感想を書いてみたい論文がたくさん出ている。 中でも清水紀子先生の修論(?)を論文にしたと思われる論文(
知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)は87ページもある大作だ。 論文最後の謝辞からして、田村先生が指導教官だったのだろうか。 延長問題をテーマにするというのは素晴らしい。 論じている人が少ない分野でもあるから、博士課程が終わるころには、清水先生はこの分野の第一人者になっているかも知れない。
感想を書く時間がないというのもあるが、勢いで公開しないと、あれこれ考え出すと後回しにしたくなって結局公開しないままになってしまうので、とりあえず今回は、最近出た田村先生の論文(
知的財産法政策学研究 Vol.56 (2020) 163)を勢いで取り上げたい。。
今回の田村先生の論文「存続期間満了後の特許無効不成立審決取消訴訟の訴えの利益・進歩性要件の基礎となる引例適格性・サポート要件における課題の再設定について −ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決の検討−」(知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237)は、westlawjapanの判例コラムに
2018年から
2019年にかけて書かれた先生の3つのコラムがもとになっており、このうち進歩性について書かれた
判例コラム153号については、私も過去に取り上げた(2019年6月3日の
投稿など)。
今回の先生の論文でグッと来たのは脚注71で、そこでは今回のピリミジン誘導体事件に関して、「既知化合物の置換基をでたらめに選んで改変し、ありきたりの効果しか発揮しない化合物を得た場合でも、大合議判決の説示に従えば進歩性が肯定されてしまうことになってしまう(から大合議判決は論難に値する)」という趣旨の私のコメントに対する先生の考え方が記載されている。
田村先生は、そのような発明について特許の取得を認めるべきではない場合はありうるとしながらも、「その理由はでたらめに選択されたからではない」と述べて次のように指摘している。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(209ページ)](強調はこちらで追加;以下同様)
たしかに、第一の仮設例に関しては、特許の取得を認めるべきではないと思う。ただその理由はでたらめに選択されたからではない。セレンディピティという言葉に集約されるように、ノーベル賞クラスのものを含めて少なからざる大発明が偶然の産物、意図せざる結果であることはよく知られている (たとえば、参照、田中耕一『生涯最高の失敗』(2003年・朝日新聞出版社) 138〜148頁)。そして、そのような偶然の発明をなしえたのも相応の投資がなされていたからであることが少なくなく、換言すれば、特許権のインセンティヴが必要であることが少なくなく、他方、偶然の産物を特許の対象から外そうとすると、限界線が不明確となって予測可能性、法的安定性を損なうことになろう。
したがって、第一の仮設例が特許に値しない理由は、むしろ、それが世の中に貢献するところがほとんどない反面、このようなものに特許が認められてしまうと、第三者はどこに特許の地雷があるのか予測がつかないことになりかねないことに求められる。
私も、「でたらめに選択したこと」が、こうした発明に特許を付与すべきではない理由になるとは思っていない。 あくまで、「単なるでたらめ・ありきたりのたぐいだと “
評される”」(あるい “目される” )ことが、こうした発明に特許を付与すべきではない理由となるのだ。 「評される」というのは、「でたらめ・ありきたりのたぐいに過ぎない」(すなわち「ハズレ」)という一種の価値判断(意味付け)であって、「事実としてでたらめであったのか」を問題にしているのではない。 意図せずに偶然見つけた発明でも、それなりの有用性があるもの(すなわち「当たり」だと評されるもの)であれば特許は肯定しうる。 また、先生は「相応の投資」が必要だと思っているのかも知れないが、私は「相応の投資」をしたか否かは関係がないと思う。 なぜ「相応の投資」をしたことが特許付与の条件ではないのかといえば、優れた発明が秘匿されずに早期に公開され、皆がその発明を参照できるということ自体に特許制度の価値があり、発明者に投資回収をさせることのみが特許制度の目的ではないからだ。 まったく偶然に、タダ同然で見出した発明でも、それが容易に発明できず(つまり放っておいても誰かが発明するのは時間の問題であったとは言えず)、有用なものであるのなら特許性を肯定しうる。
だから、特許を付与できない理由は「でたらめに選択されたからではない」という田村先生の指摘は、私の考え方を否定するものにはならないと思う。
さて、上で取り上げたのは特許の取得を認めるべきではない場合についてだが、逆に特許の取得を認めてもよい場合について田村先生は次のように指摘している。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(209-210ページ)]
他方、第二の仮設例は、条件次第では特許を認めてもよいように思われる。甲1発明に比して1/3とはいえ、それより前の技術に比べれば5倍弱の効果を有しているというのであれば、そして、でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれるというのであれば格別 (その場合には、仮設例1と選ぶところはなく、進歩性を否定すべきである)、そうでないのであれば、技術を豊富化したという意味で特許を認めることに問題がない場合もありえよう。そして、少なくとも筆者の構想では、甲1は先行発明とならなかったとしても、引例になりうるから、あとはその程度の技術を見出すのがどのくらい困難であったのかというところで適宜、調整することが可能である。その場合、ピンポイントで仮設例2の構成に辿り着くのが容易でなかったとしても、仮設例を含む範囲のどこかで仮設例と同程度に課題を解決する技術に辿り着くことは容易である (ただ、そのなかでたまたま仮設例を選ぶことは偶然に依存するとしても) という場合には進歩性を否定してよいのではなかろうか。
私が書いた第二の仮説例は大合議判決の発明を参考に作ったものだが、先生のいう「でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれる」場合を想定したものだ。 だから、もしそうでないのなら、つまり既知の化合物を改変し、活性が同程度に維持された化合物を取得することはおろか、活性が1/3にまで下がった化合物を取得することすら容易とは言えないのなら、進歩性を肯定することは私も賛成だ。 これについては、当時の私の投稿において、「ちなみに、甲2に記載されている膨大な選択肢の多くは活性が失われてしまうという推定が成り立つような場合は、HMG-CoA還元酵素阻害活性をともかくも持っている構成を同定したという程度でも進歩性は肯定し得るだろう。 その場合は、ともかく活性がありさえすればよく、活性の「程度」は考慮する必要はないということになるのかも知れない」(2019年6月3日の
投稿)と書いていることからも分かるだろう。 そして先生も、「でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれる」のなら「進歩性を否定すべきである」と論じているから、私と先生との間で大きな違いはないということになるだろう。 つまり大合議事件のような発明であっても、進歩性を肯定するにあたって「効果の程度」を検討することが必要な場合は「ある」のであり、大合議が説示したように「効果の程度」の検討は不要だと言うためには、本件の引用例の化合物については、わずかな改変でも活性がほとんどなくなってしまい、1/3の活性を持つ改変化合物を取得することでさえ容易ではなかったという「前提」が必要となるだろう。 しかし本件において、そういう前提が成り立つことについて裁判所は検討をしたのか? それをしていないのなら、大合議判決の説示は、必要な前提を欠いているということになるだろう。
ともかく、どういう発明に特許を付与し、どういう発明に特許を付与しないのかという点については、私は田村先生の考えに特に文句はないし、選択発明を二分すること、すなわち、「効果の程度」を不問として進歩性を肯定する(効果がありさえすれば進歩性を肯定する)ような選択発明もあり得るというところまでは受け入れられるけれど、ある選択発明が、二分された選択発明のどちらに分類されるのかについては、事案ごとに検討が必要なのであって、当業者が既知化合物を「エィヤーッ」と改変したのでは、活性がわずかでも残存する化合物でさえ到底取得できなかっただろうという状況なのか、それとも活性が既知化合物の1/3に下がってもよいのなら、その程度の改変化合物は容易に取れただろうという状況なのか、そこは検討されなければならなかったはずなのに、それをすっ飛ばして「選択肢の数が膨大なら効果を検討するまでもなく進歩性あり」という説示をした大合議判決は、やはり肯定することはできないのだ。 ただ、これに関する先生の次の引用にはグッときてしまった。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(210ページ)]
「一歩の距離をおいて批判するのが、学者の役割であり、その判例批評の任務」であって、「判例との距離が五歩も十歩もひらいてしまうと、…判例に対する影響力もなくなってしまう。」(平野龍一「判例研究の効用」同『刑法の機能的考察』(1984年・有斐閣) 270〜271頁を引用しつつ、「そういう『一歩の距離』からの適切な批判であれば、裁判官はそれに耳を傾けるであろうし、理由付けについても批判者の側から新しい学説を参照したすぐれた理由付けが提示されれば、将来の裁判のためにきわめて参考となるであろう。」と説く、中野次雄編『判例とその読み方』(三訂版・2009年・有斐閣) 125〜126頁も参照))。
先生のそういう心遣いが、裁判官の方々の心に響くといいけれど。
* * *
さて、今回の田村先生の論文の「第IV部」(サポート要件に関する論考)も、
判例コラム158号が基になっているものの、今回新たに加筆されている部分も多い。
本事件(ピリミジン誘導体事件)において大合議は、効果を考慮するまでもなく進歩性を肯定し、上記のとおり私はそれを不適切だと思っている。 しかし本件において大合議はサポート要件も同時に判断しており、サポート要件の判断において効果を一応は検討している。 具体的には、本件においてサポート要件が満たされるには、医薬となる程度(すなわちメビノリンと同程度?)の活性があればよい旨を説示している。 それを勘案すれば、進歩性の判断において効果をまったく検討しなかった大合議に対する私の批判は、緩和されるのだろうと思う(改変前の既知化合物の数分の一の活性でもよいというのが、「進歩性」を肯定するための効果として十分であるのかについては疑問があるが。)。 つまり、本来は進歩性の判断において検討されるべき効果が、本事件においてはサポート要件において検討されていた、というのが本判決に対する私の解釈だ。
「ライスミルク事件」および「偏光フィルム事件」について
サポート要件に関して田村先生は「ライスミルク事件」(平成29(行ケ)10129)を取り上げている。 「ライスミルク事件」の異議申立原審は、サポート要件の判断において、明細書の記載から課題を抽出するのではなく、(進歩性を満たす程度に)課題を勝手に高く設定した上で、その課題を達成できないという理由でサポート要件を否定した。 しかし裁判所はそれを否定しつつ、そういうのは「進歩性の問題」だと説示した(田村論文の224ページ)。 私もそれには賛成だ。 そして裁判所がそのように説示したにもかかわらず、再開された異議申立審においては、これを進歩性の問題として検討することなく進歩性を肯定してしまった。 田村論文は脚注98においてこれを批判しており、私もその批判はもっともだと思う。
しかし、そもそも進歩性の判断において考慮すべき「効果」の検討を、進歩性の判断として検討しなかったという点は、「ライスミルク事件」の異議申立審のみならず、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決も犯している「誤り」だというのが私の立場だ。 そして、もとはと言えば、本来は進歩性の判断として考慮すべき「効果」の検討を、サポート要件として判断しうるのだという理解を生じさせてしまった「偏光フィルム事件」(平成17(行ケ)10042)の大合議判決こそ、そうした「誤り」を誘発させる元凶なのだと思う。
「偏光フィルム事件」は、なぜ「進歩性」ではなく「サポート要件」が問題となったのか? それは「偏光フィルム事件」のように、特殊パラメータで発明の「構成」が規定されている場合は、その「構成」が容易想到ではない以上、
効果を検討するまでもなく進歩性は満たされるとみなされたからではないのか? もしそうだとすれば、そこがそもそもの間違いなのだ。 それが正しいのなら、目新しいパラメータをでたらめに設定し、誰も思いつきそうにない構成のみを囲むように範囲を設定しただけでも進歩性は肯定されることになってしまう。 しかしそれは妥当とは言えないだろう。 進歩性の判断において、「効果」は
常に考慮されるべきだ。 発明の構成がどれだけ容易想到ではないとしても、でたらめに選択してありきたりの効果しか発揮しないと「目される」発明が包含されるクレームの進歩性は否定すべきなのだ。 それは「偏光フィルム事件」のようなパラメータ発明でも、「ピリミジン誘導体事件」のような改変化合物の発明でも、「ライスミルク事件」の発明でも同じだ。
「偏光フィルム事件」で大合議は、パラメータ発明について、明細書で謳われている効果(課題)が達成されることをサポート要件として課すことによって、「構成が容易想到でなければ進歩性あり」という考え方がもたらす弊害(つまり特許を付与すべきではない発明に特許が付与されてしまうという弊害)を是正する道を開いた。 しかしそれだけでは問題の根本的解決にはまったく不十分だ。 なぜなら、そのようなやり方が有用なのは、「進歩性を肯定するに足る効果が、発明の課題として明細書に記載されている場合」に限られるからだ。 しかし「偏光フィルム事件」判決がサポート要件における「課題の設定」によって問題の解決を図ったがために、「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件において課題を設定すればいいんだ」という理解が進んでしまい、「ライスミルク事件」の異議申立原審のように、明細書で謳われて
いない課題を設定してサポート要件で特許性を否定しようとする人たちが出てきた。 私は、この異議申立原審を行った審判官に、ある意味、同情する。 なぜなら、今回の田村論文に「知財高判[偏光フィルムの製造法]の説示から直接導きうるものではなく」(221ページ最終文)と記載されているとおり、異議申立原審のような考え方(明細書で謳われて
いない課題を設定してサポート要件を判断する考え方)を採ってはならないということは、「偏光フィルム事件」の大合議判決から直接導けるものではないし、上述のとおり「偏光フィルム事件」判決は、「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件において課題を設定すればいいんだ」という理解を生じうるからだ。
私はそれを「偏光フィルム事件」の大合議判決の「罪」だと言いたい。 本来なら、このパラメータ発明の効果は「進歩性」の判断において検討され、進歩性を認めるに足る効果がない態様が多数包含されると目されることを理由に「進歩性」を否定する判断規範が示されればよかったのだ。 つまり、「構成が容易想到でなければ進歩性あり」という特許界の誤った常識をくつがえし、クレームが規定する「構成」を選択することがどれだけ容易想到でなかろうと、でたらめに選択してありきたりの効果しか発揮しないと「目される」態様が包含されるクレームの進歩性は否定するという判断規範が示されればよかった。 (もっとも、進歩性は異議決定の理由ではないから、それができるはずもないが・・・) それをせずに、サポート要件を使って問題の解決を図ったがために、「偏光フィルム事件」大合議判決は、上述のとおり「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件で課題を設定すればいいんだ」という理解を生じさせるとともに、
「サポート要件」には「実施可能要件」にはない何か特殊な力があるのだと人々に思い込ませることになった。 これにより、二つの要件は違うものだと唱える平嶋先生らは勢いを増し、二つの要件は実質的に同じ(表裏一体)だと唱えていた前田先生は苦しい立場に追い込まれた。 そして、そうした傾向が今なお続いている、というより、固定化しつつあるのが今の日本だ。 今回の田村論文も、そうした傾向に拍車をかけるのに一役買うものだ。
これが「偏光フィルム事件」大合議判決に対する私の見方だが、田村先生の見方はもちろん私とは違う。 田村先生は「偏光フィルム事件」大合議判決についてはそのまま受け入れ、サポート要件の判断における「課題」は明細書の記載に基づいて決めるべきだという「ライスミルク事件」判決についても受け入れた上で、「・・・その射程であるが、前掲知財高判[偏光フィルムの製造法]を引用した説示に鑑みれば、本判決が、明細書に課題の記載を欠いている場合には、技術常識が参酌されうるという立場をとっているものと考えられる。また、明細書に従来技術では解決しえなかった課題を解決することが発明の目的であると記載されているのであれば、それを手がかりに、従来技術によって達成しうる効果を超えることを課題と認定する従前の裁判例の手法も、本判決は否定していないと解することができよう。」(222ページ)と論じ、「偏光フィルム事件」判決も「ライスミルク事件」判決も肯定しつつ、明細書で謳われて
いない課題を設定してサポート要件で特許性を否定することも、なお場合によっては認められるのだという考え方を提示しているのだ。
裁判所の判断にできるだけ寄り添いつつ、妥当な結果をもたらす判断規範を模索する。 田村先生のこの態度は、冒頭で取り上げた選択発明の進歩性判断における態度とまったく同じではないか!
田村先生は、本当に心遣いの人だと思う・・・。
しかし判決というのは、第一義的には、個別の事件の解決のためになされるものであって、そうした判決において裁判所が説示する規範のようなものが、一般的に成り立つ一貫性のあるものだという保証はない。 そうした判決をそのまま受け入れることによって、果たして一貫性のある体系をつくることはできるのだろうか? むしろ、わけの分からない迷宮になってしまうおそれが高いのではないかと思う。
判決とは、それを読む者にとって解釈の対象とはなっても、前提にしてはいけない。 なぜなら判決は恒久的真理である保証はないから、物事を考えるにあたって前提にはできないからだ(2020年1月14日の
投稿の『しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。』というところと同じ)。 例えば上述のとおり、進歩性を判断するにあたって、本来は「発明の構成が容易想到ではない」というだけでは進歩性は肯定することはできず、一定の効果があることを検討することは必要であるのに、「ピリミジン誘導体事件」判決は効果を検討せずに進歩性を肯定してよいと説示した。 しかし裁判所がそのような説示をしてしまった裏には、この判決で裁判所は、サポート要件の判断において効果を検討したから、進歩性において重ねて効果を検討する必要性を感じなかったという事情があるからだろうというのが私の解釈だ。 また例えば均等論においては、クレームの範囲に含まれない出願時同効材にまで安易に権利を及ぼすべきではないのに、「マキサカルシトール事件」大合議判決で裁判所は、第5要件に関して特許権者にかなり甘い説示を行った。 しかし裁判所がそのような説示をしてしまった裏には、この判決で裁判所は、第1要件において権利が及びうる範囲を極めて狭く設定したから、第5要件においてそれ以上権利範囲を制限する必要性を感じなかったという事情があるからだろうというのが私の解釈だ(
Sotoku 9号の35ページ右欄)。
判決は、これくらい大胆に解釈してよいのだと思う。 判決の説示をそのまま取り込んで自説を構築すれば、その体系は一貫性を失い、迷宮化してしまうだろう。
大体、裁判官の皆さんは、次でみるように、特許にするべきではない(と思われる)PCSK9発明の特許性を否定できずに維持してしまう人たちだ。 そのような人たちが行う説示を、どうしてそのまま自説の前提にすることなどできようか?
PCSK9中和抗体事件について
この事件については、私も、後日また書きたいと思う。
今回の田村論文で「PSCK9中和抗体事件」が取り上げられている理由は、先生がこの事件をサポート要件で解決しようとしているからだ。 具体的には、この事件こそ、明細書で謳われて
いない課題を設定してサポート要件で特許性を否定することが許されるケースだというのだ(233〜236ページ)。
私はというと、上述のとおり、そもそも「偏光フィルム事件」大合議判決に批判的だし、「実施可能要件」にはない“
特殊な力”を「サポート要件」に期待しているわけでもないから、サポート要件をことさら用いて特許性を否定しようとは思わない。 特許性を否定するとすれば、シンプルに「実施可能要件」で否定するか、あるいは「進歩性」で否定することになるだろう。 しかしどちらで特許性を否定するにしろ、本件はなかなか厄介なケースであることは確かだ。 というのも本件は、PCSK9とLDLRとが結合するまさにその場所(PCSK9の触媒ドメインの特定の部位)に結合して両者の結合を効果的に阻害する中和抗体を初めて提供したものであるから、そのような部位に結合する中和抗体が本当に容易想到であったのか(すなわち進歩性がないのか)は直ちに明らかとは言えないし、実施可能要件に関しても、本件は、参照抗体(実施例において取得した21B12抗体や31H4抗体)と競合する中和抗体を十数個取得することに成功しており(明細書の表37.1)、これだけ豊富な実施例が記載されていると、記載要件を満たすための数としては十分だという理屈も成り立ちうるので、実施可能要件を満たさないと直ちに結論するのも難しい。 したがって、進歩性要件や実施可能要件の規範を形式的に当てはめて判断すると、特許性が肯定されることもありえないわけではない案件ということはできるように思う。
それでもなぜ、この特許の特許性を否定すべきだと思うのかと言えば、それは本件クレーム(参照抗体と競合するPCSK9中和抗体というクレーム)の範囲は、「本件発明に対する依拠性が擬制できる範囲」を超えていると私は思うからだ。
特許権の効力が及ぶ範囲は、その発明に対して「依拠性が擬制できる範囲」におさめることを目指すべきだということは、2019年10月17日の
投稿でも書いたが、もともとは
Sotoku 6号の脚注111に書いたものだ。 特許にまつわる様々な規範の解釈に迷ったときは、「依拠性の擬制」を “物差し” として使うことで、一貫した理解や解釈が可能となるのだと私は思っている。 そして「先使用権」の話とはいえ、神戸大の前田先生が、その正当化根拠として「依拠性の擬制」を説いた論文を出したことから、前田先生もそのような考えを持っているのだという期待は私の中で高まっている(2019年10月17日の
投稿を参照)。
そして田村先生に対しても同じで、特許制度の根本的な要請として先生が「フリーライドの防止」(すなわち発明にフリーに依拠することを防止することとも言えるだろう)を挙げていることを私は好意的に捉えているし、そこには単純なインセンティブ論ではない、より根本的な “思い” のようなものが田村先生の中にあるのだろうと期待している(2020年1月14日の
投稿を参照)。 またこうした考え方は、特許発明の保護範囲として「発明の寄与力」が及ぶ範囲を説いていた松本重敏先生などの先人の考え方とも類似するものだと思う。
そして今回の田村論文はどうかというと、以下のとおりだ。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 230ページ]
B 発明の貢献に比して広範なクレイムの出現
・・・。参照抗体を超えて、より広範な抗体を技術的範囲に納めようとするこの事件の特許請求の範囲は、発明が開示する技術的思想の貢献度を超えた過大な保護を企図するものとして、それに基づく特許の取得が許されてしかるべきものではないだろう。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 232ページ]
・・・。その場合、参照抗体を超えた抗体を技術的範囲に納める特許請求の範囲は、発明の貢献を超えた保護を享受するものとして厳に戒めなければならない。
[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 233ページ]
・・・。それにも関わらず、参照抗体と「競合する」抗体全般について本件特許権がその保護を享受することができるとすれば、公知技術に比した発明の貢献を超え、競争を過度に制約することになる。
・・・
ゆえに、参照抗体や明細書記載の実施例を超えて、広く参照抗体と「競合する」抗体をカバーする本件特許権の出現は、何らかの法理によりこれを防ぐ必要がある。
すなわち先生は、発明の貢献を超える範囲に特許を与えてはならないのだと説く。 そして特に最後の引用は、「ゆえに、・・・本件特許権の出現は、何らかの法理によりこれを防ぐ必要がある。」と説いていることからして、発明の貢献を超える範囲に特許を与えてはならないという結論が先にあって、それを実現するために法理が必要だと言っているわけだ。 すなわち、サポート要件なり、実施可能要件なり、進歩性要件なりの規範の解釈が先にあって、その規範を当てはめて、どういう結論が出ようが、出てきた結論を受け入れればよいということではなく、発明の貢献を超える範囲に特許を与えることがないように、そうした特許要件の規範を解釈・運用しなければならないのだということだろう。
これは一歩踏み出した発言ではないか? ちょっとハラハラするが。
こうした考え方を批判する人もいるかも知れない。 「条文に基づいていない」とか、「(条文にもとづく)予測性を傷つける」とか、「結論ありき」だとか、「恣意的」だとか・・・。 しかしそう感じるのは、サポート要件なり、実施可能要件なり、進歩性要件なりが、発明の貢献を適切に保護するためにあると思っていないからだろう。 ではそういう人たちは、サポート要件や、実施可能要件や、進歩性要件が、一体何のためにあると思っているのだ?
以上のとおり、PCSK9中和抗体事件の特許を、サポート要件における「課題の再設定」を使って無効にするという田村先生のアイデアについては私は支持できないけれど、そのもととなる田村先生の思い、すなわち、発明の貢献を超える態様を包含するクレームに特許を与えてはならないという点については深く共感できる。 そして私も同じ思いを持ちながら特許要件を考えている以上、最終的に目指すところは同じなのだという希望を持っている。
PCSK9事件の特許性を否定的に考えている人は私や田村先生に留まらない。 前田先生しかり(前田健,
神戸法学雑誌70巻1号掲載予定)、桝田先生しかり(桝田祥子, AIPPI (2020) Vol.65 No.8, 656-670)、前田論文の脚注40からして、そのうち公開される劉一帆先生の論文も否定的なのだろう。 これは学者にとどまらず、実務家である深澤先生らも本件判決に批判的な論文を出しているし(深澤憲広,内田俊生,内山務,
パテント Vol.73 (2) 2020, 146-150)、SNS上でも何人かの実務家が本判決に懸念を示している。 聞くところによると、知財高裁前所長の清水先生や、東大先端研の玉井先生も本件判決には批判的なようだ。
こうした言論やコメントには大いに希望を感じるところだ。 裁判で勝ったものが法理となるのではない。 皆に理解され、支えられてこその法理だ。 そうした法理を生み出すためには、裁判所の判決に束縛されることのない自由な論究が必要なのであり、そうした論究の場に、学者のみならず、実務者、できれば裁判官も参加して、本当の「理」を見つけ出す過程が必要なのだと思う。
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<おまけ1> クレームに課題を書いておけばサポート要件は満たされる?
「PCSK9中和抗体事件」において、参照抗体と競合する抗体のすべてが中和活性を有するわけでない旨を主張してサポート要件を否定しようとする原告(特許無効を主張している側)に対して、知財高裁は、「参照抗体と『競合する』抗体であれば、PCSK9とLDLRとの結合を中和するものといえないとしても、
本件発明は『PCSK9とLDLR タンパク質の結合を中和することができ』る抗体であることを発明特定事項とするものであるから、そのことは、上記認定を左右するものではない」という形式的論理(すなわち「クレームに効果(課題)が書いてあればOK」という論理)をもってサポート要件の充足を肯定した(平成29年(行ケ)10225、10226)(田村論文の231〜232ページ)。 そしてこれについて田村論文は、「このような循環論法は、願望クレイムを肯定することにほかならず、
クレイムを支える技術的思想の開示を要求する同要件の存在意義を無にするものでしかない」(田村論文の脚注106)と強い口調で裁判所を批判している。 ちなみに裁判所のこの判断については前田先生も、「・・・トートロジーをサポート要件の判断基準としており、『願望クレーム』を容認するものであって、
明らかに不適切であるといわざるを得ない。」と批判している(前田健, 神戸法学雑誌70巻1号掲載予定の29ページ2-3行目)。
ところで、裁判所のこの判断について高石先生が次のように指摘している。
[高石秀樹,
パテント 2019 Vol.72 No.12 (別冊 No.22) 134ページ]
同裁判例は,「PCSK9とLDLRタンパク質の結合を中和することができ」るという機能が発明特定事項であることを前提としている。このように,「結合中和する」という効果がクレームアップされている以上,同効果を奏しない構成(同発明でいえば,「結合中和」しない抗体)は特許発明から除外されている以上,サポート要件の検討対象外である同裁判例と同様の考え方が多数である(10)。
つまり高石論文は、効果がクレームアップされていれば、それだけでサポート要件は満たされるという判決が多数だというのだ。 しかし、高石論文の脚注10に挙げられている裁判例を見れば明らかなとおり、これらの裁判例は効果がクレームアップされていることを理由に「新規性」や「非容易想到性」(進歩性)を肯定した裁判例であって、「サポート要件」を肯定した裁判例ではない。 効果(課題)がクレームアップされていることをもって「サポート要件」を肯定した裁判例としては「フリバンセリン事件」(平成 21年(行ケ)10033)が有名だが、他の裁判所が追随しているとはいえず、これについては高石論文自身が「
踏襲されていない」と指摘しているくらいだ(高石論文の125ページ)。 よって、「PCSK9中和抗体事件」において裁判所が形式的論理をもってサポート要件の充足を肯定したことを高石先生が「同裁判例と同様の考え方が多数」と言っているのは勘違いだろう。
なお田村先生や前田先生が「PCSK9中和抗体事件」のサポート要件の判断を「循環論法」、「トートロジー」だと批判するのなら、「フリバンセリン事件」のことはどう思っているのだ? これ以上迷宮を作らないためにも、「フリバンセリン事件」も批判した方がいいだろう。
<おまけ2> 潮海論文について(進歩性とサポート要件は表裏一体なのか?)
最近公開された
特許研究70号に潮海久雄先生がサポート要件について少し書かれているので、今回の私の投稿と関連する部分について短くコメントしたい。 今回の潮海論文の主題は、安易に進歩性を肯定しがちな近年の日本の裁判所における進歩性の判断規範を批判的に論じるもので、同意できる部分は非常に多い。 それはともかく、サポート要件により特許性が否定された「トマト飲料事件」(平成28(行ケ)10147)について潮海先生は次のように論じている。
[潮海久雄,
特許研究 No.70 2020-9 25-50の45ページ左]
むしろ,〔伊藤園トマト〕では,食品分野で公知物質の組み合わせによるパラメータ発明であるため,当業者の通常の創作能力の範囲内かとその顕著な効果を検討すべきで,本来は,進歩性要件で判断すべき問題と考えられる。かかる意味で,進歩性要件と開示要件は表裏一体であろう。
「トマト飲料事件」は「偏光フィルム事件」の規範を適用してサポート要件を否定した事件だから、この事件について潮海先生が「進歩性要件で判断すべき問題」だと論じているということは、「進歩性で効果を検討し、進歩性で特許性を否定すべきだ」という私と同じ考えを持っているということで、その点について先生を支持できる。 潮海先生には、その考えを「偏光フィルム事件」にまで適用する気があるのかを問いたい。
なお、潮海先生が「進歩性要件と開示要件は表裏一体であろう」と言っていることについては必ずしも同意できない。 潮海先生は、「トマト飲料事件」で裁判所がサポート要件で効果を検討したことを肯定しつつ、その効果を進歩性において検討してもよかったと思っており、それを皆も同意してくれるだろうと思っているからこそ、二つの要件を「表裏一体」だと論じているのだろうが、こうした判断をした裁判体が効果を進歩性で検討して特許性を否定してもよいと考えていた証拠はないのではないか。 もしこれらの裁判体が「本件は構成が容易想到でないので効果を考慮するまでもなく進歩性あり」と考えていたのなら、これらの裁判体にとって両要件はまったく表裏一体ではないということになるだろう。 「ピリミジン誘導体」事件も、効果をサポート要件でしか検討せず、その事例において効果を進歩性で検討する必要性を否定したのだから、両要件は表裏一体になっていない。 また「ライスミルク事件」は、進歩性で判断すべき効果をサポート要件で判断した異議申立原審(むしろ原審は表裏一体説を採っていたのかも知れない)に対して、裁判所は「それは進歩性で判断しろ」という旨を説示して否定したわけだから、この裁判体にとっても両要件は表裏一体ではない。
ちなみに私は、クレームに記載されていない効果は進歩性において検討すべきであって、サポート要件で検討するのは基本的には避けるべきだと思っているから(潮海論文45ページ右欄4-7行に書かれていることに対応)、私にとっても両要件は表裏一体ではない。 (まあ、進歩性に足る効果でクレームが限定されていれば開示要件の問題となり、そうでなければ進歩性の問題になるので、いずれにしろどちらかで効果は検討されるという意味では両要件は関連しているとは言えるが、潮海先生はそういう意味で表裏一体と言っているのではないだろう。)
このように、潮海論文の「表裏一体」論は、本来は「進歩性」で検討すべき(と思っている)効果が「サポート要件」で検討されてしまった「偏光フィルム事件」や「トマト飲料事件」などの判決を批判せずに受け入れたときに生じる錯覚(「本当は進歩性で特許性を否定すべきだよね。サポート要件を否定した判決も正しいけど」という立場をとることにより、どちらの要件でも特許性を否定できるはずだという気分になること)に過ぎない。 本当はこれらの判決を批判しなければならないのである。