2019年09月17日

新しいアッセイ系は既知化合物の特許出願のチャンスとなるか (「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決 平成30(行ヒ)69 令和元年8月27日 追記2)


この最高裁判決について8月30日に投稿した際に、「原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところ」だと書いた。 つまり、本件の明細書では、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロ(すなわち、人体や動物を用いるのではなく、培養細胞を用いる)実験系を用いて実験が行われて本件化合物のヒスタミン遊離抑制活性が測定されているのに対し、原審(平成29(行ケ)10003)で裁判所が「顕著な効果」を否定するために持ち出した引例は、スギ花粉症患者に被検化合物を点眼し、採取した涙に含まれるヒスタミンを測定することでヒスタミン遊離抑制活性を測定したインビボ実験(生体を用いた実験)だった。 そして引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して、次のように説示した。

平成29(行ケ)10003,PDF 30-31ページ]
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。

しかし、インビトロの実験系とインビボの実験系では、同じ化合物を使っても違う数値になることはよくあるのだろうから、異なる実験系で得られたヒスタミン遊離抑制率(数値)を単純に比較することはできない。 したがって、本件の明細書のインビトロ実験で得られた数値と同等以上の数値が引例のインビボ実験で得られていたからといって、本件の効果を「大したことはない」と直ちに結論することはできないようにも思われる(まぁ、薬というものは最終的にはインビボ(臨床)で使うものだから、インビボで効果がある方がすごい気はするが)。

つまり本件の原審判決(平成29(行ケ)10003)では、本件化合物の効果が「大したことはない」ということを明確に示すような先行技術の存在が示されていないのだ。 この点が、原審判決において、本件の「顕著な効果」が今一つはっきりと否定できていないように見えてしまう理由であるように思う。 逆に言えば、だからこそ特許庁の審判(無効2011-800018)では、本件発明の「顕著な効果」が認められたのかも知れない。

それを踏まえると、新しいアッセイ系が利用可能となった場合は注意が必要だろう。 例えば、ある疾患の既存薬や治療候補化合物の中に、ある2次的な作用機序で効果を発揮するタイプの化合物があることが既に知られているとして、その作用に関して新しいアッセイ系が利用可能となった場合は特許出願のチャンスが生まれる(以下)。

[新しいアッセイ系が利用可能となった場合の出願戦略]
ある疾患の既存薬や治療候補化合物の2次的な作用機序に関して、そのアッセイ系で良好な効果を示す化合物(化合物A)が見つかったら、同じ疾患の既存薬等の中で、そのアッセイ系で効果を示さないものを選んで、それらの結果を並べて特許出願を行う。 すると、このアッセイ系において良好な効果を示すのは「化合物A」だけで、他の化合物は効果を示さないように見えるから、化合物Aには予想外に顕著な効果があるように見える。 また、新しいアッセイ系であるので、この2次的作用機序において、化合物Aと同等以上の効果を持つ既存化合物が存在することを明確に示すデータは、出願前には存在しない。 したがって、そういう引例により進歩性が否定される心配はない。

こうしたアッセイ系による比較実験の結果は、「臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」(無効2011-800018)(2018年6月22日の投稿参照)と評価される可能性もある。 特に、これまで持っていると思われていた活性が、このアッセイ系では検出できない、というような既知の化合物が見つかれば、「このアッセイ系は非常に厳しいアッセイ系だ」と主張する理屈ができるので好都合だろう。

異なるアッセイ系(従来のアッセイ系)においては高い効果を示す化合物は出願前に知られていた、という理由で進歩性が否定されそうになった場合は、「構造を異にする他の化合物が、異なる評価系において高い効果を示す場合があることが知られていたとしても、そのことのみをもって、本件化合物の効果顕著性を直ちに否定することはできない。」と反論することができる。 今回の最判はそうした反論の正当性をサポートするかも知れない。

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本件(アレルギー性眼疾患事件)が意図的にそうした特許明細書を作成して出願を行ったのかも知れないと言っているのではない。 ヒスタミン遊離抑制作用に関しては、モルモットの細胞を使ったアッセイ系では「本件化合物」を使っても活性が検出されなかったなど、アッセイ系によって結果がかなり違うようだから、本件明細書の実施例の結果も、意図せず偶然に得られた結果である可能性は高いかも知れない。 そして、新しいアッセイ系を使っていくつかの化合物をアッセイしたところ、もし本件化合物だけに活性が認められたら、私だって特許出願を考えるかも知れない。 しかし、出願を行う際の出願人側の内情は分かりようもないのだから、そこは分からないということを前提に、どうやって妥当な判断をしていくのかを考えなければならないだろう。

前訴判決の判決文によれば、本件明細書に記載されている実験で用いられているヒト細胞を使ったインビトロのアッセイ系は、本件特許の優先日の約7か月前に公開されたばかりのようで、これについて特許権者側は、本件特許の優先日当時は「当業者にとって現実的に利用可能な技術ではなく」と主張している(平成25年(行ケ)10058の93ページ)。 つまり本件明細書の実施例で用いられているインビトロのアッセイ系は、非常に新しいものだったわけだ。 判決文を見る限り、被告(特許権者側)は、これを進歩性肯定のための有利な事情として主張しているようだが、アッセイ系が出願前に広く利用されていなかったことは、類似の効果を有することが知られている既存薬をそのアッセイ系で調べれば、本件化合物と同等以上の高い効果を示すものは存在していたという可能性をむしろ否定できなくするのだから、特許権者側の主張とは裏腹に、むしろ「顕著な効果」の推認を阻害する事情とみなし得るものだろうとも思う。

新しいアッセイ系における好結果を出願前に予測できない限り、「予測できない顕著な効果」は否定できずに進歩性は肯定されるのか、それとも、新しいアッセイ系が出願前に広く利用されていなかったという事情は、むしろ顕著な効果の認定にとって阻害的に働く要因と考えるべきなのか。 どちらが妥当なのだろうか、よく考える必要があるだろう。

しかし、少なくとも出願人の立場で考えた場合、今回の最判から示唆されるのは、『新しいアッセイ系が利用可能となった場合は出願のチャンスだと考えろ』ということだ。 データを選別し、上記のような特許出願を意図的に出願することは手続としては不可能ではないように見えるし、そういうケースは今後発生する可能性はあるだろう。 そして特許庁や裁判所に求められるのは、仮にそうした出願がなされた場合に、その進歩性を適切に判断できるような手法を持っていてくれなければ困るということだ。 今回の最判が、それを妨げるものとなってはならない。

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さて、2次的な作用機序に関して特許を取得した場合、この特許を生かして医薬品開発を進めるためには、医薬品の製造販売承認を申請するにあたって申請者は、医薬品の承認を審査する厚労省所管の機構(PMDA)に対して、ぜひとも本薬の薬効にこの「2次的作用機序」があることを認めさせ、医薬品の添付文書に、その作用を記載するように持って行く必要があるだろう。 そうすることによって、この医薬品の後発薬が実施されたときに、本件特許を侵害しているという理屈が通る余地が生まれるからだ。 2018年6月22日の投稿でも書いた通り、本薬(パタノール点眼薬 0.1%)に関するPMDAの審査報告書 (12ページ)によれば、本件医薬品の承認申請者は、本薬はこの2次的作用、すなわち「ヒスタミン遊離抑制作用」も発揮されているのだということについて主張したと思われる。 そしてPMDAに「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低い」と言われながらも、この作用があることについてはPMDAに認めさせることに成功し、添付文書にも記載された。 特許権者側の立場になって考えれば、これは見事な成果だし、事実として、パテントリンゲージにより後発の参入を阻止できているのだから大成功と言えるだろう。 そして、すべてはこの特許があってこそであり、今回のように新しいアッセイ系を使って「顕著な効果」を主張して特許を取得しておくことは、現時点の状況で見る限りは、医薬品の特許戦略において有効な作戦だということになるかも知れない。

但し、「ヒスタミン遊離抑制作用」に関する用途発明に限定された本件特許が、果たして後発薬を抑えられるものであるのか、という点については、2018年6月22日の投稿の他、以下も参照。

篠原勝美『日本型パテントリンケージ制度の諸問題(上)』(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35)の33ページ左

gemedicines氏の投稿『オロパタジン塩酸塩点眼液(パタノールR点眼液0.1%) 』(2019年9月7日)

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冒頭で述べたとおり、本件の原審(平成29(行ケ)10003)で知財高裁は、引例のインビボ実験における数値(70%〜90%のヒスタミン放出阻害率)を持ち出して本件発明の効果の顕著性を否定し、私はそれについて違和感があると書いた。 それでは、もし本件の進歩性が否定されるとしたら、引例のインビボ実験における結果をどのように扱えばよいのだろうか。

私が考えるに、本件の顕著な効果を仮に否定する場合、引例のインビボ実験など別に持ち出す必要はないのだと思う。 単に、本件明細書に開示されている限られた化合物を用いたインビトロの比較実験の結果のみからでは、「臨床(インビボ)の場面までを包含するヒスタミン遊離抑制作用」に関して、本件化合物が、他の抗ヒスタミン剤と比べて突出した効果を持っていることは合理的に推認できない、ということで十分なのだと思う。

ちなみに本件明細書によれば、ヒト結膜肥満細胞を用いたインビトロの実験系において、本件化合物は高いヒスタミン遊離抑制作用を示し、既存化合物であるクロモグリク酸二ナトリウムはほとんど作用を示さなかった。 具体的には、本件化合物を100μM以上の用量で用いて発揮できた効果を、クロモグリク酸二ナトリウムは10〜1000μMのいずれの用量でも上回ることはできなかったどころか、そもそもクロモグリク酸二ナトリウムはまともな効果を発揮していないようにさえ見えた(本件明細書の表1参照)。 しかし、本件原審(平成29(行ケ)10003)の判決文によれば、臨床(インビボ)実験の結果においてクロモグリク酸二ナトリウムは、点眼後5分後および10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率について、「2% クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%」という高い抑制率を示すことが知られていたようだ(判決文PDF30ページ)。 インビボで示すはずのクロモグリク酸二ナトリウムの高いヒスタミン遊離抑制作用が、本件明細書のインビトロアッセイ系ではほとんど検出できなかったことは、インビボにおけるヒスタミン遊離抑制作用と、本件明細書のインビトロアッセイ系におけるヒスタミン遊離抑制作用は、高い相関があるとは言えないことを示唆しているだろう。 そして、高い相関があるとは言えないのであれば、本件化合物が、たとえ本件明細書のインビトロアッセイ系において顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示したとしても、インビボにおいても顕著に高いヒスタミン遊離抑制作用を示すことは合理的に推認できないということになるのではないか。 これについては2018年の6月22日の投稿でも書いた通り、原審の審決(無効2011-800018)で特許庁の審判合議体は、特許権者の主張をそのまま繰り返す形で「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」と説示しているが、そういう可能性を完全に否定するわけにはいかないにしても、インビボにおける効果と本件明細書のインビトロアッセイ系での効果には高い相関がないという “余地” もかなりあるわけで、その場合は、「本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するためにはあまり意味のないスクリーニング条件である。」ということになる。 本件明細書のインビトロアッセイ系が、高いインビボ効果を持つ化合物を選別するための「非常に厳しいスクリーニング条件」なのか、それとも「あまり意味のないスクリーニング条件」なのか、どちらが正しいのか真偽不明である限り、「明細書の結果に基づいて、出願当時に、インビボでも顕著な効果があると合理的に推認できるのか」を考えれば、それを肯定するのは難しいという結論にならざるを得ないのではないか。

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本件のクレームが、もし本件明細書の実験で用いられた「インビトロ」のアッセイ系に限定されているのであれば、上で取り上げたようなインビボとインビトロの違いは問題にはならない。 しかし本件クレームの発明がインビボ(臨床)への適用までを包含するものである以上、もしそのクレームの範囲全体にわたって顕著な効果が合理的に推認できないのであれば、その進歩性を肯定することはできないという結論が導かれなければならないと思う。

このように、仮にインビボの結果が記載されている引例を用いて顕著な効果を否定するとしても、原審判決が行ったように、本件明細書におけるインビトロ実験の数値を、引例のインビボ実験の数値と単純に比較して「数値が高いとは言えない」ことを理由に顕著な効果を否定する、という論理構成にするのではなく、両方のアッセイ系の結果に高い相関があるとは認められないことを理由に、本件明細書の開示からではインビボにおいても顕著な効果が発揮されるとは推認できないという結論を導き出す方が、論理的には筋がいいのではないか思う。

つまり、そういう判断手法を、特許庁や裁判所の方たちには持っていて欲しい。

[2019/09/18 筋悪だった後半の議論を多少ましになるように書き直して再公開。^^]

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2019年09月03日

「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)追記


今回の「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決(平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)に関して、田中汞介先生がご自身のブログ『特許法の八衢』で記事を2つ(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))投稿されているので、それを読んで、まあ、あまり関係あることは書けない気もするけれど、前回の投稿に引き続き、思いついたことを若干書いてみたい。

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(8)最高裁による破棄理由に関する田中先生の論考について

8月31日の田中論考では『破棄理由』に関し、「原審(知財高判平成29年11月21日(平成29年(行ケ)第10003号)) の判断枠組みは、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる】であり、【効果顕著性がなければ審決を取り消せる一方、効果顕著性があれば審決が維持される】というものではない。」と指摘されている。

後者は、前者の反対解釈を付加したものだ。 後者であれば効果顕著性があれば審決が維持されることになろうが、前者であれば、効果顕著性があってもなお、審決を取り消す余地はあるということになる。

私は、8月30日の投稿で書いた通り、一般論として、「効果顕著性があっても、進歩性は否定しうる」と考えており、本件発明も、そうした場合に該当しうると思っているから、そういう考えが、今回の一連の判決の枠組みの中で依然として採用しうるというのなら、夢のある話だ。

改めて原審判決を見ると、判決の論理構成は以下のようになっている。

平成29(行ケ)10003 より]
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。(判決文31ページ)

 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。(判決文31ページ)

4 結論
 以上のとおりであるから,その余の点について判断するまでもなく,本件審決を取り消すこととし,主文のとおり判決する。(判決文34ページ)

上に引用したとおり原審判決は、原審審決の効果に係る判断の誤りをもって、その余の点について判断するまでもなく、原審審決を取り消している。 この判示の中に「効果顕著性があれば審決が維持される」という含意が感じられるかというと、まぁ、感じられないという方が自然だろうという気はする。

ただし、もし効果顕著性があってもなお審決は取り消される「理由」があり得るというのなら、効果顕著性を判断する前に、あるいは同時に、それが判断されてしかるべきであるのに、原審判決は効果顕著性のみを判断しているのだから、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、という意見はあるかも知れない。 特に、効果顕著性を判断するまでもなく審決は取り消されうる「理由」が本件においてあるのなら、まずはそれが判断されるべきであるのに、原審判決でそれが判断されていない以上、そうした「理由」がありうるという解釈は不自然ではないか、と考える人は多いかも知れない。

そういう意見が出るのは当然だろうとは思うし、解釈の優劣としては、そちらの解釈の方に軍配が上がる可能性はあるだろう。 しかし、どちらかの解釈しか採りえないとまでは言えないように思う。


(9)差戻審について

田中先生の9月1日の方の論考では、差し戻し審で採りうる結論は以下の3つだろうと指摘されている。

 1. 効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定
 2. 効果顕著性の存在を認め、進歩性肯定
 3. 効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定

そしてもし上記の「3.」(効果顕著性の存在を認めるも、進歩性否定)を採るのなら、なぜ原審で効果顕著性を判断したのか説明が必要だと思うと指摘され、そうした説明の一つの可能性として、効果顕著性の「存在」の判断と、効果顕著性の「程度」の判断は別だと考える可能性が提示されている。 なるほどと思った。

ちなみに、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果(ヒスタミンの遊離抑制作用)の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では当該効果の「程度」(効果顕著性)を判断しているのであるが、仮に田中先生の可能性を採用すれば、本訴原審(平成29(行ケ)10003)では効果顕著性の「存在」が判断され、差し戻し審では効果顕著性の「程度」(効果顕著性の程度)が判断されようとしているというフラクタルな感じになるのかも知れない(笑)?。

私の考える可能性は・・・、前回の投稿で書いた趣旨にしたがうのなら、

・ 効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定(予備的に、効果顕著性の存在を認めず、進歩性否定)

というもので、前回の投稿の(7)にしたがって「効果顕著性の存否にかかわらず、進歩性否定」という結論を導き、(3)にしたがって予備的に顕著性を否定するという感じになるのだろう。 具体的には前者については、ヒト細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用の「程度」が測られるのも間近だったといえ、そうである以上、本件発明は「容易に発明をすることができた」(29条2項)と言うほかなく、その効果が仮に予測を超えて顕著であるとしても、「容易に発明をすることができた」という判断を左右するものではない、というもの。 後者(顕著性否定)については、本件明細書には、本件化合物がヒスタミン遊離抑制作用を有することが開示されているとはいえ、その作用の程度は、クロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムなど、限られた化合物との比較でしか評価されていないし、高いヒスタミン遊離抑制作用を有する化合物が他にも知られていたことを考えれば、予測を超えて顕著とは認められない、というもの。

最判は「・・・,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。」という。 私の考える上記の理屈に沿って、最判のいう「諸事情の具体的な内容」を説明すれば、「明細書には、少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、当該少数の構造を異にする他の化合物に比べて活性が顕著であったからといって、本件発明の効果が予測を超えて顕著であると直ちに結論することはできない。」というのが「事情」だ。 また、本件発明が医薬用途に係るものであることをも考慮すると、本件明細書に開示されているヒト培養細胞を用いた実験のみからでは、ヒトへの臨床適用を含むクレームの全範囲において予測を超えて顕著な効果が奏されると直ちに認めることはなお困難、というのも「事情」と言えるだろう。 これは最判の説示をそのままお返ししているだけだから、最判の説示が正しいというのなら、この「事情」も否定はできないのではないか?(笑) (前回投稿の(3)も参照)

それから、上記の最判の後半部分の「本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない」という説示に対しても、「明細書には、そこに示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較しか示されておらず、その結果のみをもって本件化合物の効果の程度が予測を超えていると推認できる事情等は何ら明細書に説明されていないし、技術常識とも言えない」というのが「事情」なのであって、明細書に開示されている少数の構造を異にする他の化合物との比較をもって顕著性が推認できるかが問題となっている以上、それを否定するためには、構造を異にする他の化合物との比較をもって足りると考えなければ道理が合わないということだ。

また、田中先生が「説明が必要」と指摘されていること、すなわち、もし顕著な効果があっても進歩性は否定されるのなら、「なぜ原審において効果顕著性を判断したのか」という点について説明するとすれば、かなり鉄面皮な説明にはなるが、本件の場合は、たとえ顕著な効果があっても進歩性は否定される理由はあるのではあるが、それとは別に、効果顕著性を否定することによっても進歩性は否定されるのであり、進歩性を否定するにあたってどちらで判断するかは任意であって、とやかく言われる筋合いはないという説明になる(笑)。 また、前訴判決(平成25年(行ケ)10058)では効果の「存在」の容易想到性が判断され、本訴では「効果顕著性」が問題となっていることに鑑みて、原審では効果顕著性を判断してやったのだ、と説明することもできるだろう。

ということで、まぁ、最高裁に喧嘩を売っているみたいになる点で、これは無理か・・・、という感じは否めない。。

但し、上記の理屈が最高裁に喧嘩を売るようになってしまう一番の原因は、最判が、「構造を異にする他の化合物」との比較だけでは「顕著な効果」を否定することはできないと説示する一方で、本件明細書には「構造を異にする他の化合物」(しかも少数)との比較しか開示されていないことを不問にしていることにある。 そして「そこは不問にはできないのだ」という立場を取ると、まるで最高裁に逆らっているように見えてしまうのだ。

しかし明細書の開示から顕著な効果を推認できるか否かという問題と、引例からそれを否定できるか否かという問題は、分離することはできない。 明細書の開示が、本件化合物の効果を比較すべき対照としっかり比較された説得力のあるものであればあるほど、それを否定するための引例は完璧でなければならないが、明細書の開示に説得力がない場合は、それを否定するための引例に完璧さは求められない。 そして両者(明細書の開示と引例の開示)を一体として判断するとき、それは引例によって「顕著な効果」が否定されると捉えるのは適切ではなく、明細書の開示と引例の開示との関係において本件発明の効果が「顕著な効果」だとみなすことができないと捉える方が実体に合っている。 明細書に開示されているのは「構造を異にする他の化合物」との比較に留まる場合に「顕著な効果」を推認することができるのか否かという問題を不問とし、引例に開示されている「構造を異にする他の化合物」との比較のみでは「顕著な効果」を否定できないと説示する今回の最判を、『否定できなければ肯定せよ』という説示だと捉えるとすれば、分離できない問題を分離する失当を犯すことになる。 逆に最判がそのような意図で説示をするはずはないと捉えるのであれば、たとえ最高裁に喧嘩を売っているように見えるとしても、上記のような「事情」を認定することをもって最判に応えることは、結局は最判の説示を正しく捉えることになるはずだ、と思う。


(10)最判の実務への影響

顕著な効果は「本件発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点」で検討されなければならないという最判の一般論についてはともかく、その理由をもって “本件の” 原審を破棄したということが実務に及ぼし得る影響は大きい。 本件には特殊な状況がある。 原審に先立つ前訴判決(平成25年(行ケ)10058)において、「・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,・・・ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。」と説示され、その判決は既に確定しているからだ。

この状況で、本件発明の進歩性がこのまま肯定されることになれば、所定の効果を有することを確認することについて出願前に既に動機付けがあり、その用途に適用することには既に進歩性がなくなっていることが明らかな状況であっても、その効果が予想外であれば、直ちに進歩性が肯定されるという雰囲気が醸し出されるだろう。

例えば、先行文献には本件発明の構成が開示されており、「この化合物の○○活性について調べてみることも興味深い。」とまで記載されているとしても、実際にその活性を調べて高い活性が確認されたり、用量依存性において目新しい特性(本件のように高濃度においても活性が低下しないなど)を示すことが分かった場合には、出願人としてはこの最判を掲げて進歩性を主張できることにもなりそうだ。

よって、出願人・特許権者サイドにとっては、この最判はとてつもなく強力な武器となる可能性があるが、それに対峙しなければならない側にとっては、どうやってその進歩性が否定できるのか、頭の痛い状況になるのではないか。


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2019年08月30日

予測できない顕著な効果を否定できない限り進歩性を否定することはできないのか(「アレルギー性眼疾患」事件最高裁判決,平成30(行ヒ)69,令和元年8月27日判決)


この事件については、原審の知財高裁判決(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;部眞規子裁判長)に対して玉井克哉先生が出された論文(自治研究 94(6) 136-150 (2018))を読んだことをきっかけに、昨年(2018年)の6月22日の投稿で感想を書いたことがあった。 そして本件が上告されていることについては、その投稿の最後で書いたように、「顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。」 というのが私の気持ちだった。

ところが本件は最高裁に受理されて口頭弁論が開かれることになってしまい、玉井先生が「少し、わくわくする」とツイートしていらっしゃった。

そして8月27日、原判決を破棄して知財高裁に差し戻す判決が出て、玉井先生も「拙稿と意見が一致」とツイートしているとおり、「玉井先生おめでとうございます」という感じになってしまった。 少なくとも破棄差し戻しと言う結果やその他のいくつかの点では 。

今回の判決に関して玉井先生は、上記のツイートで「合理的なルールの形成をお手伝いするのが法学の役割の一つなので、少し仕事をしたかな、という気がする。」とおっしゃっている。 しかし、判決の拘束力の問題について判示したのならともかく、今回の判決で最高裁は「顕著な効果」について判示したわけで、特に「顕著な効果」と進歩性の関係については、何が「合理的」なのかはまだまだ議論は尽くされていないと私は思う。 だからこの問題について最高裁が早々と口を出すとすれば、それはアカデミアの機能や役割を最高裁が妨害することになると思う。 もし今回の判決がそういうものであるのなら、今回の判決は批判されるべきものだと私は思うし、逆にそういうものではないとするのなら、今回の判決の射程は、そうした論点に影響を及ぼさないほど「狭い」と理解すべきだろうと思う。

そういうことも考えながら、今回の最高裁判決で私が感じたことを書いてみたい。

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(1)最判の核心部分

今回の最判の核心部分は、何と言ってもここだろう。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
・・・本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,・・・

これについては、Sotoku 10号で私も次のように書いている。

Sotoku 10号の脚注36]
・・・本件発明の構成)が出願日当時にどのような効果があると予測されていたかが検討され,その予測された効果と比較して本件発明の現実の効果」(速見禎, 知財管理, Vol.67, No.5 (2017) 732-745の739ページ右欄)が高いことが重要なのであり、引用発明の効果に対する高低が重要なのではない(この点、清水元判事も退官後の講演において同旨の発言をしている)。

速水先生の論文を引いたから「予測されていた」と過去形になってしまっているけれど、別に出願当時に予測されていたという事実が必要なわけではなく、出願当時に予測される本件発明の効果と比べて実際の効果がどうだったのかが重要なわけだ。

例えば有害な塩素系フロンを代替できる冷媒ガスを開発していて、塩素を含まない新規な炭環系化合物を開発したとする。 それで、当時の炭環系化合物としては最高の冷媒性能を示したので「顕著な効果」だと主張したところ、審査官や裁判官から「塩素系フロンでは既に達成できていた効果だから顕著な効果とは言えない」と言われたら誰だって頭にくるでしょう? つまり、比較対象として相応しい先行化合物が存在するのに、それとは違う化合物においてその効果が達成されていた、ということをもって「顕著な効果」を否定するのはおかしいということだ。 なぜそうなのかと言えば、効果の顕著性を考える場合は、まずは「本件発明が持っているだろうと予測できる効果」を予測しなければ「予測を超えるか否か」を決めようがないからで、そのためには、なるべく本件発明の構成と近い先行発明を持ってきて、その効果から類推される本件発明の効果に比べて、実際の効果はどうだったのかが検討されるべきなのだ。

したがって、私は上記の最判の判示には同意できる。 ちなみに第一線でご活躍中の高名実務家の高橋先生は本件について、「いろいろと言いたいことはあるけど、何を言っても関係者や判断者が良く思わないだろうから、(後略)」とツイートしつつも、この点については、「効果の顕著性は特定の構成との関係で判断すべき、という抽象的規範には異論はないよね」とツイートされているし、同じく高名実務家の岩永先生もブログで、「・・・,同様の作用効果を有する違う系列の物が知られているからという理由だけでは,顕著で有利な効果の否定はできない,ってことでしょうか。」と書かれている。

上記の判示は、今回の最判の主文の結論に導くために必要十分な判示だと思うから、私は、これが最判の射程だと捉えたい。


(2)構造を異にする先行化合物と比較することは許されないのか?

しかし、上記の考えもあまりに硬直的に考えてしまっては妥当性を欠くことになる。 例えば今回の最判で裁判所は、上記の核心部分の説示に至る前に、以下のようなことを説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
 ・・・他の各化合物は,本件化合物と同種の効果であるヒスタミン遊離抑制効果を有するものの,いずれも本件化合物とは構造の異なる化合物であって,引用発明1に係るものではなく,引用例2との関連もうかがわれない。そして,引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。
 しかるに,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。

最高裁の上記の説示を形式的に理解してしまうと、本件と全く同じ化合物の効果が引例に示されているか、その効果が高いことが高い確度をもって推認できない限り、本件化合物の効果は常に「予測できない」ということになりかねない。 しかし出願前に、この程度の活性を持つ化合物はたくさん知られていたという事実がもしあるのなら、たとえ構造的に異なる本件化合物においてそれが分かったからといって別に驚くにあたらないと評することはありうるだろう。 つまり、顕著な効果を否定するにあたって、本件化合物やそれと構造的に近い化合物において活性が知られていること(あるいは高い確度をもって推認できること)が必須というわけではないと思う。 構造こそ違えど、他の構造を持つ抗ヒスタミン化合物が、それなりに高いヒスタミン遊離抑制作用も持っていることがあることが知られていたのなら、抗ヒスタミン化合物である本件化合物についても、その程度のヒスタミン遊離抑制作用をもっているのではないかと期待することは当業者が抱く合理的な期待の範囲内であって、驚くに値しないという考えることもできるということだ。 むしろ、原審の判断に違和感を感じるのは、インビボとインビトロの違いを全く無視して効果を比較しているところで、その点は6月22日の投稿でも指摘したとおり。


(3)構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、構造を異にする化合物との比較で「顕著な効果」を肯定することも許されないはず(宮崎賢司先生の言う相同性理論)

最高裁は、「本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする・・・他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と言いながら、「(3) 本件各発明に係る効果」のところで、以下のように説示している。

[平成30年(行ヒ)69 判決より]
(3) 本件各発明に係る効果
 本件特許の特許出願に係る明細書(以下「本件明細書」という。)に接した当業者が認識する本件各発明に係る本件化合物のヒスタミン遊離抑制効果は,本件明細書記載の実験(ヒト結膜肥満細胞を培養した細胞集団に薬剤を投じて同細胞からのヒスタミン遊離抑制率を測定する実験)において,本件化合物(シス異性体)のヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制率が,30μMから2000μMまでの濃度範囲内において濃度の増加とともに上昇し,1000μMでは66.7%という高いヒスタミン遊離抑制効果を示し,その2倍の濃度である2000μMでも92.6%という高率を維持していたというものであり,これに対して,抗アレルギー薬として知られるクロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムが,2000μMまでの濃度範囲でヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を有意に阻害することができなかったというものである

本件発明の効果に関する上記の最高裁の説示を読むと、「クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムなどの先行化合物はヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったのに対し、本件化合物は活性を示したのだから、これは予想外の顕著な効果だな」などと思ってしまうかも知れない。 しかし、クロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムは、それこそ本件化合物とは「構造を異にする」化合物だ。 もし最高裁が、本件化合物とは構造を異にする化合物が同等の効果を発揮することが知られていたということのみをもって「顕著な効果」を否定することは許されないというのなら、本件化合物とは構造を異にするクロモグリク酸二ナトリウムやネドクロミルナトリウムが本件化合物と同等のヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったということのみをもって本件発明の効果を「顕著な効果」と認定することも許されないというべきだろう。 これは宮崎賢司先生が最近書いた論文で指摘している「相同性理論」(二枚舌禁止など)(tokugikon no. 293)みたいなものだ。

要するに、効果を比較するのに相応しい先行化合物は何かということを考え、そういう化合物があるのなら、それと比較すべきということだ。 そして本件化合物と比較すべき先行化合物としてふさわしい化合物の代表例は、本件の医薬品承認にあたって厚労省所管の機構(PMDA)が出した報告書でもそうなっているとおり「ケトチフェン」ではないか? そしてPMDAの報告書によれば、本件化合物が持つヒスタミン遊離抑制作用は、ケトチフェンの24分の1でしかない(2018年6月22日の投稿の「3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない」を参照)。 これが正しいのだとすれば、本件化合物が示したヒスタミン遊離抑制作用が予想外の顕著な効果であるのかという点については疑問が生じるだろう。 また、この出願の明細書作成者は、なぜヒスタミン遊離抑制作用を示さない先行化合物との比較実験だけを明細書に記載し、ケトチフェンとは比較しなかったのか、という疑問も生じるところだ。 まあ当時の事情は知らないが。


(4)医薬用途発明であることは、進歩性のハードルを下げる理由となるのか?

なお、発明の効果が「顕著な効果」と言えるか否かの判断について、今回の最判には、「・・・,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,・・・,本件各発明の効果の程度が,・・・顕著なものであることを否定することもできないというべきである。」と説示している箇所があり、これについて高石先生は射程範囲が問題となる旨をツイートされている。

この説示を見て思い出すのは、冒頭で紹介した玉井論文だ。 昨年の6月22日の投稿でも書いた通り、進歩性を認めるべき「顕著な効果」に関連し、玉井先生はその論文の中で、「医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。」、「・・・既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである。」 と論じていた (玉井克哉, 自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ)。 今回の最判が、進歩性を肯定するに足る「顕著な効果」を否定できないという文脈の中で「医薬用途に係るものであることをも考慮すると」と説示していることからして、最高裁は、医薬用途発明に関しては、低い効果であっても「顕著な効果」だとみなされるということを前提として説示を行っている可能性は考えられるだろう。 あるいは、今回の最判における玉井論文の影響を示唆するものと考えることもできるかも知れない。

しかし、これについては先の投稿でも書いた通り私は批判的で、医薬分野についてだけ、類似品を増やすことを「特許制度として」特別にサポートする理由などそもそもないと思うし、現在の特許法が立法を経ずしてそれができる理由もないと思う。 ちなみに医薬品の特許延長制度は一見すると医薬発明を特別に厚く保護しているように見えるが、実際には、医薬品の製造販売承認を受けるにあたって国の規制により定型的に生じる特許期間の侵食をそのまま回復させているだけであって、医薬発明を特別に厚く保護しているわけではない。 その辺は同志社大の井関涼子先生がずっと指摘されているとおりだろう。

もし本件発明が、本件化合物を初めて作り出した発明であったり、本件化合物の抗ヒスタミン活性を初めて見出した発明であるのなら、私も喜んでその発明の進歩性をサポートするだろう。 たとえ既存の抗ヒスタミン剤と活性が変わらない、あるいは既存薬よりも若干活性が低下したものであったとしても、もし本件化合物が新たな構造を持つ新規化合物を提供した発明であるのなら、喜んでその進歩性をサポートするだろう。 しかし残念ながら、本件発明はそのような発明ではない。 この化合物は本件出願前に抗ヒスタミン剤として既に知られており、結膜炎の動物モデルにおいて治療効果も確認されていたものだ。 この化合物をヒト細胞に添加し、既存の抗ヒスタミン化合物が持っていることも多い「ヒスタミン遊離抑制作用」を検証していくのは実験の自然な流れとも言える。 そのような実験を行った者に対し、医薬分野だからといってわずかな進歩でも特許を与えてしまっては特許制度を歪めてしまうことになる。

それに、わずかな効果を基に医薬用途発明の出願を行う者が、その医薬品を製品として開発して上市してくれる者である保障はまったくない。 わずかな進歩しかない医薬用途発明の特許を濫立させることによって、医薬産業が発展するとも、より多くの医薬品が上市されるとも期待することはできないのではないか。

そうした医薬品に対する保護は、医薬品を実際に開発し、手間と金のかかる治験を経て上市してくれた者に与えることこそ相応しい。 そうすると、6月22日の投稿でも書いた通り、この問題は特許制度として扱うよりも、薬事制度として適切な保護を行うようにする方が合理的だと思う。

[2019/8/30 追記]
但し、後述の(7)で、進歩性判断における「意味づけ」について触れるけれど、その部分で発明分野に応じた違いは事実上考慮されるのかな、という気もする。 私は効果の顕著性はあくまで技術的な観点で考えたくて、産業政策的に進歩性のレベルを上下させべきだという発想はないのだけれど、例えば「これだけの効果の違いでも、新薬として売りにできるほど違いだから顕著な効果だ」というような判断は、私としてはあり得る気がしており、果してこれが技術的な観点なのか、産業政策的な観点も含まれているのかは、確かによく分からないところがある。



(5)進歩性なしという結果から逆算して「顕著な効果」を否定する裁判所の実務が論理的な隙を生むことになる(という可能性)

これは想像でしかないけれど、もし裁判所が、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文を書いているのだとすれば、そういう裁判所の実務こそが、顕著な効果を否定する論理構成を捻じ曲げ、ひいては上級審で否定されてしまう原因になるのだと言いたい。

裁判所の実務が本当はどうなのかという点については、実際に判決を行った(行っている)裁判官が明らかにしない限り表には出てこないだろうが、判決文を読む限り、そういうことを疑わせる事例はあるという気がする。

「シュープレス用ベルト事件」に関して前回の投稿で書いたとおり、この問題に関連して元知財高裁所長の清水先生は、顕著な効果があれば容易なものでも進歩性を認めるという考え方(独立要件説)について、「多くの裁判例の立場である」、「他の多くの裁判例と同様に」と論じている。 確かに多くの判決はそうなっているのかも知れない。 しかしそれは単に、多くの判決文の「体裁」がそうなっているというだけであって、特に進歩性を否定する判決をする場合に、「この発明には顕著な効果がないから進歩性を否定しよう」と考えているのではなく、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考えて判決文をそういう体裁にしているという可能性は否定できないのではないかと思う。

仮に後者のような考え方、すなわち、「この発明には進歩性がないから顕著な効果を否定しよう」と考える場合、判決文においては「顕著な効果なし」という結果ありきで「顕著な効果」を否定することになるから、どうしても論理付けが強引になってしまだろううし、論理的に破綻してしまうことも多くなるだろう。

但し、仮にそういうことがあるとしても、裁判所だけを責めるわけにはいかないかも知れない。 なぜなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」という「独立要件説」的な考え方はなかなか強固な通説であって、田村先生も最近の論文で「独立要件説的な説示の影響力を物語る」と書いている(パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12の脚注20)。 裁判所としても、そういう通説に反するような判決文は書きにくいだろうから、進歩性を否定する場合は、必ず「顕著な効果」も否定しておこうという気分になってしまうこともあるのではないだろうか(まぁ、全部想像ね)。

そういう気持ちから脱して、たとえ「顕著な効果」があっても進歩性を否定するときは否定するのだという判決文を書いてもらうには、裁判官に、それだけの勇気と、ある程度の勝算を持ってもらう必要があるわけで、私はそういう勇気や勝算を与えるのがアカデミアの役割だと思うし、そういう意味で、「顕著な効果」があっても進歩性を否定すべき場合はあるのだと論じる田村先生には大いに期待しており、また、そう論じる論者がもっと多く出てこなければならないと思っている。(もちろん、パブリック・ドメイン・アプローチの重要性を説く𠮷田先生にも期待している)

ちなみに欧州特許庁では、予想外の顕著な効果があっても進歩性を否定すべき場合があることを明示的に定めており、発明に至る道が一本道である場合は、それによる効果は単なる「bonus effect」とみなして進歩性を否定するということになっている(EPO審査基準 Part G, Chapter VII, 10.2)。 これは、本当に「一本道」である場合に限られず、選択肢が複数であったとしても、その数が限られており、それらの選択肢は近いうちに試されることになるだろうと認定できる場合も同様だろう。 日本でも、立法によらずにこうした考え方を採ることは可能だろうし、審査基準としても、こうした考え方を明記しておくことを考えた方がよいのではないかと思う。


(6)最判は「独立要件説」を支持したのか

今回の判決文で最判は、「本件特許に係る発明の進歩性の有無に関し,当該発明が予測できない顕著な効果を有するか否かが争われている。」と述べるだけで、「顕著な効果があれば進歩性あり」とは判示していないから、「独立要件説」の立場をとっているとまでは言えないと解したい。(なおツイートには、独立説を採ったと評価できるとするもの(高石先生)や、そうとも言い切れないとするもの(田中先生)などがある。) (田中先生のブログの記事(『最高裁は効果の独立要件説を採ったのか? 日本 最高裁 進歩性(非自明性) 』(8月31日)、『最三小判令和元年8月27日(平成30年(行ヒ)第69号)後の差戻審についての覚書』(9月1日))も参照。)

本件において予測できない顕著な効果を有するか否かが争われていることを見た最高裁は、今回の最判で、「顕著な効果を判断するなら、ちゃんと判断しろ」と言ったまでであって、「顕著な効果があれば進歩性あり」と言ったわけでもなければ、「本件の進歩性の判断において、顕著な効果を判断する必要がある」と言ったわけでもないし、本件が、「顕著な効果があれば進歩性が認められる案件であるのか否か」については最高裁は関知しないし責任も負っていない(と思いたい)。

そもそも特許法29条2項は、「容易に発明をすることができたときは、その発明については、・・・、特許を受けることができない。」と定めている。 そうすると、容易に発明をすることができたにもかかわらず、予想外の「顕著な効果」があったことをもって進歩性を肯定するとすれば、29条2項に反することになるのは明らかだろう。 今回の判決で裁判所は、顕著な効果を否定した原審の判断について「・・・,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」と判示しているが、それを言うならそもそも29条2項の判断(容易に発明をすることができたか否か、の判断)において、「顕著な効果」が進歩性肯定に働く要因として常に作用できると考えることは、法令の解釈適用としてできるものではないはずだとも思う。

もし「発明の効果」によって進歩性が肯定される場合があるとすれば、それは「容易に発明をすることができた」(29条2項)という判断に影響を及ぼすような効果がある場合に限られるべきだろう。 それは、一体どのような場合なのだろうか?


(7)「顕著な効果」を否定できない限り進歩性を否定できないという呪縛から逃れよ

「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合とは、具体的には、以下のような場合だろう。

顕著な効果により進歩性が認められる場合の例

ある発明者は、コレステロール生成阻害剤として既に知られているピリミジン環を有する既知化合物(化合物A)を改変することを考えた。 改変とは具体的には、化合物Aの一部の置換基を、他の置換基に取り換えることであるが、「他の置換基」に取り換えるといっても、誰も知らない新たな置換基に取り換えるわけではなく、周知な置換基(フェニル基とか、ベンジル基とか、そういうもの)に取り換えるだけだ。 また、そういった置換基に置換した化合物を製造する手法自体は周知技術であり、容易だ。 但し、化合物Aのどの置換基を、どの他の置換基に置換するかには様々な組み合わせがあり、その組み合わせの数は「2000万通り」は下らない。 改変により活性が低下したり、喪失することもあるだろうし、上昇することもあるだろう。 しかし一般的には、でたらめに改変すれば活性は低下することが多いのは技術常識であろう。 そしてこの発明者が、化合物Aのピリミジン環の2位という部位についている置換基に含まれるメチル基をメチルスルホニル基に置換したところ、同等以上の活性を持つ化合物Bが得られ、ベンジル基に置換したところ活性が1/3に低下した化合物C(でたらめに改変すればこのくらいに低下するだろうという程度に活性が低下した化合物)が得られた。

これは「ピリミジン誘導体事件」に基づく例で、私がSotoku 10号に書いたものだ。 上記の「化合物A」とは引用発明の化合物、「化合物B」はピリミジン誘導体事件の本件発明の化合物であり、「化合物C」は私がでたらめに作った化合物だ。 このうち、「化合物B」には進歩性は認められるべきだが、「化合物C」には進歩性は認められるべきではないと私は思う。 「化合物C」はでたらめに作っただけだからね。 「化合物B」も「化合物C」も、2000万通りの組み合わせの中の一つであって、それらを選択する動機付けは特にない点では一致している。 それなのに、なぜ「化合物B」にだけ進歩性が認められ、「化合物C」には進歩性が認められないのだろうか? それは、「化合物B」には(進歩性を認めるに足る)「顕著な効果」があると認められ、「化合物C」にはそれがないからだ。

「化合物C」は、考えられる2000万通りの改変の組み合わせの中の一つで改変したら、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という程度に活性が低下した化合物が得られたというもので、「顕著な効果」は認められない。 それに対して「化合物B」は、「化合物A」と同等以上の活性を示したというのだから、「任意に改変すればこのくらいに低下するだろう」という予測を上回る活性を示したと言えるだろう。 つまり、「本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったもの」、「当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なもの」と言いうる効果だ。 そして、その効果があることにより、「化合物B」という発明は、「確かに、2000万通りの選択肢の中からそういう化合物を選び出すのは 『容易に発明をすることができた』とは言えないよね」と評することができるから、「顕著な効果」によって「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことを否定できるような場合となるのだ。

このように、「顕著な効果」により進歩性が認められるためには、その前提として、本件発明の構成に到達にするまでには道は一本ではなく、たとえ一つ一つの道を歩くことは容易であるとしても、「本件発明の構成」に至る道を当業者が選び出すことはそうそうすぐに起こることではないだろうという事情が必要なのだ。 「顕著な効果」とは、そういう場合において、「なるほど “当たり” を引き当てたね」とみなせるほどの効果のことを言い、その場合に限って「顕著な効果」は進歩性を認める理由となるべきだと思う。 したがって、そもそも選択肢が一つしかなく、その構成が試されるのは時間の問題であった場合は、「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いており、顕著な効果があっても進歩性は認めるべきではない。

ちなみに、「化合物C」の進歩性はどのように否定されるかというと、確かに多数の選択肢の中から「化合物C」を選び出すことはそうそうありそうにないという意味では容易に到達できるとは言えないが、「化合物C」の効果は、他の選択肢をでたらめに選択した場合と同等の効果しか発揮しない以上、「化合物C」という発明は、「でたらめに選択した発明の一つ」に過ぎないと評されるのであり、「でたらめに選択した発明の一つ」を発明することは容易だと解される以上、「容易に発明をすることができた」(29条2項)ことになり、進歩性は否定される。

上記のとおり、「発明の効果」を考慮することによる進歩性の判断は、ある種の「意味づけ」を伴う(Sotoku 10号の脚注38や、2019年4月24日の投稿の最後の部分を参照)。 つまり、「化合物C」は「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけがなされることにより容易だと判断されるのに対し、「化合物B」は「でたらめに選択した発明の一つ」とは思えない程度の効果(これを「顕著な効果」という)があることにより、「でたらめに選択した発明の一つ」という意味づけが回避され、進歩性が肯定される。 したがって、私はこれを「意味づけ要件」(あるいは「進歩性の第2要件」)と呼んでいる。

以上に説明した、私が思う「あるべき進歩性の判断手順」をまとめると以下のようになる。

[あるべき進歩性の判断手順]
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但し、上に示した考え方は、実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方とは異なっているだろう。 実務家の間で一般に理解されている「顕著な効果」の考え方は、以下のようなものだ。

[森田裕, 日本知財学会誌 Vol.16, No.1, 2019 31-40 の 図1]
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すなわち、まず進歩性判断の第1段階で、「発明の構成」が容易想到であるか否かが判断される。そして、「発明の構成」が容易ではない場合、進歩性は直ちに肯定される。 そして「発明の構成」が容易ではない場合でも、進歩性判断の第2段階で「発明の効果」が検討され、その効果が「顕著な効果」である場合は進歩性が肯定される。 このように、通説的な理解では、「顕著な効果」は「発明の構成」が容易な場合の救済策として位置づけられており、いわば進歩性肯定のダブルチャンスが用意されているというのが通説と言えるだろう。

通説的な理解(下図)でも、私の考え方(上図)でも、「発明の効果」が検討されるのは第2段階においてである。

「発明の構成」が画期的に新しいもの(複数の選択肢の中から選んだだけというものではないもの)である場合は、通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)とで違いは生じない。 なぜなら、「発明の構成」が画期的に新しいということ自体が、「でたらめ・ありきたり」ではないことを推認させるから、効果の「大きさ」を考慮するまでもなく第1要件も第2要件(意味づけ要件)もクリアできるからだ。 通説的な理解(下図)と私の考え方(上図)で違いとで違いが生じるのは、複数の選択肢の中からでたらめに選んだだけの発明(上記の「化合物C」のような発明)に進歩性を認めるか否かという場面と、発明に到達することが一本道(時間の問題)であった場合でも効果が高ければ進歩性を認めるのか否かという場面であり、通説的な理解では、どちらの場合も進歩性を認めてしまうのかも知れないが、私の考え方では進歩性は否定されることになる。

「ピリミジン誘導体事件」判決では、膨大な選択肢がある場合は、それだけをもって進歩性は肯定され、効果の検討は不要とされた。 これは通説的な理解(下図)に沿うものであるが、そのような考え方では、上記の「化合物C」のようなでたらめ発明の進歩性を否定することができない点で不都合があり、私はそのことをSotoku 10号で指摘した。 そして今回の「アレルギー眼疾患事件」は、それが調べられるのは時間の問題になっていたとも思われる発明の効果が「顕著」であった場合に、進歩性は肯定されるのかが問われている。 容易なものでも効果が顕著であれば進歩性を認める通説的な理解(下図)に基づくのであれば、進歩性は肯定されうるのかも知れない。 しかしそのような考え方を採ったのでは、特許制度は「容易ではない」発明を保護する制度というよりも、目ざとい人々によって発明が独占される制度となってしまうのではないか。

ちなみに、上に引用した通説的な進歩性の考え方の図を作成した気鋭の若手実務家の森田先生は、次のようにツイートされている。

[6月14日ツイート]
特許って最高の発明を保護する制度じゃなくて、最低の発明保護に適した制度。皆が次の日に思いつくようなことを出願しておけば20年独占できるわけです。(後略)

これを受けて高橋先生は、やや自嘲気味に、次のようにツイートされている。

[7月29日(1)]
特許は、皆が次の日に思いつくことを権利化して他人の事業を邪魔することを可能にする制度だ、しかも同業他社の製品が明らかになってから補正とか分割をするという合法的な嫌がらせ手段が多数備えられている、ってことに疑問を抱かなくなってからが一人前の実務家だよ。

[7月29日(2)]
ライセンス料をしっかり稼げている特許発明で感動的な大発明はかなり少なくて、たいていは、中身のないくっだらねぇ発明だなぁ、公知例とほとんどおんなじじゃん、特許技術だけでギリ権利化しただけ、みたいなのがガンガン金を稼いでいる。これは特許制度の常識だと思うが。

[7月29日(3)]
特許制度っていうのは一部の頭のいいひとがすごく濫用している制度だよね。それによる社会的損失は甚大。制度維持の人的物的コストも半端ない。しかし、先行技術開発に対する投資保護ぐらいの機能は一応あるし、諸外国も特許制度があるので、廃止するという決断は無理。

(なおこれらの先生方はひどいことを言っているのではない。むしろ、よくぞおっしゃって下さいましたというようなことをツイートしているだけなので念のため。 また、これらのツイートは本事件との関係でされたものではない。)

私も特許制度を廃止しろとは思わない。 しかし、放っておいても近々誰かがその効果を発見するだろうと評されるような発明は、そもそも「顕著な効果」により進歩性が認められるための前提を欠いているのであり、効果の顕著性を判断するまでもなく、進歩性は否定されるべきだと考えるのが妥当だと思うのだが、どうだろうか。

*     *     *

以上のとおり、「ピリミジン誘導体事件」と「アレルギー性眼疾患事件」(本事件)は、「発明の効果」に関する通説的な理解に潜む不都合を露わにさせる好例を提供していると思う。 これを機に、進歩性の判断における「顕著な効果」がどのように位置づけられるのかについて、通説に疑問を持つ人が増えてくれることを期待したい。


[2019/8/30 追記・削除などいくつか実施。。 ]

[2019/9/03 (6)に田中先生のブログのリンクを追記。 ]


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月27日

「顕著な効果」の用途限定権利行使論?「シュープレス用ベルト事件」判決解説(清水節先生,特許判例百選第5版 有斐閣 2019)


清水節先生(前知財高裁所長)が進歩性の顕著な効果に関して「独立要件説」を支持しているであろうことは、2018年6月22日の投稿や、Sotoku 10号 の脚注28でも書いたけれど、今月発行された『特許判例百選 第5版』(別冊ジュリスト 244,小泉直樹,田村善之/編,有斐閣)では、「シュープレス用ベルト事件」(平成24年(行ケ)10004)判決(平成24年11月13日判決)の解説において清水先生が、まさに進歩性の「顕著な効果」の考え方に関して、「顕著な効果の独立要件説」という副題を付けて解説してくれている! 私にとって、清水先生はこの問題を一番解説してほしい人の一人だから、今回の判例百選の解説はとても興味深く読んだ。 といっても、2ページしかないし、あくまで判例解説であって自説を長々と説く場ではないから、情報量は多くないけれど。

私が「独立要件説」に否定的であることはSotoku 10号の脚注38、39でも書いたし、前田先生の論文に対する2019年4月24日の投稿や、田村先生の論文に対する2019年5月30日の投稿でも書いた。 但し、そこに書いたとおり、私は前田先生が解説するような「二次的考慮説」にも批判的で、むしろ「二次的考慮説」は、ある種の欺瞞(すなわち、顕著な効果がなければ “動機付けがある”、“容易想到” だとみなすものを、「顕著な効果」がある場合は一転して “困難だった” とか、 “動機付けがない” とか、 “容易想到ではない” と思うことにするという欺瞞)の上に成り立っているという点で、「独立要件説」よりもたちが悪いかも知れないとさえ思っている。 だから私は、「独立要件説」も、通説的な「二次的考慮説」も、どちらも支持していないのだ。

それについては2019年4月24日の投稿に書いたからいいとして、今回の解説で清水先生は、特にどちらの説を支持しているとは書いていないものの、独立要件説について「従前からの審決(・・・)や多くの裁判所の立場である」と解説している。 そして「シュープレス用ベルト事件」判決に関しても、「他の多くの裁判例と同様に、独立要件説的に理解するのが自然であろう」と解説している。

まあ、こういう書きぶりからして、清水先生は今でも「独立要件説」を支持しているのだろう。

ところで、今回の清水先生の解説には、最後にちょっと驚きのことが書かれている(以下に引用)。

[清水節「進歩性(5)」特許判例百選 第5版 有斐閣 2019 140-141 の141ページ (強調は私が入れた)]
 ・・・,本判決は,本件発明1が,・・・従来から使用されていた硬化剤(ETHACURE300)をシュープレス用ベルトに用いたことにより,・・・クラック発生の防止という予測することができない顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めたものである。したがって,いわゆる用途発明の議論と同様に,従前から当業者が使用していた当該硬化剤をシュープレス用ベルトの製造等に用いたことに対して,本件発明1はどのように権利行使ができるのかが問題となる。 具体的には,・・・当該硬化剤を用いたシュープレス用ベルトを製造等した者は,効果の主張と関わりなく全て特許権侵害となるのか,それともクラック発生の防止という効果を主張した場合に特許権侵害となるのか等の問題が生じ(中山信弘『特許法〔第3版〕』[2016] 139頁参照),今後検討すべき課題となろう。

つまり清水先生は、本件の特許権は、「クラック発生の防止」という用途発明を実施したとみなせる場合にしか権利行使できないという可能性に言及し、これが「今後検討すべき課題となろう」と言っているのだ。 「クラック発生の防止という効果を発揮した場合に」ではなく、「クラック発生の防止という効果を主張した場合に」というのだから、「クラック発生の防止」という効果さえ謳わなければ、たとえ本件発明と構造的に同一のシュープレス用ベルト(結果的にはクラック発生の防止という効果は発揮される)を製造販売しても権利侵害にならないという可能性を示唆しているのだろう。 そうすると、「顕著な効果」や「予想外の効果」を主張して「物質特許」を取ると、その効果を発揮させる「ため」という「用途」にしか権利行使できない「用途特許」になってしまう(ことがある)ということになるのだが、そんなことはあり得るのだろうか? もしそうなら、この特許はとても無力化されることになるね。 ちなみに、清水解説に引用されている中山先生の「特許法 第3版」139頁は、別にそういうことが書かれているわけではなくて、単に「用途発明」はその用途にしか権利行使できないということが書かれているだけだ。

本件特許(特許3698984)の請求項1は、以下のようになっている。

【請求項1】
 補強基材と熱硬化性ポリウレタンとが一体化してなり,前記補強基材が前記ポリウレタン中に埋設され,
 外周面および内周面が前記ポリウレタンで構成されたシュープレス用ベルトにおいて,
 外周面を構成するポリウレタンは,末端にイソシアネート基を有するウレタンプレポリマーと,ジメチルチオトルエンジアミンを含有する硬化剤と,を含む組成物から形成されている,
 シュープレス用ベルト。

つまり、「クラック発生の防止」という用途限定はないし、「クラック発生が防止される」という特性すら記載されていない。 にもかかわらず、「クラック発生の防止」という効果さえ謳わなければ、このシュープレス用ベルトを製造販売しても権利侵害にならないという考え方は、どういう理屈で導き出せるのだろうか。

但し、本件には特殊な事情があって、判決文によれば、係争中に特許権者(原告)は、本件発明は「シュープレス用ベルトの外周面を構成するポリウレタンにクラックが発生するのを防止することを目的」としているのだと主張し、本件発明は以下のように認定されるべきだとまで主張している。

[判決文 原告の主張より]
本件発明1
 補強基材と熱硬化性ポリウレタンとが一体化してなり,前記補強基材が前記ポリウレタン中に埋設され
,  外周面および内周面が前記ポリウレタンで構成されたシュープレス用ベルトに関して,
 シュープレス用ベルトの外周面を構成するポリウレタンにクラックが発生するのを防止することを目的として
 外周面を構成するポリウレタンは,末端にイソシアネート基を有するウレタンプレポリマーと,ジメチルチオトルエンジアミンを含有する硬化剤とを含む組成物から形成されている,
 シュープレス用ベルト。

そして上記の下線部は引用発明との相違点であり、原審審決はそれを看過しているとまで主張している。 まぁ、そこまで言われると、じゃあ、クラック発生防止を目的としていない場合は本件発明には含まれないのだなという気にはなるかも知れない。。

但し、本判決において裁判所は、そうした特許権者の主張を一蹴した上で進歩性を肯定しているから、特許権者が上記のように主張したことが権利行使制限の理由になるとまではいえないように思う。 それに清水先生自身、今回の解説において、上記のとおり「本判決は,本件発明1が,・・・クラック発生の防止という予測することができない顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めたものである。したがって,・・・」というように解説しており、「原告は本件発明がクラック発生の防止を目的とする旨を主張している。したがって,・・・」と解説しているわけではないから、清水先生としては、係争中に特許権者が上記のような主張をしたことが権利行使制限の原因だと考えているわけではなく、あくまで「顕著な効果を奏することを理由に進歩性を認めた」場合の話をしているのだと一応は理解できるだろう。

しかし・・・、清水先生は何故こんなことを書いたのだろう? ひょっとして、独立要件説をそのまま採ったのでは、特許権者に有利すぎるからバランスが悪いと思っているのかな? だとすれば私にとっては歓迎すべき方向ではあるけれど。。

まぁ私としては、たとえ「クラック発生の防止」という効果が予想外であって、その場合に「クラック発生の防止」という用途に限定された「用途発明」の進歩性の有無を考えるとしても、当業者が本件の発明の構成に到達することが時間の問題であったのなら、クラック発生の防止効果が発見されるのも間近であったと言え、進歩性は否定すべきだと思うけどね。。

ということで、私は今回の清水先生の解説を読んで、清水先生は「独立要件説」をもろ手を挙げて支持しているわけではないかも知れない、ということが分かった点で、一条の光が見えたような気がした。 まだ道は長いかも知れないけれど、いつか清水先生が、「独立要件説」を捨てる日が来ることを期待しよう。^^

*      *      *

ちなみに、「シュープレスベルト事件」の進歩性の考え方に関しては、つい最近、田村先生も論文を書いてくれている(田村善之, パテント8月号 2019, Vol.72 No.9, 5-12)。 田村先生は、過去に本件の進歩性の判示を否定的に論じており(パテント Vol69, No.5(別冊15) 2016, 1-12)、そのことについては2018年6月22日の投稿でも書いたけれど、その後も田村先生の考え方が変わっていないのか、ちょっと心配だった。 でもうれしいことに今回の論文で田村先生は、「・・・,動機づけがあることが示されている以上,たまたまとはいえクラックの発生が抑制されることが発見されるのは間近であったといえ,それが予測しがたい顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる (20)。」と論じており、今でも考え方は変わっていないみたいだ。 私もこの点は田村先生の言うとおりだと思う。

ただし、田村論文(上記のパテント8月号)の脚注20でも指摘されているとおり、本件発明で用いられた硬化剤(ETHACURE300)がシュープレスベルトの製造に使用されることが、本当に時間の問題であったのか、ということについては、若干疑問の余地はあるかも知れない。 判決文を読む限り、ETHACURE300以外にも、使えそうな硬化剤はそれなりに多数存在していたようだから、シュープレスベルトの製造においてETHACURE300に辿り着くことが時間の問題だったとまでは言えないかも知れない。 そうすると、本判決の結論(進歩性ありという結論)自体は批判に値しないということになるから、この事件を、「進歩性を肯定すべきでない発明について、独立要件説に基づいて進歩性を肯定した不当な判決」とまではいえないことになる。 それもあって私は Sotoku 10号(の脚注39)でこの問題を取り上げるときに、この案件を取り上げる代わりに、不当であることがより強く感じられる「芝草品質の改良方法」事件(平成25年(行ケ)10255;平成26年9月24日判決)の方を取り上げたんだ。

まあそれはともかく、田村論文(の脚注20)で田村先生が指摘しているとおり、本判決の論理構成自体は、「ETHACURE300の選択の困難性を論じるまでもなく(・・・),・・・顕著な効果があるがゆえをもって,進歩性が肯定されるという独立要件説的な論法を用いている」のだし、その点は今回の清水先生の解説でも「独立要件説的に理解するのが自然であろう(田村・前掲9頁,反対,前田・前掲36頁)。」と指摘されているし、私もそう思うから、その点で、私は本判決に批判的だ。

なお、上記のとおり清水解説には「反対,前田・前掲36頁」と書いてあって、前田先生は本判決は「二次的考慮説」に拠っていると考えていることが示唆されており、その前田論文(L&T 82, 2019)にはさらに高石先生の論文(パテント別冊15, 2016)が引用され、高石先生も前田先生と同じ見解であることが示唆されているけれど、前田先生のような本判決の見方(二次的考慮説的な見方)は、冒頭で述べたとおり、顕著な効果があることをもって「容易想到ではない」と結論する欺瞞的な論理付けを受け入れる(あるいは問題視しない)ことによって成り立っているわけで、実質的には「独立要件説」と変わるところはないのだからね、というのが私の理解だ。

5月30日の投稿でも言った通り、そうした欺瞞的立場を採らず、本判決を「独立要件説的」だと解説する清水先生の方が、潔いし分かりやすいと思う。


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2019年06月03日

大合議判決は論難に値するか − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(4)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。 今回が最終回。 今回の田村評論で納得がいかないところの一つ、すなわち、発明の効果を検討することなく進歩性を肯定した今回の大合議判決を「論難するに値するものではない」と田村先生が論じたことを論難したいと思う。

*     *     *

本件(ピリミジン誘導体事件)の副引例(甲2:特開平1-261377号公報)のように、実施例において実際にHMG-CoA還元酵素阻害活性が確認されている化合物以外にも、文献中に膨大な数の置換基の候補が列挙して記載されており、それらの置換基で置換した化合物が、実施例の化合物と同等の高いHMG-CoA還元酵素阻害活性を持っているかどうかは、実施例もないのでよく分からないようなケースについて田村先生は以下のように論じている。

[田村評論の 7)より]
 翻って、本件の甲2にあっては、先にも紹介したように、判決の認定によれば、・・・。・・・。・・・、「甲2の一般式(T)で示される極めて多数の化合物全部について、実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG−CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではなく、HMG−CoA還元酵素阻害活性が失われることも考えられる」のであって、「甲2から、甲2の一般式(T)で示される極めて多数の化合物全部について、技術的裏付けがあると理解できるとはいえない」とされている。 そうだとすると、本件の事案は、HMG−CoA還元酵素阻害剤を提供するという、本件発明に係る技術的思想との異同が問題となる技術的思想の観点からみれば、甲2の一般式の全てについて、とりわけ相違点に係る構成を含む範囲について先行発明が成立していたわけではないことになる。・・・。
 したがって、選択発明に本来要求されるべき顕著な効果を吟味することなく、甲2に記載された技術的思想に対する本件発明の進歩性を否定しなかった本判決の取扱いは、論難するに値するものではないといえよう。

なお田村評論の脚注47では、『先行発明が成立していない場合にも、それだけで必然的に後行発明が特許性を取得するというわけではなく(・・・)、未完成の先行発明を主引例としつつ副引例や周知技術等と組み合わされることにより、進歩性が否定されることはありうると考えている(そしてこの進歩性判断においても、やはり顕著な効果が二次的考慮要素として参酌されうる)。』と記載されている。 この指摘は一見すると、効果を参酌しなかった大合議判決を批判しているようにも見える。 しかし「効果」を参酌することなく進歩性を肯定した本件における大合議の判断を「論難するに値するものではない」と評していることと整合的に考えるのであれば、本件は脚注47の指摘が該当するケースではないと田村先生は考えていることになるだろう。 つまり田村先生は、少なくとも本件については、「効果」を参酌するまでもなく特許性(進歩性)が肯定されるケースだと考えているのではないか。

こうした田村先生の考え方を否定するためには、Sotoku 10号 の「9.」節をはじめとして、2月19日の投稿や4月16日の投稿でも書いた「でたらめ改変化合物」の例で十分だと思うのだが、どうだろう? 例えば、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中からでたらめに選んだある置換基で、甲1の化合物を改変した化合物(「でたらめ化合物」)を作った場合だ。

化合物の塩の違いはさておき、本件特許の化合物(例えばロスバスタチン)も、私が作った上記の「でたらめ化合物」も、構造的には『甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中から選ばれたある置換基で甲1の化合物を改変した化合物』に相当するから、本件特許の化合物(ロスバスタチン)であれ、私の「でたらめ化合物」であれ、物の構成としての想到困難性は同等といえるだろう。 そして、もし本件化合物の進歩性の判断において、物の構成が容易想到ではないというだけで、「効果」を考慮することなく進歩性を肯定してよいというのなら、上記の私の「でたらめ化合物」の進歩性も、「効果」を考慮することなく肯定してよいということなるはずだ。

ということは、上記の私の「でたらめ化合物」は、活性を考慮することなく進歩性が肯定される。たとえHMG-CoA還元酵素阻害活性が甲1の化合物の1/2だろうが、1/3だろうが、1/10だろうが、1/100だろうが、あるいは活性がゼロだったとしても、進歩性は肯定されるということになるはずだ。

もしそうなのであれば、Sotoku 10号の脚注33 にも書いた通り、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢の中から選んだ任意の1つで甲1の化合物を改変した化合物の進歩性は、ほとんどの場合において肯定されることにもなるだろう。 なぜなら、甲2に記載されている膨大な置換基の選択肢のほとんどは、それを積極的・優先的に選択する理由などなく、物の構成の容易想到性という点では、本件化合物(ロスバスタチン)との違いは見当たらないのだから。

私は、そういうでたらめな化合物に進歩性を認めるべきではないと思うし、多くの実務家も、そういう感覚は共有できるのではないかと期待する。

上記のような帰結となってしまう原因は、進歩性の判断において「効果」を考慮しないことにある。 つまり、上記のような帰結を否定したいのなら、たとえ選択肢の数が膨大であっても、進歩性の判断において「効果」を考慮する必要性を認める必要がある。 甲2に記載されている膨大な置換基の任意の1つで甲1の化合物を改変した発明の進歩性は、得られた化合物に一定の効果があってこそ認められるべきなのであって、効果を参酌することなく進歩性を認めた大合議判決の判断のやり方は論難に値する。

そもそも田村先生は、上に引用したとおり、先行発明で示される一群の化合物が「実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG-CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではない」(すなわち優れた効果を奏するとはいえない)と裁判所が認定していることを根拠にして、「先行発明は成立していない」としているわけだ。 「効果を奏するとはいえない」ということをもって「先行発明は成立していない」とするにもかかわらず、本件発明の化合物は効果(活性)があるか否かを確認するまでもなく進歩性を認めるというのは、論理的に整合しているとは言えないのではないか? それとも、この点は発明該当性や記載要件で判断するとでもいうのか?

同様の批判は、大合議判決の説示にも当てはまる。 裁判所は「(ウ)a」(判決文PDFの110ページ)において、構成が容易に抽出できないことをもって「構成が記載されているとはいえず」と説示しているにもかかわらず、「(ウ)b」(111ページ)において「・・・,実施例1〜23や上記認定の特定の化合物と同程度又はそれを上回るHMG−CoA還元酵素阻害活性を有すると期待できるわけではなく,・・・。極めて多数の化合物全部について,技術的裏付けがあると理解できるとはいえないのであって,・・・,前記aの判断を左右するものではない。」と説示し、まるで、効果が期待できる場合は「前記aの判断」がくつがえる、すなわち、効果が期待できる場合は、「構成」が記載されていなくても「構成」が記載されていることになるかのような説明を行っている。 これは、具体的な構成が記載されていなくても、概念的に包含されるもの(つまり選択発明)は新規性がないとみなす「ゾンビ説」に通じる考え方だ。 大合議のこの説示に田村先生が着目した上で、大合議判決はゾンビ説に「変更を迫るものではない」と論じているのはなるほど、うなずける話だし、効果が期待できる場合とできない場合で別異の取り扱いをすることを示唆しているように見える大合議判決のこの説示を受け入れるのであれば、田村先生が「選択発明二分論」(5月20日の投稿を参照)を説くのも当然というべきだろう。

しかし論理的に考えて、「効果」の予測困難性は「構成」の抽出困難性を左右するものではないのだから、(実施しない限り判明しない)「効果」を予測することが困難であることが、「構成」の新規性や容易想到性に影響を及ぼすと考えること自体がおかしい。 なお、この考え方に論理性を持たせるために、ここでいう「構成」とは「効果がある構成」を意味していると捉え、『効果の予測が困難な場合、「効果がある構成」を抽出するのは困難だから、「効果」の予測困難性は「(効果がある)構成」の抽出困難性を左右する』と考えることはできるかも知れない。 しかしもしそう考えるとすれば、それは「構成」の中に「効果」を織り込んだ上で抽出困難性を考えているのであり、「構成」の抽出困難性を純粋に考えているのではないのだから、「効果」を考慮していることを認めるべきだ。

ちなみに、甲2に記載されている膨大な選択肢の多くは活性が失われてしまうという推定が成り立つような場合は、HMG-CoA還元酵素阻害活性をともかくも持っている構成を同定したという程度でも進歩性は肯定し得るだろう。 その場合は、ともかく活性がありさえすればよく、活性の「程度」は考慮する必要はないということになるのかも知れない(Sotoku 10号 の脚注36)。 しかしその場合でも、効果を考慮していることに変わりはない。

なお田村先生は、今回の大合議判決と同様に『選択発明としての進歩性判断の前提となる「刊行物に記載された発明」に当たらない旨を判示して原審決を取り消した判決』の例として、平成25(行ケ)10324[誘電体磁器及びこれを用いた誘電体共振器]を挙げている(脚注44)。 しかしこの判決は、甲4報告書や甲35報告書という事後的に出された実験結果を加味して甲1発明を認定した原審の審決に対して、『甲4報告書や甲35報告書に記載された結晶構造等の属性も,甲1公報に「記載された発明」となる』と解することはできないと説示し、その限度において審決の誤りを指摘したに過ぎず(判決文PDF 21ページ5-9行)、出願前に知られていた引例(甲1)の引用発明適格性そのものを否定したわけではない。 そして進歩性に関しても、「甲1公報には,少なくとも,1/100000〜3体積%のβアルミナ等の結晶相を存在させること,また,それによりQ値を向上させることについて記載も示唆もなく,甲1公報は,甲1発明において,Q値を向上させるために,1/100000〜3体積%のβアルミナ等の結晶相を存在させることを動機付けるものではない。」(判決文PDF 16ページ)と説示し、本件発明が40,000以上のQ値(誘電特性)を達成したことを考慮した上で進歩性を肯定しているのだから、効果を考慮することなく進歩性を肯定した今回の大合議判決とは明確に異なっていることを指摘しておきたい。

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なお、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方は、今回の大合議判決が初めて示した考え方というよりは、特許庁において従来から採られていると思われる考え方であり、実務家の大半も、半ば常識として信じている考え方だと思われるので、これを否定しようとする私の考え方は笑止だと思われるかも知れない。

しかし、特許庁の審査基準にも、単なる「設計変更」(「設計事項」とも言う)や「寄せ集め」には進歩性を認めない(審査基準 第III部第2章第2節 3.1.2 (1), (2))という考え方はあり、その場合は発明の効果が検討されることになるから、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方が常に採られているわけではない。 「効果」を必ず検討する私の考え方を採ったとしても、画期的な新しい構成を開発したような発明、例えば、これまでは「天然成分を使った糊(のり)」しかなかったところ、初めて「合成接着剤」を開発したような場合は、たとえ接着力が天然の糊より劣っているとしても、その発明は「でたらめ」によって入手できたありきたりではないとみなすことはできるのだろうから、進歩性を肯定することは十分に可能だ。 私の考え方(つまり「効果」を必ず考慮する考え方)を採ることによって、本来なら進歩性が肯定されるべきものの進歩性が否定されることはないだろうと思う。 むしろ、「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」という考え方は、今回説明したように、膨大な選択肢の中からでたらめに一つを選んだような発明や、目新しい指標を適当に組み合わせたパラメータ発明などの進歩性を否定することが難しく、大した効果もないような態様が包含されうる発明であっても進歩性が肯定されてしまうという不都合がある。 パラメータ発明のように、ある程度の範囲がある発明であれば、たとえ進歩性を否定できなくても、「明細書において謳われている効果が十分に発揮されない態様が包含されうる」あるいは「明細書中に謳われている課題が解決できない態様が包含されうる」ということを理由にして「サポート要件」で拒絶することはできるかも知れない(「偏光フィルム事件」(平成17(行ケ)10042)や最近の「トマトジュース事件」(平成28(行ケ)10147)の知財高裁判決などのように)。 しかし2月19日の投稿でも指摘したとおり、クレームの範囲が実施例とあまり変わらない程度にまで限定されている場合は、実施例でサポートされていると言える以上、「サポート要件」で拒絶することは難しくなり、拒絶されるべきものを拒絶できないという不都合が生じてしまう。 したがって、「進歩性を否定できなくてもサポート要件で否定すればよい」などと考えて安心していてはいけないのであり、こうした発明を進歩性で拒絶できるような判断規範を作っていく必要があるのだと思う。

「進歩性判断において “効果” は常に考慮すべきなのではないか」、 「構成が容易でなければ、効果を考慮するまでもなく進歩性あり」というのは、実は「構成が画期的である場合は、効果の程度を考慮するまでもなく進歩性がある」というだけで、効果を考慮する必要がなくなるわけではないのではないか?」、「これまでサポート要件で拒絶していたものは、実は進歩性で拒絶すべきなのではないか」ということについて、よく考えてもらいたいなと思う。

なお、特許庁の宮崎賢司先生の特技懇 289号(2018)の論文「間接事実説なのか、独立要件説なのか、それとも?」(その論文の「11.」を参照)では、発明の「目的、構成、効果」の三要素を(一つの)技術的思想の創作として捉えて進歩性を判断することが論じられている。 ちょっと意味が分かりにくいが、「構成」だけを切り取って判断して進歩性を肯定してよいものではなく「効果」も含めた一体のものとして考慮せよということなのであれば、私の考え方ともかなり近いような気がする(私は発明の「目的」や「課題」は重視しないが)。

また、私がここで述べた「でたらめに過ぎないという推定を否定できないものは “進歩性なし” で拒絶してよいのだ」という考え方は、「99.9999999999999%の金。」という、単なる願望を書いたような高純度の金の発明は、たとえ現実には実現できないほど高純度であっても “進歩性なし” で拒絶してよいのだという特許庁の岡田吉美先生の言っていることにも通じるものがある(岡田吉美, パテント Vol.60, No.5, 50-67, 2007 62〜63ページ)。 2月の投稿でも書いたが、私は昔は、岡田先生のこの考え方に若干否定的だったものの、今は比較的すんなり受け入れられるようになった。

こうした先生方の論考の理解を深めながら、私の方もさらに考えを修正していきたいと思う。

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ということで、数回に分けて田村評論(WLJ判例コラム153号)を見てきた。 いろいろと文句は書いたけれど、何といっても田村先生の評論は、井関先生の論文に輪をかけて興奮するものだったし、今回の大合議判決に関してこれまでに他のどの人が書いた評釈より同感できる部分が多かった。 この田村評論が多くの人に読まれ、今回の大合議判決の進歩性の判断のやり方が本当に妥当といえるのか、そして進歩性の判断基準はどうあるべきなのかについて、議論が進むことを期待したい。

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2019年05月30日

「発明の効果」の意義について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(3)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

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(5)「独立要件説」批判との整合性

4月24日の投稿でも話題にしたが、「独立要件説」とは、容易な発明であっても「顕著な効果」があれば進歩性を認める(すなわち、「顕著な効果」がなければ進歩性なしと判断するのに、「顕著な効果」があることをもって進歩性ありと判断する)という考え方だ。 この考え方を採るかぎり、「顕著な効果」があれば、発明の構成が容易か否かとは無関係に進歩性は認められることになるから、「顕著な効果」は進歩性を認めるための独立した要件(具体的には、発明の構成が容易か否かとは無関係に、「顕著な効果」だけで進歩性を認める要件)となる。

今回の田村評論の脚注41にも記載されているとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、「独立要件説」に対立する説として知られる「二次的考慮説」を採っている。

ところで前回の投稿で話題にした「ゾンビ説」は、選択発明には基本的に新規性も進歩性もないと考えているのに、「顕著な効果」があることをもって新規性も進歩性もあると考えるのだから、「独立要件説」と類似している。「ゾンビ説」において「顕著な効果」は、選択発明の新規性を認めるための要件としても、進歩性を認めるための要件としても、「独立要件」として作用しているように見える。

したがって、もし田村先生が「ゾンビ説」を支持するのだとすれば、田村先生が「独立要件説」に反対していることと矛盾するのではないかという疑問が生じることになる。

田村先生もこの点は考えているのだろう。今回の評論において田村先生は、「選択発明の場合には、別異の取扱いとなる。」(脚注41)と述べ、以下のように解説する。

[田村評論の 7)より]
 選択発明について、刊行物に記載された先行発明の抽象的な範囲に含まれることに変わりはないにも関わらず、顕著な効果の有無によって新規性、進歩性の判断が分かれるとされているのは何故なのであろうか。この問いに対する解答は、産業の発達のために発明とその公開にインセンティヴを与える特許法の目的に鑑みることにより、自ずから明らかとなる。つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる

上の引用から示唆されることは、仮に選択発明には一般に「新規性」も「進歩性」も「ない」と考えるとして、「顕著な効果」があった場合に田村先生が「ある」と考えるのは「新規性」だけで、「進歩性」はあくまで「特定が当業者にとって容易でなかった」ことが必要だと考えていることだ。 すなわち、「顕著な効果」を「独立要件」と考えるのは「新規性」だけであって、進歩性はあくまで「二次的考慮説」にしたがって判断するのだから、これまでの田村説と矛盾はないというのが田村先生の立場のようだ。

つまり田村先生の考え方によると、(先行発明が成立している)選択発明には基本的に「新規性」がないが、「顕著な効果」があった場合は「新規性」はあると考え直し、さらに、その発明を特定することが当業者にとって容易でなかったという場合には「進歩性」もあると考えるということになる。

しかしここで疑問が生まれる。 田村先生は、「顕著な効果」が発見されるまでは「新規性がない」と考えていた選択発明の中に、「当業者にとって特定が容易でない」発明が含まれ得るという立場なのだろうか? つまり「当業者にとって特定が容易でない」発明なのに、(「顕著な効果」が発見されるまでは)その発明を「新規性がない」と考えるのか? なぜ「当業者にとって特定が容易でない」のに「新規性がない」と言えるのか?

田村先生は、上のような考え方はインセンティブ論から「自ずから明らかとなる」と論じている。 しかしインセンティブ論から「ゾンビ説」そのものを導き出すことはできないのではないか。 例えば「ゾンビ説」を採らず、実施できることが明らかであるように(実施例などを伴って)明細書中に記載されていない選択発明は基本的に「新規性」はあると考え、そのような選択発明の中でも、選択する動機付けがなく、かつ、それなりの効果もあるものだけが「進歩性」があると考えても、選択発明に特許を付与するか否かという最終結論において「ゾンビ説」とほとんど同じ結果をもたらすことはできる。 そういう考え方と「ゾンビ説」のどちらが正しいのかまでをインセンティブ論で判断することはできないはずだ。

但し、もし特許を付与するか否かという最終結論において違いが生じないのなら、こうした考え方の違いをあまりしつこく問題にしても不毛かな、とは思っている。 だから Sotoku 10号の脚注41でも「対立させることに不毛感がある」と書いた。


(6)田村先生が採用する「二次的考慮説」は、「独立要件説」と実質的な違いはあるのか?

上述のとおり、田村先生は「独立要件説」には反対の立場で、それとは対立する説である「二次的考慮説」を採っているが、「二次的考慮説」について田村先生は、「パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016」の中で以下のように解説している。

[田村善之, パテント vol.69 no.5 (別冊15号) 1-12, 2016 の4ページ]
 2  顕著な効果をなぜ斟酌するのか: 二次的考慮説
 他方,29 条2 項の条文に忠実に考えるとしても,特許発明が従来技術に比して顕著な効果を有していることが直接, 進歩性を基礎づけることにはならないのだが,しかし従来技術に比して顕著な効果があるにも関わらず, 発明がなされていなかったということが,進歩性を肯定する方向に斟酌すべき一事情となることまでが否定されるものではない。 進歩性の判断の際に顕著な効果が斟酌される理由を,ここに(のみ)求める見解を,「二次的考慮説」と呼ぶことにしよう。

もし「二次的考慮説」というものが、「たとえ顕著な効果があっても、容易なもの(一定の動機付けがあるもの)には進歩性はないのだ」と考えて進歩性を否定する説であるのなら私も賛成できる。 しかし、いろいろな人が書いている論文を読むと、そこがどうもはっきりしない。「独立要件説」と「二次的考慮説」は事実上差がないようなことを論じたりする人もいる。 例えば4月24日の投稿で取り上げたとおり、神戸大の前田健先生の最近の論文(L&T No.82, 2018, 33-43ページ)でも、「独立要件説」と「二次的考慮説」との対立について、「・・・実際上の結論の違いをもたらさない」(37ページ左)とか、「・・・、この対立はあくまで理念的なもの」(39ページ右)などと論じられている。 しかしそう論じる前田先生の「二次的考慮説」がどういう説なのかといえば、4月24日の投稿で説明したように、効果を確かめるまでは「動機付けがあった」とみなすものを、顕著な効果があったら「動機付けがなかった」と思うことにしてしまう修正主義的な考え方なのだ。 前田先生のように考えれば「二次的考慮説」と「独立要件説」の結論に差がなくなるのは当然だろうが、もし「二次的考慮説」がそういう説なのだとしたら、そんな「二次的考慮説」を唱えること自体、「無意味かつ誤解を生む源である」と評価しなければならないのではないか? 清水節先生や玉井克哉先生(2018年6月22日の投稿参照)のように、はっきりと「独立要件説」の考え方を打ち出す方が、よほど分かりやすいし、議論もしやすい。

このように、「二次的考慮説」を唱える人はどうも分かりにくいのだ。 そこで、私は「二次的考慮説」とは距離をとるために、Sotoku 10号では「二次的考慮説」という言葉はあえて使わず、発明の効果は「一次的考慮要素」なのだと書いた(28ページ)。

パテント69巻5号(別冊15号)を読む限り、田村先生は、この2つの説は実質的な差がある(すなわち、田村先生の「二次的考慮説」においては、たとえ顕著な効果があっても一定の動機付けがあるものには進歩性はないのだと考える)と思われるので、少なくともその当時の田村先生の考え方は応援したいのだけれど、今回の田村評論では、その点が一歩後退して前田先生と同じような考え方になってしまったようにも見え、かなり不安になってくる。

例えば上でも引用したが、今回の田村評論では以下のように論じられている。

[田村評論の 7)より]
つまり、後行発明によって新たに特定された具体的な構成が顕著な効果を発揮しえない場合には、先行発明とは独立してインセンティヴを付与するに値するという意味での別個の技術的思想が創作され開示されたとはいいがたいから新規性が否定される。他方、後行発明の具体的な構成によって顕著な効果が生み出されるのであれば、独立したインセンティヴを付与するに値しうるという意味で(学術的な観点はともかく、少なくとも特許法の観点からは)別個の技術的思想の創作と開示が行われているから、それがゆえに新規性が肯定される。そのうえで、その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。そしてこの進歩性の判断においても、顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化するので、進歩性を肯定する方向に斟酌される

上記のように田村先生は、「顕著な効果があることが、それほどの効果があるにも関わらず、当業者がこれまで想起しえなかったのは、おそらく特定が容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と論じている。 しかし、「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」というのなら、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということになり、事実上、「独立要件説」と変わらないことになってしまう。 上にも引用したとおり田村先生は、「顕著な効果」で肯定されるのは「新規性」だけで、進歩性については、「その特定が当業者にとって容易でなかったという場合には進歩性も肯定されることになる。」とは言っているものの、田村先生は「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」とも言っているのだから、顕著な効果があること自体が「容易でなかった」ということを自動的に肯定することになり、事実上は「独立要件説」で進歩性を判断するのと変わりがなくなるのではないか?

田村先生は以下のようにも論じている。

[田村評論の 脚注47より]
ちなみに、筆者の立場はこれまでの論述から明らかなように、先行発明が成立している場合には後行発明が新規性を喪失しないためには少なくとも顕著な効果が必要であり、さらに進歩性を否定されないためには後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであることも必要である(顕著な効果は、この進歩性判断の際の二次的考慮要素としても参酌されうる)。

上の引用中では、進歩性を認めるためには「後行発明に係る具体的な構成を当業者が容易に想到しえないものであること」も要件である旨が論じられているが、もし「顕著な効果があることが、容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」のであれば、その要件は事実上、ないのと同じということになりかねないのではないか? 田村先生には、私が田村先生に抱くこのような不安をぜひ払しょくしてほしい。 つまり、「顕著な効果」というものが、進歩性の判断においてどのような役割を果たすのかについて、今一度明確に論じてほしいと思う。

ちなみに、私の考え方は Sotoku 10号や4月24日の投稿で説明したように、「顕著な効果」は、「でたらめに選んだだけの(あるいは単なる寄せ集めに過ぎない)ありきたりのものという推定を否定するための証拠」だと捉えるというものだ。 つまり、何千何万の潜在的な選択肢の中から特定の一つを選ぶというのは、確率的には何千分の一、何万分の一であるから、効果を考えるまでもなく、「その構成を選ぶ動機付けはなかった」と言えるのかも知れない。 しかし、何千何万の選択肢の中から一つを選ぶという発想や行為自体は容易なのだから、単に「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」という推定を否定できない限りは進歩性を認めるべきではない。 そして、「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」ということを否定するための客観的・外形的な尺度として、その発明の効果が『「でたらめに選んだだけ/寄せ集めただけのありきたり」とは思えないほど高い』のか否かが測られるというわけ。

したがって私の考えでは、「顕著な効果」というのは、「その構成を選ぶ動機付けがない」ことを推認させる事情ではなく、「単なるでたらめ/寄せ集めのありきたりではない」ことを推認させる事情ということになる。 したがって、いくら「予想外の顕著な効果」があろうとも、それ自体は「動機付けがない」ことを推認させる事情とはならず、たとえ「顕著な効果」があっても一定の「動機付け」があったのなら進歩性は否定されるというのが私の考え方だ。

この考え方はすっきりしているのではないか? 田村先生や前田先生のように、「顕著な効果があることが容易ではなかったのだろうという推測を正当化する」と考えてしまっては、「顕著な効果」自体が進歩性を肯定する十分条件となってしまい、「独立要件説」との違いが分かりにくくなってしまうが、私のように「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎないと考えれば、強い 動機付けがあった場合は進歩性を否定することができる。

また私は、「動機付けがない」ことは進歩性に求められる重要な要件であるの対し、「顕著な効果」は「単なるでたらめのありきたりではない」ことを推認させる事情に過ぎず、4月24日の投稿の最後でも書いたとおり、それほどシビアに判断する必要はないとも感じている。 なぜなら、たとえ「顕著な効果」がないものを特許にしても、その発明を行う「動機付けがない」のであれば、第三者が容易に思いつくものに特許を付与することにはならないからだ。 また、進歩性を認めるために必要な「顕著な効果」のレベルについても、「単なるでたらめでのありきたりはない」と推認できれば足りるのだから、それほど高い効果を常に求める必要はなく、また場合によっては、出願後に判明した効果や商業的成功などを参酌することも容認できると考えている。

Sotoku 10号の「9.」節で私が例に挙げた「くだらない発明」(改変タンパク質や改変化合物)に関して、たとえ特許になっても私は「構わない」(24ページ、26ページ)と言ったのはそういうことであり、たとえ特許になっても、その発明に「動機付けがない」ことに変わりはないから第三者への害は少ないだろうという意味だ。 そしてSotoku 10号の脚注35で「後出しデータ」や「医薬品としての成功」を参酌してもよいことを示唆したのは、発明の「効果」というものは、それほどシビアに判断すべき要件ではないと思っているからだ。

「動機付け」がなくても「効果」がなければ進歩性を否定し、「効果」があっても「動機付け」があれば進歩性を否定する私の考え方は、進歩性のハードルを上げ過ぎているのではないかと思われるかも知れないけれど、そうでもない。 例えば今回の事件では、副引例に選択肢が「2000万個以上」記載されている場合だったが、たとえ引例に選択肢が「数十個」程度(あるいは十個程度)しか記載されていなくても、それらの選択肢について実施例がなく、実施できることが「明らか」だと言えなければ「新規性」は否定されないし(審査基準 第III部第2章第3節3.1.1(1)(b))、顕著な効果があれば「進歩性」も肯定され得るかも知れないと考えている。 「2000万」という数字をそこまで下げ得るのはなぜかというと、Sotoku 10号の「7.」節にも書いた通り、その引例は「所与の前提ではない」と思うからだ。 つまり、たとえその引例には「数十個」しか選択肢が記載されていないとしても、「その引例に着目すること自体が容易であったのか」を加味しうるからだ。 したがって、文献の選択の容易性までも加味しながら総合的に考えて、その発明に到達する動機付けはなかったといえる状況であるのなら、たとえそれがある先行文献中に膨大とは言えない数の選択肢の一つとして明記されているとしても、進歩性は肯定しうると考えている。

なお、上記で『引例に選択肢が数十個程度しか記載されていなくても「新規性」は否定されない』と書いたが、仮にその引例が特許で、その数十個を概念的に包含するようなクレームで特許が成立している場合は、引例の特許権の効力はその数十個にも及ぶことになるだろう。 先願の明細書に選択肢が(実施例ではなく仮想的にではあるものの)記載されており、その特許権の効力もその選択肢に及ぶのに、依然としてその選択肢の「新規性」は失われていないという私の考え方はおかしいと感じる人もいるかも知れないが、そんなことはない。 Sotoku 8号『実施可能ではない態様を包含する発明に特許を付与してもよい事情』の「10.」節で書いたことと同じで、“実施可能性がない態様” (実施できることが明らかとは言えないのだから、少なくともその実施態様については新規性も失われていないと考えうるだろう;上記審査基準)を包含する発明に特許が付与されることは普通にあるからだ。 「ゾンビ説」を支持している人たちは、先行特許発明の技術的範囲に包含される選択発明はすべからく「実施できることが明らか」で、すべからく新規性がないと思っているのかも知れないが、そうした考えは誤りだと思う。 単に、先行特許発明の技術的思想(その先行特許発明の本質的部分)を利用する関係にあるというだけのこともあるのだ。 (ただしSotoku 8号で書いた私の考え方は、「クレームはその全範囲(full scope)において実施可能でなければならない」という建て前を持つ各国特許庁の記載要件の考え方とは相いれないようにもみえるので、なかなかこうした考え方が広く一般に受け入れられるのは難しいかも知れないが。)

ということで、私がSotoku 10号で説明した「顕著な効果」の考え方は、進歩性判断における「効果」の意義を明確化しようとするもので、これまでの「二次的考慮説」では必ずしもはっきりしなかった「独立要件説」との違いも打ち出すことができる。 つまり、「二次的考慮説」では「効果」を「動機付けがないこと」を推認させる事情だとみなしているのに対し、私の考えでは、「効果」は「単なるでたらめ/寄せ集めによってできたありきたりではないこと」を推認させる事情であって、「動機付けがないこと」を推認させる事情ではないから、基本的には動機付けの判断に影響を与えない。

この考え方でうまく行くかどうか、今後も考えていきたい。

(つづく)


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

「ゾンビ説」は妥当か? − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(2)


前回の投稿に引き続き、ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)に対する北大(当時)の田村先生の評論の第2回目(ウエストロー・ジャパンの判例コラム 153号)について考えたい。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 7) 」 について

田村評論の「4 評釈」の「 7) 」には、気になる点がいくつかあるので、それについて以下に見て行きたい。

(1)ある上位概念の発明が知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に該当する発明は基本的に新規性がないという考え方(井関論文のいう「第二説」)は妥当なのか?

同志社大の井関涼子先生は、「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決の評論(特許研究 No.66, 60-75 (2018))で以下のように論じている。

[井関涼子, 特許研究 No.66, 60-75 (2018) の71ページ右]
 学説では,選択発明の特許性に関して2つの考え方がある。 第一説は,選択発明は先行発明に具体的な記載がないことにより,新規性を有する発明であり,かつ,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるとの考え方であり,第二説は,選択発明は,先行発明に比して顕著な効果を奏することにより進歩性を有する発明であるので,新規性が否定されない発明であるとの考え方である。 第一説は審査基準の考え方であり,第二説は多くの裁判例が採用している
 第二説の立場からは,選択発明の理論は,具体的に引例に記載されていないものの,本来ならば新規性がない(または先願との同一性あり)とされる場合であっても,引例にはない特有の効果が認められる場合に新規性と進歩性を認めるものと考えるべきであるとし,審査基準では,選択発明はまず新規性の有無について判断し,新規性があることを認定してから成立するものだとしているが,選択発明としての進歩性が否定される場合は,原則に戻ってその発明は新規性なし(先願との同一性あり)と判断されるべきであろうと主張されている。

「新規性がない」とみなしているものを、顕著な効果がある場合は一転して「新規性と進歩性がある」などと考えるのは、私に言わせればご都合主義もいいところで、そのような考え方は「理論」ではなく「理論的破綻」だと言いたい。 これは4月24日の投稿で批判した「修正主義」的な考え方の最たるものだと思う。 「お前は新規性がない」(すなわち、お前が特許になる可能性は失われた。すなわちパブリックドメインに入る川を渡った)とみなしているものを、顕著な効果があったからといって、一転して特許にするというのは、いったん死んだものを生き返らせるにも似た行為であって、私はこの考え方を「ゾンビ説」と名付けようと思う。

理論派である田村先生なら、きっと「ゾンビ説」を批判してくれるだろうと期待しているのだが、今回の評論で田村先生は、以下のように「ゾンビ説」を紹介するだけで、これを批判してくれない。

4 評釈7) より]
選択発明は、刊行物等に記載されている発明が上位概念等で抽象的に特定されているに止まる場合に、その抽象的な範囲には属するが具体的には開示されていない構成を特定する発明であり、先行発明に対して顕著な効果(異質な効果または際立って優れた効果)がある場合には特許性が肯定されると理解されているものである ※38。選択発明として主張されている発明に、この顕著な効果が認められない場合には新規性が否定されるが、顕著な効果が認められれば新規性と進歩性がともに充足されると取り扱われている。


(2)「ゾンビ説」は多くの裁判例が採用しているのか?

上に引用したとおり、「ゾンビ説」(井関論文のいう「第二説」)について井関先生は「多くの裁判例が採用している」と論じ、田村先生は一歩引いた言い方ながら、「と理解されているものである」、「と取り扱われている」と論じている。 こうした論じられ方を見ていると、まるでこの考え方が裁判所における定説であるかのように感じてしまうが、それは本当なのだろうか? 例えば今回の田村評論の脚注38に引用されている4つの判決を見てみたい。

@ 昭和60(行ケ)51 「鉄族元素とほう素とを含む無定形合金」(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

[判決文より]
 いわゆる選択発明は、構成要件の中の全部又は一部が上位概念で表現された先行発明に対し、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明であつて、先行発明が記載された刊行物中に具体的に開示されていないものを構成要件として選択した発明をいい、この発明が先行発明を記載した刊行物に開示されていない顕著な効果、すなわち、先行発明によつて奏される効果とは異質の効果、又は同質の効果であるが際立つて優れた効果を奏する場合には先行発明とは独立した別個の発明として特許性を認めるのが相当である。

つまり裁判所は、下位概念の構成が「具体的に開示されていない」場合、顕著な効果があれば「特許性」を認めるのが相当だと説示している。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ下位概念の構成が具体的に開示されていなくても「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 この裁判所の説示を「ゾンビ説」と解する理由はないようにみえる。

ちなみに裁判所が「特許性」という言葉を使って説示することについて井関先生は、「新規性と進歩性を同時に判断していることの表れ」だと指摘している(井関論文の70ページ右)。 しかし、そう考えるのは早計だろう。 「特許性」という言葉は、「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないためにも用いられる言葉であって、新規性と進歩性を連動させることを必ずしも示唆するものではない。 私もSotoku 10号の中で「特許性」という言葉を何回か用いているが、単に「新規性」なのか「進歩性」なのかを明言しないために用いているだけであって、連動させることなど意図していない。

A 平成21(行ケ)10430「ソリッドゴルフボール」(中野哲弘 東海林保 矢口俊哉)

[判決文より]
 いわゆる「選択発明」とは,先願発明の構成要件が上位概念で表現されており,その先願発明の実施例として示されていない下位概念を構成要件とする後願の発明が,その構成要件である下位概念のものによって奏される作用効果が異質のものであるとき,又は同質の効果であっても,格段の差異がある場合に認められる。

この説示は、選択発明は顕著な効果があれば特許性があるものとして認められると説示していると解される。 しかし裁判所は、顕著な効果がなければ「新規性」がないとみなすべきだとは一言も述べていない。 むしろ本判決で裁判所は、『甲1発明における「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」との用語は,・・・非常に広範な化合物を含む「チオールやメルカプタンなどのような硫黄含有物質」に形式的に該当するすべての化合物を指すものとは解されない。』と説示しており、この説示からは、形式的に下位概念だからといって新規性がないとは解されないと裁判所は考えていることがうかがえるだろう。 したがって、この判決は「ゾンビ説」を説くものではない。

B 平成26(行ケ)10027「有機エレクトロルミネッセンス素子 」(石井忠雄 西理香 神谷厚毅)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するべきである。

上記のとおり裁判所は、下位概念の発明が文献に「具体的に開示されておらず」、かつ、「顕著な効果」がある場合を除き、「特許性」がないと説示している。 そうすると裁判所は、特許性を認めるためには「顕著な効果」があるだけでなく「開示されていないこと」も求めていると解される。 裁判所は、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」(すなわち「ゾンビ説」)とは言っていないし、むしろ特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めていることからすれば、「顕著な効果」がある場合に自動的に「開示されていない」とみなす「ゾンビ説」を採っているとは解せないのではないか?

もっとも裁判所は、「・・・,下位概念となる当該発明は,既に公に開示されたものであって,・・・」 とも説示しており(井関論文の70ページ右でもこの説示が紹介されている)、この部分は「ゾンビ説」を採っているようにもみえる。

C 平成28(行ケ)10037「重合性化合物含有液晶」(鶴岡稔彦 大西勝滋 寺田利彦)

[判決文より]
 特許に係る発明が,先行の公知文献に記載された発明にその下位概念として包含されるときは,当該発明は,先行の公知となった文献に具体的に開示されておらずかつ,先行の公知文献に記載された発明と比較して顕著な特有の効果,すなわち先行の公知文献に記載された発明によって奏される効果とは異質の効果,又は同質の効果であるが際立って優れた効果を奏する場合を除き,特許性を有しないものと解するのが相当である 。

裁判所の説示の内容は、上で取り上げた「有機エレクトロルミネッセンス素子」事件判決の説示と同じだ。 裁判所は、特許性を認めるために「顕著な効果」と「開示されていないこと」の両方を求めているのであり、「顕著な効果がなければ開示されているとみなす」という立場(すなわち「ゾンビ説」)を明示的にとっているわけではない。

このように、「ゾンビ説」の参照として田村評論の脚注38の中で引用されている判決文を見ても、それらの判決が「ゾンビ説」を採っているのかは必ずしも明らかではない。

念のため、井関論文において「ゾンビ説」を支持するものとして取り上げられている判決も見てみる。 例えば井関論文の70ページ左(脚注17)で引用されている「ケラチン繊維の酸化染色組成物」事件判決はどうか。

D 平成14 (行ケ)524「ケラチン繊維の酸化染色組成物」(山下和明 設樂隆一 阿部正幸)

[判決文より]
・・・,刊行物1のような公開特許公報についてみれば,特許請求の範囲に包含される組合せの数が膨大な数となる場合においても,明細書の発明の詳細な説明には,当該発明の実施例を限定的な数だけ記載しているにすぎないこともあり,このような明細書については,特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,明細書の発明の詳細な説明に発明として記載され,開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得るところである。

つまり裁判所は、「特許請求の範囲に包含される組合せのすべてが,・・・開示されていると解すべきかどうかが,明確ではない場合も生じ得る」と言っているのだから、むしろ「ゾンビ説」に懐疑的な見方を示しているではないか!

なお、この判決で裁判所は、以下のようにも説示している。

 もっとも,物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野においては,特許請求の範囲に記載された特定の発明が,刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある。特に,発明が引用発明と比較して顕著な効果を奏するものであると認められる場合は,このような進歩性についての判断が,新規性についての判断にも事実上の影響を及ぼし,一見した限りでは当該発明が当該刊行物に記載された発明であると解し得るような場合であっても,そのような新規性の判断について再考を必要とすることも生じ得るであろう。

この説示は「ゾンビ説」のように見えるが、「刊行物に記載された発明と見得るかどうかの判断が困難な場合もある」、「一見した限りでは」という言い方からすれば、新規性の判断が困難な場合の話であって、このような時に顕著な効果がある場合、再度慎重に検討すれば、「あ、やっぱりこれは先行技術に開示されたものではないよね。」ということが確認されることがあると言っているだけだと解することもできる。 顕著な効果がない選択発明を一般に「新規性がないものと判断しろ」と説示しているわけではないから、「ゾンビ説」を支持しているとまではいえないだろう。

E 平成22(行ケ)10324「液晶用スペーサー」(滝澤孝臣 井上泰人 荒井章光)

井関論文の脚注18で取り上げられているこの判決で裁判所は、「また,本件発明は,引用発明1から本件発明が限定した部分について,引用発明1の他の部分とその作用効果において差異があるということはできないから,引用発明1と異なる発明として区別できるものでもない。」と説示し、先行技術と作用に変わりがないことを新規性がないとみなす根拠の一つとしている。 したがってこの判決は「ゾンビ説」的な考え方を採っているといえるかも知れない。 但し裁判所は、引例には重合体の製造に用い得る単量体物質が列挙して記載されていることを指摘した上で、『・・・,上記単量体のうち,2-エチルヘキシルメタクリレート,ステアリルメタ クリレート,ラウリルメタクリレートは,本件発明の「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」に該当するものであるから,引用例1の【0010】には,文言上,「長鎖アルキル基を有する重合性ビニル単量体」を共重合材料に含む共重合体を付着層とすることが記載されているということができる。』とも説示しており、引例中には本件発明で特定されている具体的な物質が記載されていることを認定した上で新規性を否定しているのだから、単に先行技術の下位概念に包含されることをもって新規性を否定しているわけではない。

以上のとおり、「ゾンビ説」を支持しているものであるかのように紹介されている裁判例でさえ、判決文を読んでみると、「ゾンビ説」を明確に説示しているとまではいえない。 確かに「ゾンビ説」的な説示をする裁判例はあるが、多くの裁判体が「ゾンビ説」を採っているとは言えないだろうし、まして「ゾンビ説」が裁判所における定説だとは言えないだろう。


(3)「選択発明二分論」について

ところで今回の田村先生の評論を読むと、田村先生は「選択発明」を2つに分類しており、上に挙げた「液晶用スペーサー」事件のように、本件発明を構成する発明特定事項が、引例の中に実施可能な態様として具体的に記載されているとみなせる場合を「先行発明が成立している場合」と称し、その場合は「ゾンビ説」を適用して顕著な効果がない限りは新規性を否定してよいことを示唆する一方で、選択発明であっても本件発明を構成する発明特定事項が実施可能な態様として具体的に記載されていない場合は「先行発明が成立していない場合」とみなし、その場合は「ゾンビ説」を適用しないことを論じている。

これを「選択発明二分論」と名付けよう。 田村先生は、そういう「選択発明二分論」を採用することで、「ゾンビ説」を採っていたとされる過去の裁判例と整合性を取ると共に、それとはまったく逆のように見える今回の大合議判決、すなわち、構成が容易ではないというだけで進歩性を肯定し、効果を検討することを不要としたピリミジン誘導体事件の大合議判決とも整合性を取る考え方を提示すること目指しているのだと思う。

田村先生の「選択発明二分論」に対する私の感想は、そこまでして「ゾンビ説」を擁護する必要はないし、そこまでして今回の大合議判決を擁護する必要もないということ。 むしろ、本件(ピリミジン誘導体事件)のような発明の進歩性の判断において「発明の効果」を検討しなかった今回の大合議判決は不適切であり、批判は避けられないと思うから、それを擁護するものである限り、田村先生の「選択発明二分論」も批判は避けられないと思う(これについては日を改めて取り上げたいと思う)。 但し、選択発明の中には、効果の高い低いが進歩性の有無を決するようなものもあれば、そうではないもの、すなわち、効果がありさえすればその高い低いは進歩性の判断にあまり影響を与えないものもあるのだろうと思われ、それを「選択発明二分論」として論じることはできるのだとは思う。 だから、批判しておいてなんなのだけれど、私も結局は、田村先生の「選択発明二分論」を自分なりに自説の中に取り込んでいくことになるのかも知れない。


(4)「ゾンビ説」の背景にあるのは、ある種の不安心理ではないか

「ゾンビ説」が生まれてくる背景には何があるのだろうか。 たとえば井関論文の脚注27では、竹田和彦先生の『特許の知識』(第8版)(2006)が「ゾンビ説」を説いていることが指摘されている。 確かに『特許の知識』には「ゾンビ説」の考え方が説かれている。 井関先生が引用している『特許の知識』の第8版には、なぜ「ゾンビ説」が妥当だと竹田先生が考えているのかについて説明が記載されていないが、古い版では次のように記載されている。

[竹田和彦「特許の知識」ダイヤモンド社(1994)165-166ページ]
【選択発明】
 ・・・。
・・・,先行発明がゼネリックな開示(例えば金属)であれば,後行発明のスペシフィック(例えば銅)は同一とされず新規となる。・・・。これに従うとすれば,選択発明が議論されるケースは新規性の要件を満たし,特許法29条2項の進歩性のみが判断されることになる。
 しかし,上位概念が明確なものであるならば下位概念がそれに包含されるのは当然であって,原則として同一とされるべきである。もしも先行発明の金属と後行発明の銅が同一でないとすると,審査官は新規性で拒絶できないから,常に進歩性を判断せざるをえなくなる。出願人が特段の効果を立証しなくとも(立証責任についてはp.174を参照),審査官が否定できなければ特許せざるをえなくなってしまう。

つまり竹田先生は、選択発明を「新規性なし」で拒絶できないと、進歩性で判断せざるをえず、「顕著な効果がないこと」を立証しなければ進歩性が否定できずに特許になってしまう懸念があるから、「新規性なし」で拒絶できるようにしておくべきだと言っているのだ。 しかし、竹田先生が支持する「ゾンビ説」によれば、「顕著な効果」がある場合は「新規性」もあることになってしまうのだから、結局は「顕著な効果」の有無を判断せざるをえず、全然解決になっていないのだが?(笑)。 それとも竹田先生は、立証責任の分配で調整でもするつもりだったのだろうか? ちなみに引用文中に記載されている「p.174」には、「疑わしきは特許に」の精神が紹介されているが、その精神だけでは問題の解決にならないことに変わりはない。 竹田先生自身、この説明には難があると思ったのかもしれないが、上述のとおり新しい版では上記の記載は削除されているようだ。

進歩性の判断において仮に「ゾンビ説」が採られることがあるとして、その背景には、ある種の不安心理もあるのかな、と私は想像している。 つまり、「進歩性」を否定するだけでは上級審でひっくり返されるかも知れないから、「新規性」も否定しておきたいという気持ち。それに、本当は「進歩性」だけを否定すれば十分だと思っていても、上級審が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、「新規性」も否定しておいた方がいいと感じてしまうこともあるだろう。

こうした心理は伝染するかも知れない。 裁判所が「ゾンビ説」を採っている可能性があるのなら、特許庁の審判でも「ゾンビ説」を採用し、「新規性」も否定しておかないとひっくり返されてしまうかも知れない・・・。審判が「ゾンビ説」を採用するのなら、審査段階でも「ゾンビ説」を採用しておかないと・・・。 かくして、進歩性判断において本来あるべき規範は、不安心理によってゆがめられてしまう。

これを阻止するためには、判断を行う各人が強い意思をもって責任ある判断を行わなければならないだろう。また、場合によっては、知財高裁が大合議によって「ゾンビ説」を否定することも有用かも知れない。

ちなみに井関論文が「否定しているともいえよう」と解説しているとおり(井関論文の74ページ左)、今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したと解する余地がある。 井関先生は論文の中でそれを嘆いているが、Sotoku 10号の脚注41でも書いた通り、私はむしろ歓迎したい。 裁判長だった清水先生も、この際、今回の大合議判決は「ゾンビ説」を否定したのだと解説してもらえればいいと思う。^^

ということで、田村先生も、安易に「ゾンビ説」を支持したり、『今回の大合議は「ゾンビ説」を否定したものではない』などと論じたりすれば、足元をすくわれかねないから、気をつけた方がいいかも知れない。 ^^

むしろ、清水先生と力を合わせて「ゾンビ」を退治するために尽力してほしい。

(つづく)


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2019年05月09日

大合議判決の言う「具体的な技術的思想」について − 田村善之先生 WLJ判例コラム153号「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」〜ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決(平成30年4月13日判決言渡)の検討(その2)〜 の感想(1)


ピリミジン誘導体事件の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)(平成30年4月13日判決)が出されてから1年と少し経ったが、早くしないと、もう来月には次の大合議判決が出てしまうらしい。 ピリミジン誘導体事件の大合議判決を「今回の大合議判決」と書けるのも今のうちなので、まぁ大変遅ればせながらではあるが、昨年11月19日にウエストロー・ジャパンの判例コラムで公開されたピリミジン誘導体事件の大合議判決の進歩性の判断に対する北大(当時)の田村先生の評論について、数回にわたって感想を書いてみたいと思う。

*     *     *

この判決で裁判所が説示した進歩性の判断規範に関しては、同志社大の井関涼子先生が批判的な論文(特許研究 No.66, 60-75 (2018))を出したことは昨年の10月31日の投稿でも書いたが、今回の田村先生の評論も、大合議の説示に対してかなり批判的だ。 特に『4 評釈 』 において田村先生は以下のように論じている。

4 評釈4)副引例に引用発明適格性を要求することに対する疑問](強調は私が入れた;以下同様)
・・・、かりに本判決に従って、相違点に係る具体的な技術的思想が開示されていないために「副引用発明」には該当しないとされたとしても、それで進歩性判断のために参酌する資料たりえないことになるわけではないから、結局、「副引用発明」であることの要件は、進歩性判断の参酌資料たりえるための要件ではないといわざるをえず、せいぜい、「副引用発明」としては参酌しえない、という意義を有するに止まる。 そして、「副引用発明」と、それには該当しないが進歩性判断の基礎となりうる示唆や動機付けとの境界が截然と分かれているものではないとすれば、そのような問題設定をすることの意義自体が問われて然るべきであろう

そして続く『 5) 』においても、

4 評釈5)
・・・、引用発明適格性という関門を設けて(とりわけ甲2発明が主引例とされた場合に)一律に進歩性判断の基礎とすることを否定するように読める本判決の論法には疑問がある。

と論じ、上で挙げた井関先生の論文を引用している。 そして、上記の田村先生のような批判を避けるために、ある引例で最終的に進歩性を否定できそうな場合はその引例の引用発明適格性を否定しないようにすることで、引用の「引用発明適格性」を否定したにもかかわらず、その引例を(引用発明としてではなく)単なる参酌資料として参酌して進歩性が否定できてしまうというような奇妙な事態が起こることを避け、「引用発明適格性」を判断することに意義を持たせようとするような考え方、すなわち結果から逆算する本末転倒な考え方について田村先生は、

脚注35
もしそれができるというのであれば、そもそも引用発明適格性という問題設定をすること自体、無意味かつ誤解を生む源であると評価しなければならなくなるであろう。

と批判している(別に裁判所がそういう逆算的な考え方を採っていると言っているわけではない。一つの可能性として批判しているだけだが。)。

4 評釈 』の『4)』および『5)』における田村先生の上記の指摘についてはとても共感できる。 進歩性の判断に使用される引例に、他の引例の記載内容によって影響を受けることのない固有の「引用発明適格性」があるはずだと考えること自体がおそらく誤りなのだ。

ということで、田村先生のこの評論は読んでいてスカっとするね。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 2) 」 について

さて、他の人が書いた論文に対する感想を書く場合、同意できるところは上記のように「同感!」と言えば終わってしまうので、どうしても同意できないところを探して話題にするような感じになってしまうのだけれど、ここからは、今回の田村評論において、私の考え方とは違う部分について書いていきたい。

今回の判決で裁判所は、進歩性の判断に際し、先行技術とする29条1項3号の「刊行物に記載された発明」は「具体的な技術的思想」でなければならないと説示した(判決文PDF 87ページ)。 今回の評論において田村先生は、この「具体的な技術的思想でなければならない」という裁判所の説示の捉え方について、以下の4つの可能性を挙げている。

[田村評論の「2)副引例として主張された刊行物から具体的な技術的思想を抽出できない場合にその参酌を否定する論理の候補」より]
@ 新規性と進歩性を通じて、引例から具体的な技術的思想を抽出しえない場合には引用発明たりえないとする考え方

A 新規性と進歩性を通じて、刊行物記載の場合には具体的な技術的思想が記載されていることを要求する考え方

B 新規性については引例となるために具体的な技術的思想を抽出することができる必要はないが、進歩性に関してはそれを要求する考え方

C 進歩性特有の問題として、主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付けを欠く場合には、進歩性を否定できないとする一般論を適用する考え方

このうち C というのは、進歩性を判断する際に以前から特許庁の審査・審判において採用されていた考え方であって、この考え方を採用する場合は、先行技術から「具体的な技術的思想」なるものを抽出できるかを特に意識する必要はない。 どうしても意識したいというのなら、C に言うところの「主引例と特許発明の相違点を架橋する構成を副引例から抽出する示唆や動機付け」が副引例に存在する(すなわち進歩性が否定される)場合は、その副引例には「具体的な技術的思想」が記載されているとみなし、そうでない場合は、その副引例には(進歩性を否定するに足る)「具体的な技術的思想」は記載されていないとみなせばよいのかも知れない。 もちろん、そういう逆算的な考え方に対しては田村先生は批判的で、だからこそ上に引用したとおり、引例に「具体的な技術的思想」(すなわち「引用発明適格性」)を求めること自体の意義が問われなければならないと田村評論は論じているのだ。

では @ 〜 B についてはどう考えればよいか。

裁判所の説示を改めて引用すれば以下のとおり。

[判決文PDF 87ページ]
このような進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない

このように裁判所は、「進歩性の判断に際し」、「刊行物に記載された発明」については、と説示している。 したがって、この説示をもっとも狭く解釈するのなら、「進歩性」の判断に際し、同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については、具体的な技術的思想でなければならないと説示したのだと解釈することができるだろう。 つまり、進歩性の判断ではない場合や、引例が29条1項3号の「刊行物発明」ではない場合については、裁判所は何も言わなかったと捉えるのだ。 そして、裁判所が明示的には説示しなかった、「新規性」を判断する場合や「公用発明」(29条1項2号)の場合に、引例に「具体的な技術的思想」を求めるのか否かを田村先生は問題にしている。

そして上記の「A」において田村先生は、「公用発明」を先行技術として進歩性を否定する場合は、その公用発明に「具体的な技術的思想」が認められる必要は必ずしもないという可能性を示唆している。 たとえば、ヨーグルトにもともと含まれている成分Aにアルコール代謝機能があることを発見し、「成分Aを有効成分とする二日酔い防止ヨーグルト」という発明を出願した場合を田村先生は例に挙げている(田村評論の脚注13を参照)。 その出願の前には、ヨーグルトにアルコール代謝機能があることは知られていなかったとしても、昔からヨーグルトは市販され、酒を飲んだ後に食べた人もいたかも知れない。 そういう場合は、たとえ「ヨーグルトが二日酔い防止に効く」という点に関連して、公用発明には「具体的な技術的思想」がまったく認められないとしても、公衆がその効果を享受しえていた以上、その公用発明を引例として認めて特許性を否定できるようにしてもよいのではないか(すなわち「具体的な技術的思想」が公用発明に認められる必要はない)ということを田村先生は示唆したいのだろうと私は理解した。(北大の吉田広志先生の特許研究64号29〜30頁(2017年)、パテント71巻3号4〜14頁(2018年)も参照。)

そして「B」というのは、ある発明について、不特定の人がその発明を利用できる状態であったのであれば、その発明の「新規性」は失われていたとみなすべきで、その発明についてなにか「具体的な技術的思想」が知られていた必要はない、というような考え方を示唆したいのだろう。

このように考えると、A や B の考え方にはそれなりに理由はあるわけで、これらに賛成する人はいるのかもしれない。 しかし、これについては「具体的な技術的思想」の定義によっても話はだいぶ変わってくるだろう。 私が昨年10月31日の投稿で公開した Sotoku 10号 の「6.」節(12-17ページ)を書くときには、発明の「新規性」が否定される場合は、その発明について、何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められる(明示はされていなくても、少なくとも看取できる状態にあった)ということを想定していた。 例えば物の発明の新規性が否定されるためには、その物を、不特定の人が反復して作れたり、採取できたりすれば十分であり、その物の構造などが知られている必要はまったくないと思うが、たとえそうだとしても、その物を「反復して作れたり、採取できる」という限度において、その物の発明の技術的思想は知られていたわけだ。 そして上のヨーグルトの例においても、たとえ「成分Aがアルコール代謝機能を持つ」という点に関しては知られていなかったとしても、ヨーグルトという物の発明は、「反復して作れる」という観点では技術的思想として知られていたわけだし、それを食べて栄養を採ったりする行為(「方法発明」の一種と言えるだろう)についても、その限度において技術的思想は知られていたわけだ。 そういう発明も「具体的な技術的思想」の一つだと捉えるのであれば、「公用発明」の認定や「新規性」の判断において、「具体的な技術的思想」を要件として求めたとしても特に不都合は生じないだろうと私は思う。 したがって、上で引用した A や B の考え方が必要になるかどうかは、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第で変わる話なのだろうと思う。

上記のとおり私は「具体的な技術的思想」というものを緩く考えており、特許出願にかかる通常の発明(「永久機関」のようなトンデモ発明ではなく、記載要件を満たし得るまともな発明)の新規性を否定できるような先行技術には必ず「何らかの具体的な技術的思想」は認められるはずだと思っているから、Sotoku 10号 の「6.」節でも『・・・「新規性」を判断するときに、刊行物に記載された発明に「具体的な技術的思想」であること(引用発明適格性)を求めても、新規性を否定するために引用できる刊行物に何らの実質的な制約を加えるものでもないから、その要求を受け入れることができるだろう。』(16ページ)と書いた。

なお余談だが、上のヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明と、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は異なる発明であって、少なくとも特許庁の審査においては、この違いは峻別されている(審査基準 第III部 第2章 第4節 3.1.2)。 すなわち、特許審査においては通常、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という性質を有するヨーグルトであって、二日酔い防止という用途に用いることに必ずしも限定されていない物の発明だとみなされる一方で、「二日酔い防止ヨーグルト」という発明は、二日酔い防止という用途に用いることに限定された用途発明だとみなされる。 田村先生は「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使って論じているが(脚注13)、もし用途発明の話をしたいのなら、それを明確にするために「二日酔い防止ヨーグルト」という言葉を使ってほしい。 このヨーグルトの例においては、「二日酔い防止ヨーグルト」(用途限定のない物の発明)の新規性は確かに否定されるべきだと思うが、公用発明において二日酔い防止のためにヨーグルトを食べるということがまったく行われていなかったのであれば(現実にはこれはちょっと考えにくく、「これが二日酔いに効くんだ」とか言いながら食べていた人はきっといそうだが、あくまで試論として、そうした証拠が集められなかったと仮定するのであれば)、Sotoku 10号 の脚注39にも書いた通り、私は「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」は肯定してよいと考えており、あとは「進歩性」の問題だと考えている。 それに対して田村先生や北大の吉田先生などは、「二日酔い防止ヨーグルト」という「用途発明」の「新規性」さえ、否定してよいという考え方なのかも知れない。 この点で、私と二人の先生方との立場は違うのだろう。 但し、この場合に「二日酔い防止ヨーグルト」という用途発明に「進歩性」まで認めてよいのかと言われると、私もかなり否定的なので、「特許性否定」という最終結論では違いはないということになるのかも知れない。

いずれにしろ進歩性の判断に関しては、「C」の考え方で足りるのだから、@ 〜 B のような「具体的な技術的思想」なるものを持ち出す必要はそもそもないと私は思っており、おそらく田村先生もその点では同じように思っているのだと思う。

*     *     *


● 「4 評釈」 の 「 6) 」 について

「4 評釈」の「 6) 」において田村先生は、「新規性の場面において、具体的な技術的思想の記載を要求するという意味での引用発明適格性を要件とする必要はないと考える」と結論している。 この問題に対する私の立場は、Sotoku 10号の「6.」節に書いたとおり、『新規性の判断において我々は「引用発明適格性」という考え方を必要としない』(15-16ページ)というもので、田村先生の言っていることと類似している。 但し、「具体的な技術的思想」をどのように定義するのか、という前提次第でニュアンスは変わるのだろうと思う。 上述のとおり私は、「具体的な技術的思想」というものをゆるく考えていて、公用発明のようなものでも何らかの「具体的な技術的思想」はかならず認められるはずだと考えているし、無理に新規性を否定しなくても進歩性を否定すれば十分だとも思っているから、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することをより気楽に受け入れることができるのだが、もし田村先生が、公用発明には「具体的な技術的思想」が認められない場合があると考えているのなら、新規性を否定するための引例に「具体的な技術的思想」を要求することを否定したいという気持ちは私より強くなるのだろう。

またこの問題は、上位概念の発明が(特許要件を満たす程度に)知られていた場合に、その下位概念(選択発明)に相当する発明の新規性は失われていたと考えるのか否かという問題にも関連するが、それについては長くなるからまた次回取り上げたいと思う。


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2019年04月24日

「修正主義」としての「発明の効果」の意義論(前田健先生 Law and Technology No.82, 2019, 33-44)


Law and Technology No.82 (2019/1) 33-44 に掲載されている神戸大の前田健先生の論文『進歩性判断における「効果」の意義』。 進歩性の判断において、「発明の効果」はどのような意義があるのかを論じた論文だ。

特許や特許出願における発明の進歩性の判断において、「驚くべき効果」や「予想外の効果」などの発明の効果が進歩性を肯定する方向に参酌される場合があることは周知の事実だが、それはなぜなのだろうか? その説明としては、従来から「独立要件説」と「二次的考慮説」という二つの説がある。

独立要件説」とは、たとえ発明の構成が容易だとしても、その発明の効果が予想外に高いのであれば進歩性を認めるという考え方だ。 この考え方においては、「発明の効果」が高い場合は、結果的に、「発明の構成」が容易であるか否かによらずに進歩性は肯定されることになる(すなわち「発明の効果」は、「発明の構成」の容易性とは独立に進歩性を認めるための要件ということになる)から、この考え方は「独立要件説」と呼ばれている。

これに対して「二次的考慮説」(「間接事実説」などとも呼ばれる)とは、発明の効果はあくまで「発明の構成」が容易であるか否かを判断するために考慮しているのだと捉える考え方であり、「発明の構成」が本当に容易であるのに「効果」が高いからといって進歩性が肯定されることはないと捉える考え方だ。

したがって、「独立要件説」と「二次的考慮説」は異なる考え方であって、進歩性の有無という最終結論についても一致する保障はないだろう。 ところが今回の前田論文では、両者は事実上、結論において差を生み出さない運用が可能だと説明されている。

例えば今回の論文で前田先生は以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 36-37ページ]
たとえば、進歩性否定側が動機付けの論理付けに成功すれば容易想到性は一応肯定されるが、相手方が「効果」の存在を抗弁として立証したときには、結局容易想到性は否定されるという運用も、二次的考慮説のもとで必ずしも排除されないのである。実のところ、裁判実務では「予測できない顕著な効果」の有無と進歩性の有無がほぼ連動しているという指摘がある 24)。独立要件説では、「動機付け」=「構成の容易想到性」と「効果の容易想到性」とを分離して捉えるので必然的にそのような運用となるが、二次的考慮説を前提にしても事実上、同様の運用をなすことは可能である。その意味では、少なくともこの観点において、両説の対立は実際上の結論の違いをもたらさない 25)。

そして今回の論文で前田先生は、「基本的に二次的考慮説によって正当化することが妥当であると考える。」(38ページ)と述べて前田先生自身は「二次的考慮説」の立場であることを明確にしながらも、次のように論じるのだ。

[同 38ページ]
請求項に係る発明の構成が奏するであろう効果が、当業者が予測できる範囲を超えていた場合には、当該効果を 奏して課題を解決できるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。

[同 42ページ]
このような考え方は、二次的考慮説から最も説明しやすい。効果を構成の容易想到性の問題に一元化して捉える場合、その構成のものとして予測される範囲を超えていることは、結局、その構成を採用して当該効果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。

上のような前田先生の説明に対しては、単純に「なんで?」と思ってしまう。

「(予想外の)発明の効果」は、その「発明の構成」を採用して初めて判明することだ。 当然ながら、その「発明の構成」を採用するまでは、「(予想外の)発明の効果」は予想できないのであり、あらゆる発明は「その本当の効果」はいまだ分かっていない状態で発明される。 換言すれば、あらゆる発明は、その「発明の構成」が本当はどのような効果を発揮するのかとは無関係に発明されるわけだ。 そうすると、その「発明の構成」を採用することの動機付けは、その発明の構成が本当はどのような効果を発揮するかに影響を受けないはずではないか?

したがって、前田論文のように、発明の効果が予想外であった場合は「当該構成を採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる」だとか、「その構成を実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである」などと説明するのは、後日判明した結果をもとに都合よく過去を書き換えてしまう「修正主義」のようなもので、論理的に難があると思う。

前田論文では、

[同 38ページ]
本稿の理解では、「動機付け」と「効果」はともに容易想到性の考慮要素であるが、動機付けが一応認められても予測できない効果が認められるときには、結局当該発明の構成に想到することが容易であったとはいえず、容易想到性が否定されることになる。その意味では、本稿の見解は基本的には二次的考慮説に立ちつつも「効果」をある程度独立して捉えているといえる。

と論じているが、前田先生が論じていることは、「ある程度」というより、実体は「独立要件説そのもの」だ。 しかも前田先生は、それを「二次的考慮説」だと言っている点で、「独立要件説」論者よりも分かりにくく、誤解を生みやすいものになっていると思う。

その意味で、私は今回の前田先生の論文の立場は、真に「独立要件説」を否定するものではなく、「独立要件説」を否定しているように見せかけているだけの、ある種の欺瞞行為(高貴なる嘘?)ではないかという気がしている。

もっともこれは前田先生に限ったことではなく、「二次的考慮説」を支持する論者のかなりの割合が、こうした修正主義的な考え方を採っている可能性もある。

ちなみに私は進歩性の判断において「効果」をどのように位置づけているかといえば、Sotoku 10号の「10.」節に書いた通りで、「容易」の判断の一環として効果を織り込もうとしている点では「二次的考慮説」と同じではあるけれど、「動機付け」の判断として効果を織り込もうとする前田先生のような考え方を採るのではなく、「高い効果を持つ“当たり”を引き当てることの困難性」として効果を織り込もうというもの。 したがって、「効果」による判断は「動機付け」による判断を否定できるものではないので、十分な「動機付け」がある場合は、「効果」が高くても進歩性は否定されるというのが私の立場だ。

もし前田先生が、「それほどの効果を奏する発明の構成を現に採用することは容易とは言えない」から進歩性は肯定されるのだとでも説明したのなら、私は同意することができたかも知れない。 しかしそれは、たとえ宝くじを買うことは誰にでもできるほど容易であるとしても、10億円の当たりくじを現に買うことは容易とは言えないというのと似たような意味で「容易とは言えない」からだ。 これは「動機付け」とは関係のない問題だ。 前田論文が書いていることは、 適当に買った10枚のLOTOくじの一つで10億円が当たった場合に、「10億円が当たったという結果が、予測できる範囲を超えていた場合には、10億円が当たるだろうと予測できなかったのであり、そのような状況のもとでは、その当たりくじの番号の組み合わせを採用しようと実際に試みるはずはなかったといえる。」だとか、「10億円が当たったという結果が予測される範囲を超えていることは、結局、その当たりくじの番号の組み合わせを採用して10億円が当たるという結果が得られるという見込みがなかったことを意味し、そのような場合には、その当たりくじの番号の組み合わせを実際に採用しようとしたであろうとはいえないからである。」などと大真面目に論じているようなおかしさがある。 外れた9枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けと、当たった1枚の番号の組み合わせを思いつくことの動機付けに、差などないのに。

このように、「予想外の効果」は「動機付け」の問題ではないのだ。 それを「動機付け」の問題として処理しようとしているところに、前田論文の違和感がある。

*   *   *

上で書いたことと少し関連するが、前田論文で気になった点をもう一つ指摘したい。

「発明の効果」によって進歩性が認められる場合があることについてはとりあえずよしとして、その効果は「優れている」必要はあるのだろうか?、それとも「優れている」必要はないのだろうか。

この問題について今回の前田論文は、「本稿の見解」という項目のところで以下のように論じている。

[前田健, Law and Technology No.82, 2019-1, 33-44 の 42ページ]
進歩性の判断において考慮される効果とは・・・、その効果が有利かどうかではなく、予測可能かどうかが問題となる。

つまり前田先生は、進歩性を認めるための効果は「予測可能かどうか」が重要なのであって、「優れている」必要はないという立場のようだ。 しかしそう言われるとすぐに“ツッコミ”を入れたくなってしまうのだが、予想外に「悪かった」としても進歩性を認めるのだろうか。 例えば、既存の医薬化合物をほんのちょっとだけ改変した。 すると予想外なことに活性が1/10になってしまった。 あるいは、予想外なことに細胞毒性が有意に上がってしまった。 そういう場合でも進歩性を認めるのだろうか?

まぁ、「優れているか否かは関係がない」、「予測可能かどうかが問題」等と論じたくなる気持ちは分かる。 何をもって「優れている」とみなすのかは必ずしも明確ではないし、主観的な要素が入り込む余地がある。 したがって、進歩性の判断基準をできるだけ客観的、かつ明確にするためには、「優れている」か否かというような観点は排すべきだ、と考えたくなるだろう。 しかし、「予測可能かどうか(のみ)が問題」だと考えてしまっては、上記のようなどうでもいい「改悪発明」の進歩性が否定できなくなるという不都合が生じるから、それを回避するような何らかの価値判断は必要なのだと思う。

前田先生は、米国や欧州における進歩性(非自明性)の判断においても、以下のように述べて、優れているか否かは関係がないと論じている。

[同 40ページ](米国について)
考慮されるのは効果が予期できないかどうかであり、効果がすぐれているかどうかは直接関係ない 42)。

[同 41ページ](欧州について)
効果は「優れている」必要はなく、あくまで予測できたかが問題となる 50)。

しかし、例えば脚注42に引用されているとおり、米国審査基準716.02(a) には、「Greater than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているのであって、「Greater or lesser than expected results are evidence of nonobviousness.」と記載されているわけではないのだから、前田先生が言うように「予期できないかどうか」だけが問題とされているわけではなく、「greater」と言えるような効果が認められるのかは問題とされていると言うべきだろう。 実際、日米欧のいずれの特許審査においても、構成が容易だから進歩性や非自明性がないと指摘されている発明について、「予想外に効果が低かった」ことを立証したところで拒絶が解消するとは思えない。

もちろん私も、効果が「上昇」していなくても進歩性は認められうるとは思っている。 それについてはSotoku 10号の脚注36にも書いたが、ある既知の化合物を改変する場合において、「置換基を少しでも変えれば活性が完全に喪失する可能性が極めて高いというのが技術常識である場合は、活性があるというだけでも進歩性を肯定し得るだろう」。 したがって、別に活性が「上昇」していることが必須だというわけではない。 また場合によっては、活性や機能が予想外に「低かった」場合でも進歩性が認められることもあるだろう。 例えば、接着剤を開発していて、予想外に接着力の低いものができてしまった。 しかしそういう接着剤は、何回も貼ったり剥がしたりできる付箋用の糊として有用だから、進歩性を認めるべきだという考え方はあり得る。 しかしそれは、出願人なり特許権者なりがそういう主張(すなわち、「接着力は劣っていても、それが“当たり”なんです」という主張)を行って、特許庁の審査官・審判官や裁判所の裁判官を説得できて初めて進歩性が認められるものであって、「予想外に劣ったものができました」というだけで自動的に進歩性が認められるものではないだろうし、そうあるべきものでもないと思う。 つまり、効果が「優れている」必要はないにせよ、単に「予期できない」というだけでは足らず、「当たり」だとみなせるようなものであることが必要なのであり、出願人はそれについて主張する責任があるということだ。

なお、効果が「高い」場合も実は同じで、効果が「高い」方向に予想外だというだけで自動的に進歩性が認められるというよりは、効果が高い場合は「当たり」であることが推認でき、「当たり」であることを出願人が特段主張しなくても進歩性が認められるから、「当たり」か否かという問題は表に出て来ないだけだろうと思う。

そして、とくに多数の選択肢の中から一つを選んで行った発明の場合に、その発明を「当たり」だとみなすか否かということや、そもそも何を「当たり」とみなすのかということ(例えば、薬効と副作用を併せ持つ既知の医薬化合物を改変したら、予想外なことに、副作用はそのままで、薬効だけが消失するという、ある意味で面白い化合物が得られたとして、その化合物は「当たり」と言えるのか)は、Sotoku 10号の脚注38にも書いたとおり「総合的な判断」が必要なわけで、そこにはある種の価値観のようなものが入ってこざるを得ないのではないか。 すなわち進歩性判断における「効果」は、そうした価値判断を通して検討されるものなのであって、「予測可能か否か」だけが問題になっているわけではないということだ。

*     *     *

以上、前田先生の論文をとおして、進歩性判断における「発明の効果」の意義について考えてみた。

私は、「当たり」か否かはさほど厳格に判断する必要はなく、「当たり」だというある程度の理由がつけば、それを認めてあげていいとは思っている(後は動機付けの問題)。 しかし、特許権というものが第三者の自由を長期間にわたって制限しうるものである以上、それが許される程度には「当たり」とみせること、言い換えれば、それすら主張できないような発明は、たとえ結果(効果)の詳細が事前に予測できたものではないとしても、単なる「でたらめ」または「寄せ集め」によって生じる必然的な結果に過ぎないとして進歩性を否定することは、つまらない特許の乱立を防ぐ意味でも望まれることなんじゃないかな。

進歩性における「効果」の意義については、田村先生のWLJ判例コラム 153号の感想を書くときに再び考えたい。


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2019年04月16日

前田健先生 ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決評釈(Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26)


前田先生は、Law and Technologyの一つ前の号(Law and Technology No.82, 2019-1, 11-44)でも進歩性の判断について論文を書いているけれど、それについてはまた今度感想を書くとして、今回は直近のL&T(83号)で出された論文について短く感想を書いてみたい。

今回の「ピリミジン誘導体事件」の大合議判決(平成28年(行ケ)10182、10184)で裁判所は、進歩性の判断において使用する引用発明は「・・・、当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして、当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され、当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には、当業者は、特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り、当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。」と判示し、主引用発明と本件発明との「相違点」に関する副引例中の記載は、具体的な技術的思想を抽出することができるように記載されていないことをもって本件発明の進歩性を肯定した。

私は、進歩性の判断における引例にそのような「引用発明適格性」を要求する必要はないと考えており、そのことはSotoku 10号(「1.」〜「8.」節)でも書いた通りだ。

一方、前田先生は今回の論文において、以下のように書いて大合議判決を支持している。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 25ページ]
後知恵を排除して進歩性判断を客観的に行うためには、当業者の参照できる知識は、「技術常識」の状態に達したものか、裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)に限られるというルールが必要とも考えられる 42)。 この観点からは、本判決は肯定的に評価することができる。 引用例に記載されている事項が何でも当業者の知り得た知識として進歩性判断の基礎に用いられるとすることは、後知恵により過度に進歩性が否定されることにつながりかねないし、「発明」としてある程度確立しているひとまとまりの知識(および技術常識)のみを当業者は参照できると整理するほうが進歩性判断の明確化に資すると考えられるからである。

上に引用したとおり前田先生は、相違点に関する技術的思想が「裏づけのある確立したもの(引用発明適格性を満たすもの)」として引例中に記載されていない限りはそれを引用発明として用いることができないとする大合議判決の考え方について、進歩性判断を客観的に行うために必要であり、「明確化」に資すると論じて評価している。 しかし私に言わせれば、そのような考え方は進歩性判断の無用な「硬直化」を招くおそれのあるものであり、本来は進歩性を否定すべき発明の進歩性を否定できなくし得る「自縄自縛」だ。

とりあえず前田先生のような考え方を否定するために、具体的な例を考えてみたい。 前回の投稿で挙げた例と同じだけれど。

*     *     *

今回の事件では、主引例(甲1)に記載されている実施例1bの化合物(下図)が主引用発明とされた。

20180424_kou1_1.png

そして、上の赤い丸で示した「–N (CH3)(CH3)」の部分が、本件発明の化合物においては「–N (CH3)(SO2CH3)」に変わっていることが主要な相違点(判決文における「相違点1-i」)である。 そしてこの相違点について本件の副引例(甲2)には、この部分を「–N R4 R5」を書き表した上で、「R4 及びR5は同一もしくは相異なるものでありメチル,エチル,プロピル,イソプロピル,ブチル,イソブチル,tert-ブチル,フェニル,ベンジル,アセチル,メチルスルホニル,エチルスルホニル,プロピルスルホニル,イソプロピルスルホニルまたはフェニルスルホニルを表わす」と記載されていることから、R4 として「メチル」(CH3)を選択し、R5 としてメチルスルホニル (SO2CH3) を選択した「–N (CH3)(SO2CH3)」(本件発明と同じ構造)は、副引例(甲2)から容易なのではないか、ということが問題となったわけだ。

そして大合議判決は、要するに、上記の相違点である「–N (CH3)(SO2CH3)」という技術的思想は甲2において具体的な技術的思想として記載されていない旨を説示して「引用発明適格性」を否定し、本件発明の進歩性を肯定した。

そこで例を挙げたいのだが、私が考えた以下のような「でたらめ化合物」ではどうか? つまり、私は上記の甲1に記載されている化合物を、以下のようにでたらめに改変することを思いついた。

Sotoku10-p24fig.png

つまり、甲1の化合物では「-CH3」(メチル基)となっているところを「-CH2-C6H5」(ベンジル基)に換えたのだ。 この化合物は、甲2の記載に基づいて言えば、R4 として「メチル」(-CH3)を選択し、R5 として「ベンジル」(-CH2-C6H5) を選択したものに相当する。 そしてこの「でたらめ化合物」の活性を調べてみたところ、残念というか、当然なことに、改変前の化合物(甲1の化合物)に比べて活性が1/3に低下してしまったと仮定する。

それで、私のこの「でたらめ化合物」には進歩性はあるか?

大合議判決は、本件発明の相違点の構成、すなわち『R4 としてメチルを選択し、R5 としてメチルスルホニルを選択する』ことについて「甲2」は引用発明適格性を満たさないから引用発明として使うことはそもそもできない旨を説示したわけだ。 もしそれが正しいというのなら、私の「でたらめ化合物」のように、『R4 としてメチルを選択し、R5 としてベンジルを選択する』ことについても、「甲2」中の記載の程度は本件事件の場合と同等だと考えられるから、同様に引用発明適格性を満たさないという結論になるはずだ。 そうすると、私の「でたらめ化合物」には進歩性があるという結論になるわけだが、前田先生はそれでいいのだろうか。

今回の大合議判決の説示に全面的に同意したままで、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定することはできないから、私の「でたらめ化合物」の進歩性を否定したいのなら、どうやってこの発明の進歩性を否定するのかを考える必要があるだろう。 そうすると、今回の大合議判決の説示を「明確化」に資すると言って単に評価しているだけの前田論文は、「検討が足らない」、あるいは「批判すべきものを批判していない」ということになるんじゃないかな。

もちろん、上に挙げた問題を解決するだけであれば、Sotoku 10号で書いた「清水説」(大合議判決に関わった清水節先生の説;24頁参照)を採ることによって解決することはできる。 つまり、化合物の置換基を既知の置換基に換えるのは周知技術であるから基本的には進歩性がないと考えることによって解決することはできるだろうけど、果たして前田先生は「清水説」を採るのか、それとも違う道を行くのか、注目していきたい。

*     *     *

なお、前田論文の脚注42には以下のように記載されている。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の 脚注42]
42) 田村善之「本件判批(その2)」WLJ判例コラム153号10頁〜13頁は、そもそも進歩性判断において引用発明適格性という議論を持ち込むこと自体を批判し、具体的な技術的思想を開示するものとしてはいまだ不十分としても何らかの示唆を看取したり、動機づけを与えたりすることはあり得るはずなどと指摘する。首肯する部分は多いが、私見としては、一方で、不確実な知識についても進歩性判断に利用可能とすると、探せば仮説の類はいくらでも発見できるのであり、進歩性を自在に否定できることになるのではないかと懸念する。引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎないと思われる。

この点については、私は田村先生を擁護したいので、前田先生の指摘を批判しておくと、もし「探せば仮説の類はいくらでも発見できる」という状態だというのなら、一体どの仮説が正しいのかはやってみなければ分からないという状態だということになるのだから、特定の仮説(本件発明において採用した仮説)を選択することの動機付けはむしろ否定され、進歩性は肯定される方向に作用することになるだろう。 したがって前田先生が懸念するような問題は生じないです。 むしろ、前田先生のいうところの「明確性に資する」ために「引用発明適格性」という新たな関門を設けることが正しいというのなら、それでもなお進歩性の判断に不都合が生じないことは前田先生が証明する必要があると思う。 単に明確性に資するように感じるからといって、それで不都合が生じないことを示さないまま「引用発明適格性」という関門を設けることを正当化することはできない。 私は、「新規性」の判断においては「引用発明適格性」という関門を設けることを容認できることはSotoku 10号の「6.」節で一応説明を試みたよ。 だけど、「進歩性」の判断においては話は別だ。 進歩性の判断に不都合が生じないことを示せないのなら、安易に要件(「引用発明適格性」という要件)を増やすことには 慎重であるべきではないか。

また、「引用例をすべての当業者が参照できるというのはフィクションにすぎない」と前田先生が論じていることについては、少なくとも私は「引用例はすべて同程度に確からしいものとして参照できる」などとは思っていない。私は引用例を参照することを門前払いすることを批判しているだけだ。 発明前に存在するあらゆる引用例は参照し得ることは認めた上で、参照することの動機付けの程度や、前田先生のいう「仮説の類」の信ぴょう性の程度(合理的成功の期待)は、容易想到性の判断の中に織り込んで判断するべきだと思っているだけだから、別にフィクションを信じているわけではない。 むしろ、主引用発明の選択の容易性を不問にし、(実施可能な程度の)あらゆる主引用発明は所与の出発点とみなすことに疑問を持っていないようにみえる前田先生の考え方(前田論文の26頁最終文)こそ、実際にはフィクションなのではないか? (以下に引用)

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
なお私見を述べれば、特許法29条1項各号の発明に該当する以上、主引用発明とすることに支障はないとするのが、条文の文言上最も素直である。 実質的にも、類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分だろう。

私も、主引用発明の選択の容易性(田村先生がWLJ判例コラム 153号で言うところの「アクセス可能性」)を客観的な基準をもって判断するのは難しいだろうなとは思うし、だから実際には、「ごめんなさい。進歩性の判断においては、主引用発明のアクセス可能性は無視するか、せいぜい副次的な事情として考慮するのが関の山です。」ということになりそうな気もするけれど、たとえそうだとしても、それは実務上または法制度上の「妥協」であって進歩性判断の理論から導かれるものではないし、条文の文言上素直だからというだけで正当化できるものでもない。 また、上に引用したとおり前田先生は「類似技術かどうかなどは、主引用発明を確定させた後の動機づけの判断に取り込めば十分」というが、ここで問題とされているのは「主引用発明の選択の容易性」であって、(発明当時は存在していなかった本件発明と)「類似技術かどうか」とは関係がないし、「主引用発明を確定させた後」で判断に取り込めるはずもない。

まあ、WLJ判例コラム 153号を読む限り、田村先生もこの点は前田先生と同じ立ち位置だから、前田先生を批判することは田村先生を批判することにもなってしまいそうだけれど、田村先生の場合は「努力」(WLJ判例コラム153の脚注51)という言葉を使って論じており、「アクセス可能性」を無視するのは「妥協」の一種であることを示唆しているよね。 そこは私も理解できるところだ。

*     *     *

ということで、いろいろ批判はしたけれど、前田先生の以下の論じ方を読むと、前田先生も進歩性の「引用発明適格性」についてはかなりゆるく考えているのかな、と思ったりもする。

[前田健, Law and Technology No.83, 2019-4, 16-26 の26ページ]
ただし、引用発明たりうる「発明」の定義を厳格にとらえすぎるのも、判断の柔軟性を奪いすぎるので妥当ではない。本判決でも、甲2発明は「ピリミジン環の2 位の基を『-N(CH3)(SO2R’) 』とするという技術的思想」という程度のものである。 何らかの課題解決手段と位置付けられさえすれば、実施可能性を裏づける記載のある限り、引用発明と認定して差し支えないだろう。

前田先生が、進歩性の「引用発明適格性」というものを十分にゆるく考えているのなら、進歩性の判断において「引用発明適格性」が過度に否定されることはなくなるだろうから、「引用発明適格性」がないことだけを理由に、動機付けがあるにもかかわらず進歩性が肯定されてしまうというような不都合が生じるおそれはなくなるだろう。 そうであれば、前田論文をことさら批判する必要もなくなるかも知れない。 しかし、もし柔軟性のあるゆるい基準を採用するということになると、そのゆるい基準というのは一体なんであるのかは「明確」とは言えなくなるだろうから、「明確化に資する」のかどうかは怪しくなるだろうし、そうであれば、そういう要件を設けることの意義も薄れるというものだろう。

それに、前田先生は「ピリミジン環の2位の基を」と言うが、「引用発明適格性」を満たすために、引例には本当に「ピリミジン環の2位の基」を置換することが記載されていなければならないのだろうか? 肝臓への移行性を高めるためにメチル基(CH3)のような疎水性の置換基の近くに親水性が高いスルホニル基(SO2)を導入することが医薬品化合物の開発において比較的頻繁に行われているという状況がもしあるのなら、必ずしも「ピリミジン環の2位の基」を置換した引例がなくても進歩性を否定できる場合もあるのではないか? 逆に、「ピリミジン環の2位の基」を置換することさえ記載されていれば引用発明として適格なのだろうか? 化合物全体の構造が、単にピリミジン環を持つというだけでなく、もっと本件発明の化合物の構造と似ている必要があるのではないか。 また、その化合物がHMG-CoA還元酵素阻害活性を持つ化合物であることは要するのか?

そのように考えていくと、ある引例が進歩性を否定できる引用として適格なのか否かは、むしろ他の引例の記載内容や当時の技術状況、発明の個別の事情などによっても影響を受ける総合的な判断を通してしか決定できない事柄であって、それを判断する前に、その引例だけを個別に取り上げて「引用発明適格性」を満たすか否かを判断することなど、そもそもできないのではないかという思いが強くなってくる。

進歩性の判断において「引用発明適格性」という関門を設定することを是とする考え方は、「できない」ことを「できる」と思い込むフィクションに支えられてはいないのかどうか、私はその疑問をぬぐえないのだ。

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2019年02月19日

田村善之先生 WLJ判例コラム第158号「明細書に記載されている解決すべき課題が公知技術と対比すると不適切である場合のサポート要件の判断の仕方について」(ピリミジン誘導体事件知財高裁大合議判決 平成30年4月13日判決)


([2019/2/21 追記]あり)

昨年11月19日付の田村先生のWLJ判例コラム 第153号 「進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」の感想を書こうと思いつつ、まだできてないのに、その後、田村先生は、私が感想を書きたくなるような内容のものに限ってさえ、論文は出るし、フォーラムにも出るしで、すごい勢いだ。

そしてまた、 「ピリミジン誘導体」事件の知財高裁大合議判決に関して、3つ目のWLJ判例コラム 158号が公開された。

この勢いにはまったく追いつけないので、とりあえず瞬間的な感想だけ。

WLJ判例コラム 第158号より]
 出願時に予めあらゆる公知技術を覚知することは困難であり、また、補正や訂正も新規事項を追加すると判断される場合には、原則として出願の拒絶や特許の無効を伴うというリスクを伴う。そうであるならば、技術思想がその内容としては新規性や進歩性を喪失ないし欠如しないものであれば、公知技術を見逃したり、公知技術に気付いた後、補正や訂正をなしていなかったりすることのみを理由に機械的に出願拒絶や特許無効をもたらす帰結は採用すべきではないだろう。そのような帰結は、徒に出願人に出願書類を完璧に作成することを求め、さもなければ特許保護を諦めろというに等しく、非効率的な制度運営となるか、発明とその公開に対するインセンティヴを過少なものとするおそれがあると考えるからである。
 結論として、サポート要件の場面では、明細書に記載された解決すべき課題や解決手段を、公知技術との対比によって再構成することを否定した本判決の取扱いは穏当なものであったと評すべきである。

上記の部分、つまり、「出願人に完璧な明細書を書くことを課すのは非効率である」という論調は、田村先生が「均等論」の「第5要件」(出願時同効材)に関して言っていることと同じだなぁ。 インテグリティ(整合性)があるなぁ、と思いました。 ただし均等論は権利行使時に権利範囲を拡大させる方向で調整するのに対して、上記のケースは権利行使時に権利範囲を縮小させる方向で調節することを示唆しているのだろうから、「逆均等論」ですよねWLJ判例コラム153号の脚注40参照)。 つまり、均等論でも逆均等論でも、田村先生は、制度運営の効率性やインセンティブ論の観点から、同じように考えればよいのだと論じているわけだ。

でも今回のケースは、「ある程度広い範囲を持った特許発明を『逆均等論』で権利制限しよう」という話とは違うと思う。 なぜなら、本件のような発明はピンポイントのような発明であって、縮めようがないからだ。

たとえば、Sotoku 10号でも書いたけれど、先行文献(甲1)に記載されている化合物を参考にして、以下のような化合物をつくった場合を考える。 私がまったくでたらめに考えて作った化合物だ。

Sotoku 10号 24ページ]
Sotoku10-p24fig.png

それで、先行文献(甲1)の化合物を、上記の「私が考えた改変化合物」に改変した結果、活性が1/3になってしまったとする。 いわば、改悪発明だ。 それでも、本件の判決文に基づく限り、甲1の化合物は既存薬のメビノリンよりも15倍程度は高い活性を持っているから、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」は既存薬のメビノリンの活性よりはまだ5倍くらい高いわけだ。 それで、私はこの化合物をピンポイントでクレームして出願したとする。 田村先生は、この「私が考えた(でたらめ)改変化合物」を特許にしても問題ないと思うのだろうか。 それとも、「徒に出願人に出願書類を完璧に作成することを求め、さもなければ特許保護を諦めろというに等しく、非効率的な制度運営となる」から、特許を無効にはしないけれど、権利行使のときに、権利範囲を調整するのだろうか? ピンポイントの発明なのに、どうやって権利行使を調整するのか?

今回、田村先生が書いていることは、私には今一つピンとこない。 少なくとも、今回の大合議判決から示唆される不都合(つまり、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」が特許になってしまうという不都合)を解決するものではないと思う。

この問題を解決するためには、上記の「私が考えた(でたらめ)改変化合物」の特許性を否定する理屈を考え出すことが必要だ。 大合議判決を「穏当なもの」と評するだけでは、この問題は解決できないと思う。

それとも田村先生は、メビノリン程度の活性さえあれば、でたらめ改変化合物は特許にしてよくて、権利行使もOKだと思っているのかなぁ。。 まあ、この程度の活性の化合物なら、他にも容易に作れるのだろうから、仮に「私が考えた(でたらめ)改変化合物」に排他権が生じたとしても、誰もあまり困らないだろうということは言えるかも知れないけれど。

*    *    *

私も、いわゆる「パイオニア発明」なら、田村先生のような議論(すなわち、広めに特許にしておいて、権利行使時に調整しようという考え方)は成り立つかも知れないと思う。 iPS細胞の発明のように、非常の幅広い応用の可能性がある基本特許のような発明を出願した場合はね。 でも、本件の発明はそういうものではない。 単に、既存の化合物の置換基を変えたものだ。 たとえ、前知財高裁所長の清水節先生が唱える「清水説」(Sotoku 10号 の24頁参照)で考えるとしても、Sotoku 10号 の26頁の脚注34にも書いたとおり、本件のような発明はむしろ「周知技術を適用したに過ぎない」たぐいの発明だとみなし、顕著な効果がない限りは特許にしてはいけない類型に属すものなんじゃないかな。

つまり、パイオニア発明とは言えない「ピリミジン誘導体」事件のような発明について、今回の大合議判決のような説示(つまり、効果が高いことは要しないという説示)を行ってしまったことについて、大合議に対する批判は避けられないと思う。 本件の場合、明細書中には本件発明の化合物が顕著な効果があることが明確には示されていないので多少苦しいのではあるが、もし本件発明の特許性を肯定したいのであれば、大合議判決のような説示をするのではなく、多少無理をしてでも「このような高い効果を持つ化合物を取得した発明であるから特許性があるのだ」という説示をすべき案件だったと思う。

なお、「高い効果を持つから特許性があるのだ」ということを、「進歩性」で判断するのか、それとも「サポート要件」で判断するのかは、いろいろ意見があるところだろう。 つまり、サポート要件については、コレステロール生合成阻害活性がともかくもある化合物を提供したというだけで肯定し、「顕著な効果があるから進歩性がある」と判断することもできただろうし、そうでなければ、進歩性については「発明の構成」に動機付けがないというだけで肯定し、効果の顕著性は「サポート要件」の方にまわして、「それなりに顕著な効果を持つ化合物を提供するという課題」を達成したという意味で本件は「サポート要件」を満たすのだと説示することもできただろう。

私は個人的には、「サポート要件」や「実施可能要件」というのはかなり“眉唾”な要件だと思っていて、実際には「進歩性」を判断しているのに、そうではないかのように装う要件が「サポート要件」や「実施可能要件」ではないかと疑っているので、なるべく「サポート要件」や「実施可能要件」は使わずに、「進歩性」で統一的に判断できる規範を作る方がいいと思っているけれど。

たとえば、パラメータ発明のサポート要件を否定した「偏光フィルム」事件(平成17(行ケ)10042) にしたって、判決のようにサポート要件を否定するのではなく、「よい実験結果2例と、悪い実験結果2例を隔てるように2つのパラメータで当てずっぽうに範囲を設定することは容易であり、クレームに規定されているパラメータが当てずっぽうではない(すなわち、クレームで規定したパラメータの組み合わせは、高い効果が発揮される偏光フィルムを製造するための稀有な組み合わせである)ことが推認できるほどの実証が明細書中でなされているものでもない」と捉えて「進歩性」を否定することは可能だったと思うし、その方が分かりやすかったのではないかと思う。 そういう考え方が、Sotoku 10号(27頁)で説明した、「でたらめに行った選択に過ぎない」という推定を退けることができないものは進歩性を否定するという考え方だ。 この考え方を取り入れることによって、たとえ「発明の構成」(「ピリミジン誘導体」事件で言えば、本件化合物の構造であり、「偏光フィルム」事件で言えば、2つのパラメータの範囲をクレームに規定されているように組み合わせること)に動機付けがなくても、進歩性を否定することができるようになる。 今のところ多くの人は、「発明の構成」に動機付けがない限り「進歩性」は否定できないという考えに囚われているから、特許性を否定したいと思ったら、無理やりにでも「サポート要件」で特許性を否定するしかないのだ。 そのために、「本件の発明の課題は、従来よりも優れた〇〇を提供することである」などという理屈を付けて「サポート要件」で特許性を否定しているのだ。 そうした呪縛から自由になって、「進歩性」で拒絶する方が分かりやすいと思う。

*    *    *

速攻で書いたので、考えが足らないかも知れないけれど、そんなところかなぁ。 WLJ判例コラム 153号については、また改めて書きたいと思う。 「旅の途中」っていうのもぜひ。

[2019/2/20]
言葉足らずだと思った部分について、ちょっと書き足してみた(青っぽい色を付けた部分)。今度は言い過ぎたかなぁ。


*    *    *


[2019/2/21 追記]
特許庁の岡田吉美先生は、現在の技術では実現不可能なほど高純度の「金」、例えば、「99.9999999999999%の金。」というような発明は、「進歩性なし」で拒絶すべきだと論じている(岡田吉美, パテント Vol.60, No.5, 50-67, 2007 62〜63ページ)。 これに対し私は、Sotoku 8号の 25〜27ページで書いた通り、この種のクレームは「実施可能要件」(あるいはサポート要件)で拒絶すべきだと考えていた。

しかし Sotoku 10号 を書く過程で、岡田先生の考え方に違和感はなくなってきた。 少なくとも、岡田先生が主張する「進歩性がない」という結論には同意できるようになっている。

つまり、「99.9999999999999%の金。」(実現不可能なほど高純度の金)という発明は、単なる当てずっぽうで書いただけという推定を退けることはできないので、Sotoku 10号(「10.」節,26-27ページ)で書いた考え方(いわば「非でたらめ・非当てずっぽう」要件)により、進歩性は否定されてよいのだと思う。

「進歩性欠如」と「記載要件違反」のロジックはしばしば「表裏一体」の関係で根は同じとなることがあるということかな。


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2018年10月31日

@ 進歩性拒絶の引例に引用発明適格性など必要か? A 発明の効果の検討は不要か? 「ピリミジン誘導体事件」平成30年4月13日大合議判決(平成28年(行ケ)10182;平成28年(行ケ)10184)(Sotoku 通号10号)


Sotoku 通号10号 1-30 (2018) (published online on 31-10-2018)

タイトル: 特許法第29条第2項(非容易想到性規定)に基づいて進歩性を否定するための引例中の発明は、いわゆる「引用発明」であること(引用発明適格性)が求められるのか、そして、発明の構成に至る動機付けさえ否定されれば、発明の効果を考えるまでもなく進歩性は肯定できるのか:「ピリミジン誘導体事件」平成30年4月13日知財高裁大合議判決(平成28年(行ケ)10182,10184)

著者:  想特 一三 (Sotoku Ichizo)


*    *    *

今回の大合議判決(平成28(行ケ)10182、10184)における争点の1つは「進歩性」だ。

原告(無効審判請求人)が提示した主引例(甲1)(特表平3-501613)には以下の化合物が記載されており、この化合物が高いHMG-CoA還元酵素阻害活性(コレステロールの生合成阻害作用)を有することも知られていた。

[甲1の実施例1b の化合物]
20180424_kou1_1.png

これに対して本件発明においてもっとも重要な化合物であるロスバスタチン(商品名 クレストールR)は以下のような化合物で、実質的な違いは丸を付けた部分(判決文の「相違点1−i」に対応する)で、上の化合物では窒素(N)にメチル基(-CH3)が2つ付いている(すなわち -N(CH3)2 ) のに対して、下の化合物ではメチル基の1つがメチルスルホニル基(-SO2CH3) に変わっている(すなわち -N(CH3)(SO2CH3) )。

[本件発明の化合物]
20180424_honken1.png

さらに、原告は副引例(甲2)を提出した。 そこには、やはりHMG-CoA還元酵素阻害活性を持ち、構造的にも類似した化合物について記載されており、以下に示すように、本件発明の化合物とそこそこ近い化合物も合成されている。

[甲2の実施例23に記載の化合物]
20180424_kou2-3.png

そして甲2には、より一般化された化学式が記載され、置換基として多数の選択肢も列挙されているが、その中には、上の丸で示した「R3」のところが -N R4 R5 の構造をとっていてもよいことが記載されており、「R4 及び R5 は同一もしくは相異なるものであり,メチル,エチル,プロピル,・・・,メチルスルホニル,・・・ を表わす」との記載があることから、上のロスバスタチンと同様に、窒素にメチル基とメチルスルホニル基が結合している構造 -N(CH3)(SO2CH3) も、考え得る組み合わせとしては含まれていた。

この場合に、本件特許発明に進歩性はあるのかが問題となった。

今回の判決に関しては、4月に感想をいったんはブログに公開したのだけれど、まだ考えが足らない気がしたのでもう少し考えて論文の形式で書いてみることにした。 そうこうしているうちに判決の解説論文である「知財高裁詳報」(Law and Technology 80号 88-97 (2018) )が公開され、また、退官した清水節先生の講演会に出席した人を通して判決に関して清水先生がどう考えているのかについて情報なども知ることになり、判決に対する理解は少しは深まったと思う。 特に、4月の段階では私は、「進歩性なしで拒絶する場合に副引例を使うことはそもそも必須ではないのだから、副引例の発明に引用発明適格性を求めている大合議判決が間違っているのは明らか」だと考えていた。 しかしその後、主引例だけを使い副引例を使わずに進歩性を否定する場合は別論だと清水先生が考えていることを知って、「なるほど」と思った。 それについては本稿の「9.」節で書いた。

10月に入り、もういい加減、論文を公開しなければと考えていたところ、同志社大の井関涼子先生の論文(特許研究 No.66, 60-75 (2018))が公開された。 今回の大合議判決に対する評釈はこれまでにもいくつか出ているが、井関先生の論文は、大合議判決の判旨をかなりはっきりと批判的に論じた論文として注目される。 井関先生の論文については、本稿の最後の脚注で触れた。

北大の田村善之先生も、そのうちウエスト・ロー・ジャパンの判例コラムでこの判決の進歩性の判断に対する評釈を公開しそうだ。 田村先生は、この夏、北大のサマーセミナーに清水先生を招いたし、批判的には書きにくいのではないかと少し心配だが、どういう内容になるのだろうか。。

*     *     *

さて、本稿で検討したのは以下の2点。

 1.進歩性の判断において引例に「引用発明が記載されていること」(すなわち引用発明適格性)は必要なのか。

 2.本件発明の構成を選択する「動機付けがない」(あるいは本件発明の構成にかかる選択肢を抽出できない)というだけで進歩性は肯定できるのか。

上記の2点について、今回の大合議判決はいずれも肯定しているが、私はいずれも否定する。

上記の「1.」の引用発明適格性の問題については、例えば「逆転洗濯機」事件(平成22年(行ケ)1029)のように、洗濯機に関する主引例の発明に、船舶等のプロペラに関する副引例を組み合わせて進歩性を否定するような主張であれば「そういう文献を引例にするな。」(←「引用発明適格性」の一種?)と言いたくなる気持ちは分かるのだけれど、両者を結び付ける示唆のようなものがあればまた話も変わってくるわけで、結局は動機付けの問題なのではないかなぁ、と私は思っている。 詳しくは本稿の「1.」節〜「8.」節を参照。

上記の「2.」について、本稿に書いたことをもとに、以下に書いてみたい。

本件特許が出願された当時、コレステロール合成抑制薬としては「メビノリン」がすでに海外で商品化されていた。 そして本件の主引例である「甲1」には、上記の甲1の実施例1bの化合物と「メビノリン」について、HMG-CoA還元酵素阻害活性や生体内におけるコレステロールの生合成阻害作用を比較する実験が行われている。

[甲1 の「試験A」および「試験B」の結果より](甲1 11〜12ページ)

HMG-CoA還元酵素阻害活性(IC50:50%阻害濃度)
 実施例1b の化合物 IC50=0.026μM
 メビノリン IC50=0.352μM

生体内コレステロール生合成阻害作用(ED50:50%阻害投与量)
 実施例1b の化合物 ED50=0.028mg/kg
 メビノリン ED50=0.41mg/kg

上記の数字は、同じ効果を達成するために必要な薬剤の量を表しているから、数字が低いほど活性が高いことを示している。 つまり、甲1の実施例1bの化合物は、HMG-CoA還元酵素阻害活性としては既存薬であるメビノリンの13.5倍(0.352÷0.026)、生体内コレステロール生合成阻害作用としては14.6倍(0.41÷0.028)の活性を持つことが分かる。 それだけ高い活性を持つ化合物が、本件特許の出願前に既に知られていたわけだ。

*     *     *

さて、大合議判決は、以下のように説示して本件発明の進歩性を肯定した。

[判決文PDF 116ページ]
・・・,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位のジメチルアミノ基を「- N(CH3)(SO2R')」に置き換えることの動機付けがあったとはいえないのであって,甲1発明において相違点(1−@)に係る構成を採用することの動機付けがあったとはいえない。

つまり大合議判決は、上に示した甲1の化合物の赤い丸の部分を本件発明の化合物の赤い丸のように「置き換えることの動機付けがあったとはいえない」ということを理由に進歩性を肯定した。

そして原告(無効審判請求人)は、本件発明の化合物は、甲1の化合物に比べて顕著に高い活性を持つとは認められないので、進歩性は認められるべきではないと主張したが、これに対して大合議は以下のように説示した。

[判決文PDF 116-117ページ]
・・・,進歩性については,既に判示したとおり,甲2に相違点(1−@)に係る構成が記載されておらず,また,・・・,相違点(1−@)の構成を採用する動機付けがあったとはいえないことから,容易に発明をすることができたとはいえないと判断されるのであって,原告らが主張するような基準を設定して判断しているものではない・・・,・・・。

つまり大合議判決は、活性など関係がないという立場を示した。 「相違点(1−i)」の構成(本件発明の化合物における上の赤い丸で示した構造)を採用する動機付けがあったとはいえないということだけで進歩性は肯定されるのであって、活性が高い必要などない(活性がある必要さえない)という立場を示したのだ。

*     *     *

一方、「サポート要件」に関して原告は、本件発明の化合物は、甲1の化合物を超える活性を持つとは認められないのでサポート要件を満たさない旨を主張したが、これついては大合議は以下のように説示した。

[判決文PDF 119ページ]
 以上を考え合わせると,本件発明の課題が,上記の既に開発されているHMG-CoA還元酵素阻害剤を超えるHMG-CoA還元酵素阻害剤を提供することにあるとまではいうことはできない。
 ウ したがって,本件発明の課題は,コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物,及びその化合物を有効成分として含むHMG-CoA還元酵素阻害剤を提供することであるというべきである。

[判決文PDF 119-120ページ]
・・・,本件明細書・・・には,・・・,メビノリンナトリウムのHMG-CoA還元酵素阻害活性を100としたときに,化合物(Ia−1)のHMG-CoA還元酵素阻害活性が442であることが記載されている。

[判決文PDF 121ページ]
 そうすると,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件発明1の化合物が,コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有すること,すなわち,本件発明の課題を解決できることを当業者が理解することができる程度に記載されているということができる。

[判決文PDF 121-122ページ]
 ア (ア) 原告らは,・・・,本件出願当時,既に複数のHMG-CoA還元酵素阻害剤が医薬品として上市されており,メビノリンナトリウムより強いHMG-CoA還元酵素阻害活性を示す化合物も公知であったから,「コレステロールの生合成を抑制する医薬品となり得る程度」という程度では,技術常識に比較してレベルが低く不適切である旨主張する。
 しかし,・・・,本件発明の課題が,既に開発されているHMG-CoA還元酵素阻害剤を超えるHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物又は薬剤を提供することであるということはできない。

上記の通り大合議判決は、既存薬であるメビノリンのHMG-CoA還元酵素阻害活性を100としたときに,本件発明の化合物の活性は442(すなわち4.4倍)であることが明細書に記載されているとした上で、「コレステロールの生成を抑制する医薬品となり得る程度に優れたHMG-CoA還元酵素阻害活性を有する化合物」であればサポート要件は満たされるのだと説示した。 この説示からすれば、既存薬であるメビノリンと同様またはそれ以上(4倍程度?)の活性があればよいということになるだろう。

以上をまとめると、進歩性に関しては、主引例(甲1)の化合物を改変した構成について引例に示唆がない限りは進歩性は否定されず、たとえ改変したことで活性が失われても進歩性は否定されない。 サポート要件に関しては、既存薬であるメビノリンと同様またはそれ以上の活性があればよいということになる。

ところで上記の通り、主引例(甲1)の化合物は、そもそもメビノリンの14〜15倍の活性があるわけだ。 そうすると、甲1の化合物をでたらめに改変して、たとえ活性が1/3に低下してしまったとしても、まだメビノリンの5倍くらいは高いのだから、サポート要件は十分に満たされることになる。 そして上述のとおり、そのでたらめな改変を具体的な技術的思想として抽出できる副引例がないかぎり進歩性も否定できないわけだから、特許が取れるということになってしまう。

特許制度ってそういう制度だったっけ?

このように今回の大合議判決は、公知技術の「改悪発明」でさえ喜んで特許にしますと言っているような判決だ。 判決を行った裁判官の方々はおそらくそういうつもりではなかったのかも知れないが、判決文を読むかぎり、そう読めてしまう。 これをそのまま認めてしまってよいのだろうか?

*     *     *

今回の特許発明には進歩性があるという最終結論には私は賛成だけれど、進歩性の判断手法に関しては、今回の大合議判決は問題のある判決だと思う。 この判決後、批判的な論文が出るのを待っていたけれど、最初に書いた通り、井関先生が出してくれた。 田村先生やその他の先生方にも、ぜひこの判決の問題点を論じて欲しい。

*     *     *

最後に、今回の論文では、清水先生が退官後に行った講演やセミナーの内容も多少盛り込んだけれど、これについては否定的に考える人もいるかも知れない。 私も書いていいかどうか多少迷ったけれど、基本的には進歩性の考え方の学術的な話であって、別に隠しておく意義に乏しいと思われることや、先にも言った通り、副引例を使わない場合の進歩性の考え方を清水先生が私見として明らかにしたことは、今回の大合議判決の説示が、進歩性の考え方全体の中の一部に過ぎないことを理解するためにも重要だと思うので書くことにした。 つまり、「副引例を使わずに技術常識を適用する場合は動機付け不要」、「顕著な効果がある場合は進歩性あり」という清水先生の考え方があるからこそ、今回の大合議判決の説示も、実務上はうまく回るのだろうなと理解できるわけで、もしそれがなければ、今回の大合議判決の説示は「おかしな判決だなぁ」としか捉えられないと思う。 そういう意味では、今回に限らず、知財判決に関わる判事さんには、自分たちの考え方をもっと積極的に公表してほしいと思うし、それによる学術分野への貢献は、判決文しか検討対象にできない場合に比べてとても大きなものになると思う。

さて、清水先生は、早稲田で文字通り「先生」になるのだと思うけれど、学生になった人たちは、単に清水先生の講義を聞くだけじゃなくて、おかしいと思うところは、「清水先生、ここはおかしいんじゃないですか?」ってちゃんと突っ込んで欲しいんだよね。 それも1回や2回じゃなくてしつこくね。 そして、できれば清水先生と学生が一緒になって、新しい考え方を作り出してくれればいいと思う。

ということで、清水先生がいつの日か、進歩性について新たな「清水説」を説く論文を出すのを期待したい。


[2018/11/19 追伸]
ウエストロー・ジャパンの判例コラムで田村先生の判例評論「第153号 進歩性要件の判断の基礎となる引例適格性について」が公開された。 田村先生には二度と引用されないんじゃないかという気もしていたけれど、そうではなくてよかった。😀

しかも内容も、私にとっては予想を超えるものだった。 上で、「田村先生は、この夏、北大のサマーセミナーに清水先生を招いたし、批判的には書きにくいのではないかと少し心配・・・」と書いたけれど、失礼な話でした。 学問に対する田村先生の姿勢がうかがえるね。

田村先生の「4 評釈」の「4)」と「5)」はとても共感できる。 「6)」も、言っていることは、まあ、その通りだと思う。 「7)」については、多分、私は異論があるけれど、もうちょっと考えてみたい。



posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月11日

高林龍先生 均等論判例評釈 (判例評論 716;判例時報 2377)(平成28年(受)1242;平成29年3月24日判決)


高林龍先生の『標準特許法 第6版』(有斐閣 2017)が出版された直後の昨年の12月20日の投稿でも話題にしたとおり、「出願時同効材」に対する均等論の適用について高林先生は比較的慎重な立場だと(少なくとも一般には)みなされていたから、「出願時同効材」に対する均等論の適用を積極的に認めたように見える知財高裁大合議判決「平成27年(ネ)10014;2016年3月25日判決」や最高裁判決「平成28年(受)1242;2017年3月24日」を高林先生がどう評するのかに関心が持たれるわけだ。 そして昨年の12月20日の投稿で書いたとおり、最高裁判決の後に出版された高林先生の『標準特許法 第6版』では、自説である「融通性のある文言解釈論」は変更せず、最高裁判決の内容が「但し書き」で追加された。 しかし、それがどういうことなのか『標準特許法 第6版』では詳しくは論じられていないから、高林先生は最高裁判決やその原審である大合議判決に賛成なのか、反対なのか、また、高林先生は自説を変えるのか、変えるつもりはないのかがよく分からなかった。

しかし先日、判例時報 No.2377(平成30年10月1日号)が発行され、付属の「判例評論 No.716」に、最判に対する高林先生の評論が掲載された。

読んだ感想は・・・・。。 私は、高林先生が判決に対して批判的に書いてくれることを期待していたので少しがっかりしてしまった。 高林先生には、最高裁判決を批判するという選択肢はそもそもないんですかね。。。 ともかく、今回の論文で高林先生がこの判決をどう評しているのか、以下に見て行きたいと思う。


1.
最高裁判決には、判決文に下線が引いてあるところが2つあって、一つ目が以下の判示だ。

平成28年(受)1242、下線部1]
出願人が,特許出願時に,特許請求の範囲に記載された構成中の対象製品等と異なる部分につき,対象製品等に係る構成を容易に想到することができたにもかかわらず,これを特許請求の範囲に記載しなかった場合であっても,それだけでは,対象製品等が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情が存するとはいえないというべきである。

今回の評論における高林先生の立場は、最高裁の上記の判示は、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定するのは妥当ではないという、いわば当たり前のことを判示したものに過ぎないというものだ。 そして、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定すべきだと主張していた者など、そもそもほとんどいなかったし、もちろん高林先生自身もそのようなことは言っていなかったので、自説を否定するものではないどころか、自説に沿うものである旨を論じている(判例評論716の24ページ 第1段目〜第3段目)。

高林論文の原文を引用すれば、以下のとおり。

[判例評論716の24ページ 第3段目](強調は私が入れた)
したがって、本判決の判旨一は、ボールスプライン事件最三判後の学説や下級審判決の多数が一致して採用していた、出願時同効材であることの一事をもって第五要件にいう「特段の事情」がある場合に該当するものではないとの前提要件を確認したものにすぎないものであって、穏当な判旨ということができる(22)。

高林先生の言うとおり、出願時同効材であることの「一事」をもって第5要件で均等を否定することを論じている論者などほとんどいなかったし、高林先生自身もそんなことは言っていなかったことは、私が1月に出した Sotoku 9号 の「6.」節〜「7.」節でも書いた。 だから高林論文の上のような言い方は間違いではないだろう。 でも気になるのは、上に引用したとおり、最後に「脚注22」が付けられていることで、そこには以下のとおり記載されている。

[判例評論716の29ページ 脚注22]
田中判解二〇五頁は判旨一について「学説や実務の大方の支持を受け、国際的な潮流にも沿った原審の判断を、最高裁としてもオーソライズする意義があった」と述べている。

田中判解の上記の記載を引用しているということは、高林先生は「私もそう思うし、田中判解もそう言っている」というスタンスであるように見える。 しかし、高林先生は当然ご存じのとおり、田中判解(田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) )では、出願時同効材であることの「一事」をもって第5要件で均等を否定すべきだとする「A説」と、それを否定する「B説」という学説の対立を紹介し、「A説」に親和性がある論説として高林先生の論説を挙げ、学説や実務の大方の支持を受けている学説として「B説」を挙げているんですよ。 つまり、学説や実務の大方の支持を受けていたのは「B説」であって、高林説に親和性があるとされた「A説」ではない。 田中判解のこの部分を、「穏当な判旨ということができる(22)」のように、まるで高林説をサポートするものであるかのように引用するってのは、ちょっと違和感があるのですけれど。。 まあ、高林先生や三村量一先生を「A説」に分類している田中判解がおかしいということは Sotoku 9号の「11.」節(24〜26ページ)でも詳しく書いたし、今回の高林論文を読むかぎり高林先生も私と同じように考えているようではあるけれど、田中判解は高林説を「A説」だとみなす分類に基づいたうえで否定的に論じ、「B説」の方を「学説・・・の大方の支持を受け」と評しているんですからね。 それを自説に沿うものとして取り入れようなんて。。

とはいえ、田中先生も、高林先生が論じていることをどれだけ知った上であの判解を書いたのかはよく分からないので、田中先生も今なら「高林先生もB説ですね。」って言ってくれるかも知れないけれど。


2.
最高裁判決の2つ目の下線部が以下の判示だ。

平成28年(受)1242、下線部2]
出願人が,特許出願時に,特許請求の範囲に記載された構成中の対象製品等と異なる部分につき,対象製品等に係る構成を容易に想到することができたにもかかわらず,これを特許請求の範囲に記載しなかった場合において,客観的,外形的にみて,対象製品等に係る構成が特許請求の範囲に記載された構成を代替すると認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえるときには,対象製品等が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情が存するというべきである。

これに対する高林先生の見解は、この下線部2は単なる「例示」であって、そりゃ、「認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえる」のなら均等を否定すべきであろうから、当たり前のことを言っただけというもの。

高林論文の原文を引用すれば、以下のとおり。

[判例評論716の25-26ページ] (強調は私が入れた)
・・・ 判旨二は結局、・・・ 、・・・、特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとったと認められる場面として、出願人の行動が客観的、外形的なものであることが際立って明確であるひとつの場面を示したものであって、それ以上でもそれ以下でもないといえる(28)。

ここでも、文章の最後に脚注(脚注28)が付けられ、そこで田中判解について触れられている。 具体的には以下のとおり。

[判例評論716の29ページ 脚注28]
田中判解二〇七頁も、「本判決の定立した規範は、そのようなラインの内側に入ってこなくても、均等の主張が許されない特段の事情が存する事例があり得ることを否定してはいない。本判決は、その設定した上記場面において、均等の主張が許されない特段の事情が存する場合を全て示したわけではないことには留意が必要であると思われる。」としている。

このように高林論文では、田中判解も高林先生の考えと同じであると思わせるような書きぶりなのだ。 確かに、最高裁判決のこの判示部分だけを文字通りに受け取れば、高林先生のような解釈ができるかも知れない。 そして高林先生のように解釈する場合は、この判示はほとんど当たり前のことを言っただけであって、そうであれば、この判示は高林先生の考え方とも整合するということになるだろう。 なおこの問題について、Sotoku 9号では以下のように書いている。

Sotoku 9号,20ページ]
 「もっとも」で始まるこの段落の説示には、二通りの解釈が可能かも知れない。 一つ目の解釈は、この段落は出願時同効材の均等論の適用を第5要件で否定すべき一つの例を示したに過ぎないという解釈である。 すなわち、「もっとも」の段落で例示されている場合(すなわち明細書等に記載されているなど、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められる場合)であれば、さすがに出願時同効材に対する均等論の適用は第5要件により否定されるが、それは例示に過ぎず、出願時同効材に対する均等論の適用が第5要件で否定される場合は他にもある(すなわち、当業者であれば当然気づいてクレームしてしかるべきものであったような場合は第5要件の「特段の事情」に該当するとみなして均等成立を否定しうる)という解釈である。 この解釈の場合、たとえ出願時同効材が明細書等に記載されておらず、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められるとは言えないとしても、それだけで第5要件はクリアできず、出願時同効材をクレームしなかった出願人の帰責性をさらに検討しなければ均等論の適用は認められないことになる。
 二つ目の解釈は、「もっとも」の段落の説示こそが、出願時同効材に対する第5要件の判断基準だという解釈であり、出願時同効材が明細書等に記載されておらず、出願人が出願時に置換可能と認識していたものと客観的・外形的にみて認められるとは言えない場合は、基本的に第5要件はクリアできるという解釈である。

Sotoku 9号,22ページの脚注60]
 なお調査官解説において田中は、「もっとも,本判決の定立した規範は,そのようなラインの内側に入ってこなくても,均等の主張が許されない特段の事情が存する事例があり得ることを否定してはいない。本判決は,その設定した上記場面において,均等の主張が許されない特段の事情が存する場合を全て示したわけではないことには留意が必要であると思われる。」(下線追加)と指摘し、本稿の一つ前の脚注(脚注59)で触れた設樂の指摘を引用している(田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) 3847-3878 の3867ページ)。 しかしながら、第5要件にいう「特段の事情」を肯定できる事情がまだありうるのであれば、本件においてもそれが検討された上で「特段の事情」の該当性が判断されるべきところ、本文中でも指摘した通り、最高裁は本件に関して、「・・・認識しながらあえて本件特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたという事情があるとはうかがわれない」という一点だけを確認し、それ以外の要素を考慮することなく「特段の事情」の該当性を否定しているのだから、最高裁が判示した基準は単なる“例示”ではなく、これさえ言えれば基本的に「特段の事情」の該当性を否定できる十分条件だと解するのが判決の素直な読み方であろう。 したがって、たとえ他に考慮する要素がありうるとしても、そうした考慮が必要となる事例は、設樂が示唆する通り、例外的なケースに限られると解されるだろう。 実際、上で引用した田中の解説論文に掲載されている参考図(3878ページ)でも、そうした事例(著しい過誤や個別的事情がある場合)は小さな円で示されているに過ぎない(なお田中孝一, 「年報知的財産法2017-2018」 (高林龍, 三村量一, 上野達弘 編) 日本評論社 (2017) 14-24 の19ページに掲載されている参考図も同様)。

上に引用したとおり、調査官解説において田中先生は「全て示したわけではない」と言っているのであって、高林先生の「際立って明確であるひとつの場面を示したもの」という表現とはかなりの温度差がありますよね?

私は、この下線部2は単なる「例示」というよりは十分条件に近いものだと最高裁は考えて判決をしたのだろうと解しているわけだが、こういう判決の読み方に関して高林先生は以下のように批判している。

[判例評論716 の 26ページ,1〜2段](強調は私が入れた)
この本判決の判断の経緯(29)からか、本判決を、特許請求の範囲に記載されていない出願時同効材について、出願人において、これが特許請求の範囲に記載された構成と代替しうるものであることを明細書等で開示していたのに、あえて特許請求の範囲の記載から落とした場合でなければ、第五要件にいう特段の事情に該当して均等侵害の主張が排斥されることはないとしたものであると理解する立場(30)があるようである。 このような理解は、特段の事情に該当する場合を例示した判旨二を、それ以外の場合であれば特段の事情には該当しないと反対解釈するものであって、判旨二の射程を理解するうえでも、看過することはできない

上の引用中の「脚注30」には小島喜一郎先生の意見などが触れられている。 小島先生は出願時同効材に対する均等論の適用を否定的に考えている先生で、どちらかというと高林先生の側にいる学者とみなされていると思われるが、高林論文では、あえて小島先生の意見を「看過することはできない」と厳しく批判することで、高林説と最高裁判決が同じ側にいることを強調するような論じ方となっている。 しかし、判決文の下線部だけを切り取って論じる高林論文のような批評があるべき判例批評ということでもないんじゃないかなぁ。 それに、最高裁自身が「・・・認識しながらあえて本件特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたという事情があるとはうかがわれない。」「原審の判断は,これと同旨をいうものとして是認することができる。」と説示し、反対解釈を使って原審の判断を是認するような言い方をしているのに、高林論文ではそれを批判もせずに看過しているじゃないの。。

結局、今回の最高裁判決に対する高林先生の解釈は、判決文の下線部1については、出願時同効材をクレームに記載しなかったという「一事」をもって第5要件により均等を否定するのは妥当ではないという当たり前のことを判示したものに過ぎず、判決文の下線部2については、出願時同効材を認識しながらあえてクレームに記載しなかった旨を表示していたといえる場合はさすがに第5要件により均等を否定すべきだという、これまた当たり前のことを判示したものに過ぎないというものだ。 もしそうだとすれば、この最高裁判決はほとんどの人がそう思っている当たり前のことを確認しただけの判決だったということになるだろうね。


3.
今回の高林論文では、2006年に塚原コートが行った「椅子式エアーマッサージ機事件」判決(平成17年(ネ)10047;平成18年9月25日判決)についても論じられている。 この判決は、出願時同効材に対する均等侵害を肯定した先駆的判決だ。 この判決で裁判所は、均等の第5要件の判断規範に関して、「・・・ 意識的に除外されたというには,特許権者が,出願手続において,当該対象製品に係る構成が特許請求の範囲に含まれないことを自認し,あるいは補正や訂正により当該構成を特許請求の範囲から除外するなど,当該対象製品に係る構成を明確に認識し,これを特許請求の範囲から除外したと外形的に評価し得る行動がとられていることを要すると解すべき」と説示した。 「明確に認識し,これを特許請求の範囲から除外したと外形的に評価し得る行動がとられていることを要すると解すべき」という表現は、今回のマキサカルシトール事件の最判における「認識しながらあえて特許請求の範囲に記載しなかった旨を表示していたといえるとき」という表現や、その原審(平成27年(ネ)10014)が判示した「認識していたものと客観的,外形的にみて認められるとき」という表現ともよく似ており、「椅子式エアーマッサージ機事件」における判示が今回の判決に影響を与えた可能性が示唆されるだろう。 塚原先生は退官後、「知財高裁における均等侵害論のルネッサンス」(塚原朋一, 知財管理, Vol. 61, No. 12 (2011) 1777-1787)という論文も書いており、そこでは均等侵害を認めることについてかなり積極的なことも書かれている。 この「椅子式エアーマッサージ機事件」判決が示した第5要件に関する規範は、少なくとも高林先生の考え方とは真逆と言えるほど違うのではないかと私は感じるのだが、今回の論文で高林先生は、エアーマッサージ機事件の判示は、第5要件の「意識的除外などの特段の事情」の1つに過ぎない「意識的除外」の該当性に関する規範を説示したに過ぎず、「特段の事情」の該当性に関する規範を示したものではないのだから高林説を否定するものではない旨を論じている。 具体的には以下のとおり。

[判例評論716 の 25ページ,1段目](強調は私が入れた)
ボールスプライン事件最三判の判示した第五要件は、「意識的に除外されたものであるなどの特段の事情もないこと」であるから、最終的な要件は「特段の事情」のないことであり、・・・、「特段の事情」とは、「意識的に除外した」など、「特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとったこと」をいうものと理解される(25)。

[判例評論716 の 29ページ,脚注25](強調は私が入れた)
すなわち、ボールスプライン事件最三判の判示によるならば、・・・、意識的に除外した場合以外にも特許権者の側においていったん特許発明の技術的範囲に属しないことを承認するか、または外形的にそのように解されるような行動をとった場合も特段の事情が認められることになる。 そうであるならば、結局、・・・(エアーマッサージ事件)は、「意識的に除外されたというのは」特許権者が出願手続において「意識的に除外したと客観的に評価される行動をとった場合のこと」をいうと、循環論法的判示をしつつ、意識的除外について客観的と評価できる行動を求めたにすぎないものといえる。 しかし、第五要件は出願人・特許権者の意識を問うものではなく、外形的にそのように解される行動をとったことを要件とするもので・・・、・・・、・・・あることから、前記東京高判(ママ)の判示は当然のことを述べたにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。

確かに、エアーマッサージ機事件で裁判所は、「意識的に除外されたというには・・・」と説示しただけで、「特段の事情にあたるというには・・・」と説示したわけではないから、「意識的に除外されたわけではないが特段の事情にあたる場合」については、裁判所は何も説示していないと解する余地はある。 これについては Sotoku 9号でも書いた。

Sotoku 9号,脚注10]
・・・、均等論の第5要件に関して最高裁は、「・・・ 意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情もないとき」(下線追加)と判示した。 すなわち、第5要件で均等論の適用が否定される場面には、「意識的除外」だけでなく、それ以外の特段の事情もあり得ると解する余地がある。 これに対し、エアーマッサージ機事件において被疑侵害者は、本稿の本文中に引用した通り、被疑侵害者の実施態様は「意識的に除外された」と主張し、知財高裁も、それに応じて「意識的に除外されたというには,・・・」 と判示した。 やや言葉遊び的ではあるが、エアーマッサージ機事件において知財高裁が第5要件について説示した判断基準は、「特段の事情」の中の「意識的除外」に該当すると判断するための基準であって、意識的除外以外の「特段の事情」(例えば、クレームしておくべきであったのにクレームされていない場合であって、出願人の帰責性を問えるような場合)に該当すると判断するための基準については別論だと考えていたと解釈することは不可能ではない。 エアーマッサージ機事件の判示をそう捉えるのなら、弁論主義のもと裁判所は、出願人は(クレームすべきであったのにクレームし忘れたとは言えても)、意識的に除外したわけではないという、単に当たり前に近いことを言っただけの判示だと捉えることは可能かも知れない。 しかし一般には、この判決はそう受け取られてはいないだろう。

結局のところ、今回の高林論文は、マキサカルシトール事件の最高裁判決やエアーマッサージ機事件の知財高裁判決は「当然のことを判示しただけ」で、「それ以上でもそれ以下でもなく」、判決の射程は極めて狭いと捉えることで自説とも整合性のある判決だと解釈しているということになるだろう。 しかし判決文や調査官解説を読むかぎり、私は、今回の大合議判決や最高裁判決で判決を行った裁判官やそれに関与した調査官は、少なくとも判決を行った時点ではもっと広く出願時同効材の均等を認めてもいいと思っていたと解されると思うし、そういう判決文や解説を書いたこと自体を批評の対象とすることもまた有意義なことだ(つまり、判決の射程に対する批評はともかく)と思うから、Sotoku 9号では判決に関して高林論文の立場とは逆の解釈をしながらそれを批判した。 これはSotoku 9号を公開したときの最後にも書いたとおり、初めから高林先生のような立場は採りたくないから。 プロダクト・バイ・プロセス(PBP)クレームの最高裁判決のときのように、ほとんどの人が「あの最高裁判決はおかしい」と思っている状況であるのならいいかも知れないけれど、今回はそうではないのに判決の射程を狭く解釈して「当然のことを判示しただけ」などと論じても、同床異夢の促進にしかならない気がする。

でもまあね、逆に言えば、今回の判決はおかしいとみんなが納得するようになったあかつきには、高林論文のように、判決の射程を狭く解釈してこの判決を無効化することは必要になるかも知れないし、そういう意味では、今回の高林論文も「気が付けば高林説」という高林マジックの種をまいた論文だと捉えることも可能かも知れない。

*     *     *

Sotoku 9号を書いているときから私が期待しているのは、高林先生と設樂先生がこの問題で和解することだ。 もし「別に対立していない」というのなら、そのことを明らかにすることだ。 これまで見てきたとおり、今回の高林論文では、マキサカルシトール事件の最高裁判決や田中判解については、高林説に沿っているという論調で書かれており、エアーマッサージ機事件の判決でさえ高林説と整合性があるという論調で論じられているが、今回の最高裁判決の原審である大合議判決(平成27年(ネ)10014)や、大合議判決の際に裁判長を務めた設樂先生が書いた論文(設樂隆一,日本工業所有権法学会年報 38号,有斐閣 2015,251-271)に関しては、高林論文では詳しく論じられておらず、自説に沿うものだとも書かれていない。 まぁ、さすがにそれは書けなかったんだと思うが。。

田中判解では、出願時同効材の均等を一切認めない説(A説)と、それを否定する説(B説)という分類分けをして、A説に高林先生を分類したわけだが、元はといえば、こういう分類を行ったのは設樂先生だ(日本工業所有権法学会年報 38号 の 264ページ)。 そして大合議判決においてそれを否定した(ように見える)。 こうした経緯からは、高林先生と設樂先生は真っ向から対立しているようにも見える。 しかし高林先生自身も今回の論文で書いているとおり、高林先生はもとから出願時同効材の均等を一切認めないという立場ではないので、そもそもそこにボタンの掛け違いがあるように思う。

2014年の日本工業所有権法学会は「均等論,覚醒か死か」というテーマだったが、それを踏まえているのだろう、今回の論文で高林先生は「結局、本判決によって均等論は覚醒したということはできず」(27ページの3段目)と書いている。 これとは対照的に、設樂先生の方は退官後の講演で、当時の学会での出来事に関し、「均等論は死んだのかと訊かれたんで、『いや死んでない』と言ったんです。」みたいなことを言ってたの(笑)。 高林先生の方は「覚醒していない」と言い、設樂先生の方は「いや死んでない」と言う。 これを見ても二人の立場は正反対だ。 しかし考えてみれば、高林先生は「覚醒していない」と言っただけで「死んだ」とは言ってない(むしろ今回の論文の最後では「定着し続ける」と書いている)し、設樂先生も「死んでない」と言っただけで「覚醒だ」とは言ってない。 だから二人は合意できる余地はあるはずだし、それどころか、特許制度に関する二人の考え方は実は結構近いのではないかと私は思っている。

例えばPBPクレームの解釈に関しても、高林先生と設樂先生はほとんど同じと言っていいほど立場が一致していることは、昨年の4月11日の投稿「プロダクト・バイ・プロセス・クレームの均等論適用解釈論(設樂・高林・田村論文)」で書いた。 そして今回の均等論の問題にしても、Sotoku 9号の「12.」節で書いたとおり、大合議判決は「第5要件」の判断に関しては高林説を否定したようにみせつつ、「第1要件」の判断に関してはまさに高林説(融通性のある文言解釈)を採用したようなものだ。 だから出願時同効材の均等論の問題に関しても二人の考え方は実際にはかなり近いのではないか? しかし、少なくとも表向きはそうなっていないし、世間もそうは思っていない。 そこで、二人でこの問題について話し合うなりして、合意に達してもらって、「出願時同効材の均等論に関して、実は私たちはそう違わない考えですよ。」ということを世間が分かるように公表すればいいと思う。 そうすれば、なかなか面白いサプライズが起こせるし、学術的にもこの問題は前進できるだろう。

ということで、この問題に関して、いつの日か、そういうサプライズが起こることを期待しておこう。 ^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

玉井克哉先生の「アレルギー性眼疾患治療薬事件」評釈 自治研究 94(6) 136-150 (2018)(平成29年(行ケ)10003)


この事件の特許「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」(特許3068858号)は、オロパタジン塩酸塩を有効成分とする抗アレルギー点眼剤「パタノール®点眼液」に対応すると思われる特許だ。 この特許に対して起こされた無効審判(無効2011-800018)において、特許庁の審判部は2回連続してこの特許は「進歩性あり」と判断したが、知財高裁は2回とも「進歩性なし」として特許庁の審決を取り消した。

特に、2回目の審判および訴訟で争点となったのは、この薬剤が有している、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出を阻害する活性(ヒト結膜肥満細胞の安定化効果)が、この発明の進歩性を認めるに足る「顕著な効果」だといえるのかという点である。 これについて裁判所は、「本件発明1の効果は,当業者において,・・・,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。」として審決を取り消すと共に、判決文の最後に付した付言の中で、今回の進歩性の争点については、当事者は、前回の審判・訴訟において主張・立証を行うことができたものであり、前回の判決の確定後にこれを争うことは訴訟経済に反し、判決の拘束力(行政事件訴訟法33条1項)の趣旨に照らして問題がある旨を指摘した(平成29(行ケ)10003; 平成29年11月21日判決;高部眞規子裁判長)。

今回の論文は、この判決が東大の行政判例研究会で検討対象となったことを受けて玉井先生がお書きになったもののようだ。 論文全体は論理立てて判決を批判するものとなっており、そのような論文はあまり出ないので貴重な論文かも知れない。

とは言うものの、この論文に書かれていること全部に賛成できるかというとそうでもないので、気になったところをいくつか取り上げてみたい。

*   *   *

1.容易に想到できるものでも、「顕著な効果」があれば一般に進歩性は認められるのか?

今回の玉井論文では、論文の最初の方で次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 140ページ]
発明について進歩性を基礎づけるには、当該発明の構成を当業者が容易に想到できなかったことか(構成非容易性)、実際に構成した場合に予測を超えた著しい効果を発揮したことか(効果顕著性)、いずれか一方があれば足りる

つまり、容易に想到できるものであっても、予測を超えた著しい効果(効果顕著性)があれば進歩性は肯定されるのだと論じられており、これを前提にして話が進んでいく。 確かに私も昔は、「顕著な効果があれば進歩性あり」ということを前提にしたような投稿(2015年7月28日)をしていたこともあった(反省)。 しかし、Sotoku 6号を書いているころによく考えて、今では、進歩性は容易に到達できないものに認めるべきで、「顕著な効果」は進歩性を認めるための十分条件にはならないと考えているので、玉井論文のように、構成非容易性か効果顕著性の「いずれか一方があれば足りる」と明言されてしまうと、ちょっと引っかかってしまう。

この問題は、学説上も争いがないわけではない。 例えば北大の田村善之先生は、顕著な効果はあるものの、すぐに発明できるようなものについて、「・・・ 発見されるのも間近であったといえ,それが予測し難い顕著な効果であるからといって,あえて特許を与える必要はないように思われる。」と論じている(田村善之, パテント (2016) Vol. 69, No. 5 (別冊No. 15) 1-12の9ページ)。 私も田村先生と同意見だ(Sotoku 6 号, 111ページ)。

但し、そう思っている人はかなり少数派かも知れない。 玉井論文の140ページで 平成27年(行ケ)10054(H28.3.30判決;清水節裁判長)や 平成28年(行ケ)10005(H29.1.18;設樂隆一裁判長)が挙げられている通り、裁判所は「効果が顕著なら進歩性あり」といった一般論をときどき説示するし、中でも清水節先生(知財高裁前所長)などは講演でもそういう単純な図式で進歩性を解説している。 しかし、例えばある効果に関して、その効果の程度が調べられることになるのは時間の問題となっている場合は、その効果が評価されて、いくら予想外の高い効果であったからといって、田村先生が言うように「発見されるのも間近」だったのであり、それにより進歩性を認めるのはおかしいのではないか? 本件の場合も、それが当てはまり得る事例のような気もする。

また、今回は特許庁の審判合議体は進歩性を認める判断を行っているとはいえ、特許庁の現在の審査基準を見る限り、「顕著な効果」の取り扱いについては、先ほど挙げた2015年7月28日の投稿でも書いた通り、特許庁は一歩引いた感じになっており、「顕著な効果があれば、即、進歩性あり」ということではなくて、あくまで「総合考慮の中の一つの事情」という位置づけになっているように思う。

ということで、この問題については私は分が悪いかも知れないけれど、「顕著な効果」があれば進歩性は認められるということは、どのような場面でも成り立つ前提とまでは言えないのではないか、ということは指摘しておきたい。 今回の事案の効果が進歩性を認めるに値するものであるのかについては、後でもう少し詳しく考える。


2.既存の効果と同レベルに過ぎないものでも、実用レベルであれば「顕著な効果」とみなすべきなのか?

これも、玉井論文の最初の方で論じられているが、具体的には次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 141ページ]
 医薬品分野においては、他の分野とは異なり、既存発明と同程度の効果を発揮するに過ぎない技術的創作であっても、原則として有意味な実用的効果を有する、と考えるべきである。 それは、三つの事情による。 第一に、生物としてのヒトの個体差があるために、投与される患者によって、効能に差異が生ずることである。 また第二に、予期されなかった副作用がしばしば既存医薬品に見つかることである。 さらに第三に、薬効以外の重要な性質についても、医薬品ごとに重大な相違がありうることである。 そうした事情があるために、既存医薬品と同程度の効能を有する医薬品を創出する発明は、医薬品分野における多様性をもたらすものとして、効果顕著性ありとすべきである

これに続いて玉井論文では、既存薬と効果が同程度のものに特許を与えないと、一部の患者で既存薬が効かないことが後日わかった場合に、代替薬がないことになってしまうこと、既存薬で重大な副作用が後日生じた場合に代替薬がないことになってしまうこと、既存薬が保存性に欠けることが後日わかった場合に代替薬がないことになってしまうことなどが指摘され、そのような場合に備えて選択肢を揃えておくこと自体を技術的「進歩」だと考えるべきだからだと論じられている。

しかしこれもどうなのだろうか。 そういう話を言い出すと、どんなものでも特許にしてよい理由は見つけられるような気もする。 実際のところ、ある化合物が知られていたとして、これを薬にすればよいことは誰もが分かっているが、特許がないがためにどの製薬会社も薬を開発しようとしない場合、玉井論文の趣旨からすれば、代替薬を揃えること自体をサポートすべきだということになりそうだから、治験に手を挙げた製薬メーカーに特別に特許を与えるべきだということになりかねないのではないか。 確かに代替薬を幅広く揃えておくことのメリットはあるだろうが、結局のところ、この問題は特許制度における技術的問題というよりは、薬事行政において創薬をどうサポートしていくかという問題であって、特許制度において進歩性のレベルを調整して解決すべき問題というよりは、薬事制度において取り扱うべき問題のような気がする。

それに、安易に進歩性のレベルを下げれば、都合よく利用されてしまう心配もある。 例えば、自社の既存薬の組成をちょっとだけ変えた。 すると、安定性がわずかに向上した。 これに特許性を認めてしまうと、大して向上もしていない改良薬に対して次々と特許が取られ、改良薬への切り替えが図られることで、薬事制度上、古い薬の後発薬は出しにくくなってしまうかも知れない。 薬の選択肢をなるべく多くしておいた方がいいから、という理由で進歩性のレベルを下げることで、本当に総合的に妥当な結果となるのかは疑問が多いと思う。


3.効果の顕著性の主張を斥けてよい「本件に固有の特別な事情」は認められないのか?

本件の経緯をもう一度簡単に説明すると、本件は進歩性の有無が争われた事件であり、上述のとおり無効審判においていったんは「進歩性あり」という審決(前審決)がなされたが、審決取消訴訟(前訴;平成25年(行ケ)10058)において「進歩性なし」としてその審決が取り消された。 しかしその時点までは、この発明の「効果の程度」、すなわち効果が「顕著」であるか否かは明示的にはなんら主張も判断もされていなかった。 そして次の審決(本件審決)において、前訴と同一の発明(請求項1)に関して効果の程度が検討され、「効果が顕著」であることを理由に「進歩性あり」という審決がなされた。 つまり特許庁は、知財高裁が「進歩性なし」と判断した発明について、「効果が顕著である」ことをもって「進歩性あり」という審決を行ったことになる。

この審決の取消を争ったのが今回の訴訟(本件訴訟)であり、本件判決で裁判所は、効果の程度を判断した上で進歩性を否定して審決を取消した。 のみならず、判決文の一番最後で、「なお,本件審判の審理について付言する。」とした上で、以下のような説示を行った。(なお本件では審判が3回行われており、私や玉井論文が「前審決」と言っているものは、以下の判決文の「第2次審判」の審決に対応する。)

平成29(行ケ)10003 判決文PDF 35ページ]
 なお,本件審判の審理について付言する。
・・・。
 発明の容易想到性については,主引用発明に副引用発明を適用する動機付けや阻害要因の有無のほか,当該発明における予測し難い顕著な効果の有無等も考慮して判断されるべきものであり,当事者は,第2次審判及びその審決取消訴訟において,特定の引用例に基づく容易想到性を肯定する事実の主張立証も,・・・ ,行うことができたものである。 これを主張立証することなく前訴判決を確定させた後,再び開始された本件審判手続に至って,・・・,前訴と同一の引用例 ・・・ から,前訴と同一で訂正されていない本件発明1を,当業者が容易に発明することができなかったとの主張立証を許すことは,特許庁と裁判所の間で事件が際限なく往復することになりかねず,訴訟経済に反するもので,行政事件訴訟法33条1項の規定の趣旨に照らし,問題があったといわざるを得ない。

これについて玉井論文では次のように論じられている。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) 142ページ]
 まず、前提として確認しておくべきことは、前審決においても前訴においても、判断の対象となったのは専ら構成非容易性であって、効果顕著性はまったく判断されていなかった、ということである。 ・・・ 前審決は、・・・ 遊離抑制作用を有するヒト用の点眼薬を想到するのは容易ではない(構成非容易)だとし、前訴判決は、・・・ 効果を確認するのは当然だから構成が容易だとしたものである。 ・・・。
 ・・・。 ・・・、前訴確定判決の拘束力は、効果顕著性については生じない。
 ・・・。
 ・・・ 前審決以降の具体的な経緯に照らしてみても、効果顕著性についての攻防を前訴で当事者が尽くしておくべきだったとするような、特別な事情は見当たらない。 前訴は、専ら構成非容易性のみを判断対象とした前審決の取消しを原告が訴求したものだったから、構成が容易で前審決が誤りだとの判断だけで審決の取消しには十分であって、それを超えて、効果顕著性について判断する必要はなかった。・・・。
 このように考えると、本判決は、本件に固有な特別の事情があったから被告特許権者が構成非容易性と効果顕著性の両方について前訴から主張立証を遂げておくべきだったというのではなく、無効審判請求を受けた特許権者は、一般にその両方を主張し、判断を得ておくべきである、との立場だと見るべきである。 ・・・。 即ち、本判決は、・・・、構成非容易性と効果顕著性を常に、、同時に主張しておくべきだという立場を採っているわけである。

玉井論文が指摘している通り、前訴判決では「効果の顕著性」については判断されていない。今になってから判決文を見ると、前訴判決(平成25年(行ケ)10058;富田善範裁判長)は慎重に言葉を選んでいるようにも見える。 例えば本件発明の化合物(KW-4679)が本件効果(肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)を持つことが容易であるか否かという説示において、前訴判決では次のように説示されている。

[前訴(平成25年(行ケ)10058)判決文より]
(PDF 89ページ)
・・・当業者は、甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる。

(同89ページ)
この記載は,・・・,・・・薬理作用の一つとして肥満細胞からのヒスタミンなどの ・・・ 遊離抑制作用があることの仮説を述べるものであり,その仮説を検証するために,化合物Aについて肥満細胞からのヒスタミンなどの遊離抑制作用があるかどうかを確認する動機付けとなるものといえる。

(同89ページ)
・・・,甲1及び甲4に接した当業者においては,・・・,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けがあるものと認められる。

このように前訴の裁判所の説示では、一貫して「遊離抑制作用を有するかどうかを確認する」という言い方が用いられており、「遊離抑制作用を確認する」というような一般化した表現は一度も用いられていない。 つまり裁判所は、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用の「有無」を確認することは容易であると説示しているだけで、「作用の程度を確認することまでを含めて容易である」と受け取られるような説示はあえて避けているようにも感じられる。 この判決を見た特許権者や審判合議体が、「作用の顕著性」に基づく進歩性については、別途争う余地はあると感じたとしても無理はないかも知れない。

そして一般論としても、特許の無効を主張する無効審判請求人側が、無効審判において「発明の構成」が容易であることしか主張していないのであれば、特許権者はそれを否定する主張を行なえば足りるはずで、主張されていない事項(「効果が顕著とは言えないから無効」という主張)までも想定し、それについて否定する主張・立証を行わなければならないというのは一見しておかしい。

したがって、「構成が容易ではない」という主張と、「効果が顕著である」という主張を常に同時に行うことを強制するかのような今回の裁判所の付言を玉井論文が批判しているのはもっともでしょうね。 少なくとも一般論としては。。

そして、これについても玉井論文は釘を刺している。 上でも引用したが、強調を入れて再掲すれば以下の通り。

[自治研究 94(6) 136-150 (2018) ]
(144ページ)
・・・、前審決以降の具体的な経緯に照らしてみても、効果顕著性についての攻防を前訴で当事者が尽くしておくべきだったとするような、特別な事情は見当たらない

(同)
・・・、本判決は、本件に固有な特別の事情があったから被告特許権者が構成非容易性と効果顕著性の両方について前訴から主張立証を遂げておくべきだったというのではなく、無効審判請求を受けた特許権者は、一般にその両方を主張し、判断を得ておくべきである、との立場だと見るべきである。

つまり今回の裁判所の説示が、本件の固有の経緯によって許容できるような事情は見当たらないので、一般論としての批判は本件にも妥当するのだと指摘している。 これについても玉井論文を否定することはできないかも知れないけれど、それで終わりにしてしまうと裁判所がちょっと気の毒な気もするので、今回の判決や審決を読んで私が気がついた個別事情を以下に挙げておきたい。


3−1.拘束力に関する裁判所の説示は「付言」に過ぎない

まず強調しておきたいのは、本件発明の効果の「顕著性」について、今回の判決で裁判所は検討しているということ。 つまり今回の判決は、「効果の顕著性も前訴で主張立証しておくべきだった」と説示して門前払いしたわけではない。 本件発明の効果が進歩性を認めるに足る顕著なものであるかを検討した上で、それを否定したのだ。 「主張立証することができた」という説示は、判決の最後で「付言」として述べただけだ。

効果の顕著性を検討した上でそれを否定したという判断が、判決文の構成の中に、主文の結論を導くために必要な理由付けとして存在しており、「前訴で主張立証することができた」という説示は、主文の結論を導くためには必要のない単なる付言に過ぎないことからすれば、裁判所は、今回の判決で「効果の顕著性も最初の訴訟で主張しておかなければならない」という一般的な規範をこの判決で打ち立てようとしているとまでは解せないと思う。

玉井論文はこの付言を取り上げて批判し、「先例的価値のある形で早期に是正することが好ましい。」、「本件について、上告審の適切な判断が期待される次第である。」(150ページ)としているけれど、ちょっと大げさな気もする。。 まあ、どこまで本気なのかは分からないけれど。


3−2.効果に顕著性がないという判断は、まったく不当とまでは言えない

上述の通り、今回の判決では本件発明の効果の顕著性についても判断されているが、具体的には以下の通りだ。

本件発明の効果の顕著性を示す重要なデータとなるのが本件明細書に掲載されている「表1」で、そこでは本件発明の化合物に相当する「化合物A」が、ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミン(炎症性メディエーター)の放出を用量依存的に抑制することが示されている。

[本件特許明細書(特許3068858号)より(赤字は追加したもの)]
JPB_0003068858t1c2.png

確かにこの表を見ると、既存薬(クロモリンやネドクロミル)に比べて本件発明の化合物(化合物A)だけが突出して高い効果(「92.6」とか、「66.7」とか)を発揮しているように見える。しかしこの表を見て感じる違和感は、本件発明の化合物(化合物A)以外の化合物の数値が低すぎるということ。 クロモリンは、阻害の値がマイナスになっていたりしている。 つまり、クロモリンは全く効果を発揮していない。 しかし、クロモリン等は抗アレルギー薬として使用されている薬である以上、抗アレルギー薬としての薬効がまったくないはずはないから、この表は、クロモリンやネドクロミルでは効果が現れない作用を調べていると解されるものだ。 つまりこの表は、実験に使用した細胞に対してヒスタミン放出を抑制するという作用機序で目に見える効果を発揮するのは、表の中で用いられている化合物の中では「化合物A」だけであることを示しているに過ぎず、クロモリンやネドクロミルの抗アレルギー薬としての薬効の顕著性が「化合物A」よりも劣ることを示しているわけではない。 クロモリンやネドクロミルは、そもそも別の細胞または別の作用機序で作用していることが推定される以上、ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミンの放出抑制という効果の「顕著性」を判断するための比較対象として、これらの既存薬がふさわしいとは言えないだろう。 ヒト結膜組織肥満細胞からのヒスタミンの放出抑制という作用機序を持つであろう薬が今回初めて発見されたというのならともかく、そういう作用機序で作用すると考えられていた既存薬(例えばケトチフェンなど)は知られていたのだろうから、効果の「顕著性」を示したいというのであれば、そういう既存薬と比較しなければ、本件発明の化合物の効果が「顕著」なのか否かは判断できないのではないか。

そして、ヒスタミンの放出抑制という作用を発揮する既存薬と比べて本件発明の化合物(化合物A)がどうなのかという点について、今回の判決では以下のように判断されている。

平成29(行ケ)10003 判決文PDF 30-31ページ]
 また,・・・,化合物Aがヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかということについて,・・・,甲20等には,本件特許の優先日前にスギ花粉症患者11例ないし30例に対して,化合物A以外の化合物について,抗原による眼誘発試験(スギ抗原液を点眼することによるアレルギー反応誘発試験)を行い,点眼液の点眼後5分後及び10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率を測定した結果,@ 0.0003%塩酸プロカテロール点眼液では,誘発5分後で平均79.0%及び誘発10分後で平均82.5%,同0.001%点眼液では,誘発5分後で平均81.6%及び誘発10分後で89.5%,同0.003%点眼液では,誘発5分後で平均81.7%及び誘発10分後で90.7%を(甲20),A 0.05%ケトチフェン点眼液では,誘発5分後で平均67.5%及び誘発10分後で平均67.2%を(甲32),B 2%クロモグリク酸二ナトリウム点眼液では,誘発5分後で平均73.8%及び誘発10分後で平均67.5%を(甲34),C 0.25%ペミロラストカリウム点眼液では,誘発5分後で平均71.8%及び誘発10分後で平均61.3%,同0.1%点眼液では,誘発5分後で平均69.6%及び誘発10分後で平均69.0%を(甲37),それぞれ記録した旨が開示されている。
 そうすると,当業者の本件特許の優先日における技術水準として,化合物Aのほかに,所定濃度を点眼することにより約70%ないし90%程度の高いヒスタミン放出阻害率を示す化合物が複数存在すること,その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン放出阻害効果を維持する化合物も存在することが認められる。
 以上のとおり,本件特許の優先日において,化合物A以外に,ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出に対する高い抑制効果を示す化合物が存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件発明1に係る化合物Aを含むヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができる範囲を超えた顕著なものであるということはできない。・・・。
 したがって,本件発明1の効果は,当業者において,引用発明1及び引用発明2から容易に想到する本件発明1の構成を前提として,予測し難い顕著なものであるということはできず,本件審決における本件発明1の効果に係る判断には誤りがある。

このように、ヒトへの点眼投与においてヒスタミンの放出を抑えるという効果を奏する既存薬は存在していたことが分かり、そうした既存薬と比べて本件発明の化合物が突出して高い効果を発揮することが本件明細書に示されている事項から客観的に把握できるというわけでもない。

なおこの点について玉井論文では、「紙幅の関係で詳論することを得ないが、本判決が、ごくわずかな被験者への投与例から本件特許発明と同程度の効果を認定したことも、統計学的に支持できない認定手法である」(142ページの割注)とされている。 玉井論文はそれ以上の理由を述べていないので、具体的にどう不適切だと思っているのかは詳しくは分からないが、判決文の中で特許権者側が主張している通り、本件明細書の表1の実験は眼組織から単離した結膜肥満細胞を使ったインビトロ実験であるのに対し、裁判所が言及している甲20等の実験はヒト患者におけるインビボの実験であるから、そもそも両者の数値を単純には比較できないのは確かで、また、本件明細書の表1によれば有意なヒスタミン遊離抑制作用を示していないクロモリン(別名 クロモグリク酸)が、甲34のインビボ実験では、上記の判決文中の引用の通り、最大73.8%の抑制を示したとされているから、益々単純には比較できないことが示唆される。 仮に両方の実験が正しいのであれば、インビトロの実験(表1)からは、実際のヒト患者に投与した場合の効果(インビボの効果)は予測できないということになるだろう。

ちなみに、この点について本件審決(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)で審判合議体は、「・・・ クロモリン ・・・ について、本件特許明細書に記載されたインビトロのモデル実験では効果が観測できなくてもヒトの臨床試験では大きな効果が認められたことは、本件特許明細書に記載のインビトロの実験手法の条件は、ヒトの臨床試験に用いる化合物を選別するための非常に厳しいスクリーニング条件であると考えられる余地がある。」などと説示し、非常に厳しいスクリーニングをパスして見出された本件発明の化合物はすばらしい、ということを匂わせているが、「余地がある」という表現を使っているとはいえ、特許権者側に一方的に有利な解釈を示唆するものだ。 公平に見れば、本件明細書の「表1」からも、上記の甲20等の記載からも、本件発明の化合物のヒスタミン遊離抑制作用が予測を超えて「顕著」であるか否かは判断はつかないというべきだろう。

おそらく、玉井論文でもそこは意識していたからこそ、上の「2.」で指摘したとおり、論文の最初で、既存の効果と同レベルに過ぎないものでも実用レベルであれば「顕著な効果」とみなすべきだという前提を置いたのだろうね。 でもその前提については、「2.」で書いた通り、私は全面的には賛成はできない。

なお、本件発明の薬剤を製品化した「パタノール®点眼液0.1%」 の承認審査の際に作成された医薬品医療機器総合機構(PMDA)の審査報告書(判決文の甲26)には、以下のように記載されている。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 抗ヒトIgE抗体によるヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン・・・遊離に及ぼす影響が検討された。 本薬はヒスタミン・・・遊離を濃度依存的に阻害し、IC50は・・・559±277μM・・・であった。 ・・・。 なお対照薬として用いたケトチフェンは濃度依存的にヒスタミン遊離を抑制し、IC50は22.9μMであった・・・。

この記載からすると、既存薬であるケトチフェンは、本件発明の化合物の1/24の濃度で同等の「ヒスタミン遊離抑制効果」を発揮することになる。


3−3.前訴では「構成非容易性」のみが判断されたという言い方は誤解を招きやすいのではないか

さて、玉井論文は、上述の通り「前審決においても前訴においても、判断の対象となったのは専ら構成非容易性であって、効果顕著性はまったく判断されていなかった」(142ページ)と指摘している。 確かにその通りだが、この「構成非容易性」という言い方は、本件においては誤解を招きやすいと思う。「構成非容易性」しか判断されていないという指摘を見ると、前審決や前訴では「医薬品の物質としての非容易性」のみが判断されたように感じてしまうが、本件の場合はそうではないからだ。 本件の無効審判が請求された際、本件特許のクレーム1は以下のようになっていた。

【請求項1】アレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な眼科用組成物であって、治療的有効量の11−(3−ジメチルアミノプロピリデン)−6,11−ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン−2−酢酸またはその薬学的に受容可能な塩を含有する、組成物。

すなわち、本件特許発明は当初、「アレルギー性眼疾患を処置するための」という用途で限定された組成物の発明だった。 これが、前審判における訂正請求によって以下の発明に訂正された。

【請求項1】ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、治療的有効量の11−(3−ジメチルアミノプロピリデン)−6,11−ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン−2−酢酸またはその薬学的に受容可能な塩を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤

つまり、「アレルギー性眼疾患を処置するための」という用途で限定された組成物の発明だったものが、「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途でさらに限定された「剤」の発明に変わったわけだ。 「・・・剤。」という表現は典型的な用途発明の表現であって、「ヒト結膜肥満細胞を安定化させる」という効果を発揮させる用途に限定された発明だ。 そして前訴では、この訂正請求によって特定された「ヒト結膜肥満細胞安定化」という用途を検討した上で、これを容易だと判断したのだから、「ヒト結膜肥満細胞を安定化させる」という効果にまさにスポットが当たった上で、その効果(があること)は容易だと判断されたことになる。

つまり、玉井論文は「構成非容易性」が判断されただけだというが、実際には、「効果の非容易性」も判断されているわけだ。 もちろん、訂正後のクレームは「肥満細胞安定化」という効果が発明特定事項としてクレームの構成に組み込まれている発明だから、「その効果までを含めた構成」の非容易性のみが判断されたという言い方は正しいが、「肥満細胞安定化」という効果について前訴で検討され、その効果(があること)は容易だと判断されているわけだから、「構成非容易性」のみが判断されたというよりは、「効果の存在の非容易性」も判断されたという方が、前訴で判断されたことの実態に合っていると思う。 したがって本件に則して今回の判決の「付言」を考えるとすれば、それは、『「効果の存在の非容易性」のみが明示的に判断されて進歩性が否定された後で、同じ効果の「顕著性」に基づいて進歩性を争うことができるのか』という問題だと考えることができるだろう。


3−4.効果の「顕著性」を表している本件明細書の「表1」は前訴で既に提示されている

上記の「3−2.」で説明した通り、本件発明の効果の顕著性を示す鍵となるのが本件明細書の「表1」だが、この「表1」は、前訴判決で既に取り上げられている。 具体的には、前訴において裁判所は以下のように説示している。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文より]
(PDF 35ページ)
 イ 訂正明細書(甲171)の【発明の詳細な説明】には,次のような記載がある(下記記載中に引用する「表1」ないし「表3」は別紙1を参照)。

(PDF 42ページ)
 (ク)「表1が明らかに示すように,抗アレルギー薬であるクロモグリク酸二ナトリウムおよびネドクロミルは,ヒト結膜肥満細胞脱顆粒を有意に阻害することができなかった。 対照的に,化合物A(シス異性体)は,肥満細胞脱顆粒の濃度依存的な阻害を引き起こした。」(8頁)

(PDF 別紙1)(判決文の最後に添付されているもの)
平成25(行ケ)10058_bessi1.png

このように、前訴において裁判所はこの「表1」を見た上で、既存薬(クロモリンやネドクロミル)とは対照的に、本件発明の化合物(化合物A)は肥満細胞からのヒスタミン放出の濃度依存的な阻害を引き起こしたことを認定している。 クロモリンやネドクロミルとは「対照的」であること、そして「用量依存性」があることを認定しているわけだから、裁判所は、「表1」中の「化合物A」の数値を他の既存薬の数値と見比べていることは明らかだろう。 そうすると、事実上、効果の顕著性を表している表1の「化合物A」の数値は裁判所によって見られているわけだ。 それでもなお前訴では、「程度」は判断していなかったと言えるのだろうか?

本件訴訟において特許権者は、「表1」を持ち出して本件発明の効果の「顕著性」を主張したわけだが、そのとき裁判所はおそらく、「その表は、前訴の判決文に添付したやつじゃん」と思ったことだろう。


3−5.前訴判決を“逆なで”するかのような本件審決の説示

既に述べた通り、本件判決は、本件審判(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)の審決取消訴訟だが、この審判は前訴判決の確定後に再開されたものだから、前訴判決の拘束力が及ぶ。 それは本件審判でも十分に意識されていて、審決では以下のように説示されている。

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
(2)拘束力
 特許無効審判事件についての審決取消訴訟において、審決取消しの判決が確定した場合、審判官は特許法第181条第5項の規定に従い、当該審判事件について更に審理、審決をするが、審決取消訴訟は行政事件訴訟法の適用を受ける。よって、再度の審理、審決には、行政事件訴訟法第33条第1項の規定により、前審決を取消した判決の拘束力が及び、この拘束力は、判決主文が導き出せるのに必要な事実認定及び法律判断にわたるものである。
 当該拘束力について検討すると、前審決を取消した判決で判示された、本件特許の優先日当時の技術常識の認定(上記(1−1))、及び、甲1及び甲4に接した当業者は、甲1記載のアレルギー結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤を「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたとする判断(上記(1−2))については、 前審決を取消した判決の拘束力が生ずるものというべきである。

ちなみに前訴判決では、以下のように説示されていた。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文]
(PDF 88ページ)
(イ) そして,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われていたことは,前期(3)イ(ア)認定のとおりであるから,当業者は,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる。

(PDF 91ページ)
 以上によれば,甲1及び甲4に接した当業者は,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあり,その適用を試みる際に,KW-4679が,ヒト結膜の肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどに対する拮抗作用を有することを確認するとともに,ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有することを確認する動機付けがあるというべきであるから,KW-4679についてヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用(「ヒト結膜肥満細胞安定化」作用)を有することを確認し,「ヒト結膜肥満安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められる。
 したがって,本件訂正発明1及び2における「ヒト結膜肥満細胞安定化」という発明特定事項は,甲1及び甲4に記載のものからは動機付けられたものとはいえないとして,甲1を主引例とする進歩性欠如の原告主張の無効理由2は理由がないとした本件審決の判断は,誤りである。

つまり前訴判決では、「ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認するのは当然だ」と言っているわけだ。これに対して本件審決は、上に引用したとおり、この判決の拘束力が及ぶのは『・・・、甲1及び甲4に接した当業者は、甲1記載のアレルギー結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤を「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」の用途に適用することを容易に想到することができたとする判断』だと解した。 そして、本件審判において無効審判請求人が、甲1と甲4に基づいて進歩性を否定する主張を行ったことに対しては、審決は次のように説示した。

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
(2−3−4)本件訂正発明1による効果の顕著性

 上記「(2−3−2)」で指摘したように、当業者は、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)及び甲4の記載を根拠として、化合物Aによる「ヒト結膜肥満細胞」に対する安定化効果(ヒスタミン放出阻害率)の程度を具体的に予測することはできない。
 本件訂正明細書の表1(摘記(iii))には、化合物Aによる「ヒト結膜肥満細胞」に対するヒスタミン放出阻害率は、2000μMという高用量(高濃度)に至るまで用量依存的に上昇し、ヒスタミン放出阻害率の最大値(2000μMで92.6%)は、対照薬物であるクロモリンナトリウムやネドクロミルナトリウムによる最大値(それぞれ10.6%、28.2%)と比較して著しく高い値であることが示されている
 甲1にはKW-4679(化合物AのZ体の塩酸塩)がモルモットの結膜肥満細胞を安定化する作用を有しないことが記載されているにもかかわらず、化合物Aが「ヒト結膜肥満細胞」に対してこのように非常に高いヒスタミン放出阻害率を有することは、当業者が予測し得ない格別顕著な効果であるといえる。
 ・・・。
 そうすると、甲39で示された「AL-4943A(化合物Aのシス異性体)は、最大値のヒスタミン放出阻害率を奏する濃度の範囲が非常に広い」という実験結果は、本件訂正明細書に記載の、化合物Aが「医薬品としての高い有用性」を有することに整合しており、しかも、当業者が予測し得ない格別顕著な効果であるといえる。
 以上のように、化合物Aは「ヒト結膜肥満細胞」に対して優れた安定化効果(高いヒスタミン放出阻害率)を有すること、また、AL-4943A(化合物Aのシス異性体)は最大値のヒスタミン放出阻害率を奏する濃度の範囲が非常に広いことは、いずれも甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識から当業者が予測し得ない格別顕著な効果であり、進歩性を判断するにあたり、甲1発明と比較した有利な効果として参酌すべきものである。
・・・。
 したがって、本件訂正発明1及び2はいずれも、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識からみて当業者が容易に発明できたものとはいえないのであるから、請求人が主張する無効理由2(甲1を主引例とする進歩性)は、理由がない。

上記の説示にも私は異論はある。 「3−2.」で説明した通り、「表1」には、この実験系において有意な「ヒスタミン遊離抑制作用」が見られない既存薬(クロモリン等)との比較しか示されておらず、その効果を持つであろうケトチフェンなどの既存薬との比較は示されていないのだから、この表1の結果をもって本件審決が「著しく高い値であることが示されている」などと評するのは少し白々しくみえる。 また、本件審決が「甲1にはKW-4679(・・・)がモルモットの結膜肥満細胞を安定化する作用を有しないことが記載されているにもかかわらず」と評し、KW-4679(本件発明の化合物)に「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」があることがさも予想外であるかのように認定している点については、前訴(平成25年(行ケ)10058の判決文 PDF90ページ)において裁判所が「・・・,甲1に,モルモットの動物結膜炎モデルにおける実験においてKW-4679がヒスタミン遊離抑制作用を有さなかったことが記載されていることは,KW-4679がヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けを否定する事由にはならない」と説示していることに加え、前訴判決文(PDF 50ページ)に甲1の記載が長文で引用されている通り、実際のところ甲1には「・・・結膜からのヒスタミン遊離に対する各薬物の効果を検討したところ,・・・. ・・・ ketotifenおよびKW-4679は無効であった.」 と記載されており、ヒト肥満細胞に対する「ヒスタミン遊離抑制作用」を有することが知られているケトチフェンにさえ、モルモットの細胞では「ヒスタミン遊離抑制作用」が検出できなかったことが記載されているのだから、甲1のこの記載を見た当業者は、甲1の実験は、あるはずの「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」が検出できない実験系あるいは実験条件で実験が行われていると理解するはずで、この結果をもって、KW-4679には「(ヒト肥満細胞に対する)ヒスタミン遊離抑制作用」がないと予測することはないように思われる。

しかし、それにも増して問題だと思うのは、無効審判請求人が甲3と甲4に基づいて進歩性を否定する主張を行ったことに対して審決が行った以下の説示だ。(なお甲3には本件発明の化合物 (オロパタジン) を概念的に包含する化合物を抗アレルギー用途で眼科用に使用することが記載されており、甲4には本件発明の化合物 (オロパタジン) に高い抗炎症作用があることが記載されている。)

[無効2011-800018 平成28年12月1日審決より]
ウ.相違点2について
 請求人は、「甲4に接した当業者であれば、オロパタジンがヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を抑制する効果を有することを期待」する旨を主張するが、上記「2.無効理由2」の「(2−3−2)甲1及び甲4に記載の、化合物Aによる効果」で指摘したように、甲4の記載に接した当業者が、甲4の「化合物番号20」の化合物(本件訂正発明1の化合物)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、甲4の記載を根拠として、甲3発明を相違点2の「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない
 なお、上記「2.無効理由2」の「(2−3−2)甲1及び甲4に記載の、化合物Aによる効果」で指摘したように、甲1の記載に接した当業者が、甲1のKW-4679(本件訂正発明1の化合物のZ体、甲2の1及び甲2の2を参酌)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、 甲1の記載を根拠として、甲3発明を相違点2の「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない
 仮に、甲4及び甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)の記載を参酌して、甲3のマーカッシュ形式の式(I)で示される化合物あるいはそれらの塩の中から、化合物Aを選択して用いて「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という用途に適用するに至る動機付けが否定されないとしても、上記「第2 無効理由2(甲1を主引例とする進歩性について)」で検討したように、本件訂正発明1及び2により奏される効果は、甲3、甲1(甲2の1及び甲2の2を参酌)、甲4及び本件優先日当時の技術常識から当業者が予測できない格別顕著な効果であって、進歩性を判断するにあたり、甲3発明と比較した有利な効果として参酌すべきものである。

問題は上の引用の前半部分だ。 審決は、『(本件訂正発明1の化合物)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、・・・、「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない』、『甲1のKW-4679(本件訂正発明1の化合物のZ体、・・・)がヒト結膜肥満細胞を安定化する作用を有すると予測することはできないのであるから、甲1の記載を根拠として、・・・「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」とすることが容易であるとはいえない。』と説示した。 つまり審決は、甲1のKW-4679(本件発明の化合物)がヒト結膜肥満細胞の安定化作用(ヒスタミン遊離抑制作用)を有すると予測することはできないのであるから、効果の顕著性を考慮するまでもなく、「眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤」という発明は容易想到ではないと説示したのだ。 前訴判決では、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けはあったと説示されていたにもかかわらずだ。

つまりこの審決は、前訴判決の拘束力は、甲1と甲4に基づく容易想到性の判断にしか及ばないと解し、甲3と甲4に基づく判断においては、本件発明の化合物に本件効果(ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)が存在することだけをもって、効果の顕著性を考慮するまでもなく進歩性を肯定したことになる。 こんな理屈は成り立つのだろうか?

前訴判決がどう判示していたのか改めて見てみる。

[前訴判決(平成25年(行ケ)10058)判決文]
(PDF 88ページ)
そして,前期(3)イ(イ)認定のとおり、本件特許の優先日当時,アレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,ヒトのアレルギー性結膜炎に類似するモデルとしてラット,モルモットの動物結膜炎モデルが作製され,点眼効果等の薬剤の効果判定に用いられていたこと,本件特許の優先日当時販売されていたヒトにおける抗アレルギー点眼剤の添付文書(「薬効・薬理」欄)には,各有効成分がラット,モルモットの動物結膜炎モデルにおいて結膜炎抑制作用を示したことや,ラットの腹腔肥満細胞等からのヒスタミン等の化学伝達物質の遊離抑制作用を示したことが記載されていたことからすると,甲1に接した当業者は,甲1には,KW-4679が「ヒト」の結膜肥満細胞に対してどのように作用するかについての記載はないものの,甲1記載のアレルギー性結膜炎を抑制するためのKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる動機付けがあるものと認められる。

(PDF 90-91ページ)
しかしながら,上記のとおり,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われており,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,当業者は,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえること,さらには前記(3)ウ(ア)認定のとおり,本件特許の優先日当時,薬剤による肥満細胞に対するヒスタミン遊離抑制作用は,肥満細胞の種又は組織が異なれば異なる場合があり,ある動物種のある組織の肥満細胞の実験結果から他の動物種の他の組織における肥満細胞の実験結果を必ずしも予測することができないというのが技術常識であったことに鑑みると,甲1に,モルモットの動物結膜炎モデルにおける実験においてKW-4679がヒスタミン遊離抑制作用を有さなかったことが記載されていることは,KW-4679がヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けを否定する事由にはならないものと認められる。

(PDF 92ページ)
しかしながら、前記ア(イ)認定のとおり,本件特許の優先日当時,ヒトのアレルギー性結膜炎を抑制する薬剤の研究及び開発において,当該薬剤における肥満細胞から産生・遊離されるヒスタミンなどの各種の化学伝達物質(ケミカルメディエーター)に対する拮抗作用とそれらの化学伝達物質の肥満細胞からの遊離抑制作用の二つの作用を確認することが一般的に行われており,甲1記載のKW-4679を含有する点眼剤をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みるに際し,当業者は,KW-4679が上記二つの作用を有するかどうかの確認を当然に検討するものといえる ・・・

上の引用で裁判所が「前記(3)」と言っているのは、判決文の「第4 当裁判所の判断」の「(3) 本件特許の優先日当時の技術常識について」(判決文PDF 58〜87ページ)の判示、つまり「技術常識の認定」に関する判示を指している。 すなわち、ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用を有するかどうかを確認する動機付けはあったという前訴判決の裁判所の説示は「当時の技術常識」に基づく認定なのであり、さらに裁判所は、モルモットではヒスタミン遊離抑制作用を示さなかったことが「甲1」に記載されているとしても、ヒト細胞において確認することの動機付けを否定するものではないと説示したものだ。 裁判所による「当時の技術常識」の判断は、判決の結論を導くために必要な認定判断であるから、判決の拘束力を有すると考えられるところ、引例が「甲1と甲4」の組み合わせから「甲3と甲4」の組み合わせに変わることにより、「甲3」に阻害要因が記載されているなどの特段の事情が認められるのならともかく、そうでないのに前訴判決の「当時の技術常識」の判断をないがしろにした審理・審決を行うことは、判決の拘束力に反するものと言えるだろう。

しかも、「顕著な効果」を考慮しない場合の本件発明(つまり「ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制」という効果が「ある」ということだけを考慮し、その「程度」は考慮せずに認定した本件発明)に進歩性がないことは、「甲1と甲4」に基づく判断によって前訴判決で既に確定している。

ちなみに、進歩性がないことが確定した発明について、再開された審判が再度、別の引例を用いて進歩性を審理することについて、知財高裁は以下のように説示したことがある。

平成17(行ケ)10857「工具保持具」平成19年5月30日判決;飯村敏明裁判長]
ところで,本件についてこれを見ると,・・・ 無効審判請求に対して「本件審判の請求は成り立たない」との判断をした第1次審決について,前判決は,・・・ 当業者が容易に想到できないとした第1次審決の判断には誤りがある(容易に想到することができる)と判示して,同審決を取り消した。 そうすると,本件においては,再度審理を開始した審判手続において,前判決の拘束力に従った判断をすることにより,迅速な解決を図ることができたはずであり,当事者に対しても,前判決の拘束力から離れた主張,立証をすることを禁じる指揮をすることもできたはずである。 しかるに,再度の審判手続及び審決においては,拘束力の生じた前判決が基礎とした本件発明と引用例との対比とは,全く異なる引用例に基づいた対比についての審理を実施し,これに基づく判断をすることとなった。 このような審判及び審決のあり方は,行政事件訴訟法33条1項が設けられた趣旨に反するものであり,速やかな紛争解決を妨げるものであるといえよう

そして玉井先生ご自身、これについて以下のように評している。

[玉井克哉 パテント Vol.62(5) 73-95 (2009) の87ページ左欄]
・・・,無効事由というのは一つでもあれば特許が無効になるのですから,取消判決の拘束力で確定したはずの無効事由以外に無効事由があるかどうかを審理するというのは,たしかにまったく無駄です

そうすると、今回の本件審決は、(1)特段の事情もないのに前訴判決の「当時の技術常識」の認定をないがしろにした審理を行ったこと、および、(2)前訴で進歩性がないと判断された発明(効果の顕著性を考慮しない発明)について進歩性の有無を再度審理したこと、という二重の意味で、判決の拘束力に関する規定の趣旨に反していると考えることができるのではないか。 上の「工具保持具」事件とは違い、今回の審決の判断は「顕著な効果」を認めて進歩性を肯定する前座としての判断だから、(2)については責めることはできないかも知れないが、(1)については責めるべき理由はあるように思う。

この審決を見て、知財高裁が怒ったとしても無理はないと私は思うし、今回の判決において、この審決に対して何らかの苦言を述べようと裁判所が思ったとしても当然だと思う。

だから本来であれば裁判所は、審決のこの部分に対して苦言を述べればよかったと思う。 すなわち、同じ化合物(本件発明の化合物)の同じ効果(ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制作用)であって、甲3に阻害要因が記載されているわけでもないのに、甲3と甲4に基づく判断においては、効果の顕著性を考慮するまでもなく進歩性があると本件審決が判断したことに対し、前訴判決における技術常識の判断を無視するものであり問題だとでも指摘すればよかった。 しかし、まあ、実際には裁判所は判決文にある通りの付言を行い、玉井先生の批判を受けることになってしまった。

*   *   *

以上の通り、今回の玉井論文では「本件に固有な特別の事情」はない旨が指摘されているので、「本件に固有な特別の事情」について思ったことを書いてみた。 確かに一般論としては、効果の「程度」について、無効を訴えた当事者が主張しておらず、裁判所によって判断もされていないときに、それを別訴で争うことは認められるべきだとは思うので、玉井論文のその部分はもっともでしょうね。。 それでも私は、本件における上記の事情を考えると、効果の「有無」と「顕著性」は、どんな事案でも常に同時に主張立証しなければならないと高部コートが本気で考えてあのような「付言」を行ったというよりは、もう少し違った見方をする方がよいのではないかと思うので、今回の判決の「付言」に関しては、「審決に頭にきて筆がすべった説」を唱えておきます(笑)。

ちなみに、この審決を行った特許庁の審判合議体で審判長を務めた審判官は、私が2016年5月10日の投稿で話題にした「オキサリプラチン事件」(特許4430229)の無効審判(無効2014-800121)でも審判長を務めており、特許を維持する審決を行っている(詳しくは2016年5月10日の投稿の「・・・信じがたい解釈を説示した」という部分を参照)。

*   *   *

4.本件発明の化合物の「ヒスタミン遊離抑制作用」は治療的に高い意義はあるのか

本件発明の化合物において見出された「ヒスタミン遊離抑制作用」が、実際のアレルギー性眼疾患の治療効果に果たしてどの程度貢献するものなのかについては、判決文を見る限り、本件訴訟においては特に争われていないようだ。 しかし本件審判(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)では争点となっている。 その中で無効審判請求人が証拠として提示したのが、上でも取り上げたPMDAの審査報告書だ。

今回の判決文(判決文PDF 24ページ)だけを読んでいると、抗アレルギー薬には、「ヒスタミン拮抗作用」によって薬効を発揮するものと、「ヒスタミン遊離抑制作用」によって薬効を発揮するものがあり、本件発明の化合物には後者の作用、すなわち優れた「ヒスタミン遊離抑制作用」があり、その作用によって抗アレルギー薬としての本薬の薬効が発揮されるかのような印象を受けるかも知れない。 しかし実際には、本件発明の化合物には非常に強い「ヒスタミン拮抗作用」がある。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 本薬のヒスタミン受容体サブタイプに対する選択性を・・・ヒスタミンH1、H2及びH3受容体に対する・・・選択的リガンド・・・との競合効果により検討された。 本薬のH1受容体に対するKi値は41.1±6.0 nMであり、H2及びH3受容体に対するKi値はそれぞれ43.4±6.3μM及び17.2±0.7μMであった。 ・・・。
 選択的リガンドの結合を50%以上阻害した場合を対象とした受容体へ結合活性を有する基準とした場合、本薬(10-9、10-7及び10-5 M)は・・・ 10-7 MによりH1受容体・・・に結合活性が認められた。 ・・・。 また、本薬の代謝物であるN-オキシド体の10-5 MはH1受容体に結合活性を示し、N-デスメチル体は10-7 MでH1受容体、・・・に結合活性が認められた。
 以上より、本薬及び本薬の代謝物はH1受容体に選択的に結合することが示された。 ・・・。

すなわち、本件発明の化合物は、ヒスタミン H1受容体に数十〜100nMという低濃度でリガンドと拮抗的に結合し、「ヒスタミン拮抗作用」を発揮することが示されている。 これに対して、本件の進歩性で問題になっている「ヒスタミン遊離抑制作用」について、PMDAの報告書では、先にも引用した通り、以下のように記載されている。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 10ページ]
 抗ヒトIgE抗体によるヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン・・・遊離に及ぼす影響が検討された。 本薬はヒスタミン・・・遊離を濃度依存的に阻害し、IC50は・・・559±277μM・・・であった。 ・・・。 なお対照薬として用いたケトチフェンは濃度依存的にヒスタミン遊離を抑制し、IC50は22.9μMであった・・・。 また、本薬の主な代謝物であるN-オキシド体は濃度依存的にヒスタミン遊離量を抑制し、IC50は3.07 mMであった。
・・・。
 以上より、本薬は in vitro においてヒスタミンに対する拮抗作用を示し、その約1万倍の高濃度を要するが肥満細胞からのヒスタミンを含む生理活性物質の遊離を抑制することが示された。

つまり、本件発明の化合物は、確かに「ヒスタミン遊離抑制作用」を有してはいるものの、「ヒスタミン拮抗作用」に関しては数十〜100nMという低濃度で作用を発揮するのに対し、「ヒスタミン遊離抑制作用」は、その約1万倍の高濃度である数百μM レベルで投与しなければ作用を発揮できないことが記載されている。

そしてPMDAの報告書は以下のように記載している。

[パタノール®点眼液0.1% PMDA審査報告書 12-13ページ]
 機構は、本薬の薬理試験における薬効発現濃度と臨床濃度との関係について説明するように求め、申請者は以下のように回答した。
 白色ウサギに本薬0.15%を単回点限した結果(・・・)、主な作用組織である角膜及び結膜ではいずれも最初の測定時点である点限30分後に最大濃度を示し、それぞれ1.85及び0.40μg/gであった。それらはin vitro試験における4.94及び1.06μM に相当し、ヒト結膜肥満細胞からヒスタミン遊離を抑制する濃度に達していなかった。 更に、臨床使用製剤は0.1%溶液であり、臨床では1日4回点限されるが各々の組織からの消失半減期は約2時間で、組織内の濃度上昇はほとんど期待できない。したがって、in vitro試験とウサギの眼組織内濃度のデータから本薬がヒスタミンだけでなく、他の生理活性物質遊離阻害作用を有することは示せなかった。 一方、アレルギー性結膜炎患者に本薬0.1%を1日2回5日間点眼することにより、結膜への抗原チャレンジ後の涙液中ヒスタミン濃度は有意に減少した(・・・)。 臨床製剤の本薬の濃度は約 2.6 mMであり、点眼直後では結膜部分はヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用のIC50(0.56 mM)より高濃度の本薬に暴露されることが生理活性物質遊離抑制作用の発現に影響した可能性が考えられる。 また、類薬であるケトチフェンにおいてもヒスタミンH1受容体拮抗作用濃度に対し、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用濃度に本薬と同様に乖離が認められている。 したがって、本薬は肥満細胞からの生理活性物質遊離抑制作用とヒスタミン受容体拮抗作用の2つの作用機序を有すると考えられた。
 機構は、本薬の肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制濃度は、本薬のヒスタミン拮抗濃度の約1万倍の高濃度を必要とすること及びin vivoにおける抗原によるモルモット結膜における血管透過性亢進抑制も本薬の抗ヒスタミン作用で説明が可能であることから、本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる。 しかし、点眼直後では本薬が結膜の肥満細胞に高濃度で到達する可能性が否定できず、ヒト眼部における本薬のヒスタミン遊離抑制作用が認められていること、及び類薬であるケトチフェン点眼薬の薬理作用に肥満細胞からの生理活性物質遊離抑制作用が認められていることから、本薬を点眼した時、結膜肥満細胞のヒスタミンをはじめとする生理活性物質の遊離を抑制するとの申請者の回答を了承した。

上に引用した報告書の通りPMDAは、本薬がヒトの臨床においても「ヒスタミンの遊離を抑制する」ということを了承はしている。 その根拠としてPMDAは、点眼液の薬剤濃度が約2.6 mMであることから、点眼直後では本薬が結膜の肥満細胞に高濃度で到達する可能性が否定できないこと、ヒト眼部における本薬のヒスタミン遊離抑制作用が認められていること、そして、既存薬であるケトチフェンに「ヒスタミン遊離抑制作用」が認められることを根拠としている。 しかし、ケトチフェンからの類推については、「3−2.」の最後に指摘した通り、ケトチフェンの「ヒスタミン遊離抑制作用」は、本薬の1/24の濃度でも発揮されることに注意が必要だろう。 1/24の濃度でも効くケトチフェンで「ヒスタミン遊離抑制作用」が発揮されるからといって、本薬でも同様に発揮されることは明らかとは言えないのだから。 また、本薬においてヒト眼部(すなわちインビボ)におけるヒスタミン遊離抑制作用が認められているという指摘については、「3−2.」で上述した通り、甲20等によれば、インビトロにおけるヒスタミン遊離抑制作用が認められない他の既存薬でも、インビボにおいては「ヒスタミン遊離抑制作用」は認められているのだから、本薬においてインビボにおける「ヒスタミン遊離抑制作用」が認められるからといって、それが本件明細書の表1に示されているインビトロの効果を反映したものであることが明らかとは言えないようにも思われる。 そしてなにより、本薬の「ヒスタミン遊離抑制作用」の作用濃度は、「ヒスタミン拮抗作用」の作用濃度の約一万倍も高いのであって、PMDA自身が、「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる」としているわけだ。

これらを考えると、本件発明の化合物に「(インビトロにおける用量依存性の)ヒスタミン遊離抑制作用」が認められたという本件明細書に開示されている効果が、ヒトのアレルギー性眼疾患への臨床適用を対象としている本件発明にとってどれほど「顕著な効果」だといえるのかについては、よく考える必要があるように思う。

ちなみに、本件の審決を読む限り、無効審判請求人は本件審判において同趣旨のことを主張したと想像される。 これに対して本件審決(無効2011-800018;平成28年12月1日審決)で審判合議体は、『結局、「本薬(・・・)を点眼した時、結膜肥満細胞のヒスタミンをはじめとする生理活性物質の遊離を抑制するとの申請者の回答を了承した。」という結論に達しているのであるから、甲26の記載をもとに化合物A(オロパタジン)は「臨床試験では、小さなヒスタミン遊離抑制効果しか認められなかった」としている請求人の主張には根拠がない。』と説示して無効審判請求人の主張を一蹴した。 しかし実際は上に引用した通りであって、「回答を了承した」というのは、「ヒスタミン遊離抑制作用」が臨床においても発揮されていることを了承したに留まり、臨床における薬効に関しての機構(PMDA)の見解は「本薬の臨床における有効性発現に関与している可能性は低いと考えられる」というものなのだから、本薬が持つ「ヒスタミン拮抗作用」に比べれば、「ヒスタミン遊離抑制作用」の臨床上の意義は非常に小さいというのが、機構の報告書からは示唆されると言えるのではないか。

なお、ここで述べたことは、「ヒスタミン遊離抑制作用」という用途発明に限定されている本件発明の特許権が、果たして本薬の後発薬を抑えるに足るものなのかという問題にも関連するだろう。 この特許が後発薬に権利行使できるものなのかという点については、篠原勝美先生(元知財高裁所長)が最近出した論文でも、「・・・、特許クレーム文言(ヒト結膜肥満細胞安定化剤)が添付文書記載の「効能・効果」(アレルギー性結膜炎)をカバーするかという論点もあり、包含関係説によれば、パテントリンケージの発動にはそもそも無理があったとも考えられる。」と述べて、この特許を理由に薬事当局が後発薬の承認を見送ったことについて批判されている(Law and Technology No. 80, 2018, 29-35の33ページ左)。

*   *   *

ということで、多少この特許にネガティブなことを強調して書いたかも知れないが、私は別に本件特許が早くなくなればよいと思っているわけではない。 コストとリスクをかけて臨床試験を行って薬を市場投入している以上、その薬が成功した場合にはそれなりのリターンが期待できなければならないとは思う。 また、特許があるからコストをかけて市場投入しているのに、今回のように突然特許がなくなってしまうのは困るという気持ちも分からなくはない。 しかし「2.」でも書いた通り、医薬品開発にリスクとコストがかかるのは特許がなくても同じなのであって、そうしたリスクとコストに対して適切なリターンの機会が保障されることは、特許の有無にかかわらず要請されることのように思う。 したがって、この種の問題に関しては、私は特許制度で解決を目指すよりも、薬事制度(つまりデータ保護期間に類するような参入規制)で解決することを目指す方がよいのではないかと思っており、そうした対応が十分にとられている限り、特許制度がそれを超えて保護を与える必要もないはずだと思っているけれど、どうでしょうかね。

*   *   *

本件は、上告受理申立が行われているようで、玉井論文は、「判決の拘束力」に関する知財高裁の説示に反対であるのみならず、本件発明の効果を顕著とみなして「進歩性」を認めるべきだという立場でもあるから、論文の結びは「上告審の適切な判断が期待される次第である」となっている。 しかし私は、今回の知財高裁の説示は、上記の「3−1.」〜「3−5.」の事情を考えれば一定の理解はできると思うし、また一般論としても、「1.」や「2.」で書いた通り、顕著な効果があれば容易なものにも進歩性を認めなければならないのかという問題、特に今回のケースのように、その効果を調べることになるのは当然だと言えるような場合でも、その効果が顕著なら進歩性を認めなければならないのかという問題については、まだ学者や実務家の間で議論する余地は相当残っており、最高裁の一声で決めるべき事柄でもないと思うから、私は、本件については最高裁は介入せず、長い目で見守って頂くことを期待している。

[2018/06/25 篠原先生の論文(L&T No.80, 2018/7, 29-35)について一言追加。]

[2019/09/08 本件判決の拘束力に関する論説としては、上に挙げた玉井先生の論文の他、飯島歩先生の論文(知財管理68巻 9号 (2018) 1275-1288)、宍戸充先生の論文(特許ニュース 14705号 (2018年6月8日) 1 -11)、および興津征雄先生の判例研究『特許審決取消判決の拘束力の範囲論文』(知的財産法政策学研究 第53号(2019年3月)211-252)。

「ヒスタミン遊離抑制作用」に関する用途発明に限定された本件特許が、後発薬を抑えられるものであるのか、という点については、上に挙げた篠原先生の論文の他、gemedicines氏の投稿『オロパタジン塩酸塩点眼液(パタノールR点眼液0.1%) 』(2019年9月7日)も参照]



posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

篠原勝美『続・知財高裁大合議判決覚書』─オキサリプラチン事件をめぐって─ 知財管理 Vol.68 No.3 2018-03


篠原先生は知財高裁の初代所長で、延長登録に関する判決(平成17(行ケ)10012;平成17年5月30日)も手掛けている。 今回の大合議判決後に先生は、昨年のジュリスト8月号、昨年の知財管理の9月号、そして今回の知財管理3月号と、延長問題に関してこれまでに3つの論文を出されている。


1.「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」から問題を考えることについて

篠原先生の論文で好きなのは、今回のオキサリプラチン事件の大合議判決の読み方として、この判決が「(実施できなかった期間の回復という)延長制度の趣旨」と「衡平の理念」という2つの観点をもとに判断が行われている点を重視していることだ。 例えば今回の知財管理3月号では以下のような感じ。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 319-318ページ]
本判決は、制度趣旨として、・・・「・・・処分を受けるために・・・実施できなかった期間の回復」(・・・制度趣旨@・・・)を踏襲した上、「特許権者と第三者との衡平ないし衡平の理念」(・・・制度趣旨A・・・)を付加し、・・・を確認している。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 326ページ]
特許権の存続期間延長の制度趣旨@、Aを考慮して、斯界全体の「産業の発達に寄与」(特許法1条)するよう、関係規定の適切かつ合理的な解釈運用が求められている。

延長制度の問題を考えるにあたって、「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つを出発点とすることが重要だと思うことについては、2017年3月23日の投稿「延長問題を考える上で重要な前提として何を選択するか」で書いたが、この2つを出発点としてこの問題を考えることによって劇的なことが起こる。 つまり、「延長登録の登録要件の判断基準は今のままでは駄目だ」という結論へとたどり着くのだ(笑)。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 326ページ、下線追加]
・・・ 制度趣旨@、Aとの文脈において検討すると、後行処分に係る延長登録の登録要件について見直しを迫られる場面も想定され、・・・ 新たな論点も浮上してくる。

まったく同感です! 「延長登録の要件」にこそ問題が残されている。 「登録要件の問題は過去の2つの最高裁判決で解決済みで、残された問題は延長された特許権の効力範囲の問題だけだ」などという考えはまったく間違っている。 延長登録の要件に問題が残されているという指摘を篠原先生ができるのは、「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つを大事に考えているからで、過去の最判や条文を前提として論じていては難しい。

「延長制度の趣旨」と「衡平の理念」の2つから出発し、最終的に制度改正の必要性の議論に至っているのが、篠原先生の論文のもっとも好きなところだ。

*    *    *
    
2.延長された特許権の効力範囲に関する大合議判決の判示は「傍論」なのか?

上記の「1.」についてはずっと賞賛していたいのだけれど、次の話題に行かせて頂きます。。。

今回の大合議判決では、「延長された特許権の効力範囲」(特許法68条の2)の判断基準(すなわち68条の2に言う「処分の対象になった物」との実質同一性の判断基準)が示された上で、被告製品は「延長された特許権の効力範囲」に含まれないので非侵害だ判断とされたが、それだけでなく、被告製品はそもそも本来の特許発明の技術的範囲(特許法70条1項)にも含まれていないので、延長された特許権の効力範囲に含まれるか否かを考えるまでもなく非侵害だとも説示された。 この判決について篠原先生は、今回の大合議判決の「延長された特許権の効力範囲」における実質同一の判断基準に関する判示は「傍論」だと指摘している。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 320ページ]
本判決の「知財高裁詳報」は、事案に鑑み、特許法68条の2の判断が特許発明の技術的範囲の判断よりも先行することもあり得る、とするが、対象製品が本件特許権の特許発明の技術的範囲に属しない事案である以上、効力範囲における実質同一の類型論は、厳密に言えば、傍論である

なぜ大合議判決の68条の2の判断が「傍論」だと言えるのかについて、篠原先生は次のような説明をしている。 つまり先生の2つ目の論文(知財管理 Vol.67 No,9 (2017) )の1329ページに記載されている通り、特許権侵害訴訟の要件事実を考えると、請求原因事実は基本的には「文言侵害または均等侵害」の該当性(すなわち、原告の特許権、被告の実施行為、被告製品が特許発明の技術的範囲に含まれること)であり、その抗弁事実として「特許権の存続期間の満了」が主張されることとなり、本件では、それに対する再抗弁事実として「特許権の存続期間の延長と68条の2による権利侵害」が主張されることになると捉えることができるのだという。 但し、「特許権の存続期間の満了」という抗弁事実は、そもそも請求原因事実の主張の中に顕れてしまうので、「特許権の存続期間の延長と68条の2による権利侵害」という再抗弁事実の主張も、請求原因事実の主張に“せり上がる”のだという。 したがって、たとえ“せり上がり”によって68条の2に関する主張が請求原因事実の主張の中に顕れているとしても、68条の2に関する判断は本来は再抗弁事実の判断であって、要件事実論的には「技術的範囲の属否」(70条1項)に関する判断こそが本来の請求原因事実に関する判断であり、その順序で捉えるのが筋ということのようだ。

ちなみに本件の要件事実としては、『理系弁護士の日常』ブログでも、今回のオキサリプラチン事件の第一審の判決が出された後の2016年7月24日の投稿で篠原先生と同じような説明がされている。

[『理系弁護士の日常』ブログ「延長された特許権の効力と実質同一物」(2016-07-24)より]
要件事実の観点から、技術的範囲に属する(請求原因)→出願から20年経過(抗弁)→延長された効力の範囲(再抗弁)とすることもできますが、特許の存在の主張の際に出願日が現れることを理由に、技術的範囲に属する+延長された効力の範囲に属する(請求原因)とすることもできます(前者は、実質的同一の範囲が技術的範囲に収まるべきことの確認的な意味合いとして)。

(なお、一審では延長された効力範囲の属否(68条の2)のみが判断され、技術的範囲の属否(70条1項)は判断されなかったので、68条の2の判断が「傍論」か否かという問題は発生せず、当然、上の投稿でも触れられていない。)

さて、これは批判ではなく単なる疑問なのだけれど、延長された特許権の効力範囲に関する大合議判決の判示は、篠原先生の言う通り「傍論」だと言えるのだろうか?

「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」(文言侵害または均等侵害の該当性)ということを本件の請求原因と考えるというのは、要件事実をとても回りくどく捉えているという気がする(だから上のブログの方も2つの考え方を書いているんじゃないのかな?)から、今回の事件で「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」ということが請求原因と言えるのかについて私はそもそも疑問があるけれど、仮に篠原先生の言う“せり上がり”があるということを認めて、「被告製品が技術的範囲に属するから侵害である」ということが、“せり上がり”の陰に埋もれている本来の請求原因だと考えるとしても、出願から20年が経過している場合は、被告製品が技術的範囲に属するか否かを考えるまでもなく、その請求は斥けられるのだから、被告製品が技術的範囲に属するか否かの判断は行う必要はそもそもなく、通常は、判決中にその判断は示されないはずではないか? そうすると、たとえ今回の判決において技術的範囲の属否について判断が示されているとしても、それがせり上がりの陰に埋もれている本来の請求原因に対する判断だと解さなければならない理由はないということになるのではないか?

また2つ目の論文(知財管理 2017年9月号)で篠原先生は、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」(1329ページ)と指摘し、これを理由に68条の2における実質同一の判断よりも技術的範囲の属否の判断を先行させるべきだと指摘しているが、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」か否かは、必ずしも明らかとは言えないと思う。 68条の2には「特許発明の実施」という語句が含まれているので、68条の2に基づく侵害が成立するためには被告製品が特許発明の技術的範囲に属していることが必要だと私も思うが、68条の2に言う「処分の対象となった物」に対する均等物ないし実質的同一物の該当性のみを切り取って判断することは可能かも知れず、その場合に被告製品が特許発明の技術的範囲に属するか否かを判断する必要はないかも知れない。 今回の大合議判決は、技術的範囲の属否の判断を後回しにして実質同一の判断を先行させていることからしても、実質同一を判断するために技術的範囲の属否を判断する必要はないという立場をとっているのではないか? ともかく、私は「特許発明の技術的範囲に属さないものについて『68条の2に基づく侵害成立』は考えられない」ということは正しいとしても、「特許発明の技術的範囲に属さないものについての『均等物ないし実質的同一物』は考えられない」と言えるのかどうかは定かではないと思う。

なお、篠原先生のような詳しい説明ではないものの、大合議判決の68条の2の判断が傍論だということについては、昨年9月6日の投稿で紹介した岡田先生の論文や、6月20日の投稿で紹介した高林先生の論文でも指摘されている。

[岡田吉美, 2017年8月号 (Vol.70 No.8) p.106-115の111ページ]
・・・、仮にその認定が正しいとすると、被告製品はそもそも本件特許の技術的範囲に入らず、特許法68条の2の特許権の効力制限規定を論じるまでもなく特許権の侵害とはならない。特許法68条の2の解釈に関する判示部分は傍論でしかない

[高林龍, IPジャーナル 1号 (2017) 30-38の35ページ]
・・・、本件のY各医薬品は・・・。・・・、本件発明の技術的範囲に属さないのであるから、これが技術的範囲内のさらに限られた発明の実施である保護範囲の延長を認める部分により実施が可能になった範囲内にあるか否かを論ずるまでもない事案であったのであり、この点の判断はすべて傍論と位置付けられるということである。

上記の通り、二人の先生が言っていることは、68条の2の実質同一を判断するまでもなく、特許発明の技術的範囲の属否の判断だけで「非侵害」と言う結論は出せるのだから、68条の2の実質同一に関する判示は傍論だというものだが、これも上と同じ疑問が当てはまる。 すなわち、68条の2の実質同一の判断によって侵害を否定できる場合は、それだけを判断すれば、技術的範囲の属否を判断するまでもなく非侵害という結論は出せるのだから、二人のロジックをそのまま使えば、技術的範囲の属否の判断こそ傍論だと言うこともできるだろうから。 つまり、どちらか1つのみを判断すれば「非侵害」という結論が出せる場合に、どちらが傍論かは一概には分からないはずではないか?

まあ、今回の大合議判決の68条の2の判断を「傍論」だと言いたくなる気持ちは分かる。 今回の大合議判決では、実質同一の判断についてかなり細かい基準が判示されており、これが強い拘束力を発揮するというのでは影響が大きいから。 この事件が大合議で判断されることが決まったとき、私も投稿で、もし「非侵害」という結論を導きたいのなら、被告製品はそもそも本件特許発明の技術的範囲に入らないか、あるいはこの特許は新規性・進歩性がないので無効とされるべきものであるという理由で非侵害にすれば足りるのだから、一審は延長問題に触れない方がよかったのではないかと書いた。 だから、上記の方々が、68条の2に関する大合議の判示は傍論だとみなしたいという気持ちで希望的に論じているのだとしたら、それには同意できるのだけれど。。

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3.効力範囲に関する各説の捉え方について

さて今回の大合議判決では、いわゆる物質特許や剤型特許(用法用量や効能効果に特徴がない特許発明)の場合、延長された特許権の効力が及ぶいわゆる「実質同一」とは、特許権者の医薬品に対して「周知・慣用技術に基づき,一部において ・・・ 付加,転換等しているような場合」なのだと判示された。 もしこの判示を文字通りに硬直的に受け取って、特許権者の医薬品と全く同じか、周知・慣用な違いがあるものにしか延長された特許権の効力は及ばないと解するとしたらどうなるか? 特許権者が何年もかけて臨床試験を行って承認を取った医薬品に関して、薬品の安定性や溶解性を多少向上させる何かちょっとした添加物を追加して後発薬の承認を受けさえすれば、延長された特許権の効力を免れることができることになってしまうかも知れない。 これでは効力範囲が狭すぎると思う人はきっといるだろう。 そうした意見に関して篠原先生は、「いくつかの議論に基づいて、本判決及び原判決のような周知・慣用技術の付加・添加等の考慮要素は無用である、とする以下のような見解がある。」(324ページ)とした上で、以下のような説を挙げている。

@ 有効成分基準説
有効成分を一律に基準とし、それ以外の成分(添加剤)の付加・転換等が周知・慣用技術の応用に過ぎないか否かは問題にせず、すべて実質同一として延長特許権の効力が及び、仮に後発医薬品が製剤技術等において改良発明として特許権を取得していても侵害にしてよいとする説。(なお篠原論文ではこの説に関して「井関涼子, ジュリスト No.1509, 50ページ」が挙げられているが、井関先生は基本的に大合議判決を支持しており、有効成分の物質特許の場合に限っては、有効成分が同じで代替性のある後発薬を抑えられないのは不適当だと指摘しているだけなので念のため。)

A 発明特定事項基準説
特許庁がかつて採用していた立場であり、特許請求の範囲に記載された発明特定事項のうち、処分を受けた医薬品の承認書に記載された事項と対応がつくものについては、承認書の事項に限定して範囲を決定する説。(三枝英二, 知財管理 Vol.60, No.1 (2010) 5-22; 熊谷健一, Law and Technology, No.67 (2015) 66-74; 岡田吉美, パテント Vol.70 No.8 (2017) 106-115)

B 市場競合説
延長された特許権の効力は、処分を受けた医薬品と市場で競合する範囲、ないし、特許発明の独占的実施を保障するのに必要な範囲に及ぶとするもの。(田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452; 愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017; 前田健, Law and Technology No.77, 2017, 70-79)

C 先発医薬品の成果依拠説
本事件の原告が主張した説で、延長された特許権の効力は、先発医薬品の承認に依拠して承認を受けた後発薬に及ぶとするもの。(なお、2017年8月18日の投稿でも紹介した通り、原告代理人を務めた大野聖二先生の論文(知的財産法研究の輪:渋谷達紀教授追悼論文集, 発明推進協会 (2016) 223-232の232ページ)や、高林先生の論文(高林龍, IPジャーナル 1号 (2017) 30-38の37ページ)でも触れられている。)

そして篠原先生は上の4つの説に対して「以下のような反論が考えられる」と書いている。

[知財管理 Vol.68 No.3 (2018) 324ページ(グレーの括弧はこちらで追加したもの)]
(i)(上記@については、)本判決の通り、延長された特許権の効力範囲に関する実質同一は、医薬品としての有効成分や治療効果(有効性・安全性)のみから論じるべきではなく、延長登録制度の趣旨に照らして判断すべきである。 要件論において「物」(特許法68条の2)を有効成分と同一視する旧々審査基準や旧審査基準の考え方は、最高裁平成27年判決により既に否定されている。

(ii)前二説(上記@、A)及び先発医薬品の成果依拠説(上記C)については、先行処分の物質特許により一律に後発医薬品の参入を阻止し得るため、一方的に、先発医薬品側に有利に、後発医薬品側に不利に働き、本判決の趣旨に反する結果を招く。周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素を、制度趣旨に基づく業界双方の調整スキームとして機能させ、斯界全体の見地からバランスを図る必要がある。

(iii)市場競合説(上記B)は、特許法の枠組みの中でこれを徹底することは困難である。特許発明の全体について構成要件ごとに充足性を問題にする技術的範囲の属否判断と、「物」に関する技術的特徴・作用効果の同一性を問題にする効力範囲の判断とを全く同一視することはできない。

(iv)先発医薬品の成果依拠説(上記C)は、後発医薬品の存在意義を否定するに等しい。他人の発明の成果の利用は、試験・研究のためにする特許発明の実施(特許法69条1項)でも予定されており、後発医薬品の承認申請に当たり先発医薬品の試験データを利用することを、「不正競争」(・・・)とか、「不公正な商業的利用」(・・・)などと評価することはできない。

こうした批判に対する感想は、これまでに何回も書いてきた気がする。 上記(i)については、上記の@にも書いた通り、有効成分を基準とする考え方を提示するにあたって井関先生は、有効成分の物質特許に関して特許権者が初めて医薬品の承認を受けて特許を延長したような場合を想定していると思われるが、私も井関先生に同感で、そうした場合に有効成分と効能・効果が特許権者の医薬品と同一であって、特許権者の特許発明にも該当する(つまり特許発明の技術的範囲に属する)医薬品を第三者が販売しようとした場合に、それを抑えられないとすれば不合理だと思う。 篠原先生自身、今回の論文で、有効成分の物質特許が延長されている状況において、「後発医薬品が周知・慣用技術による新たな製剤成分(製剤技術)を採用した口腔内崩壊錠(OD錠)」を実施している場合に、非周知だからといって侵害にできないのはおかしいという趣旨のことを書いている(323ページの右下)。

私は、延長登録の許否判断の場面においては、利害関係のない赤の他人が同じ有効成分と効能効果の先行医薬品を実施していたからといって、自分が新たな製剤技術を使って後発薬の承認を受けた場合に、自分の製剤特許を延長できないのは不合理だと思うから、延長の許否を「有効成分と効能効果」で一律に判断するのは不合理(つまり、先行医薬品を“誰が”実施していたのかを不問にして有効成分と効能効果が同じ先行医薬品があるというだけで一律に延長を拒絶するのは不合理)だと思うし、また、延長された特許権の効力範囲を判断する場面でも、既に特許権者が先行医薬品を独占実施しつつ、代替性のある後行薬品の承認を受けて特許をさらに長い期間延長したような場合に、後行医薬品の承認によって延長された特許権の効力範囲を「後行薬品の有効成分と効能効果が同じ医薬品」としたのでは二重利得を防ぐことができないので不合理だと思うから、「有効成分と効能効果が一致する範囲」というものが常に機械的に適用できるものではないとは思うけれど、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長するような場合にかぎっていえば、延長された特許権の効力範囲が「有効成分と効能効果が同じ範囲」(もちろん、特許発明の技術的範囲内でなければならない)であったとしても、広すぎるとは言えないと思う。 まあ篠原先生もそこは百も承知なのかも知れないけれど。

上記(ii)に関しては、状況による。 上述の通り、特許権者が既に先行医薬品を独占実施しつつ、代替性のある後行薬品の承認を受けて特許を延長したような場合に、延長された特許権の効力範囲を「後行薬品の有効成分と効能効果が同じ医薬品」としたり、「後行薬品に依拠して承認を受けた後発薬」としたのでは、特許権者の二重利得を防ぐことができないので問題だとは思うが、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長するような場合にかぎっていえば、「一方的に、先発医薬品側に有利に、後発医薬品側に不利」とは言えないと思う。

「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素を、制度趣旨に基づく業界双方の調整スキームとして機能させ、斯界全体の見地からバランスを図る必要がある。」という先生の指摘に関しては、状況によってバランスを図る必要があることには同意できるけれど、もし現行法という制約を取り払って考えるのであれば、バランスを図るための手段として「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴という判断要素」を使わなければならない理由はないのではないか。 後述する通り、延長登録の許否判断の場面において「市場競合性」をうまく反映する基準を作っておけば、効力範囲の判断において「周知・慣用技術の添加、転換等に基づく技術的特徴」などという特徴をことさら判断要素にする必要はないように思う。 但し、現行の法制度は、篠原先生も示唆されている通り、延長登録の許否判断の規定がうまく機能していないので、効力範囲の判断の際に「周知・慣用技術の添加、転換」といった要素を“弥縫的”に判断要素としなければ、制度の公平性や妥当性を確保することはできないということは言えるかも知れない。 だから私は大合議判決のような考え方をいつも“弥縫策”と呼んでいる。

上記(iii)に関しては、井関先生の昨年の論文で指摘されていることと同じような内容だが、それに対する反論は既に昨年8月18日の投稿で書いた。 現行条文において市場競合説を十分に反映させることが困難なのはその通りかも知れないが、論文等において制度の在り方を考えるときには、現行条文に囚われる必要はないから、「制度趣旨と衡平の理念」をもとに自由に考えればよいのだし、そもそも市場競合説を“徹底”させる必要はないのだ。 利害関係者や国民が許容できる程度に市場競合が加味された制度ができれば、それでよいのではないか。

「特許発明の全体について構成要件ごとに充足性を問題にする技術的範囲の属否判断と、『物』に関する技術的特徴・作用効果の同一性を問題にする効力範囲の判断とを全く同一視することはできない。」と論じられていることについては、おそらく私は先生の言いたいことが理解できていないかも知れないが、「70条1項の判断と68条の2の判断は同一視できない」ということなのであれば、同一視できないことについては同意できるが、それは市場競合説の是非とはあまり関係がないことのような気もする。 ひょっとすると篠原先生は、「市場競合説」とは、市場競合する限り、特許発明の技術的範囲を超えて効力が及ぶ説だと思っているのかも知れないが、市場競合説を主張する論者は、その効力範囲が特許発明の技術的範囲内であることを当然の前提としているはずだ。

上記(iv)に関しても、井関先生の論文を取り上げた昨年8月18日の投稿で既に書いた。 私は、たとえ後発者が先発者の医薬品の試験データに依拠するのではなく、独自に臨床試験を実施して承認を受けたとしても、先発薬と市場において強く競合し、かつ特許発明の技術的範囲に含まれるような医薬品については、延長した特許権の効力を及ぼしてよい(すなわち、後発者が臨床試験の実施という“努力”や、医薬品の改良という“貢献”を付け足したからといって、権利侵害を免れるものではない)と思っているから、「特許権者の試験データを流用しているか」などということは本来は関係がないと思っているけれど、それはともかく、特許権者が先行医薬品を実施しておらず、特許を1回だけ延長しているような場合において、先発薬に依拠して臨床試験なしに簡易に承認を受けた後発薬の販売行為を抑えることができないのでは、延長制度の意義が問われてしまうと思う。

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私は、上記の@〜Cの説や、大合議が判示したいわゆる「実質同一説」を以下のように理解している。 つまり、そもそも医薬品の特許延長制度はなぜできたのか? 医薬品の開発には多額のコストと時間がかかるのに、医薬品の製造販売には国の規制があり、製造販売承認を受けるために治験を行うなどの時間がさらにかかるから、その分だけ特許期間が短くなってしまい、独占販売できる期間が短かすぎて特許制度が本来果たすべき機能が十分に発揮されない。 だから延長制度はできたのだ。 そして延長制度は、特許権者が医薬品の承認を受けるために必要だった期間だけ特許を延長することにした。 これにより、特許権者が医薬品の承認を受けるために独占実施できなかった期間と同じだけ独占実施できる期間が長くなることになるので、承認を受けるために得られなかった利益が回復できることが期待される。

ここで井関先生は、特許権者が医薬品の承認を受ける間、排他的効力はいささかも侵食されていないと論じている。 パシーフカプセル事件の大合議判決(平成25年(行ケ)10195〜10198)をはじめとする過去の判決でも裁判所は類似した説示を行っているし、他の論者もそれを否定していない。 もしそれが正しいのであれば、他人を排他する権利はそもそも妨げられていなかったのだから、他人を排他する権利の権利期間を延長する必要はないはずだ。 それなのに現行制度では、他人を排他する権利期間が延長されるし、そのこと自体を不当だと思っている人は誰もいない。 これはどういうことだ? 排他的効力は、やはりどこかで侵食されているから延長する必要があるのか、さもなければ、侵食はされていないのだけれど、侵食とは関係なく(つまり、単なる損得勘定で)排他する権利期間を延長する必要があるのか、どちらかだと考えられるのではないか(井関先生は、日本では前者で米国では後者だと指摘しているが、それについては井関先生の論文 (ジュリスト 2017年8月号, No.1509, p.46-52) を参照)。

私は過去の投稿でも説明している通り、日本だろうが米国だろうが、他人を排他する権利期間は現実に侵食されると思っている。 但し、特許権者が医薬品の承認を受けるときに侵食されるというよりは、他人が後発医薬品の承認を受けるときに侵食される(あるいは他人が後発医薬品の承認を受けたときに、その後発医薬品を排他する権利期間が侵食されていたことが明らかとなる)と考えている。 医薬品の承認を受けようとしている間は、その医薬品を実施すること(すなわち承認済み医薬品として製造・販売すること)はできない。 つまり医薬品の承認を受けようとしている期間というのは、その医薬品を誰も実施することはできなかった期間だ。 誰も実施することができなかった以上、実施しうる人はいないのだから、実施している人に対して排他権を行使することもし得なかった。「排他権が侵食されていない状態」というのは、「排他権を行使しうる状態」のことを言うのだから、誰も実施することができず、排他権を行使し得なかった状態を「排他権が侵食されていない状態」と言うことはできない。 医薬品の承認を受けようとしている期間は、排他権も含め、特許権を行使することができない期間であって、排他権も含めて特許権の存続期間は侵食されると理解するのが正しいと思う。 ちなみに承認を受けようとする前の期間はどういう期間かというと、「承認を受けようとすれば直ちに承認されて実施することができるかも知れず、できないかも知れない期間」であって、特許権の存続期間が侵食されている期間とは言えない。 特許権の存続期間が侵食される期間は、その医薬品の承認を受けてみて初めて明らかになるのだ。

このように、排他権を行使しうる期間の侵食は、特許権者が医薬品の承認を受けるときに起こるというよりは、他人が後発医薬品の承認を受けるときに侵食される(あるいは他人が後発医薬品の承認を受けたときに、その後発医薬品を排他する権利期間が侵食されていたことが明らかとなる)のだ。 具体的には、ある後発者が独自に3年かけて臨床試験を行って承認を受けた場合は、「その3年の間は、あなたの後発薬は実施される可能性はなかったわけですが、実施される可能性がなかった以上、それに対して排他権を行使しうる状態ではなかったので、排他権が侵食されていた期間ですね」ということになるし、後発者が先発医薬品に依拠して承認を受けた場合は、「あなたの医薬品は私の先発医薬品に依拠して承認されたわけですが、ということは、私の先発医薬品の承認を受けていた期間はあなたの後発品も実施される可能性がなかったということになります。 その間は、あなたの後発薬に対して排他権を行使しうる状態ではなかったので、あなたの後発薬に対する排他権が侵食されていた期間ですね」ということになる。

しかしそう考える場合、例えば特許権者がまったく医薬品を実施する気がなかった場合に、第三者だけが独自に3年かけて臨床試験を行って承認を受けたとすると、上述のとおり、「その3年は排他権を行使しうる状態ではなかったので、排他権が侵食されていた期間ですね」ということになって、原理的には、その医薬品に対して3年間特許を延長してもよいことになる。 実際、「侵食期間の回復」という原理を貫徹したいのであれば、私はそういう制度にすることもありうると思っているけれど、特許権者が実施する気がないのなら、他人に実施されても、特許権者は事実上不利益を被らないのだから、延長しなくてもいいじゃないかと考えることもできる。 実際、現在の延長制度では、特許権者や実施権者が承認を受けた場合に限って延長を認めているから(67条の3第1項2号)、特許権者や実施権者が実施していない場合は、他人が実施しても延長制度でそれを抑えることはできない。 ここで重要なのは、「事実上不利益を被らないのだから、延長しなくてもいいじゃないか」という考え方は、「侵食期間の回復」という原理から導き出されるものではなく、「損得勘定」から導き出されるものだということだ。 先に言った通り現在の制度は、特許権者や実施権者が実施するときに限って延長できることになっているから、実は現在の延長制度は「侵食期間の回復」という原理を貫徹したものではなく、「損得勘定」を加味して作られている制度だということができるのだ。 「損得勘定」という言い方を少し変えて「帰結主義的な考え方」ということにすれば、現在の延長制度は、そもそも「帰結主義的な考え方」が取り入れられて作られている制度だと私は理解している。

さて、延長された特許権を行使する場面について、「侵食期間の回復」という原理を貫徹する考え方と、帰結主義的に考える考え方(すなわち損得勘定で考える考え方)の2つで考えてみる。 「侵食期間の回復」という原理を貫徹しようとする場合、例えば特許権者は5年かけて承認を受けて5年延長したけれど、後発者は後発薬に関して独自に臨床試験を行って3年で承認を受けた場合、上記の通り、後発者の医薬品に対する排他的効力の侵食期間は「3年ですね」ということなのだから、3年で後発者を参入させるのが侵食期間の回復という原理的には正しい。 また、例えば特許権者が市場代替性のある2つの医薬品の承認を受けて、最初の医薬品(第1の医薬品)では5年延長し、その後、第2の医薬品で3年延長している場合、「侵食期間の回復」という原理を貫徹しようとするならば、3年の延長期間がすぎれば第2の医薬品については後発薬を出してよいことにするのが正しい。 しかしそうすると、3年たつと、第1の医薬品の延長期間はまだ残っているのに第2の医薬品に対する後発薬が市場にあふれることになり、市場競合性がある第1の医薬品の販売は低下してしまう。 せっかく第1の医薬品の延長期間が「5年」あっても、特許権者にとってはほとんど意味がなくなってしまうが、「侵食期間の回復」という原理を貫徹する立場からは、「損得勘定など気にする必要はない」のだから、特許権者が損をしようが知ったことではないということになるだろう。

しかしそういう制度が妥当だとは思わないでしょう? それはなぜか? それは、あなたもこの問題を「帰結主義的」(すなわち損得勘定的)に考えているからだ。 つまり、「侵食期間の回復」という原理を貫徹させるべきだと考えている人など、実は誰もいないのだ。 「侵食期間の回復」という原理を貫徹させるような制度は、そもそも衡平の理念からして採用することはできないのだ。 それに上述のとおり、そもそも延長制度というのは、特許権者や実施権者が実施しようとしていない場合、すなわち他人に実施されても特許権者が損害を被らない場合は、たとえ特許期間の侵食が起きても延長できない制度となっているのだから、制度の成り立ちからして損得勘定に基づいて作られていると言えるのだしね。

このように、延長登録の許否判断の場面において、特許権者が実施していない場合は、他人に実施されても特許権者は事実上損をしないのだからと帰結的に考えて延長を認めないことにされているのと同じように、延長された特許権の効力を何に対して及ぼせばよいかを考えるにあたっても、「侵食期間の回復」という原理をことさら重視するのではなく、帰結的(すなわち損得勘定的)に妥当な結果が得られることを目指すべきだと言えるのではないか? そして帰結的に見て「妥当な結果」とは、「特許期間が侵食されたことにより特許権者が被る不利益をなるべく過不足なく回復させること」であることに異論はないだろうから、延長された特許権の効力が及ぶべき対象は、特許発明の技術的範囲のすべてではなく、「(特許期間の侵食により特許が早く満了して他人に実施されてしまうことにより)特許権者が不利益を被るもの」で十分であり、たとえ特許発明の技術的範囲に含まれるものであっても、それが実施されても特許権者が不利益を被らないものに対しては及ぼす必要はないということになるだろう。 どういうものを実施されたときに不利益を被るかというと、特許権者の医薬品と市場で競合するような医薬品を他人に販売されたときに不利益を被るのだから、延長された特許権の効力が及ぶべき対象は、「特許権者の医薬品と市場競合性のある医薬品」であるということは、自然に導くことができる。 これについては、昨年の7月31日の投稿でも説明した。

すなわち、現在の条文や最高裁判決などはとりあえずわきに置いて、延長制度の趣旨と衡平性の観点から考えていけば、延長された特許権の効力範囲として理論的にもっとも妥当なのは、篠原論文で挙げられている諸説のうちで「B 市場競合説」ということになる。 つまり「市場競合説」というのは、制度趣旨と衡平性から考えた場合に導かれる理論的な正解なのだ。

但し、それを制度として落とし込むためには工夫が必要となる。 「市場競合する範囲」というのが具体的にどういう範囲なのかは不明確だし、予測可能性が低い。 それに、競合性が低く、わずかしか競合しないのに権利行使できることにするのは帰結的(損得勘定的)に考えても妥当性が低いから、ある程度高い競合性があるものに限って権利行使できるようにすることが必要だろう。 だから、あるべき延長制度を考えるにあたって我々がやるべきことは、「高い市場競合性がある範囲」というものを判断しやすくし、予測性を上げることによって、延長制度を効率的に運用できるようにすることだ。 例えば、「高い市場競合性がある範囲」を、より具体的で予測性の高い言葉で表現された範囲に置き換えることはできないか? 例えば「有効成分と効能・効果が同じ範囲」はどうだろうか? 「先発医薬品に依拠して承認を受けられる範囲」はどうだろうか? 上記の「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」というのは、いずれも「高い市場競合性がある範囲」の予測性を上げるための代替案となりうるものだ(それらの説を唱えている人がそれを意図しているか否かはともかく)。

篠原論文に掲載されている「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」というのは、そういう視点で理解されるべきものだと私は思う。 「有効成分と効能効果」が同一の医薬品が、特許発明としての技術的な観点から見て特許権者の先発医薬品と実質的に同一であると本気で信じ込もうとしたり、逆にそれを批判したりするのは不毛だ。 「有効成分と効能効果」が同一の範囲というのは、「高い市場競合性がある範囲」の代替表現に過ぎないのだから。 「先発医薬品に依拠して承認を受けた後発薬」が、特許発明としての技術的な観点から見て特許権者の先発医薬品と実質的に同一であると本気で信じ込もうとしたり、逆にそれを批判したりするのも不毛だ。 「先発医薬品に依拠して承認を受けた後発薬」というのは、「高い市場競合性がある範囲」の代替表現に過ぎないのだから。 私は「@ 有効成分基準説」や「C 先発医薬品の成果依拠説」をそういう視点で捉えているから、例えば「成果依拠説」に対して「69条1項は試験・研究における使用を認めている」などという主張を見るともどかしく感じてしまう。 「私は帰結的(損得勘定的)に考えて成果依拠説でもまあまあ妥当な結果が出せるかも知れないと考えているだけなんです。 あたなたも帰結的に考えてください。」と言いたくなってしまう。 これは別に篠原先生に言いたいわけではないけれど、もし「成果依拠説」ではダメだと思う人がいるのなら、「成果依拠説」で制度運用した場合に具体的にどういう場合にどういう不都合が生じるのかをぜひ例示してくださいと言いたいのだ。 単に理念的に「試験・研究における使用は認められている」という反論は不毛であって、結果としてどういう不都合が生じるのかで議論してくださいと思うのだ。

A 発明特定事項基準説」や、今回大合議判決が判示した「実質同一説」も、そういう観点で検証されるべきものだと思う。 「実質同一説」のことを、条文と特許発明の観点から導き出される考え方であって、損得勘定などまるで気にしていない考え方だと思っている人がいるかも知れないが、実際には違うでしょう? 冒頭で言った通り、大合議判決は「衡平の理念」を大切にして判断しているのだ。 「衡平の理念」にもとる帰結をもたらすような解釈運用はできないというのなら、それは帰結主義的に考えているということでもあるでしょう? 「衡平の理念」は帰結主義を要求するのだ。

以上のことを踏まえつつ、各説がどういうものであるのかを示せば、以下のようになる。

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特許庁が採用した「発明特定事項基準説」というのは、たとえ後行医薬品が先行医薬品と市場競合するようなものであっても特許発明の技術的範囲に先行医薬品が含まれていない限りは延長できることを決めた「パシーフカプセル事件」の最判を受けて、どうやって制度の妥当性を確保するかを目指して作られた考え方であり、大合議判決が採った「実質同一説」は、「アバスチン事件」の最判によって、原則、承認ごとに延長できるようになった事態を受けて、どうやって制度の妥当性を確保するかを目指した考え方だ。 どちらも特許法の条文や最判という制約のもとでかなり無理をしている考え方であり、もしそういった制約がないのであれば(すなわち、制度改正を視野に入れて考えるのであれば)、そもそも採用する必要はない考え方だと思う。 それに対して「有効成分基準説」や「成果依拠説」は、「市場競合する範囲」というものを、より予測性が高い基準に代替するという観点で評価されるべきものだと思うが、市場で競合する似たような医薬品を複数回延長した場合にどうやって制度の妥当性を確保するかについてはあまり考えられていないから、制度改正によって、似たような医薬品については延長できないようにするとか、延長の終期をそろえるなど、別途対策を考える必要があるだろう。

それぞれの説の妥当性は、なにを制約として考えるかによって変わる。 つまり、条文や最判の制約や、重複延長があることを前提とするか否かによって変わる。

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4.「連動論」

篠原先生がこれまでの3つの論文で一貫して論じているのが「連動論」だ。 「連動論」とは、分かりやすく言えば、“一度延長したら再延長を認めない範囲”(67条の3第1項1号)と “延長された特許権の効力範囲”(68条の2)とを一致させる考え方だ。 篠原先生も論じている通り、過去の2つの最高裁判決(パシーフカプセル事件とアバスチン事件)によって現在では登録要件が著しく緩和され、医薬品の成分や用量・用法などの承認事項が一部でも異なり、新たな承認が必要であった医薬品については、たとえ先行医薬品と非常に高い代替性を持つものであっても原則として新たな延長が可能となっている。 もし、延長されたそれぞれの特許権の効力範囲にそれなりの幅がある場合、効力範囲同士が重なり合うことになるが、後行承認の延長期間の方が長いと、重なり合っている領域では、すでに排他権が及んでいるところがさらに延びることになるので、一見して不適切であることは明らかだろう。 篠原先生はこの問題を解決するために2つの範囲を連動させることを示唆しており、今回の論文の脚注48では条文の改正案も提示されている。

私は、現在の状況は由々しき事態だと思うし、篠原先生がこの問題を積極的に取り上げていることはとても重要だと思う。 しかしながら、これまでにも書いている通り、「連動」させるだけでは、この問題を根本的に解決することはできない。 これについては2017年7月31日の投稿で書いたし、2017年10月5日の投稿でも書いたが、「同じ市場をターゲットとする医薬品について異なる複数の延長期間が設定されることを避ける」ことが重要なのだ。 例えば代替性のある医薬品A1と医薬品A2という2つの医薬品があって、「連動論」が採用されているとする。 すなわち、医薬品A1で延長した場合、延長した特許権の効力範囲には医薬品A2は含まれず、医薬品A2で延長した場合、延長した特許権の効力範囲には医薬品A1は含まれないとする。 例えば、特許権者がまず医薬品A1で5年延長した場合、たとえ医薬品A2を3年で出すことが可能で、A2の方が利便性が高く患者にとって好ましいとしても、医薬品A2では3年しか延長することができず、3年たてばA2の後発薬が市場に出てきてA1の独占状態も侵されてしまうことを考えれば、特許権者は医薬品A2を3年で出すことを躊躇するだろう。 たとえよい薬を早期に出せるとしても、出すのをやめるか、あるいは何らかの理由をつけて医薬品A2の臨床試験を5年に引き延ばして5年の延長期間を確保するという選択を採るしかなくなる。 逆に、特許権者がまず医薬品A1で3年延長した場合、医薬品A2を5年かけて承認を受ければA2については5年延長することができるが、そのままでは3年たつとA1の後発薬が出てきてA2の市場も脅かされる。 もし特許権者が、医薬品A1には稀な副作用が起きるリスクが医薬品A2よりも高いかも知れないと主張できるようなデータを持っていたり、薬剤の安定性がA2よりも劣るというデータを持っていたり、取扱いが煩雑で誤用が起きる可能性があると主張できる場合、それを理由に厚労省に働きかけて医薬品A1を販売できなくすることができれば、A1の後発薬は市場に出てこないことになるので、事実上の市場独占を3年から5年に引き延ばすことができる。 すると特許権者としては、そういう状況を作り出すことでより多くの利益を上げようとするかも知れない。

このように、たとえ「連動論」を採用しても、高い市場競合性のある範囲内に複数の延長期間を設定することが可能な制度である限りは、特許権者としては、それを利用して利益を最大化することについて動機が働くことになる。 それを食い止められるかは「特許権者のモラル」にかかっているが、モラルに頼らなければならないような制度を作るべきではないでしょう?

大事なのは「連動」させることではなく、「市場競合性のある範囲では複数の延長期間を設定できないようにすること」だ。 旧々審査基準では、延長要件の範囲として「有効成分と効能・効果が同一の範囲」が採用され、かつ効力範囲としても同じ範囲が採用されると解されていた(すなわち「連動論」が採用されていた)が、この旧々審査基準がなぜ比較的うまく行っていたかと言えば、それは「連動論」が採用されていたからというよりは、「有効成分と効能・効果が同一の範囲」というものが、「市場競合性のある範囲」を事実上規定するものであったからだ。 米国や欧州は「有効成分」というもので範囲を設定する制度となっており、そうした制度が曲がりなりにも運用されているのは、「有効成分が同一の範囲」というものが、「市場競合性のある範囲」を事実上規定するものとして機能しているからだ。 「市場競合性のある範囲」というものを区切りとして延長要件を規定することは延長制度において非常に意味があると思われるのに、現在の日本では2つの最判によってそれが崩れてしまった。 こういう言い方をすると最高裁が悪いみたいになるが、そもそも条文が悪いのだから、最高裁はよくぞ崩してくれたと言ってもいいのかも知れない。 ともかく、市場競合性を反映する範囲設定が失われたところに現在の延長制度が混乱している原因があるので、制度改正を考える場合は、「連動論」を目指すのではなく、延長要件において市場競合性を反映した範囲設定を取り戻すことを目指すべきだ。

とは言え、たとえ先行医薬品と市場競合性があるとしても、剤型変更や投与経路の変更によって需要が何倍にも増加するような後行医薬品については、延長を認めなければ帰結的に見ても不公平になるし、先行医薬品を独占販売していたのが赤の他人である場合は、延長登録が拒絶されるのはおかしい。 したがって、一筋縄に範囲を設定することはなかなか難しく、単に旧々審査基準に戻せばよいというものではない。 今回の混乱を踏まえて、より合理的な基準作り、つまり、旧々審査基準を超えるだけでなく、諸外国の延長制度をも超える基準作りを目指すことができればよいのだけれど。

なお篠原先生の論文では、市場競合性を考慮して延長要件を判断する考え方について、「EUのSPC(追加保護証明書)制度にならい」(327ページ)と書かれているが、この考え方はSPC制度と特に関係があるわけではないと思う。 確かに井関先生の論文(ジュリスト 2017年8月号 (No. 1509) の49ページ)では、この考え方がSPC制度にからめて論じられているが、それは昨年8月18日の投稿で書いた通り、井関先生は、市場競合性を考慮する考え方を「特許“”の考え方」だと言いたかったから、特許法とは別の制度として作られたSPC制度を引き合いに出しただけで、内容に特に関連性があるわけではない。

井関先生は、これまでの論文では「市場競合説」に反対されているけれど、その理由は、医薬品の承認を受ける間も排他権は侵食されておらず、広範な効力範囲を与えることになる「市場競合説」は、侵食された権利を侵食された期間だけ回復させるという制度の趣旨に沿っていないと考えているからだろう。 しかし上述の通り、医薬品の承認を受ける間は、誰も実施することができない以上、その医薬品に対する排他権を行使しうる状態とは言えず、その医薬品に対する排他権は侵食されていたと考える方が妥当だと私は思う。 もし井関先生がそれを受け入れられるのなら、先生が「市場競合説」を否定しなければならない大きな理由はなくなるはずだと思う。 私も自分の考え方が本当に正しいのかには少し自信がないけれど、こうして何回も何回も書いていたら、嘘も百回のごとく、だんだん信じられるようになってきたから、井関先生もそのうち信じてくれるようになるのではないかしら。^^

また、2017年9月28日の投稿でも書いた通り、市場競合性を考慮して延長要件を判断する考え方については、前田先生の2015年論文(神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44)で既に打ち出されている。 アバスチン最判によって、前田先生のような立場は現在の法制度のままでは採りづらくなってしまったことから、その後の前田先生の論文ではこの論点はあまり見られなくなっているけれど、篠原先生がこうやって制度改正の可能性にまで踏み込んで考察を進めているのを見ると、前田先生にもぜひ、市場競合性を加味した延長要件論を再び積極的に展開してもらいたいと感じてしまう。

そして、「市場競合性」という概念を初めて延長問題に取り入れて論じた田村先生(特許判例ガイド 第2版, 2000, 260ページ)にも、「市場競合性」という概念をぜひ延長要件論に取り入れて、帰結的にも納得のいく延長制度論を完成させてくれることを期待したい。 なにしろ田村先生は帰結主義論者のゆうだから。^^


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2018年01月22日

マキサカルシトール事件大合議判決は高林説を否定したのか(Sotoku 9号)(出願時同効材の均等論第5要件と出願人の帰責性)


Sotoku, 通号9号, 1-40 (2018) (published online on 22-01-2018)

タイトル: 出願時同効材の均等論適用に関する「マキサカルシトール事件」の知財高裁大合議判決(平成27年(ネ)第10014号)はボールスプライン軸受事件(平成6年(オ)1083号)で最高裁が示した5要件を判断したものであったのか、それとも単に“融通性のある文言解釈”を行ったに過ぎないのか

著者:  想特 一三 (Sotoku Ichizo)

出願時同効材の均等論適用に関する「マキサカルシトール事件」の知財高裁大合議判決(平成27年(ネ)第10014号)はボールスプライン軸受事件(平成6年(オ)第1083号)で最高裁が示した5要件を判断したものであったのか、それとも単に“融通性のある文言解釈”を行ったに過ぎないのか


*    *    *

『マキサカルシトール事件』の最高裁判決に関しては、前回の投稿で書いた高林先生の『標準特許法 第6版』につづき、田中孝一元最高裁調査官による最判解説が掲載された『年報知的財産法2017-2018』(日本評論社)が先月出版され、さらにほぼ同時に、本命となる田中先生による調査官解説が『法曹時報』の12月号に掲載された。

それにしても、田中先生による(と思われる)『マキサカルシトール事件』判決の解説は、これまでにいくつ読んだだろうか。

 ・田中孝一, Law and Technology No.76 (2017) 70-80
 ・田中孝一, ジュリスト No.1511 (2017年10月号) 106-109
 ・判例タイムズ No.1440 (2017年11月号) 117-125 (匿名解説)
 ・判例時報 No.2349 (2017) 76-83 (匿名解説)
 ・田中孝一, 「年報知的財産法2017-2018」 (高林龍・三村量一・上野達弘 編) 日本評論社 (2017) 14-24
 ・田中孝一, 法曹時報 Vol.69, No. 12 (2017) 3847-3878
 ・・・

しかも内容は基本的に同じなのだ。 まぁ、書いてあることが違っていたら逆に変だが・・・。

*     *     *

さて、9月20日の投稿でも書いた通り、今回の均等論の大合議判決(平成27年(ネ)10014)や最高裁判決(平成28(受)1242)については、「特許侵害」という最終結論については反対はしないものの、第5要件の判断基準の判示については私は批判的で、裁判所が示した判断基準は特許権者に対して甘すぎだと思う。 そして本稿の「6.」〜「8.」節に書いた通り、私と同じように思っているであろう人たちは他にもいると思われるのだが、判決後に出された論文の中で、判決に対する批判をはっきりと打ち出したようなものは残念ながらほとんど見当たらない。 愛知先生の「Law and Technology No.74 (2017) 75-83」(82ページ)くらいだろうか。 愛知先生はその論文の中で、「 ……、本大合議判決は、…。……と述べる。 しかし、…… ではなかろうか。 さらに、……と説く。 しかし、……。 …… ではないだろうか。」(82ページ)という感じで、大合議判決の説示に反論されている。 しかしそうした反論も大合議判決までで、最高裁判決に関する愛知先生の評論(TKCローライブラリー 新・判例解説Watch 文献No. z18817009-00-111131515)では、かえって逆方向、つまり出願時同効材が明細書ではなく出願人(特許権者)の論文に記載されている場合に関して特許権者を擁護するような考察が行われているだけで、特許権者に対して甘すぎるという論調はなくなってしまった。

しかしそれでいいのでしょうか・・・・?

ということで、今さらだが大合議判決の評釈を書いた。

なぜ「最高裁判決」に対する評釈ではなく「大合議判決」に対する評釈なのかというと、最高裁判決は、原審(大合議判決)の「第5要件」の判断の是非についてのみ判示を行い、「第1要件」に関しては判示を行わなかったからだ。 しかし本稿で詳しく説明する通り、「第5要件」だけを検討したのでは、今回の大合議判決で知財高裁がしたことの全体像は分からない。 それを理解するためには、大合議判決の「第1要件」と「第5要件」をセットで検討することが不可欠だと思う。

「第5要件」に関して大合議判決は、出願時同効材を「出願人が,出願時に,・・・ 代替するものとして認識していたものと客観的,外形的にみて認められるとき,例えば,・・・ 明細書に ・・・ 記載しているとみることができるとき ・・・ は, ・・・ 第5要件における『特段の事情』に当たる」と説示した。 しかし、明細書や出願人の論文に記載されているときに限って第5要件で均等を否定すればよいなどという基準は、見るからに硬直的だ。 また、クレームしていないものに対し、特許権者が後出し的に「均等だ」と主張することを容易にしてしまう点で、特許権者のモラルハザードを助長する基準だと思う。 それなのに最高裁判決は、大合議判決が示したこの「第5要件」の基準を基本的に是認してしまった。 これらに対する批判は本稿の「11.」節までに書いた。

しかしより注目すべきだと思うのは、特許侵害の判断のエキスパートである知財高裁が、「第5要件」に関してなぜあのような説示を行ってしまったのかということだ。 そして、それを理解する鍵となるのが「第1要件」に関して大合議が説示した内容であって、「第1要件」の判示と「第5要件」の判示を合せて考えることで、今回の事件で大合議がしたことの意味が見えてくるというのが今回の Sotoku 9号 の内容だ。 その意味で、本稿が意義深いものとなるかどうかは、大合議判決の「第1要件」の判示について検討を行っている「12.」節に同感してもらえるか否かにかかっている。 しかし「第1要件」は技術的な内容が関わるところでもあり、読む人にどれほど同感してもらえるかは少し自信がない。 私の言っていることが間違っておらず、人に同感してもらえるものであればいいのだが・・・。

*     *     *

ところで前回の投稿で話題にした通り、早大の高林龍先生は、出願時同効材に対する均等論の適用には否定的で、出願時同効材に対しては均等論を適用するのではなく「文言解釈に柔軟性を持たせることで十分」だと論じていた(『標準特許法 第5版』有斐閣 2014, 155頁)。 これが高林先生の「融通性のある文言解釈」論だ。

私が高林先生の「融通性のある文言解釈」論を知った当初は、失礼ながら正直に言って、「なにまた変なこと言ってんの?」と思っていた。 なにしろ、ボールスプラインの最高裁判決で均等論が認められることとなり、最高裁調査官を務めた三村量一先生の判例解説(最高裁判所判例解説 民事篇 平10年度(上), 2001 法曹会, 112-185頁)において、「出願時同効材」についても基本的にはボールスプライン最判の5要件が適用されることが明言され、仮に均等を否定する必要がある場合は「第5要件」で否定することがはっきりと論じられているのだから、今後はその線に合わせて考えていけばよいものを、高林先生一人が均等論の適用を否定して「融通性のある文言解釈」を使えと唱えたところで、他の人はなかなかその考え方に乗れるものではないのではないか。

事実、高林先生の「融通性のある文言解釈」論は、ほとんど誰も乗ることはなく、今回の判決で否定されるような恰好になってしまったことは前回の投稿で書いた。

ところが、だ

本稿の「12.」節を読んで納得できるのなら同感してもらえるだろうが、今回の大合議判決の判決文を読むと、「第1要件」の判断に関して大合議がやっていることは、実質的には「融通性のある文言解釈」となんら変わらないではないか!

すなわち大合議判決は、表向きは高林説をきっぱり否定しているにもかかわらず、「第1要件」の判断でやっていることはまさに高林説なのだ。 つまり本稿の本文中にも書いたように、「高林説を否定しようとして、図らずも高林説で判断してしまった」のが、今回の大合議判決だというのが私の理解だ。 そこが今回の大合議判決の面白いところであり、また、そういうことだったのかと納得できるところだと思う。(つまり大合議がやったことはまだ分かる。 それに対して、「第1要件」の判断に触れることなく、大合議が行った「第5要件」の判断だけを切り取って是認してしまった最高裁は救いようがない。)

高林先生に関しては、こういう「気が付けば高林説」ということは結構あるような気がしている。 例えばプロダクト・バイ・プロセス・クレームの解釈に関しては、「物同一説」と「製法限定説」の対立があり、高林先生は「製法限定説」を支持しながらも、たとえ「物同一説」で解釈しても、権利行使できる範囲は「製法限定説」と同じだと論じていた(知的財産権 法理と提言 (牧野傘寿記念) 青林書院, 2013, 302-320の319ページ)。 この発言も、「物同一説」論者からすれば、「なに変なこと言ってんの」という感じだろう。 「物同一説」の方が広いに決まっているではないかと。 しかし実際には、Sotoku 通号6号 の脚注42で取り上げた通り、高林説は真実を突いている。 「物同一説」で権利行使したくても、物の構造が分からない限りは、「物同一説」で権利行使しようがないのだから。 「プラバスタチンナトリウム事件」で最高裁は「物同一説」を判示したが、それでどうなる? 不可能・非実際的事情を満たすPBPクレームのほとんどは、物の構造が分からない以上、「製法限定説」でしか権利行使のしようがない。 このようにPBPクレームの解釈問題に関しても、いずれは高林先生の言っている通りだったということになっていくだろう。

また、本稿の中でも取り上げているが、均等論の判断に関して高林先生は、「第1要件」には、「第1要件」〜「第5要件」のすべての要件が含まれていて、「第1要件」〜「第5要件」のすべてが均等成立の要件を満たしたときに、初めて「第1要件」は満たされるということを論じている。 これも多くの人は、「ボールスプライン事件で最高裁がせっかく要件を5つに分けたのに、なんでまた混ぜこぜにするのか」と思っているだろう。 例えば『知的財産法の要件事実 (法科大学院要件事実研究所報第14号)』(2016, 日本評論社) で伊藤滋夫先生は、高林先生のこの考え方を理解困難だと批判している。 かくいう私も、安易に混ぜこぜにすることに対しては批判的ではあるが、本稿の「12.」節で書いた通り、今回の大合議判決で知財高裁自身が事実上そういう判断(つまり、「第1要件」の中に「第5要件」の要素を混ぜ込んで判断すること)を行っているのを見ると、あながち高林先生の考え方を否定すればよいというものでもない気がしてくる。 むしろ多くの裁判官にとっては、そういう考え方の方がぴったりくる、あるいは、そういう考え方しかできないのかも知れない。

このように高林先生の言っていることは、一見するとおかしいと思うことでも、知らないうちに高林先生の考え方に戻ってきてしまう。 今回の大合議判決は、高林説が持つマジックのような一面を象徴していると思う。

*     *     *

ところで今回の Sotoku 9号では、わりと強引に「高林説は実質的には三村説や大野説と同じである」ということにしてしまった。 しかし、これには私の希望も入っているかも知れない。 「融通性のある文言解釈論」は実質上「均等論」と同じであることは高林先生自身も認めているのだから、高林先生には、これからは自説を「均等論」として論じてもらい、他の人も乗りやすい考え方を説いてもらう方がよいのではないかな、と思っている。

なお、京大の愛知先生の考え方に関しても、できれば三村説や大野説の仲間にしたかったのだけれど、愛知先生の書いたものを読む限り、それはちょっと難しそうだったので、申し訳ないと思いつつ本稿では愛知説だけ仲間外れのように扱ってしまった。 しかし本稿でも紹介した通り、大合議判決後に書かれた愛知先生の論文(上述の L&T Vol.74)を読む限り、三村説に近づいている感じもする。 三村・高林・愛知・大野、そして出願時同効材に関して出願人の帰責性(換言すれば、クレームの文言が第三者に与える「それはクレームされていない」という客観的・外形的理解)を考慮すべきだと思っているすべての方々には、これからもあるべき均等論を論じて頂くことを期待しよう。

最後に、今回の Sotoku 9号では、大合議判決や最判の判示を素直に受け取り、「出願時同効材が明細書等に記載されていない限りは、基本的には第5要件の特段の事情には当たらない」という判示だと捉えている。 しかしこれについては、最高裁判決のもとでも、出願時同効材が本当に容易に記載できたはずのものである場合には、たとえ明細書等に記載されていなくても、「出願人はあえてクレームに記載しない旨を表示しているも同然だ」と捉えて均等を否定することも、解釈論として不可能ではないかも知れない。 しかし、私は初めからそういう立場は採りたくないのだ。 この判決を素直に受け取ったのでは問題があるということを認識してもらった上で、それを補うためにどういう解釈論が必要かを模索するというのならともかく、判決を批判せずにそういう立場をとってしまうと、すべてはたまむし色になり学説の進展が望めなくなる。 本稿では論点をはっきりさせるために、判決は「明細書等の記載」という明確な外形的証拠がない限りは出願人の帰責性を不問にすることを判示したと解し、それが不適切だと論じた。 今回の判決に対する私の解釈が正しくないというのなら、この判決を支持した側(すなわち高林・三村・愛知・大野を批判した側)にこそ、解釈論を論じて頂くことが求められるだろう。


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2017年12月20日

『高林龍 標準特許法 第6版 有斐閣 2017』(均等論 高林説)


「マキサカルシトール事件」の知財高裁大合議判決(平成27年(ネ)10014;2016年3月25日判決)は、「出願時同効材」(出願時に既に存在していた代替物質や代替技術)に対する均等論の考え方について新たな規範を打ち立てた。 知財高裁所に所長として在任中、この判決に裁判長として関わったのが設樂隆一先生(現、森・濱田松本法律事務所)だ。

その判決では、「出願時同効材」に対する均等論の第5要件について、出願人が明細書においてその出願時同効材を記載しているとみることができるなど、出願人が出願時に同効材として認識していたものと客観的・外形的にみて認められるときには第5要件によって均等論の適用を否定する旨が判示された。 逆に言えば、出願人が出願時に同効材として認識していたという客観的・外形的な証拠がない場合は、出願時同効材についても基本的には均等論の適用を認めるということになる。 約1年後に最高裁で出された上告審の判決(平成28年(受)1242)でも、まぁ、基本的には知財高裁が出した判決と同じ方向の判示がなされている。

ところで、「出願時同効材」の均等論の適用に関して早大の高林先生は、この大合議判決が出されるよりも前に次のように指摘していた。

[高林龍, 標準特許法第5版, 有斐閣 2014, 154ページ]
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[同155ページ]
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[同156ページ]
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上の2つの引用(154ページと155ページ)は、2002年に発行された『標準特許法』の第1版にも記載されている(129、131ページ)。 つまりボールスプライン事件の最高裁判決(1998年)が出てそれほど経っていない2002年から、第5版が出版された2014年に至るまで、高林先生は一貫して、出願時同効材に対して均等論を適用することには慎重な立場をとっており、融通性のある文言解釈を適用すれば十分だと言い続けていたわけだ。

*    *    *

これとは反対の立場をとっていた(ように見える)のが、前述の設樂元判事で、設樂先生は2015年に次のような論稿を出している。

[設樂隆一, 日本工業所有権法学会年報 38号 (均等論,覚醒が死か) 有斐閣 2015, 251-271の258ページ]
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上記の通り高林先生は出願時同効材の均等論について、「文言解釈に柔軟性を持たせることで十分」だと指摘しているのに対して、設樂先生は「クレームの文言を柔軟に解釈したとしても、文言解釈の範囲に含まれないケースについて、均等論の適用が検討されることになる」と指摘している。 これは高林説をやんわりと否定しているようにみえるね。

それだけじゃない。 設樂先生はもっと直接的に以下のように書いている。

[同264ページ]
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[同264ページ]
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[同265ページ]
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[同265ページ]
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[同266ページ]
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[同270ページ]
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この論稿が掲載された論文集(日本工業所有権法学会年報38号)の発行日は2015年5月31日。 均等論をテーマにした学会自体は約1年前に行われて設樂先生も出席している。

そして、「マキサカルシトール事件」の一審判決(平成25年(ワ)4040号;東京地裁民事29部嶋末和秀裁判長)が出されたのは2014年12月24日だから、上記の設樂先生の論稿が出た時は、「マキサカルシトール事件」の一審判決は既に終わっていて、控訴審が知財高裁で係属していたことになる。 しかも当時、設樂先生は知財高裁の所長だった(所長在任期間:2014年6月〜2017年1月)。

設樂先生といえば、ボールスプライン最判が出る前の1996年にも均等論に関する長い論文(法曹時報48(6) 1319-1378、48(8) 1691-1741)を書いているし、ボールスプライン最判後も、2006年に出願時同効材への均等論の適用に関して肯定的な論文を書いている(金融・商事判例, No. 1236, 2006-03, 48-57, 2006)。 歴代の判事の中でも、もっとも均等論に精通していた一人と言えるのではないか。

当然、設樂先生としては、所長の間に機会があれば出願時同効材に対する均等論の考え方について、裁判長として判決を出せればよいと思っていただろうと思うし、「マキサカルシトール事件」はまさにうってつけの題材だった。 上記の2015年の学会年報38号の設樂先生の論文は、「やるぞ」という意気込みのように見えるね。 「高林説や愛知説を否定するぞ」という。

そして2016年1月、知財高裁はこの事件を大合議で審議することを公表し、3月25日に大合議判決(2015年(ネ)10014)が出た。 その判決では、上述の通り出願時同効材に対しても均等論は適用されることが明らかされた。 その判示によれば、たとえ出願時にその同効材が既に知られており、当業者であれば容易にクレームすることができたという事情があったとしても、そのような事情は、基本的には均等論の適用を否定する理由にはならないことになる。

つまり、高林説は否定されたわけだ。 少なくともそれが表見的な見方ではないか。

実際、大合議判決の意義について設樂先生は、退官後のある講演で、判決前には「出願時同効材」に対する均等成立に否定的な有力学説があったことを紹介した上で、そうした学説と知財高裁(椅子式エアマッサージ事件判決)とは対立があったので、「出願時同効材」に対する知財高裁の立場を明らかにしたのだということを話されていたようだ。

*    *    *

それで?

高林先生はどうするのか?

9月20日の投稿でも書いた通り、マキサカルシトール事件を受けて高林先生が「出願時同効材」に対する均等論の考え方をどう変えていくのか、それとも変えないのかについて、私は生温かい目(笑)で見守っているし、きっとそういう人は他にもいるだろうと思うけれど、判決後、均等論に関する高林先生の論文が全然出ない。。 愛知先生は判決後に幾つか書いているけれど、高林先生の論文はこれまでに公表されていない。

しかーし!

とうとうその時が来た。 『標準特許法第6版』の出版だ。 “律儀な改訂”のたまものだ。 この『標準特許法』という本、初学者等を対象とする本であるはずなのに、上で紹介した設樂先生の論文の中でも『標準特許法』が引用されている通り、研究者や実務家の論文でも引用されてしまう本なのだ。 それは『標準特許法』がすばらしいテキストだから・・・・、かどうかはともかく、高林先生自身の考え方、つまり必ずしも定説になっていない高林先生の自説が記載されている本だからだ。 これについては高林先生自身が以下のように書いている。

[高林龍, 標準特許法第5版, 有斐閣 2014, 「はじめに」より]
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特許法のテキストで言えば、北大の田村先生の『知的財産法』なども同じだろう。 初学者にとっては良し悪しかも知れないが、自説が書いてある本はやはり面白い。

さて、先日出版されたばかりの『標準特許法第6版』。 「マキサカルシトール事件」判決を受けて、「出願時同効材」の均等論に関する記載はどう変わったか? さっそく、上で引用した第5版に対応する第6版の箇所を見てみよう。

[高林龍, 標準特許法第6版, 有斐閣 2017, 161-162ページ]
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[同162ページ]
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[同163ページ]
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ぜんぜん変わってないじゃん(笑)。

但し、上の赤マルをつけたところに「注」が追加されていて、そこに以下のような記載が追加されている。

[同163-164ページ]
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(注:これ以外にも、第6版では「マキサカルシトール事件」について何か所かで取り上げられています。)

自説は変えず、判決を「但し書き」で追加しましたか。。。

これをどう捉えればよいのですかねぇ? マキサカルシトール最判は、高林先生の自説を否定したものではないと考えているということ? 高林説は、マキサカルシトール最判のもとでも引き続き成り立つと? それとも、否定はされたけど自説は変えないよ、ということ?

まあ、高林先生はIPジャーナル1号(2017.6)でも、最判は「当然の前提として尊重すべき」(37ページ)だと書いているし、初学者も対象とするテキストではなおさら判決を否定的に扱うことはできないと思うので、これはこれでしょうがないのかも知れないけれど、なにかモヤモヤしたものを感じますな。。 「マキサカルシトール事件」の判決は、「出願時同効材」に対しても均等論を適用するということを判示したわけだ。 しかも、出願時に容易であったからといって均等を否定する理由にはならないということも明らかにしたわけだ。 その判決を引用しながら、なお「出願時同効材は、均等論ではなく融通性のある文言解釈で」と説くことをどうやって整合的に理解すればよいのだろうか?

ただし、今回の第6版の「あとがき」を読んで、そういうモヤモヤ感を生じさせるであろうことは高林先生も意識されているのかも知れないなと思った。 というのも、この本は2002年の初版以来、これまできっちり3年ごとに改訂され続けていて、前回の第5版の帯は次のようになっていた。

[標準特許法 第5版 の帯]
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この「律儀な改訂、重なる信頼」というキャッチフレーズはすごく面白いので、今回の第6版の帯ではどうなるのだろうと思っていたら、第6版の帯は次のようになっていて、「律儀な改訂」という面白いフレーズは小さな文字のところで引き続き使われているのだけれど、「重なる信頼」というフレーズは省かれている。

[標準特許法 第6版 の帯]
20171220_takabayashi_hyoujun_tokkyohou_6han_obi.png

そして、これに関連するのか、高林先生は第6版の「あとがき」で、この第6版では、均等論などの判決についていろいろと盛り込んだことを述べた上で、次のように書かれている。

[高林龍, 標準特許法第6版, 有斐閣 2017 「第6版あとがき」より]
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なにしろ、「出願時同効材は、均等論ではなく“融通性のある文言解釈で”」と説く本書に、マキサカルシトール事件の判決を盛り込んでいるのだからね。^^ これを整合的に理解するのは、まさしく「複雑で難解」、道筋は見えにくいと言えそうだ。

しかし、かくいう私は「マキサカルシトール事件」判決の第5要件に関する説示には賛成していないから、そういう立場からすれば、本書に漂うモヤモヤ感は、本書が悪いというよりは、判決を含めた現在の特許制度の状況の方に問題がある。 ここ数年に出た特許制度に関する重要判決、例えば、医薬品の特許延長制度をめぐる一連の判決、プロダクト・バイ・プロセス・クレームで「物同一性説」を判示した最高裁判決、そして「出願時同効材」の均等論に対して、証拠がない限り出願人の帰責性を不問にするかのような判決をしてしまったマキサカルシトール事件判決、そのどれをとっても、特許制度が長年にわたって抱えてきた問題を綺麗に解決したというよりは、せっかくの重要判決も何かしっくりこない。 むしろこれらの問題を解決することの難しさを改めて認識させる結果になったという方が適切ではないか。

当たり前ながら現在の特許制度は、簡潔で完璧な制度ではない。 解決が難しい問題と、不完全な条文と、確定して変えようのない判決と、それを補うために多少無理をした解釈とから成り立っており、ここ数年の判決や、立て続けに行われた審査基準や審査ハンドブックの改訂などによって、そのことはひときわ明らかになったような気がする。 つまり今回の『標準特許法 第6版』に漂うモヤモヤ感は、現在の特許制度が抱えるモヤモヤ感がそのまま映し出されたものだとも言えるように思う。

*    *    *

ということで、高林先生がぜんぜん変わってなさそうなことも確認できたので、私も安心して、高林説をネタにして書いてきた Sotoku 9号 を仕上げてそのうち出そうと思う。 ^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

市場競合性のある範囲で延長期間を統一することが求められる理由(愛知靖之 判例評論702号170-177頁 2017)


愛知 靖之
最新判例批評 ([2017] 26) 先行する製造販売承認と特許権の存続期間延長登録の要件 − アバスチン事件 [最高裁第三小法廷平成27.11.17判決]
判例評論 (第702号) 170-177 (2017)

今回は京大の愛知靖之先生の論文を取り上げたい。 愛知先生は、医薬品特許延長問題については今回が初めて書いた論文ではないか。 愛知先生の論文は、途中までは田村説に非常に考え方が近く、これはひょっとして田村説と同じ結論に行くのではないか! っと思って読み進めたら、最後は違う結論になっていた。 しかし、両者を比較しながら検討すると意義深いと思うので、以下に比較しながら見て行きたい。 また、私がなぜ両先生とは違う考えを持っているのかについても最後に説明したい。

1.延長制度の趣旨

延長制度の趣旨について田村先生は、2015年論文(AIPPI Vol.60 206-236, 2015)や2017年論文(知的財産法政策学研究 Vol.49 389-452, 2017)において、“二本柱”というたとえを用いて以下のように論じている。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の400-401ページ]
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特許権者が医薬品の承認を受けようとする間は、特許権者はその医薬品を製造販売(すなわち“実施”)することはできない一方、その間も、第三者の実施に対して差止めや損害賠償を請求することは妨げられていなかったというのが、田村先生に限らず多くの論者の理解だ。 したがって、医薬品の承認を受ける間にも、特許権の「禁止権」にあたる部分は存在していたということになるから、医薬品の承認を受ける間に損なわれたのは「実施」の部分だけということになる。 そうすると、延長制度において延長する必要があるのは「実施」の部分だけで、「禁止」の部分は延長する必要はないということになりそうだが、これについて田村先生は上記の通り、特許法というのは「禁止権」の存在だけでは保護として不十分なのであり、『禁止権+実施』という“二本柱”が備わって「初めて保護が万全となる」と論じ、医薬品の承認を受けようとする間は、「この二本柱の一つが欠けていた時期」であるから、この二本柱が備わる期間を追加するのが延長制度の趣旨なのだと論じていた。

これに対して愛知先生は、“両輪”というたとえを用いて以下のように論じている。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の172ページ]
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つまり、医薬品の承認を受ける間に損なわれたのは「実施」の部分だけであるという考え方について愛知先生は、特許制度というのは「実施」と「排他性」両輪として独占的実施を特許権者に認める制度であると論じ、医薬品の承認を受けようとする間は「実施」ができないため、「実施と排他性」という両輪の一方が脱落している状態であり、独占的実施を保障するという特許制度の趣旨が全うされていないので、独占的実施が保障された状態を回復させるために設けられたのが延長制度だと論じている。

禁止+実施」という「二本柱」が備わって「初めて保護が万全となる」と論じる田村先生に対して、愛知先生も「実施と排他性」という「両輪」が備わって初めて、独占的実施を保証するという「特許制度の趣旨が全う」されると論じている。 延長制度の趣旨の説明において、二人の先生の間に差はないと言ってよいのではないか。 私は2015年に田村先生の論文を読んだとき、「二本柱」という言葉がとても奇妙に思えたのだが、慣れてきたせいか、最近はこれはこれでいいのかなと思うようになってきた。。 もちろん、8月18日にも投稿した通り、医薬品の承認を受ける間は禁止権も損なわれているのであって、禁止権は損なわれていないという両先生の理解は間違いだとは思っているが。


2.延長の可否

延長の可否の判断基準についても、二人の先生は高度な一致を見せている。 アバスチン事件の最高裁判決において最高裁は、以下のように説示した。

平成26年(行ヒ)356 より]
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上に引用した通り最高裁は、先行医薬品の製造販売が、本件医薬品の製造販売を包含するときは、延長は認められないと説示している。 私には、「製造販売が・・・製造販売を包含する」という日本語がそもそもよく分からないのだが、最高裁はこれについて以下のように解説している。

[平成26年(行ヒ)356 より]
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つまり、先行医薬品ではXELOX療法との併用療法のためのこの医薬品を製造販売することはできなかったが、本件処分によって、この併用療法が「初めてこれが可能となった」と説示した。

この「併用療法が初めて可能となった」という最高裁の説示を、田村先生は以下のように、「新たな市場・新たな需要」を開拓したことだと捉えた。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の408ページ]
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そして田村先生は、先行医薬品に対してたとえ成分・用法・用量などが異なる医薬品の承認を受けたとしても、新たな市場・新たな需要を開拓したとは言えないような医薬品については延長を認める必要はなく、新たな市場・新たな需要を開拓したと言える場合に限って延長を認めるべきだと論じた(以下に引用)。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の416ページ]
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これに対して愛知先生も、最高裁はXELOX療法との併用が「初めて可能となった」ことを考慮に入れていると論じ、用法・用量が異なれば直ちに延長が認められるわけではないことが示唆されていると論じた(以下に引用)。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の175ページ]
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そして、先行医薬品の実施には包含されない治療法を可能とした場合や、適用対象を広げた場合は、延長を認めてさしつかえないのだと論じた(以下に引用)。

[判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の175ページ]
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まぁ、上記の解釈は、周知の添加剤等を先行医薬品に加えるだけで再び延長ができるのはおかしいと思っている人が、XELOX療法との併用療法が「初めて可能となった」と説示して延長を認めた最高裁判決を読んだ場合に自然にたどり着く結論とも言えるかも知れない。

しかし田村先生と愛知先生の考え方は、もっと細部まで一致している。 田村先生は、先行医薬品が錠剤であって、後行医薬品がOD錠のような場合であっても、咀嚼が困難であった需要者を捕捉しうるようになったのであれば、延長は認められるべきだと論じていた(以下に引用)。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の417ページ]
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これに対して愛知先生も今回の論文において、OD錠により嚥下障害患者が服用可能となったのであれば、延長は認められるべきだと論じた(以下に引用)。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の175ページ]
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このように田村先生と愛知先生との間には、延長の可否基準の考え方についても差はないと言ってよいのではないか。 但し気になるのは、延長の要件について愛知先生は次のようにも述べていることだ。

172ページ
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174ページ
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つまり、承認を受けなければ実施行為ができなかったのなら延長は認められるべきだと論じている。 しかしそうであれば、基本的には医薬品の処分ごとに延長を認めることになるのではないか? なぜなら、後行医薬品によって先行医薬品に比べて適用範囲が広がろうが、同じであろうが、後行医薬品の実施行為(すなわち特許権者による後行医薬品の製造・販売行為)は、後行医薬品に対する処分を受けなければ不可能だったからだ。 後行医薬品という特許発明を実施(製造・販売)しうる状態であったのか否かと、後行医薬品の実施によって適用対象を広げたのか否かは違う概念だから、愛知先生が一体何を延長の条件だと捉えているのか、愛知先生が論じていることに矛盾はないのかがやや気になる。 しかし、まぁ上に引用した175ページの「・・・治療法を可能とする場合や、・・・適応対象を広げる・・・場合」という言い方や、「・・・治療法が可能になった、あるいは、・・・服用が可能となったというケースなど」という言い方からすれば、少なくともこの論文の結論としては、“治療”や“適用対象(患者)”の実質的な違いを重視するということだろうから、そう考えて話を進める。


3.連動論について

連動論とは、延長の可否の判断基準と延長された特許権の効力の判断基準とを一致させ、既に延長された特許権の効力が及んでいる範囲についてはさらなる延長を認めないことによって、延長された特許権の効力範囲が重なり合う「重畳延長」を防ぐという考え方だが、これについても二人の先生の考え方はかなり近い。

例えば田村先生は、連動論について次のように論じていた。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の396-397ページ]
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[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の399-400ページ]
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すなわち田村先生は、アバスチン大合議判決は連動論を採用しないとの立場を鮮明にしていると評し、上告審である最高裁判決も、延長の可否(67条の3第1項1号)の判断基準の説示において、延長された特許権の効力範囲(68条の2)の規定になんら触れることはなかったことからすれば、両者を連動させる必要はないとの立場を示したとみるべきだと論じた。

これに対して愛知先生も、今回の論文で連動論に固執すべきではないと論じている(以下に引用)。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の174ページ]
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そしてアバスチン大合議判決については、連動論を明確に退けたとの見解を示した(以下に引用)。

[同174ページ]
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そしてアバスチン最高裁判決についても、68条の2に全く言及していないことからして、少なくとも積極的に両者を一致させようとする配慮が働いているわけではないことは間違いないと論じた(以下に引用)。

[同174ページ]
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ここまで見てきた通り、田村先生と愛知先生の見解は、「延長制度の趣旨」および「延長の可否の判断基準」において一致しており、「連動論」が不要だとする立場であることも一致している。 ここまで一致していると、もう二人の先生の考え方は違いようがなく、「延長された特許権の効力範囲」の考え方についても一致するのだろうと思いたくなるが、次に見るようにこれについては分かれてしまう。


4.延長された特許権の効力範囲

「1.延長制度の趣旨」のところで見た通り、田村先生も愛知先生も、医薬品の承認を受ける間は、特許権者は「実施」が妨げられているために特許制度の趣旨が貫徹されておらず、それを補うために延長制度はある旨を論じている。 特に愛知先生は、延長制度は『特許権者に「特許発明の独占的実施」が保障された状態を回復させる』制度だと論じている(172ページ中段)。 そうすると、延長された特許権の効力は、特許権者の特許発明の独占的実施を実現できる範囲に及ばなければならない。 実際、愛知先生は以下のように論じている。

[同174ページ]
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[同175-176ページ]
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特許権者に「特許発明の独占的実施」を保障するためにはどうすればよいか。 特許権者が実施する医薬品と市場で競合する医薬品(であって、特許権者の特許発明に該当する医薬品)を第三者に実施されてしまっては、特許権者の「特許発明の独占的実施」は侵されてしまう。 したがって、延長制度で禁止する必要がある範囲は、特許権者が実施する医薬品と市場で競合する範囲だ (当然、特許発明の技術的範囲内という縛りはあるが)というのが田村先生の考えだ。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の428ページ]
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特許権者が1つの医薬品しか実施していないことを前提にすれば、私は田村先生の結論になるはずだと思う。 前回投稿した通り、神戸大の前田先生も2015年論文(神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44)以来、田村先生と同じことを論じている。 ところが今回の論文で、愛知先生はその結論を退けてしまう。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の177ページ 注23]
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上に引用した通り、愛知先生が田村先生の結論を退けた理由は以下の2つだ。

(1)「市場を同じくする範囲」は、68条の2の趣旨を超えないのかについて疑問があること
(2)「市場を同じくする範囲」というものの範囲が明確ではなく、予測可能性を害すること

そして愛知先生は、「延長された特許権の効力範囲」を「後発医薬品に該当する範囲」とすることが、基準の明確性・予見可能性という観点からして一考に値するように思われると述べて論文を締めくくった(以下に引用)。

[愛知靖之, 判例時報2333号(判例評論702号)170-177, 2017の176ページ]
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*     *     *

(1)愛知先生が思っている『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』とは何なのか?

上に引用した通り、延長された特許権の効力範囲に関して愛知先生は、『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』に及ぶべきだと指摘している。 もし愛知先生が、市場を同じくする特許発明を第三者に実施されてしまっては特許発明の独占的実施は果たされないのだから、『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』とは『市場を同じくする範囲』(もちろん特許発明の技術的範囲内という縛りがあるのは当然)だと論じ、理論的には延長された特許権の効力を「市場を同じくする(特許発明の)範囲」にまで及ぼしてよいのだが、それでは具体的な範囲が不明確だから、明確性を担保するために「後発医薬品に該当する範囲」に設定することを提唱すると論じているのならまだ分かりやすかった。 前回投稿した通り前田先生は、まさにそういう理由で延長した特許権の効力範囲を「後発医薬品」に設定することも一案だと論じている。

しかし愛知先生はそう論じるのではなく、上に引用した脚注22に記載されている通り、「市場を同じくする(特許発明の)範囲」は、『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』を超えないのかについて「疑問が残る」と言っている。 ということは、愛知先生が思っている『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』は、『市場を同じくする特許発明の範囲』よりも狭いのだろうか? まさか、特許権者の医薬品と全く同じ物(例えば名前だけ変えた物)を第三者が実施することさえ禁止すれば、独占実施は一応は果たされると考えているわけではないはずだが・・・。 井関先生にも言えることだが、「特許発明の独占的実施」を保障する範囲というものがどのような範囲であるのかについて、もう少し明確に考えを書いて欲しい。

これは私の想像だが、愛知先生が「市場を同じくする範囲」を広すぎると感じる理由は、8月18日の投稿で取り上げた井関先生と同じであって、特許権者が医薬品の承認を受けている間は禁止権は損なわれていないと思っているからではないか。 禁止権は損なわれていないと思っていると、延長した特許権で特許権者の実施と競合するところを完全に禁止したのでは回復させすぎだと感じることになるから、延長した特許権の効力範囲は、特許権者の実施と競合するところを完全に禁止するよりもなにがしか狭い範囲に制限しないと延長の趣旨に反すると感じることになってしまう。 そうした感覚が、「市場を同じくする範囲」は延長制度の趣旨を超えるのではないかという疑問につながっているような気がする。

あるいは、市場を同じくする複数の医薬品について特許権者が延長した場合に効力範囲が重なり合ってしまうことをおもんぱかっているのだろうか?

今回の論文には、『特許権者の「特許発明の独占的実施」を保障するのに必要な範囲』というものが、より具体的にはどういう範囲であるのかについては詳しくは論じられていないので、愛知先生が具体的にどういう範囲を想定しているのかは今後の論文を待つしかない。

(2)後行医薬品が先行医薬品に対して適用対象を広げたかどうかはどうやって判断するのか?

愛知先生は今回の論文において上記の通り、後行医薬品が、先行医薬品と比較して、新たな治療法を可能とする場合や、適用対象を広げる(または適用対象を変更する)場合などには延長を認めてよいと論じ、OD錠でも、嚥下能力の低い人も飲めるようになったのであれば延長は認められると論じている。 しかし、適用対象が広がったのかを、具体的にどうやって判断するのか? 実際にそのような患者が一人以上(または何人以上)いることを条件とするのか? それとも、実際にそのような患者がいるか否かにかかわらず、OD錠は飲みやすいのだから適用対象は拡大するはずだと理念的に考えて延長を認めるのだろうか?

アバスチン事件においても、先行医薬品では適用が2週間毎の投与に限られており、FOLFOX療法との併用しかできなかったところ、後行医薬品によって3週間毎の投与が可能となったことからXELOX療法との併用もできるようになった(すなわち新たな療法が可能となった)ことが、延長が認められたポイントであるかのように論じられているが、FOLFOX療法(2週間毎の投与)とXELOX療法(3週間毎の投与)は同時に受けるわけにはいかないのだから、アバスチンを併用療法で使う人は、2週間毎か3週間毎のどちらかを選ぶことになる。 そうすると、XELOX療法でアバスチンを使う患者が増えれば、FOLFOX療法でアバスチンを使う患者は、少なくとも減るはずで、たとえ後行医薬品でXELOX療法との併用が初めて可能となったとしても、XELOX療法においてアバスチンを使用する患者の増加がそのままアバスチンの需要の純増を意味するわけではない。 XELOX療法との併用が可能となったというだけで、適用対象が拡大したと言えるのだろうか? 「3週間毎の方が2週間毎よりも通院負担が少ないのだから利便性は向上するはず」などとも言われるが、ならば先行医薬品が「3週間毎の投与」で後行医薬品が「2週間毎の投与」の場合は延長は拒絶するのか? 仕事のスケジュールの関係で2週間毎でなければ通院できない人もいたかも知れないのに?

このように考えると、適用対象が拡大したのかを判断するのは実際にはなかなか困難で、結局は、成分・用法・用量などのいずれかが異なりさえすれば、それにより初めて使用するようになった患者がいなかったとは言えないということで、すべて延長が認められることになってしまいそうだ。

愛知先生は、「市場を同じくする範囲」というものを延長の区切りとする考え方、すなわち、上述の通り、延長された特許権の効力を「市場を同じくする範囲」に及ぼせという田村先生や前田先生の説や、前田先生が2015年論文で論じていたように、特許権者が既に先行医薬品を独占実施していたのであれば、それと市場を同じくする範囲については後行医薬品の承認による延長を認めるべきではないという考え方については、範囲が明確ではなく予測可能性に乏しいことを理由に反対する一方で、「適用を広げるもの」については延長を認めてよいのだと論じ、予見性や明確性を問題にしていない。 しかし実際に適用を広げたのか否かを判断することは、「市場を同じくする範囲」を判断することと同じくらい予見性や明確性に乏しいのではないかと私は思う。

つまり、後行医薬品が実際に適用範囲を広げたのか否かがもし判断できるというのなら、「市場を同じくする範囲」というものも判断できるはずだと言ってよい気がするし、逆に、適用範囲を広げたのか否かを、実際に広げたか否かで判断するのではなく、成分・効能・効果・用法・用量等の違いに基づいて形式的に判断する(つまり、現実に適用範囲が広がっているか否かは気にしない)ことにするというのなら、「市場を同じくする範囲」というものも、同じように形式的に決めて判断する制度とすることも考えられてよいように思う。


(3)適用対象を広げたかどうかを判断基準とすることは、パシーフ事件の最高裁判決と矛盾しないか

上の(2)で、アバスチンの後行承認によってアバスチンの適用場面が実質的に拡大したと言えるのかは、用法・用量の違いから直ちに明らかとは言えないことについて述べた。 しかし、アバスチンの後行承認で延長を認めることは最高裁(平成26年(行ヒ)356)が決めたことなのだから、文句があるなら愛知先生や田村先生にではなく最高裁に言ってくれということだろう。 だから私は以前から最高裁判決(特に平成21年(行ヒ)326の方)を批判している。 パシーフカプセル事件の最高裁判決(平成21年(行ヒ)326)は、後行医薬品の承認を受けて延長しようとする特許のクレームの技術的範囲に先行医薬品が属しないときは、その後行医薬品は「承認を受けることが必要であったとは認められないということはできない」と説示し、クレームの範囲に先行医薬品が含まれていない限りは延長が認められる旨を判示した(以下に引用)。

平成21年(行ヒ)326 判決文 2ページ目]
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このパシーフカプセル事件の最高裁判決がいかにおかしな帰結となるのかは、2月8日の投稿で説明した。 パシーフカプセル事件の最高裁判決によれば、後行医薬品が、先行医薬品を含まないような別特許になってさえいれば、後行医薬品がどれほど先行医薬品と似ていようが、その特許の延長は認められる。 例えばある有効成分の物質特許を出願した場合に、「その有効成分を含む溶液」という請求項について分割出願しておけば、凍結乾燥製剤の先行医薬品の承認を受けた後で、液剤の承認を受ければその特許を延長することができる。 「その有効成分を含む錠剤」というクレームで分割出願をしておけば、カプセル剤の先行医薬品の承認を受けた後で、錠剤に剤型を変えて承認を受ければ、その特許を延長することができる。 先行医薬品を含まない別特許としておくことはいともたやすい。 “発明”として同一でない限りは別特許にすることは可能なのだから、「新たな療法が可能になったのか」や、「新たな市場を開拓したのか」などということは関係がない。 そういうわずかな違いしかないものについてパシーフカプセル事件の最高裁判決は、承認を受けることは必要だったと判示したわけで、この最高裁判決が出された時点で、現在の延長制度が、このままではまともな延長制度にならないことは確定したようなものだ。

すなわち、パシーフカプセル事件の最高裁判決によって、いわば現在の延長制度は詰んだ。 もう何でもかんでも延長を認めることにするしかない。 私はアバスチン事件の最高裁判決(平成26年(行ヒ)356)はそういう判決だと捉えていて、成分・効能・効果・用法・用量等のいずれかが異なっていれば、基本的に何でもかんでも延長は認められるのだという判決だと思っている。 だからアバスチン事件の最高裁判決が出たときに、わりと好意的に受け止めた。 何でもかんでも延長が認められるのがおかしいのは明らかだから、この判決で、現在の延長制度がまともな延長制度にならないことは明らかになるだろう。 そして世間の人も、現在の延長制度に対しては完全に諦めがついて、みんなで新しい制度づくりに向かって進んでいけると思った。 だから2015年11月15日の投稿で、「これから議論して適切な制度を作っていくことが必要」と書いた。

ところが学者や裁判官たちはそうは思っていない。 アバスチン事件の最高裁判決の「XELOX療法・・・との併用療法・・・が,本件処分によって初めてこれが可能となったものである」という説示をことさらに捉えて何とかしようとしている。 パシーフカプセル事件の最高裁判決は、別特許になっている程度の違いでも「承認を受けることが必要であったとは認められないということはできない」と判示したのだから、もしアバスチン事件の最高裁判決を「新たな療法が可能とならない限りは承認を受けることが必要であったとは認められない」という判示だと解するとすれば、パシーフカプセル事件の最高裁判決と相容れないことになるのではないか? 別特許になっている程度の違いでも「承認を受ける必要はあった」とみなして延長を認めたパシーフ事件の最高裁判決と矛盾なく理解するには、アバスチン事件の最高裁判決は「成分・効能・効果・用法・用量等のいずれかが異なっていれば、承認を受ける必要があるのであり、延長は認められる」と解するのが自然な解釈だろう。 そして実際の医薬品の承認においても、既存の医薬品と成分・効能・効果・用法・用量等のいずれかが異なっていれば別途承認を受ける必要があるのだから、それが当然といえば当然だろう。


(4)延長された特許権の効力範囲を「市場を同じくする範囲」に設定することと、「後発医薬品」に設定することの違いがもたらすもの

上述の通り、愛知先生と田村先生は、延長された特許権の効力範囲の解釈において考え方が大きく異なっており、田村先生は「市場を同じくする範囲」に及ぼすことを提唱している一方、愛知先生は、それでは68条の2の趣旨を超えないのかに疑問があり、また予測可能性に乏しいことを理由に「後発医薬品に該当する範囲」に及ぼすことを示唆している。 2つの説の違いにより、具体的に何が変わるのかを考えてみる。

例えば特許権者が有効成分の物質特許を持っているとする。 以下の円を、その特許のクレームの範囲とする。
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そして、クレームの範囲内の医薬品について、特許権者が3年をかけて承認を受けて、特許を3年延長したとする。 赤い点はその医薬品を表しており、そのすぐ外側の赤い一点鎖線の円は、後発薬として承認を受けうる範囲を表しており、一番外側の赤い点線の円は、市場を同じくする範囲を表している。 市場を同じくする範囲は、クレームの範囲をはみ出すだろうが、もちろん田村説においても、延長した特許権の効力範囲自体はクレームの技術的範囲をはみ出ることはない。

なお、本来は平面的な集合の図としては描けないものを無理やり集合の図のように描いているので、多少おかしいところは大目に。。

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その後、特許権者は、第2の医薬品について、2年をかけて承認を受けたとする。 もし第2の医薬品が第1の医薬品の後発薬として承認されうるようなものであれば、臨床試験は要らないからすぐに承認を受けられるのだろうが、今回の例では、後発薬として承認を受けられるようなものではない(すなわち、第2の医薬品は赤い一点鎖線の外側に位置している)と仮定する。 青い点は第2の医薬品を表しており、青い一点鎖線の円は後発薬として承認されうる範囲を、青い点線の円は市場を同じくする範囲を表している。 第2の医薬品は、ターゲットとする市場は第1の医薬品と大半は重なるが、第1の医薬品よりも適用範囲が拡大した部分(すなわち赤い点線の円の外側になっている部分)もある。

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適用範囲が拡大した部分があるのだから、愛知説でも田村説でも、延長は認められるだろう。 そして特許権者は特許を2年延長したとする。 そしてその後、特許権者は、第3の医薬品について、5年をかけて承認を受けたとする。 緑の点は第3の医薬品を表しており、緑の一点鎖線の円は後発薬として承認されうる範囲を、緑の点線の円は市場を同じくする範囲を表している。 第3の医薬品は、赤い一点鎖線や青い一点鎖線の内側には入っていない(つまり、先行医薬品の後発薬として承認を受けられるようなものではなく、したがって5年の臨床試験が必要だったわけだ)。 第3の医薬品は、ターゲットとする市場は2つの先行医薬品と大半は重なるが、適用範囲が拡大した部分もある。

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適用範囲が拡大した部分があるのだから、愛知説でも田村説でも、延長は認められるだろう。 そして特許権者は特許を5年延長したとする。

さて、田村説の場合、延長された特許権の効力は、その医薬品と市場を同じくする範囲にまで及ぶべきだと論じているから、第1の医薬品の延長では以下の赤い色をつけた領域が3年延長されることになる。

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そして、第2の延長では、以下の青い領域が2年延長される。 上の赤い領域と下の青い領域は重なり合うことになるが、両方の効力が重畳的に及ぶことになるので、重なり合う領域は事実上、延長期間が長い方が終わるまでは後発者は参入することができない。 第1の医薬品の延長期間は3年で、第2の医薬品の延長期間は2年だから、赤い領域と青い領域が重なり合う領域は、3年間は後発者は参入することができない。

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そして、第3の延長では、以下の緑の領域が5年延長される。

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緑の領域は、赤い領域や青い領域と大半の領域が重なり合うことになるが、重なり合う領域は、事実上、延長期間が長い方に統一されるので、第3の医薬品の延長により、その領域は5年の延長に切り替わることになる。 また、第1〜第3の医薬品の後発薬として承認されうる医薬品の範囲(赤、青、緑の一点鎖線の円)は、(図のように緑で塗った領域にすっぽり含まれるのではなく、実際にははみ出る部分もあるかも知れないが、)基本的には緑で塗った領域に大きくかぶることになるだろうから、緑の領域への適用をすべて除外したような後発薬の承認を取ることが薬事制度的に可能なのであればともかく、そうでなければ後発者は、5年が経つまでは、第1〜第3の医薬品のいずれの後発薬も販売することはできない。

このように田村説では、いったん延長すれば広い範囲において延長期間が確保され、その後、短い期間で後行医薬品の承認を受けても延長期間が短くなることはなく、後行医薬品の承認を長い時間をかけて受けると、延長期間をさらに延ばすことができる。 結局のところ、大半の領域の延長期間は、事実上、一連の複数の医薬品の承認のうち、もっとも長く時間がかかった期間に統一されることになる。 特許権者としては、初めの医薬品についてはとにかく短期間で承認をうけて独占販売を開始して利益を上げつつ、後行医薬品の承認を5年をかけて受けることにより、大半の領域について延長期間を事実上5年に切り替えることができるため、特許権者に有利過ぎるし、モラルハザードを招く制度設計だと思う。

これに対して愛知説はどうなるかというと、第1〜第3の医薬品の後発薬として承認されうる範囲なので、以下の3つの一点鎖線の円で示した領域が、延長された特許権の効力が及ぶ範囲となる。 重なり合う領域については、重畳的に効力が及ぶことになるのだろうから、事実上、長い方に統一されることになる。

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そうすると、特許権の本来の満了日(出願から20年)から2年経てば、第2の医薬品(図中、青で示した医薬品)については後発薬を出せることになってしまう。 しかし第2の医薬品は、第1の医薬品や第3の医薬品と市場の大半は重なり合っているから、第2の医薬品の後発薬が市場に出てきてしまうと、特許権者の第2の医薬品の市場シェアだけでなく、特許権者の第1の医薬品や第3の医薬品の市場シェアまでが奪われることになるだろう。

このように、特許権者が複数の医薬品の承認を受けて複数回特許を延長した場合、延長した特許権の効力を、田村説のように「市場を同じくする範囲」に重畳的に及ぼすことにすると、最も長い延長期間が終わるまでは後発者は何も参入できない制度になる一方で、愛知説のように「後発薬として承認されうる範囲」に及ぼすことにすると、最も短い延長期間が終わればその後発薬が参入してきてしまい、特許権者の他の医薬品の市場までが荒らされることになってしまう。 つまり田村説を採るか、愛知説を採るかで、両極端な結果になってしまうのだ。

但し愛知説の場合、特許権者としては、「最初の延長期間より短い延長しかできない後行医薬品の承認は受けない」という戦略を採ることにより、不利益を受けないように自衛することができる。 上の例で言えば、第2の医薬品の延長期間(2年)は第1の医薬品の延長期間(3年)よりも短いから、第2の医薬品の承認を受けると特許権者は損をしてしまうかも知れない。 したがって、そのような医薬品は開発しないか、あるいは、何らかの理由を付けて臨床試験期間を長引かせ、必ず先行医薬品よりも長い延長期間を確保するようにすれば、不利益を受けることを回避することができるだろう。 その意味では、田村説よりは愛知説の方がまだいいということは言えそうだ。 しかしこれでは特許権者に対して、たとえ短い期間で出せる後行医薬品があるとしても敢えて出さないことによって負けないゲームを行うことを許すという恰好になってしまう。 そのような制度にしてしまってよいのかという問題はある。


(5)愛知説の場合、自由市場であれば適用対象を広げたかどうかを判断する必要はない

愛知説において、第1の医薬品の延長期間が3年で、第2の医薬品の延長期間が5年であった場合を考えてみる。 下図では、第1の医薬品が赤で、第2の医薬品が青で示されている。

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この場合、特許権の本来の満了日から3年が経つと、第1の医薬品の後発薬が市場に出てくることになる。 それにより、特許権者の第1の医薬品の市場シェアが奪われることになるだけでなく、特許権者の第2の医薬品の市場シェアも奪われることになる。 なぜなら両者の市場は大半が重複しているからだ。 しかし、第1の医薬品の後発薬によって市場シェアが低下するのは、基本的には第1の医薬品の市場範囲に限られるだろうから、その外側の領域の市場については後発薬によって侵されることはない。 そうすると、第2の医薬品の市場範囲であって、第1の医薬品の市場範囲の外側に位置する領域(下図で影を付けた部分)は、後発薬によって侵されることはない。 したがって、この領域の市場から受ける利益は、第2の医薬品の延長期間(5年)が切れるまでは守られることになる。

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この領域は、第1の医薬品に対して第2の医薬品が「新たに開拓した市場」に相当する。 つまり第2の医薬品で延長したことにより特許権者が得られる利益として、「新たに開拓した市場」から得られる利益だけは守られることになる。 そして愛知先生も田村先生も、第2の医薬品で延長を許容する理由は、まさに第2の医薬品が「新たな市場」を開拓した(または新たな適用を可能とした)ことにある旨を論じているのだから、第2の医薬品で延長したことにより「新たに開拓した市場」から得られる利益“だけ”を確保してやることは理にかなっているだろう。

なお、仮に第1の医薬品と第2の医薬品の市場範囲が全く同一である場合、すなわち、第2の医薬品が「新たな市場」を開拓していない場合に、第1の医薬品で3年延長し、第2の医薬品で5年延長したとする。 この場合、第1の医薬品の延長期間(3年)が切れて第1の医薬品の後発薬が出てくると、第2の医薬品の市場シェアも奪われてしまい、第2の医薬品で5年延長したことの意味がなくなってしまうかも知れない。 しかし、第2の医薬品が、第1の医薬品に対して「新たな市場」を開拓するものではないのなら、そもそも延長する必要はなかったのだから、5年延長したことの意味がなくなってしまうことは理にかなっている。

このように、延長された特許権の効力を「後発薬」に設定した場合、延長の可否判断の場面において、わざわざ「新たな市場を開拓したか否か」を判断することなく延長を認めても、おおよそ妥当な結果が得られるように見える。 「新たな市場を開拓したか否か」は、第1の医薬品の後発薬が参入してくることにより、市場原理により自動的に判断されることになり、「新たな市場を開拓した部分」があれば、その部分については第2の医薬品の延長期間が終わるまでは守られ、「新たな市場を開拓した部分」がなければ、第1の医薬品の後発薬が参入することにより、第2の医薬品で延長したことの意味は自然となくなることになる。 したがって、上記の(2)で問題にした、「後行医薬品が先行医薬品に対して適用対象を広げたかどうかはどうやって判断するのか」という点については、そもそも判断する必要はないじゃないか、ということになる。

私が2014年にSotoku 1号を書いた当時は、これと類似したことを考えていた。 つまり、後発医薬品に権利行使できる特許の延長期間は、その後発薬の承認を受けるにあたって依拠した先行医薬品の延長期間だということにしておけば、たとえ特許権者の似たような複数の医薬品に関して、延長期間の異なる複数の延長を認めたとしても、後発者は、どの先行医薬品の後発薬を出すかを自由に選択することができるのだから不利益を受けないだろうと考えていた。


(6)市場原理が働かない医薬品市場においては、市場原理を前提とする制度設計はできない

上の(5)で説明したように、延長された特許権の効力範囲を後発薬に設定すれば、特許権者による複数の延長を許容しても問題は起きないように見える。 しかしこれがうまく行くためには、特許権者が販売した複数の医薬品について、後発者は自由に選択して後発薬の承認を受けることが可能である必要があり、また、そうして販売された後発薬が、市場原理に基づいて需要者に選択される環境が整っている必要がある。 ところが、医療用医薬品の市場はそのような市場ではないのだ。

例えばイレッサの延長問題に関して田村先生は、イレッサの2回目の承認医薬品によって、もし実施の範囲が拡大したのであれば、延長は認めてよいのではないかと論じている(以下に引用)。

[田村善之, 知的財産法政策学研究 Vol.49 (2017) 389-452の420ページ]
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そして上記の(5)の考え方に基づけば、イレッサの2回目の承認によって延長した特許権の効力が、1回目の承認医薬品の後発薬に及ばない限りは、実施の範囲が拡大したのか否かを確認せずに延長しても構わないということになる。 すなわち、もしイレッサの2回目の承認医薬品が市場を拡大するものではないのなら、イレッサの1回目の承認医薬品の後発薬の販売が解禁されることにより、イレッサの市場は後発者に開放され、特許権者の医薬品の市場シェアは、市場原理によってイレッサの2回目の承認医薬品もろとも低下するはずであるから、イレッサの2回目の承認に基づいて延長を認めたとしても、特許権者が不当な利益を受けることにはならないはずである。

しかしイレッサの場合、現実には1回目の承認医薬品の後発薬を販売することは不可能だった。 なぜなら、2回目の承認と同時にイレッサは、1回目の承認医薬品(EGFR遺伝子に変異があってもなくても投与できる医薬品であって、化学療法未治療患者への適用について注意書きあり)から2回目の承認医薬品(EGFR遺伝子に変異がある患者だけに投与できる医薬品であって、化学療法未治療患者への適用について注意書きなし)へと販売が切り替わり、イレッサの1回目の承認医薬品は後発薬として承認され得なくなってしまったからだ。 ある医薬品について、薬剤の安定性や、有効性や、稀に起こる副作用等に関して、未だ見つかっていない潜在的な問題がある場合、あるいはそうした問題が見つかったとしてもそれが許容範囲内である場合は、その医薬品の販売の継続は認められ、特許権者は利益を上げ続けることができる。 しかし、その問題を改善する改変医薬品について特許権者がいったん承認を受ければ、旧医薬品から新医薬品へと販売は切り替わり、旧医薬品はもはや誰も販売することはできなくなる。

つまり、特許権者に対しては実施が許可されて販売できた医薬品が、後発者には実施が許可されなくなるということが薬事制度においては起こるのであり、特許権者としては、これを逆手に取ることで、先行医薬品を独占実施しつつ、それを改良した後行医薬品を開発し、先行医薬品から後行医薬品に切り替えることで、自分たちは販売できた先行医薬品を、他者には販売できなくすることも可能となる。

また、先行医薬品の後発薬を販売できればよいというものではない。 そもそも上記(5)の考え方は、先行医薬品の後発薬と、特許権者の後行医薬品が、市場原理にしたがって自由に選択されることを想定しているものだ。 しかし医療用医薬品の市場は、厚労省による規制や指導と保険制度のもとに成り立っている市場であって、コストを払う者が医薬品を自由に選択する仕組みになっていない。 命や健康にかかわる医薬品の選択においては、少しでもよい(あるいはブランド力のある)医薬を使いたいという意向が医師側も患者側も働く一方で、医薬品のコストの大半は保険制度によって国が賄っているため、市場原理によるバランスの実現が期待できない。 また、そもそも医療を市場原理にゆだねることは適切ではないと考えられているからこそ、薬事制度や保険制度は存在するのだ。

そのような環境下で、「市場が重複している部分は市場原理に基づいて後発薬がシェアを取るはずだから」という前提で制度設計を行なえば、先発薬メーカーとしては、病院側に自分たちの薬を選択させるために、あるいは自分たちの薬以外の選択肢をなくしてしまうために、薬事規制や保険制度を最大限利用すること、言い換えれば、如何に自由市場における市場原理から乖離した状態を実現させるかを考えることが、利益を最大化させるために採るべき経営戦略となってしまう。

このように、市場原理が働かない医薬品市場において市場が重なり合う後行医薬品について延長期間の異なる延長を認めてしまっては、それを逆手に取った延長戦略が横行し、かえって市場の公平性や健全性を損なうことになるだろう。 それを避けるためには、本来は市場原理によって実現されるであろう適切なバランスからの逸脱を人の手によって防ぐこと、すなわち、衡平の理念にもとる行為ができないように制度を設計することが求められるのだと思う。

市場競合性を加味した範囲を設定し、その範囲では複数の延長期間の設定を認めない代わりに、後発薬の参入を広く阻止することによって、特許権者が確実に利益を回収できるようにすること、そして延長期間が終了したときには、特許権者の後行医薬品によって市場価値が低下している最初の医薬品に対する特許権だけを消失させて良しとするのではなく、延長制度が与えてきた特許権者に対する利益手段の実質が後発者に手渡されるようにすること、という制度設計が重要だと私が考えるようになったのは、以上のような理由からだ。


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2017年09月28日

前田健先生「存続期間が延長された場合の特許権の効力」(Law & Technology 77号, 2017-10)


前田 健
判例研究 オキサリプラチン事件合議判決 知財高裁平成29年1月20日判決(平成28年(ネ)第10046号)「存続期間が延長された場合の特許権の効力」
Law and Technology No. 77 (2017) 70-79

延長問題に関して、神戸大の前田先生の新しい論文が公表された。 2016年12月7日の投稿でも書いた通り、前田先生は2015年論文(神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44)において、延長された特許権の効力は、「市場における高い代替性を有する」範囲に及ぶべきだとする一方で、特許権者が「二重の利益」を受けることを防止するために、その範囲においては二度目の延長を認めるべきではないと論じた(以下に引用)。

[前田健, 神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44の15-16ページ]
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[前田健, 神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44の22-23ページ]
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[前田健, 神戸法学雑誌 65(1) 2015-06, p.1-44の25ページ]
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このように前田先生は、延長の可否判断(67条の3第1項1号)において「市場競合性」の観点に基づいて範囲を定めるべきだと明確に論じた人だ。 私がSotoku 5号7号で書いたことにもっとも近い。

ところが、その後、アバスチン(ベバシズマブ)事件の最高裁判決(平成26(行ヒ)356)が出て、その最判では、基本的にはかなり緩い条件で延長は認められると解される説示が行われたため、延長の可否判断(67条の3第1項1号)に関する前田先生の考え方、すなわち、市場競合性のある範囲では再延長させないという考え方は採りづらくなってしまった。

前田先生には、最判を批判するか、あるいは最判の解釈論によって、市場競合性のある範囲では再延長させないという考え方を引き続き論じるか、あるいは市場競合性のある範囲では再延長させないために制度改正を示唆するか、そういうことをして欲しかった。 ところが、判決後に出された前田先生の2016年論文(民商法雑誌 152(2)160-182,2016)では、最判が判示した「実質的同一性」という言葉について、「想像をたくましくするなら、細分化された延長が何度も繰り返されることは望ましくないとの判断を盛り込むこともありえなくはない。」(175ページ)と述べて、ある程度の幅をもって再延長を禁止して行くことに含みを持たせた論じ方はしているものの、市場競合性のある範囲では再延長させないという考え方自体については、「解釈論の範疇を超えるものとの批判もあるだろう」(171ページ)、「解釈論としては・・・難しいということになるのかもしれない。」(173ページ)と述べて、かなりあきらめムードになってしまった。

その一方、延長された特許権の効力範囲について2016年論文では、「・・・市場において同等な医薬品についての実施にも及ぶと考える。」、「・・・同等な医薬品とは、特許発明の技術的範囲に属し、かつそれと市場における高い代替性を有し競争関係にある医薬品のことである。」と論じ、2015年論文の主張を変えなかった。 しかし、延長の可否判断については市場競合性のある範囲で複数の延長を認める一方で、延長された特許権の効力は市場競合性のある範囲に及ぼしてよいことにすると、重複延長が可能となってしまう。 特許権者としては、とりあえず最初の医薬品の承認を受け、市場競合性のある範囲に排他権を及ぼしながら独占販売により利益を上げつつ、市場競合性のある第2の医薬品についてより長い期間をかけて承認を受ければ、最初の医薬品までを含む範囲について特許期間をさらに延長することが可能で、非常に不公平なことになる。 そういったことについて前田先生は2016年論文において、「・・・最高裁は、それについて調整を行う必要はないとする立場をとったのだと理解することができる。」(180ページ)と論じ、この問題を訴えることをやめてしまった。

2016年論文の最後(181ページ)では法改正について示唆がされているけれど、必ずしも二重利得を防ぐために法改正が必要だという趣旨で書いているのではなく、むしろ延長された特許権の効力を市場競合性のある範囲に及ぼすことを明確化するために法改正を示唆するような論じ方だった。 私は前田先生の2016年論文のこれが不満で、先の投稿では「残念」だと書いた。

そして今回、前田先生の新たな論文が出たわけだけれど、今回の論文はどうかというと・・・、うーん。 2016年論文と比べてあまり変わっていないように見えるのだけれど、少しは変わったのかな。。

今回の論文で前田先生は、延長の可否判断の基準に関する現状の考え方については、以下のように「実務上はようやく落ち着きをみせはじめている」と論じてあまり批判していない。

[前田健, Law and Technology No.77, 2017, 70-79の72ページ]
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一方、延長された特許権の効力範囲については、引き続き「市場競合性のある範囲」に及ぼすべきだと論じている(以下に引用)。

[前田健, Law and Technology No.77, 2017, 70-79の74ページ]
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[同78ページ]
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[同79ページ]
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しかし、それではさっきも言った通り、「市場競合性のある範囲」において複数の延長が可能となってしまい、また、それぞれの延長された特許権の効力はその範囲(市場競合性のある範囲)に及ぶことになるのだから、最初の医薬品の承認を受け、独占販売して利益を上げつつ、より長い期間をかけて第2の医薬品の承認を受けて再び延長すると、特許権者が得をする制度となってしまう。 それについて前田先生は、今回の論文で何と言っているかというと、以下の通り。

[同78ページ]
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これだけ。

一応、批判っぽい書き方にはなっているけれどねぇ。。 特許権者の立場ではなく、第三者(後発者)の立場に立った上でね。。 だから2016年論文よりは、少しはいいと言えるかも知れないけれど、私はこれじゃ全然満足できないなぁ。。

上に引用した通り、前田先生は「第三者の予測可能性を害する面はある」と指摘し、「予測可能性」を問題にしているけれど、7月31日の投稿でも書いた通り、重要なのは「二重利得」や「公平性」の問題であって、「予測可能性」だけの問題ではない。 また、現行法が、回復させるべき利益を回復させる規定になっていないという点については、まぁ確かにそうかも知れないけれど、現行法が二重利得や不公平を認めていると解釈することが妥当なのかは議論があるところではないか。 そもそも現行法でもパシーフカプセル事件が起こるまでは、有効成分と用法・用量が同一の医薬品については一回しか延長を認めないことにより二重利得は起こらなかったのだから、二重利得を防ぐような解釈もまったく不可能というわけではないはず。 また前田先生は「登録排除効と延長特許の効力が連動しない」ことを問題だと指摘しているけれど、先の投稿でも書いた通り、登録排除効の範囲と延長特許の効力の範囲を連動させたところで、「予測可能性」の問題は解決できるとしても、「二重利得」や「公平性」の問題は解決できない。 「連動論」を採用することが重要なのではなく、「市場競合性のある範囲」で期間の異なる複数の延長を認めないということが重要なのだ。 現行法のせいにしてこの問題を突き放してしまうのではなく、この問題をもっとちゃんと訴えてほしい。

延長された特許権の効力範囲を「市場競合性のある範囲」に設定するという考え方は、特許権者に二重利得をさせない仕組みがあってこそ採用できる考え方であって、その仕組みなしに、延長された特許権の効力範囲をただ「市場競合性のある範囲」に及ぼせと主張し続けている前田先生は、田村先生と同じように先発メーカーに有利すぎてバランスを欠いていると思う。 市場競合性のある範囲内で複数の延長を行うことをアバスチン最判にしたがって認めてしまうのであれば、特許権者が公平性を欠いた利益を受けることを防ぐために、特に2回目以降の延長(あるいは製剤特許の延長のように、既に特許権者が先行医薬品を独占販売しながら代替性の高い後行医薬品の承認を受けたとみなすべきもの)については、延長された特許権の効力範囲を極端に狭く解釈して無力化することはむしろ必要なのであって、すべての延長について「市場競合性のある範囲」に特許権の効力を及ぼすのは不適切だろう。 逆に、延長された特許権の効力範囲を「市場競合性のある範囲」に及ぼせと主張するのであれば、市場競合性のある範囲で複数の延長を行うことに対してもっと強く批判するべきだ。

ということで、やはり前田先生には、2015年論文のころに戻ってもらって、「市場競合性のある範囲」では、延長期間の設定は1回だけだということを再び論じてほしい。 2016年論文で前田先生が論じた「最高裁は、それについて調整を行う必要はないとする立場をとった」という言い方や、今回の論文の「現行法にこそ問題がある」という言い方は、いかにも「俺のせいじゃない」という感じなので、現行法や最判を前提としないのであれば、前田先生も本当は2015年論文で論じていたことが正しいと思っているのではないか?

前田先生はきっとそう思っていると私は思うから、今後も前田先生には期待しつつ、次の論文を待ちたいと思う。

*      *      *

ところで、同志社大の井関先生が「市場競合性のある範囲」を基準とする考え方を批判していることは7月31日の投稿や8月18日の投稿でも書いた通りだが、今回の論文で前田先生が面白いことを書いている。

[同75ページ]
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つまり前田先生は、井関先生が論じていることは、結局のところ、市場競合性を基準とする説と同じじゃないの、と言っているのだ。 これについては、8月13日の投稿で私も井関先生の論説について、「しかし、特許権者の医薬品と“代替する”ことを根拠とするのであれば、それは市場競合性で範囲を区切ろうとする・・・考え方を採っているのと事実上違いはないということになるだろう」と書いた通りで、前田先生の言っていることはもっともだよね。 実際、それでいいのだと思うし。 ただし、複数回の延長を認めた上で、それぞれの延長した特許権の効力を「市場が競合する範囲」に重畳的に及ぼせと主張している今の前田先生や田村先生の考え方については、上述の通り私は反対だし、井関先生もきっと反対だと思うから、その点については私は井関先生を応援したいっていう気持ちはあるのだけど。。

*      *      *

また今回の論文で前田先生は、延長された特許権の効力範囲を「後発医薬品」の範囲に設定することについて、「なにゆえ他人の臨床試験データを流用するからといって特許権が及ぶことを正当化できるか不明という批判ができるだろう」と指摘し、延長制度の趣旨(侵食された特許期間の回復)からは論理的に説明ができないと批判している(以下に引用)。

[同75ページ]
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これについては8月13日の投稿で書いた通り、論理的に説明することは一応可能だ。 後発薬とは、先発薬があってこそ承認を受けられるものであるのだから、先発薬が承認を受けようとしている間は、その後発薬は、承認を受けようとしても受けられないことは自明だ。 よって、先発薬の実施できなかった期間(先発薬で延長した期間)は、その先発薬に依拠して承認を受ける後発薬についての特許発明の特許存続期間が侵食されていた期間だともみなせる。 したがって、後発薬に対する特許権の存続期間は、先発薬の実施できなかった期間だけ延長してよい理由はあるのだから、先発薬の承認で特許を延長した場合、延長された特許権の効力は、その後発薬にも及ぶと考えることが許容できるのだ。

なお前田先生は、延長された特許権の効力範囲は「市場競合性のある範囲」だと考えているのは上述の通りで、延長された特許権の効力範囲を「後発医薬品」の範囲に設定することについては、上に引用した通り「正当化できるか不明という批判ができるだろう」と論じているのだが、その一方で、以下のようにも書いている。

[同75ページ]
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[同79ページ]
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つまり、延長された特許権の効力範囲は「市場競合性の範囲」とするのが正しいのではあるが、予測可能性明確性の観点から、「後発医薬品の範囲」にすることも一案だと指摘している。

延長された特許権の効力範囲を「後発医薬品の範囲」にすれば、確かに予測可能性は高まるし、明確になるだろう。 しかし、本来は「市場競合性の範囲」とすべきものを、そんなに気軽に「後発医薬品の範囲」にしてしまってよいのだろうか? 延長された特許権の効力範囲を「市場競合性の範囲」にするか、「後発医薬品の範囲」にするかで、実質的な違いは生じないのだろうか?

これについては、次回、愛知先生の論文を取り上げるときに考えてみたい。


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2017年09月20日

プロダクト・バイ・プロセス・クレームの「物同一説」批判(大野聖二先生 知財ぷりずむ7月号)


大野 聖二
連載 特許係争の実務 第4講 プロダクト バイ プロセスクレーム
知財ぷりずむ Vol.15 No.178 (2017) 20-25

プロダクト・バイ・プロセス・クレーム(PBPクレーム)の解釈に関しては、4月11日の投稿で書いた通り、PBPクレームの技術的範囲を「物同一説」で解釈することを判示した最高裁判決(平成24(受)1204)は誤りであって、PBPクレームの特許発明の技術的範囲を画定するにあたっては、「製法特定物説(製法限定説)+ 均等論」で解釈するのが正しいということについて書いた。 そして設楽隆一先生や高林龍先生や田村善之先生の論説を紹介しつつ、3人の先生方も、本音では「物同一説」は間違いだと思っているんじゃないかな、ということについて書いた。

そして7月号の知財ぷりずむに、PBPクレームの解釈問題に関して大野聖二先生(大野総合法律事務所所長, 弁護士)が書いているのだけれど、その中で大野先生は、「物同一説」を判示した最高裁判決(平成24(受)1204)をかなり明確に批判しているので紹介したい。

今回の記事の中で大野先生は、「不可能・非実際的事情」に基づいて明確性要件を判断することに関しても批判的に書いているけれど、そこは今回は省略して、PBPクレームの技術的範囲の解釈について書いているところを見ると、以下のような感じだ。

[大野聖二, 知財ぷりずむ Vol.15 No.178 (2017-07) 20-25 の 24ページ]
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上に引用した通り、技術的範囲の画定においてPBPクレームを「物同一説」で解釈することに関し、「最高裁のこの判示をそのまま受け取って良いかどうかは、詳細な検討を要する。」としている。 そして、「物同一説」に基づけば、明細書には製造方法しか開示されていないのに、後日、物の構造が解明された場合に、物が同一であるものすべてに権利行使が可能となってしまうことについて大野先生は、「不十分な公開で不相当な独占権を付与されることになり、到底、容認できないことになるのではないかと思われる。 これを認めてしまうと、結局、構成要件α(※注)を特定するインセンテイブが全く働かなくなり、産業政策としても不当な結果を招いてしまうことになる。」と指摘している。

 (※注:「構成要件α」とは、通常の物のクレームの場合の構成要件のこと)

そして、4月11日の投稿でも紹介した通り、設樂隆一先生(前知財高裁所長)が2013年に牧野利秋先生傘寿記念論文集において、PBPクレームの権利行使は「物同一説」ではなく、均等論を用いるべきだと論じていたことを、肯定的に取り上げている(以下に引用)。

[大野聖二, 知財ぷりずむ Vol.15 No.178 (2017-07) 20-25 の 24-25ページ]
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そして大野先生は、権利行使の場面におけるPBPクレームの解釈について、「文言侵害に関しては、PBPクレームは、製造方法により限定され・・・ると解釈すべきであると思われる。」と結論している(以下に引用)。

[大野聖二, 知財ぷりずむ Vol.15 No.178 (2017-07) 20-25 の 25ページ]
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なお今回の知財ぷりずむの記事は、大野先生が「特許係争の実務」と題して連載している短い講座記事の1つに過ぎず、PBPクレームの解釈問題に関して書いた長い論文というわけではない。 そのため、わりとストレートに結論を書いているから余計にそう見えるのかも知れないが、PBPクレームの最高裁判決をここまではっきりと批判的に論じたものはめずらしいと思う。 まぁ大野先生は、最高裁はPBPクレームの文言解釈について判示したのではないと捉え、「最高裁判決は、あくまで ・・・ 解釈の方向性を述べただけ」と論じて、最高裁を否定するのではなく、解釈で対処することを示唆しているけれど。

「物同一説」を判示した最高裁判決を批判するこうした論稿が今後も出続け、PBPクレームを物同一説で権利行使させるのはやはり間違いだという認識が、次第に広まっていけばいいと思う。

*    *    *

話は変わるけれど、大野先生は過去に「椅子式エアーマッサージ機事件」(東京地裁 平成13(ワ)3485;平成15年3月26日)に関連して、出願時同効材に関する均等論の第5要件の判断基準に関する論文を書かれたことがあった(知財管理 Vol.54(9) 1345-1352 (2004))。 そして出願時同効材に対する均等論に関しては、昨年、「マキサカルシトール製法事件」の判決(知財高裁 平成27(ネ)10014;最高裁 平成28(受)1242)が出されたけれど、その判決では、大野先生が論じていた考え方は否定されてしまった。 2004年というとずいぶん昔のことなので、大野先生が今でも当時の考え方から変わっていないのかは知らないけれど、もし今でも変わっていないのなら、マキサカルシトール事件に関しても、機会があれば、最高裁判決や大合議判決をぜひ批判して欲しいなと思う。 これについては高林先生が論文を出すのを楽しみにしているのに、一向に出ないのだもの。。

今回の大野先生の論稿は、最高裁判決は必ずしも最終決着とはならないことを示すものだ。 最終決着は、妥当な結論に行き着いてこそ果たされるのであって、そうでなければ問題は解決しないのだから。 それはPBPクレームの解釈問題に限らず、医薬品の特許延長問題でも、出願時同効材の第5要件の問題でも同じだ。

出願時同効材の第5要件に関して、思い通りの最高裁判決が出て安心している設樂先生や田村先生、まだ終わってないよ。 きっとね。 ^^


posted by Ichizo Sotoku at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする