2020年10月28日

二次的考慮説終焉の次に期待するもの(宮崎賢司『二次的考慮説は終焉を迎えるか』知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67)


もうだいぶ前になってしまったが、特許庁の宮崎先生が「二次的考慮説は終焉を迎えるか」という論文を出された(知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67, 2020)。

二次的考慮説に対しては、私は複雑な気持ちがある。 二次的考慮説とは、発明の容易性は、あくまで発明の「構成」の容易性で判断すべきであり、発明の「効果」は、発明の「構成」の容易性を考える際に二次的に考慮されるに過ぎないという考え方だ。 しかし二次的考慮説においても、顕著な効果がある場合は進歩性は肯定されうると考えるので、その場合は、効果を考慮しなければ発明の「構成」は容易に見えるとしても、効果が顕著な場合は「構成は容易ではない」と判断することになる。 しかし、「構成が容易」なものは、効果が顕著だろうが「構成は容易」なのであって、二次的考慮説の考え方は論理的に破たんしている。 そういう意味では、私は二次的考慮説に批判的だし、二次的考慮説など終焉を迎えればいいと思っている。 しかし私は独立要件説にも批判的だから、独立要件説にも終焉を迎えてもらいたいと思っている。 だから、独立要件説を批判してくれる二次的考慮説論者を応援したいという気持ちもあるのだ。

今回の宮崎先生の論文は、『二次的考慮説は終焉を迎えるか』という表題のとおり、二次的考慮説に終焉を迎えさせようとするものだ。 二次的考慮説と独立要件説とに分かれて対立する学説に関して、「長年続いたこの議論に終止符を打つことを目指したい。」(56ページ)と論じられている。 二次的考慮説に批判的な私にとって、それは歓迎すべきものということができる一方で、今回の宮崎論文は、独立要件説を、少なくと明示的には批判してくれていない。 むしろ宮崎先生は2018年論文(tokugikon no.289, 157-170, 2018)において、自説(技術的思想の創作説)を「独立要件説の一種」だと言っている(165頁左欄)。 だから私は宮崎論文に対しても、ちょっと複雑な気持ちなのだ。

*   *   *

宮崎論文は、効果が顕著な場合は「構成は容易ではない」と判断する二次的考慮説を「後知恵」だとして批判する。 「後知恵」は、普通は進歩性を否定するために使われるものだが、効果が顕著であることをもって「構成は容易ではない」と判断する二次的考慮説も一種の「後知恵」だというのだ(図2の右上の吹き出し)。 つまり「後知恵」は、進歩性を肯定する場面でも、進歩性を否定する場面でも入り込む余地があるのであり、宮崎論文はこれを「後知恵の双方向性」と呼び、こうした後知恵を批判している(〜60ページ)。

[宮崎賢司, 知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67 の図2](赤い矢印を追加)
Miyazaki_ChizaiP_2020-v18n213_fig2.png

そして宮崎論文は、「・・・、あたかも一般論として、構成の容易性の検討段階に本件発明の課題又は効果の知見を導入することは、上述してきたように許容されない後知恵であって大きな誤りである。」(脚注21)と論じて二次的考慮説を批判する。

分かる気はする。

しかし疑問もある。

宮崎論文の上のような説明からすれば、出願前に容易に発明できたか否か(特許法29条2項)を判断するにあたって、発明した後で分かった「効果」を考慮することはそもそも「後知恵」なのであり、効果など考慮する必要はないという結論になってもよい気がする。 しかし宮崎論文はそうはならず、次のように論じる。

[宮崎賢司, 知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67 の 61ページ]
では、発明の課題や効果の予測困難性は、進歩性判断において何ら加味されない要素なのかというと、そうではなく、これらの根拠は、(一般的な判断手法としては、構成の容易性判断の次に行う段階において)その予測困難性の程度等に応じて考慮される、いわば「二次的な考慮要素」と位置付けるのが妥当である。

つまり宮崎論文は、「二次的考慮説」を否定しながら、発明の効果は「二次的な考慮要素」と位置付けるのが妥当だと論じるのだ。 この辺が、分かりづらいところなのかな、という気がする。

そして効果をどう判断するのかについて今回の宮崎論文では、「総合考慮」という言葉が頻出するのだが(脚注7、61頁11行、脚注23、24、64頁2行、66頁下から4行、脚注42、67頁5行、7行)、これを読めばどうしたって「総合考慮って具体的に何?」という気分になってくる。 すると宮崎論文は、それを察したかのように、「では、ここでいう総合考慮という最終的判断手法とはどのようなものなのかが気になるところであるが、」とあるので「キタ━(゚∀゚)━!!」と思いながら読むと次のように書いてある。

[同上 67ページ]
では、ここでいう総合考慮という最終的判断手法とはどのようなものなのかが気になるところであるが、本稿の「2.」の終わりにも、「4.」の終わりにも、繰り返し述べたとおりである。

ん?っと思いながら「2.」と「4.」の終わりを見ると以下のように書いてある。

[同上 「2.」の終わり;61ページ]
 ・・・構成が一応容易である場合は、その容易性の程度や技術的意味合いと、この二次的な考慮要素である課題又は効果の予測困難性の技術的意義やその程度等に応じて、それでもなお、進歩性を認めるにふさわしい発明か否かを、事案に応じて総合的に考慮し、判断すべきと考えられる。

[同上 「4.」の終わり;64ページ]
・・・、構成の容易性の程度や技術的意味合いと、課題又は効果の予測困難性の技術的意義やその程度等を総合的に考慮して、進歩性を認めるにふさわしい発明か否かが判断される・・・。

しかしこれだと、「総合考慮って何?」という疑問が、「進歩性を認めるにふさわしい発明って何?」という疑問に置き替わるだけなのだけど・・・。

まあ私も、効果の判断については「意味付け」などと言っているので、他人のことは言えないかも知れないが。。(2月13日の投稿など)

*   *   *

ところで大事なのは、宮崎先生の説く「技術的思想の創作説」と、私の考え方との間で、何に進歩性を認め、何に進歩性を認めないかという最終判断に違いが生じるかという点だ。 具体的には、例えば「シュープレス用ベルト事件」(平成24(行ケ)10004)がそうであるかも知れないように、発明されるのも間近だったと評されるような発明に顕著な効果が見出された場合に、進歩性を認めるのか否かという点だ。 2018年論文(tokugikon no.289, 157-170, 2018)において宮崎先生は「独立要件説」を支持できる根拠について、「・・・,構成の容易想到性がいえても,予測困難な効果を奏する発明をし,世に公表した者への見返り(褒美,報奨等)と考えれば理解しやすいように思われる。」(165頁)と論じており、宮崎先生自身が説く「技術的思想の創作説」も、基本的にはそうした考え方に根拠のようなものを見出しているのだろうと思う。「褒美・報奨」という考え方からすれば、発明されるのも間近だったと評されるような発明であっても、顕著な効果を見出していち早く出願した者には「褒美・報奨」として特許権を付与するという考え方も正当化しうるかも知れない。

それに対して私は、進歩性判断の根拠はあくまで「フリーライドの防止」(および、でたらめ・ありきたりと評される発明の排除)であって、仮に第三者が将来、特許発明と同じ発明を実施していた場合に、それが特許発明にフリーライドしているとはみなせないようなものについてはそもそも特許を与えることはできないと考えるから、その発明が特許出願人により公開されなくても、誰かに発明されるのも間近だったと評されるような発明については、たとえ顕著な効果があろうが特許は付与できないと判断することになる。

そうすると、宮崎先生の「技術的思想の創作説」と私の考え方とでは、何に進歩性を認め、何に進歩性を認めないかという点で違いが生じ得ることになるが、これについて今回の宮崎論文は次のように論じている。 つまり、神戸大前田先生が2019年論文(L&T 82, 2019-1, 33-44)の37ページ右において、「・・・、すぐれた成果に対する報償という説明は、特許法の目的は『発明の奨励』(特許法1条)であり創作のインセンティブ付与であるという説明や進歩性とは技術的にすぐれていることをいうものではないという説明と不整合である、・・・との批判が可能である。」と論じ、「褒美・報奨」を進歩性肯定の根拠とすることを批判していることについて、次のように論じている。

[同上 脚注28]
・・・、「成果に対する報償」という説明と「創作のインセンティブ付与」という説明は不整合なことはないし、両立もし得るように思われる。 確かに(研究開発等の競争が激しい、特許出願が活発で)近々世に出るであろうという発明であって、インセンティブ付与の必要性に乏しい場面は想定し得る。 そういう状況では、1つの出願における上記「成果」が相対的に小さいかもしれないので、その場合はそれに見合う報酬も小さくなるか又は0となるのだと考えて無理はないと思われる。

つまり宮崎先生は、近々世に出るであろう発明については「報酬も小さくなるか又は0となるのだと考えて無理はない」、すなわち、そういう場合は効果が高くても進歩性を否定しうる旨を論じているのだ。 宮崎先生がこれをはっきり書いたことは重要で、特許庁の岡田先生の最新論文(特許研究)がこれについて触れていないのとは対照的だ(7月7日の投稿を参照)。

そうすると宮崎先生については、どういう場合に進歩性を認めるのかという最終結論において、先生と私との間に決定的な違いは生じないのかも知れない。

また宮崎先生は論文の最後で「山下説」(山下和明「審決(決定)取消事由」竹田稔ほか『特許審決取消訴訟の実務と法理』, 発明協会, 2003)を紹介した上で、これを「言い得て妙」と評している(67頁)。 7月7日の投稿でも取り上げたとおり、「山下説」は、効果に基づいて進歩性を肯定するためには、「効果の顕著性・予測困難性」のみならず「発見の困難性」も必要である旨を説いている点で、そもそも一般に理解されている「独立要件説」とは一線を画している。 宮崎先生がどこまでそれを意識しているのかは分からないが、上記のとおり、宮崎先生自身、近々世に出るであろう発明については効果が高くても進歩性を否定しうる旨を論じていることからすれば、宮崎説も、山下説と同様に「独立要件説」とは一線を画していると言えるのではないか。

だとすれば、説明の仕方の違いはともかく、少なくとも、何に進歩性を認めるのかという最終結論については、私は宮崎説を支持することができるのかも知れない。

*   *   *

しかし、「近々世に出るであろうという発明は、効果が顕著でも進歩性を否定する」という、宮崎論文が脚注28で説く考え方は、二次的考慮説を終焉させることで実現できるものではない。 むしろ、「効果が顕著なら進歩性を肯定する」という単純な「独立要件説」こそ、こうした場合に進歩性を否定することを阻むからだ。 したがって、私が宮崎先生に期待したいのは、そうした単純な「独立要件説」をも終焉させてくれることだ。

「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」事件で最高裁は、進歩性を否定した原審に対し、予測を超える顕著を再審理させるために事件を知財高裁に差し戻す判決を行った(平成30年(行ヒ)69)。これは解釈次第では、「予測を超える顕著な効果があれば進歩性あり」という単純な「独立要件説」を支持したかのように見える。 しかし大寄調査官解説はそうした単純な図式で最判を解説することをせず、総合考慮がさらに必要であるとする考え方にも言及しつつ、そうした総合考慮の下では、顕著な効果があっても必ずしも進歩性が肯定されるとは限らないと説いた(L&T 87, 110ページ脚注9)(6月17日の投稿参照)。 ところがその差戻審(令和1(行ケ)10118)で知財高裁は、「・・・,発明の構成に至る動機付けがある場合であっても,優先日当時,当該発明の効果が,当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである場合には,当該発明は,当業者が容易に発明をすることができたとは認められないから,・・・」と説示し、総合考慮の必要性についてなんら示唆することなく、予測を超える顕著な効果があることのみをもって進歩性を肯定した(6月19日の投稿参照)。

こうした現状を考えれば、今求められているのは、「二次的考慮説」を終焉させることよりも、「独立要件説」の暴走を防ぐことだろうと思う。

宮崎先生には、ぜひその点でもALERTを発する必要がないかをウォッチしていてほしい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする