2019年05月30日

「発明の効果」の意義について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(3)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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(5)「独立要件説」批判との整合性

4月24日の投稿でも話題にしたが、「独立要件説」とは、容易な発明であっても「顕著な効果」があれば進歩性を認める(すなわち、「顕著な効果」がなければ進歩性なしと判断するのに、「顕著な効果」があることをもって進歩性ありと判断する)という考え方だ。 この考え方を採るかぎり、「顕著な効果」があれば、発明の構成が容易か否かとは無関係に進歩性は認められることになるから、「顕著な効果」は進歩性を認めるための独立した要件(具体的には、発明の構成が容易か否かとは無関係に、「顕著な効果」だけで進歩性を認める要件)となる。

今回の田村評論の脚注41にも記載されているとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、「独立要件説」に対立する説として知られる「二次的考慮説」を採っている。

ところで前回の投稿で話題にした「ゾンビ説」は、選択発明には基本的に新規性も進歩性もないと考えているのに、「顕著な効果」があることをもって新規性も進歩性もあると考えるのだから、「独立要件説」と類似している。「ゾンビ説」において「顕著な効果」は、選択発明の新規性を認めるための要件としても、進歩性を認めるための要件としても、「独立要件」として作用しているように見える。

したがって、もし田村先生が「ゾンビ説」を支持するのだとすれば、田村先生が「独立要件説」に反対していることと矛盾するのではないかという疑問が生じることになる。

田村先生もこの点は考えているのだろう。今回の評論において田村先生は、「選択発明の場合には、別異の取扱いとなる。」(脚注41)と述べ、以下のように解説する。

[田村評論の 7)より]
 選択発明について、刊行物に記載された先行発明の抽象的な範囲に含まれることに変わりはないにも関わらず、顕著な効果の有無によって新規性、進歩性の判断が分かれるとされているのは何故なのであろうか。この問いに対する解答は、産業の発達のために発明とその公開にインセンティヴを与える特許法の目的に鑑みることにより、自ずから明らかとなる。つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる

上の引用から示唆されることは、仮に選択発明には一般に「新規性」も「進歩性」も「ない」と考えるとして、「顕著な効果」があった場合に田村先生が「ある」と考えるのは「新規性」だけで、「進歩性」はあくまで「特定が当業者にとって容易でなかった」ことが必要だと考えていることだ。 すなわち、「顕著な効果」を「独立要件」と考えるのは「新規性」だけであって、進歩性はあくまで「二次的考慮説」にしたがって判断するのだから、これまでの田村説と矛盾はないというのが田村先生の立場のようだ。

つまり田村先生の考え方によると、(先行発明が成立している)選択発明には基本的に「新規性」がないが、「顕著な効果」があった場合は「新規性」はあると考え直し、さらに、その発明を特定することが当業者にとって容易でなかったという場合には「進歩性」もあると考えるということになる。

しかしここで疑問が生まれる。 田村先生は、「顕著な効果」が発見されるまでは「新規性がない」と考えていた選択発明の中に、「当業者にとって特定が容易でない」発明が含まれ得るという立場なのだろうか? つまり「当業者にとって特定が容易でない」発明なのに、(「顕著な効果」が発見されるまでは)その発明を「新規性がない」と考えるのか? なぜ「当業者にとって特定が容易でない」のに「新規性がない」と言えるのか?

田村先生は、上のような考え方はインセンティブ論から「自ずから明らかとなる」と論じている。 しかしインセンティブ論から「ゾンビ説」そのものを導き出すことはできないのではないか。 例えば「ゾンビ説」を採らず、実施できることが明らかであるように(実施例などを伴って)明細書中に記載されていない選択発明は基本的に「新規性」はあると考え、そのような選択発明の中でも、選択する動機付けがなく、かつ、それなりの効果もあるものだけが「進歩性」があると考えても、選択発明に特許を付与するか否かという最終結論において「ゾンビ説」とほとんど同じ結果をもたらすことはできる。 そういう考え方と「ゾンビ説」のどちらが正しいのかまでをインセンティブ論で判断することはできないはずだ。

但し、もし特許を付与するか否かという最終結論において違いが生じないのなら、こうした考え方の違いをあまりしつこく問題にしても不毛かな、とは思っている。 だから Sotoku 10号の脚注41でも「対立させることに不毛感がある」と書いた。


(6)田村先生が採用する「二次的考慮説」は、「独立要件説」と実質的な違いはあるのか?

上述のとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、それとは対立する説である「二次的考慮説」を採っているが、「二次的考慮説」について田村先生は、「パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016」の中で以下のように解説している。

[田村善之, パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016 の4ページ]
 2  顕著な効果をなぜ斟酌するのか: 二次的考慮説
 他方,29 条2 項の条文に忠実に考えるとしても,特許発明が従来技術に比して顕著な効果を有していることが直接, 進歩性を基礎づけることにはならないのだが,しかし従来技術に比して顕著な効果があるにも関わらず, 発明がなされていなかったということが,進歩性を肯定する方向に斟酌すべき一事情となることまでが否定されるものではない。 進歩性の判断の際に顕著な効果が斟酌される理由を,ここに(のみ)求める見解を,「二次的考慮説」と呼ぶことにしよう。

もし「二次的考慮説」というものが、「たとえ顕著な効果があっても、容易なもの(一定の動機付けがあるもの)には進歩性はないのだ」と考えて進歩性を否定する説であるのなら私も賛成できる。 しかし、いろいろな人が書いている論文を読むと、そこがどうもはっきりしない。「独立要件説」と「二次的考慮説」は事実上差がないようなことを論じたりする人もいる。 例えば4月24日の投稿で取り上げたとおり、神戸大の前田健先生の最近の論文(L&T No.82, 2018, 33-43ページ)でも、「独立要件説」と「二次的考慮説」との対立について、「・・・実際上の結論の違いをもたらさない」(37ページ左)とか、「・・・、この対立はあくまで理念的なもの」(39ページ右)などと論じられている。 しかしそう論じる前田先生の「二次的考慮説」がどういう説なのかといえば、4月24日の投稿で説明したように、効果を確かめるまでは「動機付けがあった」とみなすものを、顕著な効果があったら「動機付けがなかった」と思うことにしてしまう修正主義的な考え方なのだ。 前田先生のように考えれば「二次的考慮説」と「独立要件説」の結論に差がなくなるのは当然だろうが、もし「二次的考慮説」がそういう説なのだとしたら、そんな「二次的考慮説」を唱えること自体、「無意味かつ誤解を生む源である」と評価しなければならないのではないか? 清水節先生や玉井克哉先生(2018年6月22日の投稿参照)のように、はっきりと「独立要件説」の考え方を打ち出す方が、よほど分かりやすいし、議論もしやすい。

このように、「二次的考慮説」を唱える人はどうも分かりにくいのだ。 そこで、私は「二次的考慮説」とは距離をとるために、Sotoku 10号では「二次的考慮説」という言葉はあえて使わず、発明の効果は「一次的考慮要素」なのだと書いた(28ページ)。

パテント69巻5号(別冊15号)を読む限り、田村先生は、この2つの説は実質的な差がある(すなわち、田村先生の「二次的考慮説」においては、たとえ顕著な効果があっても一定の動機付けがあるものには進歩性はないのだと考える)と思われるので、少なくともその当時の田村先生の考え方は応援したいのだけれど、今回の田村評論では、その点が一歩後退して前田先生と同じような考え方になってしまったようにも見え、かなり不安になってくる。

例えば上でも引用したが、今回の田村評論では以下のように論じられている。

[田村評論の 7)より]
つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。そしてこの進歩性の判断においても、顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化するので、進歩性を肯定する方向に斟酌される

上記のように田村先生は、「顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と論じている。 しかし、「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」というのなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということになり、事実上、「独立要件説」と変わらないことになってしまう。 上にも引用したとおり田村先生は、「顕著な効果」で肯定されるのは「新規性」だけで、進歩性については、「その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。」とは言っているものの、田村先生は「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」とも言っているのだから、顕著な効果があること自体が「容易でなかった」ということを自動的に肯定することになり、事実上は「独立要件説」で進歩性を判断するのと変わりがなくなるのではないか?

田村先生は以下のようにも論じている。

[田村評論の 脚注47より]
ちなみに、筆者の立場はこれまでの論述から明らかなように、先行発明が成立している場合には後行発明が新規性を喪失しないためには少なくとも顕著な効果が必要であり、さらに進歩性を否定されないためには後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであることも必要である(顕著な効果は、この進歩性判断の際の二次的考慮要素としても参酌されうる)。

上の引用中では、進歩性を認めるためには「後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであること」も要件である旨が論じられているが、もし「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」のであれば、その要件は事実上、ないのと同じということになりかねないのではないか? 田村先生には、私が田村先生に抱くこのような不安をぜひ払しょくしてほしい。 つまり、「顕著な効果」というものが、進歩性の判断においてどのような役割を果たすのかについて、今一度明確に論じてほしいと思う。

ちなみに、私の考え方は Sotoku 10号や4月24日の投稿で説明したように、「顕著な効果」は、「でたらめに選んだだけの(あるいは単なる寄せ集めに過ぎない)ありきたりのものという推定を否定するための証拠」だと捉えるというものだ。 つまり、何千何万の潜在的な選択肢の中から特定の一つを選ぶというのは、確率的には何千分の一、何万分の一であるから、効果を考えるまでもなく、「その構成を選ぶ動機付けはなかった」と言えるのかも知れない。 しかし、何千何万の選択肢の中から一つを選ぶという発想や行為自体は容易なのだから、単に「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」という推定を否定できない限りは進歩性を認めるべきではない。 そして、「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」ということを否定するための客観的・外形的な尺度として、その発明の効果が『「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」とは思えないほど高い』のか否かが測られるというわけ。

したがって私の考えでは、「顕著な効果」というのは、「その構成を選ぶ動機付けがない」ことを推認させる事情ではなく、「単なるでたらめ/寄せ集めのありきたりではない」ことを推認させる事情ということになる。 したがって、いくら「予想外の顕著な効果」があろうとも、それ自体は「動機付けがない」ことを推認させる事情とはならず、たとえ「顕著な効果」があっても一定の「動機付け」があったのなら進歩性は否定されるというのが私の考え方だ。

この考え方はすっきりしているのではないか? 田村先生や前田先生のように、「顕著な効果があることが容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と考えてしまっては、「顕著な効果」自体が進歩性を肯定する十分条件となってしまい、「独立要件説」との違いが分かりにくくなってしまうが、私のように「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎないと考えれば、強い 動機付けがあった場合は進歩性を否定することができる。

また私は、「動機付けがない」ことは進歩性に求められる重要な要件であるの対し、「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎず、4月24日の投稿の最後でも書いたとおり、それほどシビアに判断する必要はないとも感じている。 なぜなら、たとえ「顕著な効果」がないものを特許にしても、その発明を行う「動機付けがない」のであれば、第三者が容易に思いつくものに特許を付与することにはならないからだ。 また、進歩性を認めるために必要な「顕著な効果」のレベルについても、「単なるでたらめでのありきたりはない」と推認できれば足りるのだから、それほど高い効果を常に求める必要はなく、また場合によっては、出願後に判明した効果や商業的成功などを参酌することも容認できると考えている。

Sotoku 10号の「9.」節で私が例に挙げた「くだらない発明」(改変タンパク質や改変化合物)に関して、たとえ特許になっても私は「構わない」(24ページ、26ページ)と言ったのはそういうことであり、たとえ特許になっても、その発明に「動機付けがない」ことに変わりはないから第三者への害は少ないだろうという意味だ。 そしてSotoku 10号の脚注35で「後出しデータ」や「医薬品としての成功」を参酌してもよいことを示唆したのは、発明の「効果」というものは、それほどシビアに判断すべき要件ではないと思っているからだ。

「動機付け」がなくても「効果」がなければ進歩性を否定し、「効果」があっても「動機付け」があれば進歩性を否定する私の考え方は、進歩性のハードルを上げ過ぎているのではないかと思われるかも知れないけれど、そうでもない。 例えば今回の事件では、副引例に選択肢が「2000万個以上」記載されている場合だったが、たとえ引例に選択肢が「数十個」程度(あるいは十個程度)しか記載されていなくても、それらの選択肢について実施例がなく、実施できることが「明らか」だと言えなければ「新規性」は否定されないし(審査基準 第III部第2章第3節3.1.1(1)(b))、顕著な効果があれば「進歩性」も肯定され得るかも知れないと考えている。 「2000万」という数字をそこまで下げ得るのはなぜかというと、Sotoku 10号の「7.」節にも書いた通り、その引例は「所与の前提ではない」と思うからだ。 つまり、たとえその引例には「数十個」しか選択肢が記載されていないとしても、「その引例に着目すること自体が容易であったのか」を加味しうるからだ。 したがって、文献の選択の容易性までも加味しながら総合的に考えて、その発明に到達する動機付けはなかったといえる状況であるのなら、たとえそれがある先行文献中に膨大とは言えない数の選択肢の一つとして明記されているとしても、進歩性は肯定しうると考えている。

なお、上記で『引例に選択肢が数十個程度しか記載されていなくても「新規性」は否定されない』と書いたが、仮にその引例が特許で、その数十個を概念的に包含するようなクレームで特許が成立している場合は、引例の特許権の効力はその数十個にも及ぶことになるだろう。 先願の明細書に選択肢が(実施例ではなく仮想的にではあるものの)記載されており、その特許権の効力もその選択肢に及ぶのに、依然としてその選択肢の「新規性」は失われていないという私の考え方はおかしいと感じる人もいるかも知れないが、そんなことはない。 Sotoku 8号『実施可能ではない態様を包含する発明に特許を付与してもよい事情』の「10.」節で書いたことと同じで、“実施可能性がない態様” (実施できることが明らかとは言えないのだから、少なくともその実施態様については新規性も失われていないと考えうるだろう;上記審査基準)を包含する発明に特許が付与されることは普通にあるからだ。 「ゾンビ説」を支持している人たちは、先行特許発明の技術的範囲に包含される選択発明はすべからく「実施できることが明らか」で、すべからく新規性がないと思っているのかも知れないが、そうした考えは誤りだと思う。 単に、先行特許発明の技術的思想(その先行特許発明の本質的部分)を利用する関係にあるというだけのこともあるのだ。 (ただしSotoku 8号で書いた私の考え方は、「クレームはその全範囲(full scope)において実施可能でなければならない」という建て前を持つ各国特許庁の記載要件の考え方とは相いれないようにもみえるので、なかなかこうした考え方が広く一般に受け入れられるのは難しいかも知れないが。)

ということで、私がSotoku 10号で説明した「顕著な効果」の考え方は、進歩性判断における「効果」の意義を明確化しようとするもので、これまでの「二次的考慮説」では必ずしもはっきりしなかった「独立要件説」との違いも打ち出すことができる。 つまり、「二次的考慮説」では「効果」を「動機付けがないこと」を推認させる事情だとみなしているのに対し、私の考えでは、「効果」は「単なるでたらめ/寄せ集めによってできたありきたりではないこと」を推認させる事情であって、「動機付けがないこと」を推認させる事情ではないから、基本的には動機付けの判断に影響を与えない。

この考え方でうまく行くかどうか、今後も考えていきたい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする