2021年02月18日

独立要件説(技術的思想説)の議論に実益はあるか(『独立要件説 v. 二次的考慮説 ― 議論の実益』(『特許法の八衢』ブログ))


田中先生の『特許法の八衢』ブログの2月13日の投稿。 実務家からは、こうした議論自体についてニヒリスティックな意見もありそうなので、そうではない感想を書いてみたい。 もっとも、この投稿自体が、そうした冷笑の対象なのかも知れないが・・・。

当該ブログの投稿では、進歩性要件の趣旨はとりあえず置いておいて、「顕著な効果があれば、容易な発明であっても進歩性を肯定する」という言葉なり考え方なりを前提に、それがもたらす帰結について考察されている。

「顕著な効果があれば、容易な発明であっても進歩性を肯定する」という考え方に基づけば、たとえ「効果β」を発揮させるために構成Xを作り出すのは容易でも、その構成が「効果α」をも発揮することを予想外に見出したのなら、「構成X」の進歩性を肯定して特許を与えうるという帰結になるわけだ。

しかしそうすると、容易な「効果β」を発揮させるために構成Xを作り出しただけの第三者の行為(つまり、本件発明前に容易だったと思われる行為)にまで特許権が及ぶことになる気がするわけだ。

そして『特許法の八衢』ブログの投稿では、それが果たして特許法の「趣旨」に合致しているのかを問うている。

そのブログの投稿にはその先は書かれていないが、それは、特許法の「趣旨」を無視していることを意味するものではない。 いわば倒置法的な余韻というか、「顕著な効果があれば、容易な発明であっても進歩性を肯定する」という考え方から出発して、それがもたらす帰結を提示する。 それが特許法の「趣旨」に合致しているのかは、あえて言わない。 それは読者に考えてもらう構成になっているのだろう。

それで、その投稿の脚注3で言及されている清水節先生の論稿では、「顕著な効果があれば、容易な発明であっても進歩性を肯定する」という考え方を肯定的に扱いつつ、そういう物質特許が成立したあかつきには、「実施者が『効果α』を主張した場合に(のみ)特許侵害とする」という可能性が示唆されている(私の2019年8月27日の投稿も参照)。

「構成X」という物質特許なのに!? 裁判官らしい考え方だとは思う。

でも、さすがに「そんなのおかしい」と読者たちが思うなら、最初の前提、すなわち「顕著な効果があれば、容易な発明であっても進歩性を肯定する」という考え方はおかしい(少なくとも、それを硬直的に押し通すのはおかしい)という結論になるだろう。

すなわち、ある発明が、清水先生が言うように「効果α」を主張した場合にのみ特許侵害とすべき程度の発明なのであれば、私は「構成X」という物質発明に特許を与えるのではなく、「効果α」を発揮させることに限定された用途発明(または方法発明)として特許を取らせるべきだと思うわけ。 「構成X」という物質発明に特許を与えた上で、権利範囲を「効果α」を発揮させることを意図した場合のみに制限するという迂遠で不明確なやり方を採るのではなくね。 田中先生がそう考えているのかは分からないけれど。

*   *   *

それから脚注4もすごく面白い。 発明を「構成」だけでなく、「目的・構成・効果」の総体として考える「技術的思想説」(宮崎説)という説がある。 この考え方を推し進めれば、たとえ「構成X」が既知でも、顕著な効果である「効果α」を初めて見出した場合は、「技術的思想」としては新しいのだから「(効果αを発揮することが“認識”された)構成X」という発明に新規性を認めなければならないだろうというのだ。 これは一種のパラドックスとして論じられているのだと思うが、「技術的思想説」を説く宮崎先生がこれにどう答えるのか知りたい。

実際、選択発明ではこれに近いことを言う学者や裁判官がいらっしゃる。 同志社大の井関先生とか。 つまり、選択発明には一般に新規性がないと考えるが、顕著な効果があった場合には新規性と進歩性があると考えるというのだ。 私はこういう説を「ゾンビ説」(死んだと思っていたものが生き返るという意味で)と名付けている(2019年5月20日の投稿を参照)。

脚注4の問題は、たとえ宮崎先生のような「技術的思想説」を採るとしても、「新規性の判断は別論」みたいな理屈で逃げることができるので、なかなか「技術的思想説」論者を追い詰めるのは難しいのかも知れない。 しかしこうした議論を続けることで、何に特許性を認め、何に認めないかという最終結論に関する認識を一致させていくことはできるのではないかと期待している。 例えば、脚注3の清水論稿が示唆するような考え方を採ってまで「構成X」という物質発明の特許性を肯定するのはよくないよね、という認識が共有できるのなら、こうした議論にも実益はあると言えるのではないか。

実際のところ、発明を「技術的思想」と捉え、その思想が知られていなかったことをもって特許性を認めてしまうロジックにはとても怖いものを感じる。 その恐怖を感じさせた最近の判決が「IL-2改変体炎症性疾患処置組成物」事件(令和元年(行ケ)10076)で、Fubuki Tokkyoteki先生もこの判決に懸念を持っているからこそ1月11日の『医薬系"特許的"判例ブログ』の投稿で取り上げられたのだろう。

この判決は、新規性がない実施態様が包含される(ように私には見える)クレームについて、既知のIL-2変異体が持つ「特性」が知られていなかったことをもって「新規性」を認めているから、脚注4の問題を地で行くような判決ともいえるだろう。

同じ事件を解説した徳重先生の『BIOPATENTBLOG』の投稿のいいところをFubuki先生が引用されている。


つまり、内在する(Inherentな)効果の記載だけが相違するのに、この判決は新規性を認めたということだ。

もっとも、この特許のクレームには幅があって、新規性がないと思われるのはその一部分に過ぎない。 そして、先行技術の範囲と本件クレームの範囲とに重なりがあるにもかかわらず特許性が認められた判決はこれまでにも複数あると言われており、高石先生がまとめてくださっている(中村合同HPの2019年01月23日の投稿や、2019年05月21日の投稿など)。 よって、IL-2改変体組成物事件判決を批判するのなら、それらの判決も批判する覚悟が必要かも知れない。

なお、Fubuki先生の投稿の中に「PCSK9中和抗体事件」判決(平成29年(行ケ)10225)が参照として挙げられているのは重要で、今回のIL-2改変体組成物事件も、PCSK9中和抗体事件も、どちらもクレームされている発明が容易であるかを判断するというよりも、発明者が“認識”してクレームに記載した特性が容易でないことをもってクレームの発明の進歩性を肯定した点が共通している。

神戸大の前田先生はこの考え方を「発明思想」の困難性を問う考え方だと解説している(神戸法学雑誌70巻1号, 109頁;私の2020年12月23日の投稿参照)が、そのとおり、こうした考え方は「思想」というものをことさら重視する考え方であって、「技術的思想説」に通じるものがあると思う。 発明の「課題」を重視して、課題が相違することをもって別異の発明だと捉える裁判所の傾向も、これと関連するのだろう(高石先生の2019年01月30日の投稿参照)。 「具現された技術的思想」云々と説示した上で、それを“認識”することが必要だと説示したピタバスタチンの先使用権判決(平成29年(ネ)10090)も同様だ。 先使用権に関するこの裁判所の説示が正しいというのなら、水分含量をクレームに規定される範囲内に収めようという“意図”なく実施する第三者の行為は、たとえ水分含量がその範囲に収まっていようが本件発明たる技術的思想を実施していることにはならない(つまり非侵害)というべきだろう(上記脚注3の清水説と同様)。 逆にそれがおかしいというのなら、先使用権の成立に、本件発明の「技術的思想」だとされるところのクレームの発明特定事項(すなわち水分含量が特定の範囲であること)をいちいち“認識”する必要などないというべきだ。

私は前回の投稿では、こうした考え方は「説」に格上げするまでもなく間違っていると書いた。 しかし「技術的思想」というマジックワードがいかに判断を間違わせるのかを明らかにする意味でも、こういう考え方を「技術的思想説」と捉え、そのおかしさを批判していく方がよいのかも知れないと感じている。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月23日

PCSK9中和抗体事件 −「競合する抗体」の特許は容認できるか(平成29(ワ)16468, 平成29(行ケ)10225, 平成29(行ケ)10226, 平成31(ネ)10014)


(完全に時機に遅れてしまったが、PCSK9中和抗体事件に関する投稿)

本件は、ある既知タンパク質に対する新たな抗体を単離した場合に、その抗体に対する特許が取れるだけでなく、「その抗体と結合が競合する抗体」まで特許が取れるのか、そして権利行使ができるのかについて正面から争われた事件だ。 知財高裁は、本件特許は有効であり、権利行使もできる旨を判示し、それに対して上告受理申立がなされていたが、今年の4月に不受理となり知財高裁の判断は確定した。 今回の投稿では、その判断がはたして妥当であったのか考えてみようと思う。

*   *   *

1.本件発明の背景

血中のLDLコレステロール(いわゆる悪玉コレステロール)は、LDL受容体(LDLR)により肝細胞に取り込まれることで血中レベルが調整されている。 そして本件特許の出願の数年前から、PCSK9というタンパク質が血中コレステロールを調節する分子標的となりうることが期待されてきた。 PCSK9にある種のアミノ酸変異を持つ高コレステロール血症の患者ではLDLRのレベルが低下し血中コレステロールレベルが上昇すること、PCSK9に別の変異を持つ一部の人たちは、逆に血中コレステロールレベルが低いこと、PCSK9を高発現させたマウスでは肝臓におけるLDLRが減少すること、逆にPCSK9を欠損させたマウスではLDLRが増加し血中コレステロールが低下することなどが2003〜2005年ごろに相次いで報告された。 こうした知見から、PCSK9はLDLRに相互作用(すなわち結合)することによって、LDLRレベルを低下させ、結果としてLDLRが血中からコレステロールを取り込むことを阻害しているのではないかと疑われていたわけだ。

そのような中で出された論文が Lagace et al. (J Clin Invest. 2006, 116: 2995-3005) (審取訴訟の判決文の「甲1」)で、肝細胞にPCSK9を添加することによって肝細胞上のLDLRが減少すること、高コレステロール血症の患者が持つPCSK9変異体(D374Y変異体)は、通常のPCSK9の10倍もLDLRを減少させる活性が高いこと、PCSK9はLDLRに直接結合して作用すること、PCSK9を過剰発現させたマウスではコレステロールが高値となること、そして、PCSK9の作用は、血中に分泌されたPCSK9によって引き起こされていることなどを実験的に示した。

こうした論文を見た当業者であれば、PCSK9とLDLRとの結合を阻害すれば、LDLRレベルを高く保つことが可能で、それにより血中コレステロールを下げることができるかも知れないと思うだろうし、そうした阻害剤の有力な候補として、PCSK9に結合してその働きを阻害する抗体や低分子化合物を開発しようということは、上記の知見から直ちに思いつくことだと言ってもいいだろう。 実際、この論文の最後には以下のように記載されている。

[Lagace et al.(3003ページ右欄)]
If PCSK9 functions as a secreted factor as suggested by the current data, then additional approaches to neutralize its activity, including the development of antibodies to block its interaction with the LDLR or inhibitors to block its action in plasma, can be explored for the treatment of hypercholesterolemia.

(私訳)
今回のデータが示唆するように、もしPCSK9が分泌因子として働くのであれば、血漿中におけるLDLRとの相互作用を遮断する抗体や、作用を遮断する阻害剤を開発するなど、活性を中和するさらなるアプローチを高コレステロール血症の治療に向けて探究することができよう。

そうすると、PCSK9がLDLRに結合することを阻害するPCSK9中和抗体を作製して、これによりPCSK9の作用を中和して高コレステロール血症を治療しようという発想はLagace et al. が既に論文に記載しているのであって、Lagace et al. が公開された以上、そうした発想を現実のものにしようという一般的な行為、例えばPCSK9抗体を作製して、その中からPCSK9とLDLRとの結合を強く阻害する中和抗体をスクリーニングし、そうしたスクリーニングにより優れた中和抗体が得られれば、それを高コレステロール血症に対する治療薬として使おうとする一般的な行為については、既に特許性はなくなったのであって、そうした行為が、この論文公開の後で出願された特許出願によって、事実上広く独占されるなどということはあってはならないということになるだろう。

実際、これに関しては本件の審決や判決でも次のように説示されている。(文中に出てくる「甲1」や「乙1」とは上記のLagace et al. を指す。)

[無効2016-800004および無効2016-800066の審決より](強調はこちらで追加;以下同様)
  (2)当審の判断
 上記(1)ア〜ウによれば、甲第1号証は、高コレステロール血症の治療用医薬を開発する目的で、PCSK9とLDLRの相互作用を阻害する物質を探索する動機付けを与えるものである。また、上記(1)エにも記載されているとおり、生体分子間の相互作用を阻害する物質として抗体は周知であるから、当業者であれば、PCSK9とLDLRの相互作用を阻害する抗体の作成を容易に想到し得るとまでは認めることができる。

[平成29(行ケ)10225および平成29(行ケ)10226の判決文より]
イ 甲1には,「高コレステロール血症の治療として,細胞内におけるPCSK9のプロテアーゼ活性の阻害剤がLDLRのレベルを減少させる能力を阻害するのに十分であろうが,本研究のデータが示唆するとおり,PCSK9とLDLRとの相互作用(結合)を遮断する抗体又は血漿におけるその活性を遮断する阻害剤の開発などのPCSK9の活性を中和する追加の手法も,高コレステロール血症の治療として探求し得ること」(前記(2)イB)の開示があり,この開示事項は,PCSK9とLDLRとの相互作用(結合)を遮断し,PCSK9の活性を中和する抗体は,高コレステロール血症の治療に有用であり得ることを示唆するものといえるから,甲1に接した当業者に対し,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を得ることの動機づけとなるものと認められる。
 加えて,甲1には,PCSK9とLDLRとの結合を中和することのできるモノクローナル抗体の記載はないものの,本件優先日当時,動物免疫法又はファージディスプレイ法により,モノクローナル抗体を作製する一般的な方法は周知であったこと(前記(3)イ@)からすると,当業者は,甲1及び上記周知技術に基づいて,PCSK9とLDLRとの結合を中和することのできる,何らかのモノクローナル抗体(相違点Aに係る本件訂正発明1の構成)を得ることは可能であったものと認められる。

[平成31年(ネ)10014判決文より]
 前記のとおり,乙1文献には,「高コレステロール血症の治療として,細胞内におけるPCSK9のプロテアーゼ活性の阻害剤がLDLRのレベルを減少させる能力を阻害するのに十分であろうが,本研究のデータが示唆するとおり,PCSK9とLDLRとの相互作用(結合)を遮断する抗体又は血漿におけるその活性を遮断する阻害剤の開発などのPCSK9の活性を中和する追加の手法も,高コレステロール血症の治療として探求し得ること」の開示があり,この開示事項は,PCSK9とLDLRとの相互作用(結合)を遮断し,PCSK9の活性を中和する抗体は,高コレステロール血症の治療に有用であり得ることを示唆するものといえるから,乙1文献に接した当業者に対し,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を得ることの動機付けとなるものと認められる。
 また,前記(4)のとおり,本件優先日当時,ハイブリドーマ法又はファージディスプレイ法により,モノクローナル抗体を作製する一般的な方法は,周知であったことが認められる。
 そうすると,乙1発明に周知技術を適用することにより,PCSK9とLDLRタンパク質との結合を中和することができる,何らかの単離されたモノクローナル抗体を得ること自体は,可能であるといえる。

このような状況を踏まえた上で、どのような範囲のクレームであれば今回の発明に特許を与えることが妥当だと言えるだろうか?

*   *   *

2.本件発明の進歩性について

本件特許(特許5705288および特許5906333)は、特許権者(アムジェン)がPCSK9とLDLRとの結合を高度に阻害できるPCSK9中和抗体である「21B12抗体」および「31H4抗体」などの複数の抗体を単離したことに基づき、「21B12抗体」および「31H4抗体」そのものではなく、PCSK9への結合が、「21B12抗体」または「31H4抗体」と「競合」するPCSK9中和抗体をクレームするものだ。 確かに「21B12抗体」や「31H4抗体」など、単離した抗体そのものについては特許が付与されてよいことには同意できるであろうし、それより広い範囲であっても、「21B12抗体」や「31H4抗体」などの単離抗体が提供されたからこそ実現可能となったとみなせるような範囲、例えば、「21B12抗体」や「31H4抗体」などの単離抗体を少し改変して作製できる抗体についても特許は付与されてよいように思う。 また、「21B12抗体」や「31H4抗体」を指標にして、これらの抗体と競合する抗体を探索する「スクリーニング方法」なども特許にしてよいかも知れない。 しかし一方で、PCSK9中和抗体を単離しようとする動機付けは、上記で見たとおり、本件特許が出願(優先日 2007.08.23)される前からあったわけだから、本件発明などなくても、PCSK9とLDLRとの結合を高度に阻害できるPCSK9中和抗体をスクリーニングすることはできたし、そうする人たちは近いうちにきっと現れるだろう。 したがって、そうした人たちが(本件発明などなくても)取得するであろうPCSK9中和抗体を包含するようなクレームについては、特許性は否定されなければならないだろう。

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上に示した集合は、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9中和抗体という概念の範囲を表している。 「良好に」とは、ここではあまり突き詰めないでおくが、とりあえず、PCSK9とLDLRとの結合を阻害する医薬として使える程度、とでも理解しておくことにする。 この範囲には、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるあらゆるPCSK9中和抗体が含まれている。 本件特許でアムジェンが単離した「21B12抗体」や「31H4抗体」もこの範囲に含まれているであろうし、「21B12抗体」や「31H4抗体」と「競合」する抗体であって、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9中和抗体もこの範囲に含まれているだろう。

さて、ここで最も重要な論点の一つが生じる。 それは、本件発明などなくても取得することができたPCSK9中和抗体が、上の集合の中に含まれているか否かという問題だ。 つまり、本件発明の前から、PCSK9とLDLRとの結合を阻害するPCSK9中和抗体を探索する動機付けはあったわけだ。 そして、そのような中和抗体を取得する一般的な手法は周知だった。 例えば、抗体を取得したいタンパク質(今回の場合はヒトPCSK9タンパク質)やその修飾物等を免疫原として、哺乳動物に様々な投与経路(腹腔内投与や筋注、静注など)で接種して抗体を誘導し、血中の抗体価が高まったところで脾臓細胞からハイブリドーマを調製してモノクローナル抗体を作製する様々な手法は既に知られていた。 その際に様々なアジュバント(免疫増強剤)を併用する手法も知られていた。 そのようにして得られたハイブリドーマが産出する抗体について、LDLRとの結合を強く遮断できる抗体をスクリーニングする一般的な手段も知られていた。 あるいは動物を使わずに人工的に作製した抗体ライブラリーから目的の結合活性を持つ抗体を直接スクリーニングすることもできた。 そうしたスクリーニングは確かに手間がかかるだろう。 しかし手間がかかろうとも、ルーチンな実験として現実的に実施しうるものであれば「容易想到」の範疇であって、手間がかかること自体は進歩性を肯定する根拠とはならないことも一般に受け入れられた考え方だろう。 そのような既知の手法により、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9中和抗体を取得することはできたのだろうか。 それができたというのなら、上の集合の中には本件発明前に容易に取得できた抗体が包含されているということになるし、できなかったというのなら、上の集合の中には容易に取得できた抗体は包含されていないということになる。

それは例えば、ヒトPCSK9タンパク質やその修飾物等を免疫原としてマウスに接種した場合に、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9抗体が、接種されたマウスにおいて惹起されるのか否か、によって影響を受けるのかも知れない。 しかし人工抗体ライブラリーであれば、理論上はあらゆるレパートリーの抗体が含まれうるわけだから、そうした抗体があり得るのであれば、取得できないと考える理由はないようにも思う。 もちろん、PCSK9とLDLRとの結合阻害を効率的にスクリーニングできるようなアッセイ系を作らなければならないが、そこは当業者の通常の努力の範囲内だろう。

そこでここでは、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる少なくともいくつかの抗体は、従来の方法によっても取得しえたと考えることにしよう。 もちろん、被疑侵害者であるサノフィは私と同じように考えているだろうし、特許権者であるアムジェン側は、そうは思っていないのかも知れない。 この問題は、究極的には実験的に検証されるべきものかも知れない。

さて、上記のような周知な方法でも、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9抗体の少なくともいくつかは取得できたとした場合、そのような抗体は、上に示した集合の中に含まれていることになる。 つまり、上に示した集合の範囲内に、周知な方法で得られるPCSK9中和抗体が分布している(すなわち、本件発明がなくてもルーチンな実験により取得できる抗体が分布している)。 勘違いしてはいけないのは、この集合の範囲に含まれるすべての抗体を容易に取得できるということではない。 あくまで、ルーチンな方法で取得できる抗体が、この集合の中に含まれているということだ。

例えば、ルーチンな方法で取得できる抗体がこんな感じに分布しているわけだ。

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もし本件特許のクレームの範囲が、こうした「ルーチンな方法で取得できる抗体」を包含するとみなされる場合は、そのクレームの進歩性は否定されなければならないだろう。 そうすると、本件特許のクレーム、すなわち「21B12抗体と競合するPCSK9中和抗体」(特許5705288)というクレーム、そして「31H4抗体と競合するPCSK9中和抗体」(特許5906333)というクレームに特許性を認めてよいかどうかは、本件の状況が、以下に示す「図A」と「図B」のどちらであったのかで決まることになる。

[図A]
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一番大きな円は、上述のとおり「PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9中和抗体」という概念の集合を表している。 2つの小さな円は、2つの本件特許(すなわち特許5705288および特許5906333)のクレームの範囲を表している。 具体的には、特許5705288のクレームの範囲は、「21B12抗体と競合する中和抗体」という概念の範囲であり、特許5906333のクレームの範囲は、「31B4抗体と競合する中和抗体」という概念の範囲である。 赤い点は、それぞれ21B12抗体および31B4抗体そのものを表している。 21B12抗体が含まれる小さな円の中にある青い点は、本件特許の明細書の実施例に記載されている、21B12抗体と競合する中和抗体を表している。 31B4抗体が含まれる小さな円の中にある青い点は、本件特許の明細書の実施例に記載されている、31B4抗体と競合する中和抗体を表している。

図Aの場合、「21B12抗体と競合する中和抗体」および「31B4抗体と競合する中和抗体」の範囲(すなわち本件特許のクレームの範囲)は、一番大きな円(PCSK中和抗体)の中にある小さな領域を占めるに過ぎない。 すなわち、仮にPCSK9とLDLRとの結合を遮断できる何らかのPCSK9中和抗体(すなわち一番大きな円の中に入る抗体の一つ)を、本件発明とは無関係に誰かが取得したとしても、その抗体が、本件特許のクレームの範囲内の抗体であるなどということは、よほどの偶然でもない限り起きないということになる。 つまり、たとえ何らかのPCSK9中和抗体を作製することが容易だとしても、本件特許のクレームの範囲内になるような抗体を作製することは困難だろうということだ。

また言葉を換えれば、もし図Aのような状況であるのなら、本件特許の範囲は、良好なPCSK9中和抗体のごく一部を占めるに過ぎないから、本件特許の範囲の外にも、医薬となり得るようなPCSK9中和抗体は、まだたくさん存在しているということになる。 そのような状況であるのに、もし第三者が本件特許の範囲に含まれる抗体を実施している場合、その第三者は本件特許をパクったという蓋然性が高いということにもなるだろう。

一方、本件の状況が上の「図A」のような状況ではなく、下の「図B」のような状況である可能もありうる。

[図B]
2020pcsk9_03-2.png

図Aと同様に、一番大きな円は「PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できるPCSK9中和抗体」という概念の集合を表している。 この範囲は、本件発明がなくても近いうちに実現できる抗体が分布する範囲だ。 そして赤い2つの点は、本件特許で取得された21B12抗体と31B4抗体を表しており、青い点は、本件特許の明細書の実施例に記載されている、21B12抗体と競合する中和抗体や、31B4抗体と競合する中和抗体を表している。

しかし図Aとの違いは、本件特許(すなわち特許5705288および特許5906333)のクレームの範囲、すなわち「21B12抗体と競合する中和抗体」という概念の範囲や、「31B4抗体と競合する中和抗体」という概念の範囲が、一番大きな円の中を大きく占めるほどに広いことだ。

この場合、仮にPCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる何らかのPCSK9中和抗体を本件発明とは無関係に誰かが取得したとすると、その抗体はかなりの確率で、本件特許のクレームの範囲内になってしまうということになる。 2つの特許のクレームが、PCSK9中和抗体の概念のかなりの部分を占めているのだから当然といえば当然だろう。

図Bのような状況は、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる抗体が、PCSK9タンパク質の特定の部位に結合する抗体に限られる場合に生じる。 そのような場合、PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる中和抗体は、必然的にその限られた部位に結合することになるので、そうした抗体同士を同時にPCSK9に結合させようとすると、抗体同士が互いにぶつかり合う(すなわち競合する)ことが多くなるからだ。 すなわち、本件特許の参照抗体(21B12抗体や31B4抗体)と競合するという特性は、良好な結合中和活性を持つ抗体の多くが必然的に持っている潜在的な特性ということになる。 その場合、「本件特許の参照抗体(21B12抗体や31B4抗体)と競合する中和抗体」という特徴は、「PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる中和抗体」とかなりの部分が重なることになるから、「本件特許の参照抗体(21B12抗体や31B4抗体)と競合する」という特徴には、「PCSK9とLDLRとの結合を良好に遮断できる中和抗体」ということを超えた意味は大きくないということになる。

では本件の場合、状況は「図A」に近いのだろうか、それとも「図B」に近いのだろうか。 生物学系の研究者であれば、これから説明する内容を見るまでもなく、一般論として同じ答えを出すことはできるようにも思うが、本件特許の明細書にはせっかくデータが記載されているので、そのデータを見ていくことにする。

[本件明細書図17より]
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上の図は、PCSK9とLDLRとが結合するときの構造解析を示したもので、本件特許の明細書に掲載されている図17に、見やすいように私が少し手を加えたものだ。 赤い丸で囲まれているのがPCSK9タンパク質の一部で、右端の方に青い線で囲まれているのがLDLRだが、図ではLDLRの一部(EGFaドメイン)が示されている。 PCSK9はプロドメイン、触媒ドメイン、およびVドメインから構成されているが、図に示されているとおり、PCSK9は触媒ドメインの部分でLDLRと結合する。 この図からは、触媒ドメインの中でも「D374」と示されている部位(PCSK9タンパク質の先頭から374番目のアミノ酸)の近くでLDLRと結合することが分かる。 ちなみにD374部位は、遺伝性の高コレステロール血症の患者でアミノ酸変異(D374Y変異)が起きている部位であり、この変異を起こしたPCSK9はLDLRに非常に強く結合することによってLDLRの働きを阻害してしまうことが既に知られていたことは上述のとおりだ。

[本件明細書図19Aより]
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上の図も、本件特許の明細書に掲載されている図(図19A)に、見やすいように少し手を加えたものだが、本件特許の抗体である21B12抗体や31H4抗体は、まさにPCSK9のD374部位の近傍に結合することを示している。 上述のとおり、PCSK9はこの付近でLDLRと結合するわけだから、21B12抗体や31H4抗体がD374部位の近傍に結合して、この部分を塞いでしまうことで、PCSK9はLDLRに結合できなくなる。 これにより、PCSK9の働きを阻害することができるわけだ。

[本件明細書図20Dより]
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上の図も本件特許の明細書に掲載されている図(図20D)から取ったもので、PCSK9とLDLRが結合するときの構造図と、21B12抗体や31H4抗体がPCSK9と結合するときの構造図が、重ねて表示されている。 実際には、21B12抗体や31H4抗体がPCSK9に結合すると、PCSK9はLDLRに結合できなくなるので、これはあくまでコンピュータ上で重ね合わせて表示した合成図であって、実際にはこれらが同時に結合することはない。 PCSK9タンパク質への結合部位がいかに近く、それによりLDLRタンパク質と抗体とがぶつかり合って互いに結合を邪魔し合うことになるのかを示したものだ。 PCSK9とLDLRの結合を邪魔する抗体であれば中和抗体となるのだから、PCSK9とLDLRの結合部位の近くに結合する抗体がよい中和抗体となるのは自明とも言えるだろう。 つまり、PCSK9とLDLRの結合を高度に阻害する中和抗体をスクリーニングすれば、PCSK9がLDLRに結合する部位に結合する特性を持った抗体が一定の頻度で必然的に取れてくることが期待できるということであり、実際、スクリーニングによって得られた21B12抗体や31H4抗体もそのような場所に結合していたということだ。

[本件特許明細書の図より]
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この図は上の図20Dとは上下が逆になっており、赤い矢印で私が書き加えたとおり、PCSK9の一番下の部分がLDLRとの結合部位で、21B12抗体と31H4抗体は図に示されているように結合している。 21B12抗体や31H4抗体は、PCSK9タンパク質のLDLR結合部位を塞ぐように結合していることが分かる。 21B12抗体と31H4抗体は、PCSK9タンパク質のLDLR結合部位をこの2つの抗体でほとんど覆い隠してしまうほど大きいことが分かるだろう。 ちなみに、図に示されている21B12抗体や31H4抗体は、「Fab断片」と呼ばれる抗体の断片に過ぎない。 完全な抗体は「Fab断片」を2つ持ち、さらにFcと呼ばれる定常領域も持っているから、そうした完全長抗体の大きさは図に示されている抗体よりも大きい。

さて、本件はこのような状況であるが、果たして本件が、私が上で示した「図A」の状況なのか、それとも「図B」の状況なのか、もう判断できるだろうか?

上述のとおり、PCSK9とLDLRとの結合を遮断するPCSK9中和抗体を取得しようという動機付けは本件出願前からあったし、そうした中和抗体を取得する一般的な手法も知られていた。 だから、何らかのPCSK9中和抗体を得ることに進歩性はないと考えられるわけで、それについては上記のとおり特許庁も裁判所も認めている。 では、そうしてなるべく高い結合中和活性を持つ中和抗体をスクリーニングした場合に、得られる中和抗体が、21B12抗体や31H4抗体と競合するなどということは、およそ起きないと考えられるのだろうか、それともそれなりの割合で起きると考えられるのだろうか? その割合が十分に低いと予想されるのであれば、状況は「図A」だということになるし、本件発明前に、本件発明など知らずに取得しうる中和抗体が21B12抗体や31H4抗体と競合してしまうことがあるだろうと予想される場合は「図B」だということになる。

上の図27Dの赤い矢印で示した部位の近くに結合する抗体は、LDLRとの結合を良好にブロックできることになるわけだから、LDLRとの結合を良好にブロックできるPCSK9中和抗体をスクリーニングすれば、そのような抗体が取れてくるだろうと予想できるわけだ。 そしてその抗体がPCSK9に結合するときに、21B12抗体や31H4抗体とぶつかってしまうなら、21B12抗体や31H4抗体と競合してしまうわけだ。 上の図を見る限り、赤い矢印で示した部位の近くに結合する抗体であれば、「そりゃ、21B12抗体か31H4抗体のどっちかにはぶつかることはかなりあるだろうね。」という感じではないか? すなわち、PCSK9中和抗体のそれなりの割合は、21B12抗体や31H4抗体と競合することが予想されると私は思う。

そのことは、本件特許の明細書に開示されている実験結果にも表れているように見える。 下の表37.1は、PCSK9中和抗体のスクリーニングにより得られた抗体の幾つかを用いて、競合の様子を調べたと思われる結果だ。

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表の「ビン1」という欄には、得られた抗体のうち、21B12抗体と競合し、31H4抗体とは競合しない抗体が列挙されている。 逆に「ビン3」には、31H4抗体と競合し、21B12抗体とは競合しない抗体が列挙されている。 「ビン2」は両方に競合する抗体が列挙されている。 「ビン4」と「ビン5」はその他の抗体だ。 この表を見る限り、過半が「ビン1」〜「ビン3」に分類されるから、PCSK9の中和抗体であれば、21B12抗体か31H4抗体に競合するものが多いという上述の予想と整合している。 また、上の表では「ビン1」に分類される抗体の方が「ビン3」に分類される抗体よりも数が多いが、極端に違うというほどではない。 表37.1には全部で39個の抗体が示されているが、21B12抗体と競合する抗体の数は、「ビン1」と「ビン2」を足したものだから22個ということになり、全体の56%は21B12抗体と競合する抗体ということになる。 また、31H4抗体と競合する抗体の数は「ビン2」と「ビン3」を足したものだから13個ということになり、全体の33%は31H4抗体と競合する抗体ということになる。 したがって、本件特許の明細書に記載されている実験で得られた中和抗体には、21B12抗体と競合する抗体も、31H4抗体と競合する抗体も、数個に一個くらいはあるだろうという推計ができる。

このように、本件が「図A」と「図B」のどちらに該当しそうなのかという点については、私は「図B」に近い状況であったと推定されると思う。 つまり当業者が、本件発明など何も知らず、単にLDLRとの結合をブロックできるPCSK9中和抗体をスクリーニングして取得しただけでも、そのような抗体は、21B12抗体や31H4抗体と競合する特性を潜在的に有している確率は一定程度高いということになる。 そうすると、そのような範囲をクレームしている本件特許は、容認すべきではないということになるのではないか。

そして本件において被疑侵害者(サノフィ)側も、同じことを主張した。 具体的にはサノフィ側は以下のように主張した。

[平成29(行ケ)10225判決文 サノフィの主張より]
PCSK9とLDLRとの結合中和抗体が,PCSK9上のLDLRと結合する部位又はせいぜいそのごく近傍においてPCSK9に結合しようとする際に,同様の部位に結合しようとする参照抗体と競合すること(同時に存在したならば,立体的にぶつかりあうこと)は,当然に大いに生じ得ることである。
 PCSK9とLDLRとの結合中和抗体の多くが,参照抗体と競合することは,本件出願の願書に添付した明細書(以下,図面を含めて,「本件明細書」という。甲201)記載の図27D(PCSK9上のLDLR及び参照抗体の結合部位の位置関係を示した図)及び実施例37の表37.1(参照抗体と競合するか否かを何ら指標とすることなく,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を複数作成したところ,そのような抗体の多く(ビン1〜4の抗体の総数に対するビン1〜2の抗体の数の割合が約65%)が,参照抗体と競合するものであったことを記載したもの)から裏付けられる。
 さらには,本件明細書に記載されたデータに基づいて解析を行った,A教授の平成29年11月5日付け及び平成30年4月22日付け各供述書(甲204,215。以下,これらを併せて,「A教授の供述書」という。)によっても裏付けられる。
 したがって,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を取得した場合,その中には参照抗体と競合する抗体が多く含まれており,少なくとも所定の割合で含まれているといえるから,当業者は,何らかのPCSK9とLDLRとの結合中和抗体をいくつか作成するだけで,参照抗体と競合する結合中和抗体を取得し得たものといえる。
(イ) そして,甲1に接した当業者は,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を取得し,その有用性を試験することの動機づけがあるから(前記ア(ア)),甲1及び前記イの周知技術に基づいて,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体をいくつか作成するだけで,参照抗体と競合する結合中和抗体(相違点2に係る本件訂正発明1の構成)を容易に想到することができたものである。

上のサノフィが主張する数値(65%)が、私が書いた数値(56%)と若干違っているのは、上のサノフィの主張では「ビン5」の抗体が計算から除外されているからだが、細かいことは無視するとして、概算は私が言っていることと同じだ。

*   *   *

3.裁判所の判断は妥当だったか

これに対して知財高裁(大鷹一郎裁判長)は以下のように判示した。

[平成29(行ケ)10225および平成29(行ケ)10226]
ウ(ア) ・・・。
 そうすると,当業者は,甲1及び周知技術(前記(3)イ)に基づいて,動物免疫法によって,参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認めることはできない。
(イ) ・・・。
 そうすると,当業者は,甲1及び周知技術(前記(3)イ)に基づいて,ファージディスプレイ法によって,参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認めることはできない。

エ 前記イ及びウを総合すると,甲1に接した当業者は,甲1及び周知技術(前記(3)イ)に基づいて,PCSK9とLDLRとの結合を中和することのできる,何らかのモノクローナル抗体(相違点Aに係る本件訂正発明1の構成)を得ることが可能であったとしても,参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認められないから,参照抗体がPCSK9に結合する部位と同一のPCSK9上の部位又は参照抗体とPCSK9との結合の立体的障害となるPCSK9上の部位に結合する,参照抗体と「競合する」抗体(相違点Bに係る本件訂正発明1の構成)についても,容易に想到することができたものと認めることはできない。

上記のとおり裁判所は、「ウ」で「参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認めることはできない」と説示し、「エ」では、「・・・,参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認められないから,・・・,参照抗体と「競合する」抗体(相違点Bに係る本件訂正発明1の構成)についても,容易に想到することができたものと認めることはできない。」と説示している。 しかし今問題にしているのは、「参照抗体」(21B12や31H4)を取得することが容易であったのか否かではなく、あくまで参照抗体と「競合する抗体」を取得することが容易であったのか否かだ。 そして、21B12抗体や31H4抗体など全く知らずに中和抗体を取得しても、そうした中和抗体のそれなりの割合は必然的にPCSK9のLDLR結合部付近に結合する抗体であろうと推定される場合、そうした抗体はそれなりの頻度で21B12抗体や31H4抗体と競合することになる。 よって、参照抗体そのものを取得できなくても「競合する抗体」は取得できてしまう。 「参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認められない“から”,・・・,参照抗体と『競合する』抗体(・・・)についても,容易に想到することができたものと認めることはできない。」という裁判所の説示は論理的に誤りであり、参照抗体を得ることが容易ではない場合に言えるのは、参照抗体と競合する抗体を「参照抗体を利用して」取得することが容易ではないことに留まり、参照抗体と競合する(という潜在的性質を持つ)抗体を、参照抗体を利用せずに取得することが容易であることを否定する理由にはならない。

また、中和抗体のそれなりの割合が21B12抗体や31H4抗体と競合することになるだろうと予想しうること、それが本件明細書の図27Dおよび表37.1の結果とも整合していることについて、裁判所は以下のように説示した。

[平成29(行ケ)10225 判決文より]
オ これに対し原告は,@本件明細書記載の図27D(PCSK9上のLDLR及び参照抗体の結合部位の位置関係を示した図)及び実施例37の表37.1(参照抗体と競合するか否かを何ら指標とすることなく,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を複数作成したところ,そのような抗体の多く(ビン1〜4の抗体の総数に対するビン1〜2の抗体の数の割合が約65%)が,参照抗体と競合するものであったことを記載したもの),A本件明細書に記載されたデータに基づいて解析を行ったA教授の供述書を根拠として挙げて,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体を取得した場合,その中には参照抗体と競合する抗体が多く含まれており,少なくとも所定の割合で含まれているといえる,したがって,当業者は,何らかのPCSK9とLDLRとの結合中和抗体をいくつか作成するだけで,参照抗体と競合する結合中和抗体を取得し得たものであるから,甲1に接した当業者は,甲1及び周知技術に基づいて,参照抗体と競合する結合中和抗体を容易に想到することができた旨主張する。
 しかしながら,本件明細書記載の表37.1は,確認用スクリーニングによってPCSK9に結合する抗体を産生する2441の安定なハイブリドーマが確立したことを確認し(【0329】),そのうちの一部(合計39抗体)についてエピトープビニングした結果を要約したものであり(【0489】〜【0492】),この表を分析しても,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体のうち,参照抗体と競合する抗体の割合を導き出すことはできない。

上に引用したとおり裁判所は、「・・・,本件明細書記載の表37.1は,確認用スクリーニングによってPCSK9に結合する抗体を産生する2441の安定なハイブリドーマが確立したことを確認し(【0329】),そのうちの一部(合計39抗体)についてエピトープビニングした結果を要約したものであり(【0489】〜【0492】),この表を分析しても,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体のうち,参照抗体と競合する抗体の割合を導き出すことはできない。」と説示してサノフィの主張を否定した。 つまり表37.1に記載されている39個の抗体は、2441個の抗体から選択されたごく一部の抗体であるから、表37.1の結果から全体の割合を推定することはできないというのだ。 しかし本件明細書を見ると、段落0329においてPCSK9と結合する2441個の抗体をスクリーニングした後、段落0332においてLDLRとの結合を中和する抗体が選別され、100個程度にまで抗体が絞られたことが記載されている。 この実施例を読む限り、その後の実験は、基本的には100個程度にまで選別された抗体を用いて行われていると見るのが自然で、中和作用がない抗体がほとんどを占めている2441個の抗体からごく一部を選んで表37.1で競合が調べられたとみなすことは不自然だ。 事実、表37.1に掲載されている抗体のほとんどすべてが中和抗体であるし、これについては特許権者(アムジェン)側でさえ、「・・・,本件各明細書には,PCSK9とLDLRとの結合を90%以上中和できる抗体が100種類得られ,そのうちの一部が本件参照抗体と競合することが示されており(段落【0332】【0493】),・・・」と主張している(平成29年(ワ)16468の判決文より)。ここで、【0493】とは表37.1のことだから、表37.1の実験は100個にまで絞られた抗体から選択していることは、特許権者側の主張からも示唆されるだろう。

仮に表37.1の結果が、中和抗体全体の割合を反映しているのではなく、100個の中和抗体の中から、参照抗体と競合しそうなものだけを恣意的に選択して検査した結果だと仮定しても(そのような仮定は不自然で、かつ特許権者側に有利な仮定ではあるが)、表37.1には、21B12抗体や31H4抗体と競合する抗体が二、三十個程度は記載されているのだから、100個の中和抗体の中の少なくとも二、三十個程度は、21B12抗体か31H4抗体と競合するということになる。 そうすると、中和抗体を数個程度取得すれば、21B12抗体か31H4抗体と競合する抗体が取れてくるという計算になる。 つまり参照抗体など知らずに中和抗体を取得しても、数個に一個は参照抗体と競合するという性質を持っていることになる。 したがって、中和抗体のそれなりの割合が21B12抗体か31H4抗体と競合するということは、表37.1の結果からも支持されるというべきではないか。

しかし本来は、こうした推定をするために、図27Dや表37.1の記載などそもそも不要というべきだろう。 タンパク質とタンパク質が特異的に結合する場合、通常は、それぞれのタンパク質の特定の結合部位で結合することが多いだろうと予想でき、その場合、その結合を阻止する抗体は、その結合部位付近に結合する抗体が多いであろうことは結果を見るまでもなく予想できる。 もちろん、結合部位が複数ある可能性もないことはないだろうし、タンパク質とタンパク質が結合しあう部位とは離れた部位に抗体が結合することによりタンパク質の立体構造が変化し、それによりタンパク質とタンパク質の結合が阻害されるということもあり得ないとはいえない。 しかし、もしそうした部位に抗体が結合することにより、タンパク質とタンパク質の結合をより強い程度で遮断できる優れた中和抗体が取得できるのであれば、高い結合中和活性を持つ抗体を選別する過程で、そうした部位に結合する抗体が必然的に取得されてくるだろうということに過ぎない。 そのようなスクリーニングにより得られた抗体は、タンパク質とタンパク質の結合を最も強く遮断できる部位(すなわちスイートスポット)に結合しているわけだから、そうしたスイートスポットが事実として多数あるというならともかく、そうではないのなら、限られたスイートスポットに結合する抗体同士が互いに競合しあうのは当たり前であって、本件明細書の図27Dや表37.1を見るまでもない。 図27Dや表37.1は、それがなくても予測できる事柄について、その予測はやはり正しかったことを確認させるものに過ぎず、図27Dや表37.1がないからといって、優れた中和抗体を複数取得した場合に、一定の割合で抗体同士が競合することが予測できないものではないと思う。

中和抗体同士が競合する割合は必然的に高いだろうということについて、サノフィ側は専門家(A教授)の供述書を提出している。 しかしこれについて裁判所は以下のように説示した。

[平成29(行ケ)10225 判決文より]
 次に,A教授の供述書における本件明細書の図27Dに基づく分析は,抗体が,PCSK9とLDLRとの結合を中和するためには,少なくとも2つのアミノ酸残基においてPCSK9上のLDLRの結合部位と重複しなければならず,その結合部位のサイズは20Å×30Åであることを前提として,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体は,「図27Dに図示されるとおり,それらの抗体の結合の態様及びLDLRのPCSK9表面上の結合部位から,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体のほとんどが21B12又は31H4のいずれかと競合することは明らかである。」旨を述べたものであるところ(甲204の「4.1」,訳文3頁),上記の見解は,「21B12又は31H4のいずれかと競合する」とあるように,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体が参照抗体(21B12抗体)のほとんどと競合することを述べたものではなく,また,そのように参照抗体と競合することを示す実証的データの裏付けもない。
 ・・・。

[平成29(行ケ)10226 判決文より]
 次に,A教授の供述書における本件明細書の図27Dに基づく分析は,抗体が,PCSK9とLDLRとの結合を中和するためには,少なくとも2つのアミノ酸残基においてPCSK9上のLDLRの結合部位と重複しなければならず,その結合部位のサイズは20Å×30Åであることを前提として,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体は,「図27Dに図示されるとおり,それらの抗体の結合の態様及びLDLRのPCSK9表面上の結合部位から,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体のほとんどが31H4又は21B12のいずれかと競合することは明らかである。」旨を述べたものであるところ(甲204の「4.1」,訳文3頁),上記の見解は,「31H4又は21B12のいずれかと競合する」とあるように,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体が参照抗体(31H4抗体)のほとんどと競合することを述べたものではなく,また,そのように参照抗体と競合することを示す実証的データの裏付けもない。
 ・・・。

A教授の供述書は、PCSK9中和抗体のほとんどは21B12抗体か31H4抗体と競合するであろう旨を述べたものだが、これについて裁判所は、上記のとおり、21B12抗体と競合する抗体に関する特許の無効が争われている平成29年(行ケ)10225の判決においては、A教授の供述書は「『PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体のほとんどが21B12又は31H4のいずれかと競合することは明らかである。』旨を述べたものであるところ(・・・),上記の見解は,『21B12又は31H4のいずれかと競合する』とあるように,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体が参照抗体(21B12抗体)のほとんどと競合することを述べたものではなく」と判示し、31H4抗体と競合する抗体に関する特許の無効が争われている平成29年(行ケ)10226の判決においては、「『31H4又は21B12のいずれかと競合する』とあるように,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体が参照抗体(31H4抗体)のほとんどと競合することを述べたものではなく」と判示して、A教授の供述書に基づく主張を斥けた。 これはまるで言葉遊びのようだが、A教授は「中和抗体のほとんどが21B12抗体“または” 31H4抗体と競合する」旨を述べているだけで、「中和抗体のほとんどが21B12抗体と競合する」ことも、「中和抗体のほとんどが31H4抗体と競合する」ことも述べられていないと裁判所は言うのだ。

しかし上で表37.1を引用したときに説明したとおり、表では21B12抗体と競合する抗体(すなわち「ビン1」に分類される抗体と「ビン2」に分類される抗体をあわせたもの)も、31H4抗体と競合する抗体(「ビン2」に分類される抗体と「ビン3」に分類される抗体をあわせたもの)も、それなりの数が取得されており、21B12抗体と競合する抗体の方が数が多いが、極端に違うというほどではない。 つまり、中和抗体の多くが21B12抗体または31H4抗体と競合する場合、21B12抗体と競合する抗体も、31H4抗体と競合する抗体も、それなりの割合を占めていることは合理的に推認できるだろう。 こんなことを、いちいちA教授は「21B12抗体 “または” 31H4抗体」としか言っていないという理由で斥けるのは如何なものだろうか? ともかく、裁判所は、供述書の内容を深く検討することなく、「21B12抗体または31H4抗体」としか言っていないという表面的な理由に基づいて、それ以上は「見ざる聞かざる」の態度でこの供述書を斥けたのだから、「21B12抗体と競合する抗体も、31H4抗体と競合する抗体も、それなりの割合を占めているはずだ」と専門家が言い直した供述書が別途提出された場合は、それはすでに審理したという態度を裁判所がとることは許されず、新たな証拠とみなして審理しなければならないだろう。 また裁判所は「実証的データの裏付け」がないとも言っているが、上述のとおり、優れた中和抗体は必然的にスイートスポットに結合することが多いと想定される以上、優れた中和抗体同士がそれなりの頻度で競合し合うだろうということは、実験データを見るまでもなく予測できると私は思うし、図27Dや表37.1もそうした予測と整合している。 それを否定したいのであれば、データを出すべきはむしろ特許権者側ではないか。

なお原則的には、本件出願前に容易に(すなわちルーチンなスクリーニングにより)取得しうる中和抗体が一つでもクレームの範囲に包含されているとみなしうる限り、進歩性は否定されるのであって、進歩性を肯定したいのであれば、ルーチンなスクリーニングにより取得しうる中和抗体が、クレームの範囲に包含されているとはおよそ期待できないことが必要だろう。 したがって、本件出願前に取得しうる中和抗体の「ほとんど」が参照抗体と競合する必要などそもそもなく、「ほとんど」が競合すると述べるA教授の供述はそもそも過剰な供述だ(後述の2020年前田論文の114頁と同旨)。

なお、本件の侵害訴訟の控訴審判決(平成31年(ネ)10014;部眞規子裁判長)についても同様のことが指摘できる。 具体的には、裁判所は以下のように説示している。

[平成31年(ネ)10014 判決文より]
イ 相違点2A及び2Bについて
 しかしながら,乙1文献には,PCSK9との結合に関して参照抗体1又は2と競合することの記載や示唆はなく,PCSK9とLDLRの結合を中和する抗体の中から,参照抗体1又は2と競合する抗体を得るための手掛かりとなるような情報は何ら記載されていない。
 また,前記(4)イのとおり,周知技術である一般的なモノクローナル抗体の取得手段においては,いずれも,多数の抗体が生じるようにする工程と,それらの多数の抗体の中から,スクリーニングによって抗体を選択する工程とを有し,スクリーニングによって抗体が選択されて初めて特定のモノクローナル抗体が得られるものであると認められるところ,本件優先日前に,参照抗体1又は2が得られていたことを認めるに足りる証拠はなく,競合アッセイによるスクリーニングによって参照抗体1又は2と競合する抗体を選択することができたとはいえない。
 したがって,乙1発明及び周知技術に基づいて,当業者が,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることを容易に想到できたと認めることはできない。

 ウ 以上によれば,乙1文献に接した当業者は,乙1発明及び周知技術に基づいて,PCSK9とLDLRとの結合を中和することのできる,何らかのモノクローナル抗体(相違点1)を得ることが可能であったとしても,参照抗体1又は2と「競合する」抗体(相違点2A,B)について,容易に想到することができたものと認めることはできない。

 エ 控訴人は,@本件各明細書には,参照抗体1又は2と競合するか否かを指標とすることなく,PCSK9−LDLR結合中和抗体を複数作製したところ,そのほとんどが参照抗体1又は2と競合するものであったことが記載されていること,AAの供述書によれば,PCSK9−LDLR結合中和抗体を取得した場合,その中には参照抗体1又は2と競合する抗体が多く含まれるとされることを根拠に,当業者は,乙1及び本件優先日当時の周知技術に基づき,何らかのPCSK9−LDLR結合中和抗体をいくつか作製するだけで,参照抗体1又は2と競合する結合中和抗体を容易に想到できた旨主張する。
 しかし,本件各明細書の表37.1は,確認用スクリーニングによってPCSK9に結合する抗体を産生する2441の安定なハイブリドーマが確立したことを確認し(【0329】),そのうちの一部(合計39抗体)についてエピトープビニングした結果を要約したものであり(【0489】〜【0493】),この表を分析しても,PCSK9とLDLRとの結合中和抗体のうち,参照抗体と競合する抗体の割合を導き出すことはできないから,PCSK9−LDLR結合中和抗体のほとんどが参照抗体1又は2と競合するものであったことが記載されているとはいえない。
 また,Aの供述書は,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体は,「(本件各明細書の)図27Dに図示されるとおり,それらの抗体の結合の態様及びLDLRのPCSK9表面上の結合部位から,PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体のほとんどが21B12又は31H4のいずれかと競合することは明らかである。」旨を述べたものであって(乙4),PCSK9とLDLRとの結合を中和する抗PCSK9抗体が参照抗体1又は2のいずれかと競合することを述べたにすぎず,PCSK9−LDLR結合中和抗体のほとんどが参照抗体1又は2と競合するということは示されていない。
 したがって,控訴人の主張するように,PCSK9−LDLR結合中和抗体を作りさえすれば,本件発明1−1又は2−1に到達するとはいえない。

 ・・・。・・・,乙1文献には,動物免疫の具体的な条件を含め,参照抗体と競合する抗体を得るための工程について何ら記載がないのであるから,乙1発明に,モノクローナル抗体の作製に関する一般的な周知技術を適用しても,可変領域に特定のアミノ酸配列を有する抗体である参照抗体1又は2を得ることが容易であるとはいえず,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることができたとはいえない。

上記のイにおける、「・・・,本件優先日前に,参照抗体1又は2が得られていたことを認めるに足りる証拠はなく,競合アッセイによるスクリーニングによって参照抗体1又は2と競合する抗体を選択することができたとはいえない。 したがって,乙1発明及び周知技術に基づいて,当業者が,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることを容易に想到できたと認めることはできない。」という説示は、本件発明が容易であることを否定する理由にはなっていないし、「エ」の最後の「・・・,可変領域に特定のアミノ酸配列を有する抗体である参照抗体1又は2を得ることが容易であるとはいえず,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることができたとはいえない。」というのも論理的とは言えない。 参照抗体を取得することが容易とは言えないことは、参照抗体と競合する(という潜在的性質を持つ)抗体を取得することが容易とは言えないことを意味しないからだ。

また表37.1についても、39個の抗体が2441個の抗体の一部であることをもって控訴人の主張を退けているが、39個の抗体は基本的には100個程度の中和抗体の一部であると理解するのが自然だから、裁判所の説示は説得的とは言えない。

またA教授の供述書に関する裁判所の説示に至っては、先に行われた平成29(行ケ)10225判決と平成29(行ケ)10226判決における裁判所の説示を強引にひとまとめにしたためであろうか、「『・・・,・・・21B12又は31H4のいずれかと競合することは明らかである。』旨を述べたものであって・・・,・・・,・・・参照抗体1又は2と競合するということは示されていない。」と説示されており、意味不明な文章となってしまっている。(まとめて書きたいのなら、「・・・参照抗体1又は2と競合するということは示されていない。」ではなく、「・・・参照抗体1と競合することも、参照抗体2と競合することも示されていない。」と書くべきだろう。)

以上のとおり、私は本件については、裁判所の判断は妥当ではないと考えており、被疑侵害者であるサノフィ側の主張を支持している。 但し、サノフィの主張も、特許権者であるアムジェンの本件明細書に掲載されているデータを引用しつつ主張を行っている点で、「相手のふんどしで相撲を取っている」感じは否めないかも知れない。 前述のとおり、良好な中和抗体を取得した場合に参照抗体と競合する抗体がそれなりの割合で含まれていることは、表37.1などの本件明細書に開示されている実験やA教授の供述がなくなくても、技術常識的に推定することは可能だと私は思うし、サノフィ側が新たに実験等を行って証拠を出す必要は、本来はないとは思っている。 しかしより客観的にそれを納得するためにも、「アムジェン明細書に開示されている抗体の取得方法など使わずに、従来の方法を適宜組み合わせて中和抗体をスクリーニングするだけでも、競合抗体が複数取れましたよ。」というデータがあることが望ましいのは確かだろう。 サノフィ側がなぜそうした実験データを出さなかったのかは分からない(判決文からは読み取れないだけで、ひょっとすると出したのかも知れない)。 サノフィも自分たちの抗体(Alirocumab)について特許を持っているから、これを取得するのは容易であるかのような実験データを出すことには躊躇があるのかも知れないし、本件特許の出願後に行われた実験データを出したところで、本件特許出願前に容易であった証拠にはなりにくいとの思いもあるのかも知ない。 しかし、そうした実験データを出さず、相手のふんどしで相撲を取り続けたことが、今回の結果を招いた原因の一つとなった可能性はあるかも知れない。

*   *   *

4.特許庁審判合議体の判断は妥当だったか

なお、本来は実証データ等がなくても判断できるものでも、実証データや専門家の証言等が判断において重要になるということは、技術に必ずしも明るくはない裁判官が判断する場合により当てはまるだろう。 これに対して特許庁審判官であれば、技術的にもよく分かっているはずであるから、実証データがなくても、技術的に納得のいく適切な審理が行われると期待できると思うかも知れない。

ところが、今回の事件の原審となった審決(無効2016-800004、無効2016-800066)を見ると、審判合議体は次のように説示しているのだ。

[無効2016-800004および無効2016-800066の審決より]
  (2)当審の判断
 上記(1)ア〜ウによれば、甲第1号証は、高コレステロール血症の治療用医薬を開発する目的で、PCSK9とLDLRの相互作用を阻害する物質を探索する動機付けを与えるものである。また、上記(1)エにも記載されているとおり、生体分子間の相互作用を阻害する物質として抗体は周知であるから、当業者であれば、PCSK9とLDLRの相互作用を阻害する抗体の作成を容易に想到し得るとまでは認めることができる。
 しかしながら、技術常識を考慮しても、甲第1号証から、「配列番号・・・のアミノ酸配列からなる重鎖可変領域を含む重鎖と、配列番号・・・のアミノ酸配列からなる軽鎖可変領域を含む軽鎖とを含む抗体」という特有の構造を有する抗体を導き出すことはできない。まして、当該抗体と競合する抗体についてはなおさらである
 したがって、本件訂正発明1及び・・・5は、甲第1号証に記載された事項及び周知技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるとは認められず、無効理由4は理由がない。

上記の「『配列番号・・・のアミノ酸配列からなる重鎖可変領域を含む重鎖と、配列番号・・・のアミノ酸配列からなる軽鎖可変領域を含む軽鎖とを含む抗体』という特有の構造を有する抗体」というのは本件の参照抗体(21B12抗体および31B4抗体)を指している。 そして審決は、参照抗体そのものは先行技術から導き出すことはできないと説示した後で、「まして、当該抗体と競合する抗体についてはなおさらである。」というのだ。 「まして、・・・なおさら」という言い方からは、参照抗体が取得できない限り、参照抗体と競合する抗体は取得できないと考えていることが示唆される。

しかし、すでに説明したとおり、参照抗体を取得することが容易ではない場合に言えるのは、参照抗体と競合する抗体を「参照抗体を利用して」取得することが容易ではないことに留まり、参照抗体と競合する(という潜在的性質を持つ)抗体を、参照抗体を利用せずに取得することが容易であることを否定する理由にはならない。 審判官は、本件において容易に取得できる中和抗体が、参照抗体と競合するという潜在的性質を持っている頻度が無視できるほど低いのかということについて、すなわち、本件のクレームの範囲に、容易に取得できる中和抗体が包含されているおそれはないのかということについて、慎重に審理すべきだったのに、「参照抗体を取得できなければ、参照抗体と競合する抗体は取得できない」という論理的に誤った考え方に基づいて本件の進歩性を安易に肯定した点は非難に値するだろう。

なお、この無効審判に先立つ異議申立(異議2015-700112)の異議決定(審判長は無効審判と同じ)は、もっとあからさまに次のような説示をしている。

[異議2015-700112]
・・・、ある抗体と、それと「競合」する抗体とは、ほぼ同一のエピトープに結合するものであるから、結局、本件発明1は、21B12抗体の抗原結合領域とほぼ同様の構造の抗原結合領域を有する抗体であると解される。

[異議2015-700112]
・・・、本件発明5は、本件発明1と同様に、21B12抗体の抗原結合領域とほぼ同様の構造の抗原結合領域を有する抗体であると解される。

[異議2015-700112]
・・・競合する」という発明特定事項により、21B12抗体の抗原結合領域とほぼ同様の構造の抗原結合領域を有するという構造的特徴が特定されており、・・・

上記のように審判官の合議体は、21B12抗体と競合する抗体(すなわち本件特許のクレームの発明の抗体)は、「21B12抗体の抗原結合領域とほぼ同様の構造の抗原結合領域を有する抗体であると解される」と説示しているのだ。 しかしこれは、技術常識的にも、また事実としても、誤っていると言わざるを得ない。

もし2つの抗体が結合する抗原のエピトープが「まったく同じ」なのであれば、確かに、抗体の相補決定領域(CDR)のアミノ酸配列は共通性が高いことが多いとは言えるかも知れない。 同一抗原で作製した複数の抗体を取得してCDRを決定したときに、CDRの共通性が高い一群の抗体が同定されることはよくあることであるし、本件特許明細書にも、そうした抗体のグループが同定されたことが記載されている。

しかし、結合が「競合」するというだけで、「ほぼ同様の構造の抗原結合領域を有する」などという技術常識はないだろう。 本件明細書にも、競合抗体の中にはアミノ酸配列が異なる抗体が同定されているし、参照抗体(21B12抗体および31H4抗体)と競合する被疑侵害者(サノフィ)の抗体「Alirocumab」のCDRのアミノ酸配列も、以下のとおり2つの参照抗体のCDRとは異なっている。

[各抗体の相補決定領域(CDR)のアミノ酸配列]
2020pcsk9_11.png

上に示したとおり、いくつかのCDRで似ているということはできても、全体として「ほぼ同様の構造」とは到底言えないことが分かるだろう。

本来、特許庁審判官は、発明の技術的な背景をよく把握した上で、技術的・科学的にも説得力のある判断をすることが求められている。 そうした判断がもとになってこそ、必ずしも技術に明るくはない裁判官たちの審理も意義のあるものとなるのだと思う。 にもかかわらず、本事件においては、その初期段階において特許庁審判官が「競合する抗体なら構造はほぼ同様」、「参照抗体が取得できない限り、競合抗体は取得できない」という技術的に誤った考えに基づいて本件の特許性を肯定してしまった。 そのことが、今回のような事態を招く一因となった可能性があるのではないか。

タンパク質とタンパク質の相互作用が、タンパク質上のドメイン同士が結合するものである場合、その結合を阻害する中和抗体は、自ずとその結合部位の近傍に結合することが多くなる。 そうすると、そうした中和抗体を取得しようという動機付けが既に高まっている状況においては、その部位に結合する抗体が別々の研究者によって複数取得されるのは時間の問題だと言えるだろう。 したがって、誰かがその中和抗体に一番乗りを果たして特許出願したとしても、その者に「取得した抗体と競合する中和抗体」に特許を与えてしまっては、その発明などなくても発明されるのも間近だった中和抗体を、一番乗りを果たした者にすべてくれてやることになってしまう。

特許庁は、「1アミノ酸でも違えば活性が失われることがあるのは技術常識である」(各判決文におけるサノフィ側の主張を参照)などといって、「90%以上のアミノ酸配列の同一性を持つCDRを含む抗体」の特許性さえ容認しない審査実務を行うことが多い一方で、類似性のないCDRを持つ抗体までも包含する「競合する抗体」については、今回のように気前よく特許にすることがある。 特許庁のそうした審査・審判実務には著しいアンバランスがあるというべきだ。 今回の発明についても、もし「参照抗体のCDRのアミノ酸配列と90%以上の同一性を持つ」という限定を加えさせた上で特許を付与していれば、サノフィの抗体(Alirocumab)が非侵害であることは明らかであっただろうし、今回の事件はそもそも起きなかったかも知れない。

以上のとおり、競合する中和抗体について、たとえ明細書において多数の競合中和抗体を取得したことが実施例を伴って記載されているとしても、「競合する中和抗体」という広いクレームを安易に特許にすべきではない。 そのような特許が許容できる場合が仮にあるとしても、そのような特性を潜在的に持つ抗体を、本件発明などなくても誰かがじきに取得するだろうとはおよそみなせない場合、例えば本件の場合で言えば、PCSK9とLDLRとの結合を遮断する中和抗体を取得しようなどとは誰も思いもよらなかった場合などに限られるだろう。 本件のように、すでに中和抗体を取得しようという動機付けが高まっている状況においては、いち早く中和抗体を取得したからといって、その抗体と「競合する抗体」に特許を付与することはできないのである。

今回の判断の妥当性について、特に特許庁の審査官や審判官の方々にはよく考えてもらいたいと思う。

*   *   *

5.上告受理申立理由はあったか

本件は上告受理申立が行われたが、冒頭で述べたとおり、令和2年4月24日に不受理の決定がなされている。 しかし仮に受理されていた場合、事実審ではない最高裁の審理において、最高裁が判断を示すことができる法令違反は見出せたであろうか。

今回の投稿の内容に即していえば、知財高裁が「参照抗体が容易想到ではない“から”、参照抗体と競合する抗体も容易想到ではない」と判断しているところに違法性があると指摘することはできるかも知れない。 具体的には、平成29(行ケ)10225および平成29(行ケ)10226で裁判所は、「参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認められない“から”,・・・,参照抗体と『競合する』抗体(・・・)についても,容易に想到することができたものと認めることはできない。」と説示し、平成31年(ネ)10014で裁判所は、「・・・,本件優先日前に,参照抗体1又は2が得られていたことを認めるに足りる証拠はなく,競合アッセイによるスクリーニングによって参照抗体1又は2と競合する抗体を選択することができたとはいえない。 “したがって”,・・・,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることを容易に想到できたと認めることはできない。」と説示した。

ちなみに、本件特許(特許5705288、および特許5906333)の請求項は以下のようになっている。

[特許5705288および特許5906333の請求項1](配列番号は省略した)
【請求項1】PCSK9とLDLRタンパク質の結合を中和することができ,PCSK9との結合に関して,配列番号・・・のアミノ酸配列からなる重鎖可変領域を含む重鎖と,配列番号・・・のアミノ酸配列からなる軽鎖可変領域を含む軽鎖とを含む抗体と競合する,単離されたモノクローナル抗体。

上記のクレームの文言のうち、「配列番号・・・のアミノ酸配列からなる重鎖可変領域を含む重鎖と,配列番号・・・のアミノ酸配列からなる軽鎖可変領域を含む軽鎖とを含む抗体」という部分が「参照抗体」に相当する。 したがって、「参照抗体」は、クレームに記載されている発明特定事項の一つといってよいだろう。 そして知財高裁は、この発明特定事項(参照抗体)が容易想到ではないことを理由に、本件発明は容易想到ではないと説示したことになる。

しかしながら、進歩性の判断において判断すべきは、あくまで「クレームに係る発明」(クレームの発明)が容易想到であるか否かであって、クレームに記載されている発明特定事項が容易想到であるか否かではない。

もちろん、クレームに記載されている発明特定事項が容易想到でない場合は、直ちにクレームの発明も容易想到ではないと結論できる発明は多い。 例えば、「構成Aを備える装置。」という発明で、構成Aが容易想到ではない場合は、「構成Aを備える装置。」も容易想到ではないと直ちに結論できるだろう。 しかしそれは、クレームの発明が容易想到である場合は、必ずAも容易想到であるという関係が成り立つような発明に限られる。 しかし本件のクレームはそうではない。 本稿で説明したとおり本件は、参照抗体とは無関係にクレームの発明の抗体を取得することが容易想到であることが疑われる事案であって、「参照抗体」が容易想到ではないことは、クレームの発明の抗体を取得することが容易想到ではない理由にはならないからだ。

このように、進歩性の判断においては、「クレームに係る発明」が全体として容易想到であるか否かを判断しなければならないのに、本件において知財高裁は、クレームに記載されている発明特定事項(すなわち「参照抗体」)が容易想到であるか否かで判断をしたところに、法令の解釈適用を誤った違法性を指摘することはできるように思う。

もっとも、知財高裁はそれに続けて表37.1やA教授の供述書について検討を行っているから、クレームに記載されている発明特定事項(参照抗体)が容易想到ではないことのみをもって直ちに結論を出したとまでは言えないかも知れない。 しかしすでに説明したとおり、言葉尻をとらえてA教授の供述書を一蹴するなど、知財高裁が行った表37.1やA教授の供述書についての審理は表面的なものに過ぎない。 「参照抗体が容易想到ではない限り、それに競合する抗体も容易想到ではない」(クレームの発明特定事項が容易想到ではない限り、クレームの発明は容易想到ではない)という思い込みが、表37.1やA教授の供述書を軽視することにつながった可能性があるのではないか。

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6.中島論文(中島勝, AIPPI (2019) Vol,64, No.11, pp.33-58)について

さて、ここからは、本事件について考察している他の先生方の論文などについてコメントしたい。

この中島論文は、今回の私の投稿のきっかけとなった論文だ。 中島先生は訴訟記録も閲覧されており、事件について詳細に記載されているので参考になる。但し、中島論文は本件判決に賛成の立場に立っているので、私の立場とは逆だ。

私が中島論文を読んで納得がいかないのは、まず、以下の部分だ。

[中島論文 51ページ]
 一方,本件出願日当時, A社及びB社の他にも複数の訴外他社が,高コレステロール血症の治療手段として,抗PCSK9抗体の開発を行っていたが19), PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用が生じる部位を特定できなかったために,PCSK9のプロドメインに結合する抗体を開発した結果,PCSK9とLDLRとの相互作用を十分に中和できなかったとのこと。最終的に上市に至ったのは,LDLRのEGFaドメインとPCSK9の 触媒ドメインとの相互作用を遮断する,A社及びB社各抗体のみであったとのことである(B社抗体の位置づけについては後述する。)。
 以上のA社の主張を考慮すると,参照抗体と「競合」するという本件訂正発明の限定は,本件訂正発明の抗体が単にPCSK9とLDLRとの結合を中和できるのみならず,LDLRのEGFaドメインとPCSK9の触媒ドメイン上の小さな領域との間の相互作用を遮断するのに効果的な位置に結合しPCSK9とLDLRとの相互作用を強力に中和できることを規定していることになり,本件特許発明の解決課題(高コレステロール血症等の疾患を治療又は予防する手段としての,PCSK9と結合し,PCSK9のLDLRへの結合を阻害(中和)する抗体の提供)との関係において,極めて重要な意義を有する限定であると言うことができる。

19) 例えば,乙7(特表2010-508817号公報)の出願人である訴外C社の1G108抗体,乙9(特表2010-523135号公報)の出願人である訴外D社のH1Fab抗体等。

ここで「A社」とは本件の特許権者であるアムジェン、「B社」とは被疑侵害者であるサノフィを指している。

上の引用の前半部で中島先生は、訴外他社(具体的には脚注19にあるとおり、特表2010-508817(メルク)や特表2010-523135(ノバルティス))は「PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用が生じる部位を特定できなかったために,PCSK9のプロドメインに結合する抗体を開発した(とのこと)」と論じている。 しかし、これらの公開公報を一読する限り、「PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用が生じる部位を特定できなかった“ために”,PCSK9のプロドメインに結合する抗体を開発した」という事実は確認できず、単に、PCSK9とLDLRとの相互作用を阻害する抗体をスクリーニングして抗体を得たこと、そしてノバルティスの公報においては、得られた抗体の結合部位を水素重水素交換質量分析により推測した結果、PCSK9のプロドメインに結合しているようだという結果が得られたことが記載されているだけだ(特表2010-523135の実施例6)。 PCSK9とLDLRとの相互作用を阻害する抗体を取得したいのであれば、PCSK9とLDLRとの相互作用を指標にしてスクリーニングを行えばよいのであって、PCSK9とLDLRとの「実質的な相互作用が生じる部位」をあらかじめ特定することは不要だし、特表2010-508817や特表2010-523135も、あらかじめ特定することなくスクリーニングを行っているだけではないか。 PCSK9とLDLRとの相互作用を指標にして、その相互作用を強く阻害する抗体を取得すれば、その抗体の結合部位が、PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用が生じる部位かも知れないということが結果的に推測されるにすぎない。 したがって、「PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用が生じる部位を特定できなかった“ために”,PCSK9のプロドメインに結合する抗体を開発した(とのこと)」という中島論文の記載は、常識的に考えても疑問があるし、これらの文献の記載からも支持されないように思う。

そして上の引用の後半部で中島先生は、「参照抗体と『競合』するという本件訂正発明の限定は,本件訂正発明の抗体が単にPCSK9とLDLRとの結合を中和できるのみならず,LDLRのEGFaドメインとPCSK9の触媒ドメイン上の小さな領域との間の相互作用を遮断するのに効果的な位置に結合しPCSK9とLDLRとの相互作用を強力に中和できることを規定していることになり,・・・,極めて重要な意義を有する限定であると言うことができる。」というのだが、「単にPCSK9とLDLRとの結合を中和できる“のみならず”,・・・ PCSK9とLDLRとの相互作用を強力に中和できることを規定している」という言い方は、まるでPCSK9とLDLRとの結合を中和することと、PCSK9とLDLRとの相互作用を遮断することが「違うこと」であって、「結合を遮断する抗体であっても、相互作用を遮断できるとは限らない」と理解しているかのようだ。 しかし相互作用するには接触しなければならない以上、接触を強く遮断する抗体であれば相互作用も強く遮断できるであろうことは自明で、「のみならず」という言葉を使って両者を分ける意義が不明だ。 訴外他社の公報に記載されている抗体が、結合は非常に強く遮断しているにもかかわらず、相互作用は強く遮断できていない抗体であることが示されているものでもないし、本件において、結合を強く遮断しても、PCSK9の機能(具体的にはLDLRの細胞内取り込み)は遮断できない場合が多いという事情が明らかにされているわけでもない。

なお中島論文は、次のようにも論じている。

[中島論文 50ページ右]
・・・,本件各訴訟におけるA社の主張によれば18),PCSK9は,触媒ドメイン,プロドメイン,及びVドメインからなるところ,LDLRとの相互作用はこれらの複数のドメインにまたがる広い領域で生じるものの,どの位置で生じる相互作用が最も重要であるかは不明であった。これに対して,本件発明者らは,PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用がLDLRのEGFaドメインと(PCSK9の触媒ドメイン上の小さな領域との間で生じていることを見出した,とのことである(参考図9参照)。

18) A社による以下の主張は本件東京地裁判決にしか記載されていないが,訴訟記録によれば,本件各審決取消訴訟でもA社は同様の主張を行っている。

上記のとおり中島論文は、PCSK9とLDLRの相互作用は「複数のドメインにまたがる広い領域で生じる」とA社(特許権者であるアムジェン)が主張し、そのことは東京地裁判決にしか記載されていないが、訴訟記録によれば審取訴訟でも同様の主張をしていると記載している。

しかし、東京地裁判決(平成29(ワ)16468)の判決文を見ても、PCSK9とLDLRの相互作用が「複数のドメインにまたがる広い領域で生じる」という特許権者の主張は見当たらない(2020年10月12日の投稿で取り上げた田村論文も、中島論文に該当する記載が見つからないことについて同様の指摘をしている(知的財産法政策学研究 Vol.56 (2020) の231ページ脚注105))。特許権者が実際にどういう証拠を出してそういう主張を行っているのかは訴訟記録を見なければ分からないが、例えば上記のノバルティスの公報(特表2010-523135の実施例6)については、この実験は、単に“中和抗体”がプロドメインに結合しているらしいことを示しているだけで、“PCSK9” がプロドメインを介してLDLRと結合していることを示しているわけではない。 例えばPCSK9はあくまで触媒ドメインを介してLDLRと結合するが、抗体がPCSK9のプロドメインに結合することによって、抗体が立体的に邪魔になってPCSK9がLDLRに強固に結合できなくなることはありうるし、あるいは抗体がPCSK9のプロドメインに結合することによって、PCSK9タンパク質全体の立体構造に変化が生じ、その結果PCSK9がLDLRに強固に結合できなくなることも考えられる。 すなわち、ノバルティスの中和抗体がプロドメインに結合するというだけでは、PCSK9がプロドメインを介してLDLRに結合するとは言えないし、PCSK9とLDLRの相互作用が「複数のドメインにまたがる広い領域で生じる」とは言えない。

なお、訴外各社(特表2010-508817(メルク)や特表2010-523135(ノバルティス))の実施例を一見するかぎり、得られた抗体の結合親和性(KD)は最高でも 〜10 nM程度で、本件特許発明の参照抗体の 〜10 pMに比べて劣るものであるし、LDLRの取り込み阻害活性も、最大で60%程度とあまり大したものではない。 すなわち、メルクやノバルティスの公報の実験は、これらの抗体が、結合は非常に強く遮断しているにもかかわらず、相互作用は強く遮断できていない抗体(中島論文が示唆するような抗体?)であることを示しているというよりは、単に実施したスクリーニングがあまり成功していないことを示唆しているに過ぎないように思う。まぁ、成功していないのにこう言うのもなんではあるが、PCSK9とLDLRとの結合をより強く遮断する抗体を、訴外各社が採用したのと同様の手法やその他の既知の方法を用いてさらに探索すれば、PCSK9の触媒ドメインに結合する何らかの中和抗体を取得するに至ったであろうことを疑う理由は特にないのではないか。

少なくとも、PCSK9とLDLRとの実質的な相互作用がLDLRのEGFaドメインとPCSK9の触媒ドメイン上の小さな領域との間で生じていることを本件特許権者が公表しない限り、その部位に結合する抗体は得られなかった(換言すれば、その部位に結合する抗体を取得した者は、本件特許を見て利用したからこそ取得できたのであろうと擬制できる)とみなすことはできないように思う。

なお、中島先生の上記の論じ方と関連するかも知れないが、東京地裁判決(平成29年(ワ)16468)の判決文では、Lagace et al.(乙1文献)が、冒頭で引用したとおり「antibodies to block its interaction with the LDLR」(LDLRとの相互作用を遮断する抗体)と記載していることに関し、「乙1文献には,『LDLRとの相互作用を遮断する抗体』の記載(・・・)があるにとどまり,この抗体がPCSK9−LDLR結合中和抗体であるとの記載はないこと,・・・」(判決文PDF47ページ)と説示されているくだりがあり、まるで相互作用を遮断することと中和することが違うかのような説示がなされている。 しかし、こうした使い分けに意義があるのかについては疑問で、控訴審(平成31年(ネ)10014)判決においては、こうした使い分けはされていない(判決文PDF24ページ「・・・,PCSK9とLDLRの結合を「中和」するとは,PCSK9とLDLRとの間の結合を妨げることを意味するものと認められる」という部分)。 中島論文は控訴審判決前に書かれたものなので、地裁のように、本件中和抗体が、先行技術が示唆する概念とは違うものだと考えている可能性があるのではないか。

なお、仮に本件特許出願前には、PCSK9とLDLRは「広範な複数の部位」で結合する可能性を示唆する論文等が出されており、当業者の間でそのように理解されていたとしても、それにより影響されうるのは、中和抗体を取得することの「動機付け」に留まる(例えば、PCSK9とLDLRは広範な複数の部位で結合していると思われていた場合、当業者は、「一つや二つの中和抗体で両者の結合を阻害することはできないだろうから、中和抗体を取得しても医薬として使い物にならない」と思ってしまい、中和抗体を取得することをそもそもあきらめてしまうだろうという主張の根拠になるということ)。 実際に中和抗体の取得を試みた場合に、本件の参照抗体と競合する中和抗体がそれなりに高い割合で取得されてくるか否かは、「動機付け」の問題ではなく「事実」の問題であるから、どう「理解されていた」かで影響を受けるものではない。 PCSK9とLDLRとが現実には特定の部位で結合する場合、中和抗体をスクリーニングして良好な中和抗体を取得すれば自ずと競合しやすいという事実は動かない。 そして本稿の冒頭で見たとおり、本件において裁判所は、「動機付け」の存在についてはむしろ肯定している点を指摘しておきたい。

*   *   *

ところで中島論文は、本件の記載要件の問題に関して次のように論じている。

[中島論文 53-54ページ]
・・・,本件各判決では,「動物免疫法によるモノクローナル抗体の作製プロセスでは,動物の体内で特定の抗原に特異的に反応する抗体が産生され,その免疫化動物を使用して作製したハイブリドーマをスクリーニングし特定の結合特性を有する抗体を同定する過程においてアミノ酸配列が特定されていくことは技術常識であるから,特定の結合特性を有する抗体を得るために,その抗体の構造(アミノ酸配列)をあらかじめ特定することが必須であるとは認められない」,と判断している。

中島論文が指摘するとおり、各判決において裁判所は上記のとおり判断している。 そしてこれは特許権者側の主張でもある。 そして私も同感だ。

しかしそうであれば、PCSK9とLDLRとの結合を強力に遮断する抗体を取得したいのであれば、PCSK9とLDLRとの結合を指標にして、PCSK9とLDLRとの結合を強力に遮断するという「結合特性」を持つ抗体をスクリーニングすればよいだけのことで、それにより、PCSK9とLDLRとの結合を強力に遮断する中和抗体は自然に選択され、その過程において、その抗体の結合部位(PCSK9のどのドメインに抗体が結合するか)が特定されていくこともまた技術常識と言わなければならないだろう。 そうすると、「参照抗体と競合する」という結合特性をあらかじめ知ったり、「参照抗体と競合する」という結合特性を利用したりする必要はそもそもないということになる。

特許権者が、アミノ酸配列をあらかじめ知る必要があるか否かという問題においては、「結合特性を指標にしてスクリーニングするだけで取得できる」ということを強調してあらかじめ知る必要性を否定しつつ、参照抗体をあらかじめ知る必要があるか否かという問題においては、「(PCSK9とLDLRとの)結合特性を指標にしてスクリーニングするだけで(最終的に得たい中和抗体は)取得できる」ということを棚に上げて「参照抗体と競合する中和抗体」の特許性を主張するのだとすれば、二枚舌というべきではないか?

*   *   *

ちなみに中島論文も、「参照抗体との競合による限定が,単に他の機能限定(例えば抗原と受容体との結合中和性)を言い換えたものにすぎない場合」は、「参照抗体と競合する」という事項は技術的意義を有さないと論じており(50ページ右)、脚注16において、「仮に本件特許発明において,PCSK9とLDLRとの結合を中和できる抗体であれば,常にPCSK9との結合に関して参照抗体と競合する等の事情が存在する場合には,こうした場合に該当する。」と論じている。

しかし本件クレームの特許性を否定するためには、中和抗体が「常に」参照抗体と競合する必要はないだろう。 例えば従来のスクリーニング方法でも、PCSK9とLDLRとの結合を良好に阻害できる中和抗体を取得することは可能だったとして、そのような中和抗体には、本件参照抗体と競合するものもそれなりにあっただろうとみなせる程度でも、本件クレームの特許性を否定するのに十分だろうと思う。

*   *   *

ところで、中島論文は次のようにも論じている。

[中島論文 52ページ左]
・・・,本件各判決では,参照抗体(相違点Bに係る構成)の容易想到性の判断において,「本件明細書記載の免疫化プログラムに従って免疫化された免疫化マウスから産生される抗体とこれと異なる条件及びスケジュールの免疫化プログラムに従って免疫化された免疫化マウスから産生される抗体とでは, PCSK9に対して異なる反応性を示すものと認められ,免疫化プログラムの条件及びスケジュールを最適化し,参照抗体を得るのに適した免疫化マウスを作製するには,通常期待し得る範囲を超えた試行錯誤を要するものと認められる」とし,甲1及び周知技術から参照抗体に想到するのは容易であったとは言えない,と判断している。

実際、各判決において裁判所は以下のように説示している。

[平成29(行ケ)10225の判決文(PDF 70ページ)]
・・・,本件優先日当時の上記技術常識に照らすと,本件明細書記載の免疫化プログラムに従って免疫化された免疫化マウスから産生される抗体とこれと異なる条件及びスケジュールの免疫化プログラムに従って免疫化された免疫化マウスから産生される抗体とでは,PCSK9に対して異なる反応性を示すものと認められ,免疫化プログラムの条件及びスケジュールを最適化し,参照抗体を得るのに適した免疫化マウスを作製するには,通常期待し得る範囲を超えた試行錯誤を要するものと認められる。
・・・・
 そうすると,当業者は,甲1及び周知技術(・・・)に基づいて,動物免疫法によって,参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認めることはできない。

[平成31年(ネ)10014の判決文(PDF 48-49ページ)]
・・・,動物免疫法による抗体の作製においては,動物の選択,抗原の投与量及び形態,免疫補助剤(アジュバント)の使用,注射の経路及び回数及び注射の間に置かれる期間を含む(動物に対する)「注射の条件」の違いによって,抗原に対する反応性の異なる抗体が得られることが認められ(前記(4)ア(ア)),このことは,ファージディスプレイ法において,抗体の作製に用いる抗体遺伝子を得るための動物についても同様であると理解することができる。ところが,乙1文献には,動物免疫の具体的な条件を含め,参照抗体と競合する抗体を得るための工程について何ら記載がないのであるから,乙1発明に,モノクローナル抗体の作製に関する一般的な周知技術を適用しても,可変領域に特定のアミノ酸配列を有する抗体である参照抗体1又は2を得ることが容易であるとはいえず,参照抗体1又は2と競合する抗体を得ることができたとはいえない。

上記のとおり裁判所は、本件の「参照抗体」(21B12抗体や31H74抗体)が容易とは言えない理由として、免疫のスケジュールやプログラムが異なることを指摘している。 しかし、裁判所の「PCSK9に対して異なる反応性を示すものと認められ」という説示や、「抗原に対する反応性の異なる抗体が得られることが認められ」という説示が妥当するのは、本件発明の方法で取得できる抗体 “集団” (すなわち抗血清やポリクローナル抗体)に限られ、そこに含まれる個々の抗体分子(のすべて)には妥当しないだろう。 いくら免疫のスケジュールやプログラムが異なるからといって、それにより惹起される個々の抗体のすべてが、他の一般的な方法では惹起され得ない抗体ばかりだと考える科学的合理性はないからだ。 裁判所や中島論文は、その辺りのことを峻別して考えているのかにやや疑問を感じる。 「参照抗体」という特定の抗体の容易性を否定する文脈で免疫のスケジュールやプログラムの特殊性を説示していることからすると、裁判所は、本件発明の方法で取得できるすべての抗体は、他の一般的な方法では取得され得ない抗体ばかりだと誤解している可能性があるのではないか?

*   *   *

7.サノフィはアムジェン発明をパクったのか?

既に述べたとおり、今回の事件の被疑侵害者であるサノフィ(中島論文にいうB社)は、抗PCSK9中和抗体(Alirocumab)を医薬品として上市しており(但し日本では本判決を受けて販売停止になった)、Alirocumabに関する特許も出願しているが、中島論文は、これに関して次のように論じている。

[中島論文 56ページ左]
 B社抗体は,本件特許1及び2の双方の権利行使の対象となったことからも明らかなように,まさしくこのような本件参照抗体1及び2の双方と競合し,極めて高い結合中和活性を有する抗体である(参考図11参照)。そして,B社抗体をカバーするB社の特許(乙11)は,本件特許原PCT出願の公開後に出願されており,その実施例には,B社抗体(316P抗体)が,A社による本件参照抗体1及び2(コントロールII及びIII)と競合することが明記されている。

上のとおり中島論文は、「B社の特許(乙11)は,本件特許原PCT出願の公開後に出願されており,その実施例には, B社抗体(316P抗体)が,A社による本件参照抗体1及び2(コントロールII及びIII)と競合することが明記されている」と論じている。 これを見ると、なにやら被疑侵害者であるサノフィ(中島論文のB社)は、アムジェン抗体の発明を知ったうえで、アムジェン抗体に依拠して自社抗体(316P抗体)を発明したかのような印象を受ける。

・高石秀樹先生のブログ記事について

これについては、弁護士の高石秀樹先生も、自身のブログにおいて、被疑侵害者のサノフィは、本件特許(アムジェン特許)が公開された後、その明細書に記載されていた「参照抗体」を参考にしてスクリーニングを行い、アムジェン特許の抗体と競合するが、「参照抗体」とは異なる抗体を開発して上市したという事情がある旨をコメントされている。 高石先生のこのブログ記事は、本事件に関して開かれたAIPPI判例研究会に参加されたときに聞いた話として書かれているものだが、AIPPI判例研究会(第185回;2019年5月28日)で発表したのは中島先生なので、中島先生からの情報に拠っているのだろう。

『hideki-takaishiのブログ』(高石秀樹先生)2019/05/29投稿
「PCSKに対する抗原結合たんぱく質」事件(AIPPI判例研究会で学んだことの追記)
https://ameblo.jp/hideki-takaishi/entry-12464728123.html

中島先生は本件の訴訟記録を閲覧しているはずなので、そこで知ったいろいろな事情も踏まえて上のように書かれているのかも知れない。 その辺りのことは、判決文に現れない限り分からないし、私の方に誤解があるかも知れないが、サノフィの抗体(Alirocumab)に関するRegeneron社の特許出願(特表2012-511913,WO2010/077854)の最も早い出願(US61122482)は、アムジェン特許(WO2009/026558)の公開日(2009/02/26)よりも早い2008/12/15に出願されており、そこにはAlirocumabの可変領域と同じアミノ酸配列を持つH1H316P抗体(SEQ ID NOs: 90, 92)が既に記載され、非常に良好な特性を持っていることも開示されている。 確かに、その後で出された出願においては、本件特許発明の抗体(アムジェン抗体)との比較実験の結果が追加されており、アムジェン抗体を「参考」にしていることは確かだが、それはアムジェン抗体に依拠して発明を行ったというよりは、自社の抗体(H1H316P抗体)がアムジェン抗体に勝るとも劣らない抗体であることを検証するために使っているだけであるように見える。

サノフィ側が、H1H316Pとは違う抗体を当初の開発候補にしていたというような事情があるのか否かは知らないが、たとえそうした事情があるとしても、H1H316P抗体や、それと同等のCDR(相補決定領域)を持つ抗体という発明(すなわちAlirocumabを包含する発明概念)は、最先出願(US61122482)の段階で既に高度に完成していたと言えるだろうと思う。

*   *   *

なお2019年10月17日の投稿でも書いたとおり、私は、特許制度は「依拠性を擬制した制度」に近づけることを意識すべきだと思っているが、「依拠性を要件とするべきだ」と思っているわけではない。 クレームの範囲(私の言う、依拠性を擬制できるとみなされる範囲)において特許がいったん付与されれば、その範囲に含まれるものは、実際に依拠しているのか否かにかかわらず権利行使できるのは、特許制度の設計上当然のことだろう。 しかしそれと同じように、その範囲に含まれない態様については、実際に依拠していたとしても権利行使は否定されるのは、また当然のことだ。 特許法は、発明の保護及び利用を図ることにより発明を奨励し、もって産業の発達に寄与することを目的としている。 研究開発段階において他人の特許発明を参照しつつ、その権利が及ばない(あるいは及ぼすことが正当化できない)新たな中和抗体を開発し、医薬品として上市を果たすことは、産業の発達に特許発明が確かに寄与したことを示すものとも言えるだろう。 したがってサノフィがたとえアムジェン特許の発明を参照して自社抗体を開発したとしても、そのこと自体がアムジェン特許の権利行使を肯定する事情となるものではない。

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8.その他の論文について

・深澤憲広, 内田俊生, 内山務, パテント 2020 Vol.73 No.2, 146-150
 https://system.jpaa.or.jp/patent/viewPdf/3499

この論文は、上の中島論文とは逆に、本件各判決を批判する内容となっている。 その内容は、まず本件の無効審判(無効2016-800004)に対して

[深澤ら論文の147ページ右]
・・・,「参照抗体」の進歩性が認められるから,特段の論理付けをすることなく,「当該抗体と競合する抗体についてはなおさらである」として,競合抗体全般の進歩性を認めている。

と指摘し、その審決取消訴訟(平成29年(行ケ)10225)の判決に対しては、

[同148ページ右]
・・・,「参照抗体を得ることを容易に想到することができたものと認められないから,…参照抗体と「競合する」抗体…についても,容易に想到することができたものと認めることはできない」として,特段の論理付けをすることなく,競合抗体全般の進歩性を認めている。

と指摘し、以下のように批判している。

[同148-149ページ]
無効審判の審決においても審決取消訴訟の判決においても,「参照抗体」の進歩性が認められることまでは理解できるとしても,なぜ「参照抗体」と競合する抗体全般についてまで進歩性が認められるのか,についての論理的な説明がなされていない。すなわち,いずれの判断においても,「参照抗体」の進歩性が認められることから,競合抗体全般についての進歩性が認められるまでの,論理的な解析が全くされておらず,これら無効審判の審決においても審決取消訴訟の判決においても,競合抗体についての発明の進歩性の判断に至る道筋には,論理の飛躍がある。

これについては既に述べたとおり、私もまったく同感で、本件各判決および審決の最も責められるべき部分と言えるだろう。 なお本件各判決に肯定的な中島論文は、この問題に関して、

[中島論文の52ページ左]
本件各訴訟において, A社及びB社は,PCSK9との結合に関して参照抗体と競合する抗体(相違点Bに係る構成)が想到容易か否かを争ったのに対し,本件各判決では,参照抗体自体の容易想到性について判断しており,一見整合していないように思われる。

と論じながらも、「・・・,前述した参照抗体及びこれと『競合』する抗体の技術的意義を考慮すれば,この点も理解できるように思われる。」(52ページ左)と論じている。 なお、そこでいう「前述した・・・技術的意義を考慮すれば」とは、「参照抗体と『競合』するという本件訂正発明の限定は,本件訂正発明の抗体が単にPCSK9とLDLRとの結合を中和できるのみならず,LDLRのEGFaドメインとPCSK9の触媒ドメイン上の小さな領域との間の相互作用を遮断するのに効果的な位置に結合しPCSK9とLDLRとの相互作用を強力に中和できることを規定していることになり,・・・,極めて重要な意義を有する限定であると言うことができる。」ということを指している。 しかし上述のとおり、中島論文の「のみならず」という理解には技術的に疑問があり、単にPCSK9とLDLRとの結合を高度に遮断できる抗体をスクリーニングするだけで、参照抗体と競合する中和抗体に到達しうるだろうということについて、それを否定するに足る証拠は示されていないように思う。

なお、私はこのパテント誌の深澤先生らの論文に全面的に賛成しているわけではない。 例えば、この深澤論文では結論として、「具体的な重鎖及び軽鎖可変領域のアミノ酸配列を有する特定の競合抗体の発明についてのみ,進歩性が認められるべき」と論じられている。 この結論は読み方によっては、明細書に具体的に開示されている抗体と100%同一のアミノ酸配列を有する抗体のみに進歩性を認めるべきだと言っているようにも見える。 しかし、そうだとすればあまりにも狭すぎるだろう。 冒頭で述べたとおり、取得した抗体そのものでなくても、その抗体が提供されたからこそ実現可能となったとみなせるような範囲、例えば、「21B12抗体」や「31H4抗体」などの単離抗体を少し改変して作製できる抗体についても特許は付与されてよいように思う。

なお、パテント誌の論文は以下のようにも論じられている。

[深澤ら論文の150ページ左]
・・・,本件明細書記載の方法によって得られたPCSK9とLDLRとの結合中和抗体(参照抗体だけでなく,参照抗体と「競合する」抗体も含む)であれば全体として,本件明細書記載の免疫化プログラムに従って免疫化された免疫化マウスから産生されているのだから,特徴的なPCSK9に対する反応性を有するとして,全体として進歩性が認められてよいことになる。

この論文は上記の引用に続いて、得られた抗体をアミノ酸配列で特定することは可能である旨を論じていることから(150ページ右)、ここでいう「抗体」とは、アミノ酸配列で特定することは不可能な「抗血清」や「ポリクローナル抗体」を想定しているのではなく、本件明細書記載の方法によって得られた個々の「モノクローナル抗体」のことを指していると解され、そうした個々のモノクローナル抗体については進歩性を肯定してよいとの立場を示したものだろう。 しかし、「本件明細書記載の方法によって得られたPCSK9とLDLRとの結合中和抗体」というのが、本件明細書に既に開示されている特定の中和抗体を指しているのならともかく、本件明細書記載の方法を第三者がこれから実施して取得されるモノクローナル中和抗体(と同一構造を有するモノクローナル中和抗体)までも意味しているのなら同意できない。 本件明細書記載の方法によって得られた抗血清やポリクローナル抗体であれば、それとまったく同じものを取得するのは容易とは言えないとみなして特許を付与してもよいだろうが、先にも言ったとおり、そこに含まれる個々の中和抗体のすべてが、他の周知な方法では取得され得ない抗体ばかりだと考える合理性はないのだから、本件明細書記載の方法によって得られた抗体の集団には、周知な方法で取得しうる中和抗体が含まれうると考えるべきで、本件明細書記載の方法によって得られるすべてのモノクローナルな中和抗体について特許性を認めるわけにはいかないだろう。

*   *   *

なお、本件事件に特許権者側の代理人として関わった弁理士先生が、上記深澤論文の公開直後に、その論文に関してツイートされるとともに、本件発明の進歩性を否定しようとする考え方に対して以下のような例を挙げられている。

[森田裕先生の2020年2月20日ツイート1
PD-1抗体というのが公知であるときにPD-1/PD-L1を遮断する抗体が進歩性がないのか。

PD-1抗体を得ればそのうち一部は必ずPD-1/PD-L1を遮断する抗体が得られるという場合が仮にあったとしても進歩性は否定できないと思っています。

単離した個々の抗体の進歩性についてはともかく、PD-1とPD-L1が結合することが既に知られていたり、予測されている場合、「PD-1/PD-L1を遮断する抗体」を広くカバーする発明は、たとえ「それを取得することが、長年、どうしてもできなくて」という特段の事情があったとしても特許性を肯定するのは相当に困難で(個々の抗体を超える部分はスクリーニング方法等で特許を取るべきだろう)、そうした事情がないのなら、なおさら進歩性を認めるのは困難だと私は思う。

また、この先生は次のようにもツイートされている。

[森田裕先生の2020年2月20日ツイート2
例えば、糖尿病治療薬が抗癌剤としても有用というときに、進歩性が否定できないように。まさか糖尿病患者にがん患者が1人もいないとは思っていないですね?たくさんやればがん患者を治療してしまうという場合であっても、進歩性は否定できないのと一緒。

しかし、PCSK9中和抗体を用いて血中LDLレベルの制御を行うという用途がすでに先行者の論文において示唆され、中和抗体を取得する動機付けも一般的手法も存在していたときに、いち早く良好な中和抗体のスクリーニングに成功した者が、中和に重要な遮断部位近傍に結合する競合中和抗体を総取りできるか、という本件の問題は、「抗癌剤として用いるという用途がまったく知られていないときに、その用途に限定された用途発明に新規性・進歩性が認められるか」という問題とは違うのであり、両者を「一緒」ということはできない。 なおこれら2つのツイートは、ノーベル賞をとられた本庶佑先生の発明(PD-1抗体医薬用途発明)を意識したものと思われるが、本件発明と本庶発明とはまったく違うことを指摘する論文としては、次に紹介する東大の桝田先生の論文がある。

*   *   *

・桝田祥子, AIPPI Vol.65 No.8 (2020) 32-46

この桝田論文も、本件判決には批判的だ。

[桝田論文 33ページ右]
今回の・・・知財高裁判決は,すでに確定しているが,機能的・作用効果クレームの問題点について十分に議論されたか疑問が残る。

[桝田論文 35-36ページ]
・・・,PCSK9の構造および生体機能の解明は,PD-1とは異なり,分子生物学や医学,疫学分野の複数の研究者・研究チームが独立して段階的に行ったものである。そして,PCSK-9抗体医薬特許(「1. はじめに」参照)の特許出願(優先日: 2007年8月23日)は,これらの先行研究の積み重ねにより, PCSK9の生体機能に関し,関連疾患や分子メカニズムの全容が明らかになりつつある中で行われた。当該特許出願で開示されたPCSK-9抗体の発明は,PCSK9の生体機能の多くがすでに公知である中で,新たに特定した立体機能に基づくものであったと考えられる。上記PD-1抗体医薬特許出願が,新たな関連疾患および分子メカニズムに基づく抗体を開示したのに比べると,その差は歴然としている。

[桝田論文 42ページ右]
 本報で検討した機能的・作用効果クレームは,・・・,・・・これを文言通りに解釈すると,・・・,・・・ 同一の作用機序の抗体医薬すべてを,権利範囲に含むことになる。 抗体の機能を追加し顕著な効果を奏する限定クレームにおいても,顕著な効果というのは,結局,医薬用途に足る作用効果のことであるので,事実上,同一の作用機序の抗体医薬はほぼすべてが含まれる。
 同一の作用機序の医薬品に関し,特許権者である一企業が市場を独占する状況は,これまでの医薬品産業の商慣行にはなかったことである。

[桝田論文 43ページ左]
・・・,真っ先に,抗体を「獲得」し,特許権を得た者だけが,新たな作用機序の抗体医薬を開発し,その市場を独占できるとすると,そうでない場合に比べて,医療の選択肢が狭まり,また医療の進歩が遅くなるという懸念である。これは,医薬品産業の発展を阻害するものであり,特許法の法目的(1条)にそぐわない。

[桝田論文 44ページ左]
・・・,アムジェンがPCSK9抗体医薬特許で開示した技術的思想は,先行研究の積み重ねの上に明らかになったPCSK9の立体機能の一部に基づくものに過ぎず,PCSK9のLDL受容体リサイクリング調整機能に作用する抗体医薬すべてを排除できる権利を享受できるほどのものであったかは疑問である。

桝田論文のこうした指摘はとても共感できる。 今回の事件を見て私が思い出してしまったのは、特許庁が公表した啓蒙動画で出てくる悪役の以下のセリフだ。

[Youtube 商標拳〜ビジネスを守る奥義〜 (JPO Channel)より]
「お前らが汗水流して生み出したものが、後発の俺たちにあっさり乗っ取られちまう。滑稽だな!」

もちろん、本件特許権者は、実用に足るPCSK9中和抗体を初めて詳細かつ広範に公開することで、医薬品実用化に貢献したことは確かだろう。 しかしPCSK9中和抗体でLDLコレステロールを制御するという発明は、本件特許権者のみが生み出したものではない。 Lagace et al. を初めとする先人たちの研究の積み重ねにより生み出されたものだ。 ところが今、そうしたPCSK9中和抗体を成分とする医薬品のすべてが、スイートスポットに結合する参照抗体と「競合する抗体」という特許が取得されることにより、事実上、本件特許権者にあっさりと独占されようとしているように見える。 そして、そうした事態を引き起こすことに決定的な役割を果たしたのが、「参照抗体が容易想到ではない限り、それに競合する抗体も容易想到ではない」(クレームの発明特定事項が容易想到ではない限り、クレームの発明は容易想到ではない)という誤った論理で判断を下した特許庁や知財高裁であるように見えるのだ。 そうだとすれば、まさに滑稽というべきではないか。

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9.ネット上の参考記事

2019/01/16 「医薬系"特許的"判例」ブログ
2018.12.27 「サノフィ v. アムジェン」 知財高裁平成29年(行ケ)10225
https://www.tokkyoteki.com/2019/01/20181227-v-2910225.html

2019/11/24「医薬系"特許的"判例」ブログ
2019.10.30 「サノフィ v. アムジェン」 知財高裁平成31年(ネ)10014
https://www.tokkyoteki.com/2019/11/20191030-v-3110014.html

上に挙げた「医薬系"特許的"判例」ブログのFubuki先生も、本件判決には懸念を示していて心強い(下に引用)。 また、本件に関するFubuki先生のツイートを引用する形で、判決に疑問を呈するツイートをされている方もいる。

[医薬系"特許的"判例 ブログ(2019/01/16投稿)より]
この請求項が明確性、サポート要件、実施可能要件を果たして満たしているといえるのかどうか、極めて議論のある判決ではないか。今後このようなリーチスルー特許が多数乱立することは容易に想像できる。今回の裁判所の判断は産業の発達に寄与することを目的とする特許法の趣旨に沿うものだったといえるのだろうか疑問が残る。

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10.神戸大 前田先生の論文について

・前田健, 神戸法学雑誌70巻1号, 63-116 (2020)
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81012050

この論文も本件判決には批判的だ。 但しこの論文の主な話題は、本件が「サポート要件」を満たさないという話で、前田論文において、本件判決に対する評釈が始まる81ページから104ページまでの24ページにわたって「サポート要件」について論じられている。 「進歩性」について論じられているのは107〜115ページの約8ページで、ページ数的にはサポート要件に関する議論の三分の一程度に過ぎない。 したがって前田先生の中では、本件が提起する主な問題は「サポート要件」だと認識されているのだろう。

なお「医薬系"特許的"判例」ブログのFubuki先生も、上に引用したとおり本件についてサポート要件等の記載要件の問題を懸念されており、10月12日の投稿で取り上げた田村先生の論文(田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237)でもサポート要件で本件の特許性を否定することが論じられており、その後で公開された劉先生の論文(劉一帆, 知的財産法政策学研究 Vol.57 (2020) 155-187)でも、本件はサポート要件を満たさない旨が論じられている(186-187ページ)。

確かに、本件を記載要件違反に問うことはできると思うが、私は前にも書いたとおり(2019年02月19日の投稿を参照)、サポート要件や実施可能要件などの記載要件というのは “眉唾” な要件だという気がしているから、進歩性を否定できるのなら、進歩性を使うに越したことはないと思う。

例えば本件の場合、PCSK9というタンパク質は出願前に知られていたわけだが、仮にPCSK9が出願前にはまったく知られておらず、PCSK9を初めて同定して特許出願した場合、「PCSK9タンパク質」という特許が取れるのみならず、「PCSK9タンパク質に対する抗体」という特許も取れることに異論はないだろう。 特許が取れる以上、「PCSK9タンパク質に対する抗体」という発明は、当然、実施可能要件やサポート要件などの記載要件は満たされるとみなされるわけだ。 そしてひとたび「PCSK9タンパク質に対する抗体」という特許が付与されたなら、PCSK9タンパク質に特異的に結合するあらゆる抗体はその特許の権利範囲に含まれるのであって、当然、その範囲には「PCSK9中和抗体」も包含されるし、本件の参照抗体(具体的には、21B12抗体や31H4抗体)や、それらの抗体に「競合するPCSK9中和抗体」も包含されるわけだ。 つまり、PCSK9タンパク質が初めて同定されたというだけで、PCSK9中和抗体を含むあらゆるPCSK9抗体は実施可能要件やサポート要件が満たされると判断されるのに、PCSK9が公知になって随分経ってから出願された本件において、何を今さら実施可能要件やサポート要件が問題になるというのだろうか?(笑)

もちろん、これは半分冗談で言っているのではあるが、そういうことを考えれば、実施可能要件やサポート要件というのが、いかに「おかしな要件」であるかということが分かるだろう。 これについては、Sotoku 8号(「10.節」32ページ以降)でも書いたが、要するに、特許発明の核心部分に大きく依拠しているとみなせるのか(特許発明の核心部分を利用しているとみなせるのか)ということが実施可能要件やサポート要件の充足性の判断の決め手なのであって、出願時点では実施できないような態様であっても、その態様は特許発明の核心部分を大きく利用することになるだろうとみなせるのなら実施可能要件やサポート要件は充足するものと扱われうるのだし、みなせないのなら、実施可能要件やサポート要件という要件を “便宜的” に使って特許性を否定しているというのが、今の特許実務(の深層心理)なのだと思う。

なお、そういう考え方に基づけば、本件の特許性を実施可能要件やサポート要件に基づいて否定することは十分可能であっただろう。 本件特許のクレームは、本件参照抗体と競合するあらゆるPCSK9中和抗体を包含するものだが、いくら明細書の実施例に多数の中和抗体が記載されているとしても、クレームの範囲に包含される中和抗体のすべてを取得することは、現実には、およそ不可能か著しく困難であろう。 それは、クレームの範囲に包含されるサノフィの中和抗体やそれと近い抗体が、本件明細書には開示されていないことからも支持されるだろう。 したがって、本件クレームは、本来は記載要件を満たさないのだ。 しかしそうであっても、クレームの範囲に包含されるあらゆる抗体について、「本件発明に大きく依拠しなければ取得できないだろう」(すなわち、本件参照抗体を利用しなければ取得できないだろう)とみなせるのなら、実施可能要件やサポート要件は充足するものとして扱ってもさしつかえないかも知れない。 しかしそうとはみなせないのなら、クレームの範囲に包含される中和抗体のすべてを取得することは上述のとおりおよそ不可能か著しく困難である以上、実施可能要件やサポート要件を発動して本件を拒絶すべきだということになる。 そして本件の場合、クレームの範囲に包含される抗体は、「本件発明に大きく依拠しなければ取得できないだろう」(すなわち、本件参照抗体を利用しなければ取得できないだろう)とみなせるのかと言えば、本稿で延々と説明したとおり、みなせないであろう。 したがって、本件は記載要件を満たさないものとして、拒絶されるべきものだというのが私の考えだ。

以上のとおり、本稿では本件の進歩性について長々と説明したものの、たとえ本件クレームの抗体を取得することは本件出願前には容易ではなかった(すなわち本件発明には進歩性がある)と判断されるとしても、なお本件を記載要件違反に問うことは可能だと考えている。

*   *   *

さて、記載要件の話はそれくらいにして、進歩性について前田論文が記載していることについていえば、前田論文の趣旨は、今回の私の投稿と基本的に同じだと思う。

しかし書き方が今一つ気に入らないのだ。(前田先生ごめんなさい。)

前田論文は、「進歩性判断においては様々な論点があり得るが、本稿で問題としたいのは、創作の技術的困難性が問われているのは、請求項において特定されている発明思想なのか、あるいはそれを構成する個々の具体的技術なのかという論点である」と論じ、前者(すなわち「発明思想」の困難性を問う考え方)に「構成説 特定事項説」という名前を付け、後者(すなわち「個々の具体的技術)の困難性を問う考え方)に「具体物説」という名前を付けている(109ページ)(←なお前者の説は、春に公開された前田論文の暫定稿では「構成説」というよろしくない名前だったが、秋に公開された最終稿では「特定事項説」というましな名前に修正された)。 しかし、そういう論法からして不満を感じてしまう。

なぜなら、「発明とは何ですか?」と訊かれれば、日本人であれば皆、「技術的思想の創作です」(特許法2条)と答えるに決まっているのだから、「発明の容易想到性とは何を判断するのですか?」と問われれば、「技術的思想の創作の容易想到性を判断するのです」と答えるのが自然だし、それを否定することはできないだろう。 それなのに前田論文は、否定したい方の考え方をわざわざ「発明思想」の困難性を問う考え方だと論じている。 これでは、こっちの説の方が正しいように見えてしまうではないか(笑)。

私は、この問題にいちいち「〇〇説」や「△△説」という名前を付けて、どちらが正しいかについて対立があるかのように論じる必要はないと思う。 上述のとおり本件において知財高裁は、クレーム中に記載されている発明特定事項に過ぎない「参照抗体」が容易想到ではないことをもって、「・・・から,・・・」(平成29(行ケ)10225および平成29(行ケ)10226)、「したがって,・・・」(平成31年(ネ)10014)のようにクレームの発明は容易想到ではないと結論づけているのであり、誤りであることは明らかだ。 このことは私や前田先生だけでなく、上記の深澤先生らの論文(パテント 2020 Vol.73 No.2, 146-150)でも指摘されている。 さらに言えば、特許権者でさえそこに異論はないのではないか? そのことは上に引用した中島論文の52ページ左に、当事者同士は「PCSK9との結合に関して参照抗体と競合する抗体(・・・)が想到容易か否かを争ったのに対し,本件各判決では,参照抗体自体の容易想到性について判断しており,・・・」と記載されていることからも分かるだろう。 こんなものは「説」に格上げするまでもない。 少なくとも、「思想 vs. 具体物」という対立構造で論じるのは自虐的すぎる。

(と思いつつ、最近、加藤志麻子先生の論稿(『ビジネスローの新しい流れ 片山英二先生古稀記念論文集』, 青林書院, 2020, 121-142)(本事件とは無関係)を読んでいたら、「・・・,一般的な物の発明に関しては,・・・,技術思想自体が既に存在したか否かという観点からではなく,本願の特許請求の範囲に含まれるが既に世の中に提供されていたかどうかをもって新規性の判断を行っている。 」(123ページ)というくだりがあって、「思想 vs. 具体物」という対立構造のネーミングが前田先生と同じだと思ってしまった。)

それはそれとして、いずれにしろ、「進歩性」に関して前田論文が言わんとしていることは私と同じであり、また、深澤先生らの論文でも指摘されているところだ。 この点において特許庁審判部や知財高裁は誤った論理に基づいて結論を導いたのであり、それが見過ごされたまま本件は終結したと捉えることができるだろう。


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2020年12月09日

最判の拘束力は学問に及ぶか?


田中汞介先生のブログ(『特許法の八衢』)が12月6日の投稿で「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」事件の最判(平成30年(行ヒ)69)について取り上げているので私も何か書こう・・・。

一般論を判示するこの種の判決文を読んで思うのは、「判決文の内容をどれだけ真に受けなければならないのか」ということ。 裁判官は、判決内容について、後で解説したりは通常しないし、「判決文で是々と書いたのは、是々の意味です」とか、「あの説示は間違いでした」とか、そういうことは通常言わない。 質問はできないし、議論もできない。 つまり、判決しっぱなしで、「後は知らん」という態度なわけだ。 調査官解説が出ることもあるが、判決を行った裁判官が書いたものではないし、解釈論の一つに過ぎない。

例えば、PBPクレームの最判(平成24年(受)1204)が出された際にも、判決を真に受けたら大変だということで実務界では混乱が起きた。 その後、「一見PBPクレームのように見えるクレームでも、許容できるものは最判の射程外だ」というような理論(設樂隆一先生の「表見PBPクレーム」論など)が実務界・裁判所において生み出されることで、最判の射程は制限的に解釈され、なんとか事なきを得たわけだ。 判決直後の混乱期に知的財産分科会の会長を務められていた大渕哲也先生は、こういう事態を「災害対応」になぞらえて「ダメージコントロール」と発言されている(特許制度小委員会第6回審査基準専門委員会WG議事録の28ページ参照)。 当時はそんな感じだった。

ところが、いざ公式発言となると、皆、「最判はすばらしい判決をした」という態度をとる。 特に裁判官は。 例えば最近公開された中島基至裁判官の論稿(「PBP最高裁判決後の裁判例の展開」,in ビジネスローの新しい流れ 片山英二先生古稀記念論文集,青林書院 2020,437-445)を読んでいても、設樂先生の「表見PBPクレーム」論は妥当だと論じつつ、「PBP最高裁判決は,・・・,我が国の特許法上の難問であるPBPクレームの解釈手法を理論的に大きく進化させたものといえる。」(438ページ)と最判を大いに持ち上げている。

中島論稿は、PBP最判後の混乱と収束を解説する優れた論稿だとは思うけれど、なんというか・・・、少し白々しいというか・・・(笑)。

「物同一説」をPBP最判が判示したことについて中島論稿は、上記のとおり理論的に大きな “進化” だと評価している。 しかし、そもそも理論の正否を決めるのは最高裁の役目ではない。 Sotoku 通号6号 (24頁以降)および2017年4月11日の投稿でも書いた通り私は、PBPクレームの理論的に正しい解釈は、設樂先生が昔提唱していた「製法特定物説」であって、「物同一説」ではないと思う。 ところが「製法特定物説」を提唱していた設樂先生ご自身は、最判後、最判に沿った論稿(LT 73号,2016)を書かれているものの、「製法特定物説」は表だって主張されていないように思う。

こういう状況を見るにつけ、最判の拘束力が言論にまで及んでいるのではないかと心配になってしまう。

もちろん、最判の解釈は実務的には重要だろうし、また、そうした解釈は学問でもありうるから、最判を「前提」として、それをどう解釈するのか、という議論は当然あってよいとは思う。 しかし、最判が常に理論的に正しいことなどありえない。 もし、そういう種々の最判を所与の「前提」として特許制度を論じ続ければ、理論はぐちゃぐちゃなものとなり、むしろ理論的には “退化” してしまうことになるだろう。

学問はなにものにも拘束されないのだ。 最判に対して自由で独立した姿勢は常に持ち続けるべきものだと思う。「アレルギー性眼疾患」事件の最判における発明の効果に関する判示についても、アカデミアは、ネットのブログ等で議論されているように自由に扱ってよいのだと思う。

以上、ポエムでした。^^


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2020年11月12日

延長期間に算入すべき「実施できなかった期間」とはなにか(医薬品特許延長問題 清水紀子先生論説 知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)


医薬品の特許延長問題に関する清水紀子先生の論文(知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)。 87ページ! 読んだのはずいぶん前だけれど、遅まきながらやっと感想を書いてみようと思う。

とにかく、「延長期間」の問題について詳細に考察され、あるべき制度について大胆に意見が述べられているのがとても参考になる。 パシーフカプセル事件の最判(平成21(行ヒ)326)とアバスチン事件の最判(平成26年(行ヒ)356)により延長の許否問題は解決し、残された問題は延長された特許権の効力範囲だけだと理解している人もいるかも知れないが、そんなことはない。 パシーフカプセル事件とアバスチン事件の最判によって医薬品の承認ごとに特許を細切れに延長することが可能となったことにより、延長された特許権の効力範囲を調節するだけでは延長制度の妥当性を確保することは困難となり、「延長期間」の問題を再び考える必要性が生じていると思う(Sotoku 5号の34ページ右の最終段落)。

但し今回の清水論文には大きな不満がある。 市場競合をほとんど考慮していないように見えることだ。 先行医薬品と後行医薬品が市場で競合する場合があること、時には、切り替わってしまうこと(すなわち、後行医薬品の販売後は、先行医薬品は事実上販売できなくなってしまうこと)があるのに、そういう場合でも今回の清水論文が論じるような制度が妥当性を維持できるのかについて、ほとんど考察されていないように思う。 これは、「そんなことは考慮する必要はない」ということなのか、それとも「とりあえずこの論文では考慮しなかっただけで、これから考える」ということなのか、どちらなのだろうか? 私が(おそらく神戸大の前田先生も)後行医薬品による延長に慎重なのは、それを安易に認めてしまうと、先行医薬品と後行医薬品との間で市場競合性がある場合に不都合な結果が生じると思っているからだ。 だから、今回の論文のように清水先生が後行医薬品の延長を肯定したいのなら、先行医薬品と後行医薬品が市場で競合する場合についてもっと詳細に考えて論じる必要があるように思う。

以下、詳しくみていこう。

*   *   *

1.「二重の保護になっていない」ならいいのか

例えば今回の清水論文では、先行医薬品によりすでに延長されている特許を、後行医薬品において再び延長することに関し、「範囲及び期間のいずれも二重の保護になっていない」(189ページ10行)と論じて肯定する。 しかしその一方で、先行試験が長くて、後行試験が短い場合に、先行医薬品の延長満了より前に後行医薬品のジェネリック販売が可能となってしまうことについて「不都合」だと論じている(191ページ2行)。 しかしこれは矛盾(あるいは二枚舌)ではないか。 範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)のだから延長しても問題はないというのなら、先行医薬品の延長満了より前に後行医薬品のジェネリックが出るとしても、医薬品が実質的に違うのだから問題はないと言わなければ筋が通らない。(もちろん、そんな筋は通して欲しくないが。)

逆に言えば、たとえ範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)としても、先行医薬品と市場競合性のある後行医薬品のジェネリックが先行医薬品の延長満了より前に販売可能となるような事態は不都合だと考えるのなら、延長の可否判断においても、先行医薬品と市場競合性のある後行医薬品は、たとえ範囲が重なっていない(医薬品が実質的に違う)としても、安易に長い延長を認めるわけにはいかないと考えなければならないだろう。

Sotoku 7号 の図13と図14の違いをよく考えて欲しい。

[Sotoku 7号の図13](医薬品承認に時間がかかることにより特許権者が被る不利益)
Sotoku07-fig13_.png

[Sotoku 7号の図14](延長制度により特許権者が得る利益)
Sotoku07-fig14_.png

先行医薬品を独占実施しながら、市場競合性のある後行医薬品で特許をより長い期間延長することにより、たとえ延長範囲は重なっていなくても、特許権者は、延長制度がなかったときに被る不利益をはるかにしのぐ利益を得ることができうるのであり、その事態を「範囲は重なっていないのだからいいのだ」と言って見て見ぬふりをするのでは、医薬品メーカーとしては、むしろそうした過剰利益を得ることが目標となってしまうだろう。

*   *   *

2.先行医薬品と後行医薬品の「実施できなかった期間」を足し合わせることは妥当か

清水論文では、特許権者が後行医薬品の承認を受けた場合、その延長期間は、先行医薬品の試験期間と、後行医薬品の試験期間を足し合わせたものであるかのような図を掲載している(図16)(但し先行試験の全期間を算入できるかは別問題とのこと;図16参照)。

[清水論文の図16]
2020shimizu_fig16.png

その理由について清水論文は、以下のように説明している。

[清水論文の脚注181](強調を追加した;以下同様)
 これについては、「開発費用の回収容易化及びインセンティヴ維持」という制度趣旨 (パシーフ事件の判旨、上記6−1.参照) から、正当化できると考えている。
 というのも、新薬を最初に開発した企業 (ファースト・ランナー) は、医薬品の成功・失敗の両方の可能性に投資をしている。結果的に成功した医薬品のみが販売されるため、この事実は忘れられがちであるが、その陰に多くの開発中止医薬品がある。開発当初の段階で最適解は見つかっておらず、開発過程で修正されること (上林・前掲注33) や当初の計画とは異なる方向へ進展すること (たとえば、サリドマイドやシルデナフィルのように、当初計画されていた適応疾患とは大きく異なるもので商品化されている医薬品) も多い。新薬が上市されるまでにはこのように試行錯誤や紆余曲折があるから、企業が安心して投資することを促すためには、変更や失敗のリスクも保護する必要がある。 つまり、試験に用いられた医薬品が必ず上市され、それによって開発費用を回収できるという保証はなく、先行医薬品への投資は、おいおい開発される改良・後行医薬品への投資でもある。そうであれば、先行医薬品の試験は、改良・後行医薬品の試験も兼ねているから、改良・後行医薬品の承認をもとに特許権の延長期間を算定する際は、自社 (若しくは資本関係にある者) の先行医薬品の試験期間を加味するということになる。これによって、仮に額面上や概念上「二重の利益」となる事態が生じるとしても (本稿は上記のとおり生じないとするが)、それは本制度の趣旨から要請される保険であって、先行試験を参照することで後行開発に生じた省略期間は、延長の対象とするに値する期間であると考えられる。

私は、上の説明は延長制度の行き過ぎた拡大解釈だと思う。 「インセンティヴ付与」の名のもとに、失敗や試行錯誤までも保証してあげるのが延長制度の趣旨ではないだろう。 延長制度の趣旨とは、疾患に対して治療効果を発揮し、かつ安全性も実用レベルを達成していると見込まれる医薬品を完成させ、すぐにでも製造・販売する能力と意思がありながら、政府規制や厳重な安全性確認の要請ためそれができずに過ぎ去ってしまった期間を回復させるための制度ではないか。 つまり延長制度とは、あくまで期間侵食を補償するための制度であって、期間侵食が補償された結果として、「出願から20年の独占期間」という特許制度が本来意図している発明に対するインセンティブを回復させるものなのであり、特許制度が本来付与することを意図しているインセンティブを超えたものを医薬品分野だけに与えるための制度ではないと思う。 (その点はひょっとすると「田村 vs. 井関」の争いがあるのかも知れないが。)

しかし、まあそこはいいとして、実は私も、過去には清水論文の図16と似たような考えを持っていたこともあった。 例えば Sotoku 1号 の19ページに載せている図がそうだ(下図)。

[Sotoku 1号の19ページの図]
Sotoku01_p19r2.png

この図は、特許権者の後行医薬品ではなく第三者の後発医薬品(ジェネリック医薬品)を想定したものではあるが、後発医薬品は先行承認に依拠している以上、特許権者が行った先行承認に要した期間は、後発医薬品が「実施できなかった期間」でもあるのだから、後発医薬品に権利行使できるような特許権の延長期間としては、後発承認の期間と先行承認の期間を“足し合わせたもの”が相応しいという考えを示したものだ。 但し、先行承認の全期間を算入するのは長すぎで、算入できるのは先行承認の期間のうち後発医薬品の承認に不可欠な部分に限られるはずであるから、理論上、延長期間は、先行試験の期間から少し差し引いた期間に、後行医薬品の試験期間を足し合わせたものとなり、その期間は、先行医薬品の延長期間よりも長くなりうることが想定されている。 清水論文の図16と同じような考え方だと言えるだろう。

しかし、Sotoku 7号を書くころにまでは、私はこの考え方は妥当ではないと思うようになった。 その第1の理由は、「先行試験と後行試験は、同時に実施することができたではないか」という疑問が生じたからだ。 つまり、同時に実施すれば、どちらか長い方の期間内に両方の試験は完了できるのだから、二つの期間を「足し合わせる」合理性はないことになる。 清水論文の図16の場合、特許権者は実際には別々の時期に試験を行ったのではあるが、それは先行試験のときには、特許権者はまだ後行試験を行おうと思っていなかったから(あるいはその能力がなかったから)に過ぎないわけで、もし特許権者が初めから後行医薬品について実施する意思と能力があったのなら、先行試験の際に後行試験も一緒に行うことは物理的に不可能ではなかったのではないか。 これに関連すると思われることは清水論文の脚注184にも言及されているが、先行試験のときに後行試験を一緒に行わなかったのは、先行試験のときには「後行医薬品を実施する意思および能力」がなかったことを示しているのだと思う。

したがって、そもそも「足し合わせる」ことの合理性はないのだ。 ところが清水論文は、なぜか図18のような考えに進んでしまう。

[清水論文の図18]
2020shimizu_fig18.png

上図のとおり、先行試験と後行試験の期間を足し合わせるだけでなく、先行試験と後行試験の間の期間までも算入してよいというのだ。 まぁ、確かに、上図のように「先行試験の開始時から後行試験の終了時までずっと続いていた」と考えれば、両者を「足し合わせる」ということをしなくてよいから、足し合わせることに対する批判はかわすことができるのかも知れないが、先行試験の期間と後行試験の期間の和でさえ「長すぎる」というのに、その間の期間までも延長期間に加算する図18のような考え方になぜ進んでしまうのだ?

これについて清水論文は、図18の四角の中にも書いてある通り、「実施する意思および能力」がなかったと評される期間は後で差し引くのだからいいのだ、という考え方のようだ(脚注178および181の最終文も参照)。 しかし一方で、「正確な判断をするためにコストをかける必要性は見出せないため、・・・、全期間を必要な期間としたうえで、認定できる範囲で空白期間を差し引く方法が現実的であるように思われる。」とも言う(脚注185)。 しかしこんな考え方では、“なし崩し的” に全期間の延長を特許権者に与えることになってしまうのではないか? 早期にジェネリック医薬品が出ずに薬価が不必要に高止まりすれば、そのコスト負担は保険制度を介して国民にまわされることになる。 それなのに、なぜ「必要性は見出せない」と言えるのか? 先行試験期間と後行試験期間を足し合わせるだけでなく、その間の期間までも加算し、差し引くべき期間が認定できれば差し引くという考え方を提示した上で、差し引くべき期間を認定するために「コストをかける必要性は見出せない」というのは、初めから “なし崩し” を狙っているようにさえ見える。 コストをかけたくないというのなら、先行試験の延長期間で一律にそろえる方が、算定にかかるコストも国民に対するコストもずっと抑えることができるだろう。

以上が、先行試験と後行試験の期間を足し合わせることが妥当ではないと思う「第1の理由」だ。

先行試験と後行試験を足し合わせることが妥当ではないと思う「第2の理由」は、先行医薬品を独占実施しながら、それと市場競合する後行医薬品の試験を行う場合、後行試験の期間は「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」とはそもそもみなせないからだ。

例えば先行承認で2年延長できたとして、その先行医薬品を独占実施しながら、その先行医薬品と切り替えられるような後行医薬品を開発して試験を行う場合、特許権者としては当然、先行延長より長い期間延長を狙うだろう。 それは「懸念がある」などというものではない。 そうすることが、利潤を追求すべき企業としてあるべき姿だからだ。 清水論文は、「一般的には一旦治験まで始めた新規化合物について開発速度を手加減するということは投資回収、市場競争面から見ればありえないことである」とか、「大局的に考えれば、巨大な費用を以って行う新薬開発は企業にとってみれば投資の回収競争であり時間との戦いである」という製薬会社のコメントを掲載している(180ページ)。 こうしたコメントとみると、わざと時間を長引かせるなどというのは杞憂だと思うかもしれないが、こうしたコメントは、先行医薬品を独占実施しているような状況を想定したものではない。 それに、「投資回収」という言葉が使われていることからも分かるとおり、そもそもこれらのコメントで「ありえない」とか「時間との戦い」だと言っているのは、「投資回収」(利潤)を最大化するためだ。 そして先行医薬品を独占実施して利益を得ている場合は、それと切り替えられるような後行医薬品で別途延長を図り、全体としての独占期間をなるべく延ばすことが、投資回収の観点では優先事項となるのは自明だろう。

これに対して清水論文は「濫用の懸念があるから延長を認めないとするのではなく、『実施する意思及び能力』の有無を延長期間に反映させることで解消すべきと考える。」(脚注180)というのだが、一体どうやって「実施する意思及び能力」の有無を判断するのだろうか? それに上述のとおり、「正確な判断をするためにコストをかける必要性は見出せない」とも述べていて、どこまで本気で考えているのかにも疑問がある。 例えば後行医薬品の治験に5年かけたとして、「5年」という数字の妥当性をどうやって判断できるのか? 「3年」の治験でも承認は取れただろうに「5年」かけた場合、その「5年」という期間は、すべて「実施する意思及び能力」があってもなお実施できなかった期間とみなしてよいのか? そうだとすれば、特許権者は試験期間を恣意的にコントロールできてしまうだろう。 それとも、「3年」でもよかったのか厳密に吟味して、2年差し引くことにするか? そんなことをいちいち判断するのは現実的ではないのではないか? つまり、試験期間の全期間にわたって、「実施する意思及び能力」があってもなおどうしても実施することができなかった状態であったと言えるのかを検証することなど、そもそも困難だと思う。

ではどうすればよいのかというと、そういうことをいちいち判断しなくても、試験期間が「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなしても許容できるように制度を設計すればよい。 先行医薬品を独占実施しているような状況で、市場競合する後行医薬品の承認試験を受ける場合は、時間をかけることでかえって特許権者の利益になりうることは上述した。 そのような状況では、特許権者は必要以上に時間をかけることにインセンティブが生じるから、試験期間を「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなすことはできないのだ。 それに対して、特許権者が市場競合性のある医薬品を独占実施していない状態で行われる先行医薬品の試験であれば、試験期間を長引かせようというインセンティブは生じないから、特許権者はなるべく無駄を省いて短期間で承認を受けようと最大の努力をするだろう。 また、たとえ最大の努力をせずに承認までの時間が長引いたとしても、それにより特許権者は「販売できない」という不利益を受けるから、たとえその分だけ延長期間が長くなっても、特許権者が最大の努力をして最短の試験期間で医薬品の承認を受けた場合と比較して過剰な利益を受けることにはなりにくい。 したがって、そのような状況下で受けた試験期間を「実施する意思および能力があってもなお実施できなかった期間」だとみなし、それをもとに延長期間を決めることによって、制度の妥当性も確保できるだろう。 私は、「後行医薬品は延長を認めるべきではない」と言っているのではない。 市場競合性のある後行医薬品については、先行医薬品の延長期間の終期に揃える方がよいのではないですか、と言っているのだ。 それにより、後行試験が短い場合でも特許権者は安心して開発ができるだろう。

*   *   *

3.薬事規制の変更で承認された場合は規制が変更される前の期間も延長すべきなのか

先行試験と後行試験の間の期間までを含めた全期間について延長することを肯定できる場合として清水論文は、先行試験と後行試験との間で薬事規制が変更された場合を挙げている。

[清水論文の図21左]
2020shimizu_fig21L.png

これは清水論文の図21の左側に掲載されている図だが、清水論文の139〜140ページの「ケースB−1」(図8)に対応する図のようだ。 具体的にどういう状況なのかが分かりにくいが、「・・・ケースB−1糖尿病の場合、糖尿病薬を開発するに当たってはそもそも単剤としても糖尿病治療に有効であることが前提で、当然単剤の有効性試験も行われている。それに加えて、臨床上の併用処方を見越した各種併用試験が行われたのであり、・・・」(200ページ)、「平成22年のガイドライン策定後、代表的な糖尿病薬との各種併用が臨床試験により確認されれば、『糖尿病』を効能効果として申請できることになった」(139ページ)と記載され、図8では後行試験として「イとの併用」の試験が行われていることからして、先行試験は「単剤試験」と「アとの併用試験」を行い、併用については「ア」との併用に限らず広く承認されることを期待したが、そのときは併用については「アのとの併用」しか認められず、その後、規制が変わって「イとの併用試験」さえ追加で行えば任意の併用が認められることになったため、後行試験で「イとの併用試験」を行って、任意の併用が可能となったということだろうか(下図)。

[清水論文の図21左(赤字はこちらで追加)]
2020shimizu_fig21Ln1.png

そして清水論文は、この場合は先行試験の開始日(但し特許登録の方が遅い場合は特許登録日)から後行医薬品の承認日までの期間をすべて延長期間としてよいのだという(200〜201ページ)。

確かに気持ちとしては分かる。 先行医薬品と後行医薬品との間に市場競合性がない場合は、後行医薬品を実施できなければ特許権者はそれについて利益を上げることができず、時間だけが過ぎ去ってしまうからだ。 だから、承認されたあかつきには、特許権者が被った不利益を回復させてあげようということなのだろう。 しかし、実際に制度にするとなるとどうなのだろうか・・・。 先行試験の開始時点では、限られた併用試験のみでは広く併用を承認することは有効性や安全性の点で問題があると薬事当局(厚労省)は考えていたとして、それは薬事当局が悪いのか? 有効性や安全性の点で本当に疑問はまったくなかったのか? 先行承認の後で、薬事当局の規制が変わったとして、それは薬事当局の気が変わったというだけなのか? 世界中で臨床データは日々蓄積されている。 つまり状況は刻一刻と変化している。 薬事当局の規制が変わったとして、変わった原因にはそうした「知見の蓄積による状況の変化」による部分もあったのではないか? 規制変更をすべて薬事当局の内部事情のせいにするのも疑問だし、仮にそれを判断するとして、どうやって正確に判断できるのかにも疑問がある。

それに、「アとの併用試験」だけでは併用を広く承認するわけにはいかないということは、先行試験の前の段階で薬事当局と相談すれば分かったことだろう。 それなのに、先行承認の際に特許権者が強引(?)に任意の併用を主張したり申請したりするというのも眉をひそめたくなる行為にも見える。 清水論文のように、初回承認の際に広く申請したという事実さえ残しておけば、たとえ初回承認では狭い効能でしか承認されなくても、後々規制が変わったときにそれまでの全期間が延長できるというのなら、特許権者としてはなんとしても広い効能で申請することに強いインセンティブが働いてしまい、薬事当局による指揮に支障をきたすのではないか。

「特定の試験をクリアすれば直ぐにでも承認できる状態」と、「特定の試験をクリアしようが、有効性や安全性の点で問題があるため承認できない状態」とは異なる。 前者は、本来なら実施できるはずの「承認済み医薬品」という発明に対する特許権の侵食期間と言えるとしても、後者は、いまだそういう権利の侵食が発生していない期間と言えるのではないか。 両者を区別せずに、「厚生労働省の事情は権利者がコントロールできない」(201ページ)ことを以ってすべての期間の延長を認めるのは、理論的にも正しくないような気がするのだが、どうだろうか。

*   *   *

4.市場が競合する場合(図21右)

先行試験と後行試験の間の期間までを含めた全期間について延長することを肯定できる場合として清水論文は、上記の例だけでなく、次のような場合も挙げている。

[清水論文の図21右]
2020shimizu_fig21R.png

これは清水論文の図21の右側に掲載されている図で、清水論文の140ページの「ケースB−2」に対応している。 具体的にどういう状態なのかについて清水論文は以下のように説明している。

[清水論文の140-141ページ]
B−2の安全性重視による一部先行承認とは、過去の薬害事件の教訓による厚生労働省の承認への慎重な姿勢であり、学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をしたものの、治験で安全性等の確証が得られず、部分的にしか承認が下りなかった場合である。たとえば、当初計画されていた55効能効果は、学術的同等性を根拠として「1日2回 50mg、あるいは 1日1回 75mgを投与することを特徴とする…用法」であったが、その段階での治験結果からでは、後者の用量について有効性や安全性が担保されないとされ、前者の用量についてのみ承認が下りた(先行処分)のに対し、後の治験で後者の用量についての試験が行われ効果が確認された結果、それも含めて全体について承認が下りた場合である。つまり、のちのち試験を補充することで当初予定し治験届に記載されていた効能効果全体が認められたことになる。

上の説明からして、特許権者は「1日2回 50mg」の臨床データさえあれば、「1日1回 75mg」については臨床試験を行わなくても、「学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をした」が、承認されなかった。 そして後日、後行医薬品(1日1回 75mg)に関する追加的な試験(後行試験a’)を行って実施が可能となった、ということだろう。 私は、「学術的知見から全体について承認を想定できるとして承認申請をした」という特許権者の勝手な思い込み(?)(あるいは強行?)をなぜ救済しなければならないのかよく分からないのだが、これについて清水論文は次のように説明している。

[清水論文の200-201ページ]
・・・ ケースB−2 一部先行承認も、学術的知見からは承認が見込め、企業は当初からその予定であったことが、治験届からも裏づけられる。にもかかわらず、承認が下りなかったのも、厚生労働省の方針による。もっとも、上述のとおり、実際には治験前に相談が行われることが多く、そこで追加の治験が必要という示唆や助言があったならば、その必要な治験を開始することは企業努力である。そのような場合、厚生労働省の方針と言い切って、一律に企業を救済できることにはならないだろう。とはいえ、基本的には、厚生労働省の事情は権利者がコントロールできないものであり、その負担は権利者に負わせるべきではない。
 したがって、ケースB−1及びケースB−2では基本的に、先行試験は参酌できるものとなり、延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる(図21)。

このように清水論文も、先行試験だけでは後行医薬品を承認することはできないことについて薬事当局から聞いていたのなら「一律に企業を救済できることにはならないだろう」と言いつつも、「とはいえ、基本的には、厚生労働省の事情は権利者がコントロールできないものであり、その負担は権利者に負わせるべきではない。」、「したがって、・・・ ケースB−2では基本的に、先行試験は参酌できるものとなり、延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる(図21)。」という。 しかしこれにはまったく同意できない。 もし特許権者が、先行試験の時点で後行医薬品の実施を本当に望んでいたのなら、後行医薬品に関する治験を一緒に行うことも検討できただろうし、そうしていれば、先行試験の終了とほぼ同時に、後行試験も終了していただろう。 それをしなかったのは、特許権者が本気で後行医薬品を実施しようという「意思または能力」を持っていなかったからではないのか?

しかもこのケースでは、後行医薬品は先行医薬品に取って代われるほどの代替性を有している。 先行医薬品の承認により、特許権者は先行医薬品を独占販売して利益を得られたわけで、たとえその時点では後行医薬品を販売できなくても、後行医薬品を販売できないことによる不利益の多くは、先行医薬品をその分多く販売することにより補われていただろう。 それなのに、それを全く意に介さないかのように後行医薬品に対して長大な延長期間を認めるのがなぜ妥当と言えるのだろうか? 後行医薬品が承認されれば、それに劣る先行医薬品の需要は大きく低下するだろう。 あるいは薬事運用上、先行医薬品は使えなくなってしまうかも知れない。 そうなれば特許権者には好都合だ。 先行医薬品のジェネリックが出てくる懸念がなくなり、後行医薬品の長大な延長期間が満了するまで、特許権者はこの市場を独占することができるからだ。 このように「ケースB−2」は、先行医薬品と後行医薬品の高度な市場競合により不合理な事態が引き起こされうるケースだ。 冒頭で述べた通り、清水論文では先行医薬品と後行医薬品の市場代替性が引き起こす不合理について考察されておらず、「延長期間の始期は特許権設定登録日となることが多いと考えられる」(201ページ)(つまり後行医薬品に対する長大な延長期間を認めることを肯定)とだけ論じられている。 その点は、この論文で大いに不満に感じるところだ。

*   *   *

5.「論文発表」が延長の始期になりうるのか

[清水論文 図20右](赤枠を追加した)
2020shimizu_fig20r.png

上の図は清水論文の図20の右側に描かれている図で、モデルケースの「ケースA」(図5B)に対応しており、先行医薬品では対象外であった疾患に対して効能を拡大させた場合を示している。 具体的な状況として清水論文は以下のように説明している。

[清水論文 128ページ]
ケースAの具体例は、疾病αを効能効果とする先行処分に対し、疾病αとは表面上異なる疾病βを効能効果とする後行処分がなされ、疾病αと疾病βに共通する分子機構である「γキナーゼ阻害剤」という特許Aを延長登録しようとする場合である。これは、先行処分の試験として、疾病αの患者を対象とする試験aが行われ、γキナーゼ阻害剤と疾病βの関係性が論文等によって報告されたのち、疾病βの患者を対象とする試験a’ が行われ、申請及び承認されたものである(図5B)。

そして清水論文はこの「ケースA」について、以下のように説明している。

[清水論文 199ページ]
・・・、ケースAは、作用機序(分子機構)と疾病の因果関係が明らかになったことを受けて、その疾病の適応拡大という能力が生じ、後行試験が行われたものである。そこで、後行試験を行う以前に、上記因果関係が論文等により裏づけられれば、後行疾患の試験を実施する能力を推認する方向に働く。このように、論文等の証拠で補填でき「実施する意思及び能力」の生じた日が前倒しされる可能性があることが、ケースAの特徴である。

つまり、上に引用した図のとおり、後行試験開始日から承認日までの期間ではなく、論文公開日から承認日までの期間を延長してよいと説くのだ。

しかし、論文公開から後行試験開始までの間、この特許権者は「実施する意思と能力」がありながらなぜ後行試験を開始しなかったのだ? むしろ、論文公開と同時に後行試験を開始しなかったのは、その時点では「実施する意思と能力」がなかったことを示しているのではないか、という疑問が生じる。

それに、そんなことを言うのなら、先行試験についても同じ問題が持ち上がるだろう。 例えば、以下のような場合はどうか。

[想定ケース1]
2020shimizu_fig20r改01.png

上の図は、先行医薬品(すなわち疾患αに対する治療薬)に関して、先行試験を開始するよりも前に、その実効性を明らかにするような論文(具体的にはγキナーゼ阻害剤と疾病αの関係性を明らかにする論文)を特許権者が公開した場合を示している。 この場合、清水論文の考え方によれば、論文公開時点ですでに「実施する能力及び意思」があったことになりうるのだから、延長の始期は、先行試験の開始日ではなく、論文公開日ということになるのか?

それに、特許明細書にはそもそも実施例が記載されていて、γキナーゼ阻害剤と疾病αの関係性はそこに開示されているわけだ。 そうすると、論文公開などなくても、出願したことをもって、それが大きな製薬会社であれば「実施する能力及び意思」はあったと認めなければならないのではないか?(下図)

[想定ケース2]
2020shimizu_fig20r改02.png

こんなことを言い出したら、治験計画の届出は意味を持たなくなってしまうだろう。 そもそも、「実施する能力及び意思」の有無を判断することは困難であって、それを判断しなくて済むように、治験計画の届出を「実施する能力及び意思」を示すものとみなすことで、現状の制度運用の妥当性や客観性が確保されているのだと思う。 清水論文は、それに挑戦するものと言えるのかも知れない。

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6.製造販売承認を受ける間も排他権は行使しえたのか

清水論文は、以下のように論じている。

[清水論文 177ページ]
・・・、医薬品であっても製造販売承認を受けるまでに第三者が実施することを排除できるため、排他権は製造販売承認申請の存在により侵食されていない。

つまり、薬事承認を受けるために臨床試験を行ったりしている間は、自分(特許権者)が「実施できない」だけであって、もし他者が実施してきた場合は、その間も排他権は行使できたのであるから、排他権は侵食されていないというのだ。

しかし、その理解は間違っている。 製造販売承認を受けようとしている期間は、その医薬品を「実施できなかった」だけでなく、「排他(禁止)することもできなかった」のであり、実施権か、排他権(禁止権)かを問わず、その医薬品に対する特許権のすべての権利期間は侵食されていたと捉えるのが正しい。 これについては Sotoku 1号 で書いて以来、ここでも繰り返し書いていて、最近では2016年09月15日の投稿や、2017年08月18日の投稿(『医薬品の承認を受ける間も特許権の排他的効力は行使しうるのか(井関涼子先生論稿ジュリスト8月号)』などでも書いている。

当たり前ながら、今問題にしているのは「承認済み医薬品」という発明の特許権の侵食についてだ。 同じ組成を持つ医薬品であっても、「未承認の医薬品」という発明に対する排他権は、製造販売承認を受けようとしている間もまったく侵食されないことは認める。 しかし、「未承認の医薬品」という発明の特許権は、実施権の部分も侵食されてはいない。 つまり「未承認の医薬品」という発明の特許権は、製造販売承認を受けようとしている期間、なんら侵食されない。 特許権者であろうが第三者であろうが、その気にさえなれば、薬機法違反になることを覚悟で未承認医薬品を売ることは物理的に不可能ではないし、第三者が未承認医薬品を販売していたら、即座に特許権を行使して侵害に問うこともできる。 それに、特許権者は医薬品の製造販売承認を受けるために、治験において「未承認医薬品」という発明を現に「実施」(製造および使用)できているわけだ。 では「承認済み医薬品」という発明についてはどうか。 特許権者がその承認を受けようとして治験などを行っている間は、確かに「実施することはできない」(つまり承認済み医薬品を製造販売することはできない)が、その「承認済み医薬品」はまだ承認を受けようとしている段階で、いまだ世の中に存在しない以上、他者が「承認済み医薬品」について実施(販売)する可能性はないのであり、他者が実施する可能性がない以上、「他者の実施に対して排他権(禁止権)を行使できる可能性もなかった」。 排他権を行使しえない状況である以上、排他権の期間は侵食されているのである。 「他者が承認済み医薬品を実施したら排他できたのだから、排他権は侵食されていない。」などという考え方は、「実施しえなかった」ことを無視するもので、その前提においてすでに間違っているのだ。

ちなみに、もし他者が、特許権者が行っている治験とは別に、独自に治験を行って承認を受けて実施した場合はどうか。 その場合は、他者が治験を行っている期間、その他者の承認済み医薬品はなんびとも実施しえず、実施しえない以上、排他権を行使することもできなかった。 つまり他者が試験を行っている期間中、「他者のその承認済み医薬品」という発明に対する特許権は、実施権か排他権かを問わず、権利行使しえなかったのであり、その特許権のすべての権利は、やはり侵食されていたと言える。 ちなみに、最近地裁判決があった「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409;令和2年7月22日判決)がこれに該当する(事件については「医薬系特許的判例ブログ」の10月17日の投稿を参照)。

このように、「排他権の期間は侵食されていない」という考えは間違っているのだ。 それなのに、排他権は侵食されていないことを前提に延長制度を説明しようとするから、不自然な説明になってしまう。 井関涼子先生の「専用権説」(日本の延長制度は専用権説に基づいているという考え方;2016年12月19日の投稿参照)もそうであるし、田村先生の「二本柱」説(実施と禁止が特許権の二本柱だと論じて、延長制度を正当化する考え方;2017年10月05日の投稿参照)もそうだ。 そして今回の清水論文の「・・・、本制度は『排他権』と『実施権』に分け、そのうち『実施権』の延長を重視するものである」(清水論文の脚注176)という説明も同様だと思う。

特許権者の特許発明に該当する医薬品を第三者が実施する場合に、特許権者が販売している医薬品と市場競合するすべての医薬品(当然特許発明の技術的範囲内のものに限るし、「競合」といっても程度問題であるから、論者によって温度差はあるのかも知れないが)に延長された特許権の効力を及ぼすことに肯定的な私や田村先生などの考え方に反対する井関先生などは、「排他権」は侵食されていないことを前提に、排他権が侵食されていないにもかかわらず、そのような広大な範囲に延長された特許権の効力を及ぼそうというのは「けしからん」と思っているのかも知れない。 しかし実際には、特許権者が販売している医薬品と市場競合しようが、しまいが、特許発明に該当する医薬品について第三者が製造販売承認のための試験を行ったというだけで「排他権」は侵食されているのであって、たとえ第三者が製造販売しようとしている医薬品が、特許権者が販売している医薬品と競合しない場合でも、その部分について特許権を延長して第三者の実施を阻止することは、延長制度として背理とまでは言えない。 にもかかわらず私は、特許権者が販売している医薬品と市場競合しない部分については、たとえ排他権が侵食されても目をつぶり、市場競合する範囲に限って第三者の実施を阻止すればよいだろうと言っているのだから、「けしからん」どころか、むしろ第三者の実施に対して「寛容」だとほめてほしいところだ。

ちなみに、特許権者の医薬品と市場競合する範囲についてだけ第三者の参入を阻止するというのは、特許権者の「実施権」の部分についてだけ保護するというのと結局は同じようなことであるから、井関先生の「専用権説」(独占的な「実施」を保護することが本質だと捉える考え方)や田村先生の「二本柱説」(二本柱の一つである「実施」を保護するという考え方)は、それなりに的を射たものと考えることはできるかも知れない。 しかし「排他権の期間が侵食されていない」という前提に基づいてそれらの考え方を導き出すのは誤りであって、正しくは、排他権も侵食されているのだが、特許権者の金銭的利益に影響を与えない部分には目をつぶり、特許権者の金銭的利益に影響する部分(すなわち独占的な実施に相当する範囲)についてだけ回復させてあげれば十分だろうという一種のバランス感覚(損得勘定に基づく判断)から導き出されるものなのだと思う。

もっとも、排他権の期間も侵食されると言っているのは、今のところ私一人だけのようだ。 裁判所も、偉い学者も皆、排他権の期間は侵食されないと論じている。 私は、この考え方が学界においていつ訂正されるのかと心待ちにしているのだが、これまで6年間何の変化もないので、あと100年くらいはこのままなのかも知れない(もちろん、私が間違っているという可能性もあるが)。

*   *   *

7.特許権の設定登録日前の期間は回復させる必要はないのか

清水論文は、延長制度が延長の対象とする期間について、以下のように論じている。

[清水論文121ページ]
ところで、この制度は、そもそも特許権の存続期間を延長するものであり、特許が設定登録されていなければならないので、特許設定登録日後の期間が対象となる。

つまり、たとえ医薬品承認のための試験を特許の登録日よりも前に開始していたとしても、登録日より前の期間については延長の対象外だというのだ。 この問題も、 Sotoku 1号の26〜28ページで書いて以来、何度も取り上げており、Sotoku 7号の脚注5でも以下のように書いた。

Sotoku 7号 脚注5]
なお現在の延長制度では、医薬品の製造販売承認の手続(治験)を開始したのが特許登録前である場合、特許登録までの期間は延長できないことになっている。 本稿では説明を省略するが、侵食された期間を回復させるという原則に基づいて理論的に考えても、また、実際に特許権者が受ける不利益を回復させるという視点で考えても、現在のそうした制度は妥当ではなく、承認手続を開始したのがたとえ特許登録前であっても、その期間も含めて延長されるべきである(Sotoku, 通号1号 (2014) の28ページ)。

最近では2017年06月20日の投稿の最後の方でこの話題を取り上げている。

延長に関する特許法の条文(特許法67条4項)は、「・・・、その特許発明の実施をすることができない期間があったときは、5年を限度として、延長登録の出願により延長することができる。」となっており、「特許発明」とは「特許を受けている発明」(特許法2条2項)を言うから、形式的に考えれば、特許になった後の発明の実施だけが延長の対象となっているように見えるかも知れない。 しかし、たとえ特許になる前の発明(すなわち、「特許出願に係る発明」)であっても、それがのちに特許発明となるのであれば、発明としては同一なのだから、この条文に言う「特許発明」にはそういう発明も含まれると解釈することも不可能ではないのではないか。

そもそも、登録前か後かで区別する理由がない。 例えば、出願公開後に治験を始めて、無事、医薬品承認を受けて販売を開始したが、特許審査が長引いて特許存続期間満了の直前にようやく特許になった場合を考えてみればよい。 その場合、もし延長ができないと、この医薬品は、発売とほぼ同時に特許期間が終了してしまうことになる(期間補償制度 (特許法67条2項) は別論)。 医薬品承認の試験を実施している間、その医薬品に係る発明は「特許発明」ではなく「特許出願に係る発明」ということになるのかも知れないが、だからといって延長させなくてよい理由などないだろう。

医薬品承認の試験を行っていたのが「特許登録後」であったのなら、「特許登録後」の権利期間(すなわち特許権の期間)を回復させ、「特許登録前」であったのなら、「特許登録前」の権利期間(すなわち「特許を受ける権利」の権利期間)を回復させるのがまずは原則だろう(下図)。

Sotoku 1号 28ページの図より一部改変]
Sotoku01_p28rfig_2020kai.png

制度趣旨に立ち返り、どうあるべきなのかを考えてこその条文解釈なのであり、条文に「特許発明」と書いてあるから(あるいは米国もそうなっているから)登録後の期間だけを延長すればよいなどと考えるのは、いわば思考停止だ。

この問題も、上の「排他権も侵食されている」という問題と同様に、いまだに私と同じことを言う人が一人も現れない。 とはいえ、私が言っていることは、「政令で定める処分を受けるのに必要な試験を開始した日又は特許権の設定登録の日のうちのいずれか遅い方の日」を延長期間算定の始期と定める特許庁の審査基準(第IX部第2章 3.1.3)に反するし、同旨を判示した最判(平成10年(行ヒ)43)にも反する。 したがって、この問題に関して私と同じ側につくということは、審査基準や最判は間違いだという立場に立つことになるのではあるが。

今回の清水論文の脚注180でも紹介されているとおり、私は市場競合する複数の医薬品について何回も延長を行った場合の終期は、初回延長の終期にそろえるのがよいと思っているが、それが妥当ではないと感じるとすれば、その原因の一つは、初回承認は特許登録より前に試験を開始することがあり、その場合に現行の運用では特許登録前の試験期間が延長期間に算入されず、十分な期間を延長できないということがあるのだろう。 確かにこの場合に後行医薬品の延長期間を初回延長期間の終期にそろえてしまうのでは、特許権者は不当な不利益を被ってしまう。

これは現在の延長制度の “不備” というべきものだが、見方を変えれば、この不備があるからこそ、それを補うために、後行医薬品についてさらに延長を行うことでより長い延長期間を確保し、実質的に独占期間を先延ばしすることが製薬会社によって模索され、それが実現されてきたという側面もあるのかも知れない。 したがって、この問題と複数回延長の問題は同時に包括的に解決されることが望まれるのであり、この問題(特許登録日前の期間が算入されないという問題)だけを解決すればよいというものではないかも知れない。

*   *   *

8.試験の実施者・承認申請者・特許権者の「主体関係性」は必要か

清水論文は、延長登録制度においては三つのアクター(主体)が存在すると指摘している。 「試験の実施者」、「処分を受けた者(=承認申請を行う者)」、および「特許権者」の三者だ(153ページ)。 そして清水論文では、延長制度においてこれらの関係性(すなわち、主体の関係性)はどうあるべきかが考察されている(清水論文の152〜157ページ、165〜167ページ)。

[清水論文 図9]
2020shimizu_fig09.png

現行の特許法67条の7第1項2号は、「その特許権者又はその特許権についての専用実施権若しくは通常実施権を有する者が第六十七条第四項の政令で定める処分を受けていないとき。」は延長出願を拒絶すべき旨を規定している。 したがって、少なくとも現行特許法は、「特許権者」(またはライセンシー)と「処分を受けた者」とが一致していることを求めているという意味で、主体の関係性を定めているとは言えるだろう(上図の「2号」と書いてある矢印)。 しかし現在の特許法や審査基準などをいったん棚に上げ、「特許期間の侵食を回復させる」という観点で考えた場合に、主体の関係性は本当に必要なのだろうか? 私はSotoku 1号を書くときにこの問題を考えて、特許期間の侵食を回復させるという観点で考える限り、主体の関係性は不要だという結論に達した。 今回改めて考えて、これについてコメントしてみたい。

例として適当なのかどうか今ひとつ自信がないが、これを説明するためにSotoku 1号では「日本凍結」の話を考えた。 ある日、日本中が一瞬で凍り付いたとする。 道を歩いている人は、その場で凍り付いた。 建物の中にいた人も、その場で凍り付いた。 そして10年間日本は凍り続け、10年後に突然、元に戻ったとする。 つまり、日本中の人が、一瞬で10年が過ぎ去ってしまったのだ。 凍り付く前に特許出願していた場合、20年の特許期間のうち10年が一瞬で過ぎ去ってしまったことになる。 凍り付く前に特許期間満了まで残り10年だった特許は、一瞬で特許がなくなってしまったことになる。 これでは明らかに不都合だが、どうやって救済すればよいか? 答えは簡単で、一律10年間延長することにすればよいだろう。 この場合、特許を延長するにあたって、特許権者やライセンシーが特許発明を実施していたこと、あるいは実施しようとしていたことを求める必要はないと私は思うが、多くの人もそれには同意できるのではないか。

清水論文でも言及されているとおり、特許権とは一定期間許可なく他者に実施させないという特権であって、「特許権を取得した者が実際に実施することまでは求めていない」(177ページ)。 「許可なく他者に実施させないという特権」を行使しうる状況ではなかったのなら、その期間、特許権は侵食されていたのであり、特許権者が実施しようとしていたか否かにかかわらず、その期間を回復させる(すなわち特許期間を延長する)理由はある。

なおこれは、上の「6.」で話題にした「排他権は侵食されていたのか」という問題とも関連する。 誰も実施し得なかった期間(試験期間)中は「排他権は侵食されていない」と考えている人は、特許権者が実施しようとしていない場合は、侵食された権利はないということになり、延長する必要もないという結論になるのかも知れない。 しかし誰も実施しえなかった期間は、上述のとおり排他権を行使することもできなかったのであり、排他権も侵食されていたのである。 したがって、特許権者が実施しようとしていようが、いまいが、誰も実施しえない期間は回復させる理由はあるのだ。 少なくとも理論的には。

医薬品の承認を受ける場合にも類似したことが言える。 承認を受けるための試験を行うのに要する期間は、特許権者がその(承認済み)医薬品を実施しえない期間というだけでなく、他者もその(承認済み)医薬品を実施しえない期間である。 よって、その期間中は、その(承認済み)医薬品の実施については、日本中が凍結していたようなものだ。 したがって、その間だけ特許期間を回復させることには理由がある。 特許発明は一般に、他者(第三者)でも実施できるように、その発明について明細書に詳細に記載されている(特許法36条6項1号、4項1号)。 したがって特許期間とは、他者が実施しようと思えば実施できるのに、特許により実施することが禁止されている期間だ。 分かりやすく言えば、特許期間とは、その特許発明を利用したい他者にとって「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という苦い思いをさせられ続ける期間だ。 つまり特許法は、20年間(但し出願から公開までの期間を除く)にわたって、「他者にそういう思いをさせ続けること」を規定していると言える。 まるで「嫌がらせ」のようで、あまり良い気分はしないが、それが特許権というものであって、誰かが実施する必要はない(裁定の規定は別論)。

ところが医薬品の承認を受けるために要する期間は、そういう期間ではない。 なぜなら、医薬品の承認を受けるために要する期間は、誰もその「承認済み医薬品」という発明を実施(製造販売)することはできないのだから、「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という状況ではない。 「あの特許がなくてもどうせ実施できない」期間にすぎない。 したがって、その期間は他者は「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という思いをしていないのだから、その分、特許期間を延長することにより、他者にそういう思いをさせる期間を回復させることは、特許制度として背理とまでは言えないだろう。 したがって、「特許権者」が特許発明の医薬品を実施することや、その実施に向けて「特許権者」が試験を行うことは、延長の要件として必要ないというが私の考えだ。 少なくとも侵食期間の回復という原理に基づいて考える限りは。

それにもかかわらず、上述のとおり現行の特許法67条の7第1項2号は、「特許権者」(またはライセンシー)と「処分を受けた者」とが一致していることを求めている。 これについて清水論文は「なるほど、特許権者と全く関係のない第三者が処分を受け製造販売し利益を得てしまっては、特許権者が報われず、制度の目的が達成されない。」(154ページ)と述べ、67条の7第1項2号の規定はさも当然であるかのような態度をとっている。 しかしこれは意味が通っていないのではないか。 「特許権者と全く関係のない第三者が処分を受け製造販売し利益を得てしまっては、特許権者が報われず、制度の目的が達成されない」からこそ、特許権者と全く関係のない第三者が処分を受けた場合であっても、特許権者が自分の特許を延長できるようにし、その第三者の実施に対して、延長された特許権を行使できるようにすることが求められると論じなければ意味が通らないだろう。 これが上述の「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409;令和2年7月22日判決)が想起させる問題だ。 すなわち、第三者が処分を受けて実施してしまうことを心配するのなら、特許法67条の7第1項2号の規定を批判しなければならないはずである。 「なるほど」などと言って納得している場合ではない。

特許法67条の7第1項2号が制約となって、特許権者は自分が承認申請を行った医薬品についてしか延長することができない。 しかし、そもそも自分の医薬品に対して特許権を行使しても意味がなく、他者が承認を受けて実施する医薬品に対して権利行使できて初めて延長制度は意味を持つものだ。 つまり、現在の延長制度はそもそもその設計において矛盾のようなものを抱えている。 そして、その矛盾を表出させないためには、68条の2(延長された特許権の効力範囲)を巧みに解釈して運用する必要があるというのが今の特許延長制度だ。 これは特許権者が自分で承認申請を行った医薬品についてしか延長することができないことを規定している67条の7第1項2号がもたらす問題と言うこともできるだろう。

もっとも、上記の「単純ヘルペスウイルス事件」(平成31年(ワ)1409)(この判決には今のところ私は反対ではないが、後日機会があれば取り上げたい)はともかく、特許権者やライセンシーが医薬品を実施するときに限って延長できるということ自体は、立法当時から今に至るまで関係者から大きな不満は出ていないようだから、特許権者らが実施する場合に限って特許を延長できれば、それで十分だと皆は考えているのだろう。 確かに特許権者らが実施する気がない場合は、他者の実施を阻んでも特許権者は金銭的な利益を得ることはない。 単に、「くっそ〜。あの特許さえなければ実施できるのに、あの特許があるために実施できない〜。」という思いを他者に味合わせられるだけだ。 よって、特許権者自身が独占的に実施することによって得られうる金銭的な利益を保証することを重視する限りは、特許権者が実施する場合に限って特許を延長できるようにしてもよいのかも知れないし、67条の7第1項2号の趣旨もそこにあると考えることができるかも知れない。

さて、「特許権者」と「処分を受けた者」との関係性については以上のとおりとして、では「試験を実施する者」と「特許権者」との関係性についてはどうか。

[清水論文 図9](赤線と赤字はこちらで追加)
2020shimizu_fig09kai.png

これについて清水論文は、「試験を実施する者」と「特許権者」との関係性は「必要」という立場に立っており、その理由として清水論文は「『試験』が実施された後『承認(処分)』を得て販売することによって『特許』権者が報われることで、制度の目的が達成されるという流れからすれば、その過程の試験・処分・特許の主体の間にそれぞれ結びつきが必要である。」(155ページ)と論じるのだが、これも理由になっていないのではないか。 なぜなら薬事制度上、試験を行う者は特許権者と関係がある必要はないのだから、試験を他人が行った場合でも、その試験に基づいて特許権者は医薬品の承認を得て販売しうるし、それによって特許権者は報われうる。 そういう「流れ」は無視してよいのか?

清水論文は「試験を実施する者」と「特許権者」とに関係性が必要ということの条文上の根拠を、特許法67条の7第1項3号の規定(「その延長を求める期間がその特許発明の実施をすることができなかつた期間を超えているとき。」)に読み取ろうとしている。 試験を特許権者自らが行っていない場合は、その特許権者は(実施の意思および能力があってもなお)「実施をすることができなかった」とはみなせないから、上記3号の規定に抵触するとみなすということだろう。 また清水論文は、延長制度の創設当時の立法担当者が、延長制度について、「・・・、実験データ等の収集を行い・・・、そのための努力を要求され、かつ、その間特許発明の実施ができないため、特許権からの利益を享受することができない人々を救済しようとするものである。したがって、実施ができなかった特許権者なら誰でも、すなわち、他の法律の規定による処分を受けようと努力する人と全く無関係の人でも、延長登録を受けられるわけではなく(他人に便乗することを認めるわけではなく)、・・・」(新原浩朗編著『改正特許法解説』(1987年・有斐閣) 99-100頁)と論じていたことも、「試験を実施する者」が「特許権者」と関係があること必要である理由として挙げている(清水論文の155-156ページ)。 つまり、試験(治験)を実施するという「努力」をした者に限って延長を認めるということだ。

新原先生の「努力する人」という言い方を見て感じてしまうのは、特許制度にそういう観点を安易に持ち込まないでくれということだ(Sotoku 1号 の8〜9ページ)。 私は「努力」をしたとか、そんなことは、そもそも特許とは関係のないことだと思っている。 例えば、何の努力もせずに単に偶然に発明を発見しただけでも、特許は付与されうる。 7月7日の投稿でとりあげた山下和明先生の論稿は、特許制度は「発明」を保護する制度であって「発見」を保護する制度ではないと言っているが、そもそも「発明」と「発見」は区別できるものではないのではないか? 単なる発見であろうが、それが技術的に使い道があり、容易に発見することができないものであるのなら特許要件を満たすし、特許にして差支えないだろう。 つまり「努力」など要件ではない。(但し、マージェス先生も『知財の正義』 (山根崇邦ほか訳, 勁草書房, 2017) において知的財産権の正当化根拠として「労働」に言及しているから、「努力」や「労働」を重視している人は一定数いるのかも知れない。)

清水論文の160ページには公知申請について言及があるが、例えばある特許権者が、ある効能について追加したいと思っていたが、自らは臨床試験を行わず10年くらい待ち続け、第三者による臨床試験のデータが蓄積してきて公知申請ができる状態になったので、効能追加の承認を受けたとしよう。 この場合、特許権者は「努力」していないから延長期間はゼロというのがあるべき帰結なのだろうか?

例えばこの場合、追加した効能に関する特許期間の侵食期間はゼロなのだろうか? これも、実施できなかった間、「排他権は侵食されていたのか」という問題と関連する。 実施できなかった期間中は「排他権は侵食されていない」と考えている人は、特許権者が実施しようと(努力)していない(すなわち自ら臨床試験を行わない)場合は、侵食された権利はないということになり、延長する必要もないという結論になるのかも知れない。 しかし先にも言った通り、誰も実施しえなかった期間は排他権を行使することもできなかったのであり、排他権も侵食されていたのである。 したがって、特許権者が実施しようとしていようが、いまいが、誰も実施しえない期間は特許権が侵食される期間なのであって、回復させる理由はないとは言えない。

例えば、ある効能について承認を受けるために臨床試験を行おうとした場合、どんなに労力を投入しようが少なくとも一定期間の試験期間が必要であるようなものなのであれば、その効能に関する特許期間の侵食期間は、理屈上、その期間を下回ることはないはずだ。 つまり、この効能に関する特許期間の侵食期間は、少なくとも「必須な試験期間」よりは長いはずで、ゼロということはありえない。 事実としても、特許権者は何年にもわたってこの効能について実施できていない。 私はこの場合に、この効能について承認を受けるために必要最低限の期間(つまり最短の期間)については、たとえ公知申請であろうが延長させるような制度にする方がよいのではないかと思う。 ただし、それが難しいのは、必要最低限の期間とは具体的に何年何か月なのかが分からないことだ。 見方を変えれば、「試験実施者」と「特許権者」との間に主体関係性があることを延長の要件とすることにもし合理性を見出すとすれば、それは「期間の妥当性(最短性)」を担保することにあるのだと思う。 つまり、特許権者が特許発明に該当する医薬品をまだ独占実施していない状態のときに、その医薬品の製造販売承認を受けるために自ら臨床試験を行う場合、一日でも早く承認を受けて実施を開始することが自らの利益にかなうわけで、承認までの期間を長引かせるインセンティブはない。 そのような期間は、承認を受けるために必要最低限の期間(つまり最短の期間)だとみなすことに一定の合理性はあるわけで、その期間を「特許期間の侵食期間」として、それと同じ期間だけ特許を延長することにしてもよいだろうということになる。 逆に、特許権者が臨床試験を行っておらず、無関係の者が違う目的で臨床試験を行った場合は、その試験期間が、特許権者が効能追加の承認を受けるための最短の試験期間だとみなせるかは明らかではないので、その試験期間と同じだけ特許を延長するのは妥当ではないかも知れない。 したがって、たとえば公知申請や他者の臨床試験を流用して承認を受ける場合に、他者が行った試験の全期間を足し合わせたものを延長期間とすることは妥当とは言えないかも知れない。 このように、「試験実施者」と「特許権者」との間に主体関係性が求められるとすれば、それは「努力したこと」が必要だからではなく、期間の「妥当性」が担保されることが必要だからだと思う。

そういうことからすれば、たとえ臨床試験を赤の他人が行った場合でも、まったく延長できない制度にする必要はなく、期間の妥当性さえ担保できれば、何らかの延長を認めるような延長制度もあり得るのだと思う。 例えば、特許権者の初回承認による延長期間と同じ期間の延長を認める(つまり、最短性が担保されているとみなせる初回承認で要した試験期間を、追加承認を受けるために要する最短の期間だったとみなす)ことにするとしても、現在のようにまったく延長できないことと比べて著しく不合理とは言えないかも知れないし、むしろ延長期間が揃うから分かりやすいかも知れない。 あるいは、2017年08月18日の投稿の最後の方などでも書いているように、実際の試験期間をもとに延長期間を算出するのはもうやめて、「一律〇年」と決めてしまうのもまったく不合理とは言えないかも知れない。 これだと欧州の延長制度(清水論文の脚注7)に近づいてしまうが、あらゆる医薬品は、承認を受けるために一定の「実施できない期間」は存在するのであり、それは特許権者が自ら試験を行ったか否かによらないことを考えれば、「一律〇年」と決める方がよいという考え方もありうるように思う。 同志社大の井関先生は、欧州の延長制度は「期間侵食の回復」とはまったく違う制度だと論じているが(特許研究 No.62 (2016) 16-30 の19ページ左)、私はそうとは言い切れないように思う。 なぜなら、私は「期間侵食を回復させる」ための制度を考えることにより、その選択肢の一つとして、「一律〇年」と決めてしまう考え方にたどり着いたからだ。

*   *   *

ということで、基本的には過去に書いたことの繰り返しではあるが、清水論文を読んで感じたことを書いてみた。 延長問題において「延長期間」の問題はもっとも面白いところだと思うので、これに焦点を当てた今回の清水論文はとても興味深く、また、私にとっても勉強になった。

清水先生は博士課程に進まれているようだから、今後も延長制度に関してもっとすごい論文が出るのだろう。 これからも注目していきたい。


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2020年10月28日

二次的考慮説終焉の次に期待するもの(宮崎賢司『二次的考慮説は終焉を迎えるか』知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67)


もうだいぶ前になってしまったが、特許庁の宮崎先生が「二次的考慮説は終焉を迎えるか」という論文を出された(知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67, 2020)。

二次的考慮説に対しては、私は複雑な気持ちがある。 二次的考慮説とは、発明の容易性は、あくまで発明の「構成」の容易性で判断すべきであり、発明の「効果」は、発明の「構成」の容易性を考える際に二次的に考慮されるに過ぎないという考え方だ。 しかし二次的考慮説においても、顕著な効果がある場合は進歩性は肯定されうると考えるので、その場合は、効果を考慮しなければ発明の「構成」は容易に見えるとしても、効果が顕著な場合は「構成は容易ではない」と判断することになる。 しかし、「構成が容易」なものは、効果が顕著だろうが「構成は容易」なのであって、二次的考慮説の考え方は論理的に破たんしている。 そういう意味では、私は二次的考慮説に批判的だし、二次的考慮説など終焉を迎えればいいと思っている。 しかし私は独立要件説にも批判的だから、独立要件説にも終焉を迎えてもらいたいと思っている。 だから、独立要件説を批判してくれる二次的考慮説論者を応援したいという気持ちもあるのだ。

今回の宮崎先生の論文は、『二次的考慮説は終焉を迎えるか』という表題のとおり、二次的考慮説に終焉を迎えさせようとするものだ。 二次的考慮説と独立要件説とに分かれて対立する学説に関して、「長年続いたこの議論に終止符を打つことを目指したい。」(56ページ)と論じられている。 二次的考慮説に批判的な私にとって、それは歓迎すべきものということができる一方で、今回の宮崎論文は、独立要件説を、少なくと明示的には批判してくれていない。 むしろ宮崎先生は2018年論文(tokugikon no.289, 157-170, 2018)において、自説(技術的思想の創作説)を「独立要件説の一種」だと言っている(165頁左欄)。 だから私は宮崎論文に対しても、ちょっと複雑な気持ちなのだ。

*   *   *

宮崎論文は、効果が顕著な場合は「構成は容易ではない」と判断する二次的考慮説を「後知恵」だとして批判する。 「後知恵」は、普通は進歩性を否定するために使われるものだが、効果が顕著であることをもって「構成は容易ではない」と判断する二次的考慮説も一種の「後知恵」だというのだ(図2の右上の吹き出し)。 つまり「後知恵」は、進歩性を肯定する場面でも、進歩性を否定する場面でも入り込む余地があるのであり、宮崎論文はこれを「後知恵の双方向性」と呼び、こうした後知恵を批判している(〜60ページ)。

[宮崎賢司, 知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67 の図2](赤い矢印を追加)
Miyazaki_ChizaiP_2020-v18n213_fig2.png

そして宮崎論文は、「・・・、あたかも一般論として、構成の容易性の検討段階に本件発明の課題又は効果の知見を導入することは、上述してきたように許容されない後知恵であって大きな誤りである。」(脚注21)と論じて二次的考慮説を批判する。

分かる気はする。

しかし疑問もある。

宮崎論文の上のような説明からすれば、出願前に容易に発明できたか否か(特許法29条2項)を判断するにあたって、発明した後で分かった「効果」を考慮することはそもそも「後知恵」なのであり、効果など考慮する必要はないという結論になってもよい気がする。 しかし宮崎論文はそうはならず、次のように論じる。

[宮崎賢司, 知財ぷりずむ Vol.18, No.213, 56-67 の 61ページ]
では、発明の課題や効果の予測困難性は、進歩性判断において何ら加味されない要素なのかというと、そうではなく、これらの根拠は、(一般的な判断手法としては、構成の容易性判断の次に行う段階において)その予測困難性の程度等に応じて考慮される、いわば「二次的な考慮要素」と位置付けるのが妥当である。

つまり宮崎論文は、「二次的考慮説」を否定しながら、発明の効果は「二次的な考慮要素」と位置付けるのが妥当だと論じるのだ。 この辺が、分かりづらいところなのかな、という気がする。

そして効果をどう判断するのかについて今回の宮崎論文では、「総合考慮」という言葉が頻出するのだが(脚注7、61頁11行、脚注23、24、64頁2行、66頁下から4行、脚注42、67頁5行、7行)、これを読めばどうしたって「総合考慮って具体的に何?」という気分になってくる。 すると宮崎論文は、それを察したかのように、「では、ここでいう総合考慮という最終的判断手法とはどのようなものなのかが気になるところであるが、」とあるので「キタ━(゚∀゚)━!!」と思いながら読むと次のように書いてある。

[同上 67ページ]
では、ここでいう総合考慮という最終的判断手法とはどのようなものなのかが気になるところであるが、本稿の「2.」の終わりにも、「4.」の終わりにも、繰り返し述べたとおりである。

ん?っと思いながら「2.」と「4.」の終わりを見ると以下のように書いてある。

[同上 「2.」の終わり;61ページ]
 ・・・構成が一応容易である場合は、その容易性の程度や技術的意味合いと、この二次的な考慮要素である課題又は効果の予測困難性の技術的意義やその程度等に応じて、それでもなお、進歩性を認めるにふさわしい発明か否かを、事案に応じて総合的に考慮し、判断すべきと考えられる。

[同上 「4.」の終わり;64ページ]
・・・、構成の容易性の程度や技術的意味合いと、課題又は効果の予測困難性の技術的意義やその程度等を総合的に考慮して、進歩性を認めるにふさわしい発明か否かが判断される・・・。

しかしこれだと、「総合考慮って何?」という疑問が、「進歩性を認めるにふさわしい発明って何?」という疑問に置き替わるだけなのだけど・・・。

まあ私も、効果の判断については「意味付け」などと言っているので、他人のことは言えないかも知れないが。。(2月13日の投稿など)

*   *   *

ところで大事なのは、宮崎先生の説く「技術的思想の創作説」と、私の考え方との間で、何に進歩性を認め、何に進歩性を認めないかという最終判断に違いが生じるかという点だ。 具体的には、例えば「シュープレス用ベルト事件」(平成24(行ケ)10004)がそうであるかも知れないように、発明されるのも間近だったと評されるような発明に顕著な効果が見出された場合に、進歩性を認めるのか否かという点だ。 2018年論文(tokugikon no.289, 157-170, 2018)において宮崎先生は「独立要件説」を支持できる根拠について、「・・・,構成の容易想到性がいえても,予測困難な効果を奏する発明をし,世に公表した者への見返り(褒美,報奨等)と考えれば理解しやすいように思われる。」(165頁)と論じており、宮崎先生自身が説く「技術的思想の創作説」も、基本的にはそうした考え方に根拠のようなものを見出しているのだろうと思う。「褒美・報奨」という考え方からすれば、発明されるのも間近だったと評されるような発明であっても、顕著な効果を見出していち早く出願した者には「褒美・報奨」として特許権を付与するという考え方も正当化しうるかも知れない。

それに対して私は、進歩性判断の根拠はあくまで「フリーライドの防止」(および、でたらめ・ありきたりと評される発明の排除)であって、仮に第三者が将来、特許発明と同じ発明を実施していた場合に、それが特許発明にフリーライドしているとはみなせないようなものについてはそもそも特許を与えることはできないと考えるから、その発明が特許出願人により公開されなくても、誰かに発明されるのも間近だったと評されるような発明については、たとえ顕著な効果があろうが特許は付与できないと判断することになる。

そうすると、宮崎先生の「技術的思想の創作説」と私の考え方とでは、何に進歩性を認め、何に進歩性を認めないかという点で違いが生じ得ることになるが、これについて今回の宮崎論文は次のように論じている。 つまり、神戸大前田先生が2019年論文(L&T 82, 2019-1, 33-44)の37ページ右において、「・・・、すぐれた成果に対する報償という説明は、特許法の目的は『発明の奨励』(特許法1条)であり創作のインセンティブ付与であるという説明や進歩性とは技術的にすぐれていることをいうものではないという説明と不整合である、・・・との批判が可能である。」と論じ、「褒美・報奨」を進歩性肯定の根拠とすることを批判していることについて、次のように論じている。

[同上 脚注28]
・・・、「成果に対する報償」という説明と「創作のインセンティブ付与」という説明は不整合なことはないし、両立もし得るように思われる。 確かに(研究開発等の競争が激しい、特許出願が活発で)近々世に出るであろうという発明であって、インセンティブ付与の必要性に乏しい場面は想定し得る。 そういう状況では、1つの出願における上記「成果」が相対的に小さいかもしれないので、その場合はそれに見合う報酬も小さくなるか又は0となるのだと考えて無理はないと思われる。

つまり宮崎先生は、近々世に出るであろう発明については「報酬も小さくなるか又は0となるのだと考えて無理はない」、すなわち、そういう場合は効果が高くても進歩性を否定しうる旨を論じているのだ。 宮崎先生がこれをはっきり書いたことは重要で、特許庁の岡田先生の最新論文(特許研究)がこれについて触れていないのとは対照的だ(7月7日の投稿を参照)。

そうすると宮崎先生については、どういう場合に進歩性を認めるのかという最終結論において、先生と私との間に決定的な違いは生じないのかも知れない。

また宮崎先生は論文の最後で「山下説」(山下和明「審決(決定)取消事由」竹田稔ほか『特許審決取消訴訟の実務と法理』, 発明協会, 2003)を紹介した上で、これを「言い得て妙」と評している(67頁)。 7月7日の投稿でも取り上げたとおり、「山下説」は、効果に基づいて進歩性を肯定するためには、「効果の顕著性・予測困難性」のみならず「発見の困難性」も必要である旨を説いている点で、そもそも一般に理解されている「独立要件説」とは一線を画している。 宮崎先生がどこまでそれを意識しているのかは分からないが、上記のとおり、宮崎先生自身、近々世に出るであろう発明については効果が高くても進歩性を否定しうる旨を論じていることからすれば、宮崎説も、山下説と同様に「独立要件説」とは一線を画していると言えるのではないか。

だとすれば、説明の仕方の違いはともかく、少なくとも、何に進歩性を認めるのかという最終結論については、私は宮崎説を支持することができるのかも知れない。

*   *   *

しかし、「近々世に出るであろうという発明は、効果が顕著でも進歩性を否定する」という、宮崎論文が脚注28で説く考え方は、二次的考慮説を終焉させることで実現できるものではない。 むしろ、「効果が顕著なら進歩性を肯定する」という単純な「独立要件説」こそ、こうした場合に進歩性を否定することを阻むからだ。 したがって、私が宮崎先生に期待したいのは、そうした単純な「独立要件説」をも終焉させてくれることだ。

「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」事件で最高裁は、進歩性を否定した原審に対し、予測を超える顕著を再審理させるために事件を知財高裁に差し戻す判決を行った(平成30年(行ヒ)69)。これは解釈次第では、「予測を超える顕著な効果があれば進歩性あり」という単純な「独立要件説」を支持したかのように見える。 しかし大寄調査官解説はそうした単純な図式で最判を解説することをせず、総合考慮がさらに必要であるとする考え方にも言及しつつ、そうした総合考慮の下では、顕著な効果があっても必ずしも進歩性が肯定されるとは限らないと説いた(L&T 87, 110ページ脚注9)(6月17日の投稿参照)。 ところがその差戻審(令和1(行ケ)10118)で知財高裁は、「・・・,発明の構成に至る動機付けがある場合であっても,優先日当時,当該発明の効果が,当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである場合には,当該発明は,当業者が容易に発明をすることができたとは認められないから,・・・」と説示し、総合考慮の必要性についてなんら示唆することなく、予測を超える顕著な効果があることのみをもって進歩性を肯定した(6月19日の投稿参照)。

こうした現状を考えれば、今求められているのは、「二次的考慮説」を終焉させることよりも、「独立要件説」の暴走を防ぐことだろうと思う。

宮崎先生には、ぜひその点でもALERTを発する必要がないかをウォッチしていてほしい。


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2020年10月22日

サポート要件・実施可能要件の「表裏一体説」(同一要件説)は絶滅したか(前田健, 神戸法学雑誌70巻1号 (2020) について)


今回の投稿は、前回の投稿で触れたサポート要件と実施可能要件の「区別説」と「表裏一体説」の対立に関し、神戸大前田先生の論文(神戸法学雑誌70巻1号)を読んで「あれ!?」と思った点について簡単にコメントしようと思う。

「サポート要件」とは、特許法36条6項1号の(特許請求の範囲の記載は)「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであること。」という規定を指しており、「実施可能要件」とは、36条4項1号の(発明の詳細な説明の記載は)「経済産業省令で定めるところにより、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものであること。」という規定を指している。

要するに、サポート要件とは、クレームの発明が明細書の記載にサポートされていることを求めるものであり、実施可能要件とは、クレームの発明が実施できる程度に明細書に記載されていることを求めるものだ(ちなみに田村先生は実施可能要件を全然違うように解釈しているフシがあるが、ここでは触れない)。 そうすると、両者は一体何か違うのかという疑問が生じる。 クレームの発明が、「実施できる程度に明細書に記載されている」(実施可能要件 〇)のに「明細書の記載にサポートされていない」(サポート要件 ×)などということがあるのか?

もしないのなら、「実施可能要件」があれば十分なのだから、「サポート要件」などそもそも要らないということになるだろう。

とは言っても、現行の特許法には条文(36条6項1号)がある以上、無視するわけにもいかないので、各要件を判断する際の論理づけの表現は適当に変えつつも、事実上は「実施可能要件」が満たされるのなら「サポート要件」も満たすと判断し、「実施可能要件」が満たされないなら「サポート要件」も満たされないと判断すればいいだろうということになる。

これに対して、「サポート要件」と「実施可能要件」は実質的にも違う要件だと考えている人もいる。 実際のところ、違う要件だと考えている論者の方が多い。 そして、違う要件だという論文を書いている論者の代表格が、筑波大の平嶋先生(平嶋竜太, ジュリスト, No.1316, 23-29, 2006)と、大野総合の弁護士大野先生(大野聖二, ジュリスト, No.1475, 20-25, 2015)だろう。 この考え方を大野先生の呼び方にちなんで「区別説」と呼ぶ。

それに対して、二つの要件は実質的に同じものだ(あるいはサポート要件を導入する必要はないのではないか)と主張している(いた?)数少ない論者が、かなり昔の論文になるが、東京ACTiの弁理士南条先生(南条雅裕, 知財管理 vol.53 (11) (通号 632) 2003, 1707-1722)と、神戸大の前田先生(前田健『特許法における明細書による開示の役割』商事法務 2012)だ。 これを「表裏一体説」(同要件説)と呼ぶ。

それで余談だが、「大野 vs. 南条・前田」という構図は、前回の投稿で少し触れた「PCSK9中和抗体事件」でも再現されていた(前田論文の脚注1を参照)(もっとも、区別説と表裏一体説がその事件で対立していたわけではない)。

さて、「表裏一体説」は、サポート要件に関する有名な判決である「偏光フィルム事件」大合議判決(平成17年(行ケ)10042)以降の裁判の趨勢と整合性がややとりにくいこともあり劣勢に立たされていて、区別説派の平嶋先生は「表裏一体説」について、「両要件がいずれも発明の公衆への開示に関する要件であるなどといったという大括りの表裏一体性だけを根拠とするだけでは,一体化して解釈するということの説得性をもち得るとは到底考えにくい。」(『知的財産法最高裁判例評釈大系: 小野昌延先生追悼論文集』2019 青林書院 の388-389ページ)というように、結構辛辣に前田先生の「表裏一体説」を批判している。

私としては、絶滅の危機にある「表裏一体説」を温かく見守りたいと思っていたのだが、今回の論文で前田先生は、ついに次のように論じるに至った。

[前田健, 神戸法学雑誌70巻1号 (2020) の脚注32](強調追加)
(32) 実施可能要件とサポート要件とは表裏一体のものであり、両者の区別は困難であるとの理解も有力であり(知財高判平成17年11月11日判時1911号48頁参照)、筆者も基本的にそのような考え方を採るべきと論じたことがあった(前田・前掲注14)296頁参照)。しかし、異なった観点をそれぞれ実施可能要件とサポート要件に割り当てるという考え方も近時現れている(前田健「記載要件の論点-ライフサイエンス発明を中心に」法律時報89巻8号(2017)25頁参照)。たとえば、知財高判平成25年4月11日判決平成24(行ケ)10299〔液体調味料の製造方法〕では、実施可能要件では構成要件の再現可能性を問題にとし、サポート要件ではその構成が所期の作用効果を奏すると認識できるかを問題にするという棲み分けが提示されている。

上の引用で前田先生の2017年論文(法律時報)が引用されているが、2017年論文ではまだ前田先生は、「実施可能要件における作用効果の裏付けについての判断は、サポート要件における課題解決の認識の判断と、実質的には区別が困難である。」(法律時報89巻8号, 24ページ右下)と書いている。 したがって、この時点では前田先生は「表裏一体説」を捨ててはいなかったはずだ。

ところが今回の論文では、上記のとおり表裏一体説について「論じたことがあった」と過去形になってしまっている。 しかも「PCSK9中和抗体事件」に関する今回の論文で前田先生は、本件がサポート要件を充足しないことを何ページにもわたって論じているにもかかわらず、実施可能要件については、ごく短く(わずか半ページ)、以下のように論じている。

[前田健, 神戸法学雑誌70巻1号 (2020) の105ページ]
・・・。発明者は自らの貢献に依拠する将来具体化されうる技術に対しても保護を受けることができるので、実験により取得していない物についても実施可能要件は充足しうる。そのような抗体の作成方法の基本さえ示されていれば、一般論としてアミノ酸配列の特定は不要であろう。
 特に、本件各発明がPCSK9とLDLRの結合中和抗体について初めて着目したことにこそ特徴があると捉えるならば、そのパイオニア性を尊重し、個々の抗体の作製方法を細かく開示する必要はないという判断はあり得よう。

あ! 実施可能要件は充足するという立場なのですか!

「サポート要件」を否定しつつ「実施可能要件」は肯定するということは、「表裏一体説」を否定するということに他ならない。 つまり、「表裏一体説」の代表格であった(というより、ほとんど一人で頑張られていた?)前田先生が、ついに「表裏一体説」を捨ててしまわれたようなのだ。

*   *   *

私は「表裏一体説」が完全に正しいとは思っていないが、平嶋先生が論じるような「区別説」も納得できていない。 なぜなら、平嶋先生や大野先生の論文を読んでも、二つの要件が何が違うのか結局よく分からないからだ。 私は、「技術的思想」というようなわけの分からない言葉で物事を説明するのが嫌いなのと同じように(7月7日の投稿を参照)、「サポート要件」と「実施可能要件」は「趣旨が違う」とか「観点が違う」などと言いながら、何が違うのか一向に分からない「区別説」も嫌いなのだ(私の頭が悪いだけかも知れないが)。 裁判例についても、「偏光フィルム事件」判決をおもんぱかって「表裏一体説」的な判示を避けているとか、本当は進歩性欠如で特許性を否定にしたいのだが、当事者がサポート要件でしか争っていないからサポート要件を使ったとか、あるいは発明の構成が容易ではないのに進歩性を否定するのは避けたかったからサポート要件を使って特許性を否定したとか、そういうことはあるのかも知れないが、そこに一貫性を見出すことはできないのではないか。

ということで、私は「表裏一体説」を捨てるのはまだ早いのではないかと思っている。 前田先生には、あきらめずに論じ続けてほしかったのに。

とはいえ、それは日本の裁判実務の趨勢に逆らうことになるかも知れないし、裁判所に対して意見書を書いたりする際にも「表裏一体説」を採っていたのではなにかと支障があるのかも知れない。

残念ではあるが、今回の前田論文をもって、「表裏一体説」はアカデミアから葬られてしまうのかも知れない。 しかし、少なくとも特許庁の審査段階の実務では、「サポート要件」と「実施可能要件」の拒絶理由は同時に通知され、同時に解消するということがまだまだ普通だろうし、片方の拒絶理由しか通知されない場合でも、それは同時に解消する以上、両方の拒絶理由を通知しても、片方しか通知しなくても、変わらないからだと思わせるものが多いのではないか。

つまり、特許要件を審理するためには「表裏一体説」でもなんとかなるのに、いたずらに両者を使い分けようとする裁判所・実務者と、それに追随してしまうアカデミアこそ、余計な混乱を引き起こしているという見方もできなくはないのだ。 そしてその背景にあるのが、「発明の “課題”」なるものにかこつけて「サポート要件」を否定しようとする日本の裁判所の態度であり、だからこそ、その象徴である「偏光フィルム事件」判決に私は懐疑的なのだ。

前回の田村論文も、今回の前田論文もなんだよ、サポート要件ばっかり論じやがって。 瀕死の「表裏一体説」、私はお前を見捨てないよ(笑)。


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2020年10月12日

サポート要件か進歩性か、効果(課題達成)はどこで検討する?(田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237;潮海久雄, 特許研究70号, 25-50)


感想を書いてみたい論文がたくさん出ている。 中でも清水紀子先生の修論(?)を論文にしたと思われる論文(知的財産法政策学研究 Vol.55 (2020) 117-203)は87ページもある大作だ。 論文最後の謝辞からして、田村先生が指導教官だったのだろうか。 延長問題をテーマにするというのは素晴らしい。 論じている人が少ない分野でもあるから、博士課程が終わるころには、清水先生はこの分野の第一人者になっているかも知れない。

感想を書く時間がないというのもあるが、勢いで公開しないと、あれこれ考え出すと後回しにしたくなって結局公開しないままになってしまうので、とりあえず今回は、最近出た田村先生の論文(知的財産法政策学研究 Vol.56 (2020) 163)を勢いで取り上げたい。。

今回の田村先生の論文「存続期間満了後の特許無効不成立審決取消訴訟の訴えの利益・進歩性要件の基礎となる引例適格性・サポート要件における課題の再設定について −ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決の検討−」(知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237)は、westlawjapanの判例コラムに2018年から2019年にかけて書かれた先生の3つのコラムがもとになっており、このうち進歩性について書かれた判例コラム153号については、私も過去に取り上げた(2019年6月3日の投稿など)。

今回の先生の論文でグッと来たのは脚注71で、そこでは今回のピリミジン誘導体事件に関して、「既知化合物の置換基をでたらめに選んで改変し、ありきたりの効果しか発揮しない化合物を得た場合でも、大合議判決の説示に従えば進歩性が肯定されてしまうことになってしまう(から大合議判決は論難に値する)」という趣旨の私のコメントに対する先生の考え方が記載されている。

田村先生は、そのような発明について特許の取得を認めるべきではない場合はありうるとしながらも、「その理由はでたらめに選択されたからではない」と述べて次のように指摘している。

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(209ページ)](強調はこちらで追加;以下同様)
 たしかに、第一の仮設例に関しては、特許の取得を認めるべきではないと思う。ただその理由はでたらめに選択されたからではない。セレンディピティという言葉に集約されるように、ノーベル賞クラスのものを含めて少なからざる大発明が偶然の産物、意図せざる結果であることはよく知られている (たとえば、参照、田中耕一『生涯最高の失敗』(2003年・朝日新聞出版社) 138〜148頁)。そして、そのような偶然の発明をなしえたのも相応の投資がなされていたからであることが少なくなく、換言すれば、特許権のインセンティヴが必要であることが少なくなく、他方、偶然の産物を特許の対象から外そうとすると、限界線が不明確となって予測可能性、法的安定性を損なうことになろう。
 したがって、第一の仮設例が特許に値しない理由は、むしろ、それが世の中に貢献するところがほとんどない反面、このようなものに特許が認められてしまうと、第三者はどこに特許の地雷があるのか予測がつかないことになりかねないことに求められる。

私も、「でたらめに選択したこと」が、こうした発明に特許を付与すべきではない理由になるとは思っていない。 あくまで、「単なるでたらめ・ありきたりのたぐいだと “評される”」(あるい “目される” )ことが、こうした発明に特許を付与すべきではない理由となるのだ。 「評される」というのは、「でたらめ・ありきたりのたぐいに過ぎない」(すなわち「ハズレ」)という一種の価値判断(意味付け)であって、「事実としてでたらめであったのか」を問題にしているのではない。 意図せずに偶然見つけた発明でも、それなりの有用性があるもの(すなわち「当たり」だと評されるもの)であれば特許は肯定しうる。 また、先生は「相応の投資」が必要だと思っているのかも知れないが、私は「相応の投資」をしたか否かは関係がないと思う。 なぜ「相応の投資」をしたことが特許付与の条件ではないのかといえば、優れた発明が秘匿されずに早期に公開され、皆がその発明を参照できるということ自体に特許制度の価値があり、発明者に投資回収をさせることのみが特許制度の目的ではないからだ。 まったく偶然に、タダ同然で見出した発明でも、それが容易に発明できず(つまり放っておいても誰かが発明するのは時間の問題であったとは言えず)、有用なものであるのなら特許性を肯定しうる。

だから、特許を付与できない理由は「でたらめに選択されたからではない」という田村先生の指摘は、私の考え方を否定するものにはならないと思う。

さて、上で取り上げたのは特許の取得を認めるべきではない場合についてだが、逆に特許の取得を認めてもよい場合について田村先生は次のように指摘している。

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(209-210ページ)]
 他方、第二の仮設例は、条件次第では特許を認めてもよいように思われる。甲1発明に比して1/3とはいえ、それより前の技術に比べれば5倍弱の効果を有しているというのであれば、そして、でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれるというのであれば格別 (その場合には、仮設例1と選ぶところはなく、進歩性を否定すべきである)、そうでないのであれば、技術を豊富化したという意味で特許を認めることに問題がない場合もありえよう。そして、少なくとも筆者の構想では、甲1は先行発明とならなかったとしても、引例になりうるから、あとはその程度の技術を見出すのがどのくらい困難であったのかというところで適宜、調整することが可能である。その場合、ピンポイントで仮設例2の構成に辿り着くのが容易でなかったとしても、仮設例を含む範囲のどこかで仮設例と同程度に課題を解決する技術に辿り着くことは容易である (ただ、そのなかでたまたま仮設例を選ぶことは偶然に依存するとしても) という場合には進歩性を否定してよいのではなかろうか。

私が書いた第二の仮説例は大合議判決の発明を参考に作ったものだが、先生のいう「でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれる」場合を想定したものだ。 だから、もしそうでないのなら、つまり既知の化合物を改変し、活性が同程度に維持された化合物を取得することはおろか、活性が1/3にまで下がった化合物を取得することすら容易とは言えないのなら、進歩性を肯定することは私も賛成だ。 これについては、当時の私の投稿において、「ちなみに、甲2に記載されている膨大な選択肢の多くは活性が失われてしまうという推定が成り立つような場合は、HMG-CoA還元酵素阻害活性をともかくも持っている構成を同定したという程度でも進歩性は肯定し得るだろう。 その場合は、ともかく活性がありさえすればよく、活性の「程度」は考慮する必要はないということになるのかも知れない」(2019年6月3日の投稿)と書いていることからも分かるだろう。 そして先生も、「でたらめに変更したとしてもかなりの確率で (=当業者にとって過度の試行錯誤を要することなく) そのような効果が見込まれる」のなら「進歩性を否定すべきである」と論じているから、私と先生との間で大きな違いはないということになるだろう。 つまり大合議事件のような発明であっても、進歩性を肯定するにあたって「効果の程度」を検討することが必要な場合は「ある」のであり、大合議が説示したように「効果の程度」の検討は不要だと言うためには、本件の引用例の化合物については、わずかな改変でも活性がほとんどなくなってしまい、1/3の活性を持つ改変化合物を取得することでさえ容易ではなかったという「前提」が必要となるだろう。 しかし本件において、そういう前提が成り立つことについて裁判所は検討をしたのか? それをしていないのなら、大合議判決の説示は、必要な前提を欠いているということになるだろう。

ともかく、どういう発明に特許を付与し、どういう発明に特許を付与しないのかという点については、私は田村先生の考えに特に文句はないし、選択発明を二分すること、すなわち、「効果の程度」を不問として進歩性を肯定する(効果がありさえすれば進歩性を肯定する)ような選択発明もあり得るというところまでは受け入れられるけれど、ある選択発明が、二分された選択発明のどちらに分類されるのかについては、事案ごとに検討が必要なのであって、当業者が既知化合物を「エィヤーッ」と改変したのでは、活性がわずかでも残存する化合物でさえ到底取得できなかっただろうという状況なのか、それとも活性が既知化合物の1/3に下がってもよいのなら、その程度の改変化合物は容易に取れただろうという状況なのか、そこは検討されなければならなかったはずなのに、それをすっ飛ばして「選択肢の数が膨大なら効果を検討するまでもなく進歩性あり」という説示をした大合議判決は、やはり肯定することはできないのだ。 ただ、これに関する先生の次の引用にはグッときてしまった。

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 脚注71(210ページ)]
「一歩の距離をおいて批判するのが、学者の役割であり、その判例批評の任務」であって、「判例との距離が五歩も十歩もひらいてしまうと、…判例に対する影響力もなくなってしまう。」(平野龍一「判例研究の効用」同『刑法の機能的考察』(1984年・有斐閣) 270〜271頁を引用しつつ、「そういう『一歩の距離』からの適切な批判であれば、裁判官はそれに耳を傾けるであろうし、理由付けについても批判者の側から新しい学説を参照したすぐれた理由付けが提示されれば、将来の裁判のためにきわめて参考となるであろう。」と説く、中野次雄編『判例とその読み方』(三訂版・2009年・有斐閣) 125〜126頁も参照))。

先生のそういう心遣いが、裁判官の方々の心に響くといいけれど。

*   *   *


さて、今回の田村先生の論文の「第IV部」(サポート要件に関する論考)も、判例コラム158号が基になっているものの、今回新たに加筆されている部分も多い。

本事件(ピリミジン誘導体事件)において大合議は、効果を考慮するまでもなく進歩性を肯定し、上記のとおり私はそれを不適切だと思っている。 しかし本件において大合議はサポート要件も同時に判断しており、サポート要件の判断において効果を一応は検討している。 具体的には、本件においてサポート要件が満たされるには、医薬となる程度(すなわちメビノリンと同程度?)の活性があればよい旨を説示している。 それを勘案すれば、進歩性の判断において効果をまったく検討しなかった大合議に対する私の批判は、緩和されるのだろうと思う(改変前の既知化合物の数分の一の活性でもよいというのが、「進歩性」を肯定するための効果として十分であるのかについては疑問があるが。)。 つまり、本来は進歩性の判断において検討されるべき効果が、本事件においてはサポート要件において検討されていた、というのが本判決に対する私の解釈だ。


「ライスミルク事件」および「偏光フィルム事件」について
サポート要件に関して田村先生は「ライスミルク事件」(平成29(行ケ)10129)を取り上げている。 「ライスミルク事件」の異議申立原審は、サポート要件の判断において、明細書の記載から課題を抽出するのではなく、(進歩性を満たす程度に)課題を勝手に高く設定した上で、その課題を達成できないという理由でサポート要件を否定した。 しかし裁判所はそれを否定しつつ、そういうのは「進歩性の問題」だと説示した(田村論文の224ページ)。 私もそれには賛成だ。 そして裁判所がそのように説示したにもかかわらず、再開された異議申立審においては、これを進歩性の問題として検討することなく進歩性を肯定してしまった。 田村論文は脚注98においてこれを批判しており、私もその批判はもっともだと思う。

しかし、そもそも進歩性の判断において考慮すべき「効果」の検討を、進歩性の判断として検討しなかったという点は、「ライスミルク事件」の異議申立審のみならず、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決も犯している「誤り」だというのが私の立場だ。 そして、もとはと言えば、本来は進歩性の判断として考慮すべき「効果」の検討を、サポート要件として判断しうるのだという理解を生じさせてしまった「偏光フィルム事件」(平成17(行ケ)10042)の大合議判決こそ、そうした「誤り」を誘発させる元凶なのだと思う。

「偏光フィルム事件」は、なぜ「進歩性」ではなく「サポート要件」が問題となったのか? それは「偏光フィルム事件」のように、特殊パラメータで発明の「構成」が規定されている場合は、その「構成」が容易想到ではない以上、効果を検討するまでもなく進歩性は満たされるとみなされたからではないのか? もしそうだとすれば、そこがそもそもの間違いなのだ。 それが正しいのなら、目新しいパラメータをでたらめに設定し、誰も思いつきそうにない構成のみを囲むように範囲を設定しただけでも進歩性は肯定されることになってしまう。 しかしそれは妥当とは言えないだろう。 進歩性の判断において、「効果」は常に考慮されるべきだ。 発明の構成がどれだけ容易想到ではないとしても、でたらめに選択してありきたりの効果しか発揮しないと「目される」発明が包含されるクレームの進歩性は否定すべきなのだ。 それは「偏光フィルム事件」のようなパラメータ発明でも、「ピリミジン誘導体事件」のような改変化合物の発明でも、「ライスミルク事件」の発明でも同じだ。

「偏光フィルム事件」で大合議は、パラメータ発明について、明細書で謳われている効果(課題)が達成されることをサポート要件として課すことによって、「構成が容易想到でなければ進歩性あり」という考え方がもたらす弊害(つまり特許を付与すべきではない発明に特許が付与されてしまうという弊害)を是正する道を開いた。 しかしそれだけでは問題の根本的解決にはまったく不十分だ。 なぜなら、そのようなやり方が有用なのは、「進歩性を肯定するに足る効果が、発明の課題として明細書に記載されている場合」に限られるからだ。 しかし「偏光フィルム事件」判決がサポート要件における「課題の設定」によって問題の解決を図ったがために、「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件において課題を設定すればいいんだ」という理解が進んでしまい、「ライスミルク事件」の異議申立原審のように、明細書で謳われていない課題を設定してサポート要件で特許性を否定しようとする人たちが出てきた。 私は、この異議申立原審を行った審判官に、ある意味、同情する。 なぜなら、今回の田村論文に「知財高判[偏光フィルムの製造法]の説示から直接導きうるものではなく」(221ページ最終文)と記載されているとおり、異議申立原審のような考え方(明細書で謳われていない課題を設定してサポート要件を判断する考え方)を採ってはならないということは、「偏光フィルム事件」の大合議判決から直接導けるものではないし、上述のとおり「偏光フィルム事件」判決は、「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件において課題を設定すればいいんだ」という理解を生じうるからだ。

私はそれを「偏光フィルム事件」の大合議判決の「罪」だと言いたい。 本来なら、このパラメータ発明の効果は「進歩性」の判断において検討され、進歩性を認めるに足る効果がない態様が多数包含されると目されることを理由に「進歩性」を否定する判断規範が示されればよかったのだ。 つまり、「構成が容易想到でなければ進歩性あり」という特許界の誤った常識をくつがえし、クレームが規定する「構成」を選択することがどれだけ容易想到でなかろうと、でたらめに選択してありきたりの効果しか発揮しないと「目される」態様が包含されるクレームの進歩性は否定するという判断規範が示されればよかった。 (もっとも、進歩性は異議決定の理由ではないから、それができるはずもないが・・・) それをせずに、サポート要件を使って問題の解決を図ったがために、「偏光フィルム事件」大合議判決は、上述のとおり「構成が容易想到でない場合に特許性を否定するには、サポート要件で課題を設定すればいいんだ」という理解を生じさせるとともに、「サポート要件」には「実施可能要件」にはない何か特殊な力があるのだと人々に思い込ませることになった。 これにより、二つの要件は違うものだと唱える平嶋先生らは勢いを増し、二つの要件は実質的に同じ(表裏一体)だと唱えていた前田先生は苦しい立場に追い込まれた。 そして、そうした傾向が今なお続いている、というより、固定化しつつあるのが今の日本だ。 今回の田村論文も、そうした傾向に拍車をかけるのに一役買うものだ。

これが「偏光フィルム事件」大合議判決に対する私の見方だが、田村先生の見方はもちろん私とは違う。 田村先生は「偏光フィルム事件」大合議判決についてはそのまま受け入れ、サポート要件の判断における「課題」は明細書の記載に基づいて決めるべきだという「ライスミルク事件」判決についても受け入れた上で、「・・・その射程であるが、前掲知財高判[偏光フィルムの製造法]を引用した説示に鑑みれば、本判決が、明細書に課題の記載を欠いている場合には、技術常識が参酌されうるという立場をとっているものと考えられる。また、明細書に従来技術では解決しえなかった課題を解決することが発明の目的であると記載されているのであれば、それを手がかりに、従来技術によって達成しうる効果を超えることを課題と認定する従前の裁判例の手法も、本判決は否定していないと解することができよう。」(222ページ)と論じ、「偏光フィルム事件」判決も「ライスミルク事件」判決も肯定しつつ、明細書で謳われていない課題を設定してサポート要件で特許性を否定することも、なお場合によっては認められるのだという考え方を提示しているのだ。

裁判所の判断にできるだけ寄り添いつつ、妥当な結果をもたらす判断規範を模索する。 田村先生のこの態度は、冒頭で取り上げた選択発明の進歩性判断における態度とまったく同じではないか!

田村先生は、本当に心遣いの人だと思う・・・。

しかし判決というのは、第一義的には、個別の事件の解決のためになされるものであって、そうした判決において裁判所が説示する規範のようなものが、一般的に成り立つ一貫性のあるものだという保証はない。 そうした判決をそのまま受け入れることによって、果たして一貫性のある体系をつくることはできるのだろうか? むしろ、わけの分からない迷宮になってしまうおそれが高いのではないかと思う。

判決とは、それを読む者にとって解釈の対象とはなっても、前提にしてはいけない。 なぜなら判決は恒久的真理である保証はないから、物事を考えるにあたって前提にはできないからだ(2020年1月14日の投稿の『しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。』というところと同じ)。 例えば上述のとおり、進歩性を判断するにあたって、本来は「発明の構成が容易想到ではない」というだけでは進歩性は肯定することはできず、一定の効果があることを検討することは必要であるのに、「ピリミジン誘導体事件」判決は効果を検討せずに進歩性を肯定してよいと説示した。 しかし裁判所がそのような説示をしてしまった裏には、この判決で裁判所は、サポート要件の判断において効果を検討したから、進歩性において重ねて効果を検討する必要性を感じなかったという事情があるからだろうというのが私の解釈だ。 また例えば均等論においては、クレームの範囲に含まれない出願時同効材にまで安易に権利を及ぼすべきではないのに、「マキサカルシトール事件」大合議判決で裁判所は、第5要件に関して特許権者にかなり甘い説示を行った。 しかし裁判所がそのような説示をしてしまった裏には、この判決で裁判所は、第1要件において権利が及びうる範囲を極めて狭く設定したから、第5要件においてそれ以上権利範囲を制限する必要性を感じなかったという事情があるからだろうというのが私の解釈だ(Sotoku 9号の35ページ右欄)。

判決は、これくらい大胆に解釈してよいのだと思う。 判決の説示をそのまま取り込んで自説を構築すれば、その体系は一貫性を失い、迷宮化してしまうだろう。

大体、裁判官の皆さんは、次でみるように、特許にするべきではない(と思われる)PCSK9発明の特許性を否定できずに維持してしまう人たちだ。 そのような人たちが行う説示を、どうしてそのまま自説の前提にすることなどできようか?


PCSK9中和抗体事件について
この事件については、私も、後日また書きたいと思う。

今回の田村論文で「PSCK9中和抗体事件」が取り上げられている理由は、先生がこの事件をサポート要件で解決しようとしているからだ。 具体的には、この事件こそ、明細書で謳われていない課題を設定してサポート要件で特許性を否定することが許されるケースだというのだ(233〜236ページ)。

私はというと、上述のとおり、そもそも「偏光フィルム事件」大合議判決に批判的だし、「実施可能要件」にはない“特殊な力”を「サポート要件」に期待しているわけでもないから、サポート要件をことさら用いて特許性を否定しようとは思わない。 特許性を否定するとすれば、シンプルに「実施可能要件」で否定するか、あるいは「進歩性」で否定することになるだろう。 しかしどちらで特許性を否定するにしろ、本件はなかなか厄介なケースであることは確かだ。 というのも本件は、PCSK9とLDLRとが結合するまさにその場所(PCSK9の触媒ドメインの特定の部位)に結合して両者の結合を効果的に阻害する中和抗体を初めて提供したものであるから、そのような部位に結合する中和抗体が本当に容易想到であったのか(すなわち進歩性がないのか)は直ちに明らかとは言えないし、実施可能要件に関しても、本件は、参照抗体(実施例において取得した21B12抗体や31H4抗体)と競合する中和抗体を十数個取得することに成功しており(明細書の表37.1)、これだけ豊富な実施例が記載されていると、記載要件を満たすための数としては十分だという理屈も成り立ちうるので、実施可能要件を満たさないと直ちに結論するのも難しい。 したがって、進歩性要件や実施可能要件の規範を形式的に当てはめて判断すると、特許性が肯定されることもありえないわけではない案件ということはできるように思う。

それでもなぜ、この特許の特許性を否定すべきだと思うのかと言えば、それは本件クレーム(参照抗体と競合するPCSK9中和抗体というクレーム)の範囲は、「本件発明に対する依拠性が擬制できる範囲」を超えていると私は思うからだ。

特許権の効力が及ぶ範囲は、その発明に対して「依拠性が擬制できる範囲」におさめることを目指すべきだということは、2019年10月17日の投稿でも書いたが、もともとはSotoku 6号の脚注111に書いたものだ。 特許にまつわる様々な規範の解釈に迷ったときは、「依拠性の擬制」を “物差し” として使うことで、一貫した理解や解釈が可能となるのだと私は思っている。 そして「先使用権」の話とはいえ、神戸大の前田先生が、その正当化根拠として「依拠性の擬制」を説いた論文を出したことから、前田先生もそのような考えを持っているのだという期待は私の中で高まっている(2019年10月17日の投稿を参照)。

そして田村先生に対しても同じで、特許制度の根本的な要請として先生が「フリーライドの防止」(すなわち発明にフリーに依拠することを防止することとも言えるだろう)を挙げていることを私は好意的に捉えているし、そこには単純なインセンティブ論ではない、より根本的な “思い” のようなものが田村先生の中にあるのだろうと期待している(2020年1月14日の投稿を参照)。 またこうした考え方は、特許発明の保護範囲として「発明の寄与力」が及ぶ範囲を説いていた松本重敏先生などの先人の考え方とも類似するものだと思う。

そして今回の田村論文はどうかというと、以下のとおりだ。

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 230ページ]
B 発明の貢献に比して広範なクレイムの出現
・・・。参照抗体を超えて、より広範な抗体を技術的範囲に納めようとするこの事件の特許請求の範囲は、発明が開示する技術的思想の貢献度を超えた過大な保護を企図するものとして、それに基づく特許の取得が許されてしかるべきものではないだろう

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 232ページ]
・・・。その場合、参照抗体を超えた抗体を技術的範囲に納める特許請求の範囲は、発明の貢献を超えた保護を享受するものとして厳に戒めなければならない

[知的財産法政策学研究 Vol.56(2020) 163-237, 233ページ]
・・・。それにも関わらず、参照抗体と「競合する」抗体全般について本件特許権がその保護を享受することができるとすれば、公知技術に比した発明の貢献を超え、競争を過度に制約することになる。
・・・
 ゆえに、参照抗体や明細書記載の実施例を超えて、広く参照抗体と「競合する」抗体をカバーする本件特許権の出現は、何らかの法理によりこれを防ぐ必要がある。

すなわち先生は、発明の貢献を超える範囲に特許を与えてはならないのだと説く。 そして特に最後の引用は、「ゆえに、・・・本件特許権の出現は、何らかの法理によりこれを防ぐ必要がある。」と説いていることからして、発明の貢献を超える範囲に特許を与えてはならないという結論が先にあって、それを実現するために法理が必要だと言っているわけだ。 すなわち、サポート要件なり、実施可能要件なり、進歩性要件なりの規範の解釈が先にあって、その規範を当てはめて、どういう結論が出ようが、出てきた結論を受け入れればよいということではなく、発明の貢献を超える範囲に特許を与えることがないように、そうした特許要件の規範を解釈・運用しなければならないのだということだろう。

これは一歩踏み出した発言ではないか? ちょっとハラハラするが。

こうした考え方を批判する人もいるかも知れない。 「条文に基づいていない」とか、「(条文にもとづく)予測性を傷つける」とか、「結論ありき」だとか、「恣意的」だとか・・・。 しかしそう感じるのは、サポート要件なり、実施可能要件なり、進歩性要件なりが、発明の貢献を適切に保護するためにあると思っていないからだろう。 ではそういう人たちは、サポート要件や、実施可能要件や、進歩性要件が、一体何のためにあると思っているのだ?

以上のとおり、PCSK9中和抗体事件の特許を、サポート要件における「課題の再設定」を使って無効にするという田村先生のアイデアについては私は支持できないけれど、そのもととなる田村先生の思い、すなわち、発明の貢献を超える態様を包含するクレームに特許を与えてはならないという点については深く共感できる。 そして私も同じ思いを持ちながら特許要件を考えている以上、最終的に目指すところは同じなのだという希望を持っている。

PCSK9事件の特許性を否定的に考えている人は私や田村先生に留まらない。 前田先生しかり(前田健, 神戸法学雑誌70巻1号掲載予定)、桝田先生しかり(桝田祥子, AIPPI (2020) Vol.65 No.8, 656-670)、前田論文の脚注40からして、そのうち公開される劉一帆先生の論文も否定的なのだろう。 これは学者にとどまらず、実務家である深澤先生らも本件判決に批判的な論文を出しているし(深澤憲広,内田俊生,内山務, パテント Vol.73 (2) 2020, 146-150)、SNS上でも何人かの実務家が本判決に懸念を示している。 聞くところによると、知財高裁前所長の清水先生や、東大先端研の玉井先生も本件判決には批判的なようだ。

こうした言論やコメントには大いに希望を感じるところだ。 裁判で勝ったものが法理となるのではない。 皆に理解され、支えられてこその法理だ。 そうした法理を生み出すためには、裁判所の判決に束縛されることのない自由な論究が必要なのであり、そうした論究の場に、学者のみならず、実務者、できれば裁判官も参加して、本当の「理」を見つけ出す過程が必要なのだと思う。

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おまけ1> クレームに課題を書いておけばサポート要件は満たされる?

「PCSK9中和抗体事件」において、参照抗体と競合する抗体のすべてが中和活性を有するわけでない旨を主張してサポート要件を否定しようとする原告(特許無効を主張している側)に対して、知財高裁は、「参照抗体と『競合する』抗体であれば、PCSK9とLDLRとの結合を中和するものといえないとしても、本件発明は『PCSK9とLDLR タンパク質の結合を中和することができ』る抗体であることを発明特定事項とするものであるから、そのことは、上記認定を左右するものではない」という形式的論理(すなわち「クレームに効果(課題)が書いてあればOK」という論理)をもってサポート要件の充足を肯定した(平成29年(行ケ)10225、10226)(田村論文の231〜232ページ)。 そしてこれについて田村論文は、「このような循環論法は、願望クレイムを肯定することにほかならず、クレイムを支える技術的思想の開示を要求する同要件の存在意義を無にするものでしかない」(田村論文の脚注106)と強い口調で裁判所を批判している。 ちなみに裁判所のこの判断については前田先生も、「・・・トートロジーをサポート要件の判断基準としており、『願望クレーム』を容認するものであって、明らかに不適切であるといわざるを得ない。」と批判している(前田健, 神戸法学雑誌70巻1号掲載予定の29ページ2-3行目)。

ところで、裁判所のこの判断について高石先生が次のように指摘している。

[高石秀樹, パテント 2019 Vol.72 No.12 (別冊 No.22) 134ページ]
 同裁判例は,「PCSK9とLDLRタンパク質の結合を中和することができ」るという機能が発明特定事項であることを前提としている。このように,「結合中和する」という効果がクレームアップされている以上,同効果を奏しない構成(同発明でいえば,「結合中和」しない抗体)は特許発明から除外されている以上,サポート要件の検討対象外である同裁判例と同様の考え方が多数である(10)。

つまり高石論文は、効果がクレームアップされていれば、それだけでサポート要件は満たされるという判決が多数だというのだ。 しかし、高石論文の脚注10に挙げられている裁判例を見れば明らかなとおり、これらの裁判例は効果がクレームアップされていることを理由に「新規性」や「非容易想到性」(進歩性)を肯定した裁判例であって、「サポート要件」を肯定した裁判例ではない。 効果(課題)がクレームアップされていることをもって「サポート要件」を肯定した裁判例としては「フリバンセリン事件」(平成 21年(行ケ)10033)が有名だが、他の裁判所が追随しているとはいえず、これについては高石論文自身が「踏襲されていない」と指摘しているくらいだ(高石論文の125ページ)。 よって、「PCSK9中和抗体事件」において裁判所が形式的論理をもってサポート要件の充足を肯定したことを高石先生が「同裁判例と同様の考え方が多数」と言っているのは勘違いだろう。

なお田村先生や前田先生が「PCSK9中和抗体事件」のサポート要件の判断を「循環論法」、「トートロジー」だと批判するのなら、「フリバンセリン事件」のことはどう思っているのだ? これ以上迷宮を作らないためにも、「フリバンセリン事件」も批判した方がいいだろう。


おまけ2> 潮海論文について(進歩性とサポート要件は表裏一体なのか?)

最近公開された特許研究70号に潮海久雄先生がサポート要件について少し書かれているので、今回の私の投稿と関連する部分について短くコメントしたい。 今回の潮海論文の主題は、安易に進歩性を肯定しがちな近年の日本の裁判所における進歩性の判断規範を批判的に論じるもので、同意できる部分は非常に多い。 それはともかく、サポート要件により特許性が否定された「トマト飲料事件」(平成28(行ケ)10147)について潮海先生は次のように論じている。

[潮海久雄, 特許研究 No.70 2020-9 25-50の45ページ左]
 むしろ,〔伊藤園トマト〕では,食品分野で公知物質の組み合わせによるパラメータ発明であるため,当業者の通常の創作能力の範囲内かとその顕著な効果を検討すべきで,本来は,進歩性要件で判断すべき問題と考えられる。かかる意味で,進歩性要件と開示要件は表裏一体であろう。

「トマト飲料事件」は「偏光フィルム事件」の規範を適用してサポート要件を否定した事件だから、この事件について潮海先生が「進歩性要件で判断すべき問題」だと論じているということは、「進歩性で効果を検討し、進歩性で特許性を否定すべきだ」という私と同じ考えを持っているということで、その点について先生を支持できる。 潮海先生には、その考えを「偏光フィルム事件」にまで適用する気があるのかを問いたい。

なお、潮海先生が「進歩性要件と開示要件は表裏一体であろう」と言っていることについては必ずしも同意できない。 潮海先生は、「トマト飲料事件」で裁判所がサポート要件で効果を検討したことを肯定しつつ、その効果を進歩性において検討してもよかったと思っており、それを皆も同意してくれるだろうと思っているからこそ、二つの要件を「表裏一体」だと論じているのだろうが、こうした判断をした裁判体が効果を進歩性で検討して特許性を否定してもよいと考えていた証拠はないのではないか。 もしこれらの裁判体が「本件は構成が容易想到でないので効果を考慮するまでもなく進歩性あり」と考えていたのなら、これらの裁判体にとって両要件はまったく表裏一体ではないということになるだろう。 「ピリミジン誘導体」事件も、効果をサポート要件でしか検討せず、その事例において効果を進歩性で検討する必要性を否定したのだから、両要件は表裏一体になっていない。 また「ライスミルク事件」は、進歩性で判断すべき効果をサポート要件で判断した異議申立原審(むしろ原審は表裏一体説を採っていたのかも知れない)に対して、裁判所は「それは進歩性で判断しろ」という旨を説示して否定したわけだから、この裁判体にとっても両要件は表裏一体ではない。

ちなみに私は、クレームに記載されていない効果は進歩性において検討すべきであって、サポート要件で検討するのは基本的には避けるべきだと思っているから(潮海論文45ページ右欄4-7行に書かれていることに対応)、私にとっても両要件は表裏一体ではない。 (まあ、進歩性に足る効果でクレームが限定されていれば開示要件の問題となり、そうでなければ進歩性の問題になるので、いずれにしろどちらかで効果は検討されるという意味では両要件は関連しているとは言えるが、潮海先生はそういう意味で表裏一体と言っているのではないだろう。)

このように、潮海論文の「表裏一体」論は、本来は「進歩性」で検討すべき(と思っている)効果が「サポート要件」で検討されてしまった「偏光フィルム事件」や「トマト飲料事件」などの判決を批判せずに受け入れたときに生じる錯覚(「本当は進歩性で特許性を否定すべきだよね。サポート要件を否定した判決も正しいけど」という立場をとることにより、どちらの要件でも特許性を否定できるはずだという気分になること)に過ぎない。 本当はこれらの判決を批判しなければならないのである。


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2020年07月07日

山下説の第1要件の意義について(岡田吉美「発明の進歩性の評価における効果の位置づけの考察 ― 特許法の趣旨説(独立要件説)の再検討 ―」特許研究 No.69, 35-58, 2020 を読んで)


今回は、進歩性判断における「顕著な効果」の考え方に関して特許庁の岡田先生が最近出された論文(特許研究 No.69, 35-58, 2020)を見てみたい。

この論文の執筆動機について岡田論文には、昨年8月に「アレルギー性眼疾患事件」(局所的眼科用処方物事件)の最高裁判決(平成30年(行ヒ)69)が出たことを指摘し、「当該判決は,特許法の趣旨説(独立要件説)に親和的との見解もあり,この最高裁判決を契機として,再び発明の進歩性の評価における効果の位置づけについての議論が盛んになっている。」、「このような状況を踏まえ,本稿は,発明の進歩性の評価における効果の位置づけ,特に特許法の趣旨説について検証して,その妥当性を確認するとともにその理論的補強を試みる。」と記載されている。 すなわち、今回の最判が「独立要件説」に親和的だと評されていることを受け、確かに独立要件説(およびそれに親和的な最判)は妥当であることを確認するとともに、その理論的補強を試みたのがこの論文ということになるだろう。

1.「山下説」における効果の二要件論

岡田論文は、独立要件説の提唱者は山下和明先生(当時東京高裁第6民事部総括判事)だと指摘した上で、山下先生が提唱する考え方(山下和明「審決(決定)取消事由」竹田稔ほか『特許審決取消訴訟の実務と法理』161頁(発明協会,2003))とはどのようなものかを解説しながら論稿が進んでいく。 そして「山下説」によれば、構成が容易な発明について効果により進歩性が認められるためには、効果に関して二つの要件を満たす必要があるのだと論じられている(以下)。

[岡田吉美, 特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 38-39ページ]
何らかの技術効果を目的として,構成の容易想到性が認められる場合に,効果の顕著性を根拠に進歩性要件を充足すると認められるためには,山下説では,下記の2点を充足することが必要である。

i) 当該構成の効果として,予測あるいは発見することが困難な効果であること(以下「予測困難性」という。)。

ii)当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること(以下「顕著性」という。)。

確かに山下論稿には、効果によって進歩性が認められるためには、上記の二つの要件(「第1要件」と「第2要件」という)の両方を満たす必要がある旨が書かれている(山下論稿の160ページ)。 どちらの要件も、上に示したとおり「当該構成の効果として」(第1要件)、「当該構成のものとして」(第2要件)と記載されており、「本件発明の構成が」奏する効果として予測等ができないのか、そして顕著であるのかが問題にされている。

ちなみに6月17日の投稿で見た大寄調査官解説でも指摘されているとおり、「アレルギー性眼疾患事件」の最判(平成30年(行ヒ)69)で最高裁は、「・・・,本件各発明の効果,取り分けその程度が,予測できない顕著なものであるかについて,優先日当時本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・」と判示しているが、「予測困難性」と「顕著性」という二つの観点に言及していることや、どちらも「本件発明の構成が奏するものとしての効果」に着目するべきだとしている点が「山下説」と一致しており、山下説と最判は共通性がかなり高い。 最判が、何らかの形で「山下説」を参考にした可能性が考えられるだろう。

しかし、6月17日の投稿でも書いた通り、「第1要件」と「第2要件」は何が違うのか、本当に二つの要件が必要なのかという疑問が生じる。「第1要件」も「第2要件」もどちらも効果の「程度」を問題にしていると考える限り、予測されるものよりも「よほど顕著」(第2要件)であれば、それを予測できた(第1要件)ということはできないだろうから、第2要件が満たされれば第1要件は必然的に満たされることになるだろう。 そうすると、そもそも第2要件(顕著性)のみを判断すれば十分であって、第1要件(予測困難性)は要らないだろうということになる。

この問題について岡田論文はどう考えているのだろうか。

[同39ページ]
・・・,効果の予測困難性だけでは不十分で,当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであるという,効果の顕著性を要求している。

[同52ページ]
山下説は,・・・,効果の予測困難性が認められるだけでは不十分で,当該構成のものとして予測あるいは発見されることが期待される効果と比較して,よほど顕著なものであることという,効果の顕著性要件の充足が必要であるとし,・・・,「効果の予測困難性があれば必ず進歩性を満たすという結論を導くこと」に対する修正を行っている点に,大きな意義がある。

上に引用したとおり、岡田論文は第1要件だけでは「不十分」だと論じてはいるものの、第1要件の必要性はよく分からない。 もし第2要件は「十分」だというのなら、不十分な第1要件は要らないということになるだろう。

この問題に関連する事項については岡田論文の他の箇所でも触れられているから、それを含めて後でもう一度考えたい。

2.「特許法の趣旨説」というネーミングについて

今回の岡田論文は、「独立要件説」のことを「独立要件説」とは呼ばず、「特許法の趣旨説」と呼んでいる。 「独立要件説」という名称は、「効果の予測困難性」(上記の第1要件を指しているのだろうか?)があれば必ず進歩性を充足するとの解釈の “発散” を生みやすいので不適切だからだという(岡田論文の脚注12)。 しかしこのネーミングは私は賛同できない。 そもそも特許要件の判断規範について論じる場合に、それが特許法の趣旨に沿っていないと思って論じる者はいないだろう。 すべての論者は、自分が論じていることは特許法の趣旨に沿うと思っているはずだ。 そうすると、すべての説は「特許法の趣旨説」なのであって、山下説や岡田説だけが「特許法の趣旨説」と呼ばれるべき理由はない。

なお岡田論文はこのネーミングに関して、当時特許庁の特許審査第三部上席総括審査官だった相田先生の論稿(相田義明「発明の進歩性」竹田稔監修『特許審査・審判の法理と課題』224-225 頁(発明協会,2002))を引用し、相田先生が「予測できない顕著な効果があるときは,特許法1条の趣旨から,産業の発展に貢献する発明として進歩性があるものとされるのだ,と考えてはどうか。」と論じていることに触れている(岡田論文の脚注17)。 しかしこれについては以前(2019年10月9日の投稿を参照)も説明したとおり、特許法1条の趣旨とは、発明の保護と利用を図ることにより産業の発展に寄与することなのであって、(産業の発展に寄与する結果となるか否かを棚に上げて)産業の発展に寄与する発明に独占権を与えることではない。 産業の発展に寄与する発明に独占権を与えさえすれば産業の発展に寄与するというものではない。 「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」のが特許法1条の趣旨だという考え方は、「特許法の趣旨説」と呼ぶよりは、「特許法1条誤読説」と呼ぶ方が相応しいだろう。

この問題は、発明されるのも間近だと目される発明に「よほど顕著な効果」があった場合に特許権を付与することが特許法の趣旨にかなうのか(すなわち産業の発展に寄与するのか)を考えるときに重要となる。 特許法1条誤読説に基づけば特許を付与すべきだということになるのかも知れないが、発明されるのも間近だと目される発明については、いち早く出願した者に独占権を付与するよりは、進歩性を欠くものとして何人にも特許を与えず、誰もが早期に自由に利用できるようにすることの方が、産業の発展に寄与するのではないか。

もっとも、岡田先生や相田先生が過去に書いていることを見れば、岡田先生や相田先生が特許法1条を誤読していたわけではないだろうことは分かるが、それについては後で見ていきたい。

3.「技術的思想」というマジックワード

特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、・・・、特許を受けることができない。」と規定している(容易想到性)。 独立要件説は、発明の構成(すなわちクレームの文言どおりの発明)が容易でも、その実際の効果が予想外に顕著であれば容易想到性が否定されうる(進歩性が認められうる)という考え方だが、そもそも発明が実際に奏する効果は、発明を実施してみるまでは分からず、発明を完成させ実施して初めて判明するものだ。 したがって論理的に考えれば、発明が奏する効果が予想外に顕著か否かは、29条2項が規定する「発明をすること」の容易性には何ら影響を与えないはずで、実際の効果が顕著であれば容易想到性が否定されるという「独立要件説」は論理的に破綻している(あるいは29条2項の条文に基づいていない)という疑問が生じる。 これは「二次的考慮説」も同様だ。

これに対して岡田論文は、上述のとおり「独立要件説」を「特許法の趣旨説」と呼ぶことにした上で、特許法1条の趣旨なのだからいいのだという態度をとるのだが(39ページ右)、「特許法1条のみを根拠に作用効果の顕著性を独立要件と解することにやや無理はある」(39ページ右)との批判があることも認識している。

そして、発明の効果がなぜ進歩性を基礎づける要素となるのかについて今回の岡田論文では、「技術的思想」という言葉を使って説明が試みられている。 具体的には、特許庁の宮崎先生(宮崎賢司, tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170)が、発明とは「目的・構成・効果」を含む技術的思想の創作だととらえることにより、進歩性の判断においても、発明の構成だけでなく、発明の効果を斟酌することが無理なく説明できるのだ、というようなことを論じていることを指摘した上で、進歩性において「発明の効果」を考慮要素とすることを正当化している(39ページ右、52ページ)。

私は、宮崎先生の進歩性に関する考え方はわりと私に近いのではないかと思っているし、先ごろ出た宮崎先生の論文「進歩性 ALERT」(知財ぷりずむ : 知的財産情報 18(207), 62-71, 2019-12)も興味深い論文で、これからも要注目の先生だと思っているけれど、進歩性判断において効果を参酌することを「技術的思想」という言葉を使って正当化することについてはあまり賛成していない。 というのも、「技術的思想」というのはわけの分からない言葉であって、いわゆるマジックワードになりがちだからだ。

「技術的思想」という言葉がマジックワード化することについては、Sotoku 8号の脚注53で岡田先生の別の論文を取り上げたときにも書いた。

もし宮崎先生がいうように、「目的・構成・効果」が一体となったものが発明だというのなら、クレームも「〇〇を目的として、△△の構成により、××の効果を奏させる方法。」として特許を取らせるのが筋だろう。 しかし現状はそうなっていない。 発明の目的も、発明の効果も欠落した「物質発明」に特許を認めている。 物質発明を認め、権利行使にあたって明細書に開示されている効果を奏させるか否かを不問とし、単にその物を使っているというだけで排他権を行使することを容認しておきながら、特許を付与するときは「物自体は容易想到でも、効果が顕著なら、物の発明に特許あげます。その効果を奏させる場合でなくても権利行使できます。」って、それはおかしくないですか? それこそ、宮崎先生のいう相同性理論(二枚舌禁止)に反するだろう(tokugikon, No.293, 91-127, 2019)。

私は特許や特許出願に係る発明をそんな風に理解するのは正しくないと思う。 発明は、あくまでクレームの記載に基づいて理解されるべきものだ。もしクレームが「△△の構成により、××の効果を奏させる方法。」であるのなら、効果は発明特定事項(クレームの範囲を限定する事項)だから当然考慮要素になるし、「××の効果」が奏されることを発見するのは容易ではなかったのなら、よろこんで特許にしよう。 しかし、もしクレームが「△△の構成からなる物。」という物質クレームであって、「××の効果」とは異なる効果を奏させるために同じ物が作製されるのも間近だったと評されるのであれば、物質発明の進歩性を認めることはできない。 「××の効果」がどれほど顕著だろうが、その結論は変わらない。 これを「技術的思想」という言葉を使って無理やり進歩性を肯定するのは誤りだと思う。 もし「××の効果」が顕著であって、その効果を発見するのは容易ではなかったのなら、上述のとおり「××の効果」という効果を奏させることに限定された方法発明や用途発明として特許を取ればよいのである。

それから何度か書いているが、宮崎先生が上記の2018年論文(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170)の163ページで挙げている1000個の化合物の例題(合成することは容易と思われる1000個の化合物を合成して、888番目にだけ顕著な効果があった場合に、なぜ888番目にだけ進歩性が認められるのか、という問題)については、888番目の化合物は構成は容易だが効果が顕著だから進歩性が肯定されると考えるのは誤っていると思う。 多数の選択肢の中から888番目という特定の化合物を選択して製造することはそもそも容易ではないと考えるべきだ。 容易だと言いうるのは、1000個中の何らかの化合物(すなわちarbitraryに選択した化合物)を製造することであって、ある特定の化合物を製造することではない。 888番目以外の化合物に進歩性が認められないのは、それらの個々の特定の化合物を選択して製造することがすべて容易だからではなく、特定の化合物を選択して製造することは容易とは言えないが、arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎない(すなわち容易な発明)と評されるから進歩性が否定されるのだ(私の言う、進歩性第2要件)。この評価(arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎないという評価)は一種の「意味付け」だ。 888番目の化合物は、顕著な効果があることにより、「arbitraryに選択した一個の化合物を製造したに過ぎない」(すなわち容易な発明)という評価を逃れられるのだ。 このように進歩性の判断は、機械的・客観的な判断を貫徹できるものではなく、ある種の「意味付け」なしに妥当な結果を導くことはできないと私は思う。 ちなみに、今回の岡田論文でも、「一般人(技術者,事業者)の感覚からして妥当な結論を導く」(52、57ページ)というくだりがあるが、これは私の言う「意味付け」と似たものかも知れない。

なお、もし選択肢が888番目の化合物しかなく、この化合物を作って活性を確かめてみることに強い動機付けが発明前にあったと認められる場合は、どれほど顕著な効果があろうが、進歩性は認めるべきではない(私の言う、進歩性第1要件)。 それは、今回の岡田論文にも出てくる、欧州の「ボーナス効果」という考え方と同じだ。

このように考えれば、「技術的思想」という言葉を持ち出さなくても進歩性の要件を考えることは可能だ。

ちなみに、今から14年前の2006年の論文(特許研究 No.42, 21-43, 2006)で岡田先生は次のように論じていた。

[岡田吉美, 特許研究 No.42, 21-43, 2006 の 30-31ページ]
発明を構成だけでなく効果と一緒に捉えて,「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」は経験則から着想困難であるので進歩性が認められ,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」は構成の組み合わせ自体は着想容易であり進歩性が否定されると説明がつけられると考えるかもしれない。しかし,この考え方は,権利範囲としての観点からの検討が抜けている。効果は構成に自然法則を適用することにより客観的に導かれるものであるから,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」と「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」とは客観的には同一のものに帰し,区別することができない。換言すると,「効果までは認識していない特定の構成の技術的思想」は容易であるとの前提のもとでは,「効果まで認識した特定の構成の技術的思想」は想到困難として特許にすると,結局は容易な発明について特許を付与しているのと同じことになってしまう。

上記の岡田先生の説示はもっともだと思うし、この説示は宮崎説(発明の目的・構成・効果を一体の技術的思想と捉え、効果が顕著なら構成が容易でも技術的思想としては容易ではないと捉える考え方)を批判するものでもあるだろう。

ある特定の技術的思想が容易想到であると評される場合に、その技術的思想を具現化すれば必然的に奏される顕著な効果を発見(認識)すると、その技術的思想に突如として「顕著な効果」が組み込まれて容易想到ではなくなるというのはいかにも不合理だ。 2019年10月9日の投稿でも「何が違うのか本当に分からなくなる」と書いた通り、「技術的思想説」は、修正主義的な「二次的考慮説」と同じように、結果を見てから容易想到性を決めるという「時間的に逆行した思考」に拠っているのであり、「二次的考慮説」と同じ批判を免れない。 「技術的思想」というマジックワードを使って説明した気になるのはよくないと思う。

4.「思想空間」と「現実空間」のせめぎあいは実在するのか

今回の岡田論文は、ある発明に進歩性を認めるか否かは「技術思想の世界」(思想空間)と「現実世界」(現実空間)の両面からの要請を比較衡量して判断しなければならないと説いている(52ページ右下、54ページ右上)。 「思想空間」からは、効果が顕著であれば特許を付与すべきという要請があり、「現実空間」からは、新規性のないものに新規で顕著な効果を見出しても特許を付与すべきではないという要請があるのだという。 しかしこうした考え方も、「技術的思想」というマジックワードがもたらす一種の幻覚ではないかと思う。

私は世の中に「思想空間」なる形而上空間が存在しているということにそもそも同意しないし、また、放っておいてもじきに誰かが発明するような容易な発明について、効果が顕著だからといって、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるというのが「思想の世界の要請」だとも思わない。 もしそのような要請があるとすれば、それは単なる利己的な要請か、「悪い奴に独占されたら大変だから私が先に」という不安心理ではないのか? それはともかく、そんなものに特許を与えるなというのが、「現実空間」で生きる多くの一般人の要請だとは思う。

私は、その種の「せめぎあい」があるとそれば、2020年1月14日の投稿でも書いたが、次のようなものだと思う。 すなわち、自分の発明を秘匿して独占することには利益があり、他人の発明を知得して利用することにも利益がある。 自分の優れた発明は他人に知らせて喜ばれたり発展に寄与したいという気持ちはあるし、他人の優れた発明は素直に称賛したいし、そこから学びたいという気持ちもある。 また各人は皆、自分の自由な創意工夫を妨げられたくないと思っているだろう。 そうした各人の思いのぶつかり合いの中で、社会的にも受け入れられ、その発展にも資する「系」ができるとすればどういう状態なのか、それを法的にサポートするにはどのような法規範が望ましいのかという観点で考えればよいのではないか。 つまり、すべては現実のせめぎあいなのだと思う。

5.顕著な効果は「新規な構成」により奏される必要はあるか

今回の論文で岡田先生は、効果を根拠として進歩性が認められるためには,当該効果は従来技術には存在しない新規な構成に基づく効果であることが必要だと論じている(35ページ抄録、38ページ右、43ページ右)。

これは私も以前から実務上興味深い問題だと思っているので、少しコメントしたいと思う。 例えば、ある既知化合物Aに活性aがあることが知られていたとする。 そしてある研究者が、この既知化合物Aに容易な改変を加えて化合物A'を作り出したところ、化合物Aと同程度の活性aがあることが分かったとする。しかし、これでは進歩性を満たすかどうかが怪しいので、さらにいろいろ調べたところ、化合物A'には、別の活性bを有することが分かったので、これを明細書に記載し、化合物A'という物質発明について特許出願を行ったとする。この場合に、化合物A'には活性aのみならず活性bもあることを主張して進歩性は認められるだろうか?、という問題だ。

岡田論文の考え方からすれば、もし既知化合物Aも活性bを持っているのなら、活性bは新規な構成により奏されるとは言えないので、顕著な効果として斟酌することはできないから、進歩性は否定されることになるかも知れない。 まあ、私も同感だが、現実には話はそう簡単にはいかないことがある。

というのも、活性bは、おそらく既知化合物Aも持っているのかも知れないが、それについては調べられていないということがよくあるからだ。 化合物A'の明細書には、化合物A'に活性bがあることは実験データとして示されているが、既知化合物Aに活性bがあるのかどうかは示されていないことがある。そして先行文献でも、既知化合物Aに活性bがあるのかどうかは実験されていないことがある。その場合、おそらく既知化合物Aにも活性bがあるのだろうという疑いはあっても、そこは実験をやらない限り分からない。

そうすると、活性bは化合物A'の顕著な効果だと出願人が主張した場合に、審査官や審判官はそれを明確に否定することはできず、特許になってしまうかも知れないね。 当事者系の争いになれば、相手側は実験を行って確かめるかも知れないし、出願後に誰かが実験して論文を出しているかも知れないから、それにより進歩性を否定できるかも知れないが、データがない場合はやっかいな問題になる。また、そうした後出しデータ(出願前には存在しなかった知見)が、進歩性否定の証拠となり得るのかも一つの論点かも知れない。

これと似たような話は、2019年9月17日の投稿でも書いた。すなわち、新しいアッセイ系が開発された場合に、そのアッセイ系を使っていち早く化合物の活性を評価して特許出願を行えば、同じアッセイ系で同程度の活性を示す既知化合物があるかどうかは先行文献からは分からないから、予測できない顕著な効果だと出願人が主張した場合に、審査官としては否定しにくいのだ。 こういう場合にどうやって進歩性を否定すればよいのか(あるいは、進歩性を認めてしまえばよいのか)については、悩みどころだと思う。

6.顕著な効果があろうが進歩性を否定する場合はあるのか?

今回の岡田論文は、「独立要件説」を初めて提唱したとされる「山下説」を肯定的に論じるものだが、岡田先生は「山下説」の特徴として、それとは対立する説である「二次的考慮説」(岡田論文では「経験則説」と名付けられている)を全否定していない点を強調している(35ぺージ抄録、38ページ左、54ページ左、および脚注3)。 しかし、岡田論文には「経験則説を全否定するものではない」ことは繰り返し述べられているものの、「独立要件説」を採らずに「二次的考慮説」を採る場合とはどのような場合なのかについてはあまり論じられていない。 具体的に論じられているのは、山下先生が論稿の中で、「現実に行われてきている『予測困難な顕著な作用効果の看過』の主張の多くは,構成の推考の困難性を推測させる間接事実の主張としての意味を持つことはあり得ても・・・」と述べていることを指摘するもので、山下論稿がこのように述べていることをもって岡田先生は、「山下説は,経験則説の考え方による進歩性の主張を全否定するものではない。」と論じている(38ページ左下)。 岡田先生はさらに、「長らく未解決であった課題」が解決されたことに基づいて進歩性が認められる場面について以下のように論じている。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 46ページ右]
・・・,「長らく未解決であった課題」の論理は,構成の容易想到性を争うものであるから,その効果については,当該構成を採用したときに予測または発見される効果としての困難性は要求されるべきでないこととなる。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 54ページ右]
・・・,最高裁判決は,経験則説的な考え方を否定するものではないことには注意が必要である。例えば,長らく未解決であった課題に対応する効果は,当該構成の効果として予測可能なものであってもよく,比較の基準は当然に先行技術の奏する効果であるところ,最高裁判決はこの論理による進歩性の主張を排除するものではない。

しかしこれらの例は、「よほどと言える顕著な効果があれば必ず進歩性は認められるのか」(顕著な効果があっても進歩性が否定されることがあるのか)という問題とはあまり関係のない例だから、果たして岡田先生は、顕著な効果があっても進歩性を否定する場合があり得ると考えているのか、あるとしたらどのような場合なのかについて示唆を与えるものではない。

この問題にもっとも関連するのが、ある大審院判決について岡田論文が紹介するくだり(47ページ右下および脚注33)だが、その前に、山下説の「第1要件」の意義について考えたい。

7.「山下説」の第1要件の意義

本稿の最初に、「山下説」の第1要件はそもそも不要に見えるが、それでよいのか、という話をした。 これについて考えてみたい。

山下説の二つの要件を再掲すると以下のとおりだ。

i) 当該構成の効果として,予測あるいは発見することが困難な効果であること(予測困難性)。

ii)当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること(顕著性)。

冒頭で述べたとおり、もしこれらの二つの要件がともに効果の「程度」を問題にしているのなら、本件発明の効果の程度が、「当該構成のものとして予測される効果」と比較してよほど顕著(第2要件充足)であるのなら、それを当該構成のものとして容易に予測できるとは言えないだろうから、第1要件は必ず充足することになり、第1要件はほとんど意味がなくなってしまう。 「山下説」の第1要件は、そのような要件だと理解するのが妥当なのだろうか。

第1要件について山下論稿はどのように論じていたのか、原文を見てみる。

[山下論稿の159-160ページ(岡田論文の37ページにも引用されている)]
・・・,特定の発明の作用効果は,客観的には,すべて,当該発明の構成の必然的な結果であり(逆にいえば,当該構成の必然的な結果でないものを当該発明の作用効果とすることはできない。),構成とは別の要素として存在し得るものではない。そうだとすると,構成自体は既に公知となっている発明についてはもちろん,構成自体についての容易推考性の認められる発明についても,その作用効果のみを理由に特許性が認められるということは,本来あり得ないことである,ということもできるであろう。ただ,構成自体についての容易推考性の認められる発明であっても,その作用効果が,その構成を前提にしてなおかつ,その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなときに,一定の条件の下に,推考の容易なものであるとはいえ新規な構成を創作したのみでなく,上記のような作用効果をも明らかにしたことに着目して,推考の困難な構成を得た場合と同様の保護に値すると評価してこれに特許性を認めることには,特許制度の目的からみて,合理性を認めることができると考えられる。

注目すべきは、効果によって進歩性が肯定される場合について山下論稿が、「構成自体についての容易推考性の認められる発明であっても,その作用効果が,・・・,その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなときに,」と述べていることだ。 すなわち山下論稿は、「予測することが困難」であるだけでなく、「その発見も困難である」ことを「AND条件」として求めているのだ。

もっとも、山下論稿の後の方では、「・・・,予測あるいは発見することの困難なものであり,・・・」と書かれ、「あるいは」が使われており、読み方によっては、「予測あるいは発見のいずれかが困難であり」という意味(すなわち「OR条件」)にとれないことはない。 そして岡田論文においては、主に「予測あるいは発見」というところが引用され、かつ、この第1要件を「予測困難性」と名付けていることから、山下説は、あたかも予測さえ困難であれば第1要件は満たされるものとして扱われているように見える。

しかしそのように解してしまっては、山下論稿は大事な点を「AND条件」で書いたり「OR条件」で書いたりするいい加減な論稿ということになってしまうし、上述のとおり、第1要件は第2要件が満たされれば必ず満たされる冗長な要件ということになってしまうだろう。 もし山下論稿を、冗長ではなく一貫性のあるものだと解するなら、「予測あるいは発見することが困難な効果であること」という山下論稿の第1要件は、「その構成のものとして予測することが困難であり,かつ,その発見も困難である,というようなとき」という山下論稿の説示と整合性をもって解釈しなければならないだろう。

そのためには、山下論稿の言う「予測あるいは発見することが困難な効果であること」とは、予測あるいは発見の少なくともいずれかが困難であることと捉えるのではなく、文字通りに「“予測あるいは発見すること” が困難な効果であること」、すなわち、予測と発見のいずれもが困難であることだと捉えるべきだろう。 そしてその場合の「予測」とは、効果の「程度」を予測することを意味しているのではなく、効果の発見につながるような予測性(すなわち、効果を確かめてみようという動機付けを与えるような予測性)を指しているとでも捉えるべきだろうと思う。 そうした予測の容易性があれば、たとえ予想外の顕著な効果を奏するとしても、それが発見されるのは間近だったということになるから、発見は容易であったということと同じような意味になる。 つまり、山下説の第1要件における「予測困難性」と「発見困難性」は、一つの要件の中で併記されることが自然に感じられる類似した事項だと理解することができるだろう。 またこのように考えると、山下説の第1要件を「予測困難性」と名付けるのは、「発見困難性」の考慮が不要であるかのように感じさせる点でかなりミスリーディングだということになるだろう。

大寄解説のところでも述べたとおり、山下の第1要件を効果の「程度」の予測困難性だと解すると、第2要件と判断の「軸」が同一となり、第1要件の意義がほとんど失われてしまう。 しかし、山下の第1要件を、効果の発見に導くような予測の困難性を言っているのだと解すれば、第2要件とは異なる判断軸ということになり、第2要件にはない独自の意義が生まれることになる。 ちなみに、これは私の言う「進歩性の第1要件」に近いものだ。

[私が考えているあるべき進歩性の判断手順] (2019/8/30版
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山下説の「第1要件」を上で示したように解釈する場合、ある発明が、その効果を確かめてみようという動機付けを与えるほどの予測・発見の容易性がある場合(すなわち山下説の「第1要件」を満たさない場合)は、実際の効果がどれほど顕著であっても(すなわち山下説の「第2要件」を満たす場合でも)進歩性は否定されることになるから、効果の顕著性は進歩性肯定の「独立要件」ではないことは明らかで、山下説を「独立要件説」と呼ぶことはできないだろう(岡田論文の脚注12との違いに注意。 岡田論文の脚注12は、「効果の予測困難性」(山下説の第1要件?)を満たせば必ず進歩性が肯定されるという解釈の発散を防ぐために山下説を「独立要件説」と呼ぶことに反対している。 それに対して私は、山下説の第1要件が満たされなければ、たとえ効果が顕著であろうが進歩性は否定されるから、山下説を「独立要件説」と呼ぶことはできないと言っているのだ。 )。

*   *   *

なお、山下説の第2要件の「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果と比較して,よほど顕著なものであること」の「発見される効果と比較して,よほど顕著なものである」とはどういうことなのか、そのようなことがあり得るのか、という点は気になるが、ここでは考えるのをやめておこう。

8.岡田先生や相田先生はどう論じていたのか?

相田先生が「予測できない顕著な効果があるときは,特許法1条の趣旨から,産業の発展に貢献する発明として進歩性があるものとされるのだ,と考えてはどうか。」と論じていることについて、私は上で「特許法1条誤読説」などと言ってしまったが、実は相田先生は同じ論稿の中で続けて以下のように書いている。

[『特許審査・審判の法理と課題』発明協会, 2002, 225ページ]
それでも、なかには、引用例の記載に基づいて当業者であればごく自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合があろう。このような場合に進歩性が否定される条件を定式化する必要があるだろう(・・・)。

つまり相田先生は、引用例の記載に基づいて当業者であればごく自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合は進歩性を否定すべきだと論じているのだ! これはまさに私が解釈するところの山下説の「第1要件」と類似するものだろう。 そうすると相田先生は、発明の構成が容易でも、効果が予測を超えて顕著でさえあれば進歩性を肯定できるという立場ではないことは明らかで、相田説を「独立要件説」と理解することはそもそもできないということになろう。

では岡田先生はどうか。 実は岡田先生は、2006年の論文において相田論稿の上記の指摘を引用した上で、次のように論じている。

[岡田吉美, 特許研究 No.42, 21-43, 2006 の33ページ左]
 指摘の点は尤もなことだと思われる。確かに,技術水準から予測できないほどの顕著な効果があれば必ず進歩性があると考えるのは硬直的過ぎる考え方だろう。
 上記の指摘は組み合わせ発明の場合だけでなく,選択発明の場合も該当するだろう。例えば選択肢が非常に少ない場合の選択発明がその例である。選択肢が少ない場合で,当業者が順番に試すことが期待される場合には,たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも,選択して測定して直に発見することが期待されるのであれば,技術水準からは発見することが困難な効果とは言えないと言うべきであろう。

このように岡田先生は上記の相田先生の指摘を取り上げた上で、「指摘の点は尤もなことだと思われる。確かに,技術水準から予測できないほどの顕著な効果があれば必ず進歩性があると考えるのは硬直的過ぎる考え方だろう。」と述べているのだ。 そうすると、岡田先生もまた、少なくとも2006年当時は、私が解釈するところの山下説の「第1要件」を支持しており、効果を「発見すること」が期待されるのであれば、進歩性は否定されるべきだという立場だったと解しうるだろう。

問題は、岡田先生は今(あるいは本当は)どう考えているのかだが、今回の岡田論文で最も関連するのは、ある大審院判決について論じている部分で、具体的には以下のように記載されている。

[特許研究 No.69, 35-58, 2020 の 47ページ右]
効果の顕著性があっても特許性を認めなかった判例として,大正10年法の下での大審院のものではあるが,大判昭和6年6月24日審決公報号外7号97頁(昭和5年(オ)1293号)がある。人造弾性ゴムに炭素を配合してその性質の改善をする発明について,その効果が天然物の場合より人造物質の場合において顕著であっても,天然物処理方法を人造物に応用することはなんら発明力を要せず,当業者が容易に想到し得るものである旨判示している 33)。

33) もっとも,本判決は,予測可能性はないにしても,山下説における,発見が容易と認められる効果,すなわち,当該構成の採用により容易に発見することが期待される付随する効果に該当すると考えられ,欧州の「単なるボーナス効果」の考え方に類似するものと考えられる。

この大審院のケースについて岡田論文は、上に引用したとおり脚注33において、「山下説における、発見が容易と認められる効果,すなわち,当該構成の採用により容易に発見することが期待される付随する効果に該当する」と説明しており、これを見る限り、大審院のケースは山下説の「第1要件」、しかも効果の「予測容易性」ではなく「発見容易性」をもって進歩性が否定された事例だと解しているように見える。 したがって、岡田先生が2006年論文でとっていた立場は、今でも堅持されているのかも知れない。 しかし、気になる点がいくつかある。

一つ目には、上記の事項は今回の岡田論文の中で大審院判決という個別のケースについて短く論じられているだけで、顕著な効果があろうが発見が間近なら進歩性は否定されるべきだという規範が明確に語られていないことだ。 岡田論文には、山下説は二次的考慮説を「全否定するものではない」ことが繰り返し述べられているわりには、効果が予測できなくても発見が容易なら第1要件は満たさないということについては規範として打ち出されていない。 それどころか上述のとおり、「予測あるいは発見することが困難」という山下説の第1要件を「予測困難性」と名付けることで、あたかも「予測すること」が困難でありさえすれば第1要件は満たされるような印象を与えている。 これは岡田先生が、大審院判決のようなケースを一般的規範とは捉えていないか、あるいは意図的に言及を避けた可能性を疑わせるだろう。

二つ目は、この大審院のケースにおける効果を、岡田先生は脚注33において「付随する効果」と言っている点で、この「付随する」というのが何を意味しているのかが分かりにくいことだ。 もし「付随する」というのが、「発明の構成に付随する」という意味であって、当該構成を採用すれば必然的に奏される効果であるという意味で「付随する」と言っているだけであればよいが、この発明には「主たる効果」と「付随的な効果」があって、顕著だったのは「主たる効果」ではなく「付随的効果」の方だから進歩性を否定してよいのだということを示唆しているのなら、「主たる効果」が顕著であれば進歩性は肯定しうるということになってしまう。 「付随する」が何を意味しているのかを明らかにしてほしいところだ。

気になる三つ目の点は、岡田論文では、この大審院のケースの直前で以下のように論じられていることだ。

[同47ページ右]
山下説では,構成の容易想到性が認められる場合を前提条件としているところ,一口に「容易」といっても,その程度にはさまざまな場合があるのではないかというのが通常の発想であろう。山下説はこの点も考慮して,比較の基準は,「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果」であるとしている。すなわち,当該構成を採用する目的・動機づけとなる効果との比較衡量で総合的に評価するとしていると理解される。決して,構成の容易想到性と独立して予測困難な効果の顕著性を評価するのではない。

つまり大審院のケースで進歩性が否定されたのは「総合的な評価」の結果としてそうなったのだというニュアンスを読者に与えている。 しかしこの「総合的な評価」という言葉も、意味がよく分からない。 上に引用したとおり岡田論文は、比較の基準が「当該構成のものとして予測あるいは発見される効果」であることをもって、「すなわち,・・・総合的に評価するとしていると理解される。」、「決して,構成の容易想到性と独立して予測困難な効果の顕著性を評価するのではない。」と論じるのだが、「当該構成のものとして」予測される効果を基準とすることは、単に基準はそこだという意味を持つに過ぎず、これを「総合評価」だというのは飛躍があるのではないか。 予測される効果は発明の構成と無関係ではない(独立ではない)ことは確かだとしても、予測される効果に比べて実際の(主たる)効果が顕著であった場合に進歩性を肯定するというのなら、それは構成の容易想到性とは独立に進歩性を肯定することに他ならないのであり、それを「総合評価」とか「独立ではない」などと言うのは不適切ではないか? それとも岡田先生は、「発明の構成の容易性」と「効果の顕著性」は同じ天秤上でバランスをとり合っていて、「発明の構成」がかなり容易想到でも、「効果の顕著性」がすこぶる高ければ進歩性は肯定しうるが、「発明の構成」が極めて容易想到である場合は、進歩性肯定のために必要な「効果の顕著性」は事実上無限大にまで高まるというようなイメージでも持っているのだろうか? そうだとすれば、確かに「総合評価」と言えるかも知れないが、そうした考え方は、「総合評価」の名のもとにすべてをブラックボックスに放り込むようなもので、昨年10月9日の投稿でも書いたとおり、『「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。』という疑問を生じさせる。 (なお同じようなことは、高林解説を読んだときにも感じた;2020年1月28日の投稿の『よほど顕著な効果があっても強引に「効果は想定内」だとみなせばよいと高林先生は考えているのかも知れない』という部分。)

大審院のケースはこれに続いて論じられているものであるので、岡田先生の中でこの大審院のケースは、発見が容易であるから山下説の「第1要件」により進歩性が否定されるのだと認識されているのではなく、「総合評価」という名のもとに、どちらかというと山下説の「第2要件」により進歩性が否定されるものと認識されている可能性も感じられる。

今回の岡田論文で気になる点をさらに挙げれば、先にも触れたが脚注12で岡田先生は、『「独立要件説」という名称は,その響きから,構成の容易想到性に関係なく,効果の予測困難性があれば必ず進歩性を充足するとの解釈の発散を生みやすいので(後掲注(15)参照。),筆者は不適切と考えている。』と論じていることだ。 ここでいう「効果の予測困難性」とは、山下説の第1要件を指しているように見えるが、そうすると、『「効果の顕著性」があれば構成の容易想到性に関係なく必ず進歩性を充足する』という点については、岡田論文は否定しないのだろうか? そうすると、やはり大審院のケースは例外的な判断であって、一般的規範に沿うものではないと岡田先生は考えているのだろうか?

また今回の岡田論文では、効果が「瑣末的」なものである場合は進歩性を否定すべきだとは論じられているが(50ぺージ右)、効果が瑣末的ではなくても(主たる重要な効果でも)進歩性が否定されうるのかについては、一般論を避けているように見える点も気になるところだ。

さらに気になる点を挙げれば、上で引用したとおり、2006年論文で岡田先生は、「選択肢が少ない場合で,当業者が順番に試すことが期待される場合には,たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも,選択して測定して直に発見することが期待されるのであれば,技術水準からは発見することが困難な効果とは言えないと言うべきであろう。」と論じ、「たとえ公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果であろうとも」という条件らしきものを付けていることだ。 この文章からは、「公知の文献からは見いだせないという意味で予測困難な効果」である場合は進歩性を否定してよいことは分かるが、そうではない場合、例えば、その効果が公知の文献からは見いだせないということを超えて、予想外に顕著であった場合は別論ということであろうか?

このように、岡田論文の端々からは、「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」ということを否定したくないという気持ちがあるように感じられる。 「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」ということを堅持するために、高い効果がありながら進歩性を否定したいケースが出てきた場合は、「総合評価」の名のもとに「顕著性」を否定すればよいと思っているのではないだろうか。 上述のとおり、私は安易に「総合評価」を持ち出すことには反対で、その具体的な中身を明らかにする必要があると思うが、岡田先生がそのあたりのことをどう考えているのかについては、今後の論文を待ちたいと思う。

*   *   *

以上のとおり、山下説の「第1要件」の「効果を予測あるいは発見することが困難」というのは、文章を素直に読んで、「効果を “予測または発見すること” が困難」だと理解するべきであり、これを「予測困難性」と呼ぶのはミスリーディングであることを説明してきた。 またその場合、「第1要件」は効果の「程度」の予測困難性を問題にしているのではなく、予測して積極的にまたは偶然に効果の発見に至ることの困難性を問題にしていると捉えることで、予測と発見が併記されていることを自然なものとして理解することが可能で、そうした理解により、山下説の「第2要件」にはない独自の意義を「第1要件」に見出せることについて説明した。

また、一般には「独立要件説」を支持していると理解されている2002年の相田論稿は、実は「自然に発明の構成を選択するであろうことが推論できる場合は進歩性を否定すべき」としている点で「独立要件説」とは言えないこと、そして岡田先生も、2006年論文では、相田先生のこの指摘を支持していたことを見てきた。

ところが、そうした考え方は、時として細部が置き去りにされ、一部のみが切り取られて一人歩きをしてしまうのだ。

その責任の一端は特許庁にもあり、下のとおり、「予想以上の効果」があれば即「進歩性あり」というような単純すぎる図を自ら作成したりする。

[産業構造審議会 特許制度小委員会 第3回 審査基準専門委員会ワーキンググループ(平成27年1月23日)の配布資料(資料1)より](赤丸を付加した)
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そしてその責任は知財高裁にもあり、前回(2020年6月19日)の投稿でも見たとおり、「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」という単純すぎる一般規範を繰り返し説示したり、ラセミ体の一方の異性体に特許を与えたり(2019年10月2日の投稿)、容易な発明でも効果が顕著なら「特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべき」などと特許法1条を曲解してみせたりする(2019年10月9日の投稿)。

そして我々にも責任はあり、こうした特許庁や裁判所の説示に対し受け身な態度に終始して明確な批判をして来なかった。

その結果が今なのであり、進歩性の判断における「効果」の意義に高い関心が集まる中で知財高裁は、それを意に介さないかのように「予想外の顕著な効果があれば進歩性あり」という一般規範を引き続き打ち出して見せたのだ(令和元年(行ケ)10118;前回の投稿を参照)。

細部を置き去りにしたこうした単純化はどこかでただされる必要がある。 そのためにも、山下説の「第1要件」の意義について、今回の岡田論文にも増して考える必要があるだろう。


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2020年06月19日

「独立要件説」ここにあり(令和元年(行ケ)10118「アレルギー性眼疾患事件」差戻審判決 進歩性 顕著な効果)


「アレルギー性眼疾患」事件の差戻審(令和元年(行ケ)10118;令和2年6月17日判決)の判決文が公開された。

本件最判(平成30年(行ヒ)69)の大寄調査官解説に関する一昨日の投稿において私は、「独立要件説論者はいなかった?」などと書いてしまったが、申し訳ございません。 いらっしゃいました、知財高裁に。

今回の判決で知財高裁(第2部 森義之裁判長)は次のように判示した。

[令和元年(行ケ)10118;判決文PDF 48ページ]
上記のとおり,前訴判決は,本件各発明について,その発明の構成に至る動機付けがあると判断しているところ,発明の構成に至る動機付けがある場合であっても,優先日当時,当該発明の効果が,当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである場合には,当該発明は,当業者が容易に発明をすることができたとは認められないから,前訴判決は,このような予測できない顕著な効果があるかどうかまで判断したものではなく,この点には,前訴判決の拘束力(行政事件訴訟法33条1項)は及ばないものと解される。

上に引用したとおり、知財高裁は、「・・・,発明の構成に至る動機付けがある場合であっても,優先日当時,当該発明の効果が,当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである場合には,当該発明は,当業者が容易に発明をすることができたとは認められないから,・・・」と説示して判断を行っている。 つまり効果が顕著なら進歩性ありだと言っているのだから、この説示は「独立要件説」の考え方そのものだ。 (もっとも高石秀樹先生などは、「容易に発明をすることができたとは認められない」というフレーズが入っていることをもって、これを「二次的考慮説」だと認定するのかも知れないが・・・(高石先生の解説の「シュープレス用ベルト事件」の項、および私の2019年10月9日の投稿なども参照)。)

そして裁判所は、これを “前提” にして顕著な効果を判断し、顕著な効果があることをもって進歩性を肯定している。

しかし、この前提がなぜ正しいのかについては、判決文において特に説明はされていない。

ひるがえって本件最判(平成30年(行ヒ)69)はどうか。 これについては前回の投稿でも話題にしたが、最判は、顕著な効果の判断の仕方について判示し、顕著な効果を判断させるために本件を知財高裁に差戻した。 わざわざそのような判決を行ったということは、「顕著な効果があれば進歩性あり」なのだろうと見えるのは確かだ。 しかし実際のところ最判は、「発明の構成が容易でも、顕著な効果があれば容易想到ではない」とは一言も言っていない。 単に判決文の冒頭で「顕著な効果を有するか否かが争われている。」と認定した上で、その判断の仕方について説示しただけだ。

そして前回の投稿でも見たとおり、最判について解説した大寄調査官解説では、「二次的考慮説」と「独立要件説」が紹介された上で、「二次的考慮説」について脚注9で「容易想到性を肯定する方向の事情と総合考慮する見解によれば、予測できない顕著な効果がある場合であっても、必ず進歩性が肯定されることにはならない。」と論じ、「独立要件説」に関しても、「予測できない顕著な効果があればそれだけで進歩性が肯定されるという考え方と 10)、両者を総合的に考慮して、発明の非容易性(進歩性)を判断する考え方とがある 11)。」と論じている。

つまり大寄解説は、「二次的考慮説」については「予測できない顕著な効果がある場合であっても、必ず進歩性が肯定されることにはならない。」と説示し、「独立要件説」についても、予測できない顕著な効果があればそれだけで進歩性が肯定されるという考え方と、そうではない考え方(総合考慮により結論を出す考え方)とがあると説示しているわけだ。

そうすると、「顕著な効果があれば進歩性あり」という考え方は、「独立要件説」の中でも、総合考慮を行わない方の考え方(大寄解説の脚注10の考え方)のみということになる。

そして前回の投稿でも書いたが、大寄解説は、

[大寄解説の112ページ左]
・・・、本判決が前提とする予測できない顕著な効果についての上記判断方法は、二次的考慮説または独立要件説のいずれの立場からも説明可能と思われる 20)。

[大寄解説の113ページ右]
本決は、独立要件説または二次的考慮説のいずれかの立場を前提としたものではなく

と論じている。 つまり大寄解説は、最判は別に「顕著な効果があれば進歩性ありという立場じゃないですよ」と言っているわけだ。 ところが今回の差戻審は、「・・・顕著なものである場合には,当該発明は,当業者が容易に発明をすることができたとは認められないから,・・・」と決め打ちし、これを “前提” にして判断を進めた。 (田中先生は昨日のツイートで、この知財高裁の考え方を「真正(?)独立要件説」と呼んでいる。)

この「真正独立要件説」が29条2項の法解釈として正しいのかどうか、そこが大問題だろう。 大寄解説が言う「総合考慮」を必要とする説は誤りなのか? 「真正独立要件説」という単純な判断規範で法の趣旨が実現できるのか、そこが検証されるべきだと思う。

なお知財高裁が「真正独立要件説」の考え方を採るのはこれは初めてではなく、むしろ普通かも知れない。 よく知られているのが「シュープレス用ベルト事件」判決(平成24(行ケ)10004)で、知財高裁は次のように判示している。

平成24(行ケ)10004(H24.11.13判決;芝田俊文裁判長)]
ETHACURE30を使用することを動機付けられることがあるとしても,本件発明1が,ベルトの外周面を構成するポリウレタンにクラックが発生することを防止できるという,当業者といえども予測することができない顕著な効果を奏するものであることに照らせば,本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず,進歩性があると認められるから,これを無効とすることはできない。

昨年8月27日の投稿で書いた通り、知財高裁前所長の清水節先生は、特許判例百選第5版(有斐閣 2019)においてこの判決を取り上げて比較的好意的に解説している。

昨年10月2日の投稿で取り上げた「光学活性ピペリジン誘導体事件」(平成24年(行ケ)10206;H25.7.24判決;設樂隆一裁判長)でも、知財高裁は、「顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから」と判示してラセミ体の一方に進歩性を肯定した。

また2018年6月22日の投稿で取り上げた玉井論文に引用されている以下の判決もある。

平成27年(行ケ)10054(H28.3.30判決;清水節裁判長)]
本件発明の構成が,公知技術である引用発明に他の公知技術や周知技術等を適用することにより容易に想到できるものであるとしても,本件発明の有する効果が,当該引用発明等の有する効果と比較して,当業者が技術常識に基づいて従来の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものである場合は,本件発明がその限度で従来の公知技術から想到できない有利な効果を開示したものであるから,当業者がそのような本件発明を想到することは困難であるといえる。したがって,引用発明と比較した本件発明の有利な効果が,当業者の技術水準から予測される範囲を超えた顕著なものと認められる場合は,本件発明の容易想到性が否定され,その結果,進歩性が肯定されるべきである。

平成28年(行ケ)10005(H29.1.18;設樂隆一裁判長)]
特許出願に係る発明の構成が,公知技術である引用発明に他の公知技術,周知技術等を適用することによって容易に想到することができる場合であっても,上記発明の有する効果が,当該引用発明等の有する効果と比較して,当業者が技術常識に基づいて従来の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるときは,上記発明はその限度で従来の公知技術等から想到できない有利な効果を開示したといえるから,当業者は上記発明を容易に想到することができないものとして,上記発明については,特許を受けることができると解するのが相当である。

このように、「真正独立要件説」は知財高裁では最近はわりと普通なのだ。 だから「真正独立要件説」が不適切だと思うのなら、こういう方々が言っていることに反対しなくてはならないわけで、ハードルは結構高いかも知れない。

ともかく、「(真正)独立要件説」はまだまだ健在と思われるので、この問題はまだまだ終わりそうにない。

*   *   *

本件発明の効果が高用量(高濃度)に至るまで用量依存的に上昇したことについて

さて、余談にはなるが、ここで、本件発明の「顕著な効果」と主張されているヒト肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用(ヒト肥満細胞安定化作用)について若干コメントしておきたい。

今回の判決文でも被告(特許権者)側は、ヒスタミン遊離抑制作用について、本件化合物が2000μMという高濃度まで濃度依存的な活性増加を示したことを進歩性のポイントとして強調している。

ところで、少し前に公開されたAIPPI の3月号には、本件発明に関して特許庁上席審査官の柴田先生が出された論文(柴田和雄, AIPPI Vol.65, No.3, 2020, 228-248)が掲載されている。 その論文の最後に柴田先生が追記として、「遅まきながら脱稿後に,本件特許に対応する欧州特許出願の実際の審査経過を確認した。」と書かれていて、本件の対応欧州出願の審査において、進歩性の証拠として出願人が提出した学術文献(Brockman et al., Acta Ophthalmol Scand Suppl. 2000;(230):10-5)について触れられていた。 それで、私も遅まきながらその論文を見てみたのだけれど、結構「へー」というような内容だった。 本件発明以前に知られていた抗ヒスタミンであるケトチフェンは、本件化合物(オロパタジン)と同様に高い抗ヒスタミン作用を有するのみならず、肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する作用(肥満細胞安定化作用)も有しているが、ケトチフェンの場合、濃度を上昇させていくにしたがって、初めのうちはその作用も上昇していくのに、さらにケトチフェン濃度を上昇させると、作用が低下するという現象が起こる(bi-phasic effect)。 それに対して本件化合物であるオロパタジンはそういう現象は起こらず、高濃度でも作用は低下しない。 上記のBrockmanらの論文はその原因を探ったもので、ケトチフェンとオロパタジンが生体膜に及ぼす透過性の変化に着目した。 その結果、ケトチフェンは生体膜の内圧を上昇させる作用が非常に強いのに対し、オロパタジンはあまり上昇させないということが判明したそうだ(下図)。

[Brockman et al., Fig.2]
Brockman_fig2.jpg

特に、ウシ赤血球を用いて薬剤の効果を調べたところ、ケトチフェンは2.5mM(=2500μM)以上になると、赤血球を溶血(hemolysis)させるほどの内圧上昇を引き起こすのに対し、オロパタジンはそういうことはなかった(下図)。

[Brockman et al., Fig.4]
Brockman_fig4.jpg

すなわち、ケトチフェンが持つヒスタミン遊離抑制作用(肥満細胞安定化作用)が、高濃度において失われてしまう原因は、細胞の内圧が異常に高まることで起きており、オロパタジンはそこまで内圧を高めないことを示唆したわけだ。 オロパタジンが高濃度でも安定して活性を示すのは、こういうことだったんだね。

この結果を見ると確かに、オロパタジンはケトチフェンにはない優れた特性があるということになるし、オロパタジンが医薬として製品化されたらいいなという気分にはなるね。 柴田論文によると、欧州ではこれが提出されてすんなり特許になったようだ。 被告(特許権者)もこうした知見を踏まえているからこそ、今回の訴訟において、高濃度でも破綻せずに用量依存的に作用が上昇するということを、本件発明の進歩性のポイントとして強調しているのだろう。

まあ、別に私は今回の差戻審の判決を受けて敗戦処理をしようとしているわけではない(笑)。 柴田先生の論文を読んで、なるほどと思ったことを書いているだけ。 Brockman論文の知見は、本件出願の後に判明した知見であって、本件発明の貢献とは言えないし、本件明細書に掲載されている「表1」から顕著な効果を読み取れるかというと、まあ疑問はあるだろうと思う。 そしてそもそも、「顕著な効果」が進歩性肯定の独立要件なのか、ということが問題なのだ。


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2020年06月17日

独立要件説論者はいなかった?(大寄麻代最高裁調査官解説「ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件」LT No.87, 106-113, 2020)


今回話題にする論文は、公開から時間が経って、その間に事態は動いて、既に時期に遅れたという感じになってしまったが、進歩性の顕著な効果について判示された「アレルギー性眼疾患事件」(ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件)の最判(平成30年(行ヒ)69)に関して、前号のLaw & Technology誌に大寄麻代最高裁調査官による調査官解説が掲載されているので、これについて書いてみたい(Law & Technology No.87, 106-113, 2020)。

「アレルギー性眼疾患事件」は、効果の「存在」は容易想到であったという判断が前訴判決(平成25(行ケ)10058)において確定している場合に、その効果の顕著性により進歩性が認められるのかが争われている事件であって、原審の知財高裁の判決(平成29(行ケ)10003)では、顕著な効果とは言えないと判断されて進歩性が否定されたが、本件最判は、その判断について「法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」と説示し、「本件各発明についての予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。」として原判決を破棄し、本件を知財高裁に差し戻したのだった。

この最判の説示からすれば、差戻審において「予測できない顕著な効果の有無」を判断することを最高裁が求めているのは明らかだろう。 「予測できない顕著な効果がある」と判断することを暗に求めているとまで感じるかどうかは人によるかも知れないが、差戻審において「予測できない顕著な効果がある」と判断されれば、進歩性は肯定されることになると思うのが普通だろう。 そして「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」というのは「独立要件説」の考え方なのだから、最高裁は「独立要件説」を支持した、あるいは、「独立要件説」に親和的だと考えるのは自然であり、実際、高石秀樹先生(パテント Vol.73 No.1 43-63 2020)や飯島歩先生(イノベンティア・リーガル・アップデート,2019/9/16)などはそのように論じているわけだ。

私は、そもそも「独立要件説」に反対だし、本件は「独立要件説」が採れない可能性が想定される案件、すなわち、「顕著な効果」を考えるまでもなく進歩性を否定することがあり得る案件だと思うから、最判があたかも「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」と読めるような判決をしたことは不適切だと思っており、それについて過去の投稿で書いてきたし、今回の最判を、「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という判示だと解釈するべきではないとも主張してきた(2019年10月09日の投稿『「二次的考慮説」は生き残れるか』等を参照)。

しかしそれは、どちらかというと苦しい主張だった。 というのも、上記のとおり最判は、「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という立場に立っているように見えるからだ。 だって、そうでないのなら、どうしてわざわざ予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるために本件を原審に差し戻したりする? 最高裁が予測できない顕著な効果の有無につき審理を尽くさせるために本件を原審に差し戻した以上、差戻審の審理の結果、予測できない顕著な効果が認められれば、それは進歩性ありということになるのだろうと大半の人は考えるだろう。

*   *   *

1.大寄解説のインパクト

ところが、今回の大寄調査官解説は、これを大逆転するものだ。

[LT No.87, 106-113, 2020(以降「大寄解説」)の109-110ページ]
 対象発明について予測できない顕著な効果があることは、一般的に、進歩性を肯定する方向に勘酌すべき事情として考慮されているが、その理論的な位置づけについての学説は、大別して、二次的考慮説と独立要件説とがあり7)、裁判例も分かれている状況にある。
 二次的考慮説は、発明の進歩性とは、あくまで発明の「構成」を容易に想到し得ない場合をいうとの判断枠組みの下で、発明の効果を二次的(副次的)な考慮要素として嗣酌する見解である8)。この見解によれば、主引用発明に副引用発明等を適用して対象発明に至る動機づけ等があり、(一見)発明の構成自体が容易に想到されるといえる場合であっても、予測できない顕著な効果がある場合にはこれを反対方向の事情として考慮することにより、やはり当該構成を想到することには困難性があったと解し得ることになる 9)。

脚注9) 容易想到性を肯定する方向の事情と総合考慮する見解によれば、予測できない顕著な効果がある場合であっても、必ず進歩性が肯定されることにはならない。

 一方、独立要件説は、発明の構成自体を容易に想到することができる場合であっても、予測できない顕著な効果があることを理由として、発明の進歩性が肯定され得ると解する見解である。この見解には、さらに、構成の容易想到性にかかわらず、予測できない顕著な効果があればそれだけで進歩性が肯定されるという考え方と 10)、両者を総合的に考慮して、発明の非容易性(進歩性)を判断する考え方とがある 11)。

脚注11) 長沢幸男「進歩性の認定(4)−顕著な作用効果」特許判例百選〔第3版〕40頁等。構成と効果の容易想到性を総合的に考慮した「発明」の容易想到性を判断するという考え方(宮崎賢司「有利な効果の参酌について」竹田稔先生傘寿記念『知財立国の発展へ』715頁等)もこの見解に含まれると思われる。

 このように「予測できない顕著な効果」の理論的な位置づけについては議論があり、本件においては、本件審決および原判決がいずれの立場に立つものかは明らかではないが12)、本件審決が、本件各発明の予測できない顕著な効果を参酌して本件各発明は容易に発明できたものとはいえないと判断したため、当該効果の有無が争点となった。

上に引用したとおり大寄解説は、進歩性の効果の勘酌には二次的考慮説と独立要件説とがあるとした上で、二次的考慮説については、脚注9で「容易想到性を肯定する方向の事情と総合考慮する見解によれば、予測できない顕著な効果がある場合であっても、必ず進歩性が肯定されることにはならない。」と論じている。そして独立要件説についても、「予測できない顕著な効果があればそれだけで進歩性が肯定されるという考え方と 10)、両者を総合的に考慮して、発明の非容易性(進歩性)を判断する考え方とがある 11)。」と記載されているから、後者の考え方(脚注11の考え方)は、「予測できない顕著な効果があればそれだけで進歩性が肯定される」わけではないということだろう。 つまり大寄解説は、「二次的考慮説」は予測できない顕著な効果があっても必ず進歩性が肯定されることにはならない考え方だ論じ、それだけでなく、「独立要件説」も、そのような考え方があると論じているのだ。 その上で大寄解説は、

[大寄解説の112ページ左]
・・・、本判決が前提とする予測できない顕著な効果についての上記判断方法は、二次的考慮説または独立要件説のいずれの立場からも説明可能と思われる 20)。

[大寄解説の113ページ右]
本決は、独立要件説または二次的考慮説のいずれかの立場を前提としたものではなく

と論じている。 つまり大寄解説は本件最判を、「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」というものとは捉えていない。 むしろ大寄解説は、最判が「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という立場だという見方を明確に否定しているということになるだろう。 上述のとおり、これまで最判を見た人たちは、最高裁が「予測できない顕著な効果」を再審理させるために差し戻した以上、「予測できない顕著な効果」があれば進歩性は肯定されることになるのだろうと考えてきたと思われるが、今回の大寄解説は、それを否定したことになる。 差戻審で仮に「予測できない顕著な効果」を肯定する場合でも、結論としてはなお進歩性を否定する判決を行うことは可能だというのが大寄解説の立場だということになるだろう。

今年の2月13日に愛知靖之先生の論文を取り上げた際の投稿にも書いたとおり、差戻審において「予測できない顕著な効果」を肯定した上で進歩性を否定する判決を行うことができるという可能性に触れているのは、これまで田中先生(「特許法の八衢」の2019年9月1日の投稿)や愛知先生(NBL 1160号, 8-15, 2019の15頁, 脚注12)などごく限られた論者だけだった。 今回の大寄解説は、そうした限られた論者しか論じていなかった可能性を調査官解説としてサポートするものであって、「今回の最判は独立要件説を支持した」という言論の勢いを止める絶大な力を発揮するものと言えそうだ。

それと関係があるのかは知らないが、これまで「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という独立要件説の立場であるようにも見えた玉井克哉先生(3月20日ツイート)や森田裕先生(3月20日ツイート)が、大寄解説の公開後(というより大寄解説に関する田中先生のブログ記事公開直後)に相次いで「自分は別に独立要件説じゃない」という趣旨のツイートをされている。 ちなみに、時期的に考えて因果関係はなさそうだが、大寄解説の脚注10で「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という考え方に近い人として引用されている特許庁の岡田吉美先生も、最近出された論文(特許研究 第69号35-58(2020))の中で、「二次的考慮説を全否定はしていない」ということを強調されている。

ということで、今回の大寄解説は、「予測できない顕著な効果があれば進歩性あり」という独立要件説論者は「実はいなかった」ことを明らかにさせるほどのインパクトを持つものだと言えるかも知れない。

*   *   *

2.「非予測性」と「顕著性」に観点を分ける意義はあるのか?

今回の最判で最高裁は、

[平成30年(行ヒ)69 判決文より]
このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。

と説示し、

[同]
そうすると,原審は,結局のところ,本件各発明の効果,取り分けその程度が,予測できない顕著なものであるかについて,優先日当時本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・

と説示した。 上記の説示は、効果の判断には、何やら「当業者が予測することができなかったものか否か」という観点と、「当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否か」という観点があり、進歩性の判断において効果を斟酌する際には、この2つの観点を考えなければならないと言っているように見える。

今回の大寄解説では、これについて以下のように解説している。

[大寄解説の111ページ左]
・・・、当該効果の有無については、「当業者が予測することができなかったものか否か」(非予測性)と「予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否か」(顕著性)との双方の観点から検討すべきとしたものである。

[大寄解説の112ページ左]
上記@ (非予測性)について、上記判断方法の下では、本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということだけでは足りず、これによって当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたと評価し得る事情ないしこれを推認し得る事情等があるか否かが問題とされるべきものと思われる。 上記A (顕著性)について、そのうち、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と述べられている部分は、本件各発明が医薬用途発明であるという事案に鑑み、特にそのような分野においては、化合物が同種の効果を奏する場合であっても、化合物の具体的な構成ごとに副作用、製造方法、個々の人体への適応性等が異なり得ることからすれば、化合物Xが高い薬効Aを有するという用途発明がされた場合に、当時、別の化合物Yが同じ程度の高い薬効Aを有することが知られていたからといって、当該化合物Xの上記用途発明の効果の顕著性が直ちに否定されると解することは、実質的にみても相当ではないとの視点をうかがわせるものといえよう。

しかし気になるのは、「非予測性」と「顕著性」は何が違うのかということだ。 「非予測性」について最判は、「当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができた」(か否か)、「本件各発明の効果,取り分けその程度が,・・・,優先日当時本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か」と説示しており、「顕著性」については「本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである」(か否か)、「本件各発明の効果,取り分けその程度が,・・・,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否か」と説示している。 この最判の説示を見る限り、「非予測性」も「顕著性」も効果の「程度」を問題にしていることは共通しており、前者は「予測することができたか否か」、後者は「予測することができた範囲を超える顕著なものであるか否か」という点だけが異なっているように見える。つまり違いは、「範囲を超える顕著なものである」という文言の有無だけという感じだ。 しかしその違いは、それこそ「程度」だけであって、二つの軸を持つものではなく、同じ軸に属する観点なのではないか? 言葉の意味を考えても、「予測できない」ことと「予測できる範囲を超える」こととは同じだろう。 そうすると、例えば、効果の程度が「予測することができた範囲を超える顕著なもの」(顕著性あり)である場合に、その効果の程度が「予測することはできなかった」(非予測性あり)のは文理上明らかではないか? そうであれば、「顕著性」を満たす場合は、「非予測性」は必ず満たされることになり、「顕著性」の判断のみで足りることになる。 つまり、最判の説示を読む限り、「非予測性」の要件は不要ではないかと思われるのだ。 その場合、「非予測性」は、単に「予測できないというだけでは足りないよ」ということを確認的に言いたいだけの無用な要件ということになるだろう。

そういう理解でよいのかどうかについては、大寄解説を読んでも明確には解説されていないように思う。 今回の最判や大寄解説のように「非予測性」と「顕著性」がどちらも効果の「程度」の問題だと捉える限り、上述のとおり「顕著性」だけを判断すれば足りることになってしまうので、わざわざ二つの観点を提示することに意義がないのではないかというのが私の素直な感想だ。

「非予測性」と「顕著性」については、上述の岡田先生の論文(特許研究 第69号35-58(2020))でも話題にされているので、岡田論文を見る機会があれば、そのときにもう一度考えてみたい。

*   *   *

3.効果が予測できない(予測性の低い技術分野)なら常に進歩性肯定か?

顕著な効果について原審(平成29(行ケ)10003)では、他の既知の抗ヒスタミン剤(いわゆる「他の化合物」)で高いヒスタミン遊離抑制作用を持つものが複数知られていたことを根拠に、本件化合物(オロパタジン)の効果は顕著とは言えない旨を判示した。 しかし今回の最判はこれを批判し、他の化合物は「いずれも本件化合物とは構造の異なる」ものだとか、引例には「本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。」だとか、「本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできない」、「他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない」などと説示し、「原審は,・・・,本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみから直ちに,本件各発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定して本件審決を取り消したものとみるほかなく,・・・」と原審を批判した。

確かに、問題とすべきは「本件発明の効果」が予想外か否かであるので、本件化合物の活性が他の化合物の活性よりも高くないからといって、直ちに効果の顕著性が否定できるものではないだろう。 例えば、本件化合物の活性がゼロだと予測されたところ、実際はゼロではなく他の化合物と同程度の活性を示したら、それは「予想外に顕著」と言ってよいかも知れないし、逆に、本件化合物には他の化合物の100倍の高い活性があることが確実視されていたのに、実際に調べたら2倍だったというのなら、他の化合物より活性が高くても「予想外に顕著」とは言えないかも知れない。 したがって、他の化合物よりも効果が高いか低いかということのみから直ちに判断するのは不適切であり、あくまで「本件化合物の効果として」予想外なのか否かが量られなければならないとは思う。

しかし、バイオテクノロジーや医薬などの予測性の低い分野では、本件化合物の効果がどれくらいであるかは、実際に実験をやってみなければ分からないことが多い。 本件にしても、本件化合物がヒト結膜肥満細胞のアッセイ系でどれほどのヒスタミン放出抑制作用を示すかは、実験をやってみなければ分からなかったのではないか? その場合に、「非予測性」や「顕著性」はどうやって判断すればよいというのだろうか? これは昨年8月30日の投稿(「構造を異にする先行化合物と比較することは許されないのか?」)でも書いた問題だ。

「本件化合物の効果として」の効果を検討しなければならないというのは、「姿勢」というか、「心構え」としてはそうではあるけれど、それを硬直的に求めるのは正しくないと思う。 抗ヒスタミン剤は、抗ヒスタミン作用だけでなく、肥満細胞からのヒスタミン放出を抑制する活性も示すことがあるのはよく知られていた。そして、既知の抗ヒスタミン剤で、比較的高いヒスタミン遊離抑制作用を示すものも知られていた。 そのような場合、たとえ本件化合物が実際どれほどの活性を示すかは実験をやってみなければ予測がつかないとしても、当業者は、他の抗ヒスタミン剤と同程度のヒスタミン遊離抑制作用を示すかも知れないなぁ、と期待しながら実験する動機付けは持ち得たというべきで、そうした動機付けをもって、「予想外の顕著な効果」を否定するに足りると考えるべきだろうと思う。

この点は、最判でも大寄解説でも触れられていないように思う。 むしろ「医薬用途発明」の場合は効果が高くなくてもいいのだということが示唆されている(大寄解説の112ページ)。 しかしそのような考え方のもと、抗ヒスタミン剤としてすでに既知の薬剤について、容易に発見できるであろう薬効に特許を与えるとすれば、抗ヒスタミン剤として医薬開発を進めようとする先行者の利益を不当に害してしまう危険があるだろう。 これについては、高林論文を取り上げた際に書いた(1月28日の投稿の「先行者の保護」という箇所を参照)。

私は、「ピリミジン誘導体事件」(平成28(行ケ)10182、10184)においては、進歩性が認められるための効果は高くなくてもよいと思う(Sotoku 10号の脚注36も参照)。 しかしそれは、化合物自体が容易想到とは言えないからだ。 本件の場合のように、本件化合物自体が知られていたのみならず、ヒト肥満細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用が存在することは容易想到だと判断されており、その活性について測定する動機付けが既に存在していたのではないかと疑われる場合は状況が異なる。 本件のようなケースに「医薬用途発明だから効果は低くてもよい」という考え方を適用して特許を付与することが、特許法の趣旨に沿っていると言えるのかには疑問がある。

*   *   *

さて、田中先生が昨日ツイートされているとおり、本件差戻審(令和元年(行ケ)10118)は、今日、判決が言い渡される。

判決によっては今回の投稿は結構恥ずかしいものになるかも知れないが、果してどうなるか。

納得性の高い判決が出ることを祈ろう。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月26日

田村善之 Westlaw Japan 判例コラム189号「医薬用途発明の進歩性につき発明の構成から当業者が予測し得ない顕著な効果の有無の吟味を要求して原判決を破棄した最高裁判決について 〜局所的眼科用処方物事件最高裁判決(令和元年8月27日判決言渡)の検討(その1)〜」


進歩性の最判に関し、田村先生の評論が先月8日に公開されている(Westlaw Japan 判例コラム189号)。 今回はこれを取り上げたい。

1.本件発明について最判は「顕著な効果があれば進歩性あり」ということを明らかにしたのか?(「構成」という言葉のレトリック)

「顕著な効果」があれば進歩性が肯定されるのかという問題について、田村論文は以下のように論じている。 なお「構成」という言葉を太字にして引用した。

@ [判例コラム189号 4ページ]
・・・、本判決は、進歩性の要件を判断するに際して「予測できない顕著な効果」があることを参酌しうることを当然の前提としており、しかも、・・・、本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。

A [判例コラム189号 5ページ]
・・・、医薬品の場合には、物の構成が公知であったり、その構成が容易想到であったりしたとしても、当該構成に係る効果が示されない限り、当該構成を当該効果(用途)に用いることを想定しにくく、ゆえに、構成が容易想到であっても、効果が容易想到でなければ特許というインセンティヴを与える必要があるというのが、用途発明を認める実務の背後にある政策判断といえよう※13。このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。

B [判例コラム189号 5ページ]
本判決にも、・・・、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。 これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

※15高林龍[判批]年報知的財産法2019-2020・32頁(2019年)。愛知/前掲注11・14〜15頁も参照。

C [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。

D [判例コラム189号 6ページ]
本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

E [判例コラム189号 7ページ]
以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、・・・、・・・を明らかにしたものといえる

上記 @ において田村論文は、まず、「本件発明の用途への適用が容易に想到しうるものであったとしても、予測できない顕著な効果がある場合には、なお進歩性が肯定されうることも前提としているように読める。」と論じている。 「読める」というのは弱含みな表現であり、田村論文もこの時点では、顕著な効果があれば進歩性を肯定できるのか否かはまだ明言を避けているようにみえる。

そして上記 A において田村論文は、医薬品の場合には、物の「構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、その効果が知られておらず、その効果を発揮させるために用いることも容易想到ではない場合は、例外的に「用途発明」に特許を与えることができる旨が説かれている。

なお、上の引用中に太字で示したとおり、上記Aでは「構成」という言葉が多用されている。 このうち、「物の構成」、「その構成」、「当該構成」という言葉は、すべて「物の構成」を意味していることは明らかであり、「ゆえに、構成が容易想到であっても」、「構成が容易想到であったとしても」というフレーズで使われている「構成」も、「ゆえに」という言葉からして、「物の構成」を意味していると解されるだろう。 すなわち田村論文のAにおいては、医薬品の場合は、「物の構成」自体には新規性や進歩性がないとしても、例外的に「用途発明」に特許を与えうるのだと説かれている。

しかしながら、物が公知でも、その用途が新規であり容易想到ではないのなら、「その物質をその用途に用いる方法。」という方法発明(用途発明の一形態といえるだろう)や、「その物質からなる、その用途に用いるための剤。」という用途発明に特許が与えられるのは、なかば当然であって、医薬品に限った話ではない。 化粧品や工業薬品などあらゆる分野において化学物質の用途発明は認められている。 食品に限っては、日本では近年まで用途発明が認められていなかったが、食品において用途発明が認められていなかったことこそ「例外」だったのであり(tokugikon No.282, (3-3) の最後 (27頁右) を参照)、それも先ごろの審査基準改訂(平成28年4月1日運用開始)によって食品用途発明も特許可能となり、日本の審査制度は理論的にもすっきりしたものになったのである(功罪はあるにせよ)。

もっとも、日本では「治療方法」は、医師における医療行為を保護する観点等から特許にならないと解されているので、新たな医薬用途を発見しても「治療方法」として特許にすることができないという特殊事情があり、そのために、「○○剤。」という「用途物」として特許を受けざるを得ず、医薬分野の特許において「用途物」の表現が多用されているという事情はある。 また、医薬品業界は権利取得に積極的だから、ある疾患に治療用途がすでに知られている場合でも、より細かく、投与条件などで限定した発明について特許が受けられるように各方面に働きかけ、それを実現してきたという事情もあるかも知れない。 しかしそうした細かい点をおけば、物質が既知でも用途が新規で容易想到でもないのなら、用途に限定された発明(方法発明や用途物発明)に特許が付与されるということ自体は、昔から受け入れられてきた実務であり、学説に大きな争いがあったわけでもない。 したがって、田村論文の上記 A で「例外的に」と論じられていることは、けっして「例外的」な話ではない。

そして B において田村論文は、本件の最判に焦点を当てた上で、「・・・事案との関係で理解するのであれば、・・・、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした・・・との理解※15が生まれる所以である。」と論じるのだが、この辺りから「構成」が何を意味しているのかが分かりにくくなってくる。 田村論文がいう「構成が容易想到である場合でも」というのは、「物の構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか、それとも「その物をその用途に用いるという構成が容易想到である場合でも」という意味なのだろうか?

C において田村論文は、「用途発明の場合に限っては、・・・、・・・構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。 つまり、二次的考慮説の下では、用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と述べる。 「前述した」とは上記 A を指していると解されるから、ここでいう「構成」とは「物の構成」を意味しているはずであるが、続く文において田村論文は、「用途発明は効果が一般の発明における構成に相当する。」と説くのだ。 そうすると、「効果があることが容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうる」と言いたいのだろうか? しかし田村論文の A は、物が知られていても用途が容易想到ではないのなら用途発明に特許を与えてよいということしか論じられていないのである。

そして D において田村論文は、「本判決は、・・・、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにした」と論じ、E において「要するに、本判決は、・・・、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、・・・を明らかにしたものといえる」というのだ。

このように、@ においては「読める」という弱含みの表現が用いられていたに過ぎない事項が、D や E の結論においては「明らかにした」ことになっている。 しかしその結論は、上で見た通り、初めは「物の構成」を意味している「構成」という言葉が、次第に「用途」をも意味するかのように変化していくことによって導かれているのだ。

これは、「構成」という言葉のレトリックと言えるのではないか。

*   *   *

なお、B に引用したとおり田村論文は、今回の最判が「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることを指摘したうえで、本件最判について「一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。」と論じ、脚注15において高林論文の32頁と愛知論文の14-15頁を引用している。

確かに高林論文は最判のこの説示を取り上げた上で、「本判決の射程を検討する場合には重要である。」(32頁左)と論じており、愛知論文も、「本判決は、公知の化合物と同じ化合物を対象とする(医薬)用途発明に係る事案であるからこそ、予測できない顕著な効果の斟酌を否定しなかったと理解する余地もないわけではないだろう。」(14-15頁)と論じているから、最判の射程が「医薬用途発明」にしか及ばないという文脈で高林論文や愛知論文を引用することは理解できる。 しかし1月28日の投稿で書いたとおり、高林論文は「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」と論じるだけで、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるかのような “雰囲気” を醸し出しているということはできるとしても、顕著な効果があれば進歩性が肯定されるとは一言も言っていないし、まして最判がそれを「明らかにした」などとは言っていない。 愛知論文も同様で、前回の投稿で絶賛(^^)したとおり、愛知先生は顕著な効果を肯定してもなお差戻審において進歩性を否定する選択肢を排除していないのだから、顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」などと論じてはいないことは明らかだろう。

したがって、医薬用途発明においては顕著な効果があれば進歩性が肯定されることを最判が「明らかにした」という田村論文の見解は、高林論文や愛知論文により支持されるものではないことを指摘しておきたい。


2.「医薬用途発明」に限っては独立要件説的な思考が許容できるのか?(「医薬用途発明“例外論”」は純一か)

今回の田村論文を読むまで私は、今回の最判の評価に関して、田村先生には大いに期待していた。 なぜなら田村先生は2016年に公開した論文(パテント別冊15, 1-12, 2016)において「独立要件説」を批判し、自らは「二次的考慮説」に立つことを言明していたからだ。 それだけではない。 2016年論文において田村先生は、「シュープレス用ベルト」事件(平成24(行ケ)10004)を題材にして考察を行い、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていたのだ。 具体的には以下の部分だ。

[田村善之, パテント Vol.65 No.5 (別冊 No.15) 1-12の9ページ]
しかし発ガン性抑止という目的こそ違え,当業者が硬化剤を用いることの動機づけがあることが示されている以上(30),たまたまとはいえクラックの発生が抑制されることが発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる(31)。

これは顕著な効果があった場合は「容易ではなかった」とみなす従来的な「二次的考慮説」(因果関係が逆転している考え方)を採らないことを言明するものであって、画期的といえる論文だった。 同じ見解は、田村先生のより最近の論文でも繰り返されている(パテント Vol.72 No.9, 5-12, 2019 の8ページ左)。 なおこの論文(2019年論文)の原稿受領日は、今回の最判(2019年8月27日判決言渡)の3か月足らず前の2019年6月3日となっている。

「シュープレス用ベルト」事件は、製紙工程において紙に含まれる水分を取り除くために行われるシュープレスに使用される円筒状の樹脂ベルト(シュープレス用ベルト)の発明の進歩性が争われた事件だ。 そのベルトの外周に使われるポリウレタンの硬化剤として従来は4,4'-メチレンビス(2-クロロアニリン)(MOCA)が用いられていたところ、硬化剤としてジメチルチオトルエンジアミン(Ethacure-300)を用いることがこの発明の特徴の一つだった。 そして特許権者は、Ethacure-300を使うことで、ポリウレタンに発生するクラック(ひび割れ)が低減されたことを強調し、この効果は予測できない顕著な効果であるから進歩性は肯定されるべきだと主張した。 しかし当時からMOCAには発がん性があることが指摘されており、MOCAを代替しうる安全性の高い硬化剤の一つとしてEthacure-300は当業者に知られるところとなっていたことから、シュープレス用ベルトのポリウレタンの硬化剤としてEthacure-300が使われるのは時間の問題だったのではないかという疑いがあるのだ。 2019年8月27日の投稿でも書いたとおり、MOCAを代替しうる硬化剤はEthacure-300以外にも存在していたから、Ethacure-300が使われるのが本当に間近だったといえるのかは議論があるだろうが、もしEthacure-300が使われるのも間近だったと評されるのであれば、確かに田村先生が論じるとおり、たとえ顕著な効果があったとしても進歩性は否定されるべきだろう(私のいうところの進歩性 第1要件)。

そして今回の「アレルギー性眼疾患」事件についても、まったく同じ問題が持ち上がるはずだと私は期待していた。 本件化合物に抗ヒスタミン活性があることは知られており、モルモットの結膜炎モデルを使って治療効果を確認する実験もすでに行われていた。 また既知の抗ヒスタミン剤は、ヒスタミン拮抗作用を持つだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの放出を抑制する活性(肥満細胞安定化作用)も持っていることが多くあることも知られていた(原審 (平成29(行ケ)10003) の判決文を参照)。 したがって、この化合物をアレルギー性眼疾患治療薬として開発する場合に、ヒト細胞を用いて肥満細胞安定化作用を調べることになるのは当たり前のことだったともいえるだろう。 つまり本件においても、「ヒト肥満細胞安定化作用が発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はない」という疑問が田村先生の中で生じるはずだった。

ところが今回の田村論文(判例コラム189号)はそうはならなかった。

@ [判例コラム189号 1ページ]
 ・・・事案が用途発明に関するものであることに加えて、判文が一般論として受け止められる説示を避けている・・・

A [判例コラム189号 5ページ]
このような用途発明の特殊性を勘案して、二次的考慮説の下でも、用途発明に関しては、例外的に、構成が容易想到であったとしても、効果を予測しがたい場合には新規性、進歩性を肯定すべきであることが説かれていた※14。
 本判決にも、結論に至る論理を展開する際に、かなり弱含みながら、「本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると」とことわりをいれるくだりがある。これをさらに事案との関係で理解するのであれば、一般に独立要件説を採用したわけではなく、医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにしたに過ぎないとの理解※15が生まれる所以である。

B [判例コラム189号 6ページ]
用途発明の場合に限っては、二次的考慮説の下でも、独立要件説的に、つまり構成が容易想到であっても効果が顕著である場合には特許を認めることを許容しうることは前述したとおりである。

C [判例コラム189号 6ページ]
 本判決は、少なくとも医薬用途発明に関しては、特定の薬剤に用いることが当業者にとって容易想到であっても、なおその薬剤の効果に予測しがたい顕著な効果がある場合には進歩性を肯定しうる旨を明らかにしたという点では、医薬用途発明に関する従前の理解を是認したと評しうる。

D [判例コラム189号 7ページ]
 以上、要するに、本判決は、第一に、医薬用途発明については構成が容易想到であっても、予測しがたい顕著な効果がある場合には、進歩性が認められる場合があること、第二に、予測しがたい顕著な効果の有無を判断する際には、発明の奏する効果と対比すべきは、究極的には、発明の構成から当業者が予測しうる効果であること、の2点を明らかにしたものといえる・・・

E [判例コラム189号 7ページ]
また、医薬用途発明を超えて一般的に、進歩性判断に関して、独立要件説をとるのか、二次的考慮説をとるのかということに関しては態度を明らかにしていない※23。

上の引用のとおり、今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” として扱い、医薬用途発明に “限って” は、構成が容易である場合でも、顕著な効果があれば、独立要件説的に進歩性を認めてもよいのだと論じた。 これは「医薬用途発明 “例外論”」といっていいだろう。

上述のとおり2016年論文および2019年論文で田村先生は、たとえ予測し難い顕著な効果があったとしても、その効果が発見されるのも間近であったといえるのであれば進歩性を否定すべきだと論じていた。 しかし上の「1.」で見たとおり、田村先生は今回の最判を、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを「明らかにした」と捉えた。 しかし今回の最判をそのように捉えると、2016年論文や2019年論文で田村先生が論じたこととは一見矛盾してしまう。 そして、一見矛盾する両者のインテグリティ(純一性)を保つために今回の論文で田村先生は、「医薬用途発明」を “例外” 扱いすることによって、過去に論じた事項から「医薬用途発明」を切り離したように私には見える。

しかしもし最判との整合性をとるためにそのような「例外論」を生み出したのだとすれば、それは果たして「純一」といえるのだろうか?

実は田村先生に対しては、前にも似たような思いをしたことがある(2017年3月23日の投稿を参照)。 そのとき田村先生は、パシーフカプセル事件の最判(平成21(行ヒ)326)との整合性をとるために(かどうかは知らないが)、特許期間の重複延長を肯定し、その結果、特許権者に過剰な独占と利益を許すことになりうるのを問題視しなかった。

制度論を考えるにあたって、何を前提とすればよいのか。 つまり本当に純一性を確保しなければならない対象は何なのか? 最判か? 条文か? 制度趣旨か?

愛知論文に対する投稿でも書いたとおり、今回の最判は、顕著な効果があれば進歩性を認めるべきだとは言っていない。 にもかかわらず、この最判を「医薬用途発明に限って、構成が容易想到である場合でも予測しがたい顕著な効果があれば進歩性が充足されることを明らかにした」と捉えるのは「忖度」だろう。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、真に保つべき純一性をけがすことになるのではないか。

私は先生の2016年論文こそ、例外なく通用する判断規範を示した論文だったと思う。 田村先生が2016年論文に回帰し、先生が説く特許制度の根本的な要請である「フリー・ライド」の防止(1月14日の投稿参照)のために、進歩性の判断はどうあるべきなのかをもう一度説きなおしてくれることを願っている。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

愛知靖之「進歩性判断における『予測できない顕著な効果』の判断手法」(NBL 1160号 8-15 2019)


昨年の年末に、京大の愛知靖之教授による、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する評釈が公開された(NBL 1160号 8-15 2019)。

この愛知論文は私にとって画期的だ。

第一には、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の判断手法に関して、従来の「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことだ(愛知論文の脚注11)。 「独立要件説」を否定するだけでなく、従来の「二次的考慮説」も否定することは、進歩性判断における「顕著な効果」の意義に関する学説を前に進める上で必須だと私は思うから、今回の愛知論文が「独立要件説」と「二次的考慮説」の両方を批判したことはすばらしいと思う。

具体的には愛知先生は、「独立要件説」は妥当ではない(14頁左)と論じた上で、従来の「二次的考慮説」について、脚注11で次のように論じている。

[愛知論文の 15頁 脚注11](強調は私が入れた;以下同様)
しかし、筆者は、「『優れた効果を有するにもかかわらず、これまでだれも発明することができなかったのは、構成を容易に想到できないからである』と推認することができるのではないか」(・・・)などという論法を用いて、「効果」それ自体を「(構成の)容易想到性」判断の(副次的な)考慮要素に据える従来の「二次的考慮説」もそのままでは正当化することが困難だと考えている。一定の構成を採用することが容易想到か否かを判断する際に、その構成が現実に採用された結果としてのみ観念される「効果」を斟酌するのは、結果論に基づく推論であり、因果関係が逆転しているのではないかと思われるからである。

まさにそのとおりだ。 だから私も、昨年4月24日の投稿(「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」)や、10月9日の投稿(「『二次的考慮説』は生き残れるか」)で、従来的な「二次的考慮説」を批判した。

この問題は「裸の王様」のようなものではないか? 通説的な「二次的考慮説」は因果関係が逆転しており、考え方としておかしいのは明らかなのに、なぜか「二次的考慮説」論者たちは、その考え方が正しいかのように論じ続けている。 愛知先生のような高名な先生に「おかしいものはおかしい」と言っていただくことで、因果関係が逆転している欺瞞的な「二次的考慮説」が修正される流れができることを期待している。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第二の点は、(これは大して画期的ではないけれど)、選択発明は「顕著な効果」がない限り一般に新規性がないという、いわゆる「ゾンビ説」(昨年5月20日の投稿参照)を否定し、たとえ上位概念の発明が既知であったとしても、その下位概念である選択発明は、それが先行文献等に具体的に開示されていない限りは新規性があるという立場を明らかにしたことだ(愛知論文の脚注6)。

但し、もともと「ゾンビ説」は、支持している人がいるとしても一部の学者や裁判官に留まり、特許庁は「ゾンビ説」は採っていないと思うので、愛知先生が「ゾンビ説」を採らない態度を明らかにしたのは、画期的というより、まあ、安心したという程度かも知れない。

*   *   *

愛知論文が画期的といえる第三の点は、本件の差戻審(令和元年(行ケ)10118)が採りうる選択肢として、顕著な効果を肯定した上で、なお本件発明は容易想到だとして進歩性を否定するという選択肢を排除していないことだ(愛知論文の脚注12)。 差戻審が採りうる選択肢としてこの選択肢を示していたのはこれまで田中汞介先生(「特許法の八衢」の2019年9月1日の投稿「最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書」を参照)や私(2019年10月9日の投稿を参照)など少数の人に留まっているから、第一線の法学者がこれを論じた意義は大きいと思う。

具体的には愛知論文の脚注12は次のように記載されている。

[愛知論文の 15頁 脚注12]
差戻審が採りうる選択肢としては、一応、「顕著な効果あり → 進歩性あり」のほか、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」、「最高裁の判示に即した判断を行ってもなお顕著な効果なし → 進歩性なし」があるといえよう。

上記のとおり、「一応」という言葉がついてはいるものの、「顕著な効果はあるが(用途の)容易想到性あり → 進歩性なし」という選択肢が挙げられている。

本件の顕著な効果を否定した上で本件発明は容易想到だと判断した原審(平成29(行ケ)10003)に対して本件最判は、原審の判断手法を批判した上で本件を差し戻した。 この経緯を考えれば、差戻審においては顕著な効果を肯定して進歩性を肯定するのが無難だと考えたくなってしまうかも知れないし、そこまで気を使わないとしても、進歩性を否定するためには、少なくとも顕著な効果を否定する必要があり、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定することなどありえないと思う人は多いかも知れない。

しかし、そう考えるのは単なる忖度だ。 愛知論文が指摘するとおり、最判は「『予測できない顕著な効果』がありさえすれば(動機付けの有無にかかわらず)直ちに進歩性が肯定されるのかという問題には一切触れておらず」(愛知論文の10頁、14頁)、その問題はブランクのまま残されているとみなしうるからだ。

もっとも、仮に本件が、顕著な効果があっても進歩性が否定される場合は、顕著な効果の有無を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるはずであって、顕著な効果の有無を審理させるために本件を差し戻した最判と整合性がとれないと思う人はいるかも知れない。 だから愛知先生も、そうした事情を考慮した上で、本件最判が「独立要件説に即した帰結を強力にバックアップする可能性が大いにある」(愛知論文の14頁右)ことは認めている。

しかしそれは、最判の判示というよりは「忖度」の域を出ないのであり、顕著な効果があれば進歩性は肯定されることを最判が明言していない以上、最判の射程がそこに及ぶものではないと解することができるだろう。

顕著な効果があれば進歩性を認める「独立要件説」を前提とするのであればともかく、「独立要件説」を前提としない以上、顕著な効果があってもなお進歩性を否定する場合がありうることは当然だ。 そして本件はそうした場合には該当しないということが示されていない以上、本件においても、顕著な効果があってもなお進歩性が否定されるという可能性は排除されないと考えることはできる。

その場合に、「顕著な効果があってもなお進歩性はない」と考えるのではなく、「本件の効果は、進歩性を肯定するほどの顕著な効果とは言えなかっただけだ」と言い張って、「独立要件説」や従来的な「二次的考慮説」を採り続けることもできなくはないかも知れない。 しかしそのような考え方は、結局のところ、進歩性を肯定すべきときにだけ、効果を「顕著な効果」だとみなすのと同じようなもので、因果関係が逆転しているとのそしりを受けなければならないだろう。

ということで、今回の愛知論文は、「独立要件説」も、従来的「二次的考慮説」も批判した点、および、顕著な効果を認めた上で進歩性を否定するという選択肢を排除しない態度を示した点で非常に高く評価したい論文だ。 この点、前回の投稿で取り上げた高林先生の評論(年報知的財産法2019-2020, 24-32, 2019)や、そのうち取り上げるかも知れない田村先生の評論(WLJ判例コラム189)には、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

さて、ここからは、今回の愛知論文で必ずしも腑に落ちなかった点や気になる点などについて触れたいと思う。

1.「顕著な効果の有無を判断することが許されない」場合などあるのか?

「顕著な効果」の判断方法に関して、愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の12頁右]
・・・、たとえ引用発明に係る化合物が一定の効果を発揮することが知られていたとしても、そのことのみをもって直ちに、当該化合物と構成を異にする本願発明に係る化合物が同程度の効果を発揮するということまで予測することはできないはずである。 したがって、無条件に引用発明が奏する効果と本願発明が実際に奏する効果を対比して、予測できない顕著な効果の有無を判断することは許されない

[愛知論文の12-13頁]
・・・、「引用発明が奏する効果」から「・・・本願発明(・・・)が奏するであろうと当業者が想定する効果」の推認を可能ならしめる追加的事情が必要と考えるべきである。このような追加的事情が明らかにされた場合に限り、・・・「引用発明が奏する効果」と、「本願発明が実際に奏する効果」を比較して、顕著な効果の有無を判断することが許される

[愛知論文の13頁]
・・・、そもそも引用発明1の効果が明らかではない(引用例lには、モルモットに点眼した実験結果が記載されているだけであり、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用は示されていない)ため、上記のような推認の前提が整っていないということになる。

[愛知論文の13頁]
・・・、用途発明については、同等の効果を示す他の化合物から、本願発明の効果の予測可能性を推認することは原則許されず、そのような判断が認められるためには、極めて強固な「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等」を示す必要があるといえよう。

このように愛知論文は、「許されない」、「許される」、「整っていない」、「必要がある」などの強い表現を使って、本件発明の効果を先行技術と比較する条件を論じている。 しかし私が思うのは、「では、そういう条件が満たされない場合はどうするのか?」ということ。 顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、当然、何らかの効果が見出されているわけだ。 そして出願人は、その効果は、先行技術からは予測できないと主張するわけだ。

その場合に、先行技術と比較することが「許されない」場合や、先行技術と比較する条件が「整っていない」場合はどうするのだろうか。 愛知先生は、立証責任を出願人に課した上で条件を厳しくすることにより、その条件が満たされない場合は「顕著な効果を立証することができないから、進歩性は否定される」と考えているのかも知れないが、実際には、判断不能な場合は、本件発明の効果は先行技術から「予測できた」とは言えない以上、本件発明の効果は「予測できない効果」ということになってしまうのではないか?

上述のとおり、顕著な効果の有無が問題になる場合、本件発明には、何らかの効果が現に見出されており、その効果が予測できる範囲内であったのか否かが争点となる。 判断条件を厳しくして判断不能に追い込むことは問題の解決にならないような気がする。

まさかとは思うが愛知先生は、適切な比較対象が先行技術にない(つまり「顕著な効果」が判断不能)ということは、本件発明は、その構成からして新しいということを示しているのだから、効果を考慮するまでもなく進歩性は肯定されてよいのであり、不都合は起こらないと考えているのだろうか? 愛知先生が一体どういう見通しを持って論じているのか、今回の論文からはよく分からないので、今後の論文を待ちたいと思う。

私は、どのような場合であれ、進歩性の判断において「顕著な効果」は判断できると考える方がよいと思っている。 もっとも、どの程度の効果を(進歩性を肯定してよい)「顕著な効果」だとみなすかはケース・バイ・ケースで、本件発明の構成と先行技術の構成との違いによって影響を受けるだろう。 本件発明の構成がまったく新しいものである場合は、発明の効果は高い必要はないし、発明の構成が先行技術と似通っている場合は、効果がそれなりに目に留まるものでなければ進歩性を肯定することはできないだろう。 そこは「総合的な判断」が必要であって、単に「予測できたか否か」だけで決まるものではない。 だからこそ、私はそれを「意味づけ」(10月9日の投稿を参照)と言っているわけだ。

本件についても、決して「顕著な効果」が判断不能なケースに該当するというわけではないと思っている。 本件について愛知論文は、「本判決は、このような事情について何らの指摘もないままに、顕著な効果なしとの結論を下した原判決の妥当性を否定した」(12頁)と指摘しているが、私もそう考えればよいと思っていて、本件の原審は顕著な効果を荒っぽく否定したという点が、問題といえば問題だったのであって、本件のような場合でも、顕著な効果の判断を行うことは許されないものではなく、むしろどのような場合でも、それぞれの状況を総合的に考慮しながら効果を考慮して行けばよいのだと思う。 もっとも上述のとおり、効果の顕著性を検討するまでもなく進歩性を否定できる場合はあり得るし、本件もそうした場合に該当しうるとは思っているが。

*   *   *

2.顕著な効果により進歩性を認める場合(脚注11)について

今回の愛知論文が従来的な「二次的考慮説」を否定したことは最初に述べたが、愛知論文は脚注11において、「筆者は、従来の二次的考慮説よりも基準を明確化し、より限定的にのみ顕著な効果を斟酌すべきと考えているが、その詳細は、準備中の別稿に委ねる」としながらも、「先んじて結論だけを述べておけば、」と述べて次のように論じている。

[愛知論文の15頁 脚注11]
@ 「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」と、「本願発明が実際に発揮した効果」とを対比し、「本願発明が実際に発揮した効果」に比して、「出願当時の技術水準に照らして本願発明(と同じ構成をもった発明)が発揮するであろうと当業者が想定する効果」が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、当該構成の採用に至らなかったといえる場合に、「阻害要因」ありとして(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)する。 あるいは、A 予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、かつ、それゆえ「当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろう」(当業者が当該効果を発見し、その効果を解決手段に用いた発明に至ることがおよそ困難であった)という場合に、(構成の)容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当と考えている

上の引用中で愛知論文が挙げている2つの場合( @ と A )に進歩性を認める余地があるということは私も同意できるが、もう少し詳細に考えてみたい。

まず上記の @ で愛知先生は、本件発明の実際の効果と比べ、想定されていた効果が著しく低かったために、当業者は、たとえ動機付けがあったとしても、成功の合理的期待がないとして、本件発明の構成の採用に至らなかったといえる場合に進歩性が肯定できる旨を論じている。

これについて愛知先生に訊きたいのだが、仮に「想定されていた効果」が阻害要因になるほど低くはなく、いずれ誰かがその発明をするだろうといえるほどの効果は期待できた場合は、たとえ両者の効果(実際の効果と、想定されていた効果)に著しい違いがあったとしても進歩性は否定される、ということでいいですよね?

つまり、「本願発明が実際に発揮した効果」がどれほど高かったとしても、進歩性は否定されるわけだ。 その場合は、「本願発明が実際に発揮した効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はありうると考えていいですよね?(これは私のいうところの「進歩性 第1要件」に相当する)。

また、愛知先生がいうように、効果が著しく低いと予想されるという意味で阻害要因があるとして、それにもかかわらず、その構成を採用した人がいたとして、予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合、愛知先生は進歩性を認めるのだろうか、それとも認めないのだろうか?

当然、認めないよね。 ではその場合、その構成には容易想到性はあるのか、それともないのか?

予想どおり効果が著しく低いことが判明した場合は「その構成は容易想到」と判断するのに、効果が高かった時にだけ「容易想到ではない」と判断するとしたら、それは愛知先生の言う「因果関係の逆転」だ。 だから、それはできないだろう。 想定される効果が阻害要因になるほど低く、実際の効果が高かった場合に「その構成は容易想到ではない」と判断したいと愛知先生が考えており、かつ、「因果関係の逆転」が起きないような考え方を採りたいと思っているのであれば、たとえ同じ構成を持つ発明が、想定通り効果が著しく低かったとしても、「その構成は容易想到ではない」とみなすほかないはずだ。 それにもかかわらず、想定どおり効果が著しく低いことが判明した場合は、その発明は「進歩性なし」と判断したいわけだ。 そうすると、たとえ構成に容易想到性が認められなくても、直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認めるに足る程度の「効果」は必要だという判断基準が必要にならざるを得ないだろう(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

このように、愛知論文の設例「@」を、因果関係の逆転が起きないように論理的に考えて行けば、私のいうところの進歩性の「第1要件」と「第2要件」に行き着くことになるのではないか。

[あるべき進歩性の判断手順] (2019/8/30版
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また上記の A で愛知先生は、予測できない顕著な効果(「異質な効果」に限られる)が発揮され、当業者はそのような効果を測定・発見することはなかったであろうという場合に、構成の容易想到性を否定(進歩性が肯定)するのが妥当だと論じている。

これも確認したいのだが、Aの発明は、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているわけではなくて、純粋な物質発明(「〇〇化合物。」という発明)や、その「異質な効果」を発揮させることに限定されない従来的な効果を発揮させるための用途発明のようなものを想定している、ということでよいのだろうか。

そして、仮にその「異質な効果」がなければ、その発明の進歩性は否定されるということを前提にしているということでよいのだろうか。 つまり、発明の構成自体は容易想到であることを愛知先生は前提にしているわけだ。 しかしそうすると、異質な効果があったからといってその発明の進歩性を肯定することは、構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだとする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)と矛盾することになるのではないか?

例えば、その「異質な効果」以外にも、その物質について、発明前に、従来的な効果があるだろうと予測できたとして、その従来的な効果を発揮させるためにその物質的構成を採用することに十分な動機付けがあった場合は、その発明の進歩性は否定するわけですよね? たとえ「異質な効果」がどれほど顕著であったとしても進歩性は否定されるわけだ。 そうすると、その「異質な効果」を検討するまでもなく進歩性は否定されるということになるわけだし、そういう場合はあるということになる(私のいうところの「進歩性 第1要件」)。 したがって、A の設例で進歩性が認められるためには、発明の構成に到達する動機付けを与えるほどの「従来的な効果」は見込めないことを前提としなければならないのだから、A の設例の発明は、実際には、「異質な効果」の有無にかかわらず「構成は容易想到ではない」ということになるはずだ。 そして「構成は容易想到ではない」からといって直ちに進歩性を肯定することはできないのであり、進歩性を肯定するためには、それなりの「効果」が必要だということだ(私のいうところの「進歩性 第2要件」)。

つまり何が言いたいかというと、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」とする愛知先生の主張(14頁左欄14-15行)の方を変えるべきだということだ。 進歩性を認めるためには「発明の構成が(その構成に到達するのも時間の問題と言えるほど)容易想到ではない」ことが必要だというのは正しい。 しかし、それは進歩性を肯定するための十分条件ではない。 たとえ構成が容易想到ではないとしても、それだけで直ちに進歩性を肯定することはできず、進歩性を認める程度の効果(進歩性 第2要件)が必要だと考えることが必要なのだ。

もし A の発明として、純粋な物質発明ではなく、その「異質な効果」を発揮させるために用いることに限定された「用途発明」(「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)を想定しているとしても、話の大枠は変わらない。 もし同じ物質を従来的な用途に用いることに十分な動機付けがあり、従来的な用途に用いれば、必然的にその「異質な効果」を発見するに至るような場合は、その「異質な効果」を発見するのは時間の問題であったのだから、たとえそのような用途が「構成」として組み込まれた用途発明(つまり「当該異質な効果を発揮させるための剤。」という発明)であっても進歩性は否定されるべきだ(進歩性 第1要件)。 そう判断すべきだったことが疑われる事例として、Sotoku 10号の脚注39で取り上げた「芝草品質の改良方法」事件(平成25年(行ケ)10255;平成26年9月24日判決)が挙げられるだろう。 たとえ効果が極めて「異質」であり、また予測できないものであって、その異質な効果に用いることが「構成」として組み込まれた用途発明がクレームされているとしても、その効果が発見されるのも間近だったと評されるのであれば、進歩性は認められるべきではない。 その効果が早々に発見されることはないと認められ(進歩性 第1要件)、かつ、その発明は「でたらめ・ありきたり」ではないと認めるほどの「効果」があって(進歩性 第2要件)、初めて進歩性は肯定される。

このように、愛知論文が挙げる @ や A は、決して「効果」によって「構成の容易性」が否定される事案ではない。 むしろ愛知論文が挙げる @ や A からは、たとえ物質的構成に到達するのが時間の問題とはいえない(すなわち構成は容易ではない)としても、それなりの効果がない場合(具体的には、例えば @ については予想通りきわめて低い効果しかなかった場合、A については、容易だが膨大な選択肢の中からでたらめに選んだ置換基で既知化合物を改変したが異質な効果は見出されず、従来的でありきたりな効果しかなかった場合)については進歩性を否定すべきだという考えを導くことができるのであり、「構成の容易想到性だけで進歩性を判断すべきだ」という愛知論文の考え方(14頁左欄14-15行)に修正を迫るものだと思う。

愛知先生には、私が挙げたようないろいろな場合に進歩性を認めるのか否かを再度考えてもらった上で、そうした「場合分け」だけで考察を終えるのではなく、そのすべてに通底する原理が存在している可能性を探ってもらいたいと思う。 その原理こそ、特許制度を支える正当化根拠なのであり、その有力な候補は、昨年10月17日の投稿で書いたとおり「依拠性の擬制」だと、今のところ私は考えている。

*   *   *

進歩性 第1要件における「容易」の意味について

愛知論文は次のように論じている。

[愛知論文の13-14頁]
そもそも、発明とは、課題解決手段の「構成」によって特定されるものである6,7。 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、当業者が引用発明の構成を変更して本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべきである。

上記のとおり愛知論文は、「本願発明の構成に至ることが容易なのであれば、進歩性は否定すべき」だと論じている。 愛知先生のこの指摘に同意できるかは「容易」の意味次第だ。 「容易」というのが、「当該構成を採用し、当該効果が見出されるのも時間の問題だった」という意味なのであれば、 効果がどのようなものであれ(「予測できない顕著な効果」があろうとなかろうと)、進歩性は否定すべきだ。 しかし「容易」というのが、単に当該構成を採用して発明を完成する “手法” や “手順” が容易であったというだけである場合は、進歩性を直ちに否定することはできない。 なぜならいまだ世の中に現れていない発明であっても、“手法” や “手順” が容易である発明は他にもごまんと存在しているのであり、そうした他の発明をさしおいて本件発明が世に現れることは、(確率論的に)「容易」とは言えないからだ。

なお愛知論文の上の引用中に “7” と書かれているのは特許庁の宮崎賢司先生の論文(tokugikon No.289, 156-170, 2018)を表している。 この宮崎論文の163頁左には設例が記載されており、具体的には、ある研究室で1000通りの同類の化学物質の組み合わせを試験し、888番目の組み合わせでのみ「顕著な効果」が見出された場合に、なぜ888番目にだけ進歩性が肯定できるのか、という問題について論じられている。 この問題については、Sotoku 10号の脚注38に書いたとおりで、宮崎論文においては、1000通りの化学物質のすべての構成を容易想到であることが前提にされているのかも知れないが、私はそれらの化学物質の構成はいずれも、世に現れるのも時間の問題だったという意味で「容易」とは言えないと捉えるのが正しいと思っている。888番目以外の組み合わせに進歩性がないのは、888番目以外の組み合わせが容易だからではなくて、ありきたりの効果しか発揮しない場合は、たとえ構成が容易ではなくても進歩性を認めるべきではないからだ(進歩性 第2要件)。 1000個の化学物質を作る手順や手法がたとえ容易だったとしても、誰かが現に作製するのも間近だったと認められない場合は、私の言う「第1要件」で拒絶されることはない。 このように、私の言う「第1要件」は、手法の容易性を問うものではなく、時間的な問題を問う要件なのだ。

これについては愛知先生も今回の論文の14頁右欄で、「・・・、いずれ当業者が本願発明(と同一の発明)に至ると考えられるため、・・・」という時間的な表現を使っている点は重要だ。ちなみに田村先生もパテント別冊15の9頁で、「発見されるのも間近」という時間的な表現を使っていた。 つまり、進歩性の判断における「構成の容易想到性」(私の言う「第1要件」)とは、「時間性」の問題なのだと思う。

しかし一般には、作製手法が容易なら、発明の「構成は容易想到だ」という考え方が広く行き渡っているので、どうしても「888番目は、構成は容易だが、顕著な効果によって進歩性は肯定されるべきだ」(独立要件説)と考える人が多く、話がかみ合わなくなってしまう。 そこが、進歩性判断における「効果の意義」について、議論の対立が生じる要因の一つになるように思う。 「手法の容易性」は選択肢の数によって影響を受けないが、「時間」は選択肢の数に影響され、膨大な選択肢がある場合は特定の選択肢を選択することは容易とは言えなくなる。 時間的観点を取り入れることが、進歩性判断には必要なのだと思う。 同じことは既に昨年の投稿でも書いたが。

*   *   *

進歩性 第2要件における「意味づけ」について

今回の論文で愛知先生は、選択発明に関して「ゾンビ説」を採っていないことは上述したが、愛知論文の脚注6には以下のように記載されている。

[愛知論文の13頁 脚注6]
6 もっとも、たとえば、選択発明は、下位概念で表現された発明が、先行発明(上位概念で表現された発明)が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものである場合には新規性は認められるが、予測できない顕著な効果がなければ進歩性が否定される発明と捉えるべきであるところ、下位概念で表現された発明の構成自体は上位概念に係る先行発明に包含されているため、「構成」の上では、先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない。 そこで、例外的に「効果」が発明(技術的思想)の要素に位置づけられていることになる(・・・)。

上記のとおり愛知論文は、上位概念の発明が既知である場合、その下位概念である選択発明は、「構成」の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができないと論じている。 しかしそう言われると問いたくなってしまうのだが、「構成の上では先行発明とは別の固有の技術的意義を基礎付けることができない」というのは、「構成は容易だ」というのと同じ意味なのか?、それとも違う意味なのか? 愛知先生は、選択発明の構成は、たとえその具体的な構成が先行文献に開示も示唆もされていなくても「その構成は容易」だと思っているのか?

例えば大合議事件となった「ピリミジン誘導体事件」(平成28(行ケ)10182、10184)における本件発明の化合物(ロスバスタチン)は、先行技術である甲2文献(特開平1-261377号公報)に記載されている発明の下位概念に該当する、すなわち、本件発明は甲2発明の選択発明であると言われている(井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018))。 そうすると、「ピリミジン誘導体事件」における本件化合物は、本来はその構成からして容易だと愛知先生は考えているのか?

私は、ある発明が先行発明の選択発明に該当しようが、しまいが、その発明が世に現れるのが時間の問題だったとはみなせないのであれば、その発明の構成は「容易」とは言えないと考えるべきだろうと思う。 それにもかかわらず、なぜ単なる選択発明に進歩性が認められないのかと言えば、それは、既知の発明の下位概念の一つを具現化しただけの「単なるありきたり」の発明を特許にする必要はないからだ(進歩性 第2要件)。 つまり、これは進歩性の「第2要件」の問題なのであって、発明の「構成」が容易か否かという問題ではない。 そして、愛知先生のいう「固有の技術的意義の基礎づけ」こそ、私が「第2要件」でいうところの「意味づけ」に相当する。 上述のとおり、本件発明の構成がまったく新しいものであれば、発明の効果は高くなくても、かろうじて効果があるというだけでも「固有の技術的意義」を肯定することはできるかも知れないし、発明の構成が先行技術と非常に似通っていれば、効果がある程度高いか、あるいは付加的な効果(例えば異質な効果)がない限り「固有の技術的意義」を肯定することはできないだろう。 そこには総合的な判断が必要であり、その発明が、果たして特許に足る「技術的意義」があるのかを、効果を勘案しながら判断するのが、私のいう「第2要件」だ。 この判断が必要になるのは選択発明に限られるものではなく、上で挙げた宮崎先生の1000個の化学物質において、なぜ888番目だけが進歩性を肯定できるのかを理解する上でも必要だし、「ピリミジン誘導体事件」でも例外ではない(Sotoku 10号の脚注35および36)。 だから前回の投稿でも書いたとおり私は、進歩性を肯定するにあたって効果の検討を不要とした「ピリミジン誘導体事件」大合議判決を批判しているのだ。

このように「選択発明」の進歩性判断に関して愛知先生が論じた「固有の技術的意義の基礎づけ」は、私がいうところの「意味づけ」(進歩性 第2要件)と同じものなのであり、選択発明に限らず、発明一般の進歩性判断において重要な意味を持つものだと思う。

*   *   *

ということで、今回の論文を読むかぎり愛知先生は、進歩性判断の考え方において私とかなり近いところにいるような気がしている。 愛知先生が進歩性の問題に関して今後どのように進んでいくのか、注目して行きたい。


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

高林龍判例解説『進歩性判断における顕著な効果の位置付け』(年報知的財産法2019-2000 日本評論社 24-32 2019)


昨年の年末に出版された『年報知的財産法2019-2020』(日本評論社 2019)に、「アレルギー眼疾患事件」(発明の名称「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」)の最判(平成30年(行ヒ)69)に対する高林龍先生の評釈が掲載されている。

評釈は全体として、今回の最判は事例判断に過ぎず、射程は極めて狭く、「独立要件説」と「二次的考慮説」の対立について判示したものでもないというスタンスをとっている。 最判を批判せず、かつ最判の影響は最小限に留まることを論じる高林解説は、バランスと配慮の効いた論文だと評することはできるかも知れない。

しかし褒めるだけではなんなので、高林先生には大変失礼ながら、曖昧に書かれている部分は多少勝手に解釈しつつ、今回の高林解説について批判的に感想を書いてみたい。

1.独立要件説と二次的考慮説の違いは「言葉の問題」に過ぎないのか

進歩性の判断における効果の意義について高林解説の28-29頁では、「独立要件説」と「二次的考慮説」が説明された上で、以下のように論じられている。

[29ページ](強調を追加)
いずれにせよ効果の顕著性が進歩性の判断過程において考慮されるのであれば、独立要件説と二次的考慮説の差異はほとんどないといってよく、特許庁や裁判所内部での運用や解釈が必ずしも統一されていなくとも、結果に大きな差が生じていないのだろうと予想できる 17) ・・・

そして脚注17では以下のように論じられている。

[29ページ 脚注17](下線及び強調を追加;以下同様)
効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう。この場合に効果を参酌することなく構成の容易想到性が判断されているというのかどうかは、言葉の問題にすぎないように思われるし、このような判断過程を経る出願が多いのが現状であろうかと思われる。

上に下線で示したとおり高林先生は、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合とは、通例は構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合ということもできるだろう」という。 確かに “通例” はそうなのかも知れない。 しかし「予想外の効果」というものは、“通例” ではないからこそ「予想外」なのだから、“通例” の場合だけを考えるのでは意味がない。

もし高林解説が言うように、「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」が「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」だというのなら、まったく同じ構成を採用した結果、効果が想定外に顕著だった場合は何というのだろうか?

その場合は、「その構成は容易想到ではない」とでもいうのだろうか? まったく同じ構成であるにもかかわらず、効果が想定内であった場合は「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到」だといい、効果が想定外であった場合は「効果を参酌した結果、構成が容易想到ではない」ということにするのか?

もし高林先生の考える「二次的考慮説」がそのような説なのだとすれば、そのような考え方こそ、私が常々批判しているところの「修正主義」(2019年4月24日の投稿などを参照)であり、欺瞞というべきものだ。 効果が予想外か否かを見てから構成が容易想到かどうかを決めるのなら、そのような「二次的考慮説」が「独立要件説」と同じとなるのは当たり前だ。 「二次的考慮説」をそのように解した上で、「独立要件説」と「二次的考慮説」は「言葉の問題」にすぎないなどと論じるのはトートロジーであって、無意味かつ誤解を生む源だと言わなければならないだろう。

「独立要件説」であれ、高林先生の考えるであろう修正主義的な「二次的考慮説」であれ、不都合が起こる場面は2つある。 1つ目は、膨大な選択肢の中からでたらめに一つの選択肢からなる構成を選んだだけの発明(すなわちその特定の構成を選択することは容易想到とは言えない発明)であって、見るべき効果がまったくない発明に進歩性を認めるか否かという場面であり、2つ目は、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が顕著なら進歩性を認めるのか否かという場面である。

「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)では、膨大な選択肢の中から一つを選んだ場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 しかしそのような考え方では、でたらめに選んだだけの発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号(「9.」節)で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている(2019年8月30日の投稿を参照)。

すなわち、これは「言葉の問題」などではなく、現実に起こりうる問題だ。 「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、「独立要件説」と差がないなどというのは、現実に想定できる問題について見て見ぬふりをするのに等しい。 現実から目をそむけず、「独立要件説」と修正主義的な「二次的考慮説」の両方を否定することが求められているのである。

*   *   *

2.効果が顕著なら進歩性を肯定するのは「理の当然」か

本件判決について高林解説は、次のように解説している。

[29-30頁]
 ・・・、前訴判決を理解するうえでは、まず本件各発明は化学物質のいわゆる用途発明であり、出願前公知の化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することを見出した点に発明としての進歩性が認められるか否かが問われるべき事案であることが重要である。用途発明とはたとえ公知物質であったとしてもこれが奏する未知の効果を見出し、これを新たな用途に適用することに進歩性ばかりでなく新規性も認められるとして特許が成立する場合のことであるから、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、独立要件説とか二次的考慮説とかで一般的に論じられるように、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

ここまでの高林解説については特に異論はない。 続いて高林先生は以下のように論じる。

[30頁]
 本判決は「化合物を発明に係る医薬用途に適用することが容易想到であることを前提とする場合において」と判示したうえで、当該発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定した原審の判断手法に違法があるとの判断に進んでいる。この前提事実は、本件審決が、審決取消確定判決(前訴判決)の拘束力20)が及ぶとした、引用例1および引用例2から当業者が本件各発明に至る動機付けがあるとして、化合物Aをヒト結膜肥満安定化剤の用途に適用することは容易想到であるとした判断であり、原判決は当事者に争いがないとして適示している事実であるから、その当否はともかくとして、最高裁としては前提事実として扱うほかない事実ということができよう。その意味では、本判決の前記判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの独立要件説に立っているかのようではあるが、実は法律審である最高裁としては原判決の認定した事実として当然に前提とせざるを得ない事実を判示したにすぎないものということができるだろう。
 そうすると、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間があるものの、仔細に検討してみるならば、前訴判決は、前審決が、本件発明における「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という発明特定事項は、引用例1及び引用例2から当業者に動機付けられるものとはいえないから進歩性欠如の無効主張は理由がないとした判断は誤りであり、同引用例から動機付けられるとして、その限度での判断に止めて審決を取消したものということができる21)。 そうであるのならば、二次的考慮説に立ったとしても、独立要件説に立ったとしても、審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる22) のは理の当然である

ここまでの高林解説も、最後の一文を除けば異論はないし、最判が独立要件説に立っているという解釈を高林解説がはねのけている点はむしろ評価できる。 しかし最後の一文については異論がある。 なぜなら、高林解説が「理の当然」と言っていることは「理の当然」ではないと思うからだ。

高林解説は、「審決取消判決確定後の手続きにおいては、効果の顕著性が審理されるべきことになる」というが、高林解説がそのように論じるのは、効果の程度が進歩性の判断に影響を及ぼしうると考えているからだろう。 しかし、効果の程度が進歩性の判断に必ず影響を及ぼすかどうかは明らかとは言えない。 例えば、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合が存在する可能性はないのか? もし本件が、「たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当するのなら、効果の顕著性を審理するまでもなく本件の進歩性は否定されるから、必ずしも「効果の顕著性が審理されるべきことになる」とは言えない。 そして高林解説は、本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合に該当しないこと、あるいは、「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合など一般論としてあり得ないことについて、なんら論証していない。 また高林先生は論文の最後で、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」(32頁)と論じ、あたかも効果が「予測した範囲を超えている」場合は進歩性が肯定されるかのような論じ方で論文が閉められているが、上述のとおりそもそも本件が「顕著な効果があっても進歩性は否定されるべき」場合には該当しないことは論証されていないのだから、「効果の顕著性が審理されるべきことになる」などと論じたり、「予測した範囲を超えている」か否かで進歩性の有無が決するかのような論じ方をしたりするのは飛躍があるというべきだろう。

これもまた、高林先生が「二次的考慮説」を修正主義的に理解した上で、世の中には「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないことを前提に物事を論じていることに起因するのかも知れない。 しかし上の「1.」で述べたとおり、「修正主義的二次的考慮説」というのは、つまるところ「独立要件説」と同じなのであり、顕著な効果があった場合は容易なものを容易ではないと思うことにするという欺瞞の上に成り立っている考え方にすぎない。 世の中に、「独立要件説」と「修正主義的二次的考慮説」の二つしかないと考えること自体が誤りなのである。

*   *   *

本件の場合、本件化合物は抗ヒスタミン剤として既知の化合物であった。 そして本件化合物の一つ(KW-4679)をアレルギー性眼疾患の治療薬として用いることを想定して、モルモットの結膜炎モデルに点眼する実験も本件の特許出願前に行われていた(本件引用例1)。 そして一般に抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンと拮抗するだけでなく、肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離を抑制する作用(肥満細胞安定化作用)を持つことがあることも知られていた。 そうすると、本件化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として開発しようとする場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れと言いうるだろう。

仮に本件発明、すなわち、本件化合物を肥満細胞安定化の用途に使用するということが、誰かが行うのも間近だったと評される場合は、この化合物の肥満細胞安定化作用がいかに顕著であろうとも、そのような用途発明(すなわち本件発明)の進歩性は否定すべきだと私は思うが、その意義は「先行者の保護」にある(もし先行発明がパブリックドメインとなっている場合は、パブリックドメインの保護にある)。

例えば上記の本件引用例1の発明者(すなわち先行者)が本件の特許権者とは無関係の者だったとして、引用例1の発明者が、引用例1に記載されているように、モルモットの結膜炎モデルを用いて本件化合物がアレルギー性眼疾患の治療薬として有用であることを見出し、アレルギー性眼疾患の治療薬としてこの化合物を開発しようとしていたとする。 そしてその場合に、この化合物が持つ肥満細胞安定化作用をヒト細胞において調べることになるのは当然であり、自然の流れだったとする。 ところが、本件特許の出願人がいち早くこの化合物の肥満細胞安定化作用を調べ、本件用途発明を出願してしまったとする。 そして引用例1の発明者に対し、この化合物をアレルギー性眼疾患の治療薬として使用すれば、必然的に肥満細胞安定化作用が発揮されることになり、また、薬事当局もこの作用が発揮されることは認めるだろうから、あなたがこの化合物を医薬品として販売したら特許侵害として訴えると警告すれば、引用例1の発明者は医薬品の製造・販売ができなくなってしまうかも知れない。

このように、何人かが発明するのも間近だったものに対し、効果が顕著であったからといって特許を付与することは、先行者に対して強力な不意打ちと妨害を与えることを可能とし、パブリックドメインにあるべきものを奪取することを許すことにもなる。 こうした発明に特許を与えれば医薬品の製品化が促進されるかのように論じる向きもあるが(2019年8月30日の投稿を参照)、このような付加的な効果について目ざとく特許出願を行う者が、医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はない。 本件の場合、本件化合物の医薬品(製品名:パタノール点眼液)を製品化しているのがたまたま本件特許権者だったから事の不合理さが覆い隠されているが、もし本件用途発明の特許を取得した者が、この化合物を医薬品として開発している者ではなかったとしたら、本医薬品の製品化は、その用途特許により妨害されていたかも知れない。 そうした不意打ち的な妨害を防ぐために特許法29条2項(進歩性要件)は機能すべきなのであり、そのためには、誰かが発明するのも間近だったと評されるものに対しては、その効果の顕著性にかかわらず特許を付与してはならないと考えるべきなのだ。

同じことは、昨年10月2日に投稿した「光学活性ピペリジン誘導体」事件(平成24年(行ケ)10207)のところでも説明した。 二つの異性体の混合物であるラセミ体に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする動機付けが生じるところまで行けば、どちらの異性体に活性があるのかを調べるのは当然であり自然の流れなのだから、それにより必然的に判明すること(すなわちどちらの異性体に活性があり、それによりラセミ体の何倍に活性が上昇するかということ)が、先行者(すなわちラセミ体に最初に生物活性を見出し、これを医薬品として製品化しようとする者)の前に立ちはだかることを許すのは不合理だ。 したがって、容易に分離できる異性体をいち早く分離して「顕著な効果」を見出したからといって、それに特許を付与すべきではないのである。

[2019年10月2日の投稿で掲載した図]
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このような理由により、私の言うところの「進歩性 第1要件」(上図)は導かれる。 つまり、たとえ効果が「予測した範囲を超えている」としても、進歩性を認めてはならない場合は確かに「ある」というのが私の考えだ。

したがって、高林解説が言うように、本件の場合に「効果の顕著性が審理されるべきことになるのは理の当然である。」とは言えないし、「差戻審においては、発明の効果の顕著性が当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測した範囲を超えているかとの観点からさらなる検討が加えられることになる」のが当然ということもできない。

もっとも、「効果を参酌するまでもなく構成が容易想到であると判断できる場合」と「構成が奏する効果は当該構成を採用することで当然に導かれる想定内のものにすぎない場合」を半ば同一視(脚注17)する高林解説からすれば、誰かが発明するのも間近だった場合は、よほど顕著な効果があっても強引に「効果は想定内」だとみなせばよいと高林先生は考えているのかも知れない。 しかしそうした点について今回の高林解説では触れられておらず、本件において進歩性を認めるほどの「顕著な効果」とは何なのか、または、そのような場合が本当にありうるのかということについて明確な問題提起をしないまま、論文の最後において、「予測した範囲」を超えてさえいれば進歩性を肯定しうるかのような印象を与えていることについては、不満を感じざるを得ない。

*   *   *

なお本件最判は、判決文の最後で「・・・,本件各発明についての予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。」と説示しているから、この最判の説示にしたがう必要があるという意味においては、差戻審において効果の顕著性が審理されるべきは当然ということにはなるだろう。 しかしそれは、最判がそう説示したから審理はせざるを得ないだろうということに過ぎず、特許法29条2項の趣旨から理の当然のごとく導き出せるものではない。

そして最判は、顕著な効果があれば進歩性を肯定すべきだと説示したわけでもないことを指摘しておきたい。

前回の投稿でも述べた通り、前提とすべきは特許法の制度趣旨と、変わることのない社会的規範(社会的正義やフェアネス、衡平の理念)である。 間違っているかも知れない今回の最判の説示を過度に忖度すれば、砂上に楼閣を建てる危険を冒すことになるだろう。

*   *   *

3.用途発明における「顕著な効果」の判断の特殊性(高林先生の真の立場は何か)

さて、ここまでは今回の高林解説を批判的に書いてきたが、最後に、高林先生の本当の立場とは何なのかを考えてみたい。

本件発明は用途発明であって、上述のとおり、物質(オロパタジン)はすでに公知であり、抗ヒスタミン作用があることも既知で、モルモットのアレルギー性眼疾患モデルに対する治療効果の検証なども行われていた。 そして本件発明は、この化合物にヒト結膜肥満細胞安定化作用(ヒト結膜肥満細胞からの炎症性メディエーターの遊離抑制作用)があることを見出したことに基づいて出願されたものだ。 その請求項は、「・・・、○○を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤。」となっている(「○○」は公知物質名)。 この請求項の「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という部分は、この発明が「ヒト結膜肥満細胞安定化という用途に用いる剤」であることを規定するものであり、この発明が、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途に用いることに限定されていることを示すものだ。 このように用途発明とは、用途(「ヒト結膜肥満細胞安定化」)が発明の「構成」の中に組み込まれている。

そして用途発明について高林解説は次のように論じる。

[30頁]
・・・、その用途は特許請求の範囲に構成として記載されており19)、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている考えることができるから、・・・、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかという点については、用途発明独自の観点からの検討が必要になるように思われる。

そして今回の最判の説示について高林解説は、

[30頁]
・・・、本判決の・・・判示は、一見すると、化合物の用途発明の場合に当該化合物を特定の効果を奏する用途に用いることに思い至ることが容易である場合であっても、その奏する効果が予測できない顕著なものであるか否かはこれとは別に判断できるとの・・・説に立っているかのようではあるが、・・・

と論じつつ、最判はそうした「説」に立つものではない旨を論じている。 そして、化合物の用途発明の場合に、構成の容易想到性(すなわち、効果を奏する用途に用いることの容易想到性)の判断を、効果の顕著性の判断とは別に先行して行うことができるのかという点について、

[30頁]
・・・、化学物質の用途発明の場合は、前述のとおり、用途は特許請求の範囲に構成として記載されており、構成が奏する効果も用途と一体不可分のものとして包含されている(と)考えることができるから、構成の容易想到性の判断を効果の顕著性とは別に先行して判断できるのかには疑間がある・・・

と論じている。

上の高林解説の論じ方からすれば、高林先生は、用途発明における用途(すなわち発明の構成)の容易想到性と、効果の顕著性を別々に判断することができるのかについて「疑問」を持っていることが分かる。

その是非はともかく、もし高林先生が、「両者を別個に判断すること」に疑問を持っており、それでもなお今回の最判には疑問を持っていないという立場をとるのであれば、今回の最判は、「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずである。

本件用途発明が容易想到であるか否かが前訴において検討され、その結論が既に出ているにもかかわらず、本件の「効果の顕著性」を判断する結果、本件用途発明の容易想到について前訴とは異なる結論に到達しうるのだとすれば、それは「両者を別個に判断した」からに他ならない。

しかし前文のとおり、高林解説の立場からは、今回の最判が「両者を別個に判断すること」を肯定したと解することはできないはずだから、今回の最判は、「本件発明」について顕著な効果があれば前訴とは異なる結論に到達しうる(進歩性を肯定しうる)との立場を示したと解することはできず、せいぜい、顕著な効果を判断する場合の判断手法について説示を行ったに過ぎないと解さざるを得ないのではないか。

そうすると、たとえ差戻審において本件発明の「効果の顕著性」が審理され、それについて何らかの結論が出るにせよ、なお本件発明は容易想到だと結論することは十分にありうる(というより、高林先生のいう「疑問」からすれば、そう結論するのはむしろ理の当然)というべきで、これこそが高林先生の真の立場だと、一応は推定することができるのではないか。 すなわち、上の「2.」で書いたのとは裏腹に、高林先生は、本当は、本件発明が容易想到だという結論は変わりようがないと考えている可能性がある。

もしそうでないのなら、高林先生は自身の立場をより明確にすることが求められるように思う。

*   *   *

なおこれに関する私の立場を書くと、2018年6月22日の投稿の「3-4.」にも書いた通り、本件明細書において、本件発明の「効果の程度」を判断するにあたって肝となる「表1」の各数値は、前訴において既に見られ、比較されているはずで、その上で進歩性が否定されていることからすると、別訴で再び「表1」の数値に基づいて顕著な効果を審理・判断することに違和感を感じるのは確かだ。 したがって本件の場合に前訴とは別途「顕著な効果」を判断できるのかという点については否定的に検討する余地はあるように思う。

しかし一般論としては、「用途発明」を特別扱いする必要はないと考えている。 私の言うところの「進歩性 第2要件」は、効果の程度を参酌するか否かで判断は変わりうるものであるから、もし先行する判決が、「効果の程度」を考慮せず、「効果の存否」しか見ないようにして「第2要件」を判断したのであれば、「効果の程度」を考慮してもう一度「第2要件」を判断し直すことはありうるし、その結果、「第2要件」の判断が変わることもありうるだろう。 しかし、もし先行する判決が「第2要件」ではなく「第1要件」を判断して進歩性を否定したのであれば、「第1要件」は発明の効果によって影響を受けるものではないから、前訴判決が確定している以上、進歩性が肯定されることはありえないことになる。 このように、「効果の存否」しか見ないようにして進歩性を先行的に判断した場合に進歩性が否定されたとして、「効果の程度」を考慮して進歩性の判断をやり直した場合、「顕著な効果」により進歩性判断が変わりうることもあれば、たとえ「顕著な効果」があろうとも進歩性判断は変わりえないこともある。 それは、先行判断において何が判断されたのかによるのであり、このあたりのことは、すでに昨年10月9日の投稿「『二次的考慮説』は生き残れるか」で書いたとおりだ。


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2020年01月14日

田村善之二元論 ― 生き物としての解釈論(『田村善之 知的財産法学の課題 −旅の途中− 知的財産法政策学研究 Vol.51 (2018) 1-46』『田村善之 知財の理論 有斐閣 2019 第4章』)


今回取り上げる田村善之先生の講演録『知的財産法学の課題 −旅の途中−』は、もう1年以上前の2018年に北大の『知的財産法政策学研究 第51号』に掲載されたもので、私は北大のホームページで公開されたものを読んで、当時、感想文を書いてみたのだった。 しかし、公開しないうちにすっかり時間が経ってしまい、今さら『旅の途中』の感想文でもあるまいという感じになってしまったので、書いたものは公開せずにそのままになっていた。

しかしこの度、田村先生が『知財の理論』(有斐閣)を出版され、その最終章で『旅の途中』が掲載されることになったので、お蔵入りとなっていた私の感想文も、今回、めでたく公開する口実ができることとなった。

*   *   *

『知財の理論』については、既に複数の方が書評を公開されている。

特許法の八衢(田中汞介)
2020-01-05
田村善之『知財の理論』に対する雑感

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2020-01-05
我々はこの山をどこまで登ることができるのだろう?〜田村善之『知財の理論』との格闘の途中にて。

『旅の途中』については企業法務戦士(FJneo1994)先生がすでに昨年の初めに取り上げられている。

企業法務戦士の雑感 〜Season2〜(FJneo1994)
2019-01-01
「立法」の議論に参加する上で常に自覚しておきたいこと。

これらの格調高い書評に比べると、下に書いた私の感想文はなんと大柄で、自己陶酔的なことだろうか(笑)。 しかしまあ、これはしょせん日記だし、日記というのは多かれ少なかれそういうものだろうから、ほぼ当時書いたままを公開することにした。

逆に、田中汞介先生やFJneo1994先生は、田村先生の言っていることすべてに同意しているのか、また、感じたままを本当に書けているのか、ということが少し気になったりしている。

*   *   *

唐突だが、私は昔から、田村先生は隠れ(?)「正義論者」のような気がしている。 田村先生といえば「インセンティブ論」であって、インセンティブ論といえば、「・・・産業の発展など、効率性を追求することが大きな、・・・一つの目的となる・・・」(22ページ/467ページ)(ページ数は前者が『知的財産法政策学研究 第51号』、後者が『知財の理論』のもの;以下同様)はずだから、正義論とは対極であるようにも見えるが、なぜそう思うのか?

その理由は、Sotoku 6号の脚注111にも書いた通り、田村先生は「インセンティブ論」に基づいて具体的に特許制度をどのように構築するかを考えるときに、「フリー・ライドの禁止」を実現するような制度構築を目指すべきだと説くからだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)。 今回の講演録でも田村先生は次のように説いている。

[40ページ/483-484ページ]
特許法全体を通有すると目される特許制度の趣旨、すなわち発明に係る技術的思想に対するフリー・ライドを禁止する権利を発明者に与えることにより、発明に対するインセンティヴを付与しようという特許法の目的に求め、技術的思想が利用されている限りにおいて保護を及ぼすべきであるという結論を導くことになります。

つまり、「発明に対するインセンティヴを付与する」という、客観的に検証することが困難な目標を、「フリー・ライドを禁止する」という手段により達成できるものだと捉えることにより、インセンティブ論に基づく特許制度の作り方に具体性を与えているわけだ。

しかし、「フリー・ライドを禁止する」(ただ乗りの禁止)という考えは、「インセンティブ論」から論理的に導かれるものなのだろうか? 例えば発明に対するインセンティブを付与するには、発明に報奨を与えたり、補助金を出したりすることもあり得るような気がするのに、なぜ「ただ乗りの禁止」という事項(だけ?)がプライマリに導かれるのだろうか? むしろ私の感覚では、「ただ乗りはいけない」というのは、「道徳論」や「正義論」から自然に導かれるものであるように感じるのだが。

なお、私は田村先生のことを責めているのでもなければ、批判しているのでもない。 むしろ先生が論じていることに正義論的な要素を感じることに好感を持っている。

*   *   *

私は特許制度というものを、もっと自然発生的に考えている。 窃盗を禁止する法制度が社会において自然に生まれてくるのと同様に、知的創作を尊重し保護しようという発想は、ある程度技術や文化が発達してきた社会であれば自然に生まれ、制度や慣習として定着していくものなのではないかという気がしている。 私の立場は、いうなれば、進化論、生態系論、あるいは生物学的制度観とでも言おうか。

例えば、生物は何のために生きているのか? 生き物は、別に何のために生きているのでもない。 「目的」があって生きているわけではない。 「生きる」という特性があるから生きているのだ。 長い目で見て、生き物というのは強い者が生き残るのではない。 生態系の中で存続するという特性を持っている生き物が存続するのだ。 強すぎて生態系を乱す生き物は、持続性が乏しく、ライフスタイルが変わらない限りいずれ絶滅する。 特許制度も同じで、「目的」があるから制度が存続するのではない。 制度の「目的」が重要なのではなく、「存続する」という特性を持っていることが重要なのだ。 存続するという特性を持っている制度であればこそ存続し、定着していくのだろうと思う。

私は特許制度をそういうものだと捉えているから、「産業の発達」という目的が達せられるか否かなど、割とどうでもよいのだ。 逆に、「政策レバー」(Policy levers)などという言葉を聞くと少し違和感を感じてしまう。 レバーを動かすように特許制度を政策的に操縦して「目標」に近づこうという発想自体、おこがましい気がしてしまう。 特許制度が、どのように、どれほど産業の発達に寄与しているかも具体的に検証できていないときに、何のレバーをどう動かせばどのように動くというのだろうか?、などと思ってしまう。 もちろん、特許制度が発明を奨励し、産業の発達に寄与すればいいなと私も思うし、それに反する結果を現に生じてしまうような制度は作れないとは思うけれど、「産業の発達」というのはレバーを操縦してでも到達すべき必達目標というよりは、いわばお題目のようなものであって、制度が存続するために大事なのは制度にサステナビリティがあり、(私を含めて)多くの人が支持することだと思う。そして制度はもちろん、(私を含めて)多くの人が支持している社会的正義やフェアネス、衡平の理念、あるいは自由を求める心に反するものにはできないだろう。

そういう私が、特許権はどのような範囲に及ぶようにすれば、社会の中で安定性があり、(私を含めて)多くの人が支持するかと問われれば、「フリー・ライドをしているとみなせる範囲」に及ぶようにすることだろうね、と答えるだろう(Sotoku 6号の脚注111)。 そうすることが「産業の発達」を最大化すると思うからそう答えるのではない。 「産業の発達」という制度の「目的」からそういう考えが出てくるのではく、もっと自然に、フリー・ライドを禁止することが納得性があると思うからそうするのだ。 すると奇遇なのだけれど、田村先生がおっしゃっている「フリー・ライドを禁止する」ということと一致するではないか(笑)。 いや・・・、私は奇遇だとは思っていない。 (私を含めて)多くの人が「そう設定することがよい」と感じるであろうように、おそらくは田村先生も心の中でそう感じているのではないかな、と思っている。

[23ページ/467ページ]
ちなみに、「インセンティヴ論」という名称からよく誤解されることがありますが、私も、知的財産法の目的に自然権なり基本権なりが関わっていると考えており、とりわけ人の自由の確保が肝要であると思っています

今回の田村先生の講演録では、上に引用したところが、特許制度に自然権なり基本権なりの考え方を取り込むことの重要性に関して、田村先生がもっとも「自分のこと」として語っているところかなと思う。

*   *   *

ところが、講演録全体は必ずしもそうはなっていないのだ。

[7ページ/453ページ]
・・・公衆をどう納得させるかということがここでの問いです。

[7ページ/453ページ]
・・・、公衆をしてそのような規制を納得させる説得的な論拠を示さないと公衆の納得心が得られないということを意味しています。

[8ページ/453ページ]
自然権論による正当化の必要性

[9ページ/454ページ]
・・・、人々の納得心を得るための自然権論的な正当化根拠が必要なことはたしかなように思います

[9ページ/454ページ]
・・・、人々を納得させるためには自然権的な説明が必要となり、・・・

[27ページ/471ページ]
・・・人々の得心を得るため自然権論的な感覚に訴える必要がある、・・・

[33ページ/477ページ]
・・・、現実の政策形成過程でも人々の共感に訴えるレトリックが用いられている・・・

「公衆をして」とか「人々を納得させる」という言い方は、どこか「下々のために」と言っているようで、「自分は本当はそうは思ってないけどね」というニュアンスを感じさせる。 特許法の目的はあくまで「産業の発達」であって、「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」はいわば「メタファ」であって、「産業の発達」という目的を達成するためにレトリックとして利用すべきものに過ぎないと言っているように感じる。

私は逆で、「知的創作に対するみんなの気持ち」を制度化することが特許法の本質であって、「産業の発達」という法目的こそ、いわばレトリックのようなもののような気がしている。

ちなみに私も、「自然“”」なるものは単なるフィクションだとは思っている。 例えば基本的人権というのも単なる「決めごと」であって、人は生まれながらにそのような権利を持っているわけではない。 社会が「そのように扱おう」を決めているだけだ。 だから、私がどこか日本の外の別世界の地を歩いていて、突然捕えられて投獄されたり奴隷にされたりしたとしても、「私には基本的人権という権利がある!」などと叫んだりはしない。 「基本的人権」など、そういう決めごとがある社会でのみ通用することに過ぎないからだ。 そういう意味では、今回の講演録において田村先生が、知的財産権はしょせんは「人工的な行為規制でしかないと思います」(16ページ/461ページ)と論じ、「権」という言葉が持つ(水戸黄門の印籠のような)絶対不可侵的なイメージを批判的に論じていることは共感できる。

また、「知的“財産”」や「知的創作“”」という「物のイメージ」を前提として制度を構築したり運用したりすることに潜む嘘や危険性を田村先生が説いているのも共感できる。 実際のところ、今回の講演録で先生が「メタファ」として利用すればよいと説いているのは、「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」であって、「知的創作に対する人々のこころ」をメタファとして利用すればよいと思っているわけではないのかも知れない。 しかし今回の講演録ではそこはかならずしも明らかではない。 特許制度において「知的創作に対する人々のこころ」はどのように位置づけられるのか、「産業の発達」に向かって公衆を誘導するために利用すべき単なる“エサ”なのか、それとももっと本質的なところで制度に関わっているものなのかについて明らかにしてほしいと思う。

そしてもし後者、すなわち社会生活の中で自然にうまれる「知的創作に対する人々のこころ」が制度に本質的にかかわっていると思うのであれば、そういう心に沿って制度を構築して運用すれば人心はつかめるのだから、それを超えて「知的“財産”」や「知的創作“物”」という「物のイメージ」をことさら利用して公衆を誘導する必要はないはずだとも思う。 つまり、「知的“財産”」や「知的創作“物”」というレトリックの効用をことさら取り上げて論じていること自体、「知的創作に対する人々のこころ」の本質を軽視しているのではないかという疑いを抱かせるのだ。

しかしまあ、これが「インセンティブ論者」あるいは「政策学論者」たる先生の折り合いの付け方なのかも知れないと思ったりもする。 だって『知的創作に対する人々の心こそが知的財産制度の本質なのだ』などと言えば、それはあまりにも違う人になってしまうかも知れないから。

ともかく、私は「知的創作」に対して人々が抱いている「創作に対する尊重の気持ちや利用の欲求」を、社会の中でなるべくおさまりがよいように交通整理のように整理することが特許制度の根本的な存在理由だと思うから、具体的な制度構築にあたって「産業の発達」を考える必要性をあまり感じないのだ。 「産業の発達」は、立法化にあたって掲げるお題目のようなもので、実際の制度構築は、創作に対する人々の気持ちを、社会的正義や衡平の理念を考えながら形にすることであらかた決まってしまう。 上市するまでに時間とお金がかかる医薬品特許はなぜ追加的な保護が必要なのか、多重延長と薬事制度を利用して独占期間を事実上延長することがなぜ不当なのか、PBPクレームは物のクレームなのだから同じ物であれば権利行使できるのは当前と考えることはなぜ不当なのか、均等論はなぜ必要なのか、先使用権はなぜ必要なのか、そういった問題は、ことさら「産業の発達」を考えるまでもなく結論は出てくるはずで、そういった問題を論じるにあたって、実証もできないのに、いちいち「そうすることが産業の発達に寄与するから」「文化の発展に寄与するから」などという理屈を付ける「目的手段思考様式」(12ページ/457ページ)こそフィクションでありレトリックなのではないかと思う。

なお進化論的に考えるのなら、人間には「知的創作を尊重したい/されたいと思う心」をそもそも持っているという言い方はいかにも正義や道徳を振りかざしているようで語弊があるかも知れない。 別に「これが正義だ」というつもりはないのだ。 他人が行った創作を利用することにはメリットがあり、自分が行った創作を独占することにもメリットがある。 進化論的には、そうしたせめぎ合いの中で「存続する特性」の高い思考形式が次第に広まっていくわけだ。 自分が行った創作を完全に独占する考え方では、他人の創作を利用できないから適応力に乏しく、長い目で見て存続するのが難しい。 逆に独占しなさ過ぎても、自分で創作することの意義が薄れ、他人任せになってしまう。 知的創作をほどよい塩梅で尊重する考え方が採られた場合に、適応力も上がり存続特性も高くなるから、そうした考え方が長い目で見れば広まって、人々の心の中に定着していったのではないか。 したがって、そうした考えに沿って制度を作ることで、結果的には存続特性の高い制度を作ることができるのだろうと思う。

*   *   *

今回の田村先生の講演録でとりわけ印象的だったのが、ドゥウォーキンの『法の帝国』で論じられている「インテグリティとしての法」(law as integrity)という法解釈の考え方について田村先生が話したくだりだ(36-38ページ/479-482ページ)。

[36-37ページ/480ページ]
そこでは、法の解釈が、・・・、芸術作品でいえばその「創造的解釈」になぞらえられています。芸術の創造的解釈とは、作者の目的を探究するものではなく、作品の目的の解釈であって、その作品が芸術として最も優れたものになるように構成的に解釈するものであるというのです。たとえば、シェイクスピアの戯曲を演出する際・・・、シェイクスピアがその実際の心理において戯曲に込めた意図を忠実に再現することを目的とするのではなく、戯曲のテクストを前提としつつ、もしかしたらシェイクスピア自身ですら明確には抱いたことがないかもしれない大きな芸術的な企図を現代の観衆を前に表現する最善の手段を見付けることである、というのです。

解釈の方法論といっても、「条文」の解釈から「制度趣旨」の解釈までいろいろなレベルがあるだろうし、立法的解決ができる状況なのか否かによっても変わってくるだろう。 『法の帝国』においてドゥウォーキンが例に挙げて論じているのは、法律が想定していない難しい問題が生じた事件(ドゥウォーキンのいう「ハード・ケース」)について「裁判官」が判断する場合だ。 そのような状況では、そもそも立法的解決はできないから解釈で解決を目指すしかない。 また裁判である以上、過去の判例に反するような判断を裁判官が行うのは憚られるという制約もある。 これらの状況を前提として解釈の方法論を考えるのであれば、妥当な解決を行うためには、多少無理な解釈ではあっても法律の条文との整合性(インテグリティ)を確保しなければならないし、また過去の判例と抵触してはならないという意味での整合性(インテグリティ)も兼ね備えたものでなければならない。 また裁判官が判決として使うことができる理屈でなければならない以上、「法はそうなっている(からそう判決する)」という建て前をとる必要があるのは当たり前で、「法はそうあるべきだ(からそう判決する)」などとは口が裂けても言えないという事情もあるだろう。 だからドゥウォーキンが説く方法論も、基本的にはそのようなものになっているのだと思う。 しかし、そのような状況を前提に置いて考える解釈の方法論は、一般的理論というよりも、「裁判官のための方法論」という性格が強くなる。 具体的な事件で裁判官がどのように判決をすればよいのかを考えるのならともかく、そうでないのなら、そのような状況に過度にとらわれる必要はなく、もっと自由に考えてよいのだと思う。 「この条文はおかしいのではないか。」と皆が薄々感じている状況ならなおさらだ。

「立法論」と「解釈論」の違いを意識しないで論じれば「条文」に拘らないで論じることになるから、どうしても「立法論」の立場に傾くことになるのかも知れない。 しかし、そもそも「立法論」の立場で論じる場合と「解釈論」の立場で論じる場合とで言っていることに違いが生じるのだとすれば、それは条項の制約があるからその違いが生じるということなのであろうから、「解釈論」の立場で論じている内容は、(その論者にとっては)「妥協の産物」ということになるのだと思う。 そして、裁判の場でもないのに自由に論じることをせず、条項を所与の前提として「解釈論」のみを論じることは空虚だ。 したがって、まずは自由に考え、条文解釈としてもその論が成り立つのであればそれでよいし、条項の制約があるのなら、妥協の産物としての「解釈論」を考えるというのがあるべき順番だろうと思う。

戯曲に限らず音楽でも、譜面に忠実に演奏するのか、そうでないのかは論争になることがあると思うが、芸術であれ法解釈論であれ、自分が最善と思うものを表現しないことなどあり得ないことを考えれば、それを表現する以外に道はない。 したがって、迷うことなどないのだ。 もっとも、勝手に音を変えて違う曲になってしまえば、「この曲は違う」と聴く人に思われるだけで、共感を得るのは難しくなる。 逆に論文を読んだ多くの人が、そこで論じられていることは妥当だと共感してくれるのであれば、問題解決に向けた道すじは見えてくる。 とりあえずはそれで十分であって、条文解釈で乗り切るか、法改正まで解決を先送りするかは、次の段階で考えればよい問題のようにも思う。

*   *   *

ところで、今回の講演録で田村先生は以下のように論じている。

[38ページ/482ページ]
・・・。「インテグリティとしての法」というアプローチに基づけば、単なる立法論と解釈論を分けるものは、条文の文言そのものではなく、法の構造から導出された法の趣旨に従った解釈であるか否かということになるからです。

[38ページ/481ページ]
・・・、インテグリティという発想の下では、起草者の言っていることは絶対視されません。・・・。・・・、私も重視しませんし、ときには他の条文や制度の趣旨とのインテグリティを保つために、条文の文言にすら反する解釈を採用しますので、よく田村は少数説だと言われるわけです。

田村先生のこうした自由な発想は先生の大きな魅力の一つだ。 私もそうありたいと思うが、突拍子のないものになってしまいがちなのか、2017年3月23日に投稿した「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたように、私の考えと田村先生との考えには違いが生じることもある。 おそらくその原因は、私が法学における解釈の方法論というものが分かっていないのに対し、田村先生はより正当な法学としての方法論に基づいているからなのかも知れない。 私はもともと自然科学指向で法学が分かっていないから、法学に関してはしろうとの自由さがある。 自然科学がそうであるように、確かなものや変わらないもの以外は前提とする必要はないし、確かではないものや変わりうるものとのインテグリティを保つ必要もないと思っている。 法律の構造や条文、過去の判決・判例、権威が書いていることなどは、すべて限られた人間が限られた時間を使って生み出したものに過ぎない。 「りんごが木から落ちる」という不変の物理現象や、長い間変わることなく生態系の中で存続し続けてきた生き物の構造や行動パターンなどは、そこに「不変の何か」があるはずだとみなして、それを探究してみることには意義があると思う。 しかし条文や判決というのは、頼りにするにはあまりにも頼りないものだ。 それらは「今後も変わらない」という恒久性が必ずしも期待できないどころか、間違っていると感じさせるものが少なからず存在する。 それを前提にして物事を考えるというのは、砂上かも知れないところに楼閣を建てるようなものだ。 せっかく時間をかけて物事を考えるのなら、「誤っているかも知れないこと」を前提にしないほうがいい。 そうすると、条文や判例などを前提とすることはできず、より変わることのないもの、すなわち「制度趣旨」や、「変わることのない人々の思い」(=緩い意味での社会的正義やフェアネス、衡平の理念)を前提として考えることが、揺らぐことのない結論を導くためには必要になるのだと思う。 そのように出された結論は、判例や条文を前提にしておらず、また有力説なども尊重しないものであるから、裁判所や多くの論者には受けが悪いかも知れない。 しかし「変わることのない人々の思い」に支持されることになるはずだと思う。

*   *   *

創造的解釈」と言われて私がすぐに想起したのは「夢解釈」だ。 河合隼雄(京大教授)がまだ存命で活躍していたころ、私はその考え方に興味があり、本を読んだりしたことがあった。 夢の内容というのは、一見すると荒唐無稽だ。 行ったこともない場所を歩いていたり、やったこともないことをやっていたりする。 そして夢解釈は、その人が置かれた状況や問題を考えつつその夢を解釈する。 ほとんどの場合、夢は「メタファ」として表出される。 車を運転していて、ハンドルを回そうと思っても重くて回らないという夢や、ブレーキを踏んでいるのにどんどん加速してしまうという夢は、いずれもメタファだ。 そして夢解釈は、そうしたメタファに意味を見出して行く。 そして、そのメタファをもっとも意義深くなるように解釈したとき、その解釈はその人に強い印象を与える。 その人だけでなく、解釈を行っているセラピストや、その解説本を読んでいる読者(私)にさえ強い印象を与える。 そうした夢解釈は、「創造的解釈」の要素を多分に持っている。 もちろん、夢解釈は芸術とはまったく違う。 夢を報告するクライアントは、セラピストの創作芸術を聞きに来ているわけではない。 あくまで、その人が抱える問題解決の過程で行われるものであって、その解釈がその人の問題解決と絡み合って行くのだ。

私は、知的財産法の制度論も、似たところがあると思う。 人の思いはメタファに溢れている。 「その思想はあなたの“もの”だ。」と我々が感じるとき、それはひとつのメタファだろう。 そして知的財産法の在り方を考える者がやるべきことは、そのメタファを創造的・構成的に解釈することだ。 メタファの背後にあるものを考えつつ、しかもメタファに囚われることなく、制度論という形に創り上げていくのだ。

このように、知的創作に関して人々が表出するメタファは、それをして得心せしむるために利用すべきものというよりは、知的財産法のあるべき姿を考えるための鍵を内包している貴重なヒントとでも言うべきものであり、知的財産法の根本を支えるものとさえ言えるものだと思う。 少なくとも、そう考えることが、人々が表出するメタファをもっとも意義深いものにする「創造的解釈」なのだと思う。

そしてある法制度が「人々の思い」に支えられて存続しているとき、その法制度は、もはや人々の思いと独立に存在しているのではない。 つまりその法制度の「趣旨」や「目的」さえ、人々から表出されるメタファの根源(いわば法が見る夢)とのインテグリティをもって「解釈」されるものとなるのだと思う。

それは長い時を経て生き続ける「生き物」の「存在理由」や「目的」が、「解釈」としてしか論じられないとの同じなのである。

*    *    *

ということで、田村先生もぜひ、自身の中から湧き上がるメタファを形にする制度論を論じてくれたらいいなと思う。

功利主義を批判するドゥウォーキンを取り上げた上で、数十年にわたって「インテグリティとしての法という方法論に従って」(37ページ/481ページ)格闘してきたと語る田村先生の言葉は、田村先生が単なる「インセンティブ論者」ではなかったことをはっきりと物語るものだろう。 そしてその後で出された論文(パテント2019 Vol.72, No.9)で先生は、知的財産権はインセンティブ論だけでなく自然権論をも組み合わせた「二元論」により正当化されるのだと明言し、その参照としてこの講演録を引用している。 「二元論」という言葉は、昨年11月に行われた日本弁理士会の公開フォーラムでも先生の口から語られていた。

こうした展開を見ると、この講演録は、人間のより根本的なところに知的財産権の正当化根拠を求めようとする田村先生の立場を明らかにした一つの「道標」といえるだろう。 しかし田村先生の語る「二元論」は、知的財産権の根本にだけ存在しているのだろうか? むしろそれは、田村先生の心の中に、「インセンティブ論」だけでなく「正義論(自然権論)」が存在していたことを示唆しているのであり、それを期待するのだ。


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2019年10月17日

「先使用権」の正当化根拠と「進歩性」要件を「依拠性の擬制」で考える(前田健『先使用権の成立要件』特許研究 PATENT STUDIES No.68 (2019))


進歩性の要件について書いた前回の投稿を公開した後で、「特許研究 第68号」に掲載されている前田健先生(神戸大准教授)の論文『先使用権の成立要件 ― 制度趣旨からの考察 ―』を読んだのだが、その内容に驚いてしまった。 私の前回の投稿と密接に関連する内容がテーマとなっていたからだ。

私が前回書いたのは「進歩性」(特許法29条2項)の問題であるのに対し、今回の前田先生の論文は「先使用権」(特許法79条)の問題であるから、この二つは一見関係がないように見えるが、これらは特許制度の制度趣旨において関わり合っていると私は捉えている。 それが前回の私の投稿で触れた「依拠性の擬制」という観点だ。 前回の投稿で私は、進歩性に求められるべき「第1要件」について以下のように記載した。

[2019年10月9日の投稿より]
「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、・・・。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

つまり私の特許制度観は、発明者が行った発明がフリーライド(ただ乗り)されてしまうのを法制度として防ぐことによって、発明者が安心して発明を行い、それを公開できるようにし、また発明が秘匿されずに公開されることにより、それに触れた人々がその発明を(適法に)利用したり、さらなる発明を行ったりできるようにすることで、発明の奨励と産業の発展を図ろうとする制度だというものだ。 したがって、フリーライドとは言えないようなものに特許権が行使されるような事態にはなるべくしたくないのだが、例えばある特許発明に該当する発明を実施している被疑侵害者がいるとして、その人が、その特許発明を見てパクった(すなわちフリーライドした)のか、それとも特許発明など知らずに独自に開発した(すなわちフリーライドしていない)のかをいちいち判断するのは困難だから、そうした判断を不要とするために、フリーライドしているとみなせる範囲にだけ特許を付与することにして、その範囲の発明を実施している人は、本当にフリーライドしているかを問うことなく、フリーライドしているとみなして権利行使することを許すことにすればよいだろうと考えるわけだ。 「フリーライドしているとみなせる範囲」とはどういう範囲なのかというと、「その特許発明を見なければ、およそ独自に発明することは困難だろうとみなせる範囲」だ。 したがって、そういう「範囲」がとれないような発明、すなわち、「お前の発明など、お前がいなくても、誰かが近々発明するだろう。」というような発明は、特許をあげてはいけないということになる。 そういうものを特許にしてしまうと、その後で同じ発明を独自に発明した人が続出して、そういう人たちが迷惑するし、「特許制度って邪魔なだけの制度だ」という気分が広まってしまうことにもなる。 したがって、 フリーライドだとみなせる範囲にだけ特許を付与すること、すなわち、「依拠性を擬制できる範囲」にだけ特許を付与することは、特許制度を円滑かつ安定に運用していくために望まれるのでないか、と私は考えているのだ。

例えば、上の文中で言及されている Sotoku 6号(2016)の脚注111で私は、以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
 特許権が権利行使できる範囲に「依拠性」が擬制できることは、出願時点にだけ求められることではないだろう。 つまり、権利行使できる範囲に含まれる発明は、もしその特許発明がなければ、その特許権の存続期間中のそれなりの期間にわたって、独立してなされることはないことが求められるのではないか。 放っておいてもすぐに誰かが発明するようなものについて、いち早く出願した者に20年の独占期間を与えるのは「依拠性の擬制」の観点からは違和感がある。 そうすると、ある技術分野において“出願競争が起きている”という状況は、一見すると華やかで、特許制度がうまく活用されているように見えるとしても、結局は一番乗りを果たした者に、その発明に何ら依拠性がない後行者の実施をも排他できる権利を与えるという状況が発生していることを意味しているのだから、特許制度が失敗していることを示唆しているのかも知れない(その典型例が上述のヒト遺伝子の物質特許だろう)。・・・。
 ところで特許審査における進歩性の判断にあたっては、一般に「顕著な効果」(あるいは「有利な効果」、「予期せぬ効果」、「驚くべき効果」)が参酌され、たとえ先行技術から一見容易に発明することができるものであっても、「顕著な効果」があった場合は進歩性があるものとして特許が認められることがある(平成27年9月改訂審査基準第III部第2章第2節3.2.1)(宮崎賢司, 知財立国の発展へ 竹田稔先生傘寿記念, 中山 信弘ほか編 (2013) 715-737も参照)。 しかし、「依拠性が擬制できること」を重視する限りは、上述の通り、放っておいてもじきに誰かが発明し得るようなもの(時間経過と共にじきに依拠性が擬制できなくなるもの)に特許を与える必要はないということになるから、「顕著な効果」があったからといって特別に特許にする必要はないということになる。 この問題については、最近でも例えば田村が考察しており、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるような事例について、「・・・発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 なお田村は「フリー・ライドの禁止」を理論構築の出発点としているから(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ)、「依拠性の擬制」に基づく本稿の考え方が田村の結論に近づくのは当然かも知れない。

ところが、「依拠性」が犠牲できないのが「先使用」、すなわち、特許出願した者ではない者が、同じ発明を独自に行ったことが明らかな場面だ。 「依拠性」が擬制できる範囲に特許権を及ぼそうと考える限り、依拠性が擬制できないことが明らかな「先使用」に対しては、特許権が行使されないようにする何らかの手当てが必要だろう。 そのために設けられているのが特許法79条だと捉える。 Sotoku 6号の脚注114で私は、「先使用権」がなぜ正当化できるのかについて、「依拠性の擬制」の観点から以下のように記載した。

Sotoku 6号(2016)の脚注114]
脚注114
 「先使用権」について考えると、現在の日本の制度では、先使用者は「出願前」に「実施や実施の準備」を開始していることが、先使用権が認められる条件となっている(特許法79条)。 実施や実施の準備に入っていたのが「出願前」なのであれば、その実施は、出願に係る発明に依拠していないことが客観的に示唆されるから、「依拠性の擬制」の観点からも、権利行使できないことにするのは納得しやすい。 但し、「出願前」でなくても、出願に係る発明の「公開前」に実施や実施の準備を開始したのであれば、その発明に依拠していないことに変わりはないから、「公開前」に実施等を開始した場合も先使用権を認める方がよいことになる(・・・)。 しかし「公開」とは特許出願の公開公報の発行に限られるものではなく、それより前であっても出願人が出願後に様々な手段や程度で公開しうるものであるから、それらを考慮しつつ先使用権を認めるか否かを決定することにすると、制度は今より複雑で予測性の低いものになってしまうかも知れない。 また、「実施や実施の準備」を条件とすることについても、たとえ「実施や実施の準備」を開始していなくても、第三者が発明を完成させたのが出願より前であることが明らかであれば、その発明は出願に係る発明に依拠していないことになるから、その発明についてその第三者に無償の実施権のようなものを認めてもよいと考えることもできる(・・・)。 しかしそうすると、第三者の発明について、発明した時期や、一体何を発明したのかを見極めることが必要になってしまう。 制度の運用を面倒なものとしないために、「出願」で時期を区切ったり、「実施や実施の準備」という外からでも検証しやすい行為があったことを条件とする現在の先使用権の制度は、「依拠性の擬制」の観点からも最低限の機能は果たしていると言えるだろう(もっと先使用権が認められる範囲を拡大する余地はあるだろうが)。 なお出願後に実施形態を変更すると先使用権が認められなくなり得るのは、出願後はその出願に係る発明が公開されているかも知れず、変更後の実施形態が出願に係る発明に依拠していないことが外形的に明らかではなくなるからだと理解してみることができる(逆に言えば、単なる時代の変化に伴う実施形態の変更など、出願に係る発明に依拠していないことが明らかな変更は認めてもよいと考えることはできる)。
 先使用権の趣旨に関してはこれまで、「公平」、「発明や実施のインセンティブ」、「占有状態の保護」、「経済的損失の防止」などの観点で説明がなされている(麻生典, 慶應法学第29号(2014)233-269の248ページ以降に紹介されている学説等を参照)。 これらの中から本稿に近い見解を探すと、例えば牧野は、「・・・、先使用権制度を支える根拠は、最先の出願に先立って、これとは別個に独自の精神的創作としての発明を完成したことにあると解すべきであろう。」とした上で、「・・・、先使用権制度の根拠の中心に、前示のように最先の出願に先立つ発明の完成を置くとすれば、事業又は事業の準備の程度の判断には、・・・、発明の完成の客観的外部的表示としての意義が重視されることになるであろう。」(下線追加)(牧野利秋, 知的財産権訴訟寸考 (2002) 東京布井出版の191-192ページ)と論じている。 出願前に実施や実施の準備を開始していたことを、出願に係る発明とは独立に発明を完成させたことの外部的表示だと捉えている点で、これを出願に係る発明に対する「依拠性」がないことの外形的な表示だと捉える本稿の考え方と重なるものがある。 また森林は、「先使用権制度を設けた趣旨は、出願当時、特許出願に係る発明に由来せずこれと別個に、同一性を有する発明について、すでにその実施の事業をなしまたはその実施の事業の準備ができた程度にまで至っている者については、その実施または実施の準備は特許出願に係る発明に由来せずこれから何らの寄与もうけていないことが客観的に明らかであり、・・・」(下線追加)(森林稔, 企業法研究 (1969) 175輯, 12-20の13ページ)と論じており、特許発明の「寄与」(すなわち使用者側から見ると「依拠性」)がないことの外形的な表示に着目している点で、本稿の考え方と通じるものがある。
 ・・・。
 ともかく、特許制度には「依拠性の擬制」の観点で再考できそうな問題が広範囲にわたって存在し、発明の保護範囲や権利行使の許否を考えるにあたって1つの物差しを与えてくれるように思われる。 本稿の本文や上の脚注で述べたことからすると、PBPクレームの解釈問題も、先使用権の問題も、機能クレームや均等論の問題も、広すぎる遺伝子の物質特許が引き起こすアンチ・コモンズの問題も、パイオニア発明に開示要件を超えた広い権利範囲を与えてよいのかという問題も、すべて「依拠性」の判断を不要とした絶対的独占権の制度が宿命として持つ歪みから生じていると言えそうである。 つまり、依拠性をうまく擬制することが、絶対的独占権制度の納得感を高めるためには求められると思われるのである。

*   *   *

さて、前置きがかなり長くなったけれど、以上のようなことを私は考えているわけだ。 上の文章を書くにあたって私は、先使用権に関する過去の文献をざっと当たってみたけれど、「依拠性が擬制できない」ということを先使用権の正当化根拠として前面に打ち出している文献はあまり見当たらず、上記のように、牧野先生や森林先生の比較的古い論文が見つかっただけだった。ところが、今回の前田先生の論文では次のように論じられているのだ。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 21ページ]
(1)はじめに
 特許法においては,依拠性要件を侵害成立に要求せず,独自創作をした発明者であっても権利行使を受けることが当然とされている。一方,先使用権の場面では,その原則が修正され,特許発明に依拠しない発明の実施に対する権利行使が禁止される 18)。この意義を理解するには,そもそもなぜ特許法では依拠性が不要とされているかを考察する必要がある。

(2)「模倣」でないものに対する権利行使は正当化できるか
ア 権利行使が正当化できる場合
 多くの知的財産法においては,原則としては,他者の成果にフリーライドしたことが違法性を基礎づけている。

[同 22ページ]
・・・。
 この観点からは,・・・,知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。 この理解の下では,依拠性を求めない特許制度について,なぜ依拠性を要求しないのかが別途正当化される必要があることになる。

[同]
 特許法において独立した発明への権利行使が正当化できる理由として,まず @ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。

[同]
 イ 権利行使が正当化できない場合

 以上,本稿の理解では,模倣でない独立した創作への権利行使が正当化されるのは,@ 特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できること,A ・・・ という条件が成り立つからである。 ところが,先使用権が成立するような場面では,この条件が満たされない。・・・。
(「A」については後で触れるので上の引用では省略した。)

このように前田先生は、「知的財産権は,その成果に依拠してこれを利用している限りで及べば十分であって,独立の創作に対して権利行使させることは正当化できない。」と論じ、それなのになぜ特許権の行使にあたって「依拠性」が要件となっていないのかについて、「特許発明が公開されたことで成果への依拠が擬制できる」からだと説明している。 そして「先使用権」の正当化根拠の重要な柱の一つは、特許発明への依拠性が擬制できないことだと論じているのだ。

前田先生がこのように考えているのだとしたら、話は早いのではないか? つまり、私が今年の4月くらいから延々と書いてきたこと、すなわち「依拠性が擬制できないような発明」、具体的には、その特許発明が公開されなくても当業者の誰かが同じ発明に行き着くのは時間の問題であったと目される発明は、たとえ予想外の「顕著な効果」を奏するとしても特許を与えてはならないという結論に行き着かなければならないのではないか。

特許発明には一般に「依拠性」が擬制できる理由として前田先生は、上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にあることが指摘できる。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」と指摘している。 私も、依拠性が擬制できる状態だと判断するために、「その特許明細書を読んだ」ことが要件となるわけではないことには同意できる。 それについては私も Sotoku 6号 の脚注120で、「・・・、特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない。」と書いているとおり、いったん発明が公開されれば、それを基に他の発明がなされたり、それが利用されたりすることで、知らず知らずのうちに、その発明は広がって行くものなのだろうから、ことさらその発明を利用しているつもりはなくても利用しているということになるだろう。 しかしながら、どんな発明でも、その発明を公開しさえすれば依拠性が擬制できる状態になると考えるとすれば、かなり乱暴な推定だ。 例えばその発明が、ことさら公開されなくても皆が到達するのは間近だったような場合は、依拠性が合理的に擬制できる期間は、せいぜい皆がその発明に到達すると推定されるまでの間であって、特許存続期間の20年にわたってそのような擬制が合理的に成り立つわけではない。 そうすると、そのような発明について特許を20年も存続させることは、「依拠性の擬制」の観点からは正当化できないというべきではないか? もっとも、特許明細書が公開され、その技術分野の全員がその知識を得たと仮定するのなら、知ってしまった以上、同じ発明を「独自に」発明するということは永久に起こらなくなるのではあるが、だからといって、20年にわたって独占権を行使することを正当化できることにはならないと私は思う。

ということで、特許制度において「依拠性」が要件になっていないことの正当化根拠を「依拠性が擬制ができる」からだと捉えるのなら、依拠性が擬制できる期間が短いと評されるような発明、すなわち、「放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明」(私の言う「進歩性 第1要件」を満たさない発明)には、特許を与えてはならないと考える必要があるだろう。

*   *   *

「重複投資の防止」は「依拠性不要」の主要な正当化根拠となるか

上の引用ではあえて省略したのだが、今回の前田論文では、特許権の権利行使にあたって「依拠性」が要件とされないことの正当化根拠として、「依拠性が擬制できる」ことと並んで、「重複投資の防止」が挙げられている。 具体的には以下のように論じられている。

[前田健,特許研究 No.68 (2019) 19-34 の 22ページ]
 より積極的に依拠性不要を正当化する理由として,A 重複した発明への投資を抑制するということが考えられる。もし,独立発明であれば権利行使されないとしたら,特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。過去の発明の成果を参照させつつ,技術を迅速に進歩させることが特許法の目的だとすると,そのような行動は決して望ましくない。このような重複投資の回避も依拠性不要の根拠となると考えられる。

このように前田論文では、依拠性不要の正当化根拠として、「@ 依拠性が擬制できること」だけでなく、「A 重複投資の防止効果」という理由も重視しており、前田論文においては常にこの2つがセットで登場する。

しかし、A の理由は私にはあまりピンと来ない 。 A の理由は、無理やり「功利主義」的な説明を試みたもののように見えてしまう。

前田先生は、上記の @ の理由、すなわち依拠性が擬制できるということは肯定しているわけだ。 具体的には上に引用したとおり、「@ 特許発明は内容が公開されており誰でも利用可能な状態にある ・・・ 。 明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成しているのである。 その後に生まれた発明は,たとえ直接明細書を参照していなかったとしても,技術水準にある成果を広い意味では参照しているともいえ,特許発明の成果に依拠して生み出されたと考えることができる。」 と論じている。 それを前提として考える場合、前田先生が懸念している「特許権行使を避けるため,過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資するという行動が増えることが予想される。」というのはどういう状態なのだろうか。 その特許発明はすでに「人類の共有財産として技術水準を構成している」のであって、たとえその明細書を読んでいなくても、技術水準の上昇にキャッチアップしている限りは、「技術水準にある成果を広い意味では参照している」とみなされることになるのだろうから、その明細書を読んでいるか否かにかかわらず依拠性は肯定されるはずだ。 そういう状況で、なお「過去の発明を参照せずに同じような発明へ投資する」ことなどできるのだろうか。 山にでも籠って、外界からの接触を絶って研究しないと無理なのではないのか。 そういう変わった人が増えることを想定して依拠性を不要とする制度を作ることが、制度構築にあたってそれほど強い要請なのかは、やや疑問に感じてしまう。

ただし、「依拠性」を要件とすると、「私はその明細書など見たこともないし、依拠していない!」などと主張する被疑侵害者が出現して、そういう人たちは、技術水準を共有していて、間接的にはその特許発明に依拠していると言える場合であっても、訴訟になったりして社会的に混乱が生じるかも知れないとは思う。 だから、それを未然に防ぐために「依拠性」を不要とする制度とすることは重要なのだ、と説明するのならまだ分かるのだけれど、それは「重複投資の防止」という効果を達成するためというよりは、「社会的混乱」を回避するためという方がぴったりくるような気がする。

それに、最も重要なのは、「そもそも依拠性を判断することは困難だ」ということだと思う。 前田先生が「明細書の内容はいわば人類の共有財産として技術水準を構成している」と指摘しているとおり、「特許発明が一旦公開されると、その発明の技術思想は陰に陽に他の発明に取り込まれて行くものであるから、『特許発明がなくても開発され得るものだったのか否か』を客観的に見極めることはなかなか難しい作業かも知れない」(Sotoku 6号の脚注120)。 「そこで、第三者の行為の真相を確かめることなく判断ができるようにするために、『第三者の行為は、その発明を流用する意図をもって行ったものだろう』とみなしてもよいような画一的な条件を設定し、その条件が満たされれば、第三者の行為の真相を明らかにすることなく権利を行使できるようにして、制度を円滑に運用できるようにすることが望まれるかも知れない。」(Sotoku 6号の33ページ右欄)。 そうした方策として採られているのが、現在の特許制度に内包されている「依拠性の擬制」による依拠性要件の不要化なのだと捉えるのが私の考え方だ。 それにより、上で述べた「社会的混乱」の回避も期待することができる。

以上のとおり私は、特許制度が依拠性不要になっていることの最も大きな理由は、依拠性を要件としたのではそもそも制度として運用が困難だという点にあるような気がしている。 ただし、重複投資の防止効果はないわけではないだろうし、「防衛出願の防止」よりは、高い効果が見込めそうな気はする。

*   *   *

さて、ついでなので、今回の前田論文の中で言及されている他の先生方の論文の中で、今回の話題と関連する部分について見てみたい。

前田論文の21ページ左欄には、田村先生の論文(田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158)と、𠮷田先生の論文(𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210)について言及されている。 このうち、田村先生は以下のように論じている。

[田村善之, 知的財産法政策学研究53号 (2019) 137-158 の脚注14]
14 ・・・、そもそもの前提として、特許権侵害が成立するためには侵害者が特許発明に依拠したことは必要とされていないことが出発点となる。依拠が不要とされていることは、先使用権の制度の趣旨の論理的な前提となるので、ここでまとめて説明しておこう。
 独自発明者といえども、特許法79条の先使用権の要件を満たさない限り特許権侵害の責を免れえない。 この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。 ただし、この公示制度により第三者の不測の不利益が完全に防止されるわけではない。 第三者は、特許権が登録された暁には、特許権者からの差止請求に服さなければならないからである。 特許法が規律する技術の世界は効率性の世界であり、早晩、同じような発明をなす者が出現する可能性が小さくない。 特許権の内容を空虚なものとしないためには、独自発明者に対しても権利を行使しうるように制度を設計する必要があり、出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである (田村・前掲注13 (第 5 版) 439頁)。

上の文章はちょっと分かりにくいが、先使用権が認められるために、なぜ「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないのかを説明しているのだと私は理解した。 すなわち、特許法は先使用権を認めるための条件として、「出願前」に実施や実施の準備をしてなければならないという要件を課しているのだが、「この帰結を正当化するために、特許法は出願後1年6カ月を経過した場合に出願を公開する制度を設けるとともに、登録を権利の発生要件として、権利の存在を公示することにしている。」と田村先生は論じ、「だったら『出願公開前』に実施や実施の準備をしていれば先使用権は認められるべきで、『出願前』にする必要はないじゃないか!」という反論に対しては、出願が公開されるまで待っていたのでは「早晩、同じような発明をなす者が出願する可能性が小さくない」から、「特許権の内容を空虚なものとしないため」に、「出願公開まで待つことはできない、と法は判断したのである」と田村先生は論じているのだろう。

しかし、この説明もどうなのであろうか・・・。 田村先生は昔から、フリーライドを防ぐことが特許制度の目的だとおっしゃっているはずだ(知的財産法政策学研究, Vol.20 (2008) 1-36の1ページ;同 Vol.51 (2018) 1-46 の40ページ)。 それなのに、出願から1年半後に公開されるまで待っていたのでは、特許権の内容が空虚なものになるほど独立発明者が出現するような発明にも特許権を与えてよいと思っているのだろうか? 出願から1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明は、たとえ特許存続期間中に、その特許発明を実施した者がいたとしても、特許発明を「フリーライドしている」とは言えないと思うのだか・・・。 もし田村先生が、特許法の法目的は「フリーライドの防止」だと思うのであれば、フリーライドしていない者には特許権が行使されないような制度を目指さなくてはならないはずで、1年半を待たずして独立発明者が出現するような発明に特許を付与してはならないという結論に至らなくてはならないのではないか? そうだとすれば、先使用権に関して上のような説明をするのはおかしいのではないかと思ってしまう。

*   *   *

𠮷田先生の論文に対しても、基本的に田村論文に対するのと同じことが言える。 具体的には、𠮷田先生は以下のように論じている。

[𠮷田広志, 新・判例解説 Watch13号 (2013) 207-210 の脚注4]
 実際のところ、出願公開までは通常18ヶ月少々を要していることを考えると、公開時基準では多くの特許権が先使用を抗弁されてしまうだろう。 技術の進歩が著しく速い先端技術では、ライバルのほとんどが先使用者となってしまいかねず、特許権が骨抜きになる危険性がある。 特許法の趣旨、および現実的な観点からも、出願時基準は落とし所としては穏当であろう。

同じ内容は、𠮷田先生の別の論文(パテント Vol. 56, No. 6 (2003) 61-77)の脚注(3)にも記載されている。

しかし、わずか1年半でライバルのほとんどが独自に発明してしまうようなものにも特許が付与されるというのが𠮷田先生の特許制度に対するイメージなのだろうか。 だとすればまさに、「皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できる。」(8月30日の投稿参照)というのが特許制度だということになってしまうが、私はそれでいいのかと思ってしまう。

私は、先使用権の発生要件として、「出願公開前」ではなく「出願前」に実施や実施の準備をしていることを求めること自体は、まぁ許容できるかなと思っているけれど、その主要な正当化根拠が「1年半で他者に追いつかれてしまうから」というのはどうにも腑に落ちない。 𠮷田先生も田村先生も、最近の論文によれば、「パブリック・ドメイン・アプローチ」というものを重視しているはずだ。 「パブリック・ドメイン・アプローチ」の観点からして、1年半で追いつかれてしまうような発明に20年の独占権を与えることが妥当と言えるのかどうか、ぜひ論じてほしい。

*   *   *

とはいえ、上の引用で𠮷田先生が「技術の進歩が著しく速い先端技術では」と限定をつけているように、技術分野によってはそういうことも正当化する余地はあるのだろうと私も思っている。 具体的には、技術の進歩が著しく速く、今存在している技術は、数年のうちに陳腐化して誰も使わなくなってしまうような技術分野だ(そんな技術分野があるのかは知らないが。)。 Sotoku 6号で私は次のように書いた。

Sotoku 6号(2016)の脚注111]
脚注111
・・・ 発明の寿命が短く、特許を取得しても数年で誰も使わなくなってしまうような技術分野であれば、特許期間が長くても実際上弊害は起きないと言えるから、出願競争が起きている状態も許容できるということになるかも知れない。

数年で誰も使わなくなってしまうのなら、たとえ特許期間が20年間存続するとしても、数年以降は誰も使わないのだから、排他権があっても、事実上、誰も排他されず、もはや特許がなくなったのと同じ、すなわち、特許存続期間が数年になったのと同じ様相を呈する。 その場合は、依拠性が擬制できるのが数年しかないような発明に特許を与えても、特許権が機能するのは事実上数年なのだから大目に見てもいいだろうと言うことはできるのかも知れない。 しかし、そうしたことが当てはまるのは、「数年で誰も使わなくなる」という技術分野に限られるのであって、たとえそうした技術分野であっても、本来であれば特許存続期間を数年に設定した上で特許を与えるべきものだ。 それが当てはまらないような技術分野、例えば、20年どころか、延長制度を使って25年、そして用途特許などを利用してそれ以上の期間にわたって事実上の独占を図ろうとされることも多い技術分野においては、そうした考えは妥当しないというべきで、短い期間しか依拠性が擬制できない発明に、たやすく特許を与える合理性はないと考えるべきだろう。

*   *   *

ということで、「依拠性の擬制」ということを前面に打ち出した前田先生の画期的論文について、「進歩性」の要件に絡めて書いてみた。 前回の投稿で私は、前田先生について、「上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい」と書いたけれど、前田先生の今回の論文を読んで、その期待は私の中で高まってしまった。「アレルギー性眼疾患」事件という個別の発明がどうであるのかはともかく、少なくとも一般論としては、進歩性の考え方に関して前田先生が私と同じようなことを書いてくれるのを期待しよう。^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

「二次的考慮説」は生き残れるか(アレルギー性眼疾患事件 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日判決)


「アレルギー性眼疾患事件」最判(平成30(行ヒ)69 )における顕著な効果の位置付けに関して、9月16日にイノベンティアの飯島歩先生の評釈が公開された。 その中で飯島先生は、最判の判示事項について次のようにコメントされている。

[飯島歩,イノベンティア・リーガル・アップデート,2019/9/16 より](強調は私が入れた;以下同)
これらの判示事項は、進歩性判断において、顕著な効果を構成の容易想到性とは別個の要件に位置付け、明細書に記載された効果をもとに、引用発明を組み合わせるなどして導かれる発明を基礎として効果の予測可能性を判断する独立要件説に近い考え方を採用したものといえます。

そのように考える理由の一つとして飯島先生は、判決の拘束力との関係を示唆している。 具体的には次のとおり。

[同上]
本件においては、前訴の取消判決により、発明の構成が容易に想到可能なものであることについて、拘束力が生じていました。本判決は、そのような状況にあっても、なお、予測できない顕著な効果について審理を尽くさせるとの判断をしています。これは、構成の容易想到性について判断を示した取消判決の拘束力が顕著な効果の判断には及ばないことを前提としています

つまり「顕著な効果」についての審理は、「発明の構成」の容易想到性の判断からは何らかの形で独立しているのではないか、ということが示唆されるということだ。 ここで、「発明の構成」とは何かということが問題になりうるが、ここではとりあえず、「発明の構成」とは、「クレームの文言で特定される発明」をいい、クレームの文言から直接は把握できない「発明の効果」や「効果の程度」を考慮しないもの、とでも考えておこう。 但し、昨年6月22日の投稿でも書いたとおり、本件発明のクレームは「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、・・・」という用途的な表現が含まれていることに注意が必要だろう。 すなわち、本件発明は純粋な物のクレームではなく、「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途的表現がクレーム中に記載されているのだから、これらは「発明の構成」とみなされるべきものだ。 よって、「本件発明の構成は容易」だというからには、本件化合物をともかくも「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置する」という用途に用いることや、ともかくも「ヒト結膜肥満細胞を安定化」(具体的にはヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する)という用途に用いることは、容易であることは既に確定しているとみなされなければならないだろう。

さて、飯島先生の上記の解説のとおり本件は「発明の構成は容易想到」ということが前訴判決において確定して拘束力が生じている状況であるにもかかわらず、最判は、なお「顕著な効果」について審理を尽くせと判示したことになる。 よって、もし「顕著な効果」によって今後本件発明の進歩性が肯定されうるのだとすれば、「本件発明の構成は容易想到」であるにもかかわらず、なお「本件発明は進歩性がある」ということになるだろう。 そういうことが、果たして「二次的考慮説」と整合性があるのか、ということが問題になる。 もし整合性を取るのが難しいのであれば、今回の最判は、「二次的考慮説」の存続に重大な影響を与えることになるのかも知れない。

「二次的考慮説」について飯島先生は次のように解説している。

[同上]
・・・、顕著な効果を進歩性判断の基礎とするとの理解は、・・・特許法29条2項の条文から直接導くことができません。 そのため、これを進歩性判断の構造の中でどのように位置づけるかについて、種々の考え方があり、大きく分類すれば、主引用発明を出発点とする発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方(二次的考慮説)と、構成の容易想到性とは別の、独立した進歩性の判断要素とする考え方(独立要件説)に分かれます。

飯島先生が解説しているとおり、通説的な「二次的考慮説」とは、発明の効果を「発明の構成の容易想到性判断の中で考慮する一事情とする考え方」だ。 すなわち「二次的考慮説」によれば、「顕著な効果」は、あくまで「発明の構成」が容易想到であるか否かの判断を行うにあたって考慮される一事情に過ぎない。 したがって、もし「顕著な効果」によって進歩性が肯定される場合、「二次的考慮説」では、「顕著な効果を考慮した結果、その発明の構成は容易想到ではない」と結論することになるのだ。

そのように結論するために、「二次的考慮説」論者がどのように考えているかは、4月24日の投稿で取り上げた前田先生の論文にあらわれている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

ところが上述のとおり本件の場合は、「本件発明の構成は容易想到」であるということが、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)においてすでに確定しているわけだ。

この状況で、本件発明の顕著な効果を審理することは、「二次的考慮説」の立場で可能なのだろうか? 可能なのであれば、一体どのように審理するのだろうか。 これは結構興味深い問題ではないか。

なお中村合同の高石秀樹先生が9月26日に公開した今回の最判の解説でも、前訴判決が確定していることと「独立要件説」との関連について次のように論じられている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供 より]
本最高裁判決及び原判決が進歩性を判断した審決取消訴訟の判決の拘束力の範囲について ・・・ 何れの考え方に立脚したかについては諸説あり得るが、知財高裁(二次)において “動機付けあり、相違点は容易想到” という知財高裁(一次)判決が確定したという経緯であるにもかかわらず、「予測できない顕著な効果」の有無について判断したものであるから、このような経緯を前提とした結論であったとするならば、理論的・形式的には、・・・、進歩性判断における「予測できない顕著な効果」の位置付けについては “独立要件説” に親和的であったと評価できる。
(但し、上記の高石解説では、「もっとも、本最高裁判決及び原判決は、・・・ 何れの考え方に立脚するかという点を棚上げにしたものとも理解可能である。」とも論じられている。)

このように、飯島先生も高石先生も、今回の最判は「独立要件説」に近いと論じており、「二次的考慮説」には苦しい状況だ。 この状況で「二次的考慮説」が採りうる立場をいくつか考えてみる。

(1)「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える。

「二次的考慮説」が採りうる一つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考える立場だ。 なおこの考え方は、上で触れた9月26日の高石解説の「3(1)」の前半部分で紹介されている考え方と同じだ。

上記のとおり、通説的「二次的考慮説」において「発明の効果」は、あくまで「発明の構成」が容易か否かを判断するために考慮されるに過ぎない。 そして前訴判決では「本件発明の構成は容易」だと判示され、その判断は確定しているわけだ。 これを文字通りに捉えるのであれば、「本件発明の構成は容易」だということが確定している以上、「発明の効果」がどうであれ、「本件発明の構成は容易」ということは動かしようがないのだから、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えざるを得ないだろう。 こう考えると、この立場こそ、通説的「二次的考慮説」論者が採れる唯一の立場だとさえ思えてくる。

では、そもそも原審(平成29(行ケ)10003)ではなぜ「効果の程度」が判断されたのだろうか? これについては、次のように考えればよいだろう。

つまり、「本件発明の構成」が容易想到である以上、「効果の程度」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので進歩性は認められないことについて確認的に判断したのだと捉えるのだ。

そして最判(平成30(行ヒ)69)は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性の判断が変わりうることを示唆したわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審において「顕著な効果」が肯定されるとしても、進歩性がないという結論は変わらないということになる。 つまり最判は、「進歩性なし」という原審判決の結果にとっては意味のないことを判示したことになる。 見る人によっては、この(1)の立場は最判に肩透かしを食らわせるような立場に見えるかも知れない。

(2)「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考える(修正主義)。

「二次的考慮説」が採りうる二つ目の立場は、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考え直すという立場だ。

「効果の程度」を考慮しない場合には、「本件発明の構成」は容易想到であるが、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 発明が持つ予想外の効果は、発明を行い、それを実施して、結果を見てみなければ分からないものだが、その結果、「予想外の効果」がない場合は「本件発明の構成」は容易想到だと考え、「予想外の効果」があった場合は「本件発明の構成」は容易想到ではないと考えるのだ。 この考え方は、発明を行った結果を見てから、発明をすることの容易想到性(すなわち「発明の構成」の容易想到性)を決めるという、過去を書き換えるような考え方であることから、私は「修正主義」と呼んでいる(2019年04月24日の投稿を参照)。

そして、たとえ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」が容易想到だと判断され、それに拘束力が生じているとしても、「顕著な効果」を認定した上で「本件発明の構成」を容易想到ではないと判断することは、前訴判決の拘束力に違反しないと捉える。

「効果の程度」を考慮しない場合の「本件発明の構成」と、「顕著な効果」を認定した場合の「本件発明の構成」は、たとえ「発明の構成」は同じであっても違うのだと考える(そんなことが可能なのか?)。

この考え方は分かりにくいし、人によっては受け入れがたい考え方かも知れない。 容易であることが確定しているものを、容易ではないと言い直すことになるのだからね。 しかもこの考え方は、進歩性を認めるか否かという最終結論において、独立要件説と違いが生じるのかがよく分からない。 但し、「修正主義」であることを露呈させてはばからないという点については、次の(3)よりは潔いと言えるかも知れない(笑)。

(3)「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える。

「二次的考慮説」が採りうる三つ目の立場は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、それは「本件発明」の容易想到性とは別物だと捉える考え方だ。

「本件発明」は、あくまで発明の構成とその効果等が一体となったものであるので、「本件発明の構成」が容易想到であることは、「本件発明」が容易想到であることを意味するものではないと考える。 そして、「顕著な効果」がある場合は、「本件発明の構成」が容易想到であっても、「顕著な効果」と一体のものとして捉えた「本件発明」は容易想到ではないと判断することはできるのであり、効果の程度を一切考慮せずに結論を出した前訴判決(平成25年(行ケ)10058)の拘束力は及ばないと捉えるのだ。

ちなみに発明の容易想到性を判断するにあたって、「発明の構成」の容易想到性のみに着目するのではなく、「効果」をも考慮した「技術的思想」(構成及び効果)として発明を捉えて容易想到性を判断した知財高裁の裁判例があることについて、高石秀樹先生が2016年2月の投稿において論じている(「破袋機」事件;平成27年(行ケ)10035)。

また、9月26日の高石解説でも、「3(1)」の後半部分に次のように記載されている。

[高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 中村合同法律特許事務所 9月26日 法情報提供
もっとも、発明とは「技術的思想」であるから(特許法2条1項)、構成のみではなく、課題及びその解決原理も含むと理解されている。それ故、本件発明と主引用発明との課題が異なることを理由に副引例発明との組み合わせの動機付けが否定され、進歩性が認められた裁判例が多数存在する。

この考え方を押し進めると、「発明」は構成及び課題(+解決原理)であるところ、更に、課題と密接に関連する「効果」も「発明」に含まれ、容易想到性の判断対象となりうるのである。そう考えれば、構成自体が容易想到であるとしても、未だ「発明」が容易想到か否かは結論されておらず、「課題」や「効果」の容易想到性もなお問題となると考えられる。

しかしこの考え方は、実質的には上記の(2)と変わらないようにも思う。 上記の(2)の考え方は、「効果を考慮して発明の構成を捉えている」のに対し、(3)はそれを「技術的思想」と言い換えただけではないか? それに上記(2)と同様に、もし「顕著な効果」があれば「技術的思想として容易ではない」とみなすというのなら、それは事実上「独立要件説」と変わるところがないようにも思う。 なお高石先生は、上で示した2016年2月の解説投稿で「破袋機」事件判決の考え方が「二次的考慮説」(間接事実説)に親和的である旨を解説しているが、8月27日の私の投稿の最後にも書いたとおり、「独立要件説」を採っているようにみえる「シュープレス用ベルト事件」判決(平成24年(行ケ)10004)でさえ高石先生は「二次的考慮説」に親和性がある旨を解説している(前田先生も同様)。 しかしそうなると、「二次的考慮説」は「独立要件説」と何が違うのか本当に分からなくなる。

「シュープレス用ベルト事件」判決がなぜ「二次的考慮説」に親和的であるのかについて、9月26日の高石解説は、裁判所が「甲第2号証に接した当業者が,・・・ 動機付けられることがあるとしても,本件発明1が,・・・ ,当業者といえども予測することができない顕著な効果を奏するものであることに照らせば,本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず,進歩性があると認められる ・・・ 」と判示していることを指摘し、『同判決は、「動機付けられることがあるとしても ・・・」と述べながら、結論としては、「本件発明1は,当業者が容易に想到するものであるとはいえず」と結論付けていることから、“従属要件説”(=二次的考慮説・・・ )に立つと理解できる。』と論じている。 しかし、判決文の最後のシメのところに「当業者が容易に想到するものであるとはいえず」というフレーズをポコッと入れたら、それだけで「二次的考慮説」に分類されるというのが高石先生の分類分けなのだろうか? もしそうだとしたら、8月27日の投稿の最後でも書いた通り、そういう「二次的考慮説」は、やっぱり「独立要件説」と変わるところはないよね、ということになると思う。

もし「二次的考慮説」論者が(2)(3)のような考え方を採るのなら、「独立要件説」と何が違うのかが明らかにされなければならないだろう。 もし「二次的考慮説」と「独立要件説」とで、進歩性の有無に関する結論に差が生じないのなら、そんな「二次的考慮説」など要らない、ということにもなりそうだ。

なお、9月26日の高石解説によれば、「二次的考慮説」論者であるはずの神戸大の前田健先生が、本事件において、上告人(特許権者)側の鑑定意見書を書いておられるのだそうだ。 私は、2019年4月24日の投稿「『修正主義』としての『発明の効果』の意義論」を書いているときから、前田先生は “隠れ独立要件説” 的だと思っていたから別に驚きはないが、ご自身が「二次的考慮説」とどのように整合性をとられているのかが気になる。 前田先生がいずれ出すであろう論文を待ちたいが、意見書を書いたことによって、今後の論考において心理的な不自由さが生じないか少し心配だ。 学者は当然そういうことから自由であるべきだから、上告人がびっくりするような論文が出ることを期待したい(笑)。

*   *   *

さて、他人の説を取り上げるだけでは何なので、私の進歩性の考え方を採る場合に今回の事件をどう捉えられるのかについても考えてみたい。 上で取り上げた「二次的考慮説」と同様、私の考え方でも苦しいことに変わりはないが、無理やり考えてみよう。

私の考え方とは、2019年8月30日の投稿や前回の投稿でも書いたとおりで、進歩性を2つの要件で判断する。 1つ目の要件(進歩性の第1要件)は、「放っておいても近々誰かが発明するようなものか?、あるいは発明まで一本道であったか?」を問うもので、「予想外の発明の効果」によって判断が左右されない要件だ。 そして、もし答えが Yes である場合は進歩性は否定される。 2つ目の要件(進歩性の第2要件)は、「“発明の効果” 等を考慮して、ありきたりな発明のたぐいだと評されるか?」を問う「意味づけ要件」だ。 これは「予想外の発明の効果」によって判断が左右されうる要件だ。 そして、もし「ありきたりな発明のたぐいだと評される」のであれば、やはり進歩性は否定される(下図)。

[あるべき進歩性の判断手順]
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進歩性を二段階で判断するという点では、上記の考え方は「独立要件説」と似たところがあると言えるのかも知れない。 しかし「独立要件説」は、「発明の構成が容易ではないこと」と「顕著な効果」という2つの要件のどちらか1つでもを満たせば進歩性が肯定されるのに対し、私の場合は、上記の「第1要件」と「第2要件」を両方とも満たさなければ進歩性は認められないという点で、独立要件説とは異なっている。

ところで前訴判決(平成25年(行ケ)10058) は、「効果の程度」を考慮しない場合の本件発明(すなわち「本件発明の構成」)は容易だと判断した。 具体的には、本件発明の化合物が、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(ヒト結膜肥満細胞安定化作用)を有することを確認し、その作用を発揮させるための用途に用いることは容易想到だと判断した。 この前訴判決を私の考え方で捉える場合、判決が行った「容易想到」という判断は、私の言うところの第1要件(予想外の効果に依存しない要件)の判断なのか、それとも、第2要件(予想外の効果に依存する要件)の判断なのか、ということが問題となる。 つまり前訴判決は、「放っておいても誰かが本件化合物にはヒスタミン遊離抑制効果が存在すること(すなわち本件発明の構成)を発見することは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だという趣旨で判断したのだろうか、それとも、「本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在するというだけでは、でたらめ・ありきたりの域を出ないと評されるから容易」(進歩性第2要件)だという趣旨で判断したのだろうか。 このように、前訴判決の判断が「第1要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈と、「第2要件」の意味で「容易」だと判断したという解釈が可能な場合、どちらの解釈を採るかによって、以下のように捉え方は変わってくることになる。

(A)前訴判決が「進歩性第1要件」を判断したと捉える場合

前訴判決は、「放っておいても本件化合物にヒスタミン遊離抑制効果が存在することの発見(すなわち本件発明の構成)に誰かがたどり着くことは時間の問題であった、あるいは一本道であったから容易」(進歩性第1要件)だと判断したのだと捉える場合は、上記(1)とほぼ同じこととなる。 すなわち、放っておいても誰かが本件発明の構成に到達することは容易だということが前訴判決において確定している以上、「顕著な効果」があっても進歩性はないと考えるほかない。

第1要件を満たさない以上、「顕著な効果」を考慮するまでもなく進歩性はないのではあるが、原審(平成29(行ケ)10003)では、「効果の程度」を考慮したとしても「顕著な効果」とは言えないので、第2要件の観点からも進歩性は認められないということについて確認的に判断したのだと捉える。

そして最判は、原審が確認的に行った判断の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めうると言ったわけではないと捉える。

したがって、たとえ差戻審で「顕著な効果」を肯定したとしても、進歩性がないという結論は変わらない。

(B)前訴判決が「進歩性第2要件」(意味づけ要件)を判断したと捉える場合

上で説明したとおり、私の考え方においては、第1要件と第2要件の両方が満たされない限り、進歩性は認められない。 したがって、進歩性の判断順序についても、必ず第1要件から判断しなければならないというものではなく、もし第2要件が否定されるのであれば、第2要件だけを判断して進歩性を否定してもよいわけだ。 そして、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)はそのような判断だったと捉えるのだ。

この場合、前訴判決は「効果の程度」を考慮しない本件発明は「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるから容易だと判断したのだと捉える。 したがって、「顕著な効果」があった場合になお「でたらめ・ありきたり」のたぐいだと評されるかについては前訴判決は判断していないのであり、その場合の判断には拘束力は及ばない。また、前訴判決は「第1要件」についても判断はしていないので、それに対しても拘束力は及ばないと捉える。

したがって、審理しうる事項に関して、原審(平成29(行ケ)10003)は広いフリーハンドを持っていた。 そして原審では、とりあえず「顕著な効果」を否定し、「第2要件」によって進歩性を否定したと捉える。

そして最判は、原審が行った「顕著な効果」の判断手法に関して文句を言っただけで、別に「顕著な効果」があれば本件の進歩性を認めろと言ったわけではないと捉える。

差戻審では、「顕著な効果の有無」を再審理して、再び「顕著な効果なし」で「第2要件」により進歩性を否定することもできるし、「第1要件」を判断して進歩性を否定することもできる(とはいえ最判は顕著な効果について審理を尽くさせるため、と説示しているから、「第1要件」で進歩性を否定する場合であっても、「第2要件」を判断することは求められるだろうが。)。 もちろん、「第1要件」も「第2要件」も肯定して進歩性を肯定することもできる。

ということで、昨年の6月22日の投稿で私は、『一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思う』と気楽に書いたけれど、それは「顕著な効果」を考慮するか否かで進歩性の有無についての結論が変わりうる以上、それを審理することは「蒸し返し」ではないし、前訴判決ではあえてその部分は避けて審理されていたように見えたからだ。 しかし今回よく考えてみて、「独立要件説」を採るのならともかく、私の考え方で前訴判決(平成25年(行ケ)10058)との整合性を取ろうと考えると、上記のように結構苦しいという気が、今はしている。 それでも、上記のような考え方が採りえないとまでは言えないと思うし、特に(B)の考え方は原審や差戻審に対して広い自由度を与えられる考え方でもあるから、とりあえず上記の(B)の捉え方を推しておこうかな、と思っている。

とはいえ、そもそも私の考え方は誰も採用していないし、上で書いたいずれの捉え方も、判決を行った裁判官の人たちがそう考えていたはずもなく、あくまで判決の「解釈」(創造的解釈(笑))に過ぎないのではあるが・・・。

*   *   *

「第1要件」について

私のいう「第1要件」は「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったか」を問うものであるが、「時間の問題であったか」というのは、いわば「時間的要件」だと言えるし、「一本道であったか」というのは、いわば「空間的必達性」みたいなものだ。 これらはつまるところ、「本件発明に至るのに、本件発明は必要なのか?」 を問う要件であり、いわば「自然到達性」、もっと正確に言えば「本件発明非依存的到達性」を問うものだ。 もっとズバリと言ってしまえば「依拠性要件」(あるいは、依拠性とまでは言えなくても、依拠性に比例する要件)だ。 例えば、本件発明が特許されたとして、その特許存続期間中に、第三者が本件発明に該当する発明を実施したとする。 その場合に特許法は、その第三者に対して特許権を行使することを許し、その際に、著作権法とは違ってその第三者の実施が本件発明に依拠していることをいちいち証明する必要はないが、なぜ証明する必要がないのかと言えば、それは「進歩性要件」によって依拠性が擬制的に担保されているからなのだというのが私の考え方だ(Sotoku 6号の脚注111参照)。 だから、ある発明が特許された場合に、「同じ発明を当業者が独自に発明して実施するなどということは、そうそう起こらないだろう」(=「その発明を第三者が実施したということは、本件発明に依拠しているのだろう」)とみなせる状態が、特許存続期間の丸々20年かはともかく、少なくともある程度の期間はおおむね担保されることを、「進歩性要件」が担っているのだと私は考えている(39条や79条は例外処理みたいなもの、ということ)。

逆に言えば、「第1要件」とはそういう要件なのだから、到達することが技術的手法として困難(険しい道)である必要はない。 たとえ技術的手法としての困難性はなくても、本件発明に至るには膨大な数の選択肢(つまり平坦ではあっても、たくさんの分かれ道)がある場合、すべての選択肢が試されるのが時間の問題であったという特別な事情があるのならともかく、そうでないのなら、多数の選択肢をすべて試すのは困難というべきであるから、本件発明が選んだ特定の選択肢を選択することは時間の問題、あるいは一本道であったとは言えないだろう。 したがって、そうした発明は「第1要件」をクリアできる。

ところが、現在の進歩性判断の実務では、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなしてしまうことが多い(例えばSotoku 10号の脚注38で引用した特許庁の宮崎先生の1000個の化合物を作る例など)。 その上で、顕著な効果があったものだけは例外的に「進歩性がある」とみなす実務が行われている(すなわち「独立要件説」的な判断)。 しかし、個々の選択肢を試す手法が容易であったというだけで、すべての選択肢(本件発明の構成に該当する選択肢を含む)を「容易」だとみなすのは「第1要件」を判断したことにはならない。 「第1要件」は、あくまで本件発明という特定の選択肢にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったかを問うているのであって、本件発明という特定の選択肢を他の選択肢とは切り離して焦点を当てた上で、その発明をすることに技術的困難性がなかったのか(平坦な道であったか)を問うているのではない。 「発明に至る道が平坦である」ことと、「発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であった」ことは、似て非なることだ。 このように、現在の進歩性判断の実務では、私のいう「第1要件」は検討されていない場合が多いのではないかと思っている。

例えば前訴判決において裁判所は、「以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべき」(判決文PDF 91ページ)と判示している(「KW-4679」とは本件発明の化合物の一つ)。 この判断にしても、私のいう「第1要件」を判断したのかといえば微妙だ。 前訴判決は、甲1及び甲4に接した当業者は、本件発明という構成を試すことは容易であったということを判断したに過ぎず、当業者が甲1及び甲4に接して本件発明に至ることが時間の問題、あるいは一本道であったと判断したわけではないように見える。

したがって、実際には前訴判決(平成25年(行ケ)10058)が上記の(A)の判断を行ったとみなすことはできないかも知れない。 その場合、私の考え方に基づいて前訴判決を解釈するとすれば、せいぜい、上記(B)の判断を行ったとみなすことにするか、あるいは、前訴判決は本来行うべき判断を行わずに進歩性を否定した判決だということになるのかも知れない。

このように、たとえ発明の構成は容易だと判断した上で、顕著な効果により進歩性を認めている例(すなわち「独立要件説」的な判断をしている例)があるとしても、その多くは、試すことが容易であったことをもって発明の構成は容易だと判断しているだけで、私のいう「第1要件」は検討していない可能性がある。 したがってそうした発明は、実際には、「第1要件」をクリアできるものが多かった(すなわち、私の考え方でも進歩性は肯定されていた)のかも知れない。 個々の選択肢を試すことが容易であったというだけで、すべての選択肢を「容易」だとみなすという現在の判断実務は、「本件発明の構成にたどり着くことが時間の問題、あるいは一本道であったのか」ということを必ずしも検討することなく「発明の構成」の容易想到性を肯定してしまうことになるが、それでは本当は容易にはたどり着けないものを容易にたどり着けると判断することになってしまう。 その欠陥は、顕著な効果があるものを救済することでほぼ補われてはいるのだろうが、本来あるべき進歩性の判断規範からはずれが生じうるだろう。 根本的な解決を目指すなら、進歩性の判断において、本件発明に到達するまでの「時間的要件」や「一本道性」を考慮要素として取り込む必要があり、そのためには、例えば選択肢の「数」(すなわち「選択の容易性」)を考慮要素とする必要がある。 「ピリミジン誘導体事件」判決(平成28(行ケ)10182、10184)は、(副引例中の)選択肢の「数」が考慮要素であることを正面から認めた判決として画期的だったとは言えるが、考慮すべきは「副引用発明」の選択の容易性に留まるものではない。 4月16日の投稿で書いたように、「主引用発明の選択の容易性」も、考慮する必要が生じる場面はあるのだろうと私は考えている(たとえそれが必要なケースは多くはないとしても)。

*   *   *

「第2要件」(意味づけ要件)について

「意味づけ要件」などという呼び方は、いかにも「曖昧」、「主観的」、「予測可能性が低い」などと言われそうではあるが、私は、進歩性判断において、結局はそこは避けて通れないことなのだという気がしている。 例えば上記の(2)(3)の考え方、すなわち、効果が大したことがない場合は「発明の構成」は容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、一転してその「発明の構成」は容易ではないと考えたり、効果が大したことがない場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易だと考えるのに、顕著な効果がある場合は、その発明は「技術的思想の創作」として容易ではないなどと考えるというのは、結局のことろ、発明の効果によって発明に対する意味づけを変えていることに他ならないのだと思う。 私は、単にそれを潔く認めて要件としただけであって、上記の(2)(3)のような考え方とくらべて予測性や客観性が下がるものではないし、むしろ上記の(2)(3)の考え方にかなり近いはずだと思う。

例えば、特許庁の現行の審査基準(第III部 第2章 第2節 3.)に記載されている「図 論理付けのための主な要素」(9月26日の高石解説にも引用されている)は、発明の構成の容易想到性に関連すると思われる「技術分野の関連性」や「課題の共通性」、「阻害要因」などの要素と、「有利な効果」というまったく異なるものを天秤にかけて進歩性を判断するという感じの図になっている(下図)。

[特許庁 審査基準 第III部 第2章 第2節 3. の 図]
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しかし、そもそも「有利な効果」が、他の要素と同じ天秤に乗るのかという疑問があるし、どちらが重いかをどうやって判断するのかもよく分からない。 それに比べれば、私の考え方は「顕著な効果」を、発明に到達することの容易性(進歩性 第1要件)とは切り分けて、「でたらめ・ありきたり」とは思えないほどのものか、という別の観点(進歩性 第2要件)の中で考慮しようとするものだから、まだ分かりやすいのではないか。

Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり、そもそも「意味づけ」という言葉は、特許庁の宮崎賢司先生の論文『間接事実説なのか、独立要件説なのか,それとも?』(tokugikon 2018.5.31. no.289, 156-170 )の脚注50でいわばキーワード的に使われている言葉を採ったもので、宮崎論文では、「意味づけ」という言葉を加藤志麻子先生の論文(パテント Vol. 61 No. 10(2008)86-102の91ページ)から採ったと書かれている。 したがって、「意味づけ」という考え方は、二人の先生方の考え方に親和性があるはずだ。 また、宮崎先生自身は、発明というものを、課題(目的)・構成・効果の三要素を含む「技術的思想」の創作だと捉えて容易想到性を判断することを論じており(技術的思想の創作説)、そうした考え方は上記の(3)に近いと思われるが、宮崎論文を読むかぎり、宮崎先生は自身の考え方は「二次的考慮説」よりも「独立要件説」に近いと考えているようで、論文の166頁では、「独立要件説」を「技術的思想の創作説」(宮崎先生ご自身の説)と捉えることを提唱されている。 そういう宮崎論文にもし理があるのだとすれば、「技術的思想」という概念や「独立要件説」さえも、発明に対する「意味づけ」と無関係ではないことが示唆されるだろう。

*   *   *

最後に、通説的な「独立要件説」論者が採っている理屈を批判して本稿を終わりにしたい。

冒頭で紹介した飯島歩先生の評釈では、「独立要件説」を正当化する理屈として、知財高裁が行った判決(平成24(行ケ)10415;「血清コレステロール低下剤」事件, 平成25年10月3日判決)における以下の説示が引用されている。

平成24(行ケ)10415;判決文PDF 43-44ページ]
・・・,発明が引用発明から容易想到であったか否かを判断するに当たっては,当該発明と引用発明とを対比して,当該発明と引用発明との構成上の相違点を確定した上で,当業者が,引用発明に他の公知発明又は周知技術とを組み合わせることによって,引用発明において相違点に係る当該発明の構成を採用することを想到することが容易であったか否かによって判断するのを原則とするが,例外的に,相違点に係る構成自体の容易想到性が認められる場合であっても,当該発明が奏する作用効果が当該発明の構成そのものから当業者が予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきであるから,当該発明が引用発明から容易想到であったとはいえないものと解するのが相当である。

つまり裁判所は、相違点に係る「発明の構成」は容易想到であっても、顕著な効果がある場合は進歩性を認めるのが相当だと説いている。 確かに、この説示は「独立要件説」と言っていいだろう。 ちなみに、9月26日の高石解説でも、この判決は「“独立要件説” に立ったと考えられる裁判例」の項目の中で紹介されている。

ちなみにこの判決を行ったのは、本件前訴判決(平成25年(行ケ)10058;平成26年7月30日判決)を行ったのと同じ知財高裁第4部(富田善範裁判長)だ。 しかも二つの判決は時期的にもかなり近い。 富田判事が「独立要件説」を採っているのであれば、前訴判決においても、裁判所の審理は「独立要件説」的な思考形式で行われた可能性は高いのかも知れない(だからこそ、「二次的考慮説」や私の説の立場から、前訴判決の確定を前提にして今回の事件を説明しようとすると上記のように苦労するわけだ。)。

さて、上記の裁判所の説示では、「当該発明が奏する作用効果が・・・予測し難い顕著なものであるときは,その作用効果が顕著である点において当該発明は特許法の目的である産業の発展に寄与(同法1条)するものとして進歩性を認めるべきである」と説かれている。 この考え方は、早田尚貴先生の論稿(知的財産法の理論と実務 第2巻, 新日本法規出版 (2007) 403-432 の 418ページ)で分類されている「独立要件説1」に相当する考え方であり、飯島先生は昨年出された論文(知財管理 Vol. 68, No. 9 (2018) 1275-1288 の 脚注46)で、玉井克哉先生の論文(私が昨年6月22日の投稿で取り上げたもの)もこの立場だと論じている。

「顕著な効果がある発明は産業の発展に寄与する」というのは正しいのか?、ということはとりあえず不問にし、それは正しいと仮定しよう。 私が上記の裁判所の説示に対して問いたいのは、「産業の発展に寄与する発明に特許権を与える」ということは、特許法の法目的(同法1条)に合致するのか、ということだ。 換言すれば、「産業の発展に寄与する発明に20年の独占権を与えることは、“もって産業の発展に寄与する” のか」ということだ。 もっと分かりやすく言えば、「産業の発展に寄与する発明に対しては、その発明に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのかを問うことなく、20年の独占権を与えることが特許法の法目的なのか」ということだ。

「産業の発展に寄与する発明に独占権を与える」ことと、「発明の保護及び利用を図ることにより、・・・、もって産業の発展に寄与する」(同法1条)こととは異なる。 「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えれば産業の発展に寄与するということを誰も証明していない以上、後者を前者に読み替えるような説示を看過することはできない。 特許法1条は、「産業の発展に寄与する」ように発明の「保護 “及び利用” 」を図ろうと言っているのであって、産業の発展に寄与するか否かを不問として「産業の発展に寄与する発明」に独占権を与えようと言っているのではない。

例えば、当業者がその発明を行うのは時間の問題であった場合でも、その発明に予測を超える顕著な効果がある場合は、いち早く出願した者に20年の独占権を与えることが産業の発展に寄与するのか? 皆がいずれたどり着くような発明は、皆がたどり着くことに任せ、その「顕著な効果がある発明(すなわち、産業の発展に寄与する発明)」を皆が早期に自由に利用できるようにすることの方が、むしろ産業の発展に寄与するのではないか?

このように考えると、上記の裁判所の説示は特許法1条を読み誤っていることは明らかであるように見えるし、もし、こうした理屈が「独立要件説」が拠って立つ根拠なのだとすれば、「独立要件説」の正当性は疑わしいというべきだろう。

*   *   *

以上のとおり、今回の事件は、本件発明の構成が容易想到だと判示した前訴判決が確定しているにも関わらず、なお審理を尽くせと最判が判示したという点で、「二次的考慮説」に対して難題を突き付ける事件だと言えるかも知れない。 しかし、だからと言って「独立要件説」の正当性が疑わしいのは上記のとおりだ。

この難題にどう立ち向うか。

安易に「独立要件説」に日和ったり、最判に忖度したりすることなく、制度趣旨から説き起こした議論がなされることを期待したい。

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参考論考:
田中汞介『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年8月31日

田中汞介『 最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(特許法の八衢)2019年9月1日

飯島歩『進歩性判断における予測できない顕著な効果の位置付けに関するドキセピン誘導体含有局所的眼科用処方物事件最高裁判決について』(イノベンティア・リーガル・アップデート)2019年9月16日

田中汞介『続・最高裁は効果の独立要件説を採ったのか?』(特許法の八衢)2019年9月23日
(この投稿でも飯島歩先生の評論を題材に考察が進められており、最高裁は「【・・・独立要件説および二次的考慮説のいずれの立場を採るかはブランクのまま、さしあたり、効果顕著性については(・・・)・・・判断手法を是正し(効果顕著性の判断手法を統一し)ようとした】と理解することも十分にできるのではないか」と結論されている。)

高石秀樹(執筆) 吉田和彦(監修) 『【特許★★★】「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜』(中村合同法律特許事務所HP 法情報提供)2019年9月26日
(この解説は、飯島先生の評論とも共通部分は多い。 もともと今回の私の投稿は、飯島先生の評論を題材に書き始めたものだが、ほぼ書き終えたころにこの高石解説が公開されたため、これを受けて修正を行った。)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月02日

「独立要件説」に立った結果 ⇒ 既知のラセミ体の一方は進歩性あり(「光学活性ピペリジン誘導体」事件 平成24年(行ケ)10206,平成24年(行ケ)10207)


この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決は6年前の判決(2013年7月24日判決)であって、最近の判決ではない。 しかし先日、高石秀樹先生が「アレルギー性眼疾患事件」(平成30年(行ヒ)69)に対する解説(高石解説と略記)を公開(以下↓)されて、その中で言及されている判決だ。

[高石解説]
「ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤」事件  〜進歩性判断時に、「予測できない顕著な効果」は、他の化合物と比較するのではなく、発明の構成自体から優先日当時に当業者が予測できたか否かの問題であると判断した最高裁判決〜
(高石秀樹(執筆),吉田和彦(監修),中村合同特許法律事務所HP,2019年9月26日 法情報提供)

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決(平成24年(行ケ)10207)を高石解説は、「“独立要件説”に立ったと考えられる裁判例」として紹介している。 具体的には高石解説は、「構成が容易想到であると認定した上で、・・・ 発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた裁判例は殆ど存在しない。」とした上で、「数少ない・・・裁判例として、知財高判平成24年(行ケ)第10207号「光学活性ピペリジン誘導体の酸付加塩及びその製法事件」(設樂裁判長)は、公知のラセミ体を構成する一方の光学異性体の物質発明(・・・)(【請求項1】式(T)…で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」)について、「構成の観点からは,当業者が容易に想到可能であった」としながら、「顕著な効果」を有することを理由に進歩性を認めた。」と解説している。

この「光学活性ピペリジン誘導体」事件については、tokkyoteki先生が判決直後に既に解説されていて、今回の高石解説を受ける形で再び下記のように紹介して下さっている。


その解説を改めて読んでみて、あぁ tokkyoteki 先生も批判的にコメントされていたんだなぁ と思ったので、私も今回ちょっとこれについて書いてみようかと思う。

判決文によれば、この化合物には光学異性体(S体とR体)があって、普通に合成するとS体とR体が混ざった混合物(ラセミ体)として合成される。 そして、そのラセミ体が「抗ヒスタミン活性」を持っていることは既に知られていた(特開平2-25465)。 そして、化合物の構造も分かっていたから、この化合物には不斉炭素が含まれていて、S体とR体が存在することも分かっていたわけだ。

この状況で本件発明は、光学異性体を分離するためによく用いられているジアステレオマー法を用いて本件化合物のS体とR体を分離精製すること試みた。 具体的にはHPLC(高速液体クロマトグラフィー)を用い、特定の溶媒(ヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸(0.1%))とカラム(CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD)を組み合わせ、他にも分離手順のポイント(HPLCに通す前に、試料をエタノールに溶解させるなど)はあるのかも知れないが、ともかくS体とR体を分離することに成功した。 そしてS体とR体の薬効を調べたところ、薬効の本体はS体であって、R体はほとんど活性がないことを見出したというもの。 具体的には、モルモットにヒスタミン塩酸塩を静注して誘発させるヒスタミンショック死を抑制する効果を試験した結果では、半数の個体をショック死から免れさせるために必要な投与量(ED50)は、S体が0.023 mg/kg に対してR体は 1.0 mg/kg で43倍の差があり(明細書の表1)、抗BPO-BGG・IgE血清を用いたhomologous PCA反応のED50では、S体が0.025 mg/kg 程度であるのに対してR体は 3.0 mg/kg 以上であり 100倍以上の差があった(明細書の表2)。 また、本件化合物をベンゼンスルホン酸塩または安息香酸塩とすることで、吸湿性の少ない安定した結晶が得られることも見出した(以上、明細書の記載より)。

以上の結果をもって出願されたのが本件出願で、訴訟時における請求項1は、平成24年(行ケ)10206 の特許(特許4562229)については「実質的に(R)体を含有しない,(S)−4−〔4−〔(4−クロロフェニル)(2−ピリジル)メトキシ〕ピペリジノ〕ブタン酸・ベンゼンスルホン酸塩を有効成分としてなる,医薬組成物。」となっており、平成24年(行ケ)10207 の特許(特許4704362)については「式(T)
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で示される絶対配置が(S)体である光学活性ピペリジン誘導体のベンゼンスルホン酸塩。」となっている。

この判決において裁判所は、S体とR体を分離し、S体のみを取得する方法に関する困難性はことごとく否定した。 すなわち、分離にあたってジアステレオマー法を用いること、HPLCを使用すること、溶媒としてヘキサン/イソプロパノール/トリフルオロ酢酸 (0.1%) を用いること、カラムとして CHIRALCEL OD や CHIRALPAK AD を用いることなどはすべて容易だと判断した。

また、S体とR体を分離して、その一方だけを医薬品とすることに関する出願当時の技術常識について、判決文には以下のような文献の記載が引用されている。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について
ア 刊行物の記載

(ア) 昭和62年10月1日発行の「月刊薬事」Vol. 29, No. 10(甲4)
 「生体(酵素や受容体)はこれらの光学異性体を識別する能力を持っており,異性体にはまったく生理活性を持たないもの,弱い同類の生理 活性を持つもの,拮抗的な生理活性を持つもの(アンタゴニスト)や別な生理活性を持つものがある。それゆえ,医薬品として用いるときには ラセミ体としてではなく,目的にあったエナンチオマーのみを用いることが好ましいと考えられるが,現状はほとんどがラセミ体として用いら れている。…しかし,最近,医薬品としてラセミ体の開発・使用に関して問題が投げかけられてきた。その背景として,最近の薬物分析技術の 進歩,とくに高速液体クロマトグラフィーにおけるキラルカラムの開発などにより,光学異性体の分離・定量の技術が進歩し,その結果,合成 キラル医薬品の生体内動態,特に代謝に関して異性体間に著しい差があることが明らかになったことがあげられよう。」(・・・)

(イ) 平成元年10月10日発行の「季刊化学総説」No. 6「光学異性体の分離」(甲3)
a 「1 光学活性体のプレパレーション」という表題の論文
 「研究の精密化に伴い,医薬品,農薬,食品,飼料,香料などの分野で光学活性体を扱うことの重要性が日ごとに増大していることはいうまでもない。光学活性体が対掌体により生理活性をまったく異にする場合が多いからである。たとえばグルタミン酸の場合,L体(S)には旨味があるが,D体(R)には旨味はなく,酸味が感じられるだけである。不幸な事件のために有名になってしまったサリドマイド… も,(R)体は催奇形性をもたないが(S)体には強い催奇形成があり,ラセミ体を実用に供したことが悲惨な薬害事件…をひき起す原因 となった。さらに,対掌体の一方が有効な生物活性を示す場合,もう一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害…をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品 の開発研究でしばしば体験するところである。…したがって,光学的に純粋な対掌体をいかにして入手(合成または分割)するかは,医薬品のみならず生物活性物質を対象とする研究において,不斉中心をもつ化合物を扱う場合,避けて通ることのできない重要課題である。この目的に対して,・・・,ラセミ体を製造(合成)したうえで,それを効果的に光学分割…する手段もまた有効な方法として多用されている。」(・・・)

b 「2 光学活性体の生理活性」という表題の論文
「動物はL-アミノ酸より成るタンパク質から構成されており,生体内の代謝に関与する酵素もタンパク質である。酵素の基質特異性に基質の光学特異性が大きく寄与するのは,酵素側に存在する不斉性を考えれば容易に『当然のこと』と受けとめることができる。生体内で起る複雑でありながら選択性の高い反応は,酵素による『不斉を含む三次元の分子認識』によるものと考えられる。生理(薬理)活性をもつ物質が生体に摂取され吸収されると,その物質に特異的な親和性をもつ受容体…との結合により生理活性が発現することになるので,基質が不斉中心をもっていれば,その(S)体と(R)体とでは生理活性に相違が生ずるのはこれまた自然であろう。医薬品の多くは生体にとって異物…であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。このような考え方が出てきた背景には,1章のはじめに述べたサリドマイドに関する知見が大きく横たわっていたためと思われる。…近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある。また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした。薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった。」(・・・)

(ウ) 平成4年2月10日発行の「日本化学会誌」NO. 2(甲26)
a 「1 はじめに」の項
「1.1 光学異性に関する認識の深まり
…二つの光学活性体,そしてラセミ体の三者がいずれも『異なる』化合物であるということは,概念的には古くから知られていた。にもかかわらず,しばしばこれらが同等あるいは代用できるものとして扱われてきた一つの理由は,光学活性体を入手し,またその純度を評価するための手段が未発達であったことと,そのためにことさら,それら三者がいかに『異なる』かということが,実際的な問題として十分に認識されていなかったためであると思われる。この相違の重大さが最初に認識されたのは医薬の分野であろう。サリドマイドの催奇性が,その(S)-体に基づくものであるというBlaschke らの研究はよく知られているが,同様の例はかなりの数が知られるようになった。最近報告された例では,…。こうした背景から,近年医薬開発においては,ラセミ体を製剤化する場合にも,それぞれの光学活性体の薬理評価が必要とされ,またラセミ体の製剤化そのものに対する慎重論も高まっている。医農薬などの生理活性物質のみならず,機能性材料にも,強誘電性液晶などのように,光学活性体であることを必要条件とするものが見いだされ,光学活性体にかかわる研究,開発は,科学,技術の広い分野で活発化しつつある。しかし,その展開は光学活性体の製造,分析技術の水準による制約を受けざるを得ず,新たな技術の確立が希求されていた。・・・」(・・・)

上記のような状況を考えれば、薬効を示すラセミ体について、S体とR体を分離し、それぞれについて薬理評価を行い、薬効があり、かつ毒性のない異性体だけを医薬品として使用することの重要性は、出願当時において当業者に広く認識されていたと言えるだろう。

そのような中、裁判所は本件発明の進歩性について次のように判断した。

[平成24年(行ケ)10206 判決文より](強調は私が入れた)
・・・。したがって,審決が認定した本件特許発明1と甲2発明との相違点である,本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が「実質的には(R)体を含有しない,(S)体」であるのに対し,甲2発明では光学異性体についての特定がされていない点については,その構成という観点からは,当業者が容易に想到可能であったものということができる
 しかし,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が,甲2公報に記載された本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから,次に,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩の有する効果について検討する。

(5) 本件特許発明の効果について
ア 本件明細書(甲1)には,ヒスタミンショック死抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約43倍強い活性を示したこと,homologousPCA反応抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約100倍以上強い作用を示したことが記載されている(【0030】〜【0035】)ところ,本件明細書は,この本件化合物のエステルによる(S)体と(R)体の比較を根拠に,本件化合物の(S)体がより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用すると結論づけている(【0048】)。
 そして,このことは,甲9の4の意見書に添付された実験成績証明書に,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍の活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体に対して約3倍の生存率を示したことが記載されていることからも裏付けられる。
 そうすると,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる
 したがって,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸は,審決が認定した甲2発明であるラセミ体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものといえる
・・・。
(6) 小括
 以上によれば,本件特許発明1の進歩性に係る審決の判断は,・・・,・・・ 本件化合物は,本願出願時の技術常識を考慮しても,当業者が容易に得ることができなかったものであるとしたことは誤りであるけれども(・・・),・・・ 本件化合物は,・・・ 当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものであると認定判断した点に誤りはなく(前記(5)),結局のところ,本件特許発明は甲2発明に対して進歩性を有するものとした審決の判断は,結論において誤りはない。

ラセミ体に含まれるS体とR体を分離してそれぞれの活性を調べてみることの重要性が当業者において認識されていたことを示す複数の文献が存在することについは、上述のとおり裁判所は認めているし、上に引用したとおり、本件化合物(S体)の取得困難性がないことについても裁判所は認めている。 その上で裁判所は、「顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきである」と説示し、「顕著な効果」があることもって本件発明の進歩性を認めているのだから、高石解説が指摘するとおり、この判決はまさに “独立要件説” に立った判決だと考えらるだろう。

しかし果たして、この判決は妥当だったのだろうか?

私は、本件のような発明は、8月30日の投稿で書いた「進歩性 第1要件」で拒絶すべきだった案件のように思う。 なぜなら上に引用した判決文の中で言及されている文献にも記載されているように、生理活性を有する化合物がラセミ体である場合、S体とR体で活性や毒性に差がないのかを調べることの重要性は本件出願当時において広く認識されていたからだ。

その契機となったのが、当時の技術常識に関して上に引用した判決文の中で登場する文献のうち、甲4を除くすべての文献で言及されている「サリドマイド」事件だ。 サリドマイドは1950年代に開発された睡眠薬で、S体とR体が混ざったラセミ体として販売されていた。 しかし、S体に強い催奇形性があったため、この薬を服用していた世界各地の妊婦から奇形を持った子供が生まれてしまったのだ。 薬学史上、最悪の薬害とも言われている。

サリドマイド事件により、薬効を持ったラセミ体については、S体とR体で生理活性や毒性に違いがあるかを調べる必要性の認識は一気に広まった。 薬学分野の当業者の間で周知となったというようなレベルではなく、世界中の人たちに知れ渡ったのだ。 私も学生の時に授業で習ったくらいだから。

つまり、ラセミ体を構成する各異性体を分離して、その生理活性を調べることは、それほど強い要請があった。 医薬として使おうと考える以上は、必ず調べられなければならない特性とも言えるだろう。 そして裁判所によれば、本件のラセミ体を構成する各異性体を分離する具体的手順は容易だと判断されている。 だとすれば、それを調べた結果どんなに驚くべき結果が出ようが、それは「強い要請」と「容易な手順」によって自然に行き着くはずであった結果に過ぎないのであって、「時間の問題」あるいは「一本道性」があると言えるのではないか(下図)。


[あるべき進歩性の判断手順]
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なお8月30日の投稿で私は、進歩性の第1要件について、「近々誰かが発明するようなものか」と記載し、第1要件が「時間性」の問題であるかのように書いたのだけれど、「時間が短いこと」が必須というわけではない気もするので、上記のように少し修正してみた。 但し、これについては私もまだ少し迷いもある。

ともかく、本件のような発明は、薬効を示すラセミ体が公知となり、かつ各異性体を分離する手法が容易で動機付けもあったという場合には、それだけをもって各異性体の特許性は失われていると考えるべきで、「顕著な効果」によって特許性を復活させるようなことをすべきではないと思う。

なお本件の場合は、本件の特許出願(特願平9-350784;宇部興産・田辺製薬の共願)を行ったのが、本件化合物を最初に開発して出願(特願昭63-175142)した者(宇部興産)と同じ側だから、本件出願が特許になってもあまり不当性を感じないかも知れないが、本件のラセミ体はすでに公知であった以上、まったく別人が光学異性体を分離して本件のような出願を行うこともあり得ないことではなかった。 上記のように、薬効を持つラセミ体から光学異性体を分離して活性の違いを調べる必要性は広く認識されていたし、その手法も裁判所が説示しているとおり容易だったのだからね。 そうすると、宇部興産が開発した本件化合物について、まったく無関係の他者がいち早く異性体(S体)を分離して、特許出願を行うことも起こり得たわけだ。 そして容易なものでも「顕著な効果」がありさえすれば特許にするというのなら、その「他者」は本件化合物のS体について特許を取得することができただろう。 そして宇部興産・田辺製薬による本件医薬品の開発を妨害したり、多額のライセンス料や買取を持ちかけることもできたかも知れない。

私は、特許制度がそのような目的のために便利に使われるものであってはいけないと思う。 薬効を持つラセミ体を最初に作り出して特許出願を行った場合は、それが公開された時点で、容易に取得できる各異性体については特許性は失われたとみなし、たとえそれが「顕著な効果」を持つとしても新たな特許になることを許さず、最初に特許出願をしてそれを公開した者が安心して医薬品開発を進められるようにすることの方が妥当なのではないか。 またそうであれば、この化合物を最初に作り出してラセミ体として特許出願を行った者が、のちに各異性体を分離して「顕著な効果」を見出したとしても、それによって新たな特許が付与され、独占期間を事実上先延ばしするようなことが許されないのは、また当然のことだろうとも思う。

また、今回の「アレルギー性眼疾患」事件の最判(平成30年(行ヒ)69)において最高裁は、「・・・本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・」と説示し、まるで医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くすべきだと言っているようにも見えるが、8月30日の投稿の(4)でも書いた通り、特許出願を行うのは、その医薬品を開発して上市してくれる者とは限らない。 その気がない者であっても、出願すれば特許は取得できてしまう。 「医薬発明の進歩性のハードルを低くすれば医薬の開発が促進される」などというのは根拠のない話であって、そのような考えのもとに進歩性のハードルを人為的に操作すれば、意図しない結果を招くことになるだろう。

*      *      *

ということで、高石解説が、発明の「効果」のみを理由として進歩性を認めた数少ない裁判例として紹介している「光学活性ピペリジン誘導体」事件判決について感じたことを書いてみた。 つまるところこの判決は、「独立要件説」を採った結果、誤った結論に至ってしまった判決だというのが私の見方ということになるだろうか。

もし、私の考えは間違っている、すなわち、この「ピペリジン誘導体」事件の判決は正しく、上記の最判の説示についても、「医薬用途の場合は進歩性のハードルを低くするべきだ」と捉えるのが正しいというのなら、残念ながら、以下のような特許戦略は有効だということになってしまうだろう。

薬効を持つラセミ体を他者が公表したらすぐにやるべき特許戦略

 そのラセミ体から異性体を分離し、それぞれの異性体について活性や毒性を評価する。 もし一方の異性体が、ラセミ体の2倍を有意に超える活性を示したり、顕著な毒性を示したりした場合は、すぐに特許出願する。 これにより、たとえラセミ体に関して他者が先に特許出願を行っているとしても、それに匹敵するほどの価値のある特許を取得することが可能となる。 たとえ異性体の分離が容易であり、その動機付けがあるとしても、「独立要件説」が進歩性をサポートしてくれるだろう。


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2019年09月17日

新しいアッセイ系は既知化合物の特許出願のチャンスとなるか (「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日 追記2)


この最高裁判決について8月30日に投稿した際に、「原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところ」だと書いた。 つまり、本件の明細書では、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロ(すなわち、人体や動物を用いるのではなく、培養細胞を用いる)実験系を用いて実験が行われて本件化合物のヒスタミン遊離抑制活性が測定されているのに対し、原審(平成29(行ケ)10003)で裁判所が「顕著な効果」を否定するために持ち出した引例は、スギ花粉症患者に被検化合物を点眼し、採取した涙に含まれるヒスタミンを測定することでヒスタミン遊離抑制活性を測定したインビボ実験(生体を用いた実験)だった。 そして引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して、次のように説示した。

平成29(行ケ)10003,PDF 30-31ページ]
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。

しかし、インビトロの実験系とインビボの実験系では、同じ化合物を使っても違う数値になることはよくあるのだろうから、異なる実験系で得られたヒスタミン遊離抑制率(数値)を単純に比較することはできない。 したがって、本件の明細書のインビトロ実験で得られた数値と同等以上の数値が引例のインビボ実験で得られていたからといって、本件の効果を「大したことはない」と直ちに結論することはできないようにも思われる(まぁ、薬というものは最終的にはインビボ(臨床)で使うものだから、インビボで効果がある方がすごい気はするが)。

つまり本件の原審判決(平成29(行ケ)10003)では、本件化合物の効果が「大したことはない」ということを明確に示すような先行技術の存在が示されていないのだ。 この点が、原審判決において、本件の「顕著な効果」が今一つはっきりと否定できていないように見えてしまう理由であるように思う。 逆に言えば、だからこそ特許庁の審判(無効2011-800018)では、本件発明の「顕著な効果」が認められたのかも知れない。

それを踏まえると、新しいアッセイ系が利用可能となった場合は注意が必要だろう。 例えば、ある疾患の既存薬や治療候補化合物の中に、ある2次的な作用機序で効果を発揮するタイプの化合物があることが既に知られているとして、その作用に関して新しいアッセイ系が利用可能となった場合は特許出願のチャンスが生まれる(以下)。

[新しいアッセイ系が利用可能となった場合の出願戦略]
ある疾患の既存薬や治療候補化合物の2次的な作用機序に関して、そのアッセイ系で良好な効果を示す化合物(化合物A)が見つかったら、同じ疾患の既存薬等の中で、そのアッセイ系で効果を示さないものを選んで、それらの結果を並べて特許出願を行う。 すると、このアッセイ系において良好な効果を示すのは「化合物A」だけで、他の化合物は効果を示さないように見えるから、化合物Aには予想外に顕著な効果があるように見える。 また、新しいアッセイ系であるので、この2次的作用機序において、化合物Aと同等以上の効果を持つ既存化合物が存在することを明確に示すデータは、出願前には存在しない。 したがって、そういう引例により進歩性が否定される心配はない。

こうしたアッセイ系による比較実験の結果は、「臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」(無効2011-800018)(2018年6月22日の投稿参照)と評価される可能性もある。 特に、これまで持っていると思われていた活性が、このアッセイ系では検出できない、というような既知の化合物が見つかれば、「このアッセイ系は非常に厳しいアッセイ系だ」と主張する理屈ができるので好都合だろう。

異なるアッセイ系(従来のアッセイ系)においては高い効果を示す化合物は出願前に知られていた、という理由で進歩性が否定されそうになった場合は、「構造を異にする他の化合物が、異なる評価系において高い効果を示す場合があることが知られていたとしても、そのことのみをもって、本件化合物の効果顕著性を直ちに否定することはできない。」と反論することができる。 今回の最判はそうした反論の正当性をサポートするかも知れない。

*     *     *

本件(アレルギー性眼疾患事件)が意図的にそうした特許明細書を作成して出願を行ったのかも知れないと言っているのではない。 ヒスタミン遊離抑制作用に関しては、モルモットの細胞を使ったアッセイ系では「本件化合物」を使っても活性が検出されなかったなど、アッセイ系によって結果がかなり違うようだから、本件明細書の実施例の結果も、意図せず偶然に得られた結果である可能性は高いかも知れない。 そして、新しいアッセイ系を使っていくつかの化合物をアッセイしたところ、もし本件化合物だけに活性が認められたら、私だって特許出願を考えるかも知れない。 しかし、出願を行う際の出願人側の内情は分かりようもないのだから、そこは分からないということを前提に、どうやって妥当な判断をしていくのかを考えなければならないだろう。

前訴判決の判決文によれば、本件明細書に記載されている実験で用いられているヒト細胞を使ったインビトロのアッセイ系は、本件特許の優先日の約7か月前に公開されたばかりのようで、これについて特許権者側は、本件特許の優先日当時は「当業者にとって現実的に利用可能な技術ではなく」と主張している(平成25年(行ケ)10058の93ページ)。 つまり本件明細書の実施例で用いられているインビトロのアッセイ系は、非常に新しいものだったわけだ。 判決文を見る限り、被告(特許権者側)は、これを進歩性肯定のための有利な事情として主張しているようだが、アッセイ系が出願前に広く利用されていなかったことは、類似の効果を有することが知られている既存薬をそのアッセイ系で調べれば、本件化合物と同等以上の高い効果を示すものは存在していたという可能性をむしろ否定できなくするのだから、特許権者側の主張とは裏腹に、むしろ「顕著な効果」の推認を阻害する事情とみなし得るものだろうとも思う。

新しいアッセイ系における好結果を出願前に予測できない限り、「予測できない顕著な効果」は否定できずに進歩性は肯定されるのか、それとも、新しいアッセイ系が出願前に広く利用されていなかったという事情は、むしろ顕著な効果の認定にとって阻害的に働く要因と考えるべきなのか。 どちらが妥当なのだろうか、よく考える必要があるだろう。

しかし、少なくとも出願人の立場で考えた場合、今回の最判から示唆されるのは、『新しいアッセイ系が利用可能となった場合は出願のチャンスだと考えろ』ということだ。 データを選別し、上記のような特許出願を意図的に出願することは手続としては不可能ではないように見えるし、そういうケースは今後発生する可能性はあるだろう。 そして特許庁や裁判所に求められるのは、仮にそうした出願がなされた場合に、その進歩性を適切に判断できるような手法を持っていてくれなければ困るということだ。 今回の最判が、それを妨げるものとなってはならない。

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さて、2次的な作用機序に関して特許を取得した場合、この特許を生かして医薬品開発を進めるためには、医薬品の製造販売承認を申請するにあたって申請者は、医薬品の承認を審査する厚労省所管の機構(PMDA)に対して、ぜひとも本薬の薬効にこの「2次的作用機序」があることを認めさせ、医薬品の添付文書に、その作用を記載するように持って行く必要があるだろう。 そうすることによって、この医薬品の後発薬が実施されたときに、本件特許を侵害しているという理屈が通る余地が生まれるからだ。 2018年6月22日の投稿でも書いた通り、本薬(パタノール点眼薬 0.1%)に関するPMDAの審査報告書 (12ページ)によれば、本件医薬品の承認申請者は、本薬はこの2次的作用、すなわち「ヒスタミン遊離抑制作用」も発揮されているのだということについて主張したと思われる。 そしてPMDAに「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低い」と言われながらも、この作用があることについてはPMDAに認めさせることに成功し、添付文書にも記載された。 特許権者側の立場になって考えれば、これは見事な成果だし、事実として、パテントリンゲージにより後発の参入を阻止できているのだから大成功と言えるだろう。 そして、すべてはこの特許があってこそであり、今回のように新しいアッセイ系を使って「顕著な効果」を主張して特許を取得しておくことは、現時点の状況で見る限りは、医薬品の特許戦略において有効な作戦だということになるかも知れない。

但し、「ヒスタミン遊離抑制作用」に関する用途発明に限定された本件特許が、果たして後発薬を抑えられるものであるのか、という点については、2018年6月22日の投稿の他、以下も参照。

篠原勝美『日本型パテントリンケージ制度の諸問題(上)』(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35)の33ページ左

gemedicines氏の投稿『オロパタジン塩酸塩点眼液(パタノールR点眼液0.1%) 』(2019年9月7日)

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冒頭で述べたとおり、本件の原審(平成29(行ケ)10003)で知財高裁は、引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して本件発明の効果の顕著性を否定し、私はそれについて違和感があると書いた。 それでは、もし本件の進歩性が否定されるとしたら、引例のインビボ実験における結果をどのように扱えばよいのだろうか。

私が考えるに、本件の顕著な効果を仮に否定する場合、引例のインビボ実験など別に持ち出す必要はないのだと思う。 単に、本件明細書に開示されている限られた化合物を用いたインビトロの比較実験の結果のみからでは、「臨床(インビボ)の場面までを包含するヒスタミン遊離抑制作用」に関して、本件化合物が、他の抗ヒスタミン剤と比べて突出した効果を持っていることは合理的に推認できない、ということで十分なのだと思う。

ちなみに本件明細書によれば、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロの実験系において、本件化合物は高いヒスタミン遊離抑制作用を示し、既存化合物であるクロモグリク酸二ナトリウムはほとんど作用を示さなかった。 具体的には、本件化合物を100μM以上の用量で用いて発揮できた効果を、クロモグリク酸二ナトリウムは10〜1000μMのいずれの用量でも上回ることはできなかったどころか、そもそもクロモグリク酸二ナトリウムはまともな効果を発揮していないようにさえ見えた(本件明細書の表1参照)。 しかし、本件原審(平成29(行ケ)10003)の判決文によれば、臨床(インビボ)実験の結果においてクロモグリク酸二ナトリウムは、点眼後5分後および10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率について、「2% クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%」という高い抑制率を示すことが知られていたようだ(判決文PDF30ページ)。 インビボで示すはずのクロモグリク酸二ナトリウムの高いヒスタミン遊離抑制作用が、本件明細書のインビトロアッセイ系ではほとんど検出できなかったことは、インビボにおけるヒスタミン遊離抑制作用と、本件明細書のインビトロアッセイ系におけるヒスタミン遊離抑制作用は、高い相関があるとは言えないことを示唆しているだろう。 そして、高い相関があるとは言えないのであれば、本件化合物が、たとえ本件明細書のインビトロアッセイ系において顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示したとしても、インビボにおいても顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示すことは合理的に推認できないということになるのではないか。 これについては2018年の6月22日の投稿でも書いた通り、原審の審決(無効2011-800018)で特許庁の審判合議体は、特許権者の主張をそのまま繰り返す形で「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」と説示しているが、そういう可能性を完全に否定するわけにはいかないにしても、インビボにおける効果と本件明細書のインビトロアッセイ系での効果には高い相関がないという “余地” もかなりあるわけで、その場合は、「本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するためにはあまり意味のないスクリーニング条件である。」ということになる。 本件明細書のインビトロアッセイ系が、高いインビボ効果を持つ化合物を選別するための「非常に厳しいスクリーニング条件」なのか、それとも「あまり意味のないスクリーニング条件」なのか、どちらが正しいのか真偽不明である限り、「明細書の結果に基づいて、出願当時に、インビボでも顕著な効果があると合理的に推認できるのか」を考えれば、それを肯定するのは難しいという結論にならざるを得ないのではないか。

*      *      *

本件のクレームが、もし本件明細書の実験で用いられた「インビトロ」のアッセイ系に限定されているのであれば、上で取り上げたようなインビボとインビトロの違いは問題にはならない。 しかし本件クレームの発明がインビボ(臨床)への適用までを包含するものである以上、もしそのクレームの範囲全体にわたって顕著な効果が合理的に推認できないのであれば、その進歩性を肯定することはできないという結論が導かれなければならないと思う。

このように、仮にインビボの結果が記載されている引例を用いて顕著な効果を否定するとしても、原審判決が行ったように、本件明細書におけるインビトロ実験の数値を、引例のインビボ実験の数値と単純に比較して「数値が高いとは言えない」ことを理由に顕著な効果を否定する、という論理構成にするのではなく、両方のアッセイ系の結果に高い相関があるとは認められないことを理由に、本件明細書の開示からではインビボにおいても顕著な効果が発揮されるとは推認できないという結論を導き出す方が、論理的には筋がいいのではないか思う。

つまり、そういう判断手法を、特許庁や裁判所の方たちには持っていて欲しい。

[2019/09/18 筋悪だった後半の議論を多少ましになるように書き直して再公開。^^]

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2019年09月03日

「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)追記


今回の「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)に関して、田中汞介先生がご自身のブログ『特許法の八衢』で記事を2つ(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))投稿されているので、それを読んで、まあ、あまり関係あることは書けない気もするけれど、前回の投稿に引き続き、思いついたことを若干書いてみたい。

*     *     *

(8)最高裁による破棄理由に関する田中先生の論考について

8月31日の田中論考では『破棄理由』に関し、「原審(知財高判平成29年11月21日(平成29年(行ケ)第10003号)) の判断枠組みは、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる】であり、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる一方、効果顕著性があれば審決が維持される】というものではない。」と指摘されている。

後者は、前者の反対解釈を付加したものだ。 後者であれば効果顕著性があれば審決が維持されることになろうが、前者であれば、効果顕著性があってもなお、審決を取り消す余地はあるということになる。

私は、8月30日の投稿で書いた通り、一般論として、「効果顕著性があっても、進歩性は否定しうる」と考えており、本件発明も、そうした場合に該当しうると思っているから、そういう考えが、今回の一連の判決の枠組みの中で依然として採用しうるというのなら、夢のある話だ。

改めて原審判決を見ると、判決の論理構成は以下のようになっている。

平成29(行ケ)10003 より]
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。(判決文31ページ)

 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。(判決文31ページ)

4 結論
 以上のとおりであるから,その余の点について判断するまでもなく,本件審決を取り消すこととし,主文のとおり判決する。(判決文34ページ)

上に引用したとおり原審判決は、原審審決の効果に係る判断の誤りをもって、その余の点について判断するまでもなく、原審審決を取り消している。 この判示の中に「効果顕著性があれば審決が維持される」という含意が感じられるかというと、まぁ、感じられないという方が自然だろうという気はする。

ただし、もし効果顕著性があってもなお審決は取り消される「理由」があり得るというのなら、効果顕著性を判断する前に、あるいは同時に、それが判断されてしかるべきであるのに、原審判決は効果顕著性のみを判断しているのだから、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、という意見はあるかも知れない。 特に、効果顕著性を判断するまでもなく審決は取り消されうる「理由」が本件においてあるのなら、まずはそれが判断されるべきであるのに、原審判決でそれが判断されていない以上、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、と考える人は多いかも知れない。

そういう意見が出るのは当然だろうとは思うし、解釈の優劣としては、そちらの解釈の方に軍配が上がる可能性はあるだろう。 しかし、どちらかの解釈しか採りえないとまでは言えないように思う。


(9)差戻審について

田中先生の9月1日の方の論考では、差し戻し審で採りうる結論は以下の3つだろうと指摘されている。

 1. 効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定
 2. 効果顕著性の存在を認め、進歩性肯定
 3. 効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定

そしてもし上記の「3.」(効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定)を採るのなら、なぜ原審で効果顕著性を判断したのか説明が必要だと思うと指摘され、そうした説明の一つの可能性として、効果顕著性の「存在」の判断と、効果顕著性の「程度」の判断は別だと考える可能性が提示されている。 なるほどと思った。

ちなみに、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果(ヒスタミンの遊離抑制作用)の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では当該効果の「程度」(効果顕著性)を判断しているのであるが、仮に田中先生の可能性を採用すれば、本訴原審(平成29(行ケ)10003)では効果顕著性の「存在」が判断され、差し戻し審では効果顕著性の「程度」(効果顕著性の程度)が判断されようとしているというフラクタルな感じになるのかも知れない(笑)?。

私の考える可能性は・・・、前回の投稿で書いた趣旨にしたがうのなら、

・ 効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定(予備的に、効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定)

というもので、前回の投稿の(7)にしたがって「効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定」という結論を導き、(3)にしたがって予備的に顕著性を否定するという感じになるのだろう。 具体的には前者については、ヒト細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用の「程度」が測られるのも間近だったといえ、そうである以上、本件発明は「容易に発明をすることができた」(29条2項)と言うほかなく、その効果が仮に予測を超えて顕著であるとしても、「容易に発明をすることができた」という判断を左右するものではない、というもの。 後者(顕著性否定)については、本件明細書には、本件化合物がヒスタミン遊離抑制作用を有することが開示されているとはいえ、その作用の程度は、クロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムなど、限られた化合物との比較でしか評価されていないし、高いヒスタミン遊離抑制作用を有する化合物が他にも知られていたことを考えれば、予測を超えて顕著とは認められない、というもの。

最判は「・・・,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。」という。 私の考える上記の理屈に沿って、最判のいう「諸事情の具体的な内容」を説明すれば、「明細書には、少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、当該少数の構造を異にする他の化合物に比べて活性が顕著であったからといって、本件発明の効果が予測を超えて顕著であると直ちに結論することはできない。」というのが「事情」だ。 また、本件発明が医薬用途に係るものであることをも考慮すると、本件明細書に開示されているヒト培養細胞を用いた実験のみからでは、ヒトへの臨床適用を含むクレームの全範囲において予測を超えて顕著な効果が奏されると直ちに認めることはなお困難、というのも「事情」と言えるだろう。 これは最判の説示をそのままお返ししているだけだから、最判の説示が正しいというのなら、この「事情」も否定はできないのではないか?(笑) (前回投稿の(3)も参照)

それから、上記の最判の後半部分の「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない」という説示に対しても、「明細書には、そこに示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、その結果のみをもって本件化合物の効果の程度が予測を超えていると推認できる事情等は何ら明細書に説明されていないし、技術常識とも言えない」というのが「事情」なのであって、明細書に開示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較をもって顕著性が推認できるかが問題となっている以上、それを否定するためには、構造を異にする他の化合物との比較をもって足りると考えなければ道理が合わないということだ。

また、田中先生が「説明が必要」と指摘されていること、すなわち、もし顕著な効果があっても進歩性は否定されるのなら、「なぜ原審において効果顕著性を判断したのか」という点について説明するとすれば、かなり鉄面皮な説明にはなるが、本件の場合は、たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定される理由はあるのではあるが、それとは別に、効果顕著性を否定することによっても進歩性は否定されるのであり、進歩性を否定するにあたってどちらで判断するかは任意であって、とやかく言われる筋合いはないという説明になる(笑)。 また、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では「効果顕著性」が問題となっていることに鑑みて、原審では効果顕著性を判断してやったのだ、と説明することもできるだろう。

ということで、まぁ、最高裁に喧嘩を売っているみたいになる点で、これは無理か・・・、という感じは否めない。。

但し、上記の理屈が最高裁に喧嘩を売るようになってしまう一番の原因は、最判が、「構造を異にする他の化合物」との比較だけでは「顕著な効果」を否定することはできないと説示する一方で、本件明細書には「構造を異にする他の化合物」(しかも少数)との比較しか開示されていないことを不問にしていることにある。 そして「そこは不問にはできないのだ」という立場を取ると、まるで最高裁に逆らっているように見えてしまうのだ。

しかし明細書の開示から顕著な効果を推認できるか否かという問題と、引例からそれを否定できるか否かという問題は、分離することはできない。 明細書の開示が、本件化合物の効果を比較すべき対照としっかり比較された説得力のあるものであればあるほど、それを否定するための引例は完璧でなければならないが、明細書の開示に説得力がない場合は、それを否定するための引例に完璧さは求められない。 そして両者(明細書の開示と引例の開示)を一体として判断するとき、それは引例によって「顕著な効果」が否定されると捉えるのは適切ではなく、明細書の開示と引例の開示との関係において本件発明の効果が「顕著な効果」だとみなすことができないと捉える方が実体に合っている。 明細書に開示されているのは「構造を異にする他の化合物」との比較に留まる場合に「顕著な効果」を推認することができるのか否かという問題を不問とし、引例に開示されている「構造を異にする他の化合物」との比較のみでは「顕著な効果」を否定できないと説示する今回の最判を、『否定できなければ肯定せよ』という説示だと捉えるとすれば、分離できない問題を分離する失当を犯すことになる。 逆に最判がそのような意図で説示をするはずはないと捉えるのであれば、たとえ最高裁に喧嘩を売っているように見えるとしても、上記のような「事情」を認定することをもって最判に応えることは、結局は最判の説示を正しく捉えることになるはずだ、と思う。


(10)最判の実務への影響

顕著な効果は「本件発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点」で検討されなければならないという最判の一般論についてはともかく、その理由をもって “本件の” 原審を破棄したということが実務に及ぼし得る影響は大きい。 本件には特殊な状況がある。 原審に先立つ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。」と説示され、その判決は既に確定しているからだ。

この状況で、本件発明の進歩性がこのまま肯定されることになれば、所定の効果を有することを確認することについて出願前に既に動機付けがあり、その用途に適用することには既に進歩性がなくなっていることが明らかな状況であっても、その効果が予想外であれば、直ちに進歩性が肯定されるという雰囲気が醸し出されるだろう。

例えば、先行文献には本件発明の構成が開示されており、「この化合物の○○活性について調べてみることも興味深い。」とまで記載されているとしても、実際にその活性を調べて高い活性が確認されたり、用量依存性において目新しい特性(本件のように高濃度においても活性が低下しないなど)を示すことが分かった場合には、出願人としてはこの最判を掲げて進歩性を主張できることにもなりそうだ。

よって、出願人・特許権者サイドにとっては、この最判はとてつもなく強力な武器となる可能性があるが、それに対峙しなければならない側にとっては、どうやってその進歩性が否定できるのか、頭の痛い状況になるのではないか。


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2019年08月30日

予測できない顕著な効果を否定できない限り進歩性を否定することはできないのか(「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決,平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)


この事件については、原審の知財高裁判決(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;部眞規子裁判長)に対して玉井克哉先生が出された論文(自治研究 94(6) 136-150 (2018))を読んだことをきっかけに、昨年(2018年)の6月22日の投稿で感想を書いたことがあった。 そして本件が上告されていることについては、その投稿の最後で書いたように、「顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。」 というのが私の気持ちだった。

ところが本件は最高裁に受理されて口頭弁論が開かれることになってしまい、玉井先生が「少し、わくわくする」とツイートしていらっしゃった。

そして8月27日、原判決を破棄して知財高裁に差し戻す判決が出て、玉井先生も「拙稿と意見が一致」とツイートしているとおり、「玉井先生おめでとうございます」という感じになってしまった。 少なくとも破棄差し戻しと言う結果やその他のいくつかの点では 。

今回の判決に関して玉井先生は、上記のツイートで「合理的なルールの形成をお手伝いするのが法学の役割の一つなので、少し仕事をしたかな、という気がする。」とおっしゃっている。 しかし、判決の拘束力の問題について判示したのならともかく、今回の判決で最高裁は「顕著な効果」について判示したわけで、特に「顕著な効果」と進歩性の関係については、何が「合理的」なのかはまだまだ議論は尽くされていないと私は思う。 だからこの問題について最高裁が早々と口を出すとすれば、それはアカデミアの機能や役割を最高裁が妨害することになると思う。 もし今回の判決がそういうものであるのなら、今回の判決は批判されるべきものだと私は思うし、逆にそういうものではないとするのなら、今回の判決の射程は、そうした論点に影響を及ぼさないほど「狭い」と理解すべきだろうと思う。

そういうことも考えながら、今回の最高裁判決で私が感じたことを書いてみたい。

*      *      *


(1)最判の核心部分

今回の最判の核心部分は、何と言ってもここだろう。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
・・・本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・

これについては、Sotoku 10号で私も次のように書いている。

Sotoku 10号の脚注36]
・・・本件発明の構成)が出願日当時にどのような効果があると予測されていたかが検討され,その予測された効果と比較して本件発明の現実の効果」(速見禎, 知財管理, Vol.67, No.5 (2017) 732-745の739ページ右欄)が高いことが重要なのであり、引用発明の効果に対する高低が重要なのではない(この点、清水元判事も退官後の講演において同旨の発言をしている)。

速水先生の論文を引いたから「予測されていた」と過去形になってしまっているけれど、別に出願当時に予測されていたという事実が必要なわけではなく、出願当時に予測される本件発明の効果と比べて実際の効果がどうだったのかが重要なわけだ。

例えば有害な塩素系フロンを代替できる冷媒ガスを開発していて、塩素を含まない新規な炭環系化合物を開発したとする。 それで、当時の炭環系化合物としては最高の冷媒性能を示したので「顕著な効果」だと主張したところ、審査官や裁判官から「塩素系フロンでは既に達成できていた効果だから顕著な効果とは言えない」と言われたら誰だって頭にくるでしょう? つまり、比較対象として相応しい先行化合物が存在するのに、それとは違う化合物においてその効果が達成されていた、ということをもって「顕著な効果」を否定するのはおかしいということだ。 なぜそうなのかと言えば、効果の顕著性を考える場合は、まずは「本件発明が持っているだろうと予測できる効果」を予測しなければ「予測を超えるか否か」を決めようがないからで、そのためには、なるべく本件発明の構成と近い先行発明を持ってきて、その効果から類推される本件発明の効果に比べて、実際の効果はどうだったのかが検討されるべきなのだ。

したがって、私は上記の最判の判示には同意できる。 ちなみに第一線でご活躍中の高名実務家の高橋先生は本件について、「いろいろと言いたいことはあるけど、何を言っても関係者や判断者が良く思わないだろうから、(後略)」とツイートしつつも、この点については、「効果の顕著性は特定の構成との関係で判断すべき、という抽象的規範には異論はないよね」とツイートされているし、同じく高名実務家の岩永先生もブログで、「・・・,同様の作用効果を有する違う系列の物が知られているからという理由だけでは,顕著で有利な効果の否定はできない,ってことでしょうか。」と書かれている。

上記の判示は、今回の最判の主文の結論に導くために必要十分な判示だと思うから、私は、これが最判の射程だと捉えたい。


(2)構造を異にする先行化合物と比較することは許されないのか?

しかし、上記の考えもあまりに硬直的に考えてしまっては妥当性を欠くことになる。 例えば今回の最判で裁判所は、上記の核心部分の説示に至る前に、以下のようなことを説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
 ・・・他の各化合物は,本件化合物と同種の効果であるヒスタミン遊離抑制効果を有するものの,いずれも本件化合物とは構造の異なる化合物であって,引用発明1に係るものではなく,引用例2との関連もうかがわれない。そして,引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。
 しかるに,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。

最高裁の上記の説示を形式的に理解してしまうと、本件と全く同じ化合物の効果が引例に示されているか、その効果が高いことが高い確度をもって推認できない限り、本件化合物の効果は常に「予測できない」ということになりかねない。 しかし出願前に、この程度の活性を持つ化合物はたくさん知られていたという事実がもしあるのなら、たとえ構造的に異なる本件化合物においてそれが分かったからといって別に驚くにあたらないと評することはありうるだろう。 つまり、顕著な効果を否定するにあたって、本件化合物やそれと構造的に近い化合物において活性が知られていること(あるいは高い確度をもって推認できること)が必須というわけではないと思う。 構造こそ違えど、他の構造を持つ抗ヒスタミン化合物が、それなりに高いヒスタミン遊離抑制作用も持っていることがあることが知られていたのなら、抗ヒスタミン化合物である本件化合物についても、その程度のヒスタミン遊離抑制作用をもっているのではないかと期待することは当業者が抱く合理的な期待の範囲内であって、驚くに値しないという考えることもできるということだ。 むしろ、原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところで、その点は6月22日の投稿でも指摘したとおり。


(3)構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を肯定することも許されないはず(宮崎賢司先生の言う相同性理論)

最高裁は、「本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする・・・他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と言いながら、「(3) 本件各発明に係る効果」のところで、以下のように説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
(3) 本件各発明に係る効果
 本件特許の特許出願に係る明細書(以下「本件明細書」という。)に接した当業者が認識する本件各発明に係る本件化合物のヒスタミン遊離抑制効果は,本件明細書記載の実験(ヒト結膜肥満細胞を培養した細胞集団に薬剤を投じて同細胞からのヒスタミン遊離抑制率を測定する実験)において,本件化合物(シス異性体)のヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制率が,30μMから2000μMまでの濃度範囲内において濃度の増加とともに上昇し,1000μMでは66.7%という高いヒスタミン遊離抑制効果を示し,その2倍の濃度である2000μMでも92.6%という高率を維持していたというものであり,これに対して,抗アレルギー薬として知られるクロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムが,2000μMまでの濃度範囲でヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を有意に阻害することができなかったというものである

本件発明の効果に関する上記の最高裁の説示を読むと、「クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムなどの先行化合物はヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったのに対し、本件化合物は活性を示したのだから、これは予想外の顕著な効果だな」などと思ってしまうかも知れない。 しかし、クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムは、それこそ本件化合物とは「構造を異にする」化合物だ。 もし最高裁が、本件化合物とは構造を異にする化合物が同等の効果を発揮することが知られていたということのみをもって「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、本件化合物とは構造を異にするクロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムが本件化合物と同等のヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったということのみをもって本件発明の効果を「顕著な効果」と認定することも許されないというべきだろう。 これは宮崎賢司先生が最近書いた論文で指摘している「相同性理論」(二枚舌禁止など)(tokugikon no. 293)みたいなものだ。

要するに、効果を比較するのに相応しい先行化合物は何かということを考え、そういう化合物があるのなら、それと比較すべきということだ。 そして本件化合物と比較すべき先行化合物としてふさわしい化合物の代表例は、本件の医薬品承認にあたって厚労省所管の機構(PMDA)が出した報告書でもそうなっているとおり「ケトチフェン」ではないか? そしてPMDAの報告書によれば、本件化合物が持つヒスタミン遊離抑制作用は、ケトチフェンの24分の1でしかない(2018年6月22日の投稿の「3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない」を参照)。 これが正しいのだとすれば、本件化合物が示したヒスタミン遊離抑制作用が予想外の顕著な効果であるのかという点については疑問が生じるだろう。 また、この出願の明細書作成者は、なぜヒスタミン遊離抑制作用を示さない先行化合物との比較実験だけを明細書に記載し、ケトチフェンとは比較しなかったのか、という疑問も生じるところだ。 まあ当時の事情は知らないが。


(4)医薬用途発明であることは、進歩性のハードルを下げる理由となるのか?

なお、発明の効果が「顕著な効果」と言えるか否かの判断について、今回の最判には、「・・・,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・,本件各発明の効果の程度が,・・・顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と説示している箇所があり、これについて高石先生は射程範囲が問題となる旨をツイートされている。

この説示を見て思い出すのは、冒頭で紹介した玉井論文だ。 昨年の6月22日の投稿でも書いた通り、進歩性を認めるべき「顕著な効果」に関連し、玉井先生はその論文の中で、「医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。」、「・・・既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである。」 と論じていた (玉井克哉, 自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ)。 今回の最判が、進歩性を肯定するに足る「顕著な効果」を否定できないという文脈の中で「医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることからして、最高裁は、医薬用途発明に関しては、低い効果であっても「顕著な効果」だとみなされるということを前提として説示を行っている可能性は考えられるだろう。 あるいは、今回の最判における玉井論文の影響を示唆するものと考えることもできるかも知れない。

しかし、これについては先の投稿でも書いた通り私は批判的で、医薬分野についてだけ、類似品を増やすことを「特許制度として」特別にサポートする理由などそもそもないと思うし、現在の特許法が立法を経ずしてそれができる理由もないと思う。 ちなみに医薬品の特許延長制度は一見すると医薬発明を特別に厚く保護しているように見えるが、実際には、医薬品の製造販売承認を受けるにあたって国の規制により定型的に生じる特許期間の侵食をそのまま回復させているだけであって、医薬発明を特別に厚く保護しているわけではない。 その辺は同志社大の井関涼子先生がずっと指摘されているとおりだろう。

もし本件発明が、本件化合物を初めて作り出した発明であったり、本件化合物の抗ヒスタミン活性を初めて見出した発明であるのなら、私も喜んでその発明の進歩性をサポートするだろう。 たとえ既存の抗ヒスタミン剤と活性が変わらない、あるいは既存薬よりも若干活性が低下したものであったとしても、もし本件化合物が新たな構造を持つ新規化合物を提供した発明であるのなら、喜んでその進歩性をサポートするだろう。 しかし残念ながら、本件発明はそのような発明ではない。 この化合物は本件出願前に抗ヒスタミン剤として既に知られており、結膜炎の動物モデルにおいて治療効果も確認されていたものだ。 この化合物をヒト細胞に添加し、既存の抗ヒスタミン化合物が持っていることも多い「ヒスタミン遊離抑制作用」を検証していくのは実験の自然な流れとも言える。 そのような実験を行った者に対し、医薬分野だからといってわずかな進歩でも特許を与えてしまっては特許制度を歪めてしまうことになる。

それに、わずかな効果を基に医薬用途発明の出願を行う者が、その医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はまったくない。 わずかな進歩しかない医薬用途発明の特許を濫立させることによって、医薬産業が発展するとも、より多くの医薬品が上市されるとも期待することはできないのではないか。

そうした医薬品に対する保護は、医薬品を実際に開発し、手間と金のかかる治験を経て上市してくれた者に与えることこそ相応しい。 そうすると、6月22日の投稿でも書いた通り、この問題は特許制度として扱うよりも、薬事制度として適切な保護を行うようにする方が合理的だと思う。

[2019/8/30 追記]
但し、後述の(7)で、進歩性判断における「意味づけ」について触れるけれど、その部分で発明分野に応じた違いは事実上考慮されるのかな、という気もする。 私は効果の顕著性はあくまで技術的な観点で考えたくて、産業政策的に進歩性のレベルを上下させべきだという発想はないのだけれど、例えば「これだけの効果の違いでも、新薬として売りにできるほど違いだから顕著な効果だ」というような判断は、私としてはあり得る気がしており、果してこれが技術的な観点なのか、産業政策的な観点も含まれているのかは、確かによく分からないところがある。



(5)進歩性なしという結果から逆算して「顕著な効果」を否定する裁判所の実務が論理的な隙を生むことになる(という可能性)

これは想像でしかないけれど、もし裁判所が、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文を書いているのだとすれば、そういう裁判所の実務こそが、顕著な効果を否定する論理構成を捻じ曲げ、ひいては上級審で否定されてしまう原因になるのだと言いたい。

裁判所の実務が本当はどうなのかという点については、実際に判決を行った(行っている)裁判官が明らかにしない限り表には出てこないだろうが、判決文を読む限り、そういうことを疑わせる事例はあるという気がする。

「シュープレス用ベルト事件」に関して前回の投稿で書いたとおり、この問題に関連して元知財高裁所長の清水先生は、顕著な効果があれば容易なものでも進歩性を認めるという考え方(独立要件説)について、「多くの裁判例の立場である」、「他の多くの裁判例と同様に」と論じている。 確かに多くの判決はそうなっているのかも知れない。 しかしそれは単に、多くの判決文の「体裁」がそうなっているというだけであって、特に進歩性を否定する判決をする場合に、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文をそういう体裁にしているという可能性は否定できないのではないかと思う。

仮に後者のような考え方、すなわち、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考える場合、判決文においては「顕著な効果なし」という結果ありきで「顕著な効果」を否定することになるから、どうしても論理付けが強引になってしまだろううし、論理的に破綻してしまうことも多くなるだろう。

但し、仮にそういうことがあるとしても、裁判所だけを責めるわけにはいかないかも知れない。 なぜなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」という「独立要件説」的な考え方はなかなか強固な通説であって、田村先生も最近の論文で「独立要件説的な説示の影響力を物語る」と書いている(パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12の脚注20)。 裁判所としても、そういう通説に反するような判決文は書きにくいだろうから、進歩性を否定する場合は、必ず「顕著な効果」も否定しておこうという気分になってしまうこともあるのではないだろうか(まぁ、全部想像ね)。

そういう気持ちから脱して、たとえ「顕著な効果」があっても進歩性を否定するときは否定するのだという判決文を書いてもらうには、裁判官に、それだけの勇気と、ある程度の勝算を持ってもらう必要があるわけで、私はそういう勇気や勝算を与えるのがアカデミアの役割だと思うし、そういう意味で、「顕著な効果」があっても進歩性を否定すべき場合はあるのだと論じる田村先生には大いに期待しており、また、そう論じる論者がもっと多く出てこなければならないと思っている。(もちろん、パブリック・ドメイン・アプローチの重要性を説く𠮷田先生にも期待している)

ちなみに欧州特許庁では、予想外の顕著な効果があっても進歩性を否定すべき場合があることを明示的に定めており、発明に至る道が一本道である場合は、それによる効果は単なる「bonus effect」とみなして進歩性を否定するということになっている(EPO審査基準 Part G, Chapter VII, 10.2)。 これは、本当に「一本道」である場合に限られず、選択肢が複数であったとしても、その数が限られており、それらの選択肢は近いうちに試されることになるだろうと認定できる場合も同様だろう。 日本でも、立法によらずにこうした考え方を採ることは可能だろうし、審査基準としても、こうした考え方を明記しておくことを考えた方がよいのではないかと思う。


(6)最判は「独立要件説」を支持したのか

今回の判決文で最判は、「本件特許に係る発明の進歩性の有無に関し,当該発明が予測できない顕著な効果を有するか否かが争われている。」と述べるだけで、「顕著な効果があれば進歩性あり」とは判示していないから、「独立要件説」の立場をとっているとまでは言えないと解したい。(なおツイートには、独立説を採ったと評価できるとするもの(高石先生)や、そうとも言い切れないとするもの(田中先生)などがある。) (田中先生のブログの記事(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))も参照。)

本件において予測できない顕著な効果を有するか否かが争われていることを見た最高裁は、今回の最判で、「顕著な効果を判断するなら、ちゃんと判断しろ」と言ったまでであって、「顕著な効果があれば進歩性あり」と言ったわけでもなければ、「本件の進歩性の判断において、顕著な効果を判断する必要がある」と言ったわけでもないし、本件が、「顕著な効果があれば進歩性が認められる案件であるのか否か」については最高裁は関知しないし責任も負っていない(と思いたい)。

そもそも特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、その発明については、・・・、特許を受けることができない。」と定めている。 そうすると、容易に発明をすることができたにもかかわらず、予想外の「顕著な効果」があったことをもって進歩性を肯定するとすれば、29条2項に反することになるのは明らかだろう。 今回の判決で裁判所は、顕著な効果を否定した原審の判断について「・・・,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」と判示しているが、それを言うならそもそも29条2項の判断(容易に発明をすることができたか否か、の判断)において、「顕著な効果」が進歩性肯定に働く要因として常に作用できると考えることは、法令の解釈適用としてできるものではないはずだとも思う。

もし「発明の効果」によって進歩性が肯定される場合があるとすれば、それは「容易に発明をすることができた」(29条2項)という判断に影響を及ぼすような効果がある場合に限られるべきだろう。 それは、一体どのような場合なのだろうか?


(7)「顕著な効果」を否定できない限り進歩性を否定できないという呪縛から逃れよ

「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合とは、具体的には、以下のような場合だろう。

顕著な効果により進歩性が認められる場合の例

ある発明者は、コレステロール生成阻害剤として既に知られているピリミジン環を有する既知化合物(化合物A)を改変することを考えた。 改変とは具体的には、化合物Aの一部の置換基を、他の置換基に取り換えることであるが、「他の置換基」に取り換えるといっても、誰も知らない新たな置換基に取り換えるわけではなく、周知な置換基(フェニル基とか、ベンジル基とか、そういうもの)に取り換えるだけだ。 また、そういった置換基に置換した化合物を製造する手法自体は周知技術であり、容易だ。 但し、化合物Aのどの置換基を、どの他の置換基に置換するかには様々な組み合わせがあり、その組み合わせの数は「2000万通り」は下らない。 改変により活性が低下したり、喪失することもあるだろうし、上昇することもあるだろう。 しかし一般的には、でたらめに改変すれば活性は低下することが多いのは技術常識であろう。 そしてこの発明者が、化合物Aのピリミジン環の2位という部位についている置換基に含まれるメチル基をメチルスルホニル基に置換したところ、同等以上の活性を持つ化合物Bが得られ、ベンジル基に置換したところ活性が1/3に低下した化合物C(でたらめに改変すればこのくらいに低下するだろうという程度に活性が低下した化合物)が得られた。

これは「ピリミジン誘導体事件」に基づく例で、私がSotoku 10号に書いたものだ。 上記の「化合物A」とは引用発明の化合物、「化合物B」はピリミジン誘導体事件の本件発明の化合物であり、「化合物C」は私がでたらめに作った化合物だ。 このうち、「化合物B」には進歩性は認められるべきだが、「化合物C」には進歩性は認められるべきではないと私は思う。 「化合物C」はでたらめに作っただけだからね。 「化合物B」も「化合物C」も、2000万通りの組み合わせの中の一つであって、それらを選択する動機付けは特にない点では一致している。 それなのに、なぜ「化合物B」にだけ進歩性が認められ、「化合物C」には進歩性が認められないのだろうか? それは、「化合物B」には(進歩性を認めるに足る)「顕著な効果」があると認められ、「化合物C」にはそれがないからだ。

「化合物C」は、考えられる2000万通りの改変の組み合わせの中の一つで改変したら、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という程度に活性が低下した化合物が得られたというもので、「顕著な効果」は認められない。 それに対して「化合物B」は、「化合物A」と同等以上の活性を示したというのだから、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という予測を上回る活性を示したと言えるだろう。 つまり、「本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったもの」、「当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なもの」と言いうる効果だ。 そして、その効果があることにより、「化合物B」という発明は、「確かに、2000万通りの選択肢の中からそういう化合物を選び出すのは 『容易に発明をすることができた』とは言えないよね」と評することができるから、「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合となるのだ。

このように、「顕著な効果」により進歩性が認められるためには、その前提として、本件発明の構成に到達にするまでには道は一本ではなく、たとえ一つ一つの道を歩くことは容易であるとしても、「本件発明の構成」に至る道を当業者が選び出すことはそうそうすぐに起こることではないだろうという事情が必要なのだ。 「顕著な効果」とは、そういう場合において、「なるほど “当たり” を引き当てたね」とみなせるほどの効果のことを言い、その場合に限って「顕著な効果」は進歩性を認める理由となるべきだと思う。 したがって、そもそも選択肢が一つしかなく、その構成が試されるのは時間の問題であった場合は、「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いており、顕著な効果があっても進歩性は認めるべきではない。

ちなみに、「化合物C」の進歩性はどのように否定されるかというと、確かに多数の選択肢の中から「化合物C」を選び出すことはそうそうありそうにないという意味では容易に到達できるとは言えないが、「化合物C」の効果は、他の選択肢をでたらめに選択した場合と同等の効果しか発揮しない以上、「化合物C」という発明は、「でたらめに選択した発明の一つ」に過ぎないと評されるのであり、「でたらめに選択した発明の一つ」を発明することは容易だと解される以上、「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことになり、進歩性は否定される。

上記のとおり、「発明の効果」を考慮することによる進歩性の判断は、ある種の「意味づけ」を伴う(Sotoku 10号の脚注38や、2019年4月24日の投稿の最後の部分を参照)。 つまり、「化合物C」は「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけがなされることにより容易だと判断されるのに対し、「化合物B」は「でたらめに選択した発明の一つ」とは思えない程度の効果(これを「顕著な効果」という)があることにより、「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけが回避され、進歩性が肯定される。 したがって、私はこれを「意味づけ要件」(あるいは「進歩性の第2要件」)と呼んでいる。

以上に説明した、私が思う「あるべき進歩性の判断手順」をまとめると以下のようになる。

[あるべき進歩性の判断手順]
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但し、上に示した考え方は、実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方とは異なっているだろう。 実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方は、以下のようなものだ。

[森田裕, 日本知財学会誌 Vol.16, No.1, 2019 31-40 の 図1]
moritasensei1_20190827.png

すなわち、まず進歩性判断の第1段階で、「発明の構成」が容易想到であるか否かが判断される。そして、「発明の構成」が容易ではない場合、進歩性は直ちに肯定される。 そして「発明の構成」が容易ではない場合でも、進歩性判断の第2段階で「発明の効果」が検討され、その効果が「顕著な効果」である場合は進歩性が肯定される。 このように、通説的な理解では、「顕著な効果」は「発明の構成」が容易な場合の救済策として位置づけられており、いわば進歩性肯定のダブルチャンスが用意されているというのが通説と言えるだろう。

通説的な理解(下図)でも、私の考え方(上図)でも、「発明の効果」が検討されるのは第2段階においてである。

「発明の構成」が画期的に新しいもの(複数の選択肢の中から選んだだけというものではないもの)である場合は、通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)とで違いは生じない。 なぜなら、「発明の構成」が画期的に新しいということ自体が、「でたらめ・ありきたり」ではないことを推認させるから、効果の「大きさ」を考慮するまでもなく第1要件も第2要件(意味づけ要件)もクリアできるからだ。 通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)で違いとで違いが生じるのは、複数の選択肢の中からでたらめに選んだだけの発明(上記の「化合物C」のような発明)に進歩性を認めるか否かという場面と、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が高ければ進歩性を認めるのか否かという場面であり、通説的な理解では、どちらの場合も進歩性を認めてしまうのかも知れないが、私の考え方では進歩性は否定されることになる。

「ピリミジン誘導体事件」判決では、膨大な選択肢がある場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 これは通説的な理解(下図)に沿うものであるが、そのような考え方では、上記の「化合物C」のようなでたらめ発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている。 容易なものでも効果が顕著であれば進歩性を認める通説的な理解(下図)に基づくのであれば、進歩性は肯定されうるのかも知れない。 しかしそのような考え方を採ったのでは、特許制度は「容易ではない」発明を保護する制度というよりも、目ざとい人々によって発明が独占される制度となってしまうのではないか。

ちなみに、上に引用した通説的な進歩性の考え方の図を作成した気鋭の若手実務家の森田先生は、次のようにツイートされている。

[6月14日ツイート]
特許って最高の発明を保護する制度じゃなくて、最低の発明保護に適した制度。皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できるわけです。(後略)

これを受けて高橋先生は、やや自嘲気味に、次のようにツイートされている。

[7月29日(1)]
特許は、皆が次の日に思いつくことを権利化して他人の事業を邪魔することを可能にする制度だ、しかも同業他社の製品が明らかになってから補正とか分割をするという合法的な嫌がらせ手段が多数備えられている、ってことに疑問を抱かなくなってからが一人前の実務家だよ。

[7月29日(2)]
ライセンス料をしっかり稼げている特許発明で感動的な大発明はかなり少なくて、たいていは、中身のないくっだらねぇ発明だなぁ、公知例とほとんどおんなじじゃん、特許技術だけでギリ権利化しただけ、みたいなのがガンガン金を稼いでいる。これは特許制度の常識だと思うが。

[7月29日(3)]
特許制度っていうのは一部の頭のいいひとがすごく濫用している制度だよね。それによる社会的損失は甚大。制度維持の人的物的コストも半端ない。しかし、先行技術開発に対する投資保護ぐらいの機能は一応あるし、諸外国も特許制度があるので、廃止するという決断は無理。

(なおこれらの先生方はひどいことを言っているのではない。むしろ、よくぞおっしゃって下さいましたというようなことをツイートしているだけなので念のため。 また、これらのツイートは本事件との関係でされたものではない。)

私も特許制度を廃止しろとは思わない。 しかし、放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明は、そもそも「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いているのであり、効果の顕著性を判断するまでもなく、進歩性は否定されるべきだと考えるのが妥当だと思うのだが、どうだろうか。

*     *     *

以上のとおり、「ピリミジン誘導体事件」と「アレルギー性眼疾患事件」(本事件)は、「発明の効果」に関する通説的な理解に潜む不都合を露わにさせる好例を提供していると思う。 これを機に、進歩性の判断における「顕著な効果」がどのように位置づけられるのかについて、通説に疑問を持つ人が増えてくれることを期待したい。


[2019/8/30 追記・削除などいくつか実施。。 ]

[2019/9/03 (6)に田中先生のブログのリンクを追記。 ]


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする