2019年04月24日

「修正主義」としての「発明の効果」の意義論(前田健先生 Law and Technology No.82, 2019, 33-44)


Law and Technology No.82 (2019/1) 33-44 に掲載されている神戸大の前田健先生の論文『進歩性判断における「効果」の意義』。 進歩性の判断において、「発明の効果」はどのような意義があるのかを論じた論文だ。

特許や特許出願における発明の進歩性の判断において、「驚くべき効果」や「予想外の効果」などの発明の効果が進歩性を肯定する方向に参酌される場合があることは周知の事実だが、それはなぜなのだろうか? その説明としては、従来から「独立要件説」と「二次的考慮説」という二つの説がある。

独立要件説」とは、たとえ発明の構成が容易だとしても、その発明の効果が予想外に高いのであれば進歩性を認めるという考え方だ。 この考え方においては、「発明の効果」が高い場合は、結果的に、「発明の構成」が容易であるか否かによらずに進歩性は肯定されることになる(すなわち「発明の効果」は、「発明の構成」の容易性とは独立に進歩性を認めるための要件ということになる)から、この考え方は「独立要件説」と呼ばれている。

これに対して「二次的考慮説」(「間接事実説」などとも呼ばれる)とは、発明の効果はあくまで「発明の構成」が容易であるか否かを判断するために考慮しているのだと捉える考え方であり、「発明の構成」が本当に容易であるのに「効果」が高いからといって進歩性が肯定されることはないと捉える考え方だ。

したがって、「独立要件説」と「二次的考慮説」は異なる考え方であって、進歩性の有無という最終結論についても一致する保障はないだろう。 ところが今回の前田論文では、両者は事実上、結論において差を生み出さない運用が可能だと説明されている。

例えば今回の論文で前田先生は以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 36-37ページ]
たとえば、進歩性否定側が動機付けの論理付けに成功すれば容易想到性は一応肯定されるが、相手方が「効果」の存在を抗弁として立証したときには、結局容易想到性は否定されるという運用も、二次的考慮説のもとで必ずしも排除されないのである。実のところ、裁判実務では「予測できない顕著な効果」の有無と進歩性の有無がほぼ連動しているという指摘がある 24)。独立要件説では、「動機付け」=「構成の容易想到性」と「効果の容易想到性」とを分離して捉えるので必然的にそのような運用となるが、二次的考慮説を前提にしても事実上、同様の運用をなすことは可能である。その意味では、少なくともこの観点において、両説の対立は実際上の結論の違いをもたらさない 25)。

そして今回の論文で前田先生は、「基本的に二次的考慮説によって正当化することが妥当であると考える。」(38ページ)と述べて前田先生自身は「二次的考慮説」の立場であることを明確にしながらも、次のように論じるのだ。

[同 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を 奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

上のような前田先生の説明に対しては、単純に「なんで?」と思ってしまう。

「(予想外の)発明の効果」は、その「発明の構成」を採用して初めて判明することだ。 当然ながら、その「発明の構成」を採用するまでは、「(予想外の)発明の効果」は予想できないのであり、あらゆる発明は「その本当の効果」はいまだ分かっていない状態で発明される。 換言すれば、あらゆる発明は、その「発明の構成」が本当はどのような効果を発揮するのかとは無関係に発明されるわけだ。 そうすると、その「発明の構成」を採用することの動機付けは、その発明の構成が本当はどのような効果を発揮するかに影響を受けないはずではないか?

したがって、前田論文のように、発明の効果が予想外であった場合は「当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる」だとか、「その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである」などと説明するのは、後日判明した結果をもとに都合よく過去を書き換えてしまう「修正主義」のようなもので、論理的に難があると思う。

前田論文では、

[同 38ページ]
本稿の理解では、「動機付け」と「効果」はともに容易想到性の考慮要素であるが、動機付けが一応認められても予測できない効果が認められるときには、結局当該発明の構成に想到することが容易であったとはいえず、容易想到性が否定されることになる。その意味では、本稿の見解は基本的には二次的考慮説に立ちつつも「効果」をある程度独立して捉えているといえる。

と論じているが、前田先生が論じていることは、「ある程度」というより、実体は「独立要件説そのもの」だ。 しかも前田先生は、それを「二次的考慮説」だと言っている点で、「独立要件説」論者よりも分かりにくく、誤解を生みやすいものになっていると思う。

その意味で、私は今回の前田先生の論文の立場は、真に「独立要件説」を否定するものではなく、「独立要件説」を否定しているように見せかけているだけの、ある種の欺瞞行為(高貴なる嘘?)ではないかという気がしている。

もっともこれは前田先生に限ったことではなく、「二次的考慮説」を支持する論者のかなりの割合が、こうした修正主義的な考え方を採っている可能性もある。

ちなみに私は進歩性の判断において「効果」をどのように位置づけているかといえば、Sotoku 10号の「10.」節に書いた通りで、「容易」の判断の一環として効果を織り込もうとしている点では「二次的考慮説」と同じではあるけれど、「動機付け」の判断として効果を織り込もうとする前田先生のような考え方を採るのではなく、「高い効果を持つ“当たり”を引き当てることの困難性」として効果を織り込もうというもの。 したがって、「効果」による判断は「動機付け」による判断を否定できるものではないので、十分な「動機付け」がある場合は、「効果」が高くても進歩性は否定されるというのが私の立場だ。

もし前田先生が、「それほどの効果を奏する発明の構成を現に採用することは容易とは言えない」から進歩性は肯定されるのだとでも説明したのなら、私は同意することができたかも知れない。 しかしそれは、たとえ宝くじを買うことは誰にでもできるほど容易であるとしても、10億円の当たりくじを現に買うことは容易とは言えないというのと似たような意味で「容易とは言えない」からだ。 これは「動機付け」とは関係のない問題だ。 前田論文が書いていることは、 適当に買った10枚のLOTOくじの一つで10億円が当たった場合に、「10億円が当たったという結果が、予測できる範囲を超えていた場合には、10億円が当たるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、その当たりくじの番号の組み合わせを採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。」だとか、「10億円が当たったという結果が予測される範囲を超えていることは、結局、その当たりくじの番号の組み合わせを採用して10億円が当たるという結果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その当たりくじの番号の組み合わせを実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。」などと大真面目に論じているようなおかしさがある。 外れた9枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けと、当たった1枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けに、差などないのに。

このように、「予想外の効果」は「動機付け」の問題ではないのだ。 それを「動機付け」の問題として処理しようとしているところに、前田論文の違和感がある。

*   *   *

上で書いたことと少し関連するが、前田論文で気になった点をもう一つ指摘したい。

「発明の効果」によって進歩性が認められる場合があることについてはとりあえずよしとして、その効果は「優れている」必要はあるのだろうか?、それとも「優れている」必要はないのだろうか。

この問題について今回の前田論文は、「本稿の見解」という項目のところで以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 42ページ]
進歩性の判断において考慮される効果とは・・・、その効果が有利かどうかではなく、予測可能かどうかが問題となる。

つまり前田先生は、進歩性を認めるための効果は「予測可能かどうか」が重要なのであって、「優れている」必要はないという立場のようだ。 しかしそう言われるとすぐに“ツッコミ”を入れたくなってしまうのだが、予想外に「悪かった」としても進歩性を認めるのだろうか。 例えば、既存の医薬化合物をほんのちょっとだけ改変した。 すると予想外なことに活性が1/10になってしまった。 あるいは、予想外なことに細胞毒性が有意に上がってしまった。 そういう場合でも進歩性を認めるのだろうか?

まぁ、「優れているか否かは関係がない」、「予測可能かどうかが問題」等と論じたくなる気持ちは分かる。 何をもって「優れている」とみなすのかは必ずしも明確ではないし、主観的な要素が入り込む余地がある。 したがって、進歩性の判断基準をできるだけ客観的、かつ明確にするためには、「優れている」か否かというような観点は排すべきだ、と考えたくなるだろう。 しかし、「予測可能かどうか(のみ)が問題」だと考えてしまっては、上記のようなどうでもいい「改悪発明」の進歩性が否定できなくなるという不都合が生じるから、それを回避するような何らかの価値判断は必要なのだと思う。

前田先生は、米国や欧州における進歩性(非自明性)の判断においても、以下のように述べて、優れているか否かは関係がないと論じている。

[同 40ページ](米国について)
考慮されるのは効果が予期できないかどうかであり、効果がすぐれているかどうかは直接関係ない 42)。

[同 41ページ](欧州について)
効果は「優れている」必要はなく、あくまで予測できたかが問題となる 50)。

しかし、例えば脚注42に引用されているとおり、米国審査基準716.02(a) には、「Greater than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているのであって、「Greater or lesser than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているわけではないのだから、前田先生が言うように「予期できないかどうか」だけが問題とされているわけではなく、「greater」と言えるような効果が認められるのかは問題とされていると言うべきだろう。 実際、日米欧のいずれの特許審査においても、構成が容易だから進歩性や非自明性がないと指摘されている発明について、「予想外に効果が低かった」ことを立証したところで拒絶が解消するとは思えない。

もちろん私も、効果が「上昇」していなくても進歩性は認められうるとは思っている。 それについてはSotoku 10号の脚注36にも書いたが、ある既知の化合物を改変する場合において、「置換基を少しでも変えれば活性が完全に喪失する可能性が極めて高いというのが技術常識である場合は、活性があるというだけでも進歩性を肯定し得るだろう」。 したがって、別に活性が「上昇」していることが必須だというわけではない。 また場合によっては、活性や機能が予想外に「低かった」場合でも進歩性が認められることもあるだろう。 例えば、接着剤を開発していて、予想外に接着力の低いものができてしまった。 しかしそういう接着剤は、何回も貼ったり剥がしたりできる付箋用の糊として有用だから、進歩性を認めるべきだという考え方はあり得る。 しかしそれは、出願人なり特許権者なりがそういう主張(すなわち、「接着力は劣っていても、それが“当たり”なんです」という主張)を行って、特許庁の審査官・審判官や裁判所の裁判官を説得できて初めて進歩性が認められるものであって、「予想外に劣ったものができました」というだけで自動的に進歩性が認められるものではないだろうし、そうあるべきものでもないと思う。 つまり、効果が「優れている」必要はないにせよ、単に「予期できない」というだけでは足らず、「当たり」だとみなせるようなものであることが必要なのであり、出願人はそれについて主張する責任があるということだ。

なお、効果が「高い」場合も実は同じで、効果が「高い」方向に予想外だというだけで自動的に進歩性が認められるというよりは、効果が高い場合は「当たり」であることが推認でき、「当たり」であることを出願人が特段主張しなくても進歩性が認められるから、「当たり」か否かという問題は表に出て来ないだけだろうと思う。

そして、とくに多数の選択肢の中から一つを選んで行った発明の場合に、その発明を「当たり」だとみなすか否かということや、そもそも何を「当たり」とみなすのかということ(例えば、薬効と副作用を併せ持つ既知の医薬化合物を改変したら、予想外なことに、副作用はそのままで、薬効だけが消失するという、ある意味で面白い化合物が得られたとして、その化合物は「当たり」と言えるのか)は、Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり「総合的な判断」が必要なわけで、そこにはある種の価値観のようなものが入ってこざるを得ないのではないか。 すなわち進歩性判断における「効果」は、そうした価値判断を通して検討されるものなのであって、「予測可能か否か」だけが問題になっているわけではないということだ。

*     *     *

以上、前田先生の論文をとおして、進歩性判断における「発明の効果」の意義について考えてみた。

私は、「当たり」か否かはさほど厳格に判断する必要はなく、「当たり」だというある程度の理由がつけば、それを認めてあげていいとは思っている(後は動機付けの問題)。 しかし、特許権というものが第三者の自由を長期間にわたって制限しうるものである以上、それが許される程度には「当たり」とみせること、言い換えれば、それすら主張できないような発明は、たとえ結果(効果)の詳細が事前に予測できたものではないとしても、単なる「でたらめ」または「寄せ集め」によって生じる必然的な結果に過ぎないとして進歩性を否定することは、つまらない特許の乱立を防ぐ意味でも望まれることなんじゃないかな。

進歩性における「効果」の意義については、田村先生のWLJ判例コラム 153号の感想を書くときに再び考えたい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする