2020年02月26日

田村善之 Westlaw Japan 判例コラム189号「医薬用途発明の進歩性につき発明の構成から当業者が予測し得ない顕著な効果の有無の吟味を要求して原判決を破棄した最高裁判決について 〜局所的眼科用処方物事件最高裁判決(令和元年8月27日判決言渡)の検討(その1)〜」


進歩性の最判に関し、田村先生の評論が先月8日に公開されている(Westlaw Japan 判例コラム189号)。 今回はこれを取り上げたい。

1.本件発明について最判は「顕著な効果があれば進歩性あり」ということを明らかにしたのか?(「構成」という言葉のレトリック)

「顕著な効果」があれば進歩性が肯定されるのかという問題について、田村論文は以下のように論じている。 なお「構成」という言葉を太字にして引用した。

@ [判例コラム189号 4ページ]
・・・、本判決は、進歩性の要件を判断するに際して「予測できない顕著な効果」があることを参酌しうることを当然の前提としており、しかも、・・・、本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。

A [判例コラム189号 5ページ]
・・・、医薬品の場合には、物の構成が公知であったり、その構成が容易想到であったりしたとしても、当該構成に係る効果が示されない限り、当該構成を当該効果(用途)に用いることを想定しにくく、ゆえに、構成が容易想到であっても、効果が容易想到でなければ特許というインセンティヴを与える必要があるというのが、用途発明を認める実務の背後にある政策判断といえよう※13。このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。

B [判例コラム189号 5ページ]
本判決にも、・・・、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。 これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

※15高林龍[判批]年報知的財産法2019-2020・32頁(2019年)。愛知/前掲注11・14〜15頁も参照。

C [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。

D [判例コラム189号 6ページ]
本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

E [判例コラム189号 7ページ]
以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、・・・、・・・を明らかにしたものといえる

上記 @ において田村論文は、まず、「本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。」と論じている。 「読める」というのは弱含みな表現であり、田村論文もこの時点では、顕著な効果があれば進歩性を肯定できるのか否かはまだ明言を避けているようにみえる。

そして上記 A において田村論文は、医薬品の場合には、物の「構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、その効果が知られておらず、その効果を発揮させるために用いることも容易想到ではない場合は、例外的に「用途発明」に特許を与えることができる旨が説かれている。

なお、上の引用中に太字で示したとおり、上記Aでは「構成」という言葉が多用されている。 このうち、「物の構成」、「その構成」、「当該構成」という言葉は、すべて「物の構成」を意味していることは明らかであり、「ゆえに、構成が容易想到であっても」、「構成が容易想到であったとしても」というフレーズで使われている「構成」も、「ゆえに」という言葉からして、「物の構成」を意味していると解されるだろう。 すなわち田村論文のAにおいては、医薬品の場合は、「物の構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、例外的に「用途発明」に特許を与えうるのだと説かれている。

しかしながら、物が公知でも、その用途が新規であり容易想到ではないのなら、「その物質をその用途に用いる方法。」という方法発明(用途発明の一形態といえるだろう)や、「その物質からなる、その用途に用いるための剤。」という用途発明に特許が与えられるのは、なかば当然であって、医薬品に限った話ではない。 化粧品や工業薬品などあらゆる分野において化学物質の用途発明は認められている。 食品に限っては、日本では近年まで用途発明が認められていなかったが、食品において用途発明が認められていなかったことこそ「例外」だったのであり(tokugikon No.282, (3-3) の最後 (27頁右) を参照)、それも先ごろの審査基準改訂(平成28年4月1日運用開始)によって食品用途発明も特許可能となり、日本の審査制度は理論的にもすっきりしたものになったのである(功罪はあるにせよ)。

もっとも、日本では「治療方法」は、医師における医療行為を保護する観点等から特許にならないと解されているので、新たな医薬用途を発見しても「治療方法」として特許にすることができないという特殊事情があり、そのために、「○○剤。」という「用途物」として特許を受けざるを得ず、医薬分野の特許において「用途物」の表現が多用されているという事情はある。 また、医薬品業界は権利取得に積極的だから、ある疾患に治療用途がすでに知られている場合でも、より細かく、投与条件などで限定した発明について特許が受けられるように各方面に働きかけ、それを実現してきたという事情もあるかも知れない。 しかしそうした細かい点をおけば、物質が既知でも用途が新規で容易想到でもないのなら、用途に限定された発明(方法発明や用途物発明)に特許が付与されるということ自体は、昔から受け入れられてきた実務であり、学説に大きな争いがあったわけでもない。 したがって、田村論文の上記 A で「例外的に」と論じられていることは、けっして「例外的」な話ではない。

そして B において田村論文は、本件の最判に焦点を当てた上で、「・・・事案との関係で理解するのであれば、・・・、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした・・・との理解※15が生まれる所以である。」と論じるのだが、この辺りから「構成」が何を意味しているのかが分かりにくくなってくる。 田村論文がいう「構成が容易想到である場合でも」というのは、「物の構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか、それとも「その物をその用途に用いるという構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか?

C において田村論文は、「用途発明の場合に限っては、・・・、・・・構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。 つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と述べる。 「前述した」とは上記 A を指していると解されるから、ここでいう「構成」とは「物の構成」を意味しているはずであるが、続く文において田村論文は、「用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と説くのだ。 そうすると、「効果があることが容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうる」と言いたいのだろうか? しかし田村論文の A は、物が知られていても用途が容易想到ではないのなら用途発明に特許を与えてよいということしか論じられていないのである。

そして D において田村論文は、「本判決は、・・・、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにした」と論じ、E において「要するに、本判決は、・・・、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、・・・を明らかにしたものといえる」というのだ。

このように、@ においては「読める」という弱含みの表現が用いられていたに過ぎない事項が、D や E の結論においては「明らかにした」ことになっている。 しかしその結論は、上で見た通り、初めは「物の構成」を意味している「構成」という言葉が、次第に「用途」をも意味するかのように変化していくことによって導かれているのだ。

これは、「構成」という言葉のレトリックと言えるのではないか。

*   *   *

なお、B に引用したとおり田村論文は、今回の最判が「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることを指摘したうえで、本件最判について「一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。」と論じ、脚注15において高林論文の32頁と愛知論文の14-15頁を引用している。

確かに高林論文は最判のこの説示を取り上げた上で、「本判決の射程を検討する場合には重要である。」(32頁左)と論じており、愛知論文も、「本判決は、公知の化合物と同じ化合物を対象とする(医薬)用途発明に係る事案であるからこそ、予測できない顕著な効果の斟酌を否定しなかったと理解する余地もないわけではないだろう。」(14-15頁)と論じているから、最判の射程が「医薬用途発明」にしか及ばないという文脈で高林論文や愛知論文を引用することは理解できる。 しかし1月28日の投稿で書いたとおり、高林論文は「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」と論じるだけで、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるかのような “雰囲気” を醸し出しているということはできるとしても、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるとは一言も言っていないし、まして最判がそれを「明らかにした」などとは言っていない。 愛知論文も同様で、前回の投稿で絶賛(^^)したとおり、愛知先生は顕著な効果を肯定してもなお差戻審において進歩性を否定する選択肢を排除していないのだから、顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」などと論じてはいないことは明らかだろう。

したがって、医薬用途発明においては顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」という田村論文の見解は、高林論文や愛知論文により支持されるものではないことを指摘しておきたい。


2.「医薬用途発明」に限っては独立要件説的な思考が許容できるのか?(「医薬用途発明“例外論”」は純一か)

今回の田村論文を読むまで私は、今回の最判の評価に関して、田村先生には大いに期待していた。 なぜなら田村先生は2016年に公開した論文(パテント別冊15, 1-12, 2016)において「独立要件説」を批判し、自らは「二次的考慮説」に立つことを言明していたからだ。 それだけではない。 2016年論文において田村先生は、「シュープレス用ベルト」事件(平成24(行ケ)10004)を題材にして考察を行い、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていたのだ。 具体的には以下の部分だ。

[田村善之, パテント Vol.65 No.5 (別冊 No.15) 1-12の9ページ]
しかし発ガン性抑止という目的こそ違え,当業者が硬化剤を用いることの動機づけがあることが示されている以上(30),たまたまとはいえクラックの発生が抑制されることが発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる(31)。

これは顕著な効果があった場合は「容易ではなかった」とみなす従来的な「二次的考慮説」(因果関係が逆転している考え方)を採らないことを言明するものであって、画期的といえる論文だった。 同じ見解は、田村先生のより最近の論文でも繰り返されている(パテント Vol.72 No.9, 5-12, 2019 の8ページ左)。 なおこの論文(2019年論文)の原稿受領日は、今回の最判(2019年8月27日判決言渡)の3か月足らず前の2019年6月3日となっている。

「シュープレス用ベルト」事件は、製紙工程において紙に含まれる水分を取り除くために行われるシュープレスに使用される円筒状の樹脂ベルト(シュープレス用ベルト)の発明の進歩性が争われた事件だ。 そのベルトの外周に使われるポリウレタンの硬化剤として従来は4,4'-メチレンビス(2-クロロアニリン)(MOCA)が用いられていたところ、硬化剤としてジメチルチオトルエンジアミン(Ethacure-300)を用いることがこの発明の特徴の一つだった。 そして特許権者は、Ethacure-300を使うことで、ポリウレタンに発生するクラック(ひび割れ)が低減されたことを強調し、この効果は予測できない顕著な効果であるから進歩性は肯定されるべきだと主張した。 しかし当時からMOCAには発がん性があることが指摘されており、MOCAを代替しうる安全性の高い硬化剤の一つとしてEthacure-300は当業者に知られるところとなっていたことから、シュープレス用ベルトのポリウレタンの硬化剤としてEthacure-300が使われるのは時間の問題だったのではないかという疑いがあるのだ。 2019年8月27日の投稿でも書いたとおり、MOCAを代替しうる硬化剤はEthacure-300以外にも存在していたから、Ethacure-300が使われるのが本当に間近だったといえるのかは議論があるだろうが、もしEthacure-300が使われるのも間近だったと評されるのであれば、確かに田村先生が論じるとおり、たとえ顕著な効果があったとしても進歩性は否定されるべきだろう(私のいうところの進歩性 第1要件)。

そして今回の「アレルギー性眼疾患」事件についても、まったく同じ問題が持ち上がるはずだと私は期待していた。 本件化合物に抗ヒスタミン活性があることは知られており、モルモットの結膜炎モデルを使って治療効果を確認する実験もすでに行われていた。 また既知の抗ヒスタミン剤は、ヒスタミン拮抗作用を持つだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの放出を抑制する活性(肥満細胞安定化作用)も持っていることが多くあることも知られていた(原審 (平成29(行ケ)10003) の判決文を参照)。 したがって、この化合物をアレルギー性眼疾患治療薬として開発する場合に、ヒト細胞を用いて肥満細胞安定化作用を調べることになるのは当たり前のことだったともいえるだろう。 つまり本件においても、「ヒト肥満細胞安定化作用が発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はない」という疑問が田村先生の中で生じるはずだった。

ところが今回の田村論文(判例コラム189号)はそうはならなかった。

@ [判例コラム189号 1ページ]
 ・・・事案が用途発明に関するものであることに加えて、判文が一般論として受け止められる説示を避けている・・・

A [判例コラム189号 5ページ]
このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。
 本判決にも、結論に至る論理を展開する際に、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

B [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。

C [判例コラム189号 6ページ]
 本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

D [判例コラム189号 7ページ]
 以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、予測しがたい顕著な効果の有無を判断する際には、発明の奏する効果と対比すべきは、究極的には、発明の構成から当業者が予測しうる効果であること、の2点を明らかにしたものといえる・・・

E [判例コラム189号 7ページ]
また、医薬用途発明を超えて一般的に、進歩性判断に関して、独立要件説をとるのか、二次的考慮説をとるのかということに関しては態度を明らかにしていない※23。

上の引用のとおり、今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” として扱い、医薬用途発明に “限って” は、構成が容易である場合でも、顕著な効果があれば、独立要件説的に進歩性を認めてもよいのだと論じた。 これは「医薬用途発明 “例外論”」といっていいだろう。

上述のとおり2016年論文および2019年論文で田村先生は、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていた。 しかし上の「1.」で見たとおり、田村先生は今回の最判を、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを「明らかにした」と捉えた。 しかし今回の最判をそのように捉えると、2016年論文や2019年論文で田村先生が論じたこととは一見矛盾してしまう。 そして、一見矛盾する両者のインテグリティ(純一性)を保つために今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” 扱いすることによって、過去に論じた事項から「医薬用途発明」を切り離したように私には見える。

しかしもし最判との整合性をとるためにそのような「例外論」を生み出したのだとすれば、それは果たして「純一」といえるのだろうか?

実は田村先生に対しては、前にも似たような思いをしたことがある(2017年3月23日の投稿を参照)。 そのとき田村先生は、パシーフカプセル事件の最判(平成21(行ヒ)326)との整合性をとるために(かどうかは知らないが)、特許期間の重複延長を肯定し、その結果、特許権者に過剰な独占と利益を許すことになりうるのを問題視しなかった。

制度論を考えるにあたって、何を前提とすればよいのか。 つまり本当に純一性を確保しなければならない対象は何なのか? 最判か? 条文か? 制度趣旨か?

愛知論文に対する投稿でも書いたとおり、今回の最判は、顕著な効果があれば進歩性を認めるべきだとは言っていない。 にもかかわらず、この最判を「医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした」と捉えるのは「忖度」だろう。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、真に保つべき純一性をけがすことになるのではないか。

私は先生の2016年論文こそ、例外なく通用する判断規範を示した論文だったと思う。 田村先生が2016年論文に回帰し、先生が説く特許制度の根本的な要請である「フリー・ライド」の防止(1月14日の投稿参照)のために、進歩性の判断はどうあるべきなのかをもう一度説きなおしてくれることを願っている。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

愛知靖之「進歩性判断における『予測できない顕著な効果』の判断手法」(NBL 1160号 8-15 2019)


昨年の年末に、京大の愛知靖之教授による、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する評釈が公開された(NBL 1160号 8-15 2019)。

この愛知論文は私にとって画期的だ。

第一には、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の判断手法に関して、従来の「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことだ(愛知論文の脚注11)。 「独立要件説」を否定するだけでなく、従来の「二次的考慮説」も否定することは、進歩性判断における「顕著な効果」の意義に関する学説を前に進める上で必須だと私は思うから、今回の愛知論文が「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことはすばらしいと思う。

具体的には愛知先生は、「独立要件説」は妥当ではない(14頁左)と論じた上で、従来の「二次的考慮説」について、脚注11で次のように論じている。

[愛知論文の 15頁 脚注11](強調は私が入れた;以下同様)
しかし、筆者は、「『優れた効果を有するにもかかわらず、これまでだれも発明することができなかったのは、構成を容易に想到できないからである』と推認することができるのではないか」(・・・)などという論法を用いて、「効果」それ自体を「(構成の)容易想到性」判断の(副次的な)考慮要素に据える従来の「二次的考慮説」もそのままでは正当化することが困難だと考えている。一定の構成を採用することが容易想到か否かを判断する際に、その構成が現実に採用された結果としてのみ観念される「効果」を斟酌するのは、結果論に基づく推論であり、因果関係が逆転しているのではないかと思われるからである。

まさにそのとおりだ。 だから私も、昨年4月24日の投稿(「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」)や、10月9日の投稿(「『二次的考慮説』は生き残れるか」)で、従来的な「二次的考慮説」を批判した。

この問題は「裸の王様」のようなものではないか? 通説的な「二次的考慮説」は因果関係が逆転しており、考え方としておかしいのは明らかなのに、なぜか「二次的考慮説」論者たちは、その考え方が正しいかのように論じ続けている。 愛知先生のような高名な先生に「おかしいものはおかしい」と言っていただくことで、因果関係が逆転している欺瞞的な「二次的考慮説」が修正される流れができることを期待している。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第二の点は、(これは大して画期的ではないけれど)、選択発明は「顕著な効果」がない限り一般に新規性がないという、いわゆる「ゾンビ説」(昨年5月20日の投稿参照)を否定し、たとえ上位概念の発明が既知であったとしても、その下位概念である選択発明は、それが先行文献等に具体的に開示されていない限りは新規性があるという立場を明らかにしたことだ(愛知論文の脚注6)。

但し、もともと「ゾンビ説」は、支持している人がいるとしても一部の学者や裁判官に留まり、特許庁は「ゾンビ説」は採っていないと思うので、愛知先生が「ゾンビ説」を採らない態度を明らかにしたのは、画期的というより、まあ、安心したという程度かも知れない。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第三の点は、本件の差戻審(令和元年(行ケ)10118)が採りうる選択肢として、顕著な効果を肯定した上で、なお本件発明は容易想到だとして進歩性を否定するという選択肢を排除していないことだ(愛知論文の脚注12)。 差戻審が採りうる選択肢としてこの選択肢を示していたのはこれまで田中汞介先生(「特許法の八衢」の2019年9月1日の投稿「最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書」を参照)や私(2019年10月9日の投稿を参照)など少数の人に留まっているから、第一線の法学者がこれを論じた意義は大きいと思う。

具体的には愛知論文の脚注12は次のように記載されている。

[愛知論文の 15頁 脚注12]
差戻審が採りうる選択肢としては、一応、「顕著な効果あり → 進歩性あり」のほか、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」、「最高裁の判示に即した判断を行ってもなお顕著な効果なし → 進歩性なし」があるといえよう。

上記のとおり、「一応」という言葉がついてはいるものの、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」という選択肢が挙げられている。

本件の顕著な効果を否定した上で本件発明は容易想到だと判断した原審(平成29(行ケ)10003)に対して本件最判は、原審の判断手法を批判した上で本件を差し戻した。 この経緯を考えれば、差戻審においては顕著な効果を肯定して進歩性を肯定するのが無難だと考えたくなってしまうかも知れないし、そこまで気を使わないとしても、進歩性を否定するためには、少なくとも顕著な効果を否定する必要があり、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定することなどありえないと思う人は多いかも知れない。

しかし、そう考えるのは単なる忖度だ。 愛知論文が指摘するとおり、最判は「『予測できない顕著な効果』がありさえすれば(動機付けの有無にかかわらず)直ちに進歩性が肯定されるのかという問題には一切触れておらず」(愛知論文の10頁、14頁)、その問題はブランクのまま残されているとみなしうるからだ。

もっとも、仮に本件が、顕著な効果があっても進歩性が否定される場合は、顕著な効果の有無を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるはずであって、顕著な効果の有無を審理させるために本件を差し戻した最判と整合性がとれないと思う人はいるかも知れない。 だから愛知先生も、そうした事情を考慮した上で、本件最判が「独立要件説に即した帰結を強力にバックアップする可能性が大いにある」(愛知論文の14頁右)ことは認めている。

しかしそれは、最判の判示というよりは「忖度」の域を出ないのであり、顕著な効果があれば進歩性は肯定されることを最判が明言していない以上、最判の射程がそこに及ぶものではないと解することができるだろう。

顕著な効果があれば進歩性を認める「独立要件説」を前提とするのであればともかく、「独立要件説」を前提としない以上、顕著な効果があってもなお進歩性を否定する場合がありうることは当然だ。 そして本件はそうした場合には該当しないということが示されていない以上、本件においても、顕著な効果があってもなお進歩性が否定されるという可能性は排除されないと考えることはできる。

その場合に、「顕著な効果があってもなお進歩性はない」と考えるのではなく、「本件の効果は、進歩性を肯定するほどの顕著な効果とは言えなかっただけだ」と言い張って、「独立要件説」や従来的な「二次的考慮説」を採り続けることもできなくはないかも知れない。 しかしそのような考え方は、結局のところ、進歩性を肯定すべきときにだけ、効果を「顕著な効果」だとみなすのと同じようなもので、因果関係が逆転しているとのそしりを受けなければならないだろう。

ということで、今回の愛知論文は、「独立要件説」も、従来的「二次的考慮説」も批判した点、および、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定するという選択肢を排除しない態度を示した点で非常に高く評価したい論文だ。 この点、前回の投稿で取り上げた高林先生の評論(年報知的財産法2019-2020, 24-32, 2019)や、そのうち取り上げるかも知れない田村先生の評論(WLJ判例コラム189)には、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

さて、ここからは、今回の愛知論文で必ずしも腑に落ちなかった点や気になる点などについて触れたいと思う。

1.「顕著な効果の有無を判断することが許されない」場合などあるのか?

「顕著な効果」の判断方法に関して、愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の12頁右]
・・・、たとえ引用発明に係る化合物が一定の効果を発揮することが知られていたとしても、そのことのみをもって直ちに、当該化合物と構成を異にする本願発明に係る化合物が同程度の効果を発揮するということまで予測することはできないはずである。 したがって、無条件に引用発明が奏する効果と本願発明が実際に奏する効果を対比して、予測できない顕著な効果の有無を判断することは許されない

[愛知論文の12-13頁]
・・・、「引用発明が奏する効果」から「・・・本願発明(・・・)が奏するであろうと当業者が想定する効果」の推認を可能ならしめる追加的事情が必要と考えるべきである。このような追加的事情が明らかにされた場合に限り、・・・「引用発明が奏する効果」と、「本願発明が実際に奏する効果」を比較して、顕著な効果の有無を判断することが許される

[愛知論文の13頁]
・・・、そもそも引用発明1の効果が明らかではない(引用例lには、モルモットに点眼した実験結果が記載されているだけであり、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用は示されていない)ため、上記のような推認の前提が整っていないということになる。

[愛知論文の13頁]
・・・、用途発明については、同等の効果を示す他の化合物から、本願発明の効果の予測可能性を推認することは原則許されず、そのような判断が認められるためには、極めて強固な「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等」を示す必要があるといえよう。

このように愛知論文は、「許されない」、「許される」、「整っていない」、「必要がある」などの強い表現を使って、本件発明の効果を先行技術と比較する条件を論じている。 しかし私が思うのは、「では、そういう条件が満たされない場合はどうするのか?」ということ。 顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、当然、何らかの効果が見出されているわけだ。 そして出願人は、その効果は、先行技術からは予測できないと主張するわけだ。

その場合に、先行技術と比較することが「許されない」場合や、先行技術と比較する条件が「整っていない」場合はどうするのだろうか。 愛知先生は、立証責任を出願人に課した上で条件を厳しくすることにより、その条件が満たされない場合は「顕著な効果を立証することができないから、進歩性は否定される」と考えているのかも知れないが、実際には、判断不能な場合は、本件発明の効果は先行技術から「予測できた」とは言えない以上、本件発明の効果は「予測できない効果」ということになってしまうのではないか?

上述のとおり、顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、何らかの効果が現に見出されており、その効果が予測できる範囲内であったのか否かが争点となる。 判断条件を厳しくして判断不能に追い込むことは問題の解決にならないような気がする。

まさかとは思うが愛知先生は、適切な比較対象が先行技術にない(つまり「顕著な効果」が判断不能)ということは、本件発明は、その構成からして新しいということを示しているのだから、効果を考慮するまでもなく進歩性は肯定されてよいのであり、不都合は起こらないと考えているのだろうか? 愛知先生が一体どういう見通しを持って論じているのか、今回の論文からはよく分からないので、今後の論文を待ちたいと思う。

私は、どのような場合であれ、進歩性の判断において「顕著な効果」は判断できると考える方がよいと思っている。 もっとも、どの程度の効果を(進歩性を肯定してよい)「顕著な効果」だとみなすかはケース・バイ・ケースで、本件発明の構成と先行技術の構成との違いによって影響を受けるだろう。 本件発明の構成がまったく新しいものである場合は、発明の効果は高い必要はないし、発明の構成が先行技術と似通っている場合は、効果がそれなりに目に留まるものでなければ進歩性を肯定することはできないだろう。 そこは「総合的な判断」が必要であって、単に「予測できたか否か」だけで決まるものではない。 だからこそ、私はそれを「意味づけ」(10月9日の投稿を参照)と言っているわけだ。

本件についても、決して「顕著な効果」が判断不能なケースに該当するというわけではないと思っている。 本件について愛知論文は、「本判決は、このような事情について何らの指摘もないままに、顕著な効果なしとの結論を下した原判決の妥当性を否定した」(12頁)と指摘しているが、私もそう考えればよいと思っていて、本件の原審は顕著な効果を荒っぽく否定したという点が、問題といえば問題だったのであって、本件のような場合でも、顕著な効果の判断を行うことは許されないものではなく、むしろどのような場合でも、それぞれの状況を総合的に考慮しながら効果を考慮して行けばよいのだと思う。 もっとも上述のとおり、効果の顕著性を検討するまでもなく進歩性を否定できる場合はあり得るし、本件もそうした場合に該当しうるとは思っているが。

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2.顕著な効果により進歩性を認める場合(脚注11)について

今回の愛知論文が従来的な「二次的考慮説」を否定したことは最初に述べたが、愛知論文は脚注11において、「筆者は、従来の二次的考慮説よりも基準を明確化し、より限定的にのみ顕著な効果を斟酌すべきと考えているが、その詳細は、準備中の別稿に委ねる」としながらも、「先んじて結論だけを述べておけば、」と述べて次のように論じている。

[愛知論文の15頁 脚注11]
@ 「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」と、「本願発明が実際に発揮した効果」とを対比し、「本願発明が実際に発揮した効果」に比して、「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、当該構成の採用に至らなかったといえる場合に、「阻害要因」ありとして(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)する。 あるいは、A 予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、かつ、それゆえ「当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろう」(当業者が当該効果を発見し、その効果を解決手段に用いた発明に至ることがおよそ困難であった)という場合に、(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当と考えている

上の引用中で愛知論文が挙げている2つの場合( @ と A )に進歩性を認める余地があるということは私も同意できるが、もう少し詳細に考えてみたい。

まず上記の @ で愛知先生は、本件発明の実際の効果と比べ、想定されていた効果が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、本件発明の構成の採用に至らなかったといえる場合に進歩性が肯定できる旨を論じている。

これについて愛知先生に訊きたいのだが、仮に「想定されていた効果」が阻害要因になるほど低くはなく、いずれ誰かがその発明をするだろうといえるほどの効果は期待できた場合は、たとえ両者の効果(実際の効果と、想定されていた効果)に著しい違いがあったとしても進歩性は否定される、ということでいいですよね?

つまり、「本願発明が実際に発揮した効果」がどれほど高かったとしても、進歩性は否定されるわけだ。 その場合は、「本願発明が実際に発揮した効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はありうると考えていいですよね?(これは私のいうところの「進歩性 第1要件」に相当する)。

また、愛知先生がいうように、効果が著しく低いと予想されるという意味で阻害要因があるとして、それにもかかわらず、その構成を採用した人がいたとして、予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合、愛知先生は進歩性を認めるのだろうか、それとも認めないのだろうか?

当然、認めないよね。 ではその場合、その構成には容易想到性はあるのか、それともないのか?

予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合は「その構成は容易想到」と判断するのに、効果が高かった時にだけ「容易想到ではない」と判断するとしたら、それは愛知先生の言う「因果関係の逆転」だ。 だから、それはできないだろう。 想定される効果が阻害要因になるほど低く、実際の効果が高かった場合に「その構成は容易想到ではない」と判断したいと愛知先生が考えており、かつ、「因果関係の逆転」が起きないような考え方を採りたいと思っているのであれば、たとえ同じ構成を持つ発明が、想定通り効果が著しく低かったとしても、「その構成は容易想到ではない」とみなすほかないはずだ。 それにもかかわらず、想定どおり効果が著しく低いことが判明した場合は、その発明は「進歩性なし」と判断したいわけだ。 そうすると、たとえ構成に容易想到性が認められなくても、直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認めるに足る程度の「効果」は必要だという判断基準が必要にならざるを得ないだろう(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

このように、愛知論文の設例「@」を、因果関係の逆転が起きないように論理的に考えて行けば、私のいうところの進歩性の「第1要件」と「第2要件」に行き着くことになるのではないか。

[あるべき進歩性の判断手順] (2019/8/30版
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また上記の A で愛知先生は、予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろうという場合に、構成の容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当だと論じている。

これも確認したいのだが、Aの発明は、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているわけではなくて、純粋な物質発明(「〇〇化合物。」という発明)や、その「異質な効果」を発揮させることに限定されない従来的な効果を発揮させるための用途発明のようなものを想定している、ということでよいのだろうか。

そして、仮にその「異質な効果」がなければ、その発明の進歩性は否定されるということを前提にしているということでよいのだろうか。 つまり、発明の構成自体は容易想到であることを愛知先生は前提にしているわけだ。 しかしそうすると、異質な効果があったからといってその発明の進歩性を肯定することは、構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだとする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)と矛盾することになるのではないか?

例えば、その「異質な効果」以外にも、その物質について、発明前に、従来的な効果があるだろうと予測できたとして、その従来的な効果を発揮させるためにその物質的構成を採用することに十分な動機付けがあった場合は、その発明の進歩性は否定するわけですよね? たとえ「異質な効果」がどれほど顕著であったとしても進歩性は否定されるわけだ。 そうすると、その「異質な効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はあるということになる(私のいうところの「進歩性 第1要件」)。 したがって、A の設例で進歩性が認められるためには、発明の構成に到達する動機付けを与えるほどの「従来的な効果」は見込めないことを前提としなければならないのだから、A の設例の発明は、実際には、「異質な効果」の有無にかかわらず「構成は容易想到ではない」ということになるはずだ。 そして「構成は容易想到ではない」からといって直ちに進歩性を肯定することはできないのであり、進歩性を肯定するためには、それなりの「効果」が必要だということだ(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

つまり何が言いたいかというと、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」とする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)の方を変えるべきだということだ。 進歩性を認めるためには「発明の構成が(その構成に到達するのも時間の問題と言えるほど)容易想到ではない」ことが必要だというのは正しい。 しかし、それは進歩性を肯定するための十分条件ではない。 たとえ構成が容易想到ではないとしても、それだけで直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認める程度の効果(進歩性 第2要件)が必要だと考えることが必要なのだ。

もし A の発明として、純粋な物質発明ではなく、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているとしても、話の大枠は変わらない。 もし同じ物質を従来的な用途に用いることに十分な動機付けがあり、従来的な用途に用いれば、必然的にその「異質な効果」を発見するに至るような場合は、その「異質な効果」を発見するのは時間の問題であったのだから、たとえそのような用途が「構成」として組み込まれた用途発明(つまり「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)であっても進歩性は否定されるべきだ(進歩性 第1要件)。 そう判断すべきだったことが疑われる事例として、Sotoku 10号の脚注39で取り上げた「芝草品質の改良方法」事件(平成25年(行ケ)10255;平成26年9月24日判決)が挙げられるだろう。 たとえ効果が極めて「異質」であり、また予測できないものであって、その異質な効果に用いることが「構成」として組み込まれた用途発明がクレームされているとしても、その効果が発見されるのも間近だったと評されるのであれば、進歩性は認められるべきではない。 その効果が早々に発見されることはないと認められ(進歩性 第1要件)、かつ、その発明は「でたらめ・ありきたり」ではないと認めるほどの「効果」があって(進歩性 第2要件)、初めて進歩性は肯定される。

このように、愛知論文が挙げる @ や A は、決して「効果」によって「構成の容易性」が否定される事案ではない。 むしろ愛知論文が挙げる @ や A からは、たとえ物質的構成に到達するのが時間の問題とはいえない(すなわち構成は容易ではない)としても、それなりの効果がない場合(具体的には、例えば @ については予想通りきわめて低い効果しかなかった場合、A については、容易だが膨大な選択肢の中からでたらめに選んだ置換基で既知化合物を改変したが異質な効果は見出されず、従来的でありきたりな効果しかなかった場合)については進歩性を否定すべきだという考えを導くことができるのであり、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」という愛知論文の考え方(14頁左欄14-15行)に修正を迫るものだと思う。

愛知先生には、私が挙げたようないろいろな場合に進歩性を認めるのか否かを再度考えてもらった上で、そうした「場合分け」だけで考察を終えるのではなく、そのすべてに通底する原理が存在している可能性を探ってもらいたいと思う。 その原理こそ、特許制度を支える正当化根拠なのであり、その有力な候補は、昨年10月17日の投稿で書いたとおり「依拠性の擬制」だと、今のところ私は考えている。

*   *   *

進歩性 第1要件における「容易」の意味について

愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の13-14頁]
そもそも、発明とは、課題解決手段の「構成」によって特定されるものである6,7。 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、当業者が引用発明の構成を変更して本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべきである。

上記のとおり愛知論文は、「本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべき」だと論じている。 愛知先生のこの指摘に同意できるかは「容易」の意味次第だ。 「容易」というのが、「当該構成を採用し、当該効果が見出されるのも時間の問題だった」という意味なのであれば、 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、進歩性は否定すべきだ。 しかし「容易」というのが、単に当該構成を採用して発明を完成する “手法” や “手順” が容易であったというだけである場合は、進歩性を直ちに否定することはできない。 なぜならいまだ世の中に現れていない発明であっても、“手法” や “手順” が容易である発明は他にもごまんと存在しているのであり、そうした他の発明をさしおいて本件発明が世に現れることは、(確率論的に)「容易」とは言えないからだ。

なお愛知論文の上の引用中に “7” と書かれているのは特許庁の宮崎賢司先生の論文(tokugikon No.289, 156-170, 2018)を表している。 この宮崎論文の163頁左には設例が記載されており、具体的には、ある研究室で1000通りの同類の化学物質の組み合わせを試験し、888番目の組み合わせでのみ「顕著な効果」が見出された場合に、なぜ888番目にだけ進歩性が肯定できるのか、という問題について論じられている。 この問題については、Sotoku 10号の脚注38に書いたとおりで、宮崎論文においては、1000通りの化学物質のすべての構成を容易想到であることが前提にされているのかも知れないが、私はそれらの化学物質の構成はいずれも、世に現れるのも時間の問題だったという意味で「容易」とは言えないと捉えるのが正しいと思っている。888番目以外の組み合わせに進歩性がないのは、888番目以外の組み合わせが容易だからではなくて、ありきたりの効果しか発揮しない場合は、たとえ構成が容易ではなくても進歩性を認めるべきではないからだ(進歩性 第2要件)。 1000個の化学物質を作る手順や手法がたとえ容易だったとしても、誰かが現に作製するのも間近だったと認められない場合は、私の言う「第1要件」で拒絶されることはない。 このように、私の言う「第1要件」は、手法の容易性を問うものではなく、時間的な問題を問う要件なのだ。

これについては愛知先生も今回の論文の14頁右欄で、「・・・、いずれ当業者が本願発明(と同一の発明)に至ると考えられるため、・・・」という時間的な表現を使っている点は重要だ。ちなみに田村先生もパテント別冊15の9頁で、「発見されるのも間近」という時間的な表現を使っていた。 つまり、進歩性の判断における「構成の容易想到性」(私の言う「第1要件」)とは、「時間性」の問題なのだと思う。

しかし一般には、作製手法が容易なら、発明の「構成は容易想到だ」という考え方が広く行き渡っているので、どうしても「888番目は、構成は容易だが、顕著な効果によって進歩性は肯定されるべきだ」(独立要件説)と考える人が多く、話がかみ合わなくなってしまう。 そこが、進歩性判断における「効果の意義」について、議論の対立が生じる要因の一つになるように思う。 「手法の容易性」は選択肢の数によって影響を受けないが、「時間」は選択肢の数に影響され、膨大な選択肢がある場合は特定の選択肢を選択することは容易とは言えなくなる。 時間的観点を取り入れることが、進歩性判断には必要なのだと思う。 同じことは既に昨年の投稿でも書いたが。

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進歩性 第2要件における「意味づけ」について

今回の論文で愛知先生は、選択発明に関して「ゾンビ説」を採っていないことは上述したが、愛知論文の脚注6には以下のように記載されている。

[愛知論文の13頁 脚注6]
6 もっとも、たとえば、選択発明は、下位概念で表現された発明が、先行発明(上位概念で表現された発明)が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものである場合には新規性は認められるが、予測できない顕著な効果がなければ進歩性が否定される発明と捉えるべきであるところ、下位概念で表現された発明の構成自体は上位概念に係る先行発明に包含されているため、「構成」の上では、先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない。 そこで、例外的に「効果」が発明(技術的思想)の要素に位置づけられていることになる(・・・)。

上記のとおり愛知論文は、上位概念の発明が既知である場合、その下位概念である選択発明は、「構成」の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができないと論じている。 しかしそう言われると問いたくなってしまうのだが、「構成の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない」というのは、「構成は容易だ」というのと同じ意味なのか?、それとも違う意味なのか? 愛知先生は、選択発明の構成は、たとえその具体的な構成が先行文献に開示も示唆もされていなくても「その構成は容易」だと思っているのか?

例えば大合議事件となった「ピリミジン誘導体事件」(平成28(行ケ)10182、10184)における本件発明の化合物(ロスバスタチン)は、先行技術である甲2文献(特開平1-261377号公報)に記載されている発明の下位概念に該当する、すなわち、本件発明は甲2発明の選択発明であると言われている(井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018))。 そうすると、「ピリミジン誘導体事件」における本件化合物は、本来はその構成からして容易だと愛知先生は考えているのか?

私は、ある発明が先行発明の選択発明に該当しようが、しまいが、その発明が世に現れるのが時間の問題だったとはみなせないのであれば、その発明の構成は「容易」とは言えないと考えるべきだろうと思う。 それにもかかわらず、なぜ単なる選択発明に進歩性が認められないのかと言えば、それは、既知の発明の下位概念の一つを具現化しただけの「単なるありきたり」の発明を特許にする必要はないからだ(進歩性 第2要件)。 つまり、これは進歩性の「第2要件」の問題なのであって、発明の「構成」が容易か否かという問題ではない。 そして、愛知先生のいう「固有の技術的意義の基礎づけ」こそ、私が「第2要件」でいうところの「意味づけ」に相当する。 上述のとおり、本件発明の構成がまったく新しいものであれば、発明の効果は高くなくても、かろうじて効果があるというだけでも「固有の技術的意義」を肯定することはできるかも知れないし、発明の構成が先行技術と非常に似通っていれば、効果がある程度高いか、あるいは付加的な効果(例えば異質な効果)がない限り「固有の技術的意義」を肯定することはできないだろう。 そこには総合的な判断が必要であり、その発明が、果たして特許に足る「技術的意義」があるのかを、効果を勘案しながら判断するのが、私のいう「第2要件」だ。 この判断が必要になるのは選択発明に限られるものではなく、上で挙げた宮崎先生の1000個の化学物質において、なぜ888番目だけが進歩性を肯定できるのかを理解する上でも必要だし、「ピリミジン誘導体事件」でも例外ではない(Sotoku 10号の脚注35および36)。 だから前回の投稿でも書いたとおり私は、進歩性を肯定するにあたって効果の検討を不要とした「ピリミジン誘導体事件」大合議判決を批判しているのだ。

このように「選択発明」の進歩性判断に関して愛知先生が論じた「固有の技術的意義の基礎づけ」は、私がいうところの「意味づけ」(進歩性 第2要件)と同じものなのであり、選択発明に限らず、発明一般の進歩性判断において重要な意味を持つものだと思う。

*   *   *

ということで、今回の論文を読むかぎり愛知先生は、進歩性判断の考え方において私とかなり近いところにいるような気がしている。 愛知先生が進歩性の問題に関して今後どのように進んでいくのか、注目して行きたい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする