2020年07月07日

山下説の第1要件の意義について(岡田吉美「発明の進歩性の評価における効果の位置づけの考察 ― 特許法の趣旨説(独立要件説)の再検討 ―」特許研究 No.69, 35-58, 2020 を読んで)


今回は、進歩性判断における「顕著な効果」の考え方に関して特許庁の岡田先生が最近出された論文(特許研究 No.69, 35-58, 2020)を見てみたい。

この論文の執筆動機について岡田論文には、昨年8月に「アレルギー性眼疾患事件」(局所的眼科用処方物事件)の最高裁判決(平成30年(行ヒ)69)が出たことを指摘し、「当該判決は,特許法の趣旨説(独立要件説)に親和的との見解もあり,この最高裁判決を契機として,再び発明の進歩性の評価における効果の位置づけについての議論が盛んになっている。」、「このような状況を踏まえ,本稿は,発明の進歩性の評価における効果の位置づけ,特に特許法の趣旨説について検証して,その妥当性を確認するとともにその理論的補強を試みる。」と記載されている。 すなわち、今回の最判が「独立要件説」に親和的だと評されていることを受け、確かに独立要件説(およびそれに親和的な最判)は妥当であることを確認するとともに、その理論的補強を試みたのがこの論文ということになるだろう。

1.「山下説」における効果の二要件論

岡田論文は、独立要件説の提唱者は山下和明先生(当時東京高裁第6民事部総括判事)だと指摘した上で、山下先生が提唱する考え方(山下和明「審決(決定)取消事由」竹田稔ほか『特許審決取消訴訟の実務と法理』161頁(発明協会,2003))とはどのようなものかを解説しながら論稿が進んでいく。 そして「山下説」によれば、構成が容易な発明について効果により進歩性が認められるためには、効果に関して二つの要件を満たす必要があるのだと論じられている(以下)。

[岡田吉美, 特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 38-39ページ]
何らかの技術効果を目的として,構成の容易想到性が認められる場合に,効果の顕著性を根拠に進歩性要件を充足すると認められるためには,山下説では,下記の2点を充足することが必要である。

i) 当該構成の効果として,予測あるいは発見することが困難な効果であること(以下「予測困難性」という。)。

ii)当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること(以下「顕著性」という。)。

確かに山下論稿には、効果によって進歩性が認められるためには、上記の二つの要件(「第1要件」と「第2要件」という)の両方を満たす必要がある旨が書かれている(山下論稿の160ページ)。 どちらの要件も、上に示したとおり「当該構成の効果として」(第1要件)、「当該構成のものとして」(第2要件)と記載されており、「本件発明の構成が」奏する効果として予測等ができないのか、そして顕著であるのかが問題にされている。

ちなみに6月17日の投稿で見た大寄調査官解説でも指摘されているとおり、「アレルギー性眼疾患事件」の最判(平成30年(行ヒ)69)で最高裁は、「・・・,本件各発明の効果,取り分けその程度が,予測できない顕著なものであるかについて,優先日当時本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・」と判示しているが、「予測困難性」と「顕著性」という二つの観点に言及していることや、どちらも「本件発明の構成が奏するものとしての効果」に着目するべきだとしている点が「山下説」と一致しており、山下説と最判は共通性がかなり高い。 最判が、何らかの形で「山下説」を参考にした可能性が考えられるだろう。

しかし、6月17日の投稿でも書いた通り、「第1要件」と「第2要件」は何が違うのか、本当に二つの要件が必要なのかという疑問が生じる。「第1要件」も「第2要件」もどちらも効果の「程度」を問題にしていると考える限り、予測されるものよりも「よほど顕著」(第2要件)であれば、それを予測できた(第1要件)ということはできないだろうから、第2要件が満たされれば第1要件は必然的に満たされることになるだろう。 そうすると、そもそも第2要件(顕著性)のみを判断すれば十分であって、第1要件(予測困難性)は要らないだろうということになる。

この問題について岡田論文はどう考えているのだろうか。

[同39ページ]
・・・,効果の予測困難性だけでは不十分で,当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであるという,効果の顕著性を要求している。

[同52ページ]
山下説は,・・・,効果の予測困難性が認められるだけでは不十分で,当該構成のものとして予測あるいは発見されることが期待される効果と比較して,よほど顕著なものであることという,効果の顕著性要件の充足が必要であるとし,・・・,「効果の予測困難性があれば必ず進歩性を満たすという結論を導くこと」に対する修正を行っている点に,大きな意義がある。

上に引用したとおり、岡田論文は第1要件だけでは「不十分」だと論じてはいるものの、第1要件の必要性はよく分からない。 もし第2要件は「十分」だというのなら、不十分な第1要件は要らないということになるだろう。

この問題に関連する事項については岡田論文の他の箇所でも触れられているから、それを含めて後でもう一度考えたい。

2.「特許法の趣旨説」というネーミングについて

今回の岡田論文は、「独立要件説」のことを「独立要件説」とは呼ばず、「特許法の趣旨説」と呼んでいる。 「独立要件説」という名称は、「効果の予測困難性」(上記の第1要件を指しているのだろうか?)があれば必ず進歩性を充足するとの解釈の “発散” を生みやすいので不適切だからだという(岡田論文の脚注12)。 しかしこのネーミングは私は賛同できない。 そもそも特許要件の判断規範について論じる場合に、それが特許法の趣旨に沿っていないと思って論じる者はいないだろう。 すべての論者は、自分が論じていることは特許法の趣旨に沿うと思っているはずだ。 そうすると、すべての説は「特許法の趣旨説」なのであって、山下説や岡田説だけが「特許法の趣旨説」と呼ばれるべき理由はない。

なお岡田論文はこのネーミングに関して、当時特許庁の特許審査第三部上席総括審査官だった相田先生の論稿(相田義明「発明の進歩性」竹田稔監修『特許審査・審判の法理と課題』224-225 頁(発明協会,2002))を引用し、相田先生が「予測できない顕著な効果があるときは,特許法1条の趣旨から,産業の発展に貢献する発明として進歩性があるものとされるのだ,と考えてはどうか。」と論じていることに触れている(岡田論文の脚注17)。 しかしこれについては以前(2019年10月9日の投稿を参照)も説明したとおり、特許法1条の趣旨とは、発明の保護と利用を図ることにより産業の発展に寄与することなのであって、(産業の発展に寄与する結果となるか否かを棚に上げて)産業の発展に寄与する発明に独占権を与えることではない。 産業の発展に寄与する発明に独占権を与えさえすれば産業の発展に寄与するというものではない。 「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」のが特許法1条の趣旨だという考え方は、「特許法の趣旨説」と呼ぶよりは、「特許法1条誤読説」と呼ぶ方が相応しいだろう。

この問題は、発明されるのも間近だと目される発明に「よほど顕著な効果」があった場合に特許権を付与することが特許法の趣旨にかなうのか(すなわち産業の発展に寄与するのか)を考えるときに重要となる。 特許法1条誤読説に基づけば特許を付与すべきだということになるのかも知れないが、発明されるのも間近だと目される発明については、いち早く出願した者に独占権を付与するよりは、進歩性を欠くものとして何人にも特許を与えず、誰もが早期に自由に利用できるようにすることの方が、産業の発展に寄与するのではないか。

もっとも、岡田先生や相田先生が過去に書いていることを見れば、岡田先生や相田先生が特許法1条を誤読していたわけではないだろうことは分かるが、それについては後で見ていきたい。

3.「技術的思想」というマジックワード

特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、・・・、特許を受けることができない。」と規定している(容易想到性)。 独立要件説は、発明の構成(すなわちクレームの文言どおりの発明)が容易でも、その実際の効果が予想外に顕著であれば容易想到性が否定されうる(進歩性が認められうる)という考え方だが、そもそも発明が実際に奏する効果は、発明を実施してみるまでは分からず、発明を完成させ実施して初めて判明するものだ。 したがって論理的に考えれば、発明が奏する効果が予想外に顕著か否かは、29条2項が規定する「発明をすること」の容易性には何ら影響を与えないはずで、実際の効果が顕著であれば容易想到性が否定されるという「独立要件説」は論理的に破綻している(あるいは29条2項の条文に基づいていない)という疑問が生じる。 これは「二次的考慮説」も同様だ。

これに対して岡田論文は、上述のとおり「独立要件説」を「特許法の趣旨説」と呼ぶことにした上で、特許法1条の趣旨なのだからいいのだという態度をとるのだが(39ページ右)、「特許法1条のみを根拠に作用効果の顕著性を独立要件と解することにやや無理はある」(39ページ右)との批判があることも認識している。

そして、発明の効果がなぜ進歩性を基礎づける要素となるのかについて今回の岡田論文では、「技術的思想」という言葉を使って説明が試みられている。 具体的には、特許庁の宮崎先生(宮崎賢司, tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170)が、発明とは「目的・構成・効果」を含む技術的思想の創作だととらえることにより、進歩性の判断においても、発明の構成だけでなく、発明の効果を斟酌することが無理なく説明できるのだ、というようなことを論じていることを指摘した上で、進歩性において「発明の効果」を考慮要素とすることを正当化している(39ページ右、52ページ)。

私は、宮崎先生の進歩性に関する考え方はわりと私に近いのではないかと思っているし、先ごろ出た宮崎先生の論文「進歩性 ALERT」(知財ぷりずむ : 知的財産情報 18(207), 62-71, 2019-12)も興味深い論文で、これからも要注目の先生だと思っているけれど、進歩性判断において効果を参酌することを「技術的思想」という言葉を使って正当化することについてはあまり賛成していない。 というのも、「技術的思想」というのはわけの分からない言葉であって、いわゆるマジックワードになりがちだからだ。

「技術的思想」という言葉がマジックワード化することについては、Sotoku 8号の脚注53で岡田先生の別の論文を取り上げたときにも書いた。

もし宮崎先生がいうように、「目的・構成・効果」が一体となったものが発明だというのなら、クレームも「〇〇を目的として、△△の構成により、××の効果を奏させる方法。」として特許を取らせるのが筋だろう。 しかし現状はそうなっていない。 発明の目的も、発明の効果も欠落した「物質発明」に特許を認めている。 物質発明を認め、権利行使にあたって明細書に開示されている効果を奏させるか否かを不問とし、単にその物を使っているというだけで排他権を行使することを容認しておきながら、特許を付与するときは「物自体は容易想到でも、効果が顕著なら、物の発明に特許あげます。その効果を奏させる場合でなくても権利行使できます。」って、それはおかしくないですか? それこそ、宮崎先生のいう相同性理論(二枚舌禁止)に反するだろう(tokugikon, No.293, 91-127, 2019)。

私は特許や特許出願に係る発明をそんな風に理解するのは正しくないと思う。 発明は、あくまでクレームの記載に基づいて理解されるべきものだ。もしクレームが「△△の構成により、××の効果を奏させる方法。」であるのなら、効果は発明特定事項(クレームの範囲を限定する事項)だから当然考慮要素になるし、「××の効果」が奏されることを発見するのは容易ではなかったのなら、よろこんで特許にしよう。 しかし、もしクレームが「△△の構成からなる物。」という物質クレームであって、「××の効果」とは異なる効果を奏させるために同じ物が作製されるのも間近だったと評されるのであれば、物質発明の進歩性を認めることはできない。 「××の効果」がどれほど顕著だろうが、その結論は変わらない。 これを「技術的思想」という言葉を使って無理やり進歩性を肯定するのは誤りだと思う。 もし「××の効果」が顕著であって、その効果を発見するのは容易ではなかったのなら、上述のとおり「××の効果」という効果を奏させることに限定された方法発明や用途発明として特許を取ればよいのである。

それから何度か書いているが、宮崎先生が上記の2018年論文(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170)の163ページで挙げている1000個の化合物の例題(合成することは容易と思われる1000個の化合物を合成して、888番目にだけ顕著な効果があった場合に、なぜ888番目にだけ進歩性が認められるのか、という問題)については、888番目の化合物は構成は容易だが効果が顕著だから進歩性が肯定されると考えるのは誤っていると思う。 多数の選択肢の中から888番目という特定の化合物を選択して製造することはそもそも容易ではないと考えるべきだ。 容易だと言いうるのは、1000個中の何らかの化合物(すなわちarbitraryに選択した化合物)を製造することであって、ある特定の化合物を製造することではない。 888番目以外の化合物に進歩性が認められないのは、それらの個々の特定の化合物を選択して製造することがすべて容易だからではなく、特定の化合物を選択して製造することは容易とは言えないが、arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎない(すなわち容易な発明)と評されるから進歩性が否定されるのだ(私の言う、進歩性第2要件)。この評価(arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎないという評価)は一種の「意味付け」だ。 888番目の化合物は、顕著な効果があることにより、「arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎない」(すなわち容易な発明)という評価を逃れられるのだ。 このように進歩性の判断は、機械的・客観的な判断を貫徹できるものではなく、ある種の「意味付け」なしに妥当な結果を導くことはできないと私は思う。 ちなみに、今回の岡田論文でも、「一般人(技術者,事業者)の感覚からして妥当な結論を導く」(52、57ページ)というくだりがあるが、これは私の言う「意味付け」と似たものかも知れない。

なお、もし選択肢が888番目の化合物しかなく、この化合物を作って活性を確かめてみることに強い動機付けが発明前にあったと認められる場合は、どれほど顕著な効果があろうが、進歩性は認めるべきではない(私の言う、進歩性第1要件)。 それは、今回の岡田論文にも出てくる、欧州の「ボーナス効果」という考え方と同じだ。

このように考えれば、「技術的思想」という言葉を持ち出さなくても進歩性の要件を考えることは可能だ。

ちなみに、今から14年前の2006年の論文(特許研究 No.42, 21-43, 2006)で岡田先生は次のように論じていた。

[岡田吉美, 特許研究 No.42, 21-43, 2006 の 30-31ページ]
発明を構成だけでなく効果と一緒に捉えて,「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」は経験則から着想困難であるので進歩性が認められ,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」は構成の組み合わせ自体は着想容易であり進歩性が否定されると説明がつけられると考えるかもしれない。しかし,この考え方は,権利範囲としての観点からの検討が抜けている。効果は構成に自然法則を適用することにより客観的に導かれるものであるから,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」と「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」とは客観的には同一のものに帰し,区別することができない。換言すると,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」は容易であるとの前提のもとでは,「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」は想到困難として特許にすると,結局は容易な発明について特許を付与しているのと同じことになってしまう。

上記の岡田先生の説示はもっともだと思うし、この説示は宮崎説(発明の目的・構成・効果を一体の技術的思想と捉え、効果が顕著なら構成が容易でも技術的思想としては容易ではないと捉える考え方)を批判するものでもあるだろう。

ある特定の技術的思想が容易想到であると評される場合に、その技術的思想を具現化すれば必然的に奏される顕著な効果を発見(認識)すると、その技術的思想に突如として「顕著な効果」が組み込まれて容易想到ではなくなるというのはいかにも不合理だ。 2019年10月9日の投稿でも「何が違うのか本当に分からなくなる」と書いた通り、「技術的思想説」は、修正主義的な「二次的考慮説」と同じように、結果を見てから容易想到性を決めるという「時間的に逆行した思考」に拠っているのであり、「二次的考慮説」と同じ批判を免れない。 「技術的思想」というマジックワードを使って説明した気になるのはよくないと思う。

4.「思想空間」と「現実空間」のせめぎあいは実在するのか

今回の岡田論文は、ある発明に進歩性を認めるか否かは「技術思想の世界」(思想空間)と「現実世界」(現実空間)の両面からの要請を比較衡量して判断しなければならないと説いている(52ページ右下、54ページ右上)。 「思想空間」からは、効果が顕著であれば特許を付与すべきという要請があり、「現実空間」からは、新規性のないものに新規で顕著な効果を見出しても特許を付与すべきではないという要請があるのだという。 しかしこうした考え方も、「技術的思想」というマジックワードがもたらす一種の幻覚ではないかと思う。

私は世の中に「思想空間」なる形而上空間が存在しているということにそもそも同意しないし、また、放っておいてもじきに誰かが発明するような容易な発明について、効果が顕著だからといって、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるというのが「思想の世界の要請」だとも思わない。 もしそのような要請があるとすれば、それは単なる利己的な要請か、「悪い奴に独占されたら大変だから私が先に」という不安心理ではないのか? それはともかく、そんなものに特許を与えるなというのが、「現実空間」で生きる多くの一般人の要請だとは思う。

私は、その種の「せめぎあい」があるとそれば、2020年1月14日の投稿でも書いたが、次のようなものだと思う。 すなわち、自分の発明を秘匿して独占することには利益があり、他人の発明を知得して利用することにも利益がある。 自分の優れた発明は他人に知らせて喜ばれたり発展に寄与したいという気持ちはあるし、他人の優れた発明は素直に称賛したいし、そこから学びたいという気持ちもある。 また各人は皆、自分の自由な創意工夫を妨げられたくないと思っているだろう。 そうした各人の思いのぶつかり合いの中で、社会的にも受け入れられ、その発展にも資する「系」ができるとすればどういう状態なのか、それを法的にサポートするにはどのような法規範が望ましいのかという観点で考えればよいのではないか。 つまり、すべては現実のせめぎあいなのだと思う。

5.顕著な効果は「新規な構成」により奏される必要はあるか

今回の論文で岡田先生は、効果を根拠として進歩性が認められるためには,当該効果は従来技術には存在しない新規な構成に基づく効果であることが必要だと論じている(35ページ抄録、38ページ右、43ページ右)。

これは私も以前から実務上興味深い問題だと思っているので、少しコメントしたいと思う。 例えば、ある既知化合物Aに活性aがあることが知られていたとする。 そしてある研究者が、この既知化合物Aに容易な改変を加えて化合物A'を作り出したところ、化合物Aと同程度の活性aがあることが分かったとする。しかし、これでは進歩性を満たすかどうかが怪しいので、さらにいろいろ調べたところ、化合物A'には、別の活性bを有することが分かったので、これを明細書に記載し、化合物A'という物質発明について特許出願を行ったとする。この場合に、化合物A'には活性aのみならず活性bもあることを主張して進歩性は認められるだろうか?、という問題だ。

岡田論文の考え方からすれば、もし既知化合物Aも活性bを持っているのなら、活性bは新規な構成により奏されるとは言えないので、顕著な効果として斟酌することはできないから、進歩性は否定されることになるかも知れない。 まあ、私も同感だが、現実には話はそう簡単にはいかないことがある。

というのも、活性bは、おそらく既知化合物Aも持っているのかも知れないが、それについては調べられていないということがよくあるからだ。 化合物A'の明細書には、化合物A'に活性bがあることは実験データとして示されているが、既知化合物Aに活性bがあるのかどうかは示されていないことがある。そして先行文献でも、既知化合物Aに活性bがあるのかどうかは実験されていないことがある。その場合、おそらく既知化合物Aにも活性bがあるのだろうという疑いはあっても、そこは実験をやらない限り分からない。

そうすると、活性bは化合物A'の顕著な効果だと出願人が主張した場合に、審査官や審判官はそれを明確に否定することはできず、特許になってしまうかも知れないね。 当事者系の争いになれば、相手側は実験を行って確かめるかも知れないし、出願後に誰かが実験して論文を出しているかも知れないから、それにより進歩性を否定できるかも知れないが、データがない場合はやっかいな問題になる。また、そうした後出しデータ(出願前には存在しなかった知見)が、進歩性否定の証拠となり得るのかも一つの論点かも知れない。

これと似たような話は、2019年9月17日の投稿でも書いた。すなわち、新しいアッセイ系が開発された場合に、そのアッセイ系を使っていち早く化合物の活性を評価して特許出願を行えば、同じアッセイ系で同程度の活性を示す既知化合物があるかどうかは先行文献からは分からないから、予測できない顕著な効果だと出願人が主張した場合に、審査官としては否定しにくいのだ。 こういう場合にどうやって進歩性を否定すればよいのか(あるいは、進歩性を認めてしまえばよいのか)については、悩みどころだと思う。

6.顕著な効果があろうが進歩性を否定する場合はあるのか?

今回の岡田論文は、「独立要件説」を初めて提唱したとされる「山下説」を肯定的に論じるものだが、岡田先生は「山下説」の特徴として、それとは対立する説である「二次的考慮説」(岡田論文では「経験則説」と名付けられている)を全否定していない点を強調している(35ぺージ抄録、38ページ左、54ページ左、および脚注3)。 しかし、岡田論文には「経験則説を全否定するものではない」ことは繰り返し述べられているものの、「独立要件説」を採らずに「二次的考慮説」を採る場合とはどのような場合なのかについてはあまり論じられていない。 具体的に論じられているのは、山下先生が論稿の中で、「現実に行われてきている『予測困難な顕著な作用効果の看過』の主張の多くは,構成の推考の困難性を推測させる間接事実の主張としての意味を持つことはあり得ても・・・」と述べていることを指摘するもので、山下論稿がこのように述べていることをもって岡田先生は、「山下説は,経験則説の考え方による進歩性の主張を全否定するものではない。」と論じている(38ページ左下)。 岡田先生はさらに、「長らく未解決であった課題」が解決されたことに基づいて進歩性が認められる場面について以下のように論じている。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 46ページ右]
・・・,「長らく未解決であった課題」の論理は,構成の容易想到性を争うものであるから,その効果については,当該構成を採用したときに予測または発見される効果としての困難性は要求されるべきでないこととなる。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 54ページ右]
・・・,最高裁判決は,経験則説的な考え方を否定するものではないことには注意が必要である。例えば,長らく未解決であった課題に対応する効果は,当該構成の効果として予測可能なものであってもよく,比較の基準は当然に先行技術の奏する効果であるところ,最高裁判決はこの論理による進歩性の主張を排除するものではない。

しかしこれらの例は、「よほどと言える顕著な効果があれば必ず進歩性は認められるのか」(顕著な効果があっても進歩性が否定されることがあるのか)という問題とはあまり関係のない例だから、果たして岡田先生は、顕著な効果があっても進歩性を否定する場合があり得ると考えているのか、あるとしたらどのような場合なのかについて示唆を与えるものではない。

この問題にもっとも関連するのが、ある大審院判決について岡田論文が紹介するくだり(47ページ右下および脚注33)だが、その前に、山下説の「第1要件」の意義について考えたい。

7.「山下説」の第1要件の意義

本稿の最初に、「山下説」の第1要件はそもそも不要に見えるが、それでよいのか、という話をした。 これについて考えてみたい。

山下説の二つの要件を再掲すると以下のとおりだ。

i) 当該構成の効果として,予測あるいは発見することが困難な効果であること(予測困難性)。

ii)当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること(顕著性)。

冒頭で述べたとおり、もしこれらの二つの要件がともに効果の「程度」を問題にしているのなら、本件発明の効果の程度が、「当該構成のものとして予測される効果」と比較してよほど顕著(第2要件充足)であるのなら、それを当該構成のものとして容易に予測できるとは言えないだろうから、第1要件は必ず充足することになり、第1要件はほとんど意味がなくなってしまう。 「山下説」の第1要件は、そのような要件だと理解するのが妥当なのだろうか。

第1要件について山下論稿はどのように論じていたのか、原文を見てみる。

[山下論稿の159-160ページ(岡田論文の37ページにも引用されている)]
・・・,特定の発明の作用効果は,客観的には,すべて,当該発明の構成の必然的な結果であり(逆にいえば,当該構成の必然的な結果でないものを当該発明の作用効果とすることはできない。),構成とは別の要素として存在し得るものではない。そうだとすると,構成自体は既に公知となっている発明についてはもちろん,構成自体についての容易推考性の認められる発明についても,その作用効果のみを理由に特許性が認められるということは,本来あり得ないことである,ということもできるであろう。ただ,構成自体についての容易推考性の認められる発明であっても,その作用効果が,その構成を前提にしてなおかつ,その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなときに,一定の条件の下に,推考の容易なものであるとはいえ新規な構成を創作したのみでなく,上記のような作用効果をも明らかにしたことに着目して,推考の困難な構成を得た場合と同様の保護に値すると評価してこれに特許性を認めることには,特許制度の目的からみて,合理性を認めることができると考えられる。

注目すべきは、効果によって進歩性が肯定される場合について山下論稿が、「構成自体についての容易推考性の認められる発明であっても,その作用効果が,・・・,その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなときに,」と述べていることだ。 すなわち山下論稿は、「予測することが困難」であるだけでなく、「その発見も困難である」ことを「AND条件」として求めているのだ。

もっとも、山下論稿の後の方では、「・・・,予測あるいは発見することの困難なものであり,・・・」と書かれ、「あるいは」が使われており、読み方によっては、「予測あるいは発見のいずれかが困難であり」という意味(すなわち「OR条件」)にとれないことはない。 そして岡田論文においては、主に「予測あるいは発見」というところが引用され、かつ、この第1要件を「予測困難性」と名付けていることから、山下説は、あたかも予測さえ困難であれば第1要件は満たされるものとして扱われているように見える。

しかしそのように解してしまっては、山下論稿は大事な点を「AND条件」で書いたり「OR条件」で書いたりするいい加減な論稿ということになってしまうし、上述のとおり、第1要件は第2要件が満たされれば必ず満たされる冗長な要件ということになってしまうだろう。 もし山下論稿を、冗長ではなく一貫性のあるものだと解するなら、「予測あるいは発見することが困難な効果であること」という山下論稿の第1要件は、「その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなとき」という山下論稿の説示と整合性をもって解釈しなければならないだろう。

そのためには、山下論稿の言う「予測あるいは発見することが困難な効果であること」とは、予測あるいは発見の少なくともいずれかが困難であることと捉えるのではなく、文字通りに「“予測あるいは発見すること” が困難な効果であること」、すなわち、予測と発見のいずれもが困難であることだと捉えるべきだろう。 そしてその場合の「予測」とは、効果の「程度」を予測することを意味しているのではなく、効果の発見につながるような予測性(すなわち、効果を確かめてみようという動機付けを与えるような予測性)を指しているとでも捉えるべきだろうと思う。 そうした予測の容易性があれば、たとえ予想外の顕著な効果を奏するとしても、それが発見されるのは間近だったということになるから、発見は容易であったということと同じような意味になる。 つまり、山下説の第1要件における「予測困難性」と「発見困難性」は、一つの要件の中で併記されることが自然に感じられる類似した事項だと理解することができるだろう。 またこのように考えると、山下説の第1要件を「予測困難性」と名付けるのは、「発見困難性」の考慮が不要であるかのように感じさせる点でかなりミスリーディングだということになるだろう。

大寄解説のところでも述べたとおり、山下の第1要件を効果の「程度」の予測困難性だと解すると、第2要件と判断の「軸」が同一となり、第1要件の意義がほとんど失われてしまう。 しかし、山下の第1要件を、効果の発見に導くような予測の困難性を言っているのだと解すれば、第2要件とは異なる判断軸ということになり、第2要件にはない独自の意義が生まれることになる。 ちなみに、これは私の言う「進歩性の第1要件」に近いものだ。

[私が考えているあるべき進歩性の判断手順] (2019/8/30版
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山下説の「第1要件」を上で示したように解釈する場合、ある発明が、その効果を確かめてみようという動機付けを与えるほどの予測・発見の容易性がある場合(すなわち山下説の「第1要件」を満たさない場合)は、実際の効果がどれほど顕著であっても(すなわち山下説の「第2要件」を満たす場合でも)進歩性は否定されることになるから、効果の顕著性は進歩性肯定の「独立要件」ではないことは明らかで、山下説を「独立要件説」と呼ぶことはできないだろう(岡田論文の脚注12との違いに注意。 岡田論文の脚注12は、「効果の予測困難性」(山下説の第1要件?)を満たせば必ず進歩性が肯定されるという解釈の発散を防ぐために山下説を「独立要件説」と呼ぶことに反対している。 それに対して私は、山下説の第1要件が満たされなければ、たとえ効果が顕著であろうが進歩性は否定されるから、山下説を「独立要件説」と呼ぶことはできないと言っているのだ。 )。

*   *   *

なお、山下説の第2要件の「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること」の「発見される効果と比較して,よほど顕著なものである」とはどういうことなのか、そのようなことがあり得るのか、という点は気になるが、ここでは考えるのをやめておこう。

8.岡田先生や相田先生はどう論じていたのか?

相田先生が「予測できない顕著な効果があるときは,特許法1条の趣旨から,産業の発展に貢献する発明として進歩性があるものとされるのだ,と考えてはどうか。」と論じていることについて、私は上で「特許法1条誤読説」などと言ってしまったが、実は相田先生は同じ論稿の中で続けて以下のように書いている。

[『特許審査・審判の法理と課題』発明協会, 2002, 225ページ]
それでも、なかには、引用例の記載に基づいて当業者であればごく自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合があろう。このような場合に進歩性が否定される条件を定式化する必要があるだろう(・・・)。

つまり相田先生は、引用例の記載に基づいて当業者であればごく自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合は進歩性を否定すべきだと論じているのだ! これはまさに私が解釈するところの山下説の「第1要件」と類似するものだろう。 そうすると相田先生は、発明の構成が容易でも、効果が予測を超えて顕著でさえあれば進歩性を肯定できるという立場ではないことは明らかで、相田説を「独立要件説」と理解することはそもそもできないということになろう。

では岡田先生はどうか。 実は岡田先生は、2006年の論文において相田論稿の上記の指摘を引用した上で、次のように論じている。

[岡田吉美, 特許研究 No.42, 21-43, 2006 の33ページ左]
 指摘の点は尤もなことだと思われる。確かに,技術水準から予測できないほどの顕著な効果があれば必ず進歩性があると考えるのは硬直的過ぎる考え方だろう。
 上記の指摘は組み合わせ発明の場合だけでなく,選択発明の場合も該当するだろう。例えば選択肢が非常に少ない場合の選択発明がその例である。選択肢が少ない場合で,当業者が順番に試すことが期待される場合には,たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも,選択して測定して直に発見することが期待されるのであれば,技術水準からは発見することが困難な効果とは言えないと言うべきであろう。

このように岡田先生は上記の相田先生の指摘を取り上げた上で、「指摘の点は尤もなことだと思われる。確かに,技術水準から予測できないほどの顕著な効果があれば必ず進歩性があると考えるのは硬直的過ぎる考え方だろう。」と述べているのだ。 そうすると、岡田先生もまた、少なくとも2006年当時は、私が解釈するところの山下説の「第1要件」を支持しており、効果を「発見すること」が期待されるのであれば、進歩性は否定されるべきだという立場だったと解しうるだろう。

問題は、岡田先生は今(あるいは本当は)どう考えているのかだが、今回の岡田論文で最も関連するのは、ある大審院判決について論じている部分で、具体的には以下のように記載されている。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 47ページ右]
効果の顕著性があっても特許性を認めなかった判例として,大正10年法の下での大審院のものではあるが,大判昭和6年6月24日審決公報号外7号97頁(昭和5年(オ)1293号)がある。人造弾性ゴムに炭素を配合してその性質の改善をする発明について,その効果が天然物の場合より人造物質の場合において顕著であっても,天然物処理方法を人造物に応用することはなんら発明力を要せず,当業者が容易に想到し得るものである旨判示している 33)。

33) もっとも,本判決は,予測可能性はないにしても,山下説における,発見が容易と認められる効果,すなわち,当該構成の採用により容易に発見することが期待される付随する効果に該当すると考えられ,欧州の「単なるボーナス効果」の考え方に類似するものと考えられる。

この大審院のケースについて岡田論文は、上に引用したとおり脚注33において、「山下説における、発見が容易と認められる効果,すなわち,当該構成の採用により容易に発見することが期待される付随する効果に該当する」と説明しており、これを見る限り、大審院のケースは山下説の「第1要件」、しかも効果の「予測容易性」ではなく「発見容易性」をもって進歩性が否定された事例だと解しているように見える。 したがって、岡田先生が2006年論文でとっていた立場は、今でも堅持されているのかも知れない。 しかし、気になる点がいくつかある。

一つ目には、上記の事項は今回の岡田論文の中で大審院判決という個別のケースについて短く論じられているだけで、顕著な効果があろうが発見が間近なら進歩性は否定されるべきだという規範が明確に語られていないことだ。 岡田論文には、山下説は二次的考慮説を「全否定するものではない」ことが繰り返し述べられているわりには、効果が予測できなくても発見が容易なら第1要件は満たさないということについては規範として打ち出されていない。 それどころか上述のとおり、「予測あるいは発見することが困難」という山下説の第1要件を「予測困難性」と名付けることで、あたかも「予測すること」が困難でありさえすれば第1要件は満たされるような印象を与えている。 これは岡田先生が、大審院判決のようなケースを一般的規範とは捉えていないか、あるいは意図的に言及を避けた可能性を疑わせるだろう。

二つ目は、この大審院のケースにおける効果を、岡田先生は脚注33において「付随する効果」と言っている点で、この「付随する」というのが何を意味しているのかが分かりにくいことだ。 もし「付随する」というのが、「発明の構成に付随する」という意味であって、当該構成を採用すれば必然的に奏される効果であるという意味で「付随する」と言っているだけであればよいが、この発明には「主たる効果」と「付随的な効果」があって、顕著だったのは「主たる効果」ではなく「付随的効果」の方だから進歩性を否定してよいのだということを示唆しているのなら、「主たる効果」が顕著であれば進歩性は肯定しうるということになってしまう。 「付随する」が何を意味しているのかを明らかにしてほしいところだ。

気になる三つ目の点は、岡田論文では、この大審院のケースの直前で以下のように論じられていることだ。

[同47ページ右]
山下説では,構成の容易想到性が認められる場合を前提条件としているところ,一口に「容易」といっても,その程度にはさまざまな場合があるのではないかというのが通常の発想であろう。山下説はこの点も考慮して,比較の基準は,「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果」であるとしている。すなわち,当該構成を採用する目的・動機づけとなる効果との比較衡量で総合的に評価するとしていると理解される。決して,構成の容易想到性と独立して予測困難な効果の顕著性を評価するのではない。

つまり大審院のケースで進歩性が否定されたのは「総合的な評価」の結果としてそうなったのだというニュアンスを読者に与えている。 しかしこの「総合的な評価」という言葉も、意味がよく分からない。 上に引用したとおり岡田論文は、比較の基準が「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果」であることをもって、「すなわち,・・・総合的に評価するとしていると理解される。」、「決して,構成の容易想到性と独立して予測困難な効果の顕著性を評価するのではない。」と論じるのだが、「当該構成のものとして」予測される効果を基準とすることは、単に基準はそこだという意味を持つに過ぎず、これを「総合評価」だというのは飛躍があるのではないか。 予測される効果は発明の構成と無関係ではない(独立ではない)ことは確かだとしても、予測される効果に比べて実際の(主たる)効果が顕著であった場合に進歩性を肯定するというのなら、それは構成の容易想到性とは独立に進歩性を肯定することに他ならないのであり、それを「総合評価」とか「独立ではない」などと言うのは不適切ではないか? それとも岡田先生は、「発明の構成の容易性」と「効果の顕著性」は同じ天秤上でバランスをとり合っていて、「発明の構成」がかなり容易想到でも、「効果の顕著性」がすこぶる高ければ進歩性は肯定しうるが、「発明の構成」が極めて容易想到である場合は、進歩性肯定のために必要な「効果の顕著性」は事実上無限大にまで高まるというようなイメージでも持っているのだろうか? そうだとすれば、確かに「総合評価」と言えるかも知れないが、そうした考え方は、「総合評価」の名のもとにすべてをブラックボックスに放り込むようなもので、昨年10月9日の投稿でも書いたとおり、『「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。』という疑問を生じさせる。 (なお同じようなことは、高林解説を読んだときにも感じた;2020年1月28日の投稿の『よほど顕著な効果があっても強引に「効果は想定内」だとみなせばよいと高林先生は考えているのかも知れない』という部分。)

大審院のケースはこれに続いて論じられているものであるので、岡田先生の中でこの大審院のケースは、発見が容易であるから山下説の「第1要件」により進歩性が否定されるのだと認識されているのではなく、「総合評価」という名のもとに、どちらかというと山下説の「第2要件」により進歩性が否定されるものと認識されている可能性も感じられる。

今回の岡田論文で気になる点をさらに挙げれば、先にも触れたが脚注12で岡田先生は、『「独立要件説」という名称は,その響きから,構成の容易想到性に関係なく,効果の予測困難性があれば必ず進歩性を充足するとの解釈の発散を生みやすいので(後掲注(15)参照。),筆者は不適切と考えている。』と論じていることだ。 ここでいう「効果の予測困難性」とは、山下説の第1要件を指しているように見えるが、そうすると、『「効果の顕著性」があれば構成の容易想到性に関係なく必ず進歩性を充足する』という点については、岡田論文は否定しないのだろうか? そうすると、やはり大審院のケースは例外的な判断であって、一般的規範に沿うものではないと岡田先生は考えているのだろうか?

また今回の岡田論文では、効果が「瑣末的」なものである場合は進歩性を否定すべきだとは論じられているが(50ぺージ右)、効果が瑣末的ではなくても(主たる重要な効果でも)進歩性が否定されうるのかについては、一般論を避けているように見える点も気になるところだ。

さらに気になる点を挙げれば、上で引用したとおり、2006年論文で岡田先生は、「選択肢が少ない場合で,当業者が順番に試すことが期待される場合には,たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも,選択して測定して直に発見することが期待されるのであれば,技術水準からは発見することが困難な効果とは言えないと言うべきであろう。」と論じ、「たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも」という条件らしきものを付けていることだ。 この文章からは、「公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果」である場合は進歩性を否定してよいことは分かるが、そうではない場合、例えば、その効果が公知の文献からは見いだせないということを超えて、予想外に顕著であった場合は別論ということであろうか?

このように、岡田論文の端々からは、「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」ということを否定したくないという気持ちがあるように感じられる。 「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」ということを堅持するために、高い効果がありながら進歩性を否定したいケースが出てきた場合は、「総合評価」の名のもとに「顕著性」を否定すればよいと思っているのではないだろうか。 上述のとおり、私は安易に「総合評価」を持ち出すことには反対で、その具体的な中身を明らかにする必要があると思うが、岡田先生がそのあたりのことをどう考えているのかについては、今後の論文を待ちたいと思う。

*   *   *

以上のとおり、山下説の「第1要件」の「効果を予測あるいは発見することが困難」というのは、文章を素直に読んで、「効果を “予測または発見すること” が困難」だと理解するべきであり、これを「予測困難性」と呼ぶのはミスリーディングであることを説明してきた。 またその場合、「第1要件」は効果の「程度」の予測困難性を問題にしているのではなく、予測して積極的にまたは偶然に効果の発見に至ることの困難性を問題にしていると捉えることで、予測と発見が併記されていることを自然なものとして理解することが可能で、そうした理解により、山下説の「第2要件」にはない独自の意義を「第1要件」に見出せることについて説明した。

また、一般には「独立要件説」を支持していると理解されている2002年の相田論稿は、実は「自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合は進歩性を否定すべき」としている点で「独立要件説」とは言えないこと、そして岡田先生も、2006年論文では、相田先生のこの指摘を支持していたことを見てきた。

ところが、そうした考え方は、時として細部が置き去りにされ、一部のみが切り取られて一人歩きをしてしまうのだ。

その責任の一端は特許庁にもあり、下のとおり、「予想以上の効果」があれば即「進歩性あり」というような単純すぎる図を自ら作成したりする。

[産業構造審議会 特許制度小委員会 第3回 審査基準専門委員会ワーキンググループ(平成27年1月23日)の配布資料(資料1)より](赤丸を付加した)
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そしてその責任は知財高裁にもあり、前回(2020年6月19日)の投稿でも見たとおり、「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」という単純すぎる一般規範を繰り返し説示したり、ラセミ体の一方の異性体に特許を与えたり(2019年10月2日の投稿)、容易な発明でも効果が顕著なら「特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべき」などと特許法1条を曲解してみせたりする(2019年10月9日の投稿)。

そして我々にも責任はあり、こうした特許庁や裁判所の説示に対し受け身な態度に終始して明確な批判をして来なかった。

その結果が今なのであり、進歩性の判断における「効果」の意義に高い関心が集まる中で知財高裁は、それを意に介さないかのように「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」という一般規範を引き続き打ち出して見せたのだ(令和元年(行ケ)10118;前回の投稿を参照)。

細部を置き去りにしたこうした単純化はどこかでただされる必要がある。 そのためにも、山下説の「第1要件」の意義について、今回の岡田論文にも増して考える必要があるだろう。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする