2020年11月12日

延長期間に算入すべき「実施できなかった期間」とはなにか(医薬品特許延長問題 清水紀子先生論説 知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)


医薬品の特許延長問題に関する清水紀子先生の論文(知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)。 87ページ! 読んだのはずいぶん前だけれど、遅まきながらやっと感想を書いてみようと思う。

とにかく、「延長期間」の問題について詳細に考察され、あるべき制度について大胆に意見が述べられているのがとても参考になる。 パシーフカプセル事件の最判(平成21(行ヒ)326)とアバスチン事件の最判(平成26年(行ヒ)356)により延長の許否問題は解決し、残された問題は延長された特許権の効力範囲だけだと理解している人もいるかも知れないが、そんなことはない。 パシーフカプセル事件とアバスチン事件の最判によって医薬品の承認ごとに特許を細切れに延長することが可能となったことにより、延長された特許権の効力範囲を調節するだけでは延長制度の妥当性を確保することは困難となり、「延長期間」の問題を再び考える必要性が生じていると思う(Sotoku 5号の34ページ右の最終段落)。

但し今回の清水論文には大きな不満がある。 市場競合をほとんど考慮していないように見えることだ。 先行医薬品と後行医薬品が市場で競合する場合があること、時には、切り替わってしまうこと(すなわち、後行医薬品の販売後は、先行医薬品は事実上販売できなくなってしまうこと)があるのに、そういう場合でも今回の清水論文が論じるような制度が妥当性を維持できるのかについて、ほとんど考察されていないように思う。 これは、「そんなことは考慮する必要はない」ということなのか、それとも「とりあえずこの論文では考慮しなかっただけで、これから考える」ということなのか、どちらなのだろうか? 私が(おそらく神戸大の前田先生も)後行医薬品による延長に慎重なのは、それを安易に認めてしまうと、先行医薬品と後行医薬品との間で市場競合性がある場合に不都合な結果が生じると思っているからだ。 だから、今回の論文のように清水先生が後行医薬品の延長を肯定したいのなら、先行医薬品と後行医薬品が市場で競合する場合についてもっと詳細に考えて論じる必要があるように思う。

以下、詳しくみていこう。

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1.「二重の保護になっていない」ならいいのか

例えば今回の清水論文では、先行医薬品によりすでに延長されている特許を、後行医薬品において再び延長することに関し、「範囲及び期間のいずれも二重の保護になっていない」(189ページ10行)と論じて肯定する。 しかしその一方で、先行試験が長くて、後行試験が短い場合に、先行医薬品の延長満了より前に後行医薬品のジェネリック販売が可能となってしまうことについて「不都合」だと論じている(191ページ2行)。 しかしこれは矛盾(あるいは二枚舌)ではないか。 範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)のだから延長しても問題はないというのなら、先行医薬品の延長満了より前に後行医薬品のジェネリックが出るとしても、医薬品が実質的に違うのだから問題はないと言わなければ筋が通らない。(もちろん、そんな筋は通して欲しくないが。)

逆に言えば、たとえ範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)としても、先行医薬品と市場競合性のある後行医薬品のジェネリックが先行医薬品の延長満了より前に販売可能となるような事態は不都合だと考えるのなら、延長の可否判断においても、先行医薬品と市場競合性のある後行医薬品は、たとえ範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)としても、安易に長い延長を認めるわけにはいかないと考えなければならないだろう。

Sotoku 7号 の図13と図14の違いをよく考えて欲しい。

[Sotoku 7号の図13](医薬品承認に時間がかかることにより特許権者が被る不利益)
Sotoku07-fig13_.png

[Sotoku 7号の図14](延長制度により特許権者が得る利益)
Sotoku07-fig14_.png

先行医薬品を独占実施しながら、市場競合性のある後行医薬品で特許をより長い期間延長することにより、たとえ延長範囲は重なっていなくても、特許権者は、延長制度がなかったときに被る不利益をはるかにしのぐ利益を得ることができうるのであり、その事態を「範囲は重なっていないのだからいいのだ」と言って見て見ぬふりをするのでは、医薬品メーカーとしては、むしろそうした過剰利益を得ることが目標となってしまうだろう。

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2.先行医薬品と後行医薬品の「実施できなかった期間」を足し合わせることは妥当か

清水論文では、特許権者が後行医薬品の承認を受けた場合、その延長期間は、先行医薬品の試験期間と、後行医薬品の試験期間を足し合わせたものであるかのような図を掲載している(図16)(但し先行試験の全期間を算入できるかは別問題とのこと;図16参照)。

[清水論文の図16]
2020shimizu_fig16.png

その理由について清水論文は、以下のように説明している。

[清水論文の脚注181](強調を追加した;以下同様)
 これについては、「開発費用の回収容易化及びインセンティヴ維持」という制度趣旨 (パシーフ事件の判旨、上記6−1.参照) から、正当化できると考えている。
 というのも、新薬を最初に開発した企業 (ファースト・ランナー) は、医薬品の成功・失敗の両方の可能性に投資をしている。結果的に成功した医薬品のみが販売されるため、この事実は忘れられがちであるが、その陰に多くの開発中止医薬品がある。開発当初の段階で最適解は見つかっておらず、開発過程で修正されること (上林・前掲注33) や当初の計画とは異なる方向へ進展すること (たとえば、サリドマイドやシルデナフィルのように、当初計画されていた適応疾患とは大きく異なるもので商品化されている医薬品) も多い。新薬が上市されるまでにはこのように試行錯誤や紆余曲折があるから、企業が安心して投資することを促すためには、変更や失敗のリスクも保護する必要がある。 つまり、試験に用いられた医薬品が必ず上市され、それによって開発費用を回収できるという保証はなく、先行医薬品への投資は、おいおい開発される改良・後行医薬品への投資でもある。そうであれば、先行医薬品の試験は、改良・後行医薬品の試験も兼ねているから、改良・後行医薬品の承認をもとに特許権の延長期間を算定する際は、自社 (若しくは資本関係にある者) の先行医薬品の試験期間を加味するということになる。これによって、仮に額面上や概念上「二重の利益」となる事態が生じるとしても (本稿は上記のとおり生じないとするが)、それは本制度の趣旨から要請される保険であって、先行試験を参照することで後行開発に生じた省略期間は、延長の対象とするに値する期間であると考えられる。

私は、上の説明は延長制度の行き過ぎた拡大解釈だと思う。 「インセンティヴ付与」の名のもとに、失敗や試行錯誤までも保証してあげるのが延長制度の趣旨ではないだろう。 延長制度の趣旨とは、疾患に対して治療効果を発揮し、かつ安全性も実用レベルを達成していると見込まれる医薬品を完成させ、すぐにでも製造・販売する能力と意思がありながら、政府規制や厳重な安全性確認の要請ためそれができずに過ぎ去ってしまった期間を回復させるための制度ではないか。 つまり延長制度とは、あくまで期間侵食を補償するための制度であって、期間侵食が補償された結果として、「出願から20年の独占期間」という特許制度が本来意図している発明に対するインセンティブを回復させるものなのであり、特許制度が本来付与することを意図しているインセンティブを超えたものを医薬品分野だけに与えるための制度ではないと思う。 (その点はひょっとすると「田村 vs. 井関」の争いがあるのかも知れないが。)

しかし、まあそこはいいとして、実は私も、過去には清水論文の図16と似たような考えを持っていたこともあった。 例えば Sotoku 1号 の19ページに載せている図がそうだ(下図)。

[Sotoku 1号の19ページの図]
Sotoku01_p19r2.png

この図は、特許権者の後行医薬品ではなく第三者の後発医薬品(ジェネリック医薬品)を想定したものではあるが、後発医薬品は先行承認に依拠している以上、特許権者が行った先行承認に要した期間は、後発医薬品が「実施できなかった期間」でもあるのだから、後発医薬品に権利行使できるような特許権の延長期間としては、後発承認の期間と先行承認の期間を“足し合わせたもの”が相応しいという考えを示したものだ。 但し、先行承認の全期間を算入するのは長すぎで、算入できるのは先行承認の期間のうち後発医薬品の承認に不可欠な部分に限られるはずであるから、理論上、延長期間は、先行試験の期間から少し差し引いた期間に、後行医薬品の試験期間を足し合わせたものとなり、その期間は、先行医薬品の延長期間よりも長くなりうることが想定されている。 清水論文の図16と同じような考え方だと言えるだろう。

しかし、Sotoku 7号を書くころにまでは、私はこの考え方は妥当ではないと思うようになった。 その第1の理由は、「先行試験と後行試験は、同時に実施することができたではないか」という疑問が生じたからだ。 つまり、同時に実施すれば、どちらか長い方の期間内に両方の試験は完了できるのだから、二つの期間を「足し合わせる」合理性はないことになる。 清水論文の図16の場合、特許権者は実際には別々の時期に試験を行ったのではあるが、それは先行試験のときには、特許権者はまだ後行試験を行おうと思っていなかったから(あるいはその能力がなかったから)に過ぎないわけで、もし特許権者が初めから後行医薬品について実施する意思と能力があったのなら、先行試験の際に後行試験も一緒に行うことは物理的に不可能ではなかったのではないか。 これに関連すると思われることは清水論文の脚注184にも言及されているが、先行試験のときに後行試験を一緒に行わなかったのは、先行試験のときには「後行医薬品を実施する意思および能力」がなかったことを示しているのだと思う。

したがって、そもそも「足し合わせる」ことの合理性はないのだ。 ところが清水論文は、なぜか図18のような考えに進んでしまう。

[清水論文の図18]
2020shimizu_fig18.png

上図のとおり、先行試験と後行試験の期間を足し合わせるだけでなく、先行試験と後行試験の間の期間までも算入してよいというのだ。 まぁ、確かに、上図のように「先行試験の開始時から後行試験の終了時までずっと続いていた」と考えれば、両者を「足し合わせる」ということをしなくてよいから、足し合わせることに対する批判はかわすことができるのかも知れないが、先行試験の期間と後行試験の期間の和でさえ「長すぎる」というのに、その間の期間までも延長期間に加算する図18のような考え方になぜ進んでしまうのだ?

これについて清水論文は、図18の四角の中にも書いてある通り、「実施する意思および能力」がなかったと評される期間は後で差し引くのだからいいのだ、という考え方のようだ(脚注178および181の最終文も参照)。 しかし一方で、「正確な判断をするためにコストをかける必要性は見出せないため、・・・、全期間を必要な期間としたうえで、認定できる範囲で空白期間を差し引く方法が現実的であるように思われる。」とも言う(脚注185)。 しかしこんな考え方では、“なし崩し的” に全期間の延長を特許権者に与えることになってしまうのではないか? 早期にジェネリック医薬品が出ずに薬価が不必要に高止まりすれば、そのコスト負担は保険制度を介して国民にまわされることになる。 それなのに、なぜ「必要性は見出せない」と言えるのか? 先行試験期間と後行試験期間を足し合わせるだけでなく、その間の期間までも加算し、差し引くべき期間が認定できれば差し引くという考え方を提示した上で、差し引くべき期間を認定するために「コストをかける必要性は見出せない」というのは、初めから “なし崩し” を狙っているようにさえ見える。 コストをかけたくないというのなら、先行試験の延長期間で一律にそろえる方が、算定にかかるコストも国民に対するコストもずっと抑えることができるだろう。

以上が、先行試験と後行試験の期間を足し合わせることが妥当ではないと思う「第1の理由」だ。

先行試験と後行試験を足し合わせることが妥当ではないと思う「第2の理由」は、先行医薬品を独占実施しながら、それと市場競合する後行医薬品の試験を行う場合、後行試験の期間は「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」とはそもそもみなせないからだ。

例えば先行承認で2年延長できたとして、その先行医薬品を独占実施しながら、その先行医薬品と切り替えられるような後行医薬品を開発して試験を行う場合、特許権者としては当然、先行延長より長い期間延長を狙うだろう。 それは「懸念がある」などというものではない。 そうすることが、利潤を追求すべき企業としてあるべき姿だからだ。 清水論文は、「一般的には一旦治験まで始めた新規化合物について開発速度を手加減するということは投資回収、市場競争面から見ればありえないことである」とか、「大局的に考えれば、巨大な費用を以って行う新薬開発は企業にとってみれば投資の回収競争であり時間との戦いである」という製薬会社のコメントを掲載している(180ページ)。 こうしたコメントとみると、わざと時間を長引かせるなどというのは杞憂だと思うかもしれないが、こうしたコメントは、先行医薬品を独占実施しているような状況を想定したものではない。 それに、「投資回収」という言葉が使われていることからも分かるとおり、そもそもこれらのコメントで「ありえない」とか「時間との戦い」だと言っているのは、「投資回収」(利潤)を最大化するためだ。 そして先行医薬品を独占実施して利益を得ている場合は、それと切り替えられるような後行医薬品で別途延長を図り、全体としての独占期間をなるべく延ばすことが、投資回収の観点では優先事項となるのは自明だろう。

これに対して清水論文は「濫用の懸念があるから延長を認めないとするのではなく、『実施する意思及び能力』の有無を延長期間に反映させることで解消すべきと考える。」(脚注180)というのだが、一体どうやって「実施する意思及び能力」の有無を判断するのだろうか? それに上述のとおり、「正確な判断をするためにコストをかける必要性は見出せない」とも述べていて、どこまで本気で考えているのかにも疑問がある。 例えば後行医薬品の治験に5年かけたとして、「5年」という数字の妥当性をどうやって判断できるのか? 「3年」の治験でも承認は取れただろうに「5年」かけた場合、その「5年」という期間は、すべて「実施する意思及び能力」があってもなお実施できなかった期間とみなしてよいのか? そうだとすれば、特許権者は試験期間を恣意的にコントロールできてしまうだろう。 それとも、「3年」でもよかったのか厳密に吟味して、2年差し引くことにするか? そんなことをいちいち判断するのは現実的ではないのではないか? つまり、試験期間の全期間にわたって、「実施する意思及び能力」があってもなおどうしても実施することができなかった状態であったと言えるのかを検証することなど、そもそも困難だと思う。

ではどうすればよいのかというと、そういうことをいちいち判断しなくても、試験期間が「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなしても許容できるように制度を設計すればよい。 先行医薬品を独占実施しているような状況で、市場競合する後行医薬品の承認試験を受ける場合は、時間をかけることでかえって特許権者の利益になりうることは上述した。 そのような状況では、特許権者は必要以上に時間をかけることにインセンティブが生じるから、試験期間を「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなすことはできないのだ。 それに対して、特許権者が市場競合性のある医薬品を独占実施していない状態で行われる先行医薬品の試験であれば、試験期間を長引かせようというインセンティブは生じないから、特許権者はなるべく無駄を省いて短期間で承認を受けようと最大の努力をするだろう。 また、たとえ最大の努力をせずに承認までの時間が長引いたとしても、それにより特許権者は「販売できない」という不利益を受けるから、たとえその分だけ延長期間が長くなっても、特許権者が最大の努力をして最短の試験期間で医薬品の承認を受けた場合と比較して過剰な利益を受けることにはなりにくい。 したがって、そのような状況下で受けた試験期間を「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなし、それをもとに延長期間を決めることによって、制度の妥当性も確保できるだろう。 私は、「後行医薬品は延長を認めるべきではない」と言っているのではない。 市場競合性のある後行医薬品については、先行医薬品の延長期間の終期に揃える方がよいのではないですか、と言っているのだ。 それにより、後行試験が短い場合でも特許権者は安心して開発ができるだろう。

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3.薬事規制の変更で承認された場合は規制が変更される前の期間も延長すべきなのか

先行試験と後行試験の間の期間までを含めた全期間について延長することを肯定できる場合として清水論文は、先行試験と後行試験との間で薬事規制が変更された場合を挙げている。

[清水論文の図21左]
2020shimizu_fig21L.png

これは清水論文の図21の左側に掲載されている図だが、清水論文の139〜140ページの「ケースB−1」(図8)に対応する図のようだ。 具体的にどういう状況なのかが分かりにくいが、「・・・ケースB−1糖尿病の場合、糖尿病薬を開発するに当たってはそもそも単剤としても糖尿病治療に有効であることが前提で、当然単剤の有効性試験も行われている。それに加えて、臨床上の併用処方を見越した各種併用試験が行われたのであり、・・・」(200ページ)、「平成22年のガイドライン策定後、代表的な糖尿病薬との各種併用が臨床試験により確認されれば、『糖尿病』を効能効果として申請できることになった」(139ページ)と記載され、図8では後行試験として「イとの併用」の試験が行われていることからして、先行試験は「単剤試験」と「アとの併用試験」を行い、併用については「ア」との併用に限らず広く承認されることを期待したが、そのときは併用については「アのとの併用」しか認められず、その後、規制が変わって「イとの併用試験」さえ追加で行えば任意の併用が認められることになったため、後行試験で「イとの併用試験」を行って、任意の併用が可能となったということだろうか(下図)。

[清水論文の図21左(赤字はこちらで追加)]
2020shimizu_fig21Ln1.png

そして清水論文は、この場合は先行試験の開始日(但し特許登録の方が遅い場合は特許登録日)から後行医薬品の承認日までの期間をすべて延長期間としてよいのだという(200〜201ページ)。

確かに気持ちとしては分かる。 先行医薬品と後行医薬品との間に市場競合性がない場合は、後行医薬品を実施できなければ特許権者はそれについて利益を上げることができず、時間だけが過ぎ去ってしまうからだ。 だから、承認されたあかつきには、特許権者が被った不利益を回復させてあげようということなのだろう。 しかし、実際に制度にするとなるとどうなのだろうか・・・。 先行試験の開始時点では、限られた併用試験のみでは広く併用を承認することは有効性や安全性の点で問題があると薬事当局(厚労省)は考えていたとして、それは薬事当局が悪いのか? 有効性や安全性の点で本当に疑問はまったくなかったのか? 先行承認の後で、薬事当局の規制が変わったとして、それは薬事当局の気が変わったというだけなのか? 世界中で臨床データは日々蓄積されている。 つまり状況は刻一刻と変化している。 薬事当局の規制が変わったとして、変わった原因にはそうした「知見の蓄積による状況の変化」による部分もあったのではないか? 規制変更をすべて薬事当局の内部事情のせいにするのも疑問だし、仮にそれを判断するとして、どうやって正確に判断できるのかにも疑問がある。

それに、「アとの併用試験」だけでは併用を広く承認するわけにはいかないということは、先行試験の前の段階で薬事当局と相談すれば分かったことだろう。 それなのに、先行承認の際に特許権者が強引(?)に任意の併用を主張したり申請したりするというのも眉をひそめたくなる行為にも見える。 清水論文のように、初回承認の際に広く申請したという事実さえ残しておけば、たとえ初回承認では狭い効能でしか承認されなくても、後々規制が変わったときにそれまでの全期間が延長できるというのなら、特許権者としてはなんとしても広い効能で申請することに強いインセンティブが働いてしまい、薬事当局による指揮に支障をきたすのではないか。

「特定の試験をクリアすれば直ぐにでも承認できる状態」と、「特定の試験をクリアしようが、有効性や安全性の点で問題があるため承認できない状態」とは異なる。 前者は、本来なら実施できるはずの「承認済み医薬品」という発明に対する特許権の侵食期間と言えるとしても、後者は、いまだそういう権利の侵食が発生していない期間と言えるのではないか。 両者を区別せずに、「厚生労働省の事情は権利者がコントロールできない」(201ページ)ことを以ってすべての期間の延長を認めるのは、理論的にも正しくないような気がするのだが、どうだろうか。

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4.市場が競合する場合(図21右)

先行試験と後行試験の間の期間までを含めた全期間について延長することを肯定できる場合として清水論文は、上記の例だけでなく、次のような場合も挙げている。

[清水論文の図21右]
2020shimizu_fig21R.png

これは清水論文の図21の右側に掲載されている図で、清水論文の140ページの「ケースB−2」に対応している。 具体的にどういう状態なのかについて清水論文は以下のように説明している。

[清水論文の140-141ページ]
B−2の安全性重視による一部先行承認とは、過去の薬害事件の教訓による厚生労働省の承認への慎重な姿勢であり、学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をしたものの、治験で安全性等の確証が得られず、部分的にしか承認が下りなかった場合である。たとえば、当初計画されていた55効能効果は、学術的同等性を根拠として「1日2回 50mg、あるいは 1日1回 75mgを投与することを特徴とする…用法」であったが、その段階での治験結果からでは、後者の用量について有効性や安全性が担保されないとされ、前者の用量についてのみ承認が下りた(先行処分)のに対し、後の治験で後者の用量についての試験が行われ効果が確認された結果、それも含めて全体について承認が下りた場合である。つまり、のちのち試験を補充することで当初予定し治験届に記載されていた効能効果全体が認められたことになる。

上の説明からして、特許権者は「1日2回 50mg」の臨床データさえあれば、「1日1回 75mg」については臨床試験を行わなくても、「学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をした」が、承認されなかった。 そして後日、後行医薬品(1日1回 75mg)に関する追加的な試験(後行試験a’)を行って実施が可能となった、ということだろう。 私は、「学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をした」という特許権者の勝手な思い込み(?)(あるいは強行?)をなぜ救済しなければならないのかよく分からないのだが、これについて清水論文は次のように説明している。

[清水論文の200-201ページ]
・・・ ケースB−2 一部先行承認も、学術的知見からは承認が見込め、企業は当初からその予定であったことが、治験届からも裏づけられる。にもかかわらず、承認が下りなかったのも、厚生労働省の方針による。もっとも、上述のとおり、実際には治験前に相談が行われることが多く、そこで追加の治験が必要という示唆や助言があったならば、その必要な治験を開始することは企業努力である。そのような場合、厚生労働省の方針と言い切って、一律に企業を救済できることにはならないだろう。とはいえ、基本的には、厚生労働省の事情は権利者がコントロールできないものであり、その負担は権利者に負わせるべきではない。
 したがって、ケースB−1及びケースB−2では基本的に、先行試験は参酌できるものとなり、延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる(図21)。

このように清水論文も、先行試験だけでは後行医薬品を承認することはできないことについて薬事当局から聞いていたのなら「一律に企業を救済できることにはならないだろう」と言いつつも、「とはいえ、基本的には、厚生労働省の事情は権利者がコントロールできないものであり、その負担は権利者に負わせるべきではない。」、「したがって、・・・ ケースB−2では基本的に、先行試験は参酌できるものとなり、延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる(図21)。」という。 しかしこれにはまったく同意できない。 もし特許権者が、先行試験の時点で後行医薬品の実施を本当に望んでいたのなら、後行医薬品に関する治験を一緒に行うことも検討できただろうし、そうしていれば、先行試験の終了とほぼ同時に、後行試験も終了していただろう。 それをしなかったのは、特許権者が本気で後行医薬品を実施しようという「意思または能力」を持っていなかったからではないのか?

しかもこのケースでは、後行医薬品は先行医薬品に取って代われるほどの代替性を有している。 先行医薬品の承認により、特許権者は先行医薬品を独占販売して利益を得られたわけで、たとえその時点では後行医薬品を販売できなくても、後行医薬品を販売できないことによる不利益の多くは、先行医薬品をその分多く販売することにより補われていただろう。 それなのに、それを全く意に介さないかのように後行医薬品に対して長大な延長期間を認めるのがなぜ妥当と言えるのだろうか? 後行医薬品が承認されれば、それに劣る先行医薬品の需要は大きく低下するだろう。 あるいは薬事運用上、先行医薬品は使えなくなってしまうかも知れない。 そうなれば特許権者には好都合だ。 先行医薬品のジェネリックが出てくる懸念がなくなり、後行医薬品の長大な延長期間が満了するまで、特許権者はこの市場を独占することができるからだ。 このように「ケースB−2」は、先行医薬品と後行医薬品の高度な市場競合により不合理な事態が引き起こされうるケースだ。 冒頭で述べた通り、清水論文では先行医薬品と後行医薬品の市場代替性が引き起こす不合理について考察されておらず、「延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる」(201ページ)(つまり後行医薬品に対する長大な延長期間を認めることを肯定)とだけ論じられている。 その点は、この論文で大いに不満に感じるところだ。

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5.「論文発表」が延長の始期になりうるのか

[清水論文 図20右](赤枠を追加した)
2020shimizu_fig20r.png

上の図は清水論文の図20の右側に描かれている図で、モデルケースの「ケースA」(図5B)に対応しており、先行医薬品では対象外であった疾患に対して効能を拡大させた場合を示している。 具体的な状況として清水論文は以下のように説明している。

[清水論文 128ページ]
ケースAの具体例は、疾病αを効能効果とする先行処分に対し、疾病αとは表面上異なる疾病βを効能効果とする後行処分がなされ、疾病αと疾病βに共通する分子機構である「γキナーゼ阻害剤」という特許Aを延長登録しようとする場合である。これは、先行処分の試験として、疾病αの患者を対象とする試験aが行われ、γキナーゼ阻害剤と疾病βの関係性が論文等によって報告されたのち、疾病βの患者を対象とする試験a’ が行われ、申請及び承認されたものである(図5B)。

そして清水論文はこの「ケースA」について、以下のように説明している。

[清水論文 199ページ]
・・・、ケースAは、作用機序(分子機構)と疾病の因果関係が明らかになったことを受けて、その疾病の適応拡大という能力が生じ、後行試験が行われたものである。そこで、後行試験を行う以前に、上記因果関係が論文等により裏づけられれば、後行疾患の試験を実施する能力を推認する方向に働く。このように、論文等の証拠で補填でき「実施する意思及び能力」の生じた日が前倒しされる可能性があることが、ケースAの特徴である。

つまり、上に引用した図のとおり、後行試験開始日から承認日までの期間ではなく、論文公開日から承認日までの期間を延長してよいと説くのだ。

しかし、論文公開から後行試験開始までの間、この特許権者は「実施する意思と能力」がありながらなぜ後行試験を開始しなかったのだ? むしろ、論文公開と同時に後行試験を開始しなかったのは、その時点では「実施する意思と能力」がなかったことを示しているのではないか、という疑問が生じる。

それに、そんなことを言うのなら、先行試験についても同じ問題が持ち上がるだろう。 例えば、以下のような場合はどうか。

[想定ケース1]
2020shimizu_fig20r改01.png

上の図は、先行医薬品(すなわち疾患αに対する治療薬)に関して、先行試験を開始するよりも前に、その実効性を明らかにするような論文(具体的にはγキナーゼ阻害剤と疾病αの関係性を明らかにする論文)を特許権者が公開した場合を示している。 この場合、清水論文の考え方によれば、論文公開時点ですでに「実施する能力及び意思」があったことになりうるのだから、延長の始期は、先行試験の開始日ではなく、論文公開日ということになるのか?

それに、特許明細書にはそもそも実施例が記載されていて、γキナーゼ阻害剤と疾病αの関係性はそこに開示されているわけだ。 そうすると、論文公開などなくても、出願したことをもって、それが大きな製薬会社であれば「実施する能力及び意思」はあったと認めなければならないのではないか?(下図)

[想定ケース2]
2020shimizu_fig20r改02.png

こんなことを言い出したら、治験計画の届出は意味を持たなくなってしまうだろう。 そもそも、「実施する能力及び意思」の有無を判断することは困難であって、それを判断しなくて済むように、治験計画の届出を「実施する能力及び意思」を示すものとみなすことで、現状の制度運用の妥当性や客観性が確保されているのだと思う。 清水論文は、それに挑戦するものと言えるのかも知れない。

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6.製造販売承認を受ける間も排他権は行使しえたのか

清水論文は、以下のように論じている。

[清水論文 177ページ]
・・・、医薬品であっても製造販売承認を受けるまでに第三者が実施することを排除できるため、排他権は製造販売承認申請の存在により侵食されていない。

つまり、薬事承認を受けるために臨床試験を行ったりしている間は、自分(特許権者)が「実施できない」だけであって、もし他者が実施してきた場合は、その間も排他権は行使できたのであるから、排他権は侵食されていないというのだ。

しかし、その理解は間違っている。 製造販売承認を受けようとしている期間は、その医薬品を「実施できなかった」だけでなく、「排他(禁止)することもできなかった」のであり、実施権か、排他権(禁止権)かを問わず、その医薬品に対する特許権のすべての権利期間は侵食されていたと捉えるのが正しい。 これについては Sotoku 1号 で書いて以来、ここでも繰り返し書いていて、最近では2016年09月15日の投稿や、2017年08月18日の投稿(『医薬品の承認を受ける間も特許権の排他的効力は行使しうるのか(井関涼子先生論稿ジュリスト8月号)』などでも書いている。

当たり前ながら、今問題にしているのは「承認済み医薬品」という発明の特許権の侵食についてだ。 同じ組成を持つ医薬品であっても、「未承認の医薬品」という発明に対する排他権は、製造販売承認を受けようとしている間もまったく侵食されないことは認める。 しかし、「未承認の医薬品」という発明の特許権は、実施権の部分も侵食されてはいない。 つまり「未承認の医薬品」という発明の特許権は、製造販売承認を受けようとしている期間、なんら侵食されない。 特許権者であろうが第三者であろうが、その気にさえなれば、薬機法違反になることを覚悟で未承認医薬品を売ることは物理的に不可能ではないし、第三者が未承認医薬品を販売していたら、即座に特許権を行使して侵害に問うこともできる。 それに、特許権者は医薬品の製造販売承認を受けるために、治験において「未承認医薬品」という発明を現に「実施」(製造および使用)できているわけだ。 では「承認済み医薬品」という発明についてはどうか。 特許権者がその承認を受けようとして治験などを行っている間は、確かに「実施することはできない」(つまり承認済み医薬品を製造販売することはできない)が、その「承認済み医薬品」はまだ承認を受けようとしている段階で、いまだ世の中に存在しない以上、他者が「承認済み医薬品」について実施(販売)する可能性はないのであり、他者が実施する可能性がない以上、「他者の実施に対して排他権(禁止権)を行使できる可能性もなかった」。 排他権を行使しえない状況である以上、排他権の期間は侵食されているのである。 「他者が承認済み医薬品を実施したら排他できたのだから、排他権は侵食されていない。」などという考え方は、「実施しえなかった」ことを無視するもので、その前提においてすでに間違っているのだ。

ちなみに、もし他者が、特許権者が行っている治験とは別に、独自に治験を行って承認を受けて実施した場合はどうか。 その場合は、他者が治験を行っている期間、その他者の承認済み医薬品はなんびとも実施しえず、実施しえない以上、排他権を行使することもできなかった。 つまり他者が試験を行っている期間中、「他者のその承認済み医薬品」という発明に対する特許権は、実施権か排他権かを問わず、権利行使しえなかったのであり、その特許権のすべての権利は、やはり侵食されていたと言える。 ちなみに、最近地裁判決があった「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409;令和2年7月22日判決)がこれに該当する(事件については「医薬系特許的判例ブログ」の10月17日の投稿を参照)。

このように、「排他権の期間は侵食されていない」という考えは間違っているのだ。 それなのに、排他権は侵食されていないことを前提に延長制度を説明しようとするから、不自然な説明になってしまう。 井関涼子先生の「専用権説」(日本の延長制度は専用権説に基づいているという考え方;2016年12月19日の投稿参照)もそうであるし、田村先生の「二本柱」説(実施と禁止が特許権の二本柱だと論じて、延長制度を正当化する考え方;2017年10月05日の投稿参照)もそうだ。 そして今回の清水論文の「・・・、本制度は『排他権』と『実施権』に分け、そのうち『実施権』の延長を重視するものである」(清水論文の脚注176)という説明も同様だと思う。

特許権者の特許発明に該当する医薬品を第三者が実施する場合に、特許権者が販売している医薬品と市場競合するすべての医薬品(当然特許発明の技術的範囲内のものに限るし、「競合」といっても程度問題であるから、論者によって温度差はあるのかも知れないが)に延長された特許権の効力を及ぼすことに肯定的な私や田村先生などの考え方に反対する井関先生などは、「排他権」は侵食されていないことを前提に、排他権が侵食されていないにもかかわらず、そのような広大な範囲に延長された特許権の効力を及ぼそうというのは「けしからん」と思っているのかも知れない。 しかし実際には、特許権者が販売している医薬品と市場競合しようが、しまいが、特許発明に該当する医薬品について第三者が製造販売承認のための試験を行ったというだけで「排他権」は侵食されているのであって、たとえ第三者が製造販売しようとしている医薬品が、特許権者が販売している医薬品と競合しない場合でも、その部分について特許権を延長して第三者の実施を阻止することは、延長制度として背理とまでは言えない。 にもかかわらず私は、特許権者が販売している医薬品と市場競合しない部分については、たとえ排他権が侵食されても目をつぶり、市場競合する範囲に限って第三者の実施を阻止すればよいだろうと言っているのだから、「けしからん」どころか、むしろ第三者の実施に対して「寛容」だとほめてほしいところだ。

ちなみに、特許権者の医薬品と市場競合する範囲についてだけ第三者の参入を阻止するというのは、特許権者の「実施権」の部分についてだけ保護するというのと結局は同じようなことであるから、井関先生の「専用権説」(独占的な「実施」を保護することが本質だと捉える考え方)や田村先生の「二本柱説」(二本柱の一つである「実施」を保護するという考え方)は、それなりに的を射たものと考えることはできるかも知れない。 しかし「排他権の期間が侵食されていない」という前提に基づいてそれらの考え方を導き出すのは誤りであって、正しくは、排他権も侵食されているのだが、特許権者の金銭的利益に影響を与えない部分には目をつぶり、特許権者の金銭的利益に影響する部分(すなわち独占的な実施に相当する範囲)についてだけ回復させてあげれば十分だろうという一種のバランス感覚(損得勘定に基づく判断)から導き出されるものなのだと思う。

もっとも、排他権の期間も侵食されると言っているのは、今のところ私一人だけのようだ。 裁判所も、偉い学者も皆、排他権の期間は侵食されないと論じている。 私は、この考え方が学界においていつ訂正されるのかと心待ちにしているのだが、これまで6年間何の変化もないので、あと100年くらいはこのままなのかも知れない(もちろん、私が間違っているという可能性もあるが)。

*   *   *

7.特許権の設定登録日前の期間は回復させる必要はないのか

清水論文は、延長制度が延長の対象とする期間について、以下のように論じている。

[清水論文121ページ]
ところで、この制度は、そもそも特許権の存続期間を延長するものであり、特許が設定登録されていなければならないので、特許設定登録日後の期間が対象となる。

つまり、たとえ医薬品承認のための試験を特許の登録日よりも前に開始していたとしても、登録日より前の期間については延長の対象外だというのだ。 この問題も、 Sotoku 1号の26〜28ページで書いて以来、何度も取り上げており、Sotoku 7号の脚注5でも以下のように書いた。

Sotoku 7号 脚注5]
なお現在の延長制度では、医薬品の製造販売承認の手続(治験)を開始したのが特許登録前である場合、特許登録までの期間は延長できないことになっている。 本稿では説明を省略するが、侵食された期間を回復させるという原則に基づいて理論的に考えても、また、実際に特許権者が受ける不利益を回復させるという視点で考えても、現在のそうした制度は妥当ではなく、承認手続を開始したのがたとえ特許登録前であっても、その期間も含めて延長されるべきである(Sotoku, 通号1号 (2014) の28ページ)。

最近では2017年06月20日の投稿の最後の方でこの話題を取り上げている。

延長に関する特許法の条文(特許法67条4項)は、「・・・、その特許発明の実施をすることができない期間があったときは、5年を限度として、延長登録の出願により延長することができる。」となっており、「特許発明」とは「特許を受けている発明」(特許法2条2項)を言うから、形式的に考えれば、特許になった後の発明の実施だけが延長の対象となっているように見えるかも知れない。 しかし、たとえ特許になる前の発明(すなわち、「特許出願に係る発明」)であっても、それがのちに特許発明となるのであれば、発明としては同一なのだから、この条文に言う「特許発明」にはそういう発明も含まれると解釈することも不可能ではないのではないか。

そもそも、登録前か後かで区別する理由がない。 例えば、出願公開後に治験を始めて、無事、医薬品承認を受けて販売を開始したが、特許審査が長引いて特許存続期間満了の直前にようやく特許になった場合を考えてみればよい。 その場合、もし延長ができないと、この医薬品は、発売とほぼ同時に特許期間が終了してしまうことになる(期間補償制度 (特許法67条2項) は別論)。 医薬品承認の試験を実施している間、その医薬品に係る発明は「特許発明」ではなく「特許出願に係る発明」ということになるのかも知れないが、だからといって延長させなくてよい理由などないだろう。

医薬品承認の試験を行っていたのが「特許登録後」であったのなら、「特許登録後」の権利期間(すなわち特許権の期間)を回復させ、「特許登録前」であったのなら、「特許登録前」の権利期間(すなわち「特許を受ける権利」の権利期間)を回復させるのがまずは原則だろう(下図)。

Sotoku 1号 28ページの図より一部改変]
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制度趣旨に立ち返り、どうあるべきなのかを考えてこその条文解釈なのであり、条文に「特許発明」と書いてあるから(あるいは米国もそうなっているから)登録後の期間だけを延長すればよいなどと考えるのは、いわば思考停止だ。

この問題も、上の「排他権も侵食されている」という問題と同様に、いまだに私と同じことを言う人が一人も現れない。 とはいえ、私が言っていることは、「政令で定める処分を受けるのに必要な試験を開始した日又は特許権の設定登録の日のうちのいずれか遅い方の日」を延長期間算定の始期と定める特許庁の審査基準(第IX部第2章 3.1.3)に反するし、同旨を判示した最判(平成10年(行ヒ)43)にも反する。 したがって、この問題に関して私と同じ側につくということは、審査基準や最判は間違いだという立場に立つことになるのではあるが。

今回の清水論文の脚注180でも紹介されているとおり、私は市場競合する複数の医薬品について何回も延長を行った場合の終期は、初回延長の終期にそろえるのがよいと思っているが、それが妥当ではないと感じるとすれば、その原因の一つは、初回承認は特許登録より前に試験を開始することがあり、その場合に現行の運用では特許登録前の試験期間が延長期間に算入されず、十分な期間を延長できないということがあるのだろう。 確かにこの場合に後行医薬品の延長期間を初回延長期間の終期にそろえてしまうのでは、特許権者は不当な不利益を被ってしまう。

これは現在の延長制度の “不備” というべきものだが、見方を変えれば、この不備があるからこそ、それを補うために、後行医薬品についてさらに延長を行うことでより長い延長期間を確保し、実質的に独占期間を先延ばしすることが製薬会社によって模索され、それが実現されてきたという側面もあるのかも知れない。 したがって、この問題と複数回延長の問題は同時に包括的に解決されることが望まれるのであり、この問題(特許登録日前の期間が算入されないという問題)だけを解決すればよいというものではないかも知れない。

*   *   *

8.試験の実施者・承認申請者・特許権者の「主体関係性」は必要か

清水論文は、延長登録制度においては三つのアクター(主体)が存在すると指摘している。 「試験の実施者」、「処分を受けた者(=承認申請を行う者)」、および「特許権者」の三者だ(153ページ)。 そして清水論文では、延長制度においてこれらの関係性(すなわち、主体の関係性)はどうあるべきかが考察されている(清水論文の152〜157ページ、165〜167ページ)。

[清水論文 図9]
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現行の特許法67条の7第1項2号は、「その特許権者又はその特許権についての専用実施権若しくは通常実施権を有する者が第六十七条第四項の政令で定める処分を受けていないとき。」は延長出願を拒絶すべき旨を規定している。 したがって、少なくとも現行特許法は、「特許権者」(またはライセンシー)と「処分を受けた者」とが一致していることを求めているという意味で、主体の関係性を定めているとは言えるだろう(上図の「2号」と書いてある矢印)。 しかし現在の特許法や審査基準などをいったん棚に上げ、「特許期間の侵食を回復させる」という観点で考えた場合に、主体の関係性は本当に必要なのだろうか? 私はSotoku 1号を書くときにこの問題を考えて、特許期間の侵食を回復させるという観点で考える限り、主体の関係性は不要だという結論に達した。 今回改めて考えて、これについてコメントしてみたい。

例として適当なのかどうか今ひとつ自信がないが、これを説明するためにSotoku 1号では「日本凍結」の話を考えた。 ある日、日本中が一瞬で凍り付いたとする。 道を歩いている人は、その場で凍り付いた。 建物の中にいた人も、その場で凍り付いた。 そして10年間日本は凍り続け、10年後に突然、元に戻ったとする。 つまり、日本中の人が、一瞬で10年が過ぎ去ってしまったのだ。 凍り付く前に特許出願していた場合、20年の特許期間のうち10年が一瞬で過ぎ去ってしまったことになる。 凍り付く前に特許期間満了まで残り10年だった特許は、一瞬で特許がなくなってしまったことになる。 これでは明らかに不都合だが、どうやって救済すればよいか? 答えは簡単で、一律10年間延長することにすればよいだろう。 この場合、特許を延長するにあたって、特許権者やライセンシーが特許発明を実施していたこと、あるいは実施しようとしていたことを求める必要はないと私は思うが、多くの人もそれには同意できるのではないか。

清水論文でも言及されているとおり、特許権とは一定期間許可なく他者に実施させないという特権であって、「特許権を取得した者が実際に実施することまでは求めていない」(177ページ)。 「許可なく他者に実施させないという特権」を行使しうる状況ではなかったのなら、その期間、特許権は侵食されていたのであり、特許権者が実施しようとしていたか否かにかかわらず、その期間を回復させる(すなわち特許期間を延長する)理由はある。

なおこれは、上の「6.」で話題にした「排他権は侵食されていたのか」という問題とも関連する。 誰も実施し得なかった期間(試験期間)中は「排他権は侵食されていない」と考えている人は、特許権者が実施しようとしていない場合は、侵食された権利はないということになり、延長する必要もないという結論になるのかも知れない。 しかし誰も実施しえなかった期間は、上述のとおり排他権を行使することもできなかったのであり、排他権も侵食されていたのである。 したがって、特許権者が実施しようとしていようが、いまいが、誰も実施しえない期間は回復させる理由はあるのだ。 少なくとも理論的には。

医薬品の承認を受ける場合にも類似したことが言える。 承認を受けるための試験を行うのに要する期間は、特許権者がその(承認済み)医薬品を実施しえない期間というだけでなく、他者もその(承認済み)医薬品を実施しえない期間である。 よって、その期間中は、その(承認済み)医薬品の実施については、日本中が凍結していたようなものだ。 したがって、その間だけ特許期間を回復させることには理由がある。 特許発明は一般に、他者(第三者)でも実施できるように、その発明について明細書に詳細に記載されている(特許法36条6項1号、4項1号)。 したがって特許期間とは、他者が実施しようと思えば実施できるのに、特許により実施することが禁止されている期間だ。 分かりやすく言えば、特許期間とは、その特許発明を利用したい他者にとって「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という苦い思いをさせられ続ける期間だ。 つまり特許法は、20年間(但し出願から公開までの期間を除く)にわたって、「他者にそういう思いをさせ続けること」を規定していると言える。 まるで「嫌がらせ」のようで、あまり良い気分はしないが、それが特許権というものであって、誰かが実施する必要はない(裁定の規定は別論)。

ところが医薬品の承認を受けるために要する期間は、そういう期間ではない。 なぜなら、医薬品の承認を受けるために要する期間は、誰もその「承認済み医薬品」という発明を実施(製造販売)することはできないのだから、「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という状況ではない。 「あの特許がなくてもどうせ実施できない」期間にすぎない。 したがって、その期間は他者は「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という思いをしていないのだから、その分、特許期間を延長することにより、他者にそういう思いをさせる期間を回復させることは、特許制度として背理とまでは言えないだろう。 したがって、「特許権者」が特許発明の医薬品を実施することや、その実施に向けて「特許権者」が試験を行うことは、延長の要件として必要ないというが私の考えだ。 少なくとも侵食期間の回復という原理に基づいて考える限りは。

それにもかかわらず、上述のとおり現行の特許法67条の7第1項2号は、「特許権者」(またはライセンシー)と「処分を受けた者」とが一致していることを求めている。 これについて清水論文は「なるほど、特許権者と全く関係のない第三者が処分を受け製造販売し利益を得てしまっては、特許権者が報われず、制度の目的が達成されない。」(154ページ)と述べ、67条の7第1項2号の規定はさも当然であるかのような態度をとっている。 しかしこれは意味が通っていないのではないか。 「特許権者と全く関係のない第三者が処分を受け製造販売し利益を得てしまっては、特許権者が報われず、制度の目的が達成されない」からこそ、特許権者と全く関係のない第三者が処分を受けた場合であっても、特許権者が自分の特許を延長できるようにし、その第三者の実施に対して、延長された特許権を行使できるようにすることが求められると論じなければ意味が通らないだろう。 これが上述の「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409;令和2年7月22日判決)が想起させる問題だ。 すなわち、第三者が処分を受けて実施してしまうことを心配するのなら、特許法67条の7第1項2号の規定を批判しなければならないはずである。 「なるほど」などと言って納得している場合ではない。

特許法67条の7第1項2号が制約となって、特許権者は自分が承認申請を行った医薬品についてしか延長することができない。 しかし、そもそも自分の医薬品に対して特許権を行使しても意味がなく、他者が承認を受けて実施する医薬品に対して権利行使できて初めて延長制度は意味を持つものだ。 つまり、現在の延長制度はそもそもその設計において矛盾のようなものを抱えている。 そして、その矛盾を表出させないためには、68条の2(延長された特許権の効力範囲)を巧みに解釈して運用する必要があるというのが今の特許延長制度だ。 これは特許権者が自分で承認申請を行った医薬品についてしか延長することができないことを規定している67条の7第1項2号がもたらす問題と言うこともできるだろう。

もっとも、上記の「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409)(この判決には今のところ私は反対ではないが、後日機会があれば取り上げたい)はともかく、特許権者やライセンシーが医薬品を実施するときに限って延長できるということ自体は、立法当時から今に至るまで関係者から大きな不満は出ていないようだから、特許権者らが実施する場合に限って特許を延長できれば、それで十分だと皆は考えているのだろう。 確かに特許権者らが実施する気がない場合は、他者の実施を阻んでも特許権者は金銭的な利益を得ることはない。 単に、「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という思いを他者に味合わせられるだけだ。 よって、特許権者自身が独占的に実施することによって得られうる金銭的な利益を保証することを重視する限りは、特許権者が実施する場合に限って特許を延長できるようにしてもよいのかも知れないし、67条の7第1項2号の趣旨もそこにあると考えることができるかも知れない。

さて、「特許権者」と「処分を受けた者」との関係性については以上のとおりとして、では「試験を実施する者」と「特許権者」との関係性についてはどうか。

[清水論文 図9](赤線と赤字はこちらで追加)
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これについて清水論文は、「試験を実施する者」と「特許権者」との関係性は「必要」という立場に立っており、その理由として清水論文は「『試験』が実施された後『承認(処分)』を得て販売することによって『特許』権者が報われることで、制度の目的が達成されるという流れからすれば、その過程の試験・処分・特許の主体の間にそれぞれ結びつきが必要である。」(155ページ)と論じるのだが、これも理由になっていないのではないか。 なぜなら薬事制度上、試験を行う者は特許権者と関係がある必要はないのだから、試験を他人が行った場合でも、その試験に基づいて特許権者は医薬品の承認を得て販売しうるし、それによって特許権者は報われうる。 そういう「流れ」は無視してよいのか?

清水論文は「試験を実施する者」と「特許権者」とに関係性が必要ということの条文上の根拠を、特許法67条の7第1項3号の規定(「その延長を求める期間がその特許発明の実施をすることができなかつた期間を超えているとき。」)に読み取ろうとしている。 試験を特許権者自らが行っていない場合は、その特許権者は(実施の意思および能力があってもなお)「実施をすることができなかった」とはみなせないから、上記3号の規定に抵触するとみなすということだろう。 また清水論文は、延長制度の創設当時の立法担当者が、延長制度について、「・・・、実験データ等の収集を行い・・・、そのための努力を要求され、かつ、その間特許発明の実施ができないため、特許権からの利益を享受することができない人々を救済しようとするものである。したがって、実施ができなかった特許権者なら誰でも、すなわち、他の法律の規定による処分を受けようと努力する人と全く無関係の人でも、延長登録を受けられるわけではなく(他人に便乗することを認めるわけではなく)、・・・」(新原浩朗編著『改正特許法解説』(1987年・有斐閣) 99-100頁)と論じていたことも、「試験を実施する者」が「特許権者」と関係があること必要である理由として挙げている(清水論文の155-156ページ)。 つまり、試験(治験)を実施するという「努力」をした者に限って延長を認めるということだ。

新原先生の「努力する人」という言い方を見て感じてしまうのは、特許制度にそういう観点を安易に持ち込まないでくれということだ(Sotoku 1号 の8〜9ページ)。 私は「努力」をしたとか、そんなことは、そもそも特許とは関係のないことだと思っている。 例えば、何の努力もせずに単に偶然に発明を発見しただけでも、特許は付与されうる。 7月7日の投稿でとりあげた山下和明先生の論稿は、特許制度は「発明」を保護する制度であって「発見」を保護する制度ではないと言っているが、そもそも「発明」と「発見」は区別できるものではないのではないか? 単なる発見であろうが、それが技術的に使い道があり、容易に発見することができないものであるのなら特許要件を満たすし、特許にして差支えないだろう。 つまり「努力」など要件ではない。(但し、マージェス先生も『知財の正義』 (山根崇邦ほか訳, 勁草書房, 2017) において知的財産権の正当化根拠として「労働」に言及しているから、「努力」や「労働」を重視している人は一定数いるのかも知れない。)

清水論文の160ページには公知申請について言及があるが、例えばある特許権者が、ある効能について追加したいと思っていたが、自らは臨床試験を行わず10年くらい待ち続け、第三者による臨床試験のデータが蓄積してきて公知申請ができる状態になったので、効能追加の承認を受けたとしよう。 この場合、特許権者は「努力」していないから延長期間はゼロというのがあるべき帰結なのだろうか?

例えばこの場合、追加した効能に関する特許期間の侵食期間はゼロなのだろうか? これも、実施できなかった間、「排他権は侵食されていたのか」という問題と関連する。 実施できなかった期間中は「排他権は侵食されていない」と考えている人は、特許権者が実施しようと(努力)していない(すなわち自ら臨床試験を行わない)場合は、侵食された権利はないということになり、延長する必要もないという結論になるのかも知れない。 しかし先にも言った通り、誰も実施しえなかった期間は排他権を行使することもできなかったのであり、排他権も侵食されていたのである。 したがって、特許権者が実施しようとしていようが、いまいが、誰も実施しえない期間は特許権が侵食される期間なのであって、回復させる理由はないとは言えない。

例えば、ある効能について承認を受けるために臨床試験を行おうとした場合、どんなに労力を投入しようが少なくとも一定期間の試験期間が必要であるようなものなのであれば、その効能に関する特許期間の侵食期間は、理屈上、その期間を下回ることはないはずだ。 つまり、この効能に関する特許期間の侵食期間は、少なくとも「必須な試験期間」よりは長いはずで、ゼロということはありえない。 事実としても、特許権者は何年にもわたってこの効能について実施できていない。 私はこの場合に、この効能について承認を受けるために必要最低限の期間(つまり最短の期間)については、たとえ公知申請であろうが延長させるような制度にする方がよいのではないかと思う。 ただし、それが難しいのは、必要最低限の期間とは具体的に何年何か月なのかが分からないことだ。 見方を変えれば、「試験実施者」と「特許権者」との間に主体関係性があることを延長の要件とすることにもし合理性を見出すとすれば、それは「期間の妥当性(最短性)」を担保することにあるのだと思う。 つまり、特許権者が特許発明に該当する医薬品をまだ独占実施していない状態のときに、その医薬品の製造販売承認を受けるために自ら臨床試験を行う場合、一日でも早く承認を受けて実施を開始することが自らの利益にかなうわけで、承認までの期間を長引かせるインセンティブはない。 そのような期間は、承認を受けるために必要最低限の期間(つまり最短の期間)だとみなすことに一定の合理性はあるわけで、その期間を「特許期間の侵食期間」として、それと同じ期間だけ特許を延長することにしてもよいだろうということになる。 逆に、特許権者が臨床試験を行っておらず、無関係の者が違う目的で臨床試験を行った場合は、その試験期間が、特許権者が効能追加の承認を受けるための最短の試験期間だとみなせるかは明らかではないので、その試験期間と同じだけ特許を延長するのは妥当ではないかも知れない。 したがって、たとえば公知申請や他者の臨床試験を流用して承認を受ける場合に、他者が行った試験の全期間を足し合わせたものを延長期間とすることは妥当とは言えないかも知れない。 このように、「試験実施者」と「特許権者」との間に主体関係性が求められるとすれば、それは「努力したこと」が必要だからではなく、期間の「妥当性」が担保されることが必要だからだと思う。

そういうことからすれば、たとえ臨床試験を赤の他人が行った場合でも、まったく延長できない制度にする必要はなく、期間の妥当性さえ担保できれば、何らかの延長を認めるような延長制度もあり得るのだと思う。 例えば、特許権者の初回承認による延長期間と同じ期間の延長を認める(つまり、最短性が担保されているとみなせる初回承認で要した試験期間を、追加承認を受けるために要する最短の期間だったとみなす)ことにするとしても、現在のようにまったく延長できないことと比べて著しく不合理とは言えないかも知れないし、むしろ延長期間が揃うから分かりやすいかも知れない。 あるいは、2017年08月18日の投稿の最後の方などでも書いているように、実際の試験期間をもとに延長期間を算出するのはもうやめて、「一律〇年」と決めてしまうのもまったく不合理とは言えないかも知れない。 これだと欧州の延長制度(清水論文の脚注7)に近づいてしまうが、あらゆる医薬品は、承認を受けるために一定の「実施できない期間」は存在するのであり、それは特許権者が自ら試験を行ったか否かによらないことを考えれば、「一律〇年」と決める方がよいという考え方もありうるように思う。 同志社大の井関先生は、欧州の延長制度は「期間侵食の回復」とはまったく違う制度だと論じているが(特許研究 No.62 (2016) 16-30 の19ページ左)、私はそうとは言い切れないように思う。 なぜなら、私は「期間侵食を回復させる」ための制度を考えることにより、その選択肢の一つとして、「一律〇年」と決めてしまう考え方にたどり着いたからだ。

*   *   *

ということで、基本的には過去に書いたことの繰り返しではあるが、清水論文を読んで感じたことを書いてみた。 延長問題において「延長期間」の問題はもっとも面白いところだと思うので、これに焦点を当てた今回の清水論文はとても興味深く、また、私にとっても勉強になった。

清水先生は博士課程に進まれているようだから、今後も延長制度に関してもっとすごい論文が出るのだろう。 これからも注目していきたい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする