実ができることとなった。

*   *   *

『知財の理論』については、既に複数の方が書評を公開されている。

特許法の八衢(田中汞介)
2020-01-05
田村善之『知財の理論』に対する雑感

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2020-01-05
我々はこの山をどこまで登ることができるのだろう?〜田村善之『知財の理論』との格闘の途中にて。

『旅の途中』については企業法務戦士(FJneo1994)先生がすでに昨年の初めに取り上げられている。

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2019-01-01
「立法」の議論に参加する上で常に自覚しておきたいこと。

これらの格調高い書評に比べると、下に書いた私の感想文はなんと大柄で、自己陶酔的なことだろうか(笑)。 しかしまあ、これはしょせん日記だし、日記というのは多かれ少なかれそういうものだろうから、ほぼ当時書いたままを公開することにした。

逆に、田中汞介先生やFJneo1994先生は、田村先生の言っていることすべてに同意しているのか、また、感じたままを本当に書けているのか、ということが少し気になったりしている。

*   *   *

唐突だが、私は昔から、田村先生は隠れ(?)「正義論者」のような気がしている。 田村先生といえば「インセンティブ論」であって、インセンティブ論といえば、「・・・産業の発展など、効率性を追求することが大きな、・・・一つの目的となる・・・」(22ページ/467ページ)(ページ数は前者が『知的財産法政策学研究 第51号』、後者が『知財の理論』のもの;以下同様)はずだから、正義論とは対極であるようにも見えるが、なぜそう思うのか?

その理由は、Sotoku 6号の脚注111にも書いた通り、田村先生は「インセンティブ論」に基づいて具体的に特許制度をどのように構築するかを考えるときに、「フリー・ライドの禁止」を実現するような制度構築を目指すべきだと説くからだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)。 今回の講演録でも田村先生は次のように説いている。

[40ページ/483-484ページ]
特許法全体を通有すると目される特許制度の趣旨、すなわち発明に係る技術的思想に対するフリー・ライドを禁止する権利を発明者に与えることにより、発明に対するインセンティヴを付与しようという特許法の目的に求め、技術的思想が利用されている限りにおいて保護を及ぼすべきであるという結論を導くことになります。

つまり、「発明に対するインセンティヴを付与する」という、客観的に検証することが困難な目標を、「フリー・ライドを禁止する」という手段により達成できるものだと捉えることにより、インセンティブ論に基づく特許制度の作り方に具体性を与えているわけだ。

しかし、「フリー・ライドを禁止する」(ただ乗りの禁止)という考えは、「インセンティブ論」から論理的に導かれるものなのだろうか? 例えば発明に対するインセンティブを付与するには、発明に報奨を与えたり、補助金を出したりすることもあり得るような気がするのに、なぜ「ただ乗りの禁止」という事項(だけ?)がプライマリに導かれるのだろうか? むしろ私の感覚では、「ただ乗りはいけない」というのは、「道徳論」や「正義論」から自然に導かれるものであるように感じるのだが。

なお、私は田村先生のことを責めているのでもなければ、批判しているのでもない。 むしろ先生が論じていることに正義論的な要素を感じることに好感を持っている。

*   *   *

私は特許制度というものを、もっと自然発生的に考えている。 窃盗を禁止する法制度が社会において自然に生まれてくるのと同様に、知的創作を尊重し保護しようという発想は、ある程度技術や文化が発達してきた社会であれば自然に生まれ、制度や慣習として定着していくものなのではないかという気がしている。 私の立場は、いうなれば、進化論、生態系論、あるいは生物学的制度観とでも言おうか。

例えば、生物は何のために生きているのか? 生き物は、別に何のために生きているのでもない。 「目的」があって生きているわけではない。 「生きる」という特性があるから生きているのだ。 長い目で見て、生き物というのは強い者が生き残るのではない。 生態系の中で存続するという特性を持っている生き物が存続するのだ。 強すぎて生態系を乱す生き物は、持続性が乏しく、ライフスタイルが変わらない限りいずれ絶滅する。 特許制度も同じで、「目的」があるから制度が存続するのではない。 制度の「目的」が重要なのではなく、「存続する」という特性を持っていることが重要なのだ。 存続するという特性を持っている制度であればこそ存続し、定着していくのだろうと思う。

私は特許制度をそういうものだと捉えているから、「産業の発達」という目的が達せられるか否かなど、割とどうでもよいのだ。 逆に、「政策レバー」(Policy levers)などという言葉を聞くと少し違和感を感じてしまう。 レバーを動かすように特許制度を政策的に操縦して「目標」に近づこうという発想自体、おこがましい気がしてしまう。 特許制度が、どのように、どれほど産業の発達に寄与しているかも具体的に検証できていないときに、何のレバーをどう動かせばどのように動くというのだろうか?、などと思ってしまう。 もちろん、特許制度が発明を奨励し、産業の発達に寄与すればいいなと私も思うし、それに反する結果を現に生じてしまうような制度は作れないとは思うけれど、「産業の発達」というのはレバーを操縦してでも到達すべき必達目標というよりは、いわばお題目のようなものであって、制度が存続するために大事なのは制度にサステナビリティがあり、(私を含めて)多くの人が支持することだと思う。そして制度はもちろん、(私を含めて)多くの人が支持している社会的正義やフェアネス、衡平の理念、あるいは自由を求める心に反するものにはできないだろう。

そういう私が、特許権はどのような範囲に及ぶようにすれば、社会の中で安定性があり、(私を含めて)多くの人が支持するかと問われれば、「フリー・ライドをしているとみなせる範囲」に及ぶようにすることだろうね、と答えるだろう(Sotoku 6号の脚注111)。 そうすることが「産業の発達」を最大化すると思うからそう答えるのではない。 「産業の発達」という制度の「目的」からそういう考えが出てくるのではく、もっと自然に、フリー・ライドを禁止することが納得性があると思うからそうするのだ。 すると奇遇なのだけれど、田村先生がおっしゃっている「フリー・ライドを禁止する」ということと一致するではないか(笑)。 いや・・・、私は奇遇だとは思っていない。 (私を含めて)多くの人が「そう設定することがよい」と感じるであろうように、おそらくは田村先生も心の中でそう感じているのではないかな、と思っている。

[23ページ/467ページ]
ちなみに、「インセンティヴ論」という名称からよく誤解されることがありますが、私も、知的財産法の目的に自然権なり基本権なりが関わっていると考えており、とりわけ人の自由の確保が肝要であると思っています

今回の田村先生の講演録では、上に引用したところが、特許制度に自然権なり基本権なりの考え方を取り込むことの重要性に関して、田村先生がもっとも「自分のこと」として語っているところかなと思う。

*   *   *

ところが、講演録全体は必ずしもそうはなっていないのだ。

[7ページ/453ページ]
・・・公衆をどう納得させるかということがここでの問いです。

[7ページ/453ページ]
・・・、公衆をしてそのような規制を納得させる説得的な論拠を示さないと公衆の納得心が得られないということを意味しています。

[8ページ/453ページ]
自然権論による正当化の必要性

[9ページ/454ページ]
・・・、人々の納得心を得るための自然権論的な正当化根拠が必要なことはたしかなように思います

[9ページ/454ページ]
・・・、人々を納得させるためには自然権的な説明が必要となり、・・・

[27ページ/471ページ]
・・・人々の得心を得るため自然権論的な感覚に訴える必要がある、・・・

[33ページ/477ページ]
・・・、現実の政策形成過程でも人々の共感に訴えるレトリックが用いられている・・・

「公衆をして」とか「人々を納得させる」という言い方は、どこか「下々のために」と言っているようで、「自分は本当はそうは思ってないけどね」というニュアンスを感じさせる。 特許法の目的はあくまで「産業の発達」であって、「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」はいわば「メタファ」であって、「産業の発達」という目的を達成するためにレトリックとして利用すべきものに過ぎないと言っているように感じる。

私は逆で、「知的創作に対するみんなの気持ち」を制度化することが特許法の本質であって、「産業の発達」という法目的こそ、いわばレトリックのようなもののような気がしている。

ちなみに私も、「自然“”」なるものは単なるフィクションだとは思っている。 例えば基本的人権というのも単なる「決めごと」であって、人は生まれながらにそのような権利を持っているわけではない。 社会が「そのように扱おう」を決めているだけだ。 だから、私がどこか日本の外の別世界の地を歩いていて、突然捕えられて投獄されたり奴隷にされたりしたとしても、「私には基本的人権という権利がある!」などと叫んだりはしない。 「基本的人権」など、そういう決めごとがある社会でのみ通用することに過ぎないからだ。 そういう意味では、今回の講演録において田村先生が、知的財産権はしょせんは「人工的な行為規制でしかないと思います」(16ページ/461ページ)と論じ、「権」という言葉が持つ(水戸黄門の印籠のような)絶対不可侵的なイメージを批判的に論じていることは共感できる。

また、「知的“財産”」や「知的創作“”」という「物のイメージ」を前提として制度を構築したり運用したりすることに潜む嘘や危険性を田村先生が説いているのも共感できる。 実際のところ、今回の講演録で先生が「メタファ」として利用すればよいと説いているのは、「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」であって、「知的創作に対する人々のこころ」をメタファとして利用すればよいと思っているわけではないのかも知れない。 しかし今回の講演録ではそこはかならずしも明らかではない。 特許制度において「知的創作に対する人々のこころ」はどのように位置づけられるのか、「産業の発達」に向かって公衆を誘導するために利用すべき単なる“エサ”なのか、それとももっと本質的なところで制度に関わっているものなのかについて明らかにしてほしいと思う。

そしてもし後者、すなわち社会生活の中で自然にうまれる「知的創作に対する人々のこころ」が制度に本質的にかかわっていると思うのであれば、そういう心に沿って制度を構築して運用すれば人心はつかめるのだから、それを超えて「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」をことさら利用して公衆を誘導する必要はないはずだとも思う。 つまり、「知的“財産”」や「知的創作“物”」というレトリックの効用をことさら取り上げて論じていること自体、「知的創作に対する人々のこころ」の本質を軽視しているのではないかという疑いを抱かせるのだ。

しかしまあ、これが「インセンティブ論者」あるいは「政策学論者」たる先生の折り合いの付け方なのかも知れないと思ったりもする。 だって『知的創作に対する人々の心こそが知的財産制度の本質なのだ』などと言えば、それはあまりにも違う人になってしまうかも知れないから。

ともかく、私は「知的創作」に対して人々が抱いている「創作に対する尊重の気持ちや利用の欲求」を、社会の中でなるべくおさまりがよいように交通整理のように整理することが特許制度の根本的な存在理由だと思うから、具体的な制度構築にあたって「産業の発達」を考える必要性をあまり感じないのだ。 「産業の発達」は、立法化にあたって掲げるお題目のようなもので、実際の制度構築は、創作に対する人々の気持ちを、社会的正義や衡平の理念を考えながら形にすることであらかた決まってしまう。 上市するまでに時間とお金がかかる医薬品特許はなぜ追加的な保護が必要なのか、多重延長と薬事制度を利用して独占期間を事実上延長することがなぜ不当なのか、PBPクレームは物のクレームなのだから同じ物であれば権利行使できるのは当前と考えることはなぜ不当なのか、均等論はなぜ必要なのか、先使用権はなぜ必要なのか、そういった問題は、ことさら「産業の発達」を考えるまでもなく結論は出てくるはずで、そういった問題を論じるにあたって、実証もできないのに、いちいち「そうすることが産業の発達に寄与するから」「文化の発展に寄与するから」などという理屈を付ける「目的手段思考様式」(12ページ/457ページ)こそフィクションでありレトリックなのではないかと思う。

なお進化論的に考えるのなら、人間には「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」をそもそも持っているという言い方はいかにも正義や道徳を振りかざしているようで語弊があるかも知れない。 別に「これが正義だ」というつもりはないのだ。 他人が行った創作を利用することにはメリットがあり、自分が行った創作を独占することにもメリットがある。 進化論的には、そうしたせめぎ合いの中で「存続する特性」の高い思考形式が次第に広まっていくわけだ。 自分が行った創作を完全に独占する考え方では、他人の創作を利用できないから適応力に乏しく、長い目で見て存続するのが難しい。 逆に独占しなさ過ぎても、自分で創作することの意義が薄れ、他人任せになってしまう。 知的創作をほどよい塩梅で尊重する考え方が採られた場合に、適応力も上がり存続特性も高くなるから、そうした考え方が長い目で見れば広まって、人々の心の中に定着していったのではないか。 したがって、そうした考えに沿って制度を作ることで、結果的には存続特性の高い制度を作ることができるのだろうと思う。

*   *   *

今回の田村先生の講演録でとりわけ印象的だったのが、ドゥウォーキンの『法の帝国』で論じられている「インテグリティとしての法」(law as integrity)という法解釈の考え方について田村先生が話したくだりだ(36-38ページ/479-482ページ)。

[36-37ページ/480ページ]
そこでは、法の解釈が、・・・、芸術作品でいえばその「創造的解釈」になぞらえられています。芸術の創造的解釈とは、作者の目的を探究するものではなく、作品の目的の解釈であって、その作品が芸術として最も優れたものになるように構成的に解釈するものであるというのです。たとえば、シェイクスピアの戯曲を演出する際・・・、シェイクスピアがその実際の心理において戯曲に込めた意図を忠実に再現することを目的とするのではなく、戯曲のテクストを前提としつつ、もしかしたらシェイクスピア自身ですら明確には抱いたことがないかもしれない大きな芸術的な企図を現代の観衆を前に表現する最善の手段を見付けることである、というのです。

解釈の方法論といっても、「条文」の解釈から「制度趣旨」の解釈までいろいろなレベルがあるだろうし、立法的解決ができる状況なのか否かによっても変わってくるだろう。 『法の帝国』においてドゥウォーキンが例に挙げて論じているのは、法律が想定していない難しい問題が生じた事件(ドゥウォーキンのいう「ハード・ケース」)について「裁判官」が判断する場合だ。 そのような状況では、そもそも立法的解決はできないから解釈で解決を目指すしかない。 また裁判である以上、過去の判例に反するような判断を裁判官が行うのは憚られるという制約もある。 これらの状況を前提として解釈の方法論を考えるのであれば、妥当な解決を行うためには、多少無理な解釈ではあっても法律の条文との整合性(インテグリティ)を確保しなければならないし、また過去の判例と抵触してはならないという意味での整合性(インテグリティ)も兼ね備えたものでなければならない。 また裁判官が判決として使うことができる理屈でなければならない以上、「法はそうなっている(からそう判決する)」という建て前をとる必要があるのは当たり前で、「法はそうあるべきだ(からそう判決する)」などとは口が裂けても言えないという事情もあるだろう。 だからドゥウォーキンが説く方法論も、基本的にはそのようなものになっているのだと思う。 しかし、そのような状況を前提に置いて考える解釈の方法論は、一般的理論というよりも、「裁判官のための方法論」という性格が強くなる。 具体的な事件で裁判官がどのように判決をすればよいのかを考えるのならともかく、そうでないのなら、そのような状況に過度にとらわれる必要はなく、もっと自由に考えてよいのだと思う。 「この条文はおかしいのではないか。」と皆が薄々感じている状況ならなおさらだ。

「立法論」と「解釈論」の違いを意識しないで論じれば「条文」に拘らないで論じることになるから、どうしても「立法論」の立場に傾くことになるのかも知れない。 しかし、そもそも「立法論」の立場で論じる場合と「解釈論」の立場で論じる場合とで言っていることに違いが生じるのだとすれば、それは条項の制約があるからその違いが生じるということなのであろうから、「解釈論」の立場で論じている内容は、(その論者にとっては)「妥協の産物」ということになるのだと思う。 そして、裁判の場でもないのに自由に論じることをせず、条項を所与の前提として「解釈論」のみを論じることは空虚だ。 したがって、まずは自由に考え、条文解釈としてもその論が成り立つのであればそれでよいし、条項の制約があるのなら、妥協の産物としての「解釈論」を考えるというのがあるべき順番だろうと思う。

戯曲に限らず音楽でも、譜面に忠実に演奏するのか、そうでないのかは論争になることがあると思うが、芸術であれ法解釈論であれ、自分が最善と思うものを表現しないことなどあり得ないことを考えれば、それを表現する以外に道はない。 したがって、迷うことなどないのだ。 もっとも、勝手に音を変えて違う曲になってしまえば、「この曲は違う」と聴く人に思われるだけで、共感を得るのは難しくなる。 逆に論文を読んだ多くの人が、そこで論じられていることは妥当だと共感してくれるのであれば、問題解決に向けた道すじは見えてくる。 とりあえずはそれで十分であって、条文解釈で乗り切るか、法改正まで解決を先送りするかは、次の段階で考えればよい問題のようにも思う。

*   *   *

ところで、今回の講演録で田村先生は以下のように論じている。

[38ページ/482ページ]
・・・。「インテグリティとしての法」というアプローチに基づけば、単なる立法論と解釈論を分けるものは、条文の文言そのものではなく、法の構造から導出された法の趣旨に従った解釈であるか否かということになるからです。

[38ページ/481ページ]
・・・、インテグリティという発想の下では、起草者の言っていることは絶対視されません。・・・。・・・、私も重視しませんし、ときには他の条文や制度の趣旨とのインテグリティを保つために、条文の文言にすら反する解釈を採用しますので、よく田村は少数説だと言われるわけです。

田村先生のこうした自由な発想は先生の大きな魅力の一つだ。 私もそうありたいと思うが、突拍子のないものになってしまいがちなのか、2017年3月23日に投稿した「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたように、私の考えと田村先生との考えには違いが生じることもある。 おそらくその原因は、私が法学における解釈の方法論というものが分かっていないのに対し、田村先生はより正当な法学としての方法論に基づいているからなのかも知れない。 私はもともと自然科学指向で法学が分かっていないから、法学に関してはしろうとの自由さがある。 自然科学がそうであるように、確かなものや変わらないもの以外は前提とする必要はないし、確かではないものや変わりうるものとのインテグリティを保つ必要もないと思っている。 法律の構造や条文、過去の判決・判例、権威が書いていることなどは、すべて限られた人間が限られた時間を使って生み出したものに過ぎない。 「りんごが木から落ちる」という不変の物理現象や、長い間変わることなく生態系の中で存続し続けてきた生き物の構造や行動パターンなどは、そこに「不変の何か」があるはずだとみなして、それを探究してみることには意義があると思う。 しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。 それを前提にして物事を考えるというのは、砂上かも知れないところに楼閣を建てるようなものだ。 せっかく時間をかけて物事を考えるのなら、「誤っているかも知れないこと」を前提にしないほうがいい。 そうすると、条文や判例などを前提とすることはできず、より変わることのないもの、すなわち「制度趣旨」や、「変わることのない人々の思い」(=緩い意味での社会的正義やフェアネス、衡平の理念)を前提として考えることが、揺らぐことのない結論を導くためには必要になるのだと思う。 そのように出された結論は、判例や条文を前提にしておらず、また有力説なども尊重しないものであるから、裁判所や多くの論者には受けが悪いかも知れない。 しかし「変わることのない人々の思い」に支持されることになるはずだと思う。

*   *   *

創造的解釈」と言われて私がすぐに想起したのは「夢解釈」だ。 河合隼雄(京大教授)がまだ存命で活躍していたころ、私はその考え方に興味があり、本を読んだりしたことがあった。 夢の内容というのは、一見すると荒唐無稽だ。 行ったこともない場所を歩いていたり、やったこともないことをやっていたりする。 そして夢解釈は、その人が置かれた状況や問題を考えつつその夢を解釈する。 ほとんどの場合、夢は「メタファ」として表出される。 車を運転していて、ハンドルを回そうと思っても重くて回らないという夢や、ブレーキを踏んでいるのにどんどん加速してしまうという夢は、いずれもメタファだ。 そして夢解釈は、そうしたメタファに意味を見出して行く。 そして、そのメタファをもっとも意義深くなるように解釈したとき、その解釈はその人に強い印象を与える。 その人だけでなく、解釈を行っているセラピストや、その解説本を読んでいる読者(私)にさえ強い印象を与える。 そうした夢解釈は、「創造的解釈」の要素を多分に持っている。 もちろん、夢解釈は芸術とはまったく違う。 夢を報告するクライアントは、セラピストの創作芸術を聞きに来ているわけではない。 あくまで、その人が抱える問題解決の過程で行われるものであって、その解釈がその人の問題解決と絡み合って行くのだ。

私は、知的財産法の制度論も、似たところがあると思う。 人の思いはメタファに溢れている。 「その思想はあなたの“もの”だ。」と我々が感じるとき、それはひとつのメタファだろう。 そして知的財産法の在り方を考える者がやるべきことは、そのメタファを創造的・構成的に解釈することだ。 メタファの背後にあるものを考えつつ、しかもメタファに囚われることなく、制度論という形に創り上げていくのだ。

このように、知的創作に関して人々が表出するメタファは、それをして得心せしむるために利用すべきものというよりは、知的財産法のあるべき姿を考えるための鍵を内包している貴重なヒントとでも言うべきものであり、知的財産法の根本を支えるものとさえ言えるものだと思う。 少なくとも、そう考えることが、人々が表出するメタファをもっとも意義深いものにする「創造的解釈」なのだと思う。

そしてある法制度が「人々の思い」に支えられて存続しているとき、その法制度は、もはや人々の思いと独立に存在しているのではない。 つまりその法制度の「趣旨」や「目的」さえ、人々から表出されるメタファの根源(いわば法が見る夢)とのインテグリティをもって「解釈」されるものとなるのだと思う。

それは長い時を経て生き続ける「生き物」の「存在理由」や「目的」が、「解釈」としてしか論じられないとの同じなのである。

*    *    *

ということで、田村先生もぜひ、自身の中から湧き上がるメタファを形にする制度論を論じてくれたらいいなと思う。

功利主義を批判するドゥウォーキンを取り上げた上で、数十年にわたって「インテグリティとしての法という方法論に従って」(37ページ/481ページ)格闘してきたと語る田村先生の言葉は、田村先生が単なる「インセンティブ論者」ではなかったことをはっきりと物語るものだろう。 そしてその後で出された論文(パテント2019 Vol.72, No.9)で先生は、知的財産権はインセンティブ論だけでなく自然権論をも組み合わせた「二元論」により正当化されるのだと明言し、その参照としてこの講演録を引用している。 「二元論」という言葉は、昨年11月に行われた日本弁理士会の公開フォーラムでも先生の口から語られていた。

こうした展開を見ると、この講演録は、人間のより根本的なところに知的財産権の正当化根拠を求めようとする田村先生の立場を明らかにした一つの「道標」といえるだろう。 しかし田村先生の語る「二元論」は、知的財産権の根本にだけ存在しているのだろうか? むしろそれは、田村先生の心の中に、「インセンティブ論」だけでなく「正義論(自然権論)」が存在していたことを示唆しているのであり、それを期待するのだ。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする