2020年01月14日

田村善之二元論 ― 生き物としての解釈論(『田村善之 知的財産法学の課題 −旅の途中− 知的財産法政策学研究 Vol.51 (2018) 1-46』『田村善之 知財の理論 有斐閣 2019 第4章』)


今回取り上げる田村善之先生の講演録『知的財産法学の課題 −旅の途中−』は、もう1年以上前の2018年に北大の『知的財産法政策学研究 第51号』に掲載されたもので、私は北大のホームページで公開されたものを読んで、当時、感想文を書いてみたのだった。 しかし、公開しないうちにすっかり時間が経ってしまい、今さら『旅の途中』の感想文でもあるまいという感じになってしまったので、書いたものは公開せずにそのままになっていた。

しかしこの度、田村先生が『知財の理論』(有斐閣)を出版され、その最終章で『旅の途中』が掲載されることになったので、お蔵入りとなっていた私の感想文も、今回、めでたく公開する口実ができることとなった。

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『知財の理論』については、既に複数の方が書評を公開されている。

特許法の八衢(田中汞介)
2020-01-05
田村善之『知財の理論』に対する雑感

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2020-01-05
我々はこの山をどこまで登ることができるのだろう?〜田村善之『知財の理論』との格闘の途中にて。

『旅の途中』については企業法務戦士(FJneo1994)先生がすでに昨年の初めに取り上げられている。

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2019-01-01
「立法」の議論に参加する上で常に自覚しておきたいこと。

これらの格調高い書評に比べると、下に書いた私の感想文はなんと大柄で、自己陶酔的なことだろうか(笑)。 しかしまあ、これはしょせん日記だし、日記というのは多かれ少なかれそういうものだろうから、ほぼ当時書いたままを公開することにした。

逆に、田中汞介先生やFJneo1994先生は、田村先生の言っていることすべてに同意しているのか、また、感じたままを本当に書けているのか、ということが少し気になったりしている。

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唐突だが、私は昔から、田村先生は隠れ(?)「正義論者」のような気がしている。 田村先生といえば「インセンティブ論」であって、インセンティブ論といえば、「・・・産業の発展など、効率性を追求することが大きな、・・・一つの目的となる・・・」(22ページ/467ページ)(ページ数は前者が『知的財産法政策学研究 第51号』、後者が『知財の理論』のもの;以下同様)はずだから、正義論とは対極であるようにも見えるが、なぜそう思うのか?

その理由は、Sotoku 6号の脚注111にも書いた通り、田村先生は「インセンティブ論」に基づいて具体的に特許制度をどのように構築するかを考えるときに、「フリー・ライドの禁止」を実現するような制度構築を目指すべきだと説くからだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)。 今回の講演録でも田村先生は次のように説いている。

[40ページ/483-484ページ]
特許法全体を通有すると目される特許制度の趣旨、すなわち発明に係る技術的思想に対するフリー・ライドを禁止する権利を発明者に与えることにより、発明に対するインセンティヴを付与しようという特許法の目的に求め、技術的思想が利用されている限りにおいて保護を及ぼすべきであるという結論を導くことになります。

つまり、「発明に対するインセンティヴを付与する」という、客観的に検証することが困難な目標を、「フリー・ライドを禁止する」という手段により達成できるものだと捉えることにより、インセンティブ論に基づく特許制度の作り方に具体性を与えているわけだ。

しかし、「フリー・ライドを禁止する」(ただ乗りの禁止)という考えは、「インセンティブ論」から論理的に導かれるものなのだろうか? 例えば発明に対するインセンティブを付与するには、発明に報奨を与えたり、補助金を出したりすることもあり得るような気がするのに、なぜ「ただ乗りの禁止」という事項(だけ?)がプライマリに導かれるのだろうか? むしろ私の感覚では、「ただ乗りはいけない」というのは、「道徳論」や「正義論」から自然に導かれるものであるように感じるのだが。

なお、私は田村先生のことを責めているのでもなければ、批判しているのでもない。 むしろ先生が論じていることに正義論的な要素を感じることに好感を持っている。

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私は特許制度というものを、もっと自然発生的に考えている。 窃盗を禁止する法制度が社会において自然に生まれてくるのと同様に、知的創作を尊重し保護しようという発想は、ある程度技術や文化が発達してきた社会であれば自然に生まれ、制度や慣習として定着していくものなのではないかという気がしている。 私の立場は、いうなれば、進化論、生態系論、あるいは生物学的制度観とでも言おうか。

例えば、生物は何のために生きているのか? 生き物は、別に何のために生きているのでもない。 「目的」があって生きているわけではない。 「生きる」という特性があるから生きているのだ。 長い目で見て、生き物というのは強い者が生き残るのではない。 生態系の中で存続するという特性を持っている生き物が存続するのだ。 強すぎて生態系を乱す生き物は、持続性が乏しく、ライフスタイルが変わらない限りいずれ絶滅する。 特許制度も同じで、「目的」があるから制度が存続するのではない。 制度の「目的」が重要なのではなく、「存続する」という特性を持っていることが重要なのだ。 存続するという特性を持っている制度であればこそ存続し、定着していくのだろうと思う。

私は特許制度をそういうものだと捉えているから、「産業の発達」という目的が達せられるか否かなど、割とどうでもよいのだ。 逆に、「政策レバー」(Policy levers)などという言葉を聞くと少し違和感を感じてしまう。 レバーを動かすように特許制度を政策的に操縦して「目標」に近づこうという発想自体、おこがましい気がしてしまう。 特許制度が、どのように、どれほど産業の発達に寄与しているかも具体的に検証できていないときに、何のレバーをどう動かせばどのように動くというのだろうか?、などと思ってしまう。 もちろん、特許制度が発明を奨励し、産業の発達に寄与すればいいなと私も思うし、それに反する結果を現に生じてしまうような制度は作れないとは思うけれど、「産業の発達」というのはレバーを操縦してでも到達すべき必達目標というよりは、いわばお題目のようなものであって、制度が存続するために大事なのは制度にサステナビリティがあり、(私を含めて)多くの人が支持することだと思う。そして制度はもちろん、(私を含めて)多くの人が支持している社会的正義やフェアネス、衡平の理念、あるいは自由を求める心に反するものにはできないだろう。

そういう私が、特許権はどのような範囲に及ぶようにすれば、社会の中で安定性があり、(私を含めて)多くの人が支持するかと問われれば、「フリー・ライドをしているとみなせる範囲」に及ぶようにすることだろうね、と答えるだろう(Sotoku 6号の脚注111)。 そうすることが「産業の発達」を最大化すると思うからそう答えるのではない。 「産業の発達」という制度の「目的」からそういう考えが出てくるのではく、もっと自然に、フリー・ライドを禁止することが納得性があると思うからそうするのだ。 すると奇遇なのだけれど、田村先生がおっしゃっている「フリー・ライドを禁止する」ということと一致するではないか(笑)。 いや・・・、私は奇遇だとは思っていない。 (私を含めて)多くの人が「そう設定することがよい」と感じるであろうように、おそらくは田村先生も心の中でそう感じているのではないかな、と思っている。

[23ページ/467ページ]
ちなみに、「インセンティヴ論」という名称からよく誤解されることがありますが、私も、知的財産法の目的に自然権なり基本権なりが関わっていると考えており、とりわけ人の自由の確保が肝要であると思っています

今回の田村先生の講演録では、上に引用したところが、特許制度に自然権なり基本権なりの考え方を取り込むことの重要性に関して、田村先生がもっとも「自分のこと」として語っているところかなと思う。

*   *   *

ところが、講演録全体は必ずしもそうはなっていないのだ。

[7ページ/453ページ]
・・・公衆をどう納得させるかということがここでの問いです。

[7ページ/453ページ]
・・・、公衆をしてそのような規制を納得させる説得的な論拠を示さないと公衆の納得心が得られないということを意味しています。

[8ページ/453ページ]
自然権論による正当化の必要性

[9ページ/454ページ]
・・・、人々の納得心を得るための自然権論的な正当化根拠が必要なことはたしかなように思います

[9ページ/454ページ]
・・・、人々を納得させるためには自然権的な説明が必要となり、・・・

[27ページ/471ページ]
・・・人々の得心を得るため自然権論的な感覚に訴える必要がある、・・・

[33ページ/477ページ]
・・・、現実の政策形成過程でも人々の共感に訴えるレトリックが用いられている・・・

「公衆をして」とか「人々を納得させる」という言い方は、どこか「下々のために」と言っているようで、「自分は本当はそうは思ってないけどね」というニュアンスを感じさせる。 特許法の目的はあくまで「産業の発達」であって、「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」はいわば「メタファ」であって、「産業の発達」という目的を達成するためにレトリックとして利用すべきものに過ぎないと言っているように感じる。

私は逆で、「知的創作に対するみんなの気持ち」を制度化することが特許法の本質であって、「産業の発達」という法目的こそ、いわばレトリックのようなもののような気がしている。

ちなみに私も、「自然“”」なるものは単なるフィクションだとは思っている。 例えば基本的人権というのも単なる「決めごと」であって、人は生まれながらにそのような権利を持っているわけではない。 社会が「そのように扱おう」を決めているだけだ。 だから、私がどこか日本の外の別世界の地を歩いていて、突然捕えられて投獄されたり奴隷にされたりしたとしても、「私には基本的人権という権利がある!」などと叫んだりはしない。 「基本的人権」など、そういう決めごとがある社会でのみ通用することに過ぎないからだ。 そういう意味では、今回の講演録において田村先生が、知的財産権はしょせんは「人工的な行為規制でしかないと思います」(16ページ/461ページ)と論じ、「権」という言葉が持つ(水戸黄門の印籠のような)絶対不可侵的なイメージを批判的に論じていることは共感できる。

また、「知的“財産”」や「知的創作“”」という「物のイメージ」を前提として制度を構築したり運用したりすることに潜む嘘や危険性を田村先生が説いているのも共感できる。 実際のところ、今回の講演録で先生が「メタファ」として利用すればよいと説いているのは、「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」であって、「知的創作に対する人々のこころ」をメタファとして利用すればよいと思っているわけではないのかも知れない。 しかし今回の講演録ではそこはかならずしも明らかではない。 特許制度において「知的創作に対する人々のこころ」はどのように位置づけられるのか、「産業の発達」に向かって公衆を誘導するために利用すべき単なる“エサ”なのか、それとももっと本質的なところで制度に関わっているものなのかについて明らかにしてほしいと思う。

そしてもし後者、すなわち社会生活の中で自然にうまれる「知的創作に対する人々のこころ」が制度に本質的にかかわっていると思うのであれば、そういう心に沿って制度を構築して運用すれば人心はつかめるのだから、それを超えて「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」をことさら利用して公衆を誘導する必要はないはずだとも思う。 つまり、「知的“財産”」や「知的創作“物”」というレトリックの効用をことさら取り上げて論じていること自体、「知的創作に対する人々のこころ」の本質を軽視しているのではないかという疑いを抱かせるのだ。

しかしまあ、これが「インセンティブ論者」あるいは「政策学論者」たる先生の折り合いの付け方なのかも知れないと思ったりもする。 だって『知的創作に対する人々の心こそが知的財産制度の本質なのだ』などと言えば、それはあまりにも違う人になってしまうかも知れないから。

ともかく、私は「知的創作」に対して人々が抱いている「創作に対する尊重の気持ちや利用の欲求」を、社会の中でなるべくおさまりがよいように交通整理のように整理することが特許制度の根本的な存在理由だと思うから、具体的な制度構築にあたって「産業の発達」を考える必要性をあまり感じないのだ。 「産業の発達」は、立法化にあたって掲げるお題目のようなもので、実際の制度構築は、創作に対する人々の気持ちを、社会的正義や衡平の理念を考えながら形にすることであらかた決まってしまう。 上市するまでに時間とお金がかかる医薬品特許はなぜ追加的な保護が必要なのか、多重延長と薬事制度を利用して独占期間を事実上延長することがなぜ不当なのか、PBPクレームは物のクレームなのだから同じ物であれば権利行使できるのは当前と考えることはなぜ不当なのか、均等論はなぜ必要なのか、先使用権はなぜ必要なのか、そういった問題は、ことさら「産業の発達」を考えるまでもなく結論は出てくるはずで、そういった問題を論じるにあたって、実証もできないのに、いちいち「そうすることが産業の発達に寄与するから」「文化の発展に寄与するから」などという理屈を付ける「目的手段思考様式」(12ページ/457ページ)こそフィクションでありレトリックなのではないかと思う。

なお進化論的に考えるのなら、人間には「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」をそもそも持っているという言い方はいかにも正義や道徳を振りかざしているようで語弊があるかも知れない。 別に「これが正義だ」というつもりはないのだ。 他人が行った創作を利用することにはメリットがあり、自分が行った創作を独占することにもメリットがある。 進化論的には、そうしたせめぎ合いの中で「存続する特性」の高い思考形式が次第に広まっていくわけだ。 自分が行った創作を完全に独占する考え方では、他人の創作を利用できないから適応力に乏しく、長い目で見て存続するのが難しい。 逆に独占しなさ過ぎても、自分で創作することの意義が薄れ、他人任せになってしまう。 知的創作をほどよい塩梅で尊重する考え方が採られた場合に、適応力も上がり存続特性も高くなるから、そうした考え方が長い目で見れば広まって、人々の心の中に定着していったのではないか。 したがって、そうした考えに沿って制度を作ることで、結果的には存続特性の高い制度を作ることができるのだろうと思う。

*   *   *

今回の田村先生の講演録でとりわけ印象的だったのが、ドゥウォーキンの『法の帝国』で論じられている「インテグリティとしての法」(law as integrity)という法解釈の考え方について田村先生が話したくだりだ(36-38ページ/479-482ページ)。

[36-37ページ/480ページ]
そこでは、法の解釈が、・・・、芸術作品でいえばその「創造的解釈」になぞらえられています。芸術の創造的解釈とは、作者の目的を探究するものではなく、作品の目的の解釈であって、その作品が芸術として最も優れたものになるように構成的に解釈するものであるというのです。たとえば、シェイクスピアの戯曲を演出する際・・・、シェイクスピアがその実際の心理において戯曲に込めた意図を忠実に再現することを目的とするのではなく、戯曲のテクストを前提としつつ、もしかしたらシェイクスピア自身ですら明確には抱いたことがないかもしれない大きな芸術的な企図を現代の観衆を前に表現する最善の手段を見付けることである、というのです。

解釈の方法論といっても、「条文」の解釈から「制度趣旨」の解釈までいろいろなレベルがあるだろうし、立法的解決ができる状況なのか否かによっても変わってくるだろう。 『法の帝国』においてドゥウォーキンが例に挙げて論じているのは、法律が想定していない難しい問題が生じた事件(ドゥウォーキンのいう「ハード・ケース」)について「裁判官」が判断する場合だ。 そのような状況では、そもそも立法的解決はできないから解釈で解決を目指すしかない。 また裁判である以上、過去の判例に反するような判断を裁判官が行うのは憚られるという制約もある。 これらの状況を前提として解釈の方法論を考えるのであれば、妥当な解決を行うためには、多少無理な解釈ではあっても法律の条文との整合性(インテグリティ)を確保しなければならないし、また過去の判例と抵触してはならないという意味での整合性(インテグリティ)も兼ね備えたものでなければならない。 また裁判官が判決として使うことができる理屈でなければならない以上、「法はそうなっている(からそう判決する)」という建て前をとる必要があるのは当たり前で、「法はそうあるべきだ(からそう判決する)」などとは口が裂けても言えないという事情もあるだろう。 だからドゥウォーキンが説く方法論も、基本的にはそのようなものになっているのだと思う。 しかし、そのような状況を前提に置いて考える解釈の方法論は、一般的理論というよりも、「裁判官のための方法論」という性格が強くなる。 具体的な事件で裁判官がどのように判決をすればよいのかを考えるのならともかく、そうでないのなら、そのような状況に過度にとらわれる必要はなく、もっと自由に考えてよいのだと思う。 「この条文はおかしいのではないか。」と皆が薄々感じている状況ならなおさらだ。

「立法論」と「解釈論」の違いを意識しないで論じれば「条文」に拘らないで論じることになるから、どうしても「立法論」の立場に傾くことになるのかも知れない。 しかし、そもそも「立法論」の立場で論じる場合と「解釈論」の立場で論じる場合とで言っていることに違いが生じるのだとすれば、それは条項の制約があるからその違いが生じるということなのであろうから、「解釈論」の立場で論じている内容は、(その論者にとっては)「妥協の産物」ということになるのだと思う。 そして、裁判の場でもないのに自由に論じることをせず、条項を所与の前提として「解釈論」のみを論じることは空虚だ。 したがって、まずは自由に考え、条文解釈としてもその論が成り立つのであればそれでよいし、条項の制約があるのなら、妥協の産物としての「解釈論」を考えるというのがあるべき順番だろうと思う。

戯曲に限らず音楽でも、譜面に忠実に演奏するのか、そうでないのかは論争になることがあると思うが、芸術であれ法解釈論であれ、自分が最善と思うものを表現しないことなどあり得ないことを考えれば、それを表現する以外に道はない。 したがって、迷うことなどないのだ。 もっとも、勝手に音を変えて違う曲になってしまえば、「この曲は違う」と聴く人に思われるだけで、共感を得るのは難しくなる。 逆に論文を読んだ多くの人が、そこで論じられていることは妥当だと共感してくれるのであれば、問題解決に向けた道すじは見えてくる。 とりあえずはそれで十分であって、条文解釈で乗り切るか、法改正まで解決を先送りするかは、次の段階で考えればよい問題のようにも思う。

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ところで、今回の講演録で田村先生は以下のように論じている。

[38ページ/482ページ]
・・・。「インテグリティとしての法」というアプローチに基づけば、単なる立法論と解釈論を分けるものは、条文の文言そのものではなく、法の構造から導出された法の趣旨に従った解釈であるか否かということになるからです。

[38ページ/481ページ]
・・・、インテグリティという発想の下では、起草者の言っていることは絶対視されません。・・・。・・・、私も重視しませんし、ときには他の条文や制度の趣旨とのインテグリティを保つために、条文の文言にすら反する解釈を採用しますので、よく田村は少数説だと言われるわけです。

田村先生のこうした自由な発想は先生の大きな魅力の一つだ。 私もそうありたいと思うが、突拍子のないものになってしまいがちなのか、2017年3月23日に投稿した「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたように、私の考えと田村先生との考えには違いが生じることもある。 おそらくその原因は、私が法学における解釈の方法論というものが分かっていないのに対し、田村先生はより正当な法学としての方法論に基づいているからなのかも知れない。 私はもともと自然科学指向で法学が分かっていないから、法学に関してはしろうとの自由さがある。 自然科学がそうであるように、確かなものや変わらないもの以外は前提とする必要はないし、確かではないものや変わりうるものとのインテグリティを保つ必要もないと思っている。 法律の構造や条文、過去の判決・判例、権威が書いていることなどは、すべて限られた人間が限られた時間を使って生み出したものに過ぎない。 「りんごが木から落ちる」という不変の物理現象や、長い間変わることなく生態系の中で存続し続けてきた生き物の構造や行動パターンなどは、そこに「不変の何か」があるはずだとみなして、それを探究してみることには意義があると思う。 しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。 それを前提にして物事を考えるというのは、砂上かも知れないところに楼閣を建てるようなものだ。 せっかく時間をかけて物事を考えるのなら、「誤っているかも知れないこと」を前提にしないほうがいい。 そうすると、条文や判例などを前提とすることはできず、より変わることのないもの、すなわち「制度趣旨」や、「変わることのない人々の思い」(=緩い意味での社会的正義やフェアネス、衡平の理念)を前提として考えることが、揺らぐことのない結論を導くためには必要になるのだと思う。 そのように出された結論は、判例や条文を前提にしておらず、また有力説なども尊重しないものであるから、裁判所や多くの論者には受けが悪いかも知れない。 しかし「変わることのない人々の思い」に支持されることになるはずだと思う。

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創造的解釈」と言われて私がすぐに想起したのは「夢解釈」だ。 河合隼雄(京大教授)がまだ存命で活躍していたころ、私はその考え方に興味があり、本を読んだりしたことがあった。 夢の内容というのは、一見すると荒唐無稽だ。 行ったこともない場所を歩いていたり、やったこともないことをやっていたりする。 そして夢解釈は、その人が置かれた状況や問題を考えつつその夢を解釈する。 ほとんどの場合、夢は「メタファ」として表出される。 車を運転していて、ハンドルを回そうと思っても重くて回らないという夢や、ブレーキを踏んでいるのにどんどん加速してしまうという夢は、いずれもメタファだ。 そして夢解釈は、そうしたメタファに意味を見出して行く。 そして、そのメタファをもっとも意義深くなるように解釈したとき、その解釈はその人に強い印象を与える。 その人だけでなく、解釈を行っているセラピストや、その解説本を読んでいる読者(私)にさえ強い印象を与える。 そうした夢解釈は、「創造的解釈」の要素を多分に持っている。 もちろん、夢解釈は芸術とはまったく違う。 夢を報告するクライアントは、セラピストの創作芸術を聞きに来ているわけではない。 あくまで、その人が抱える問題解決の過程で行われるものであって、その解釈がその人の問題解決と絡み合って行くのだ。

私は、知的財産法の制度論も、似たところがあると思う。 人の思いはメタファに溢れている。 「その思想はあなたの“もの”だ。」と我々が感じるとき、それはひとつのメタファだろう。 そして知的財産法の在り方を考える者がやるべきことは、そのメタファを創造的・構成的に解釈することだ。 メタファの背後にあるものを考えつつ、しかもメタファに囚われることなく、制度論という形に創り上げていくのだ。

このように、知的創作に関して人々が表出するメタファは、それをして得心せしむるために利用すべきものというよりは、知的財産法のあるべき姿を考えるための鍵を内包している貴重なヒントとでも言うべきものであり、知的財産法の根本を支えるものとさえ言えるものだと思う。 少なくとも、そう考えることが、人々が表出するメタファをもっとも意義深いものにする「創造的解釈」なのだと思う。

そしてある法制度が「人々の思い」に支えられて存続しているとき、その法制度は、もはや人々の思いと独立に存在しているのではない。 つまりその法制度の「趣旨」や「目的」さえ、人々から表出されるメタファの根源(いわば法が見る夢)とのインテグリティをもって「解釈」されるものとなるのだと思う。

それは長い時を経て生き続ける「生き物」の「存在理由」や「目的」が、「解釈」としてしか論じられないとの同じなのである。

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ということで、田村先生もぜひ、自身の中から湧き上がるメタファを形にする制度論を論じてくれたらいいなと思う。

功利主義を批判するドゥウォーキンを取り上げた上で、数十年にわたって「インテグリティとしての法という方法論に従って」(37ページ/481ページ)格闘してきたと語る田村先生の言葉は、田村先生が単なる「インセンティブ論者」ではなかったことをはっきりと物語るものだろう。 そしてその後で出された論文(パテント2019 Vol.72, No.9)で先生は、知的財産権はインセンティブ論だけでなく自然権論をも組み合わせた「二元論」により正当化されるのだと明言し、その参照としてこの講演録を引用している。 「二元論」という言葉は、昨年11月に行われた日本弁理士会の公開フォーラムでも先生の口から語られていた。

こうした展開を見ると、この講演録は、人間のより根本的なところに知的財産権の正当化根拠を求めようとする田村先生の立場を明らかにした一つの「道標」といえるだろう。 しかし田村先生の語る「二元論」は、知的財産権の根本にだけ存在しているのだろうか? むしろそれは、田村先生の心の中に、「インセンティブ論」だけでなく「正義論(自然権論)」が存在していたことを示唆しているのであり、それを期待するのだ。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする